序論 「否定的なもの」の問いに向けて:緒論―はじめに

 本稿はジジェクの思惟の中心的主題の解明を主な内容とするが、タイトルにおいて既に示されているように、そこにおいて本質的なのは「否定的なもの・否定性」―この二つの語を私たちはほぼ区別せずに同じものとして用いる―をめぐる問いである。思惟に一つの使命があるとすれば、それはそのものが私たちをもっとも遠くにまで、人間にとって可能なものの最果てにまで連れていってくれることだろう。私は「否定的なもの」という概念こそがその任を果たすことが出来るということに賭ける。本稿はその賭けの遂行である。

 本稿で私(たち)―というのは、私たちなど恐らく未だ存在しないからだが―は「否定的なもの」に様々な角度からアプローチすることで、「否定的なもの」をめぐる問いの伝統を持ち堪え継承し、「否定的なもの」をその多面性において明らかにし、それにそれが本来保持しているはずの絶対的中心性を返還する試みの最初の遂行を行う。それにあたってジジェクが一人の道先案内人として立ち現れてきたのである。

 かくして私たちはジジェクの思惟の展開に移る前に、私たちの問い、「否定的なもの」の問いにおいて何が意図され、何が問われているのかの輪郭を明らかにするべきだろう。序論を構成する4つの章、とりわけ第一章がそれに充てられる。

 序論では、第一章「「否定的なもの」の問いとは何か」において私における「否定的なもの」の問いの生成過程を追いかけ、この問いにおいて意図されている事柄、問われているもの、そこに賭けられていること、その端緒を明らかにする。

 第二章「「否定的なもの」をめぐる思想小史」では今の時点で可能な範囲で極めて不完全ながら「否定的なもの」をめぐる思想史が展開される。私たちの本来の研究はこの思想史を完成させることであるとも言えるかもしれない。

 この過程を通じて私たちの概念化する「否定性」の意味するところは、それぞれ形と大きさを微妙に異にしつつ重なりあう幾つもの層のような形、ちぐはぐな重層構造とでもいうべき形態を成すようになる。それを一息に言い尽くすことは出来ないし、この幾つもの層を一つの「否定性」なる語が射当て抜き、そうして一つにまとめ上げうるのか、つまり、「否定性」概念の統一性を保持すること可能かどうかをめぐる闘いが将来の研究における本質的な難点を形成するだろう。

 第三章「ジジェクへの導入」ではジジェクについて伝記的事実を含む一般的な紹介や注意を行い、また前章の流れを受けて思想的継承関係からジジェクを歴史的に位置づけ、その基本的問題構成を明らかにする。

 最後に第四章でジジェクの議論のうちで比較的よく知られており具体性も高いために入り口として役立つイデオロギーの理論を展開し、本稿主要部分への導入とする。

 本稿の主要部分はジジェクの哲学と倫理を取り扱う第一部とその政治との取り組みを扱う第二部に区分される。第一部では「否定的なもの」が直接に「否定的なもの/否定性」として、あるいはジジェクによるラカンの転用に従って〈現実的なもの〉として立ち現れ、また第二部では「否定的なもの」が「政治的なもの」として探求される。ジジェクの政治はやはりジジェクの哲学の応用である。これ以上の詳細は各部の冒頭で叙述される。

 本稿の「区分」をめぐる言葉遣いについてあらかじめ述べておく。本稿は序論・第一部・第二部の三部構成であり、それぞれのうちに「緒論」と四つの「章」を含む。「章」のひとつ下位の区分が「節」であり、1,2,3…の数字で表現される。「節」のさらに下位の区分が「項」であり、それは1-1、1-2、1-3…、時には更に細かく1-1-1、1-1-2という形で表される。

 さらにいわゆる「凡例」として括弧の用い方を明らかにしておくと、「」は引用に用いるが、単なる語句の強調のためにも使用する。また「」は論文名をも表し、他方『』は書籍名を示す。[]は引用文中における引用者による付け足しと注記に用いる。〈〉は主にジジェクが英文中で書き出しを大文字化している単語であることを示す。それはジジェクがその語彙を独特な術語として用いることを表現している。

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スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)
第一章 「否定的なもの」の問いとは何か―ドストエフスキーとキルケゴールからヘーゲルへ

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