終わりに―あるいは終わりなさそのものへ

 私たちは本研究の終わりに到達した。その実質的部分の最後はある意味で当然のことであるジジェクの「知らなさ」に焦点を当てるものとなったが、これとの関連でジジェク自身による「研究の終わり」の規定と見なしうる一節を(再び)[引用してみよう。

〈他者〉の欠如がなかったら〈他者〉は閉じられた構造になったであろうし、主体にとって開かれている唯一の可能性は〈他者〉の内での根源的な疎外のみということになっただろう。だからまさにこの〈他者〉の欠如こそがラカンが分離と呼ぶ一種の「脱-疎外」を主体が達成することを可能にしてくれるのである。これは(…)対象は〈他者〉自身からも分離されている、〈他者〉は「手に入れなかった」、最後の答えを得なかったという意味である。(Žižek [2008a:137])

このことはヘーゲルの有名な言葉、古代エジプト人の秘密/謎はエジプト人自身にとっても秘密/謎だったという言葉に正確に一致している。疎外された主体は、到達できない秘密/謎を隠し持つ十全で実体的な〈他者〉に直面する。そして疎外は、主体がその〈他者〉の核心にまで突き進み、その「隠された宝」を手に入れることによって克服されるのではなく、「隠された宝」(対象a、欲望の対象-原因)が他者自身にも欠けているということを経験することによって克服されるのである。秘密/謎の解消は、その二重化のうちにある。(Žižek [1992:233])

 私たちは―多分皆そうだと思うのだが―「欠如」しており、「否定的なもの」に貫かれ、自らと一致していない。そしてジジェクがあるところで言うところ、これが「独我論とコミュニケーションの可能性という永遠の問題に一つの答えを提供する」。つまり、ある種の独我論的が前提する自己完結性が存在せず、私たちが自己分裂しているからこそ私たちは他者とコミュニケートしようするのである。

私が〈他者〉とコミュニケートできるのは、私が彼(あるいは、それ)へと「開かれて」あるのは、まさに、そしてただ私がすでに私自身において分裂している限りで、(…)(いくぶんナイーブかつパセティックに言えば)私が決して自分自身と真にコミュニケートできない限りにおいてである。(…)[こうして私たちは自分自身の真理から切り離されているのだが]この真理こそ、私が他者たちの中に探し求めているものである。彼らと「コミュニケート」するように私を駆り立てるのは、私が彼らから自分自身に関する、自分自身の欲望に関する真理を受け取るだろうという希望なのである。(Žižek [1993:35])

 それゆえ、ジジェクが続けていうところでは、他文化のコミュニケーションにしても、それは「共有された普遍的価値のセット」に基づいて起こるのではなく、むしろ「共有された行き詰まり」に基づいて生じる。それは異なる文化がお互いのうちに「同じ根本的な行き詰まり」に対する別の答えを見いだす限りで生じるというわけである。

 さて、そういうわけで「欠如」が私たちを他者とのコミュニケートへと駆り立てる。私たちは自分について答えを持っていないからこそ他者とコミュニケートする。ある人は直接的な意味でそうするだろうし、他の人は映画や小説を読むかもしれないし、またある人は「研究」するだろう。そしてそれらの活動が切実という意味で本質的なものであるとすれば、そこにおいて〈他者〉は真理を保持しているはずのものとして、ジジェクならばラカンにおける「転移」の定義といって「知っているはずの主体」を持ち出すだろうが、そういうものとして立ち現れるはずである。

 ここで初めの引用に戻るなら、しかし、私たちは「研究の終わり」にあって、やはりその〈他者〉も最終的真理を持っていないこと、「知らない」のだということを経験するのでなければならない。さて、だがここで更にこのことを第一部の文脈、第一部の議論がそれに与えた正確な意味、そこに与えられたひねりに差し戻そう。

 これはジジェクにあって実体から主体への移行、超越的なものから否定的なものへの移行、形而上学から形而上学ではもはやないものへの移行、男性的なものから女性的なものへの移行を定式化する文脈のうちに置かれている。

 つまり、私たちは他者のうちで最終的な「真理」を獲得するのではないが、ただ単純にどこかにある「真理」から切り離されているという意味での「無知」へと放置されるわけでもない。私たちはある仕方で私たち自身に関する「真理」が存在しないこと、私たちの自己分裂、つまり非-真理が絶対的に構成的であることを知る。

 だから、私たちが何度か用いたレトリックを最後にもう一度だけ用いるなら、ここに残っているのは、何か分からないことではなく分からなさそのものであり、何か見えないものではなく見えなさそのものであり、何か知らないことではなく知らなさそのものであり、何か解けていない謎ではなく謎性そのものであり、何か任意の行き詰まりではなく、行き詰り性そのものである。

 だから第二部の最後に触れた、具体的な政治的方策についてのジジェクの「知らなさ」は単純素朴な意味だが、第一部について言いうる「知らなさ」―もちろんジジェクにしてもハイデガーにしても決定的なことを「知らない」、というのも、そうでなければ二人ともあのように無闇矢鱈と書くことは無いだろう―は少々ひねりが加えられており、質的に異なるものである。

 ジジェクならいつもながらに「女性の論理」を用いてこういうだろうが、ここである意味で「分からないことは何もない」のだが、「全てが分かっているわけではない」。だから、「否定的なもの」と人間の原初的関係性、人間の消去不能な欠如ということのために、「否定的なもの」の問い、あるいは「存在」の問いには、そして問い一般には、「研究」には、他者との関わりには、終わりがないのである。

 それは何らかの終わりに到達していないということではなく、純粋に終わりなさそのものである。おそらく人間であるとは、そのもっとも根本的な点においては、この途上性、この道半ばであること、このどこにも通じていない道、終わりなさそのものである道、目的地のなさそのものである道の上を歩むことを意味しているのである。

 さて、私たちは本稿を「否定的なもの」という概念こそが私たちをもっとも遠くに連れていってくれるということへの賭けとして、その賭けの最初の遂行としてはじめた。その賭けに勝ったのか負けたのかは私たちには判断することが出来ない。

 そしてまた最初に「否定的なもの」に付与される多義性が、その概念の統一性をめぐる困難を引き起こすと述べておいたのだが、その困難は本稿の遂行を通じて、そこでおそらくは異質で時に矛盾しさえする要素と帰結が「否定的なもの」に結びつけられることによって現実的なものとなっている。

 実際、「否定的なもの」とは何なのだろうか。ソクラテスはそれをある積極的な行為の抑止として、ということは懐疑として、だが同時にそれを守ってくれるものとして経験した。序論第一章の視圏では、ドストエフスキーやキルケゴールの声をかりながら、それは懐疑や絶望の経験として、だが同時に「無限なものの深淵」や「絶対的自由」の経験として現れた。

 序論第二章ではそれは「死の欲動」として、フロイトにあっては厄介な(自己)破壊欲動として、しかし、明らかにラカン的な意味で、普通の現実よりもっと〈現実的〉なものとして登場し、ラカンにあっては(自己)破壊欲動として「苦痛」そのものだが、同時に「欲望」と「享楽」そのものとして、更に絶対的な始まりを告げる「無からの創造の意志」として登場する。

 続いて第一部に移ると、カントにあって「否定的なもの」は経験的・有限的な感性を超えた理性の次元を、感性的な苦痛と理性的な高揚の同時性を通じて告知し、ヘーゲルにあっては「無限の苦痛」であると同時に「絶対的なもの」そのものの最重要な一面を形成する。

 そしてハイデガーにとって、それは「存在に立ち去られてあることの困窮」にして、その極限において同時に「存在の真理」そのものであって、従って人間にとってもっとも根本的なものである。

 最後にジジェクにとっては、私たちが以上の形象のかなりの部分をジジェクから引き継いだのだから、ある意味でそれらの混淆ということが出来るだろうが、中核的には、それは苦痛、懐疑、トラウマ的なもの、恐怖、破壊的なものにして、絶対的/神的なもの、全く新しい始まりを告げるもの、創造の創造的なもの、革命の革命的なものであるという二重性であり、そういうものとしてもっとも〈現実的〉なものである…。

 これらが全て「否定的なもの」と呼ばれるべきなのはなぜか。それは、それが経験的なものとしての私たち自身を含めた一切の経験的なもの、つまり、肯定的なもの・有限的なものに対する距離、その否定として経験されており、また私たちの考えるところ、最終的にそれは私たちにとってのみでなく、それ自体として「否定的なもの」、つまり、「無」として解明されるべきだからである。

 だがそうやってこの概念の統一性を保持できるとして、やはりこの「否定的なもの」に様々に錯綜している性質と帰結が付与される混乱が生じている。とはいえ―少々都合のいい言い訳めくのだが―その混乱も、「否定的なもの」が分からなさそのものである以上は、ある部分では仕方がないことだろう。私たちはこの分からなさのために、もう少し―どこまでいってももう少し―問い進める必要があるのかもしれない。

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第四章 例外である普遍性―ジジェクの普遍性概念
引用・参照文献リスト

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

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