第二章「行為」の政治―ジジェクにおける「哲学的/精神分析的」政治とその挫折

 さて私たちはジジェクによる哲学の政治への適用の最初のまとまった形態、そして恐らくはもっとも直接的な形態である「行為(act)」の政治を追跡していくことにしよう。

 それはジジェクのイデオロギー理論を振り返り、「行為」の政治をそれに対するジジェクの存在論に基礎づけられた出口の提示、イデオロギーの彼方をめぐる第二の出口として考えるときにもっとも整理された形で果たされるだろう。

 かくして本章では第一節でジジェクのイデオロギー理論の要点を振り返り、第二節で第一部の成果からするイデオロギーの彼方の描写を「行為」の政治として整理し、第三節で、しかし、ジジェクによる「行為」の政治の放棄について論述することとする。

1、ジジェクのイデオロギーの理論の振り返り

 さてジジェクが英語圏の舞台に登場した著作である『イデオロギーの崇高な対象』の主張の一つはラカンを媒介にしたイデオロギー批判の再構築であった。ジジェクによると当時は今やポスト・イデオロギー時代であるとの議論が盛んであり、確かに人々はイデオロギー的大義から距離を取るシニカルな主体になっているように見えていた。

 だが、これに対してジジェクは、アルチュセール流の物質的実践に具現されているイデオロギーという考えを引き合いに出して、「自らがおこなっていることを知らない」という虚偽意識としてのイデオロギーの定義に関して、決定的なことは「知らない」ではなく「おこなっている」ということであると主張する。

 ある「おこなっている」ことを可能にするような先行的な視座、世界の把握、アルチュセールならば主体と世界との想像的関係と呼ぶような次元にイデオロギーは存在しており、そういうものとしてイデオロギーは物質的実践のうちに具現されている。だから、もし「おこなっている」ことを「知っている」としても、「おこなっている」以上は依然として主体はイデオロギーのうちにあるかもしれないのである(Žižek [2008a:Ch1])。

 なぜジジェクはこのようなことを主張してイデオロギー批判の継続を訴えるのだろうか。もしもイデオロギーがもはや無いとすると、私たちは「客観的」に世界を見ていることとなり、現に不満や不平の噴出が無いとするなら政治的変革のいかなる可能性も無いということになる。まさしく「歴史の終わり」である。

 だがジジェクはそう考えないが故にイデオロギーの現存を主張する。ジジェクあるところで述べるところによるとフランシス・フクヤマに反対するべきなのはフクヤマが「十分にヘーゲル的ではない」からであって、ヘーゲル的な視座からすればある体制が完成にもたらされる時は同時にその体制を解体する裂け目が出現する時でもある。

 ではジジェクは具体的にどのようにイデオロギーの存在を肯定し、そのメカニズムを説明するのか。ジジェクはラカン派として、そしてより一般的には「言説的転回」を通過したものとして、人間的世界にあってはいかなるものも言語による媒介を通じてのみ現れることを受け入れるから、ある種のマルクス主義のように物質的な下部構造によって規定される「客観的」利益が虚偽意識としてのイデオロギーによって隠蔽されているとは主張出来ない。言説的媒介なしの「客観的」利益は語りえない。ではどうするか。ジジェクはイデオロギーは言説的領野、〈象徴界〉に不可避に走る裂け目としての〈現実界〉を隠蔽するとするのである。ジジェクはこの要点を以下のように簡潔に表現している。

ここにマルクス主義との差異がある。支配的なマルクス主義の視座からするとイデオロギー的な視線とは社会関係の全体性を見落とす部分的な視線だが、他方ラカン的な視座ではイデオロギーとはむしろ自らの不可能性の痕跡を断固として消し去ろうとする全体性のことを指し示す。(…)フロイトにおいてフェティッシュは象徴的ネットワークがその周りに分節される欠如(「去勢」)を隠すのである。(Žižek [2008a:81])

 この「欠如」の隠蔽、「欠如」としての〈現実界〉の隠蔽であるイデオロギーとはいかなることかという問題が序論第四章の解明の中心にあった。私たちの解釈するところジジェクの思惟の中心点は、この「欠如」をヘーゲル的な主体の「否定性」から読解することであり、主体が否定性として自己距離、一切の肯定的なものからの距離である限りで、主体は〈他者〉のうちで〈他者〉の欲望の謎に直面して確固たる地位をもつことが出来ず、どのようなものにも満足出来ず、永遠に不安定で不満足な状態にとどめおかれつづける。

さて、イデオロギーはこの「不可能性」を隠蔽するのであって、その決定的な仕方が「幻想」と「享楽」の概念の転用によって記述された。すなわち、イデオロギーは「ユダヤ人」のような「欠如」の原因となっている肯定的対象を措定したり、これまた外敵による「享楽の盗み」を物語ったりすることで、「享楽」が可能であるかのような「幻想」、「欠如」が取り除かれ〈他者〉が一貫した秩序になるかのような「幻想」、自己一致の「幻想」を作り出すのである。今は無いにせよ、どこかで欲望の究極の対象としての〈物〉に出会うことが出来るというわけだ。

 ジジェクに言わせると「主体の欠如」という事態、主体の不安定状態を最大限に現実化する経験的体制が「資本主義」であり、だからジジェクは旧ユーゴ諸国における、ジジェクの観察によると「享楽の盗み」の「幻想」を中心とするナショナリズムの猖獗の究極的な原因を「資本主義」の不安定化作用に見てとっている(Žižek [1993:Ch6])。

 さて、イデオロギーのメカニズムが以上のようなものであるとすると、イデオロギー批判は「欠如」を穴埋めしてしまう「幻想」に対して「欠如」の先行性、「否定性」の先行性を主張すること、「原初の不可能性を再度断言する」(Žižek, Daly [2004:70])ことになるだろう。「不可能性」「欠如」「否定性」こそが先行しており、社会を閉域化すること、「歴史の終わり」はそもそも不可能である。ということはつまり常に変化と変革の可能性があるということである。そのことがイデオロギーによって隠蔽されている。

 ところで、ジジェクにとって「否定性」は「死の欲動」と同義であるから、ここでジジェクは『文化における居心地の悪さ』のフロイト、そこでより大きな統一を目指す「生の欲動」に対して頑強に抵抗する「死の欲動」を対置したフロイトを読み替えていると見ることが出来る。

 だからジジェクにとって精神分析の政治に関する「究極の達成(…)は全ての安定した集団的結びつきに脅威をもたらす破壊的な力、「否定性」の輪郭を識別したことである」 (Žižek [2012:963])。この閉域化の不可能性を承認する政治的立場が必要であり、ジジェクはそれをある時は権力の場所を「占拠することの不可能な空虚な場所」(Lefort [1986:279])と見なす、つまり、その時々の権力が究極的には無根拠であることを承認する体制としての「民主主義」に見いだしている。

2、第一部の視座から―「行為」の政治とその周辺

 さて、ここまでは序論第四章も到達していた。今や第一部の成果に従って私たちはこの議論をジジェクのより広い哲学的・存在論的議論から捉え返すことが可能であり、またイデオロギーの彼方をめぐるジジェクのもう一つの議論を理解する基礎を既に持っている。

 序論第四章と第一部を関係づけるというときに、まず第一部の議論と政治・社会的な次元がいかに関係しているのかという問題が生じる。このことと関連してジジェクにしばしば寄せられた批判の一つとしてジジェクは「精神分析」を「政治/社会」理論に応用しているが、「精神分析」は特殊な環境で行われる基本的には個人的な実践であって、それを「政治/社会」的次元に単純に応用することが出来ないというものがある。これに対するジジェクの公式的解答を見ることで上の問題に一定の解答を与えることから議論を始めよう。

 ジジェクの考えるところ精神分析は象徴的領野を主題としてその内における主体の地位を、つまり、言語と人間主体の関係を問題にするものとして、そもそもからして単に個人的なものではなく社会的次元を取り扱っている。精神分析の問題は「主体がその「正気」、「正常な」機能を保つためには、制度化された実践と信条という外的-非人格的な社会的-象徴的秩序はいかに構造化されなければならないか」(Žižek [2009a:6])というものなのであり、精神分析は象徴的なもの、言語と人間の関係を取り扱うものとして、初めから社会的である。

 おそらくこう言っただけで全てが解決されたわけではないが、さしあたり第一部的なジジェクの精神分析の影響を受けた哲学と政治的社会的次元の関係づけは無根拠な飛躍というわけではなく、「言語」という問題を媒介にして成り立っているとはいえるだろう。

 さて具体的な関係づけへと踏み入っていくと、出発点となるのはジジェクがカントを「欲望の主体」の立場としてイデオロギー「幻想」の立場と並行的に見ているということである。人間は欠如として欲望であるが、「幻想」は欠如の原初性を否定し、それを経験的な原因に帰着させ、もって彼方に〈物〉との出会い、「享楽」が存在することを確言する。

 他方のカント的主体も超越論的主体として「空虚」であり、自己への距離であり、そういうものとして無条件的なもの、つまり経験を超えたものへの絶えざる衝迫、理性/欲望だが、カントはそれが目指す経験の彼方に「物自体」ないし叡智界、つまり、神や理念や叡智的な自己の次元を想定する。だがそれに到達することは出来ない。

 これがまたジジェクからすると「幻想」の論理に特有のあり方である。というのも、「幻想」は「享楽の盗み」などの物語を組織することによって「享楽」ないし〈物〉の「喪失」を物語ること、つまりその到達不可能性を物語ることによってのみ、それらの存在を確言するからである(Žižek [2008d:Ch1.4][2008d:Ch1.6])。だから「幻想」は〈物-享楽〉の定立であると同時にそれから距離を取ることである。距離を取ることでそれが「喪失」されたものとして存在すると確言することである。

 というのも、この距離を無くしてしまうと、〈物〉の場所に到達してしまうと、ここがジジェクがカントに対してヘーゲルを対置するところだが、〈物〉は実体的充実ではなく絶対的な否定性として空虚であること、欠如ないし否定性しかないこと、「主体という無しかない」ということが分かってしまうからである。それは「享楽」ではあるにせよ、致死的な「享楽」である。こうして〈象徴界〉ないし〈他者〉の非一貫性、それへの主体の包摂不可能性を隠蔽するはずだった超越的な〈物〉の「幻想」は「横断」されることになるわけだが、こうして〈他者〉が存在しないこと、その支えの無さ、現象そのものの非一貫性・偶然性が可視的になる。

 そしてジジェク曰く「幻想は欲望を欲動から隔てる遮蔽幕である。それは欲動がその周りを廻る空虚を欲望に構成的な原初的喪失として(誤って)認識することを可能にしてくれる」(Žižek [2008d:43])のだから、「幻想の横断」は欲望から欲動への移行である。

 欲望は到達不可能な超越的な〈物〉、喪失されたものとしての対象に紐づけられ、それに到達しえないために決して満足することが無いが、他方で欲動は「幻想を横断」して〈物〉の空虚を見抜き、その空虚の周りを堂々めぐりすることから満足を引き出す。欲動の「目的(aim)」はその「終着点(goal)」、つまり対象への到達にあるわけではない(Žižek [1991:5])。

 対象aは欲望から欲動への移行において「喪失された対象から対象としての喪失そのもの」(Žižek [2008e:328])へと形を変える。欲望は欠如ないし否定性に直面してそれを隠蔽して超越的で到達不可能な喪失された〈物〉へと書き込み直すが、欲動は欠如ないし否定性を、喪失そのものを享楽する、つまり、それと「和解」しているわけである。欲動は実体に内在する主体性、存在者の直中にあってその現象を可能にする「否定性/無」、「穴、存在の秩序の中の裂け目のまわりを循環する」(Žižek [2008e:327])。

 では、以上の議論からイデオロギーの彼方をいかにして考えることが出来るのだろうか。ジジェクにあって三つのレベルを区別することが出来るだろう。第一は前節末尾および序論第四章でも言われていたイデオロギーの彼方の最初の形象の更なる根拠づけであり、主体を先行する「空虚/欠如/否定性」として定立することによって、それを穴埋めする幻想から主体が距離を取りうること、幻想の偶然性が認識可能であるとすることである。

 この立場とジジェクの「民主主義」という語への肯定的立場取りは結びついており、だから初期のジジェクは「民主主義」の主体は「空虚なデカルト的主体」であるとする(Žižek [1991:Ch9])。

 民主主義は権力の場所を空虚にして社会の開放性を保ちつづけるが、それは主体の空虚と相関的であり主体の空虚によって可能であるというわけである。ここでジジェクは主体の否定性を伝統その他の外的なものから距離を取る積極的な能力という側面を中心に解釈している。これは「啓蒙」的であって、ジジェク曰く、「〈啓蒙〉の根本的身振り」は「伝統の外的な権威の拒絶と否定的な自己関係の空虚で形式的な点への主体の還元」である(Žižek [1991:169])。

 第二はイデオロギーの彼方の第二の形象であり、一言でいえば「行為」である。これは主体の否定性のよりラディカルな解釈に基礎付けられており、「直接的破壊の意志」である「死の欲動」の果てまで行くことによって「幻想を横断」し、象徴秩序の中心にある〈現実的〉な空虚としての〈物〉、絶対的な否定性に触れ、この「象徴的世界の終わり」から「無からの創造」によって新たな象徴秩序、世界の象徴的分節化を生み出すことである。

 というのも、この否定性は象徴秩序の創設を原初的に可能にしたものであり、それを再び通過することは象徴化のはじめのはじめからのやり直しとなるからである。これがジジェクからする「死の欲動」の「直接的破壊」と「無からの創造」の二重性の解釈である。ジジェクはある時期までこれと同じことが集合的に起こることとして現状に対してラディカルな切断を生み出す政治を構想しようと試みた。

 さて、第三は第二から派生するものであり、この「行為」による象徴秩序の再創造という変革のモデルに、変革以前と変革以後の世界と主体のあり方の質的差異の問題が付け加わる。そこになにか理論的に特定しうる差異があるのか。それとも確かに一時は「〈他者〉は存在しない」ことが垣間みられるが、その後に本質的には以前と変わらない秩序が出来上がるのか。それはつまり「次の朝(the morning after)」の問題である(Žižek [2007:133])。これが今までも取り扱われてきた欲望に対する欲動の立場の問題であって、これをジジェクはキリスト教論を通じてさらに明確化しようとした。

3、「行為」の政治の諸問題とその放棄

 さて、私たちは本節でジジェクが「行為」を政治的モデルとしては放棄するに至る過程を追跡するが、第一項で「行為」の政治に寄せられるべき批判をいくつか取り扱い、第二項で放棄の直接の原因となったと見られる論点を取り上げよう。

3-1、「行為」の政治の諸批判

 「行為」の政治はよく批判されるところであって私たちのここでの検討もそれらを反復するものとなる。とはいえ単に繰り返すだけではなく、その問題性の原因を「否定的なもの」の存在論という観点から捉え直してみる事としよう。

 ジジェクの「行為」は「否定性」から考えられており、象徴秩序の無根拠が露わになりつつ新たな基礎づけの決断が為される契機として、Marchartの言葉を借りればポスト基礎付け主義的な思想に特有の「政治的なもの」の一形象であって、その一つの起源はハイデガー的なSeynにあると見ることが出来る。

 では、この「否定的なもの/Seyn」としての「政治的なもの」を「政治」に適用することの困難は何か。それは結局、存在者に関わる領域、オンティッシュな領域を取り扱う事が出来ないということである。

 より詳しく見ていこう。これを「政治」に適用すると相互に連関する四つの帰結が生じる。第一に「政治的なもの」という決定的な契機の出現についてオンティッシュに規定される「現状」とのラディカルな切断が強調される。否定的なものないし存在が存在者から説明されないように、「政治的なもの」も政治状況から説明されない。

 だがそうだとすると、確かにラディカルな政治的変革にそのような契機が存在するとしても、そのような「変革」を単に主張するだけでは、具体的な政治状況の分析や具体的な政治活動にはつながらずに「政治的なもの」の契機の生起を待つべきだということになりかねない。あるいはさらに具体的な政治状況から身を引き剥がした方が「政治的なもの」の生起に対して開かれてありうるとすら言えることになる。

 第二に逆の問題も存在する。それは誤ったタイミングで今まさに「政治的なもの」の契機が生起しているのだと先走ってしまうこと、偽の「出来事」に身を委ねてしまうことである。これが、ジジェクがハイデガーによる政治参加につき、「正しい一歩を間違った方向(ナチス)に踏み出した」と評価する理由である。

 ジジェクにとっても最終的な無根拠性の引き受けから発する政治参加が「正しい」のだが、それが踏み出した先(ナチス)は間違っている。だが問題は、どう「正しい」方向と「間違った」方向とを区別するかだろう。ジジェクは自らのイデオロギー理論を敷衍して、ナチスのような外敵の排除はまさに体制の無根拠を隠す幻想であり、その無根拠を引き受けきっていない点で十分にラディカルではなく誤りだと主張する。これは理論的には一貫しているにせよ、この弁別特徴だけでは「正しい」と「間違い」を区別する上であまりに貧弱である。

 第三には「政治的なもの」の帰結についての予測不可能性が強調される。「政治的なもの」は私たちが「現実」とみなすものを規定する枠組み自体を変革するから、当然「政治的なもの」の生起以前に後の事態を予測する事など出来ないし、それを評価する事も出来ない。評価基準そのものが変革されてしまうのだから。だが変革以後に何が生じるかを明らかにしてそれが肯定的な変化である事を示せなければ、それを支持するいかなる合理的な理由も存在せず、現実的にいって理解と支持を得る事は出来ないだろう。恐らくここで最終的無根拠性を云々することもさほど助けにはならない。

 第四に「政治的なもの」の契機を称揚するだけでは「肯定的」/オンティッシュな政治体制を評価するいかなる評価基準も生じない。それはそこに生じる無根拠性の露呈と変化のラディカルさ、「否定的なもの」の経験を称揚するに留まり、より良いもののための変化ではなく変化のための変化を求める事になりかねない。それは「現実政治」の側から見られるならばやはり倒錯的な論理だろう。肯定的な体制の評価基準を少なくとも哲学そのものからは生み出しないことは「行為」の政治に限定されないジジェクの政治の克服しえない限界である。

 「行為」によるラディカルな政治は、かくオンティッシュなものと切断されており、「出来事」の到来を待つ静観的態度や決断主義などなどと親和的と目されて多くの批判を招いてきた。「決断主義」ということについて言えば、ジジェクの存在論的立場からすれば最終審級において決断でないものなど存在しないし、従って、正確に言って(おそらくは『存在と時間』にも当てはまることだろうが)「行為」の政治が主張するのは、単に「決断せよ」ということではなく、むしろただ「決断」のみが可能である場所、否定的/〈現実的〉なものの場所、全き無根拠の開けの場所を経験するのが真の「政治(的なもの)」であり、そこに至らなければならないということである1)それゆえ、「決断主義」に関しての立場の差異は、以下の分岐点に従って区分されるべきだろう。第一の分岐点はSeynや「否定的なもの」のような絶対的な無根拠・深淵の契機の人間性に対する構成的性格を存在論のレベルで認めるか否か。これを認めない立場なら恐らく特に困難もなく普遍主義的な規範を主張することが出来るだろう。第二は、そのような契機を認めたとして、それにどう対処するかである。つまり、それを称揚するのか、それを不可避のものとして最低限必要なだけ甘受するのか、それともそれが爆発してしまわないように調整ないし抑圧に邁進するのかという差異である。

 だが、こういったからといって第二点で指摘したように、間違ったタイミングでの決断、間違った方向への決断を全て排除できるわけではない。私たちがここで多くの批判者よりもジジェクに共感的であるとすれば、それは私たちがジジェクの「哲学」の次元での「否定的なもの」への取り組みを基本的に支持しているからである。その見地からすれば、確かに「行為」の語で名指されるような変化が存在するだろうし、おそらくラディカルな変革において現前するだろう。そしてどんな秩序も究極的にはこの無根拠な「行為」の、決断の、否定的なものの肯定的なものへの転化に他ならない。

 先に見たように、これがハイデガーが「存在」につき決断を云々する理由の一つだろう。つまり、Seynは深淵で無根拠だから、そこにおいて新しい存在の開示様態に関してなされることは「決断」と呼ばれなければならない。こうして確かに、「行為」のどこかしらEreignisを継承する「否定的なものの生起」と「無からの創造」は一切の革命の革命性、一切のラディカルなもののラディカルさを純粋に抽出したものであるように思われる。だが、私たちとしても、それを「目指すべきこと」として政治の次元に適用することが妥当とも思わない。それは生起するだろうが、集合的に目指すべきこととして定立されるべき何かではないのである。

 このような諸困難の中にあって、最終的にジジェクが「行為」の政治を放棄した、あるいは少なくともその重点を変えた理由は、「行為」を「目指すべき」であるとすることに伴うある種の破壊性の過剰である。それを次項でみることにしよう。

3-2、「純化/破壊」と「引き抜き」

 ジジェクは2005年に以下のように発言している(Žižek, Badiou [2009:88-89])。近刊の”The Parallax View”において自分は「私の普段の立場から離れる一歩」「私にとってとても辛いものだった一歩」を踏み出した。というのは、私は今まで「真正の・本来的な経験そのもの」は「かつてラカンが分析過程の終わりまでいくことと呼んだもの」だと考えており、ここからが重要なことだが、「疑いを持ちつつも、このプロセスは政治的なものでもあり、一切の政治的活動はこれと連関するとさえ、自分に対して言い聞かせてきた」。

 しかし、いまはそれを「放棄した」。「精神分析の結論が政治的活動の真正な形式であるとは、私はもはや信じない」。これが「行為」「幻想の横断」「主体の解任」といった語彙から「政治」を考えることの放棄を指していることは明らかだろう。

 こう述べつつジジェクがそのきっかけとして指示しているのが、バディウの『世紀』でなされた「純化と引き抜きという二つの論理の区別」である。「引き抜き(subtraction)」はバディウにおいて多義的なものであるようだが、この概念を私たちはさしあたりジジェクが受け取った限りで扱うことにしよう(eg. Žižek[2008b:lxxii-lxxxi])。

 バディウは二十世紀を特徴付ける態度として〈現実的なもの〉への情熱を挙げる。本当に現実と言えるものに接触しようという情熱である。二つの論理の区別はその情熱の悪しき形態と良き形態を区別するもので、悪しき形態とは「純化/破壊」であり、それは私たちの日常的現実性を「本当に現実的ではない」として、〈現実的なもの〉を目がけて現実性の「皮を剥いていく」(peel off)。だが、実際のところ真の現実をそれとして隔離することは不可能である。それとして取り出され得たものはその時点ですでに本当に〈現実的〉であるという地位を失うだろう。〈現実的なもの〉は究極的には〈空虚〉であり、従って、この探求のあり方では〈空虚〉へ向けた肯定的な現実性の際限のない破壊を帰結することになる2)この二つの論理の区別の承認が精神分析からする政治の放棄を導いたということは、とりもなおさず、「行為」「幻想の横断」「主体の解任」といったジジェクの理解する「精神分析/哲学」が純化・破壊の論理に近いことをさしあたり認めたということを含意するように思われる。残されている問題は、このことを認めたことがジジェクの「精神分析/哲学」にどう跳ね返るかということである。純化の論理は政治的には問題的だが「精神分析/哲学」では認められうるということなのか。そうであるのだろうが、それに加えてジジェクの試みようとした回答は「純化・破壊」は「欲望」の論理であり、「欲動」はこの論理を逃れている、というものであるように見える(eg. Žižek [2009:94-96])。だが、そうであるとして、私たちの第一部の解明によれば、「欲動」は「欲望」の立場の最後までいった後にあるものなのではないだろうか。この辺りはまだ少なくとも私たちにとっては未解決な問題を提起しているといえるだろう。

 対して「引き抜き」の方は、私たちにはまだ理論的に不鮮明なところがいくつかあるのだが、それは脇において簡潔にポイントを述べてみると、ジジェクの把握する限りでは、まずもって一切の肯定的規定を「引き抜い」た〈空虚〉を一種の前提として出発し、その後で、この〈空虚〉の場所を占める肯定的要素を現実の中から特定し「引き抜く」という理論構成を取る。この要素は〈空虚〉の場所を占め、それ自体〈現実的〉である。この理論構成では〈空虚〉へ向けた肯定的なもの一切の破壊という自己破壊的な事態は起こらないし、その引き抜かれる要素は現実性の一部だから、現実性ないし状況との一定のつながりを再構築できる。

 では、この論理は結局何を意味しており、そこからどのような政治的結論を引き出すことができるのだろうか。これが結局「例外」である「普遍性」の論理としてジジェクが強調しているものである。以後二章はこの論理の解明を目的とする。この論理そのものの検討に入る前に、ジジェクから見るとこの論理と対称的な論理―そのために、この論理を解明するにあたって出発点として非常に有益な論理―を展開しているエルネスト・ラクラウの政治理論に触れておくべきである。かくして次章はラクラウのヘゲモニーの理論を扱う。

前後のページへのリンク

第一章 「否定的なもの」と「政治的なもの」
第三章 エルネスト・ラクラウの政治理論―例外を通じて構成される普遍性

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. それゆえ、「決断主義」に関しての立場の差異は、以下の分岐点に従って区分されるべきだろう。第一の分岐点はSeynや「否定的なもの」のような絶対的な無根拠・深淵の契機の人間性に対する構成的性格を存在論のレベルで認めるか否か。これを認めない立場なら恐らく特に困難もなく普遍主義的な規範を主張することが出来るだろう。第二は、そのような契機を認めたとして、それにどう対処するかである。つまり、それを称揚するのか、それを不可避のものとして最低限必要なだけ甘受するのか、それともそれが爆発してしまわないように調整ないし抑圧に邁進するのかという差異である。
2. この二つの論理の区別の承認が精神分析からする政治の放棄を導いたということは、とりもなおさず、「行為」「幻想の横断」「主体の解任」といったジジェクの理解する「精神分析/哲学」が純化・破壊の論理に近いことをさしあたり認めたということを含意するように思われる。残されている問題は、このことを認めたことがジジェクの「精神分析/哲学」にどう跳ね返るかということである。純化の論理は政治的には問題的だが「精神分析/哲学」では認められうるということなのか。そうであるのだろうが、それに加えてジジェクの試みようとした回答は「純化・破壊」は「欲望」の論理であり、「欲動」はこの論理を逃れている、というものであるように見える(eg. Žižek [2009:94-96])。だが、そうであるとして、私たちの第一部の解明によれば、「欲動」は「欲望」の立場の最後までいった後にあるものなのではないだろうか。この辺りはまだ少なくとも私たちにとっては未解決な問題を提起しているといえるだろう。
Scroll Up