スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について

エピグラフ

For nobody and nothing

 誰のためでもなく、何のためでもなく[あるいは、無のために]

  Žižek “The Fragile Absolute”の序言のタイトルより

目次

論文要旨 「否定的なもの・否定性」について(本ページ下)

序論 「否定的なもの」の問いに向けて

緒論―はじめに

第一章 「否定的なもの」をめぐる問いとは何か
第二章 「否定的なもの」をめぐる思想小史
第三章 ジジェクへの導入―伝記・スタイル・問題構成
第四章 ジジェクのイデオロギーと主体の理論

第一部 ジジェクの哲学と倫理

緒論―欲望・否定性・主体

第一章 ジジェクのカント理解―理性・自由/苦痛・崇高、あるいは快原理の彼岸
第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(1)(2)
補論 ジジェクの〈現実界〉概念―ジョンストン『ジジェクの存在論』から
第三章 ジジェクとハイデガー—ハイデゲリアンとしてのジジェク(1)(2)(3)
第四章 ジジェクの倫理、”Gelassenheit” vs ”Ne pas céder sur son désir”
補論 イーグルトンとジジェク

第二部 ジジェクの政治

緒論―「否定的なもの」から「政治的なもの」へ

第一章 「否定的なもの」と「政治的なもの」
第二章「行為」の政治―ジジェクにおける「哲学的/精神分析的」政治とその挫折
第三章 エルネスト・ラクラウの政治理論―例外を通じて構成される普遍性
第四章 例外である普遍性―ジジェクの普遍性概念

終わりに―あるいは終わりなさそのものへ

引用・参照文献リスト

論文要旨 「否定的なもの・否定性」について

 本稿の主題は「否定的なもの」、あるいは本稿でそれとほぼ同義で用いられる「否定性」であり、それに際して道先案内人として立ち現れたのがジジェクであって、本稿は「否定的なもの」という視座からジジェクを読解し、また他方でジジェクに端緒をとりつつ、時にはジジェクを離れて「否定的なもの」について事態はどうなっているのかを問う。

 では、「否定的なもの」とは何か。「否定的なもの」とは「肯定的なもの」ではないものである。「肯定的なもの」とは、私たち自身も含めた私たちの周囲にあるもの全て、私たちが経験している「経験的なもの」全てである。それらは所与の時空間の中で特定の場所と時間を占め、特定の諸性質を持ち、従ってそれについて「~である」と肯定的に規定することができる。

 そういったものは何か「である」ために、他の何かではないのだから、それは限定されたもの、有限なものである。経験的なものは肯定的なものとして限定されたもの・有限なものである。そしてまたそれらは「~である(ist/sein)」と語られうるものとして「存在者(Seiende)」である。あるいはさらにそれらは「~である」と「語られうる」ものとして、言語の領野、象徴的次元に内在的なものである。

 だが、奇妙なことに人間的経験において「肯定的なもの」だけが全てではない。人間には「肯定的なもの」から引き剥がされ、何か他なるものに惹きよせられる経験が存在する。私たちは主にジジェクに依拠しつつ、そのような形象をいくつも引いておいたが、一番分かりやすいのはソクラテスやカントやフロイトの場合だろう。

 ソクラテスのうちに響きわたる「ダイモーンの声」はソクラテスを彼が為そうとしていること、つまりは「肯定的なもの」との関わりから引き剥がす。カントのいう「理性の声」は、経験的・感性的なものから「苦痛」を伴いつつ私たちを引き剥がし、私たちは経験の彼方へと差し向ける。そしてフロイトの「反復強迫」は不快なトラウマ的記憶の強迫的な反復的回帰として、私たちを所与の状況への埋没から強制的に引き剥がし、(自己)破壊衝動としての「死の欲動」の次元を証だてる…。

 これらの切断における肯定的なものに対する「~でない」の経験が「否定的なもの」の経験である。そしてそれらが正確に「否定的なもの」と呼ばれるべきなのは、ジジェクにおいて、そして本稿において、最終的に、それが単に私たちにとって「否定的なもの」として現れるだけでなく、それ自体で「否定的なもの」、つまり、「無」として解明されるからである。

 ここで「肯定的なもの」についての記述を反転することで私たちは「否定的なもの」についていくつかの規定を与えることが出来よう。「肯定的なもの」は「経験的・限定的・有限的なもの」なのに対して、「否定的なもの」は通常の意味では経験的なものではないもの、また規定し得ないものとして「無限定的・無限的なもの」である。

 そして「肯定的なもの」は存在者であるとすれば、「否定的なもの」は存在者ではないものである―ところで最終的に「無」として解明される「否定的なもの」が正確にハイデガーのいう「存在そのもの」の根本次元であるとすればどうだろうか、私たちが主張しようと試みるところ事態は実際そのようになっているのだが。そして最後に「否定的なもの」は「~である」と「語ること」の出来ないものとして、象徴化に抗うもの、ジジェクによるラカンの概念の援用に従えば、優れた意味で〈現実的なもの〉、普通の現実よりももっと現実的なものである。

 このようなものとして「否定的なもの」の経験は「経験的/感性的存在者」としての私たちにとっては、懐疑、苦痛、破壊、不安のネガティブな経験だが、同時に、人間性の別の次元を告知し、人間にとってもっとも根本的な経験、創造、はじまり、無限なもの、絶対的なものの経験である。

 さて、問題は、この「否定的なもの」に問い返すこと、それがどこから来て、どのようなものであり、どのような帰結をもたらすかを問うことである。本稿はこの問いのジジェク的な遂行である。この遂行におけるジジェクの基本的な参照先はヘーゲルとラカンである。

 ヘーゲルにあって特徴的なことは、そこで主体が、肯定的なものへの距離、肯定的なものからの切断として「否定性」として把握され、「否定性」が最終的に「主体」の構造から把握されていることである。他方ラカンにあって特徴的なことは、少なくともある時期には「欲望」と「死の欲動」が等値されていることである。人間は端的な破壊衝動としての「死の欲動」、つまり「否定性」に取り憑かれているが、それは人間が経験的なもの一切を超えた〈現実的〉な〈物〉への「欲望」に取り憑かれているからであり、この「欲望」を支えているのが「主体の欠如」である。

 さて、ここにおけるジジェクの根本的な理論的身振りは、このラカンの「主体の欠如」をヘーゲルの「主体の否定性」へと差し戻し、従って「死の欲動」を「主体の否定性」から読解することである。ジジェクは「否定的なもの」を「主体」として、人間「主体」の構造から思考する―これがそれを「存在そのもの」として思惟するハイデガーとの微細だが重要な差異である。

 本稿の具体的な構成に話を進めよう。本稿の序論はまず私における「否定的なもの」の問いの生成から、その問いをその多面性において導入するとともに、ヘーゲルとラカンにおける「否定的なもの」の契機に簡単に説明を与えることで、ジジェク的な「否定的なもの」の問いの遂行を準備する。その後にジジェクについて伝記的その他の一般的な説明およびその根本的問題構成の説明が与えられ、本論への導入のために、そのイデオロギーに関する理論が取り扱われる。

 本稿の第一部はジジェクの哲学と倫理を取り扱うものだが、以上の二人の根本的参照点にカントと―先の差異からしてジジェクの意向に少々反するところだが―ハイデガーを加え、この四者関係のジジェク的構築を解明することを通じてジジェクの哲学と倫理上の根本立場を明らかにする。それは「哲学的_存在論的次元」では一切の人間的経験、象徴的構築物に対する「否定的なもの」の「絶対的先行性・内在性」を主張する「否定的なものの存在論」、ジジェクが「弁証法的唯物論」と呼ぶものとして明らかにされ、また倫理的次元ではジジェクがラカンから引き継いだ「欲望について譲歩するな」という命法、欲望の対象が埋めている「否定的なもの」の場所をめがける命法として把握される。

 本稿の第二部はジジェクの政治を取り扱う。ここでは「否定的なもの」は「政治的なもの」として立ち現れる。第一部で「否定的なもの」とハイデガーのいう「存在」の基本的同一性が確認されたため、ここではいわゆるフランス現代思想の思想圏において生じた一つの思惟の系譜、通常の意味での「政治」と優れた意味での「政治的なもの」を区別する「政治的差異」を構想する系譜をハイデガーの「存在論的差異」へと差し戻すOliver Marchartの解明を引き継ぎ、また拡張する。

 具体的には、ジジェクをこの流れに包摂しつつ、「否定的なもの」の契機を優れた意味で「政治的なもの」の契機と解し、それを出発点として「否定的なものの存在論」の政治的応用とその帰結について検証する。この応用には紆余曲折があり様々な困難があるのだが、その出発点にだけ触れておけば、「否定的なものの存在論」は「否定的なもの」の契機が一切の「存在論的・象徴的」構築物、現実性に内在していることを主張することで、それらが最終的に無根拠であることを明らかにする。「否定的なもの」の生起はまったき無根拠さの開けであり、状況を新たな決定へと否応なく開く。これが「否定的なもの」が優れた意味で「政治的なもの」と呼ばれるべき第一の理由である。ジジェクの政治はこの契機に特別の注意を払うことにその根本的立場を持つ。

 最後に本稿の成果を明らかにしておこう。私たちの考え、「「否定的なもの」と人間の原初的関係性が人間の最も根源的な本質である」という第一部が最終的に与えるテーゼがもし本当に正しいとすれば、本論文はその探求として端的に価値そのものだが、これはあまりに過大な要求であり、認められる蓋然性の極めて低い主張だろう。それゆえ私たちは本稿の主要な達成と思われるものをいくつか挙げておく。

 第一は、ジジェクの思想の解釈ないし再構成としての成果である。ジジェクについては英語圏において先行研究が既にいくつか存在するが、私たちは「否定的なもの」に定位することでジジェクをそこに位置づけるべき思想史的系譜、そしてまたジジェクがその主要な参照先に対して持っている関係、そして最終的にはそれらに基づいてジジェクの思想の内的連関についてより一層適切で首尾一貫した認識を可能にした点に長所を持っている。私たちはこのことを議論の中で折に触れて先行研究を参照することで示したつもりである。

 第二は、本稿のもう一つの柱、「否定的なもの」についてである。先に「否定的なもの」とは何か、そしてそれが実際にいかに書き留められてきたかを論じたが、そこから出発して、主にジジェクに依拠しつつ、しかし、他の様々な人々をも援用して、私たちは「否定的なもの」の諸側面に理論的解明を施した。このことを通じて、私たちはおそらくは大部分伝統的な思惟を新しい革袋に入れ替えただけだろうが、「否定的なもの」との関係が人間性の重要な側面をなしていること、それへの参照が人間性とその諸側面の把握に際し不可欠であること、更にまた「否定的なもの」という視座が様々なテキストを読む上で重要であることを証示しえただろう。

 第三は、思いのほか深入りし、また私たちが大きな影響を受けることになったハイデガー―先の最終的テーゼはハイデガーに依拠しているつもりである―についての解明が挙げられるだろう。三行前で述べたことの一例ともなるが、私たちは「否定的なもの」という概念に定位することで『存在と時間』より後のハイデガーの思惟の歩みについて首尾一貫して理にかなった軌道を再構成することにある程度成功したと思われる。それによっておそらく「ポストモダン的」とでも呼ばれうるかもしれない、ある一つのハイデガー像を描出し得た。

 このことから派生した成果が、Marchartの、いわゆる「政治的差異」をハイデガーから解明するという仕事を、おそらくはより適切に遂行したことである。これによって一般に「ポストモダン的」と呼ばれている政治理論について根本から解明するための地平が開かれたと言えるだろう。とはいえジジェクの政治の検討を通じて私たちは一般にこのような理論的立場の困難を既に思い知らされてもいるのだが。

 最後に今後の展望のようなものを述べると、しかし、「否定的なもの」は私たちから逃れ去り行くもの、もっと正確には逃れ去りの運動性として、ある特定の不可解なもの、分からないもの、語りえないものではなく、不可解さそのもの、分からなさそのもの、語りえなさそのものであって、それを問うことには終わりがない。だから、私たちは視野を更に広げつつ、それについてもう少し問い進めるべきなのである。

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序論 「否定的なもの」の問いに向けて:緒論―はじめに

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