「まだアカデミズムで消耗してるの?」—大学院を離れたときのこと

 私は29歳のとき、大学院博士課程の4年目になるタイミングで、大学院を離れた。ここには、いろいろな個人的な事情もあったし、自分なりに研究がひと段落したという積極的な理由もあったが、当時は「文系大学院」「人文系アカデミズム」に批判的な気持ちもないではなかった。

 いま思うと要するに自分とアカデミズムの志向が異なっていただけなのだが、当時、大学院を離れることは、やはりそれなりにコミットしていたつもりのアカデミズムからのドロップアウトとして私に経験されたし、だからこそ私のうちにもアカデミズムを批判してやろうという気持ちも生まれたのである。

 自分がそれなりに奉じている価値から否定されたと感じたときにこそ、ひとは自らを肯定するためにその価値を批判せざるを得ないのであって、ひとたびその価値そのものから脱したなら、とりわけてそれを批判する必要も存在しないのである。それは自分とはもはやさほど関係ないものだからだ。

 そんなわけで、いまの私としては、人文系アカデミズム、「文系大学院」を批判するつもりもないし、ひょっとすると何らかのタイミングでそこに戻ることもあるかもしれないが、他方で当時考えていたことにも一般に価値がないわけではないとも思う。そこで、記録として、この文章にその議論を書き記しておこうと思うのだ。

 そこでの論点は、「アカデミズム」の存在意義に関わるものと、その現代における現実化形態であるところの「大学院」の置かれている状況に関するものである。

 前者は「アカデミズムは知のメディアである」ということから生じる「メディアの適合性」という問題として、後者は沈みゆく業界一般に当てはまる「タイタニックの比喩」として、まとめることができる。二つは合わせて(いかにもネット的に言えば)「まだアカデミズムで消耗してるの?」という論点を形成する。

 以下では、分かりやすい「タイタニックの比喩」から論じていこう。

1、「タイタニックの比喩」―沈みゆく船の甲板を駆け上がることの無意味

 「タイタニックの比喩」というのは、そう言っただけで内容がわかってしまう類の比喩だが、要するに、文系大学院の現状を、真ん中でまっぷたつに割れて、割れ目を下にして傾きながら沈みゆくタイタニックに喩えたものである。

 この沈みゆくタイタニックの状況を見てみよう。割れ目の方がどんどん沈んでいくから、船体は傾きを増して艦首と艦尾は上がっていく。そのような状況で沈みたくないひとは、どんどん狭く急になっていく甲板を艦首ないし艦尾の方へと駆け上っていかなければならない、他の人を蹴落としつつ。

 ただ、悲しいことに最後には船は沈む運命にあるのであって、しかも船が最終的に沈むときこそ、海面には下方へと引きずりこむ強い流れが生じるため、極めて危険なのである。タイタニックの甲板を駆け上がる行為は、近視眼的で無意味な自殺行為なのだ。

 さて、いかなる意味でこれが文系大学院の現状を描写しているのか。おそらく、この比喩は沈みゆく一切の業界の状況にあてはまるのだが、ここでは文系大学院を代表例として取り扱うことにする。

 文系大学院―人文系アカデミズム―が沈みゆく船であることは論を俟たないだろう。

 増加傾向にあった大学は少子化のなかで淘汰過程に入っているし、目的合理性への志向をますます強める社会の理系・実学重視のなかで、社会的ニーズにうまく対応できていない(そもそも社会的ニーズに直接的な仕方で対応するべきものでもない)人文系は無用の長物として扱われ始めている。そして、この流れが予見されていたはずのところ、大学院の重点化なるものが行われ、院生だけが大量生産されている。

 そして、ここに比喩のポイントがあるのだが、そういう状況でこそ、船の内部での競争は激しさを増す。沈みゆく船だからこそ、生き残りをかけて、ますます急に、ますます狭くなる甲板を誰より先に駆け上がろうとする志向が強まるわけだ。文系大学院では、かくして、発表や論文や博論への圧力が強まっている。

 だが、これは他者を蹴落として進んでいくという点で倫理的に問題的であるだけではなく(それは現状ではどんな領域でも避け難いことだ)、最後には船は沈むという点で単純に徒労でもある。

 そして船に遅くまで残れば残るほど、最後に船が沈んだときに引きずり込まれる可能性も高まるのだ。ある制度に過剰に適応すると、それとは別の環境に不適応になりがちなのである。つまり、それはリスキーでもあるのだ。

 そうであるとすれば、アカデミックな形態での発表や論文そのものにコダワリがあるのではない限り、アカデミズムに残る意味は全くない。私はこのコダワリを持っていなかったから、無意味な駆け上がりをやめ、さっさと海に飛び込んで生き残ることに賭けた方がマシだ―それが当時の私の判断だったわけだ。

2、アカデミズムはメディアである―メディアの「適合性」について

 さて、続いて、このコダワリについて考えてみよう。私はアカデミックな形態での発表や論文にはあまりコダワリがなかったのだが、それはなぜだろうか。今となっては、単に自分とアカデミズムでは志向が違ったというだけのことだと思うけれども、当時の私はこれも何がしかの仕方で正当化しようとしていた。

 そのとき、キーとなっていたのが「アカデミズムはメディアである」ということだった。ある意味で当然のことだろうが、発表や論文などのアカデミズムの諸制度は、学者集団の間で、そして社会に対して、知を伝えるためのメディアであるという点に本質がある。

 さて、それが「メディア」であるということは、私が考えるに、「内容」と「宛先」に関して、その「適合性」を問う可能性が存在することを意味する。

 「アカデミズム」というメディアの形態は、「学知」という内容を伝えるという目的に適っているのか。また、それはその特定の「宛先」に知を伝えるという目的に適合しているのだろうか。そう問うことの可能性があるということだ。

 当時私が考えていたところによれば、「アカデミズム」が「学知」という内容に適合しているかどうかについては、明確に否定するには至らないにせよ、疑問がないわけではなかった。

 学会発表についていえば、なぜ皆が一堂に会して、10分だか20分だかという時間で発表を読み上げ、即座に質問をするという形態をとっているのだろうか。

 わざわざ集まるのは面倒だし、コストもかかる。発表内容が時間で限定されるべきかどうかも自明ではない。そして、即座に質問するよりも熟考してから質問した方がいいに決まっている…。発表の趣旨は高々数十分で本当に伝えることができ、また理解されうるのだろうか。

 また、論文ということに関していえば、こちらも長さに制限があり、形式も限定され、先行研究への参照がほとんど義務とされていた。

 理系や社会科学ならばいざ知らず、人文学に関していえば、長さや形式の限定はその自由さを削ぐものであるし、先行研究を参照することが常に必要なのかも、私には疑問であった。

 私からすれば、例えばある哲学者の研究は、それについて様々な人の研究が積み重なり、それによって研究が進歩し、そのように進歩した研究が集積されることで、ついに哲学者の真相が明らかになるというものではない。

 むしろ、それは哲学者と各研究者との一対一の出会いであり、あらゆる人間同士の出会いにドラマが伏在しているように、一人の人間と一人の人間との出会いのうちで一回的に展開される思考のドラマである。研究は、そこに展開した関係を一般化するような仕方で書き留めることであって、他の人をその出来事の場所へと誘うことである。

 こう考えると、先行研究の参照が必須とも思われない。それは、哲学者の研究に関して、さまざまな研究が蓄積され、それによって研究が進歩し、最終的にはその集積により、その哲学者の全貌が明らかになるというような枠組みを前提としているが、それが正しいとも思われなかったのである。

 今思えば、要するに、私とアカデミズムは立場があまりに違ったのだ。

 続いて、「宛先」の問題を考えてみよう。アカデミズムの場合、「宛先」は第一義的には他の学者たちであり、続いて「社会」である。人文学の場合、理系学問等と違って、社会に理解されなくても社会を変えるという類のものではないため、やはり「社会」も宛先として重要である。それは「社会」に広まることで価値を持つ面がある。

 このように考えたとき、「学者」は別として(とはいえ、論文は学者にもさほど読まれていないという問題があるが…)、「社会」に対しては、アカデミズムというメディアが時代遅れであることは明白である。

 一般に人々と情報との接点が、対面から印刷物へ、さらにラジオ・テレビ・インターネットへと移ってきているのに、アカデミズムは依然として対面の授業や発表、そして学会誌なる印刷物に依存している。これでは社会に対して広く流通することなど不可能である。

 私は大学院を去る際、大要、以上のように考えていたはずだ。これは私が就職するさい、Webメディアに決めたこととも関係がないわけではない。

 Webメディアこそ、いまや人々と情報の最初の接点になることが多いのであり、そこをおさえることがまず重要だと考えたのである。もちろん、そんな抽象論で仕事が続くはずもないのだが、この発想は、私がこのサイトをやっていることとも関係していると言えるかもしれない1)このサイトの書き方が未だまったくWeb的でないのは私も自覚するところであり、徐々に改善していきたいとは思っているのだが…

3、まとめ―「まだアカデミズムで消耗してるの?」

 そういうわけで、当時の私の考えは、ネット上で有名な煽り文句をもじって言えば、「まだアカデミズムで消耗してるの?」というものだった。

 すなわち、人文系アカデミズムは、沈みゆくタイタニックと同じであり、そこでの努力は倫理的に問題的であるのみならず、単純に努力としても徒労であり、リスキーですらあるのだ―アカデミズムという形式にコダワリがあるのでなければ。

 さらに、このアカデミズムという形式自身が、人文的な「知」に適切な内容であるかは疑わしいのであり、その受け手、つまり、学者にせよ、一般社会にせよ、受け手に対しては、すでに時代遅れであることが明らかなのである。アカデミズムという形式にコダワル理由はない。

 ただ、もちろん、アカデミズムが持っている「ポスト」なるもの、すなわち、それが持っている「資金力」は魅力ではある(逆に言えば、それ以外に魅力はない)。多くの人はそのためにアカデミズムというメディアを耐え忍ぶのだろう。

 しかるに、修士論文で就職できたらしい過去であればいざ知らず、博論を書き、その上で何年もポストをもらえないということもありうるとなれば、アカデミズムという時代遅れで、そもそも本質的に人文知に適っているかも分からないメディアなどに付き合ってやる必要は全くない。

 そういうわけで、当時の結論は一つ。「まだアカデミズムで消耗してるの?」だったのである。

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 大学院を離れた後、会社員時代のことを振り返ったものです。本記事と合わせて読むと、要するに私の側に、自分を枠にはめるような組織や制度に適応できないという問題があるだけという気もしてきます。というか、実際、かなりの程度はそちらが問題です。

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References   [ + ]

1. このサイトの書き方が未だまったくWeb的でないのは私も自覚するところであり、徐々に改善していきたいとは思っているのだが…
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