第三章 ジジェクへの導入―伝記・スタイル・問題構成

 本章からはジジェクに話を移していこう。本稿の目的は「否定的なもの」の問いの視点からジジェクを読解し、また逆にジジェクから「否定的なもの」の問いの領野を照明することだからである。

 さて、本章はジジェクの思想への導入となることを意図しているが、まず第一節ではジジェクの伝記的叙述からはじめて、その著作の傾向および受容史に到るまでを記述し、第二節ではジジェクの「スタイル/文体的特徴」の成り立ちを解明し、そこから私たちの読解の方法とでもいうべきものを自覚化する。第三節で前章までの成果を引き継いでジジェクの根本的な問題構成を叙述する。

1、ジジェクの簡単な伝記および著作の傾向と受容史

 本稿はジジェクを主要な対象とし包括的に論じようとするものとしては国内ではほぼ初めてのものと見なすことができる。それゆえ、私たちはジジェクに関する伝記的事実がその思想内容の理解に決定的であるとは特に考えないのだが、やはり、ここでジジェクへの導入として今までのところ明らかになっている伝記的事実を様々なエピソードを適宜盛り込みつつ簡単にまとめておくのがよいだろう1)本節の伝記的叙述につき個々の叙述の出典を明記するのはあまりに煩瑣なので差し控えるが、本節の記述は、文献リストの「ジジェクに関する伝記的記述」欄に挙っている文献およびŽižek and Daly[2004:Ch.1]を参照し、それらをまとめたものである。

1-1、伝記と著作―英語圏でのデビューまで

 ジジェクの出身国は、共産圏に属しつつ「自主管理社会主義」という独自路線を歩んだ旧ユーゴスラヴィア中の小国、人口200万ほどのスロヴェニアである。スロヴェニアは旧ユーゴスラヴィアの北西端に位置し、南と東ではクロアチア、北東にハンガリー、北にオーストリア、西にイタリア、そして南西部はアドリア海に接している。

 以上の叙述から分かるとおり、スロヴェニアは旧ユーゴ圏でもっとも西欧に近く、そのためもあって旧ユーゴ時代から経済的には一番先進的な地帯となっていた。共産圏の解体後も大規模な紛争の不在、安定した民主体制のおかげで旧共産圏のうちでは高い経済水準を獲得し、それはギリシアやポルトガルに匹敵する水準であるという。

 ジジェクがスロヴェニアの首都リュブリャナに生まれたのは1949年の3月21日のことであり、日本でいえば「団塊の世代/全共闘世代」にぴたりと当てはまることになる。ジジェクは1968年の有名な「プラハの春」の当時チェコにおり、ソ連の戦車とデモ隊が対峙するのを目撃したという。

 ジジェクの生まれた家庭は中産階級で父は経済学に関わる仕事、母は会計士をしており、この家系からすれば当然のことか、両親はジジェクに経済に関する仕事をすることを望んだ。

 だが十代半ばのジジェクは映画に凝り、映画理論と映画実践の狭間にいた。当時のスロヴェニアでは配給された映画は地域の大学にコピーが保存されており自由に見ることが出来た。そんな状況の中でジジェクは一方で十代後半から映画誌にレビューを発表しており、他方では八ミリカメラで自ら短い映画も撮ったらしい。実際、ジジェクは15才の時点では映画監督になりたかったという。

 しかし、いくつかの本当にすばらしいヨーロッパ映画に接することで、この夢は断念されることになったとジジェクは語る。自らとってみた映画にしてもジジェクは自ら破棄したようで、誰かがそれを今持ち出してくるとすれば、その誰かは「消えることになるだろう(will disappear)」という。これはジジェクにとってのいわゆる「黒歴史」ということになるだろう。

 そのような挫折を経てジジェクは17才の時には哲学をすることを決心した。これは映画に対して次善の選択ではある。ジジェクの述べるところ、ここでジジェクはレヴィ=ストロースを参照しているのだが、どんな哲学者も理論家も、挫折してしまった別の職業をもっており、それが彼の全存在を規定している。ジジェクの場合は映画であって、そこにおける「挫折/喪失」を埋めるために哲学がやってきた、このメランコリーの構造が自分には最初からあったのだという。

 哲学に関していえば、ジジェクは15才の頃、共産圏なので当然ながら、「標準的なマルクス主義の古典」を読むことになる。これ以後ジジェクの哲学的自己形成はジジェク自身の言葉を借りれば「ほとんど時々の潮流(trend)を追うような形で、当時の東欧の典型的状況の一種の要約のようなものとして、一歩一歩」進むことになる。

 はじめに出会ったのは半ば異端的な「いわゆる人間主義的マルクス主義」のプラクシス・グループで、ここでジジェクは公式イデオロギーからの離反を開始することになる。次にドイツ語圏に近いスロヴェニアには強いハイデゲリアンの潮流があったこともあってハイデガーへと移り、それに次いでようやく「いわゆるフランスの構造主義革命」を発見することになる。

 この発見はジジェクが大学1年の1968年に起きた。ジジェクはそのころ友人たちとデリダを読み始めた。それは「疑似-宗教的」な経験で「啓示」の構造を持っていたとジジェクは語る。つまり、理解する前からこれこそが本物だという感じを与えたという。ジジェクはデリダがいなければ自分は一ハイデゲリアンで終わっていただろうとまで述べている。ジジェクがデリダから得たのはハイデガーからの出口、ハイデガーからの距離だったという。それが成功したのかどうかについては今のところは措こう、それは第一部後半の問題である。

 そうしたあらましでジジェクと友人たちはフランスからやってくるものは全て取り入れてみなければならないと考えたのだが、その中で更なる「疑似-宗教的」な啓示をへてジジェクたちがラカンを選択したのは1975-76年のことだったされる。

 この選択について説明を求められたジジェクはあるところではその「究極の理由」を「スロヴェニアの知的生活の特殊な布置(mapping)」、学問的立場と政治的立場の特定の結びつき方に求めている。

 スロヴェニアには二つの支配的な哲学的アプローチ、フランクフルト学派的マルクス主義とハイデガー主義が存在したのだが、前者は公式イデオロギーによって取り込まれてしまい、後者は「右翼ポピュリズム」および「もっとも暗いスターリニスト的諸権力(the darkest Stalinist forces)」と結びついていたからだという。

 そういった中で政治的にラディカルな立場を取るには「フランス思想/ラカン」を選択することが必要だったというわけである。とはいえ、別のところでは「ハイデゲリアンやポスト・マルクス主義者」が80年代前半の初期の「ラディカルな政治化された反体制派」を形成していたとも述べてはいるのだが…。

 また90年代についてはリチャード・ローティが語るところ、ジジェクは「スロヴェニア政治における巨大な闘いは政府官庁(civil service)を支配しているラカニアンと軍を支配しているハイデゲリアンの間にある」と述べていたらしい。

 ジジェクの私たちからみると少々突飛なこの現実政治の捉え方は、あるいは旧共産圏として「学知」に私たちからは考えられないほどの重みが「与えられていた/いる」国柄にあっては、それなりに妥当なのかもしれない。その点は判断がつかないが、ハイデガーと政治の結びつきに対するジジェクの継続する関心、そしてハイデガーへのジジェクの両義的な態度の一部はこのあたりの政治と哲学との絡み合いに由来すると見ることが出来るだろう。

 ジジェクの書いたものについて見ていこう。ジジェクが22才で初めて出版した著作は『差異の苦痛』と題された「卒論(graduation paper)」であり2)ジジェクはこれも―もちろん、ジジェク自身がこの語を使っているわけではないが―「黒歴史」と見なしているが、この「差異の苦痛」という語がジジェクの根本思想との確かな関連のもとに使用されている例があることも見逃すべきではない(cf. Žižek [2008b:xlix])、これはハイデガーとデリダの混ぜ合わせで方向性はまだまだ不明確だったという。

 続く修士論文(Master’s thesis)は「象徴行為に関するフランスの諸理論」を取り扱った400ページに及ぶ大作『フランス構造主義の理論的実践的重要性』で、デリダ、クリステヴァ、ラカン、フーコーなどをカバーしているが、ここでも方向は不明確なものだったらしい。

 この後ジジェクは博士論文(doctoral thesis)を70年代前半のうちにハイデガーで書くことになるが、ジジェクの述べるところ、ラカン的な方向性が明確になるのは70年代後半に書かれた第二の博士論文においてであった。

 さて、職業面でいうとジジェクは修士論文を書いた際に今となっては何かしら懐かしい響きを残す「近現代ブルジョア哲学」の助手として採用されることがはじめ決まっていたのだが、論文の内容が十分にマルクス主義的ではないとされ採用は取り消されてしまう。1973年から77年にかけてジジェクは実質的に無職となり、すでに妻子を抱えながら両親の援助とドイツ哲学の翻訳でなんとか糊口を凌いだ。またこの期間にジジェクはユーゴスラヴィア軍に徴兵され仕官している。

 その後77年から79年までは党の中央委員会で雇われ、会議の時間計測や幹部の演説原稿の執筆をする。そのときジジェクは演説の中に何かしら「転覆的な(subversive)」言辞を忍び込ませたりして楽しんだという。この委員会での経験および徴兵された時の経験はジジェクの「権力/イデオロギー」理解に少なからぬ影響を及ぼしている。

 曰く、ジジェクはこれらの経験から権力の維持の一つの方策は公式イデオロギーを真面目に受け取らせないこと、人々にそれからシニカルな距離をとらせることにこそあり、表向きのルールに違反するような一見転覆的な裏ルール、ジジェクが法の猥雑な裏面と呼ぶものへの同一化こそが主体の権力への服従を確かなものにすることを洞察したという。

 徴兵後、1979年には一部の教授らの努力も空しく哲学の研究員の職は得られそうもないことが分かり、ジジェクはハイデゲリアンの友人経由でリュブリャナ大学の社会科学研究所の社会学部の研究員の職を得ることになる。そこでジジェクは長年、表向きは社会学の研究を、しかし実際には哲学の研究を一種の黙認のもとで行うことになる。

 その「表向き」を作る過程でジジェクは「超越論的な詐術(transcendental trick)」を使ったという。つまり、研究題目はスロヴェニアのナショナル・アイデンティティの形成なのだが、それが可能になるために、その「可能性の条件」として―本稿では「超越論的」の語を「(経験の)可能性の条件」の次元に関わるものという意味で用いる―ナショナル・アイデンティティなるものの一般的構造が解明されなければならないとし、今の今までこの予備研究が続いているというわけである。

 ジジェク自身はこの状況を気に入っていたようである。というのも、研究員は、そもそも異端的なものに教育させないために閑職に追いやっているので当然のことながら、教育の義務を持たずに研究に打ち込める一種の「永続的なサバティカル」という状況だったからである。

 80年代のジジェクに関しては、一方におけるパリ留学、他方に国内での政治運動との関わり、そして最後に89年の”The Sublime Object of Ideology”(邦題『イデオロギーの崇高な対象』)という最初の英語著作の発表による国際舞台への登場が主だった事象だと言えよう。順を追ってみていこう。

 先に見たところだがジジェクは70年代中盤にはラカンという選択を行っており、そのころからラカン派と一定のコネクションを持っていて、友人達とスロヴェニアでラカン派の団体を立ち上げ、雑誌『プロブレミ』やシリーズ『アナレクタ』を発刊してもいた。そういったこともあってか、80年代はじめになってラカンの娘婿でラカン派を引き継いでいたジャック・アラン・ミレールからパリ第八大学に毎年一つか二つ用意されていた外国人助手のポストを提供されパリに合わせて数年間滞在することになる。

 ジジェクはミレールに指導され、また分析されつつ、そこで三度目の博士論文を仕上げる。それがヘーゲルとラカンを組み合わせた”Le plus sublime des hystériques : Hegel passe”(未邦訳『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』)で、本書の内容はジジェク自身も述べているように『イデオロギーの崇高な対象』と三分の二ほど重複するものである。

 このパリ滞在の頃のジジェクは、少なくとも私的には苦境に立たされていたようである。第一の結婚は破綻しジジェクはたびたび今にも自殺を試みようかという心境であったという。また給与の方も十分なものではなく分析を受けるためにたびたび食事を抜かすほどであった。

 だが、この時期は知的には充実した時期でもあり、ミレールはジジェクが知る限りの最高の教師であるという。ジジェクがラカンの解釈で途方に暮れている時にミレールに尋ねると、なぜ今まで理解できなかったのかが分からなくなるほどに明確な答えが与えられたということがたびたびあり、ジジェクは自分のラカンはミレールのラカンだと率直に認めている。

 他方ミレールはジジェクの分析家でもあったのだが、こちらはさほど順調ではなかったといえるかもしれない。というのも、ジジェクは分析で自分が激しい理論への欲望を失ってしまうのではないか、普通の人間に変わってしまうのではないかと、ジジェクも良く用いる表現を使えば、「人間的、あまりに人間的」な恐れを抱き、本当に分析へと入ってしまわないために、自由連想をするのではなく「絶対的に純粋な形態における強迫神経症」の身振りで何も本質的なことが起きないために分析の一切を予め考えておいたシナリオ通りに進めようとしたからである。結果としてジジェクは自分の分析は終わりきっていないと考えている。

 また知的な生活についても最後には一定の失意が待っていたといえる。ジジェクの博士論文はミレールの口頭試問を突破しはしたものの、ミレールが主催するラカン派の出版社はジジェクの論文を出版しなかったからである。この決定に続く夜、ジジェクは心臓発作の兆候を持つパニック発作にはじめて襲われたらしい。ジジェクは今でも心臓の問題と頻繁なパニック発作のためにザナックスという抗不安薬を服用しているようだ。これまた「人間的、あまりに人間的」なジジェクの一面を示すものといえるかもしれない。

 結局、ジジェクの論文はミレール派に対してライバル的な立場にあるラカン派の分派の出版社から出されることになったが、結果は成功にはほど遠いものだった。

 ここでジジェクの母国のユーゴスラヴィア・スロヴェニアに目を向けると、そこでは当時共産党の支配が揺らぎつつあり、反対派の運動が活発になっていた。このころジジェクは週刊誌ムラディナの人気新聞コラムニストとなっており、民主主義を目指す社会運動、「人権擁護委員会(the Committee for the Defense of Human Rights)」に関わったり、コミュニズムと右翼ナショナリズムに反対し、フェミニスト的問題や環境に関わる問題を強調する自由民主党の設立と方向付けを手助けしたりといった活動をしていた。

 とはいえ、ジジェクは「立派な一人前の(full-fledged)」活動家というわけではなく、活動を始めたのも80年代の後半と比較的遅く、その目的も「スロヴェニアを、クロアチアやセルビアのような、巨大なナショナリスト運動が全てをヘゲモナイズしている国にしないため」という限られたものであったと自ら総括している。

 そんなジジェクが政治の表舞台に一番接近したのはスロヴェニア最初の民主的な選挙、1990年の選挙における四人のメンバーでの共同大統領職に、自由民主党の候補として立候補し、惜しくも五位に終わったことだろう。Astra Taylorの手になるドキュメンタリー映画”Žižek!”で当時のジジェクの演説と投票二日前のテレビ討論の映像を少し見ることが出来る。ジジェクは討論の中で私有財産は可能な制度の中で最悪だが、それ以外には候補がないとチャーチル流の議論を披露している。

 少し面白いエピソードもある。この討論中ジジェクが他人に発言の機会を与えないほどにしゃべりまくっていると、ある右派の候補がジジェクに「確かにあなたはこの中で一番IQが高いが、少し私たちにもしゃべらせてくれ」などと発言し、このジジェクの賢さを認める敵方の失言のおかげでジジェクは選挙直前に一気に人気を上げたという。ジジェクはこのことをテレビ討論では議論の内容よりもたった二三の印象的なフレーズやジョークや出来事が決定的なのだと冷めた総括をしている(Žižek and 浅田(他)[1992:20])。

 今参照した、ジジェクが東大駒場でのシンポジウムで来日した際に行われた『批評空間』のインタビューで、ジジェクは自らの支持した自由民主党をはじめとする(中道)左派がスロヴェニアの自由化において決定的な役割を果たしていたのに、いざ選挙が行われてみると「右翼-ナショナリスト連合」が勝利を握り、自由民主党は一種「消滅する媒介者」として不可視にされてしまったと不満を漏らしている。ユーゴ崩壊後のナショナリズムの猖獗はジジェクの「政治/イデオロギー」理論にも一つの大きな影を落としている。

 さて、ジジェクは共同大統領職の選挙で惜しくも敗れたのだが、それを振り返ってジジェクはもし当選していたとしてもすぐに辞めただろうと述べている。ジジェクが想像していたのとは違い、この仕事は一切の時間を費やさねばならない大仕事で「哲学/理論」のための時間が無くなってしまうからである。実際、この後のジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』の成功に続いて矢継ぎ早に驚異的なスピードで著作を発表する多忙な「理論的/哲学的」な執筆活動に勤しむことになる。

1-2、伝記、著作、受容史―英語圏でのデビュー以後

 ジジェクの英語圏でのデビュー作は、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフが編集するシリーズ”Phronesis”の一冊として出版された『イデオロギーの崇高な対象』である。今では決裂状態にあるラクラウとジジェク―この点は第二部第二章で詳述する―だが、ジジェクのデビューと成功はラクラウの御陰という側面が存在したといえる。ラクラウはこの本に序文を寄せ、ジジェクも本書冒頭でラクラウとムフの”Hegemony and Socialist Strategy”(邦題『ポスト・マルクス主義と政治』)に対して自分をラカンによる政治分析という着想へと導いてくれた本として謝意を表明している。

 本書は大きな成功を収めジジェクは一躍有名となったが、ジジェクはこの成功を、インタビューアーによる「即席の古典になった(became an instant classic)」という表現の正否について、自分は判断する立場にないと留保を付け加えつつ、そういうことがあったとしても、それは本自身の内在的性質のおかげというより、すでに開いていた場所にうまくその本が入り込んだだけだと指摘している。つまり、多くの人が通常の言説分析に飽食していたところにラカン理論による政治分析などの新しい契機を持ち込んだジジェクの本がうまくマッチしただけなのだと。

 この本は一般に教授たちの間より大学院生の間で人気があると指摘されたジジェクは、そのことを一種の「労働者階級の連帯」として自分がこの本の人気で好むところであると指摘している。アカデミックな地位の序列における階梯が低くなればなる程この本は人気なのだ、と。

 さて、ここで主な著作の紹介をかねて、ジジェクの著述の大まかな傾向を論じておこう。ジジェクの主要な対象はドイツ観念論を中心とした哲学、映画をはじめとする(大衆)文化、マルクス主義の影響を受けた現代の「政治/社会/イデオロギー」の分析と批判、つづめて言えば、「哲学・文化・政治」であり、それがラカン的な視座から論じられるというものである。

 『イデオロギーの崇高な対象』はこの三つがかなりバランスよく組み合わされたものだが、他の著作では多くの場合、全ての著作にどの要素も必ず入ってはいるものの、どれか一つが優勢な地位を占めることが多い。

 さしあたりこの観点から90年代の主な著作の傾向をまとめてみれば、「哲学」が優勢な著作としてヘーゲルをラカンの「シニフィアンの論理」から読解しようと試みる91年の”For They know not what they do”(邦題『為すところを知らざればなり』)、デカルト、カント、ヘーゲルの主体をラカン的な主体と連関させつつ読解することが中心となる93年の”Tarrying with The Negative”(邦題『否定的なもののもとへの滞留』)、シェリング論である”The Indivisible Remainder”(邦題『仮想化しきれない残余』)がある。

 次いで「文化」が優勢な著作としては映画や推理小説などの大衆文化からラカン理論を解説する91年の”Looking Awry”(邦題『斜めから見る』)、ハリウッド映画に焦点を合わせた92年の”Enjoy Your Symptom!”(邦題『汝の症候を楽しめ!』)が挙げられる。

 さて、こうした90年代の成果を総括するような著作が99年の”The Ticklish Subject”である。本書でジジェクによる「否定性」の概念化、「死の欲動」の概念の練り上げが一定の完成を見ることとなり、その観点から「哲学」や「政治」の議論が総括されている。

 2000年代前半のジジェクの著作の中心はキリスト教三部作、2000年の”The Fragile Absolute”(邦題『脆弱なる絶対』)、2001年の”On Belief”(邦題『信じるということ』)、2003年の”The Puppet and the Dwarf”(邦題『操り人形と小人』)である。これらはジジェクが考えるところのヘーゲル的立場からキリスト教を再解釈しようとするものであると同時に、キリスト教の中に新たな(政治的)主体性の可能性を見いだそうとするものである。この時期の著作には他に9.11のテロおよびイラク戦争への応答、ファシズムとコミュニズムを一緒くたにする「全体主義」概念の不当性を論じる全体主義論、さらにドゥルーズ論がある。

 この時期までの思考の集成をなすのが2006年の大著”The Parallax View”(邦題『パララックス・ヴュー』)である。その焦点は二つの相互に還元不可能な視座の存立を確認しつつ、この二つの視座の間の差異、ギャップ、それがジジェクがパララックス・ギャップと呼んでいるものだが、それを始原の一者そのものの自己差異化として捉え直す必要を主張するものである。この一者の自己差異化がとりもなおさず「否定性」である。

 2000年代後半について特筆すべきは、世界金融危機を一つのきっかけとして「コミュニズム」の再考の主張が前景化することだろう。2009年の”First as Tragedy, then as Farce”(邦題『ポストモダンの共産主義』)はまさに金融危機以後の状況分析から「コミュニズム」の概念に再び取り組むことを主張したものであり、2010年の”Living in the End Times”は現代のグローバル資本主義に潜む四つの敵対性を取り出して広範に論じたものである。2010年には現代の有名な左派の思想家が一堂に会したといいうる論文集”The Idea of Communism”の編集にも携わった。

 だが、この時期から今にまで続く、政治への積極的でともすると扇動的な諸発言はジジェクへの批判を増大させた。ジジェクはあるインタビューで「しばしばあなたは良いエンターテーナーではあるが内容的にはペテン師だと思われています。このことはあなたの気に障りますか?」と勇気ある(?)―私たちのような「へたれ」にはとても聞けそうにない!―インタビューアーに尋ねられて、「私への批判は厳しくなっている」「機知(Witze)も人々に考えさせるためにはしばしば役立つ」が「私はもしかしたらやり過ぎたかもしれない」と語り(Žižek and Akrap [2010])、論述を誤解されて反ユダヤ主義の汚名を着せられたことにふれ、「それには息が止まった」「こういったことにはもう懲りたので純粋な理論の領域に戻っている」と述べている。

 ここでジジェクが「純粋な理論の領域」といって指示しているのが2012年に出たヘーゲル論”Less than Nothing”であり、これは1000ページを越す大著でジジェクの議論のとりあえずのまとめと見なしうるものだろう。

 とはいえ、政治へのコミットメントを辞めてしまったわけではなく、近年の重要な政治的な出来事、例えば「アラブの春」の際にも記事を出しているし、”Occupy Wall Street”の運動の際には現地に赴いて演説している。

 著作の話題から伝記的記述へ、さらに受容史的記述へ重点を移していこう。ただ、英語圏でのデビュー以後のことは未だ語られることも少なく著作の歴史をのぞけば述べうることはさほど多くない。ジジェクは最初の英語著作の成功後、大衆文化を軽妙にかつウィットに富んだ形で分析し、それによって同時に難関で知られるラカンを解説するという触れ込みの著作がとりわけ受けたのか、いわゆるカルチュラル・スタディーズの領域でアメリカにおいて多くのフォロワーを生んだと言われる。

 このことは確かにジジェクがアメリカで90年代に歴任してきた客員教授職から見て取れる。一覧は伝記的記述に関する文献表に挙げたEuropean Graduate SchoolのWebサイトに記述されているが、ジジェクは90年代にアメリカの八つの大学で客員教授となっている3)だが、ジジェクは度重なるオファーにもかかわらずアメリカでテニュアを得ることはしていない、曰く、本国で教育義務なしの職があるのにわざわざどうして教育義務を負わなければならないのかとのことである。ジジェクは客員教授であるときも単位を初めから約束するなどしてレポート提出を減らし、オフィスアワーを授業直前に設定したり、更には適当な名前で欄を埋めてオフィスアワーがすでに予約でいっぱいであるかのように見せかけるなどして極力学生との接触を減らしている。また、これは自らが「権力の儀式」への信じられないほどの抵抗を抱えているという個人的病理について語る文脈で述べられたことだが、学生が自らの卒業論文を擁護する会議といったスペクタクルめいた儀式など不要であり、さっさと書類にだけサインしてレストランに行ってよい食事でもしようという。

 一説によるとジジェクの影響力ないし存在感がとりわけ増したのはイーグルトン―彼がジジェクを評した「ここ数十年でヨーロッパから現れた、精神分析の、さらには文化理論一般のもっとも手強い冴えた解説者(exponent)」という言葉はしばしば引用される―が1997年にLondon Review of Booksにジジェクの書評を掲載して後だという。このころからジジェクの講義は若い知識人の聴衆を多く集めるようになったとされる。

 おそらくそれ以降ジジェクの、思想内容の理解を伴う実質的な「影響力」ではないにせよ、さしあたりの「存在感(presence)」とでもいうべきものは上昇していると見てもそう間違いではないだろう。近年の政治的諸事象へのコミットメントもそのことに寄与している。ジジェクの著作は今や20カ国語以上に翻訳され、Web上には”International Journal of Žižek Studies”が存在し、2007年以降毎年4~5巻発行されて世界中から投稿を集めている。

 この存在感の上昇の要因として考えられることを幾つか指摘しておこう。第一に、ジジェクの著述のいくつかの特徴、ユーモアがあり大衆文化や身近な例を用いるとっつきやすい語り口、時事的問題からハリウッド映画へ、あるいは認知科学からドイツ観念論へ等々と無限とも思える広がりをもつ話題の豊富さ、時事問題への積極的な介入といった特徴である。

 第二に、ジジェク自身のフットワークの軽さが挙げられるだろう。ジジェクはここ二十年で様々な国で350以上の学術的シンポジウムに参加しているという。第三は、メディアとの親和性である。ここ二十年は旧来のマスメディアの更なる浸透もさることながら、インターネットが急速に普及したことが特筆に値する。ジジェクは以上のような特徴によって英米圏ではマスメディアで取り上げられることも多いようだが、それに加えて、その多産性やフットワークの軽さの故か、ネット上に無数のテキストやビデオクリップなどを氾濫させている。このメディアとの親和性によりジジェクには幾つかのメディア的クリシェとでもいうべき称号が存在する。有名なところを挙げておけば「文化理論のエルヴィス」や「西洋でもっとも危険な哲学者」などである。

 このような「存在感」の上昇は幾つかの帰結を生んでいる。第一は「存在感」と「理解」の格差が生み出す「入門書」ないし「研究書」への需要であり、2000年代になってジジェクに関する入門書、さらには研究書と呼ぶべきものが一定数出版され、その勢いは加速している。そのうち主要なものはおいおい触れることになるだろう。

 第二は「存在感」が不可避的に生み出す、そしてジジェクの場合にはいわゆる「論文」の作法に必ずしものっとらず、話題を次々と切り替えて読者を迷子にさせてしまうことの多い非直線的な議論の展開スタイルや、はっきりと表明されるラディカルな立場取り―つまり、一種の扇動性が増幅させている「批判」である。

 そのうち典型的なものを一つ挙げておけば、2004年という早い時期に出版された入門書、イギリスのラカン派Ian Parkerによる”Slavoj Žižek : A Critical Introduction”がある。本書の立場は明確である。ジジェクの支離滅裂とも見える文章の背後には何もなく、単に支離滅裂なのである。なのに私たちはその後ろに何かがあると思い込む。これはまさにジジェクのいう「イデオロギーの崇高な対象」のメカニズムではないか…。

多くの読者が、自分たちがジジェクの最初の本の中にある何物かに魅惑され熱狂させられていることを見出した。その何物かはまさに[ジジェクの著作のタイトルにある]「崇高な対象」のような何かであり、それを捕まえることは出来ないのである。(Parker [2004:3])

 一貫した内容が存在しない以上「あなた方は「ジジェキアン」であることは出来ない」(Parker [2004:10])。この点は本書に続いて出版されたジジェク関連書で良く引き合いにだされ、ジジェクには何らかの一貫性があるという主張のもとに反駁されている。実際のところパーカーの以上の一節のうちにはある深いレベルで一つの真理があるのだが、一般的なレベルでは私たちはジジェクには一貫性があるという後者の立場に与する。

 既に指摘され第三節で最終的に明らかにすることだが、ジジェクには「否定的なもの」をめぐる問いという一貫した視座があるというのが本稿の基本的観点だからである。さて、本書に戻れば、その基本的なメッセージは、ある他のジジェク入門書の著者がコメントするところ「ジジェクを読むな!」というものである。こういった類いの批判、主に真面目でアカデミックな立場からのジジェクのスタイルや思想内容、それを取り巻くメディア的な盛り上がりへの反発を反映する批判は多数ある。

 恐らくこのような状況を見てのことでもあるのだろう、ジジェクと仲のよいアラン・バディウは、「概念的創意」とはなんの関係もない「初歩的な道徳的説教」「気の抜けた道徳」という形での似非哲学の氾濫を批判して哲学の脱道徳化を主張する文脈で、それに際し現れる批判に触れて、これまた一方的にだが以下のように総括している。

よく事情に通じていない若い学生や若い教師達に関していえば、とこの検察官[引用者注:バディウがここで引き合いに出している批判者のこと]は言っているのだが、スラヴォイ・ジジェクや私のような哲学者達はrecklessである、これは「一切の思慮分別を欠いている」(dépourves de toute prudence)とでも訳せるものだ。これは古代から現代までにいたる最悪の保守主義者たちの伝統的テーマである。つまり、若い人々は、彼らを一切の真面目で尊敬すべきもの、すなわち、キャリア、道徳、家族、秩序、「西洋」、所有、法/権利、民主主義、資本主義から引き離してしまう「悪い教師」と関係してしまえば、あまりに大きなリスクを冒すことになるということである。recklessにならないためには、概念的創意をこれらの人々が理解するところの哲学の「自然な」明証性へと厳格に従属させることから始めなければならないというのだ。これらの人々の理解する哲学とは、気の抜けた道徳、すなわち、ラカンがそのぶっきらぼうな言葉遣いで「善いものの配給」(le service des biens)と呼んだものである。(Badiou [2010:68-69])

 このような状況に対して「あまりに大きなリスクを冒している」(?)私たちの取る立場は、一方のジジェクをめぐるメディア的な盛り上がりに与することでも、ジジェクを一刀両断型の批判によって切り捨てることでもなく、まずジジェクの議論の内容を理論的・論理的な首尾一貫性を貫徹させつつ理解することである。そこからしか実質のある議論は始まりようがないのだから。

 「存在感」の上昇の第三の帰結として、ジジェク自身が感じている「無理解」への落胆を挙げることが出来る。先に触れたAstra Taylorの手になるドキュメンタリー映画の一つの焦点は、このジジェクの失意である。

 映画の構成では、結末の直前にジジェクと聴衆との質疑の場面が映される。聴衆はジジェクに自らの成功を説明することを求める。ジジェクは問いには直接答えない。「ある表面的なレベルでは私は比較的人気だが、私たちが学会でどれほど影響力がないかをあなたは想像できないだろう」。

 そうしてジジェクはメディア的な人気の演出に目を向ける。確かに自分はメディア的な人気の演出に「道化的に」「つきあっている」ものの、最近はそれに「うんざりしてきている」。そこには何か徴候的なことがあるのではないか。「私はほとんどこう言いたいくらいだ。つまり、私を人気者にすることは私を真剣に受け取ることに対する抵抗である、と」。

 こうしてジジェクはこう結論する。「この理由により私の義務は人気のコメディアンとかなんとかとしての私の一種の公共的な自殺を行うことだ」。こうして映画の締めくくりにはジジェクが螺旋階段から飛び降りて地に伏せているという場面が配されることになる。これはまた「メディア的、あまりにメディア的」かもしれない。

 それはそれとしてジジェクはこの種の不満を別のところでも漏らしている。小話や映画への言及ばかりが脚光を浴び、肝心の議論が理解されていない、と(Žižek [2008b:ⅵ])。自分の武器であったものが翻って自分に牙を剥くという、人気の著述家にはよくある事象である。

 さらに、映画で焦点となっている失意にはもう一つの次元がある。それは「哲学」と「政治」の間の隔たりである。ジジェクはもちろん自らの政治の議論で「騙したり、偽造したり(faking)」しているつもりはないが、「政治について語る時にはいつもそれは偽物(fake)だという感じを抱いている」。というのは、「私の心はそこにない(my heart is not in it)」からだ。

 自分が本当に楽しんでいるのはヘーゲルやシェリングについて書くこと、つまり、哲学だからである。にもかかわらず、自分に望まれているのは自分が持っていないもの、政治において「何をなすべきか」の「公式」なのだと。この隔たりがジジェクに一種の失意を味わわせている。ジジェクの政治を考える場合には、この哲学と政治の隔たりという困難から考え始める必要があるだろう。

 さて、以上を簡単に総括すれば、2000年代のジジェクをめぐる状況は、一方にメディアや講演を通じての「存在感」や「人気」の上昇、他方にそれに応じて増大する「批判」があり、そんな中でジジェクは「人気」と「無理解」の隔たりに少々うんざりしているというものである。そんな状況の中で先述のジャーナルや入門書、研究書の類いにより「理解」を進めようという堅実な動きも出てきている。私たちの試みは最後の潮流に加わろうとするものであるといえよう。

 最後に日本国内での状況にも触れておこう。大勢においてそれは以上で述べた事柄と一致しているといえるだろう。ジジェクが日本国内に紹介されたのは90年代前半、先にインタビューに言及した批評誌『批評空間』を通じてである。その後、おそらくは以上で指摘されたような諸特徴を通じてだろう、ジジェクは一定の「人気」を獲得し、主な著作はほとんど翻訳されている。とはいえ、それが内容の理解を伴っているかといえば心もとなく、研究と称しうるものもほとんどないのである。

2、ジジェクのスタイルと私たちの読解の方法

 さて、私たちは前節でジジェクをめぐる状況としていささか表面的な「人気」の上昇とそれに呼応する「批判」の増大、そしてそれにいささか疲弊しているジジェクという構図を描き出してみたわけだが、ここでジジェクは単なる被害者(?)なのかといえば恐らくそうではないだろう。

 ジジェクのスタイル、すなわち、書き方、文体、議論の構成自体に問題があることは否みがたい事実だからである。ここではこのジジェクのスタイルにつき主に二つの事柄を扱おう。

2-1、ジジェクの議論の非直線性

 第一はジジェクを読む誰もがぶつかる問題、ジジェクの著作の議論展開の非直線性である。その雰囲気を掴むためにまずジジェクの文体を描写した文章を引用しておこう。

ヘーゲル哲学、マルクス主義的弁証法、ラカン派のジャーゴンのノンストップなごた混ぜ(pastiche)であって、それがノワール映画、下品なジョーク、ポップカルチャーの泡沫的諸事象(ephemera)によってふくらまされ活気づけられている(leavened)。(Boynton [1998])

 この描写は基本的に正しいだろう。私たちがジジェクを読んでまず驚かされるのは著作における秩序の欠如である。一般的な著作が前書きにおいて著作の目的と大まかなアウトラインを提示し、各章をそのアウトラインに従って配置して一貫した形で議論を展開し、結論部において達成された成果を振り返り要約する―私たちも本稿で、おそらくはしばしば過剰なほどに、そうあろうとしている―とすれば、ジジェクの著作に典型的なのは以下のような事態である。

 すなわち、前書きにおいて様々なことが述べられるのだが、それは著作の漠然とした方向性を示唆するだけで各章ごとのアウトラインは示されず、しかも、先の引用で指摘されていたパスティーシュ的な文章構成のために章と章との連続性がないことも多く、さらには節と節との連続性も見通しがたく、挙げ句の果てには段落と段落の間の連続性さえ定かではなく、しかも結論部など存在しないという事態である。これでは上述のような状況が生じるのはジジェクにも原因があると言わなければならない。

 しかし、ここでジジェクを非難したところで問題は解決しないので、私たちはこの障害を乗り越えてジジェクを理解しようと試みる必要がある。その第一歩はこのような文体の発生理由を知ることにある。

 ジジェクが自らの書くことへの姿勢について語っているところを通じて、この発生理由を明確に知ることが出来る。ジジェク曰く、自分は書くことを「強烈に憎んでいる」のにもかかわらず、それを止めることができない。どんな本を書き終えても「言いたかったことを言うのに成功しなかったという考え」に取り憑かれてしまうのだという。だから書き続けなければならない。端的に「書くことが止められない」。ジジェクはこれを「絶対的な悪夢」だとさえ言っている。

 かくして、書くことを憎みつつ書かざるを得ないジジェクの「書くことにおける全エコノミーは書くという実際の行為を避けるための強迫的儀式に基づいている」(Žižek, Daly[2004:42])。だが、いかなる儀式だろうか。ここからが重要な点だが、それをジジェクは先に参照したドキュメンタリー映画中で明らかにしている。

 ジジェクはまず完全な文章をなした形で短く「アイディアを書き留める(put down the ideas)」、そうしてここではまだ自分は「書いて(write)」はいないのだ、アイディアを書き留めているだけだと言い聞かせる。そして、ある程度アイディアが蓄積すると、もうここには本を作るためのすべてがある、すべての材料があるということになる。あとは材料となるメモを適切に配列して「編集する(edit)」だけで本の出来上がりである。もはや「書く(write)」必要はない。こうして自分は書くという作業を消滅させているのだと。

 かくしてジジェクの著作の断片性の理由が判明する。ジジェクの著作はその時々に書き留めたアイディアを、その時々に思い浮かんだ一貫性へと編集したものであって、普通の著作がある一貫したプロジェクトのもとに書き始められ、その各部分は総体としての著作に従属しているのに対し、ジジェクにあってはまず部分部分が自立したものとしてあり、そこから一つの一貫性が後から取り出され、そうして著作が出来上がるのである。

 この産出の順序故にジジェクの著作には前の著作と全く同じ内容の反復が見られる。何かそれを使って新しい一貫性が作り出されうると見るや、過去のアイディアを再び持ち出してくることが可能だというわけである。それはもともとある特定の文脈のために作られたものではないのだから。

 さて、ここから私たちの読解の方法も規定することができよう。ジジェクの著作の産出過程を整理すれば以下のようになる。ジジェクが一人の連続した人格である限りで、そしてジジェクの述べるところに従えば、哲学者とは「ある一つの洞察を持っていて、それを何度でも何度でも断言していくだけ」(Žižek, Daly[2004:41])である限りで、ジジェクが産出する言説には、少なくともその中核的な部分には一貫性が存在するはずである。

 だが実際に産出される言説の最初の形態は、その時々の思いつき、アイディア、断片である。そして次にそれらが適度に溜まってきた段階で編集過程が始まり、ジジェクがその時に考えている一定の一貫性のもとに配置される。そうして著作が出来上がる。

 だがここまでで明らかな通り現に存在する著作における議論の連関は確かにジジェクによって与えられた一つの一貫性だが、全くもって絶対的なものではない。はじめにあるのは部分であり個々のアイディアだからである。

 だから私たちはジジェクの思惟の根本を理解しようと思うなら、現にある著作のつながりを絶対視せず、それを適宜バラバラにしてジジェクの中にあるはずの中核的な一貫性の視座から配置しなおさなければならない。

 だから本稿での私たちのジジェク読解においては様々な、一見無関係にさえ見えるほどに遠く離れた場所に散らばっている断片が一つの場所に集められ、そうすることで一つの一貫性が描き出されることになる。この少々アクロバティックな読解方法はジジェクの著作の特殊な性質によっており、このアクロバティックな方法によってのみアクロバティックでない論理的な展開へとジジェクの議論を再構成できるのである。

 こうすることによってのみジジェクの思惟がその本来の一貫性において明らかになるだろうし、それを評価することがはじめて可能になる。そして、この「中核」ないし「根本」的な一貫性を抽出する上で決定的なことはジジェクにおける「反復」に注意することである。重要な事柄は当然何度も「反復」される。

 他方でジジェクの著作の中にはその書き方から明らかなように本当にその場の「思いつき」程度の断片も多数ある。そのレベルではやはりジジェクは前代未聞の「適当さ」を持っているといえよう。そして、そういった事柄に囚われることは木を見て森を見ずの誤りを犯すことになりかねない。

 私たちはジジェクをその中核的一貫性において真面目に読まなければならないが、他方で「思いつき」的な断片を真面目に読みすぎてはいけない。その判別において重要なのが「反復」の多寡である。

 では以上のプロセスを経て私たちが描き出す一貫性とは何か。それは既に述べられている通り「否定的なもの/否定性」をめぐる問いという決定的な問題構成によって可能になる一貫性である。このことは次の第三節で見るとしよう。

2-2、 My deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style

 次の第二節に移る前にもう少し「スタイル/文体」と私たちの方法に関わる問題に触れておこう。こちらも先の議論ほどではないにせよ、重要でないわけではない。ジジェクが例の多用、ジジェクの著作を非連続的にする例の挿入の理由を語る下りを引用しよう。

別の側面からのもう一つの議論はこの種のハイデガー的なpatheticなスタイルに対する私の深い不信(my deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style)です。私は物事を通俗化(vulgarize)しなければならないという一種の絶対的な強迫を持っています。それは物事を単純化するという意味ではなく、〈物〉の一切の感傷的な同定(any pathetic identification of the Thing)を台無しにするという意味においてです。これが私がもっとも高尚な理論から可能なかぎりもっとも低俗な例へと突然にジャンプすることを好む理由なのです。(Žižek, Daly[2004:44])

 ‘my deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style’という一節が、そしてそのstyleの内容を具体的に説明した’any pathetic identification of the Thing’という一節が重要である。patheticは「感傷的」とでも訳しうるものでジジェクのキーワードのひとつであり、ベタに語る時、何かしら気恥ずかしいことを語る時にジジェクが使う言葉である。

 ここでpatheticといわれているのは〈物〉の同定、欲望の究極の対象を何かしら同定し、それに聞き従い献身すること、ハイデガーが「存在」に対してとったような態度のことを指し示していると考えてよいだろう。ジジェクはそのようなpatheticな態度に不信を抱いており、しばしば下品でもある例の多用、例による議論の切断には、このようなpatheticな〈物〉の同定を台無しにするという効果があるという。

 ここから導きだされる一つの結論は「例」に気をとられることはジジェクの思惟にとってもやはり究極の対象となる次元、〈物〉の次元、否定的なものの次元―ここでの〈物〉から「否定的なもの」への即座の移動は次節が正当化してくれるはずであるが―この最重要の次元の見落としを引き起こしかねないということである。

 私たちがとるべき方法はジジェクがここで「台無し」にするのに対して、ジジェクのpatheticな側面、〈物〉に魅惑されているという側面をはっきりさせることである。これが私たちの「否定的なもの」をめぐる語りがジジェクのそれよりも幾分は「pathetic」である理由の一つである。

 ここで「理由の一つ」というのは、もう一つに趣味の問題があるからである。端的にいって私はジジェクが彼一流の言い回しで’Heideggerian pathetic style’と名指しているものが嫌いではないし、しばしば過度にそちらに傾いてしまう。そういうわけで私たちのジジェクは本人のテキストよりも素直で少しばかりpatheticなベタでデレたジジェクになるだろう。

 ところでジジェクはあるところで深刻で悲劇的な調子は「有限性」の哲学に特徴的であり、絶対的なものへの繋がりを肯定する「無限性」の哲学はコミカルで喜劇的な調子を纏い得ると指摘している(Žižek [2009a:110])。ジジェクから見られるなら、ジジェク自身に比してベタ、真面目、深刻に傾きがちな私たちの論述は「有限性」の哲学の兆候ということになるだろうし、実際、私たちは第一部第三章第四章で「有限性」の問題に執着することとなる。

 さて、ジジェクについての文献においてジジェクの〈物〉に魅惑されているという側面は見逃されがちであり、あとで少々触れるようにテリー・イーグルトンの『テロリズム 聖なる恐怖』が評価しうるのはジジェクのこの側面を的確に捉えているからである。

 以上の二つの項で論じられた二つの方法、というほどでもなければ、二つの態度によって私たちのジジェクのテキストへの態度、それへの立場と距離のとり方が規定される。

2-3、明確であること、ドグマティックであること

 私たちは以上でジジェクにおけるスタイルの問題性とその原因を明らかにした。そこで私たちがそれに取る距離をも示唆しておいたが、一つ指摘しておきたいのは、ジジェクと、あるいはジジェクに限らず一般に、研究対象とスタイルを変えることが本質的であることである。というのも、スタイルを変えることによってはじめてジジェクが書いたことをジジェクが書いたものとは別の仕方で照らし出すことが出来るからである。

 逆に言えば、ジジェクが書いたように書いても意味はないだろう(そもそもジジェクのように書けと言われても無理だが)。そんなものを読むならジジェクのテキストを読んだ方がよいのだから。それゆえ私たちは先の二項でジジェクのスタイルに対する距離を自覚化しておいたのである。だがここで一つだけジジェクのスタイルで継承したい部分がある。それはジジェクのテキストがもつ一種の率直さである。

 ジジェクはインタビューアーに「あなたは自分の哲学において強い立場取りを行うことで知られている」と指摘されて以下のように答える。「私が思うに、もっとも傲慢な立場とは「私が今述べていることは無条件的なことではなく、単なる仮説である」といった言い方の見かけだけの(…)謙虚さ」である、というのも、ここで理由を私たちの側で補ってみるなら、そういった言明は自らの言明を自分で相対化することで他者の批判する意志を阻喪させ、また他者からくる批判の衝撃をあらかじめ和らげ無効化しようと試みるものだからである。それは多くの場合、一見開かれているようでありながら閉じたいという欲求を表現している。

 逆に「誠実であるための、そして自らを批判に晒すための唯一の方法」は「どこにあなたが立っているのかを明確かつドグマティックに言明すること」である(Žižek and Daly [2004:45])。この指摘は端的に正しいだろう。私たちも人の子として(?)、批判などされたくないのだが、ジジェクにならってどこに立っているのかを出来る限り明確にかつ、もちろん根拠なしにということではないが、ドグマティックに述べるつもりである。

3、ジジェクの根本的な問題構成

 さて、ここで私たちの根本的視点、つまり、私たちが考えるところのジジェクの根本的問題構成を明らかにしておこう。それは第一章・第二章で既に示しておいた通り、「否定的なもの/否定性」をめぐる問いである。

 ジジェクの思想の基本的構図はラカンを使ってドイツ観念論、とりわけヘーゲルを読むこと、あるいはその逆だと言われる。だが重要なのはこのことの意味である。その第一にして最も重要な意味は、先に見たところのヘーゲルの主体の「否定性」から第一にラカンのいわゆる欲望を動かす主体の「欠如」を、更に第二に人間性に内在する不可解な(自己)破壊衝動、精神分析のいわゆる「死の欲動」を読解することである。

 第一章と第二章でそれぞれの事柄が既に別個に取り扱われたが、そうであるとしてヘーゲルの主体の「否定性」から欲望を動かす主体の「欠如」と「死の欲動」を読解するとはいかなる意味だろうか。

 第一に「否定性」と「欲望/欠如」を結び合わせると、主体が「否定性」として自分自身を含めた一切の肯定的具体的内容に対する距離・不和であるが故に、主体はどんな肯定的な対象を持ってきても埋めることのできない「空虚」にとどまり、更なる何かを求める「欲望」が永続するということ、この「空虚」こそ「欠如」と呼ばれるものであるということである。「否定性」であり空虚な「欠如」である主体が「欲望」を支える。

 第二に、「否定性」と「死の欲動」を連接させると、「否定性」は少々視点を変えれば自分自身を含めた一切の肯定的な対象に対する否定の、つまり、破壊の衝動とも見ることができ、従って「死の欲動」でもあるということである。この「否定性」を中心として構築される連関のために、先に見たセミネール7でのラカンと同様にジジェクにとって「死の欲動」の純粋形態は「欲望」の純粋形態と一致し(Žižek [2008a:134])、欲望の究極の対象たる〈物〉と「死の欲動」について以下のように並列して語ることが出来る。

この「世界に開いた傷口」とは、突き詰めれば、人間自身でなければなんだろうか―死の欲動に支配されている限りの人間、〈物〉の空虚な場所への固着によって脱線させられ、生命過程の規則性のうちに支えを失ってしまった限りの人間ではなければなんだろうか?(Žižek [1991:37])

 「死の欲動」、人間に対する「否定的なもの」の支配は、人間が肯定的諸対象を全く超えたもの、欲望の究極の対象、象徴化に徹底して抗う〈現実的〉な―「象徴化に抗う」とは、言い換えれば、語りえない、肯定的に記述できない、つまり、「否定的な」ということだが、そのような―〈物〉へと固着しているということと同じことなのである。

 あるいは逆にいえば、感性的現実、この「想像的-象徴的」な現実性を超えた〈現実的〉な〈物〉への固着のために、人間は肯定的諸事物一切に対する否定と破壊の衝動、つまり、死の欲動なのである。この事態をヘーゲルの「否定性」から読解することがジジェクの基本的な視座ということになるだろう。

 以上の視座からは、第一章で否定性の解消不可能性として、ヘーゲル的な分裂として取り出された問題は、第一に欲望が満足にたどり着けないという欲望の行き詰まりとして、主体が「欠如」し続け自己一致にたどり着けないということ、つまり、不幸として把握されることになるだろう。「もし幸福が、『実践理性批判』が古典的に定義したように、主体が生に対して意識する途切れることなき快適だとするなら、欲望の道を断念しない者に幸福が拒まれていることは明らかである」(Lacan [1996:785])。

 そしてそれは第二に、不可解な罪の意識や反復強迫をはじめとする自己破壊衝動が強いる苦難として把握されることになる。ラカンは先に見たように「死の欲動」を端的に”la douleur d’exister”、「実存/存在することの苦痛」として提示している(Lacan [1966:777])。

 こうして確立されるヘーゲルとラカンの二つの用語系の相互対話の場を通じて、ジジェクなりの「否定的なものをめぐる問い」への答えが練り上げられているということ、このことを把握することがジジェクを理解する第一歩となる。

 この問題構成によってジジェクは私たちが第二章で概観してきた「否定性」をめぐる思惟の系譜の上に位置づけられる。私たちが主張しようとするところ、ジジェクはここから出発してかなりこなれた哲学的・倫理的立場、つまり、(とりわけラカンやヘーゲルやハイデガーのうちに)思想史的基礎づけを持ち、理論的・論理的に首尾一貫した哲学的/倫理的立場を形式化・図式化することに成功している。第一部の目的はこの図式を出来る限り形式的にそれとして示し、可能な限り正当化することである。

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第二章 「否定的なもの」をめぐる思想小史
第四章 ジジェクのイデオロギーと主体の理論

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. 本節の伝記的叙述につき個々の叙述の出典を明記するのはあまりに煩瑣なので差し控えるが、本節の記述は、文献リストの「ジジェクに関する伝記的記述」欄に挙っている文献およびŽižek and Daly[2004:Ch.1]を参照し、それらをまとめたものである。
2. ジジェクはこれも―もちろん、ジジェク自身がこの語を使っているわけではないが―「黒歴史」と見なしているが、この「差異の苦痛」という語がジジェクの根本思想との確かな関連のもとに使用されている例があることも見逃すべきではない(cf. Žižek [2008b:xlix])
3. だが、ジジェクは度重なるオファーにもかかわらずアメリカでテニュアを得ることはしていない、曰く、本国で教育義務なしの職があるのにわざわざどうして教育義務を負わなければならないのかとのことである。ジジェクは客員教授であるときも単位を初めから約束するなどしてレポート提出を減らし、オフィスアワーを授業直前に設定したり、更には適当な名前で欄を埋めてオフィスアワーがすでに予約でいっぱいであるかのように見せかけるなどして極力学生との接触を減らしている。また、これは自らが「権力の儀式」への信じられないほどの抵抗を抱えているという個人的病理について語る文脈で述べられたことだが、学生が自らの卒業論文を擁護する会議といったスペクタクルめいた儀式など不要であり、さっさと書類にだけサインしてレストランに行ってよい食事でもしようという。
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