哲学

 この「哲学」カテゴリには、以前に私が哲学徒として研究していたこと、そしてまた現在進行形で私が考えていることのうちで、「哲学」の領域に属すると思われるものを、順次配置していくつもりです。

哲学全般

 こちらの「哲学全般」カテゴリには、「哲学一般」に関わること、つまり、「哲学」というものについての私の考えなり、以下にカテゴリ分けされた過去の研究を全体的に構造化するような文章なりを掲載していきます。

 のみならず、このカテゴリはいわば「その他」の役割をも含むもので、以下のカテゴリに属さないような文章すべてが、結果としてこのカテゴリに収録されることになります。

日常の中の哲学

 こちらの「日常の中の哲学」カテゴリでは、アカデミックな文脈から離れて、日常の中で哲学的に、あるいは少なくとも理論的に、考察したことについての文章を掲載しています。

ジジェクを読む

 
 彼が伝統的な意味での「哲学者」であるのかは議論が分かれるところだと思いますが、この「ジジェク」カテゴリには、現代思想界隈ではそれなりに(悪)名高い存在で、私の最初の本格的な研究対象でもある、スラヴォイ・ジジェクについての文章を収めます。

 私は40万字ほどにも及ぶ、やたらと長い修論をジジェクで書き、ジジェク的な観点から、カント・ヘーゲル・ハイデガー・ラカンを読解しました。というのも、ジジェクの立場とは、この四者の思想ないし哲学の独特の仕方での関係づけのうちにこそ、その本質があるからです。

 その中核にあるのが「否定的なもの」ないし「否定性」という概念であり、私も、やはりそれに興味があったためにジジェクに真面目に取り組むことになったのですが、この修論を通じて、それについてひとつの一貫した立場を形成することができたと思っています。

 そして、それから5年以上経った今でも、やはり哲学なるものの本質、その中核には「否定性」の概念があるべきだと思うのです。

 そういうわけで、このカテゴリの中心コンテンツは、自分なりのジジェク研究のすべてをまとめた修論、「スラヴォイ・ジジェク研究―「否定的なもの・否定性」について」です。

ハイデガーを読む

 「ハイデガー」カテゴリには、20世紀ドイツの哲学者ハイデガーについての文章を収めます。ハイデガーについては、修論の時点でも、すでにジジェクとの関わりという範疇を超えて、それなりに実質的に読んでおり、修論の理論上のクライマックスは、ハイデガーとジジェクとの微小な差異を確定することとなっていました。

 ハイデガーも優れて「否定的なもの」―彼風にいえば「存在」―の思索者であり、ある意味では神学者、彼がニーチェを指して言った言葉を彼自身に差し向ければ、「情熱的に神を求めた最後のドイツの哲学者」でしょう。

 私は修論における解明の延長線上で、博士課程の前半を中心にハイデガーの後期哲学の諸論理の解きほぐしを進めていましたが、その結果は―私の中で「否定的なもの」という問題意識がひと段落してしまったために―一つの大きな論考としてまとまるには至らず、いくつかの小文に止まっています。

 しかし、私としてはそれらと、それ以前の修論での論究によって、ハイデガーの後期哲学の中核的な諸論理についてはすでにほぼ解明されていると考えています。不遜な言い方かもしれませんが、私としては「だいたい分かったから、さほど面白くなくなった」つもりなのです。

 もちろん、「存在」は、ハイデガー的に考えるなら、「分かり切らなさ」そのものであるということは承知の上で、です。

 この「ハイデガー」カテゴリでは、そのようなハイデガーに関する小論考を掲載していきます。

フロイトを読む

 この「フロイト」カテゴリには、私がその次、だいだい博士課程の前半から中盤にかけて、集中的に取り組んだのはフロイトについての文章を収めます。ジジェクとの関係で言えば、ジジェクの一番の参照先であるラカンの最大の参照先がハイデガーとフロイトで、ある意味では、私はその一方からその他方へと関心を移したということもできます。

 さて、ジジェクもハイデガーも優れて「否定性」の人ですが、フロイトは—私はフロイトをヘーゲルの真の後継者とみなしますが、そのヘーゲルも—「否定性」の人であるのみならず、「肯定性」の人でもあり、より的確には両者の緊張関係そのものを決定的な思考の対象としています。

 フロイトが「人が健康といえる条件は?」、あるいは「あなたの人生にとって大事なことは?」と問われて、「働くことと愛すること」と答えたという有名な話があります。フロイトにとって、このような人と人とを結びつける生産的な活動が「生の欲動(エロース)」を駆動源とするのですが、人間にはそれと対立する破壊的な「死の欲動(タナトス)」もあるとされ、最終的にはこの二つの緊張関係がフロイトの思想の中心主題をなします。

 ところで、このようなフロイトが「ヘーゲルの真の後継者」であるのは、いかなる意味においてでしょうか。私が考えるに、ヘーゲルはその『法の哲学』において近代社会における生の構造を史上(?)はじめて十全なる表現にもたらしましたが、その精髄たる社会哲学を論じる部分で、ヘーゲルは議論を「家族・市民社会・国家」という三幅対を通じて構造化します。

 この三幅対を人間の活動という観点から見返すなら、ヘーゲルにとって、それは明らかに「愛・労働・戦争」であり、「愛と労働」という人と人とを結びつける相互「肯定 = 承認」の契機と、「戦争」という絶対的な否定とのせめぎ合いの独特の構造化にヘーゲル法哲学のもっとも面白い部分があるのです。

 この構図そのものを「生の欲動」と「死の欲動」という概念化を通じて、そのまま継承したのがフロイトであり、フロイトの思想全体は、ある意味ではヘーゲルの一世紀あとのやり直しでもあると言えるでしょう。

 と、ヘーゲルの後進への影響という点については話が尽きませんが、詳細は別所に譲るとして、フロイトについて続けると、フロイトを通じて、私の関心は「否定的なもの」一辺倒を脱し、むしろ、「肯定的なもの」へ、少なくとも前者と後者との「緊張関係」へと移って行きました。

 こういった全般的な問題意識を背景に、フロイトの重要著述の相当部分について、特に性理論に注目しつつ、一貫した解釈を施したのが「フロイト性理論の再構成—セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」です。

 近年では「トンデモ」と見なされがちなフロイトの理論を、できる限り頑張って首尾一貫したものとして再構成しようとしたものですが、それがフロイトに懐疑的な人に対してまで成功しているかどうかはなんとも言えません。

 ただ、個人的には、この探求を通り抜けた今、精神分析批評なるものまで生み出したことから分かるように、生を解釈するにあたって精神分析が与えてくれる思想的資源の豊富さは疑い得ないものであるということに加えて、フロイトが性愛について考えたことには、まだまだ見るべきものも多いのではないかと思っています。これも詳細は、今後の諸論究を通じて表現していければと思います。

 そんなわけで、「フロイト」カテゴリは、当時の探求の集大成である「フロイト性理論の再構成—セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」を中心に、フロイトの思考の今日的意義を探ったり、それを応用して作品批評をしたりする小文が収録されます。

ルーマンを読む

 ルーマンについては、私は決して全体的に取り組んだわけではないのですが、その『情熱としての愛 親密性のコード化』については、遺稿から近年出版された『愛についてのゼミナール(Liebe Eine Übung)』とあわせて、それなりにちゃんと読んだという実感があります。

 この「ルーマン」カテゴリは、その成果である「『情熱としての愛』徹底解読—ニクラス・ルーマンの愛の概念」と、その過程で思いついたちょっとした着想を文章化した「社会的ヒエラルキーの理論—あるいは「絶対的」革命の可能性」から成っています。

 それまでの探求との繋がりに関して述べるとすれば、やはりフロイトの考えた性理論というものへの不満というものがあります。

 というのも、フロイトの臨床という出発点、フロイトが「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」として把握した神経症の治療という出発点からして致し方ない面もありますが、フロイトは、臨床においても理論において、そこにおいて愛が不可能になってしまうような心理的体制の立て直し、愛が可能であるような心理体制の確立に専心しており、具体的な愛の関係性そのものを理論的に取り扱うことは成し得ていません。

 それはいわば、他者との具体的な関係としての「愛」に関しては、「スタート地点」までの理論であり、「愛」そのものの理論ではないのです。それがフロイトが「心理学」として必然的に抱え込まざるを得なかった限界だったともいえるかもしれません。

 そこで私が出会ったのが、社会学者として人と人との関係性に焦点を当てているルーマンであり、ルーマンにこそ、確かに具体的な関係としての「愛」についての一定の理論化を見出せるように思ったのですし、実際、その見立てに間違いはありませんでした。

 詳しくは「『情熱としての愛』徹底解読—ニクラス・ルーマンの愛の概念」をご参照願いたいのですが、私が思うには、ルーマンは、その難解な著述を的確に紐解いてあげさえすれば、やはりこの点において大きな達成をしていると思うのです。

 今後としては、フロイトとルーマンの違いを、「心理学/社会学」の差異、そして「感性 = 官能/悟性 = 理解」という重点の差異という観点から位置付けつつ、その両者の視座を総合して、現代社会における愛の問題についても論及できたら面白いなと感じています。

最後に—「愛・労働・戦争」、ヘーゲル以後のドイツ思想史の構造化

 だいたい自分の20代、自分が本式に哲学徒であったころを振り返ると、ここでは本当に表面だけをなぞっただけですが、おおよそ以上のように、「否定性」から「肯定性」、あるいは少なくともその緊張関係へと関心が移ってきたように思います。

 それこそ、それなりに歳を重ねて、世界に対する否定的関係よりも、世界に対する肯定的な態度、ヘーゲル風にいえば「和解」が優位になってきたのかもしれません。

 それはそれとして、以上のすべての探求を位置づける統一的な枠組みとして私が最後に考えていたのは、やはりヘーゲルからする「ドイツ近代史思想の構造化」でした。

 さきにフロイトのところでも簡単に論じたのですが、私の考えではヘーゲルこそが、その『法哲学』で近代社会における生の構造を十全なる理論化へともたらしました。それが、すなわち、「家族・市民社会・国家」の三幅対であり、人間の活動に対応させれば、「愛・労働・戦争」です。

 「愛」と「労働」は、それぞれ、狭いが深い「相互肯定 = 承認」、広いが浅い「相互肯定 = 承認」として、近代社会における社会的絆の、そして個々人の意味ある生の、支えとなります。

 しかし、それだけが全てではありません、人間本性のうちには、上のような傾向と対立し、一切を破壊してしまいかねない絶対的な「否定」の契機が、ヘーゲルにとっては「戦争」のうちに最良の表現を見るような、そういう契機も存在しています。

 そして、いささか反直感的に聞こえるかもしれませんが、これこそが、哲学が本領を発揮するべき場所、人間と神的なものとの原初的関係性が証示される場所でもあるのです—少なくとも、ヘーゲルにとっては。

 この肯定と否定の両面から、そして、両者の緊張関係において、ヘーゲルは近代社会を捉えていくわけですが、ヘーゲル以後に続いたドイツの哲学者や思想家を、この観点からうまく位置付けていくことができます。

 すなわち、まず、近代社会における「労働」についての機能不全を問題化したのがマルクスです。ヘーゲルが定式化したように、近代社会において、労働に根底的な地位が与えられていればこそ、労働こそが決定的な思想的問題となったのであり、マルクスの思想的な意義の大きさも由来しているのです。

 続いて、私の考えでは、先述の通りヘーゲルの全体的構図そのものを継承した人でもあるのですが、とりわけては近代社会における「愛」の機能不全の問題に取り組んだ人としてフロイトがいます。

 フロイトが「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」たる神経症の治療者として登場しえた歴史的背景は、おそらく、近代社会における漸進的な傾向ですが、家族なるものが、経済的・政治的な機能からますます解き放たれ、愛のみを機能とし、それゆえ愛のみによって支えらるような制度へと、ある閾値を超えて変化したことでしょう。

 そうであればこそ、「愛」なるものの不可能性が、家族という近代社会を支える制度を揺るがす要因となるということを経由にして、社会的に対処するべき問題として立ち現れてきうるようになるからです。

 そして、個人的には、フロイトの問題意識をある仕方で引き継ぎ、フロイトとはまた別の観点で論じた人としてルーマンを配置したい。

 そして、最後にヘーゲルの「戦争-否定性」の観点を継承した人々がいる。それはある視点においては「ニヒリズム」の問題を追求したニーチェであり、しかし、やはり最大の大物は、西洋哲学の歴史全体を「存在の問い」として、そして、私にとってはこの言い換えはいまや当然なのですが、つまりは「人間と否定的なものとの関係」という観点から解釈したハイデガーその人です。

 ヘーゲルは、近代社会を問うにあたって、愛・労働・戦争という観点を残し、それを引き継いだのが、それぞれ、フロイト・マルクス・ハイデガーである。おそらくは、この観点からこそ、近代ドイツの思想史の意義を全体的に問い直すための、最良の視座が開かれてくるように、私には思われます。

 それを実際に自分が遂行するかどうかは別としても。というのは、21世紀の中盤に向かう時期に際会して、私たちには何かもっと他に考えるべき喫緊の課題があるようにも思うからです。いずれにせよ、この構想について、何がしか進展があれば、「哲学全般」カテゴリに書いていくつもりです。

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