第四章 例外である普遍性―ジジェクの普遍性概念

 さて、本章で私たちはジジェクによる「普遍性」概念の構築と、それが描き出す政治的変化の形式的構造の論理を描き出すこととする。それにあたって前二つの章から持ち越された課題がある。

 第一に、「行為」の問題性、オンティッシュな次元と関係付けられておらず、またそれを目指すにあたって際限のない破壊性を伴いうる「純化」の論理に親和的であるという問題性を克服することであり、第二に、ラクラウに対するジジェクの批判に対応して、ラクラウ的なポピュリズム、つまり、例外によって構成される普遍性とは別の政治の論理を提出することである。この課題に答えるのが「例外である普遍性」の論理である。

 以下では第一節でジジェクによるこの概念の彫琢を再構成し、第二節では近年のジジェクによる具体的適用を整理しておくとしよう。それをもってジジェクの哲学と政治を「否定的なもの」という一貫した視座から解明する本稿は締めくくられることとなる。

1、普遍性概念のジジェク的構築

 ラクラウとの対照関係から出発しよう。バトラーとラクラウとの論文の応酬からなる著作で、ジジェクはラクラウの普遍性概念をまずもって「空虚」であり、それを特殊な諸内容がヘゲモナイズしようとする(が究極的には失敗する)というヘゲモニーの普遍性として把握した後で、この二項関係を問題にするだけでは十分ではなく、「何よりもまず」、「どんな隠された特権化や包摂/排除が、この[普遍性の/という]空虚な場所そのものがそもそも出現するために起きていなければならないのか」(Žižek, Butler, Laclau [2000:320])を問うこと、もっと簡潔に言えば、「普遍性そのものの場所の謎めいた出現を説明すること」(Žižek, Butler, Laclau [2000:104])が問題であるとする。

 ここでジジェクは、あたかもラクラウがそのことを全く問うていないかのように言っているようにも聞こえるが、もちろん、前章で確認したようにラクラウもこのことをある仕方で問うていた。では、ジジェク自身によるこの問いへの答えの練り上げを見てみよう。それは一面でラクラウと類似したものである。というのも、その焦点はやはり「主体」と「排除」だからである。

 既に今までも述べられた通り、ジジェクにとってラクラウのヘゲモニーとポピュリズムの論理は「幻想」の論理であり、この理解に従って一方ではジジェクはラクラウと同様の議論を展開する。つまり、「主体の欠如」とそれを外在化する「敵」の排除が、幻想の普遍性・十全性を可能にするというわけであって、この議論のラインに沿う形で、ジジェクは空虚な普遍性がある特殊内容によって占められてヘゲモニーの普遍性が成立している場合、常にある排除された要素が存在し、その排除がヘゲモニー的な普遍性を支えていることを指摘する(Žižek [2000a:181])。

 両者の話が分岐するのはここからである。ラクラウはこのヘゲモニー的普遍性の構築、「人民」の立ち上げをラディカルな政治そのものとして擁護するが、他方のジジェクはというと、この普遍性は「幻想」のイデオロギー的論理として理論的には受け入れがたいものである。だからジジェクはここで価値評価を逆転させて以下のように言う。すなわち、ヘゲモニー的普遍性が成り立つために排除されているものこそが真に普遍的なのだ、と。この言明にはいかなる根拠があるのだろうか。ジジェクはいくつか理由を挙げてこのことに説得力を持たせようとしている1)その中には例えば、普遍的な人権というものがあるとして、そこから排除されている人々がいるなら、人権の普遍性そのものを体現できるのは、その排除された人々だけであるといった議論もある。というのも、その時点で人権が普遍的なものとして自らを示すことが出来るのは、その排除された人々を包摂することによってのみだからである。。ここではもっとも主要なものを扱おう。

 その出発点はラクラウとは異なる主体と普遍性の関係の解釈であり、つまり、ある仕方でヘーゲルに依拠しつつ、いかにもジジェク的な仕方で主体の否定性をこそ普遍そのものの次元と見なすことである。ジジェクによるヘーゲル的な「抽象的」普遍と「具体的」普遍の対立関係の構想から始めよう。

 「抽象的」普遍とは以前に法哲学の引用でも見た通りに、特殊なもの一切を否定する破壊的な普遍性であり、他方で「具体的」普遍とは特殊なものと調和した普遍、ジジェクが挙げている例でいえば、国家の普遍性のもとに特殊な諸個人と諸家族が包摂されており、特殊な諸家族の一員としての義務を全うすることで普遍的な国家の役に立つことにもなるといった、普遍が特殊に敵対せずに、それを含み込んでいるようなあり様を指し示す。

 例えば、ヘーゲル的な国家の構想の例で考えると、一見「欲望の体系」にすぎない、つまり私利私欲の追求にすぎない市場での活動は、実は他者の役に立つことなのであって、「第二の家族」であるヘーゲル的な職業組合はこのことを諸主体に自覚させ、それでもって私的な諸主体と普遍的な国家の媒介を形成するといった事態を示す概念である。

 だが、ジジェクの一般的な思惟の傾向に従って、もちろん、ジジェクはこのように二つを単純に対置した際に現れる「「具体的普遍」の標準的な「有機的」イメージ」はさしあたり「断念すべき」とする(Žižek [2007:130])。なぜか。ジジェク曰く、この「具体的普遍性」ではその名に反して「普遍性」の次元が「対自的」になっていない、「そのものとして措定されていない」からである。

 では、「普遍性」がそのものとして現れ見えるようになるのはいかにしてか(Žižek [2007:130][2000a:90-103][2009a:28-36])。ここでジジェクは「抽象的」普遍性を持ち出して、それはやはり否定性という形を取って、普遍性が、特殊なものを上から包摂する「もの言わぬ」普遍であることをやめ、特殊なもの・肯定的なものと同じレベルに降りてきて、それら一切を否定してしまう力として自らを現すときであるとする。

 この、否定性において普遍性の次元がそのものとして見えるようになるとは、どういうことだろうか。ここで例えばジジェクによるマルチカルチュラリズムは、ある意味でヨーロッパ中心主義であるといった議論を持ち出してよいだろう。つまり、マルチカルチュラリズムは特殊な諸文化のメタレベルに立つ普遍的な視点を前提としているが、それはデカルトのコギトによって開かれた地平であるということである。

 「否定性」であり、一切の特殊的・肯定的内容を取り除かれ、そのメタレベルに立つコギト、自らが生まれた文化を含む一切の特殊的内容を、究極的には偶然的なものとみなすコギトによって開かれた地平においてのみ、マルチカルチュラリズムなるものが可能になるというわけである。これが(主体の)否定性と普遍性の連関である。「否定的なもの」は一切の肯定的・特殊的規定を欠くことにおいて、普遍性の次元そのものを具現する。

 ここからジジェクは「排除されたもの」と普遍性の連関を構築する。というのもあるシステムから排除されたものとは、その肯定的規定を剥奪されたもの、少なくともそのシステムの側から見るならば否定性に還元されたものだからである。だが、肯定的・特殊的な規定一切を奪われていることによって、その要素は所与のシステムの中で直接に普遍性そのものを体現しうるのだし、この要素の排除がラクラウ的な論理に従ってヘゲモニーの普遍性を支えている限りで、それはシステムそのものを揺るがすものでもありうるというわけである。

 この解釈を拡張する形でジジェクは「具体的普遍」を少々複雑だが大要以下のように定式化する。まずあるのは特殊な諸要素とそれを上から包摂する「もの言わぬ」「抽象的普遍性」(1)―例えば国家という普遍的概念の中に日本やアメリカやドイツといった特殊な諸国家が包摂されるといったことをイメージすればよい―である。

 だが、ここでは普遍性はそのものとして現れていない。ここである特定の特殊な要素が自己分裂する。それは普遍性による包摂から排除される、ということは、特殊な・肯定的な諸規定を奪われて、所与の普遍性から見られるならば否定性に還元されるということである。

 しかるに、その特殊要素は特殊的・肯定的規定を失ったものとして逆説的に、普遍性そのものの次元を特殊な諸要素と同じレベルで具現する。普遍は自らの下にある特殊要素の一つにおいて自分自身に出会う。それは特殊な諸要素の一つとして、他の特殊な諸要素と同じレベルで普遍性そのものを体現しつつ、しかし、この所与の普遍性からは排除され、飛び出し、逆にその所与の普遍性を掘り崩すという逆説的要素である。

 この例外要素が所与の普遍性・特殊性のなす調和を解体する否定的な「抽象的普遍性」(2)にして普遍が特殊な諸要素と同じレベルに「具体的」に現れる契機でもある。この介入からして再び「抽象的普遍」(1)と特殊の新しい関係が再構成されなければならない。この普遍の例外要素を通じての具体化による「抽象的普遍」(1)の再編の運動全体、特殊な諸要素が分裂し、排除されつつ普遍性の次元そのものを体現して旧来の普遍を解体する運動全体が、普遍が具体的に現れることの経験としてジジェクに言わせれば真の「具体的普遍」であるというわけである2)次段落はまだしも、本段落の議論はそもそもヘーゲル解釈なのかという点も含めて、ヘーゲル解釈としては更なる検証を要する。私たちは第一部でジジェクがヘーゲルと対象a、今回でいえば、排除された特殊要素の議論を連接しようとする努力につき、検討を将来に先送りしておいたのだが、先にも見た通りジジェクもこのあたりに潜む少々の無理には自覚的であるようで、最近の著作の序文ではヘーゲルは対象aの特異性を評価しきれていないと述べている(Žižek[2012:18])。

 ここでヘーゲルに戻るとすると、こういう例外要素を通じた普遍の具体化と転覆の運動性として「具体的普遍」を捉えるジジェクは特殊的な否定的・破壊的な「抽象的普遍」(2)と特殊を包み込む有機的な「具体的普遍」を対置して前者を否定し後者を肯定するという態度を拒絶する。

 ジジェクにいわせると、むしろ、政治・社会哲学の次元の言葉でいえば、近代的国家のいわゆる「具体的普遍」に至るためには、フランス革命のテロルや戦争に極端な形で現れるいわゆる「抽象的普遍性」、否定的な主体の極端な自律における普遍の具体化をいったん通り抜けなければならない―そうしなければ普遍性の次元がそれとして現れずに前近代的な主体の自由のない有機的共同体になってしまう―という謎が、ヘーゲルにとっては問題だという。それと同様に、先にテイラーに関して私たちとしても少々触れたところだが、人倫・道徳性に関しても、人倫にいたろうとするなら人は初めに道徳性を通らなければならない(Žižek [2000a:94])。

 これがジジェクによる「例外」である「普遍性」概念の構築の概要である。まずラクラウ的なヘゲモニーの普遍性、ジジェクから見れば「幻想」の普遍性、ある例外要素の排除によって自らを現実化する普遍性がある。だが、普遍性に関する別の論理があり、それに従うと普遍性がそのものとして現れ見えるようになるのは、特殊的・肯定的な規定の剥奪された特殊な要素、「否定的なもの」に還元された例外要素を通じてである。

 所与の普遍性から排除され否定性に還元された要素が、特殊な諸要素と同じレベルに姿を現しつつ、普遍そのものを体現するのだが、それは所与の普遍に対してはそこから排除されたものとして否定的に働くものであり、しかも、ヘゲモニー的な普遍性そのものがその例外要素の排除に依拠している以上は、ヘゲモニー的な普遍性を揺るがすものである。

 この「依拠」という点に思いを致すなら、それは純粋で内在的な「敵対性」を外在化するということだったから、この例外要素の介入、それがそれとして見えるようになることは純粋な「敵対性」を、ヘゲモニーの無根拠を再び見えるようにさせること、「否定的なもの」、社会空間に内在的に開いている裂け目、ある開けそのものを再び開くこととしてジジェクにいわせると〈現実的〉なものである。この普遍は「現に存在する普遍性において何が間違っているか」を指し示すだけで「何も肯定的な内容を持たない」純粋に否定的な普遍性である(Žižek, Daly[2004:160-161])。

 おそらく以上によって以前の二つの章から持ち越された課題をさしあたり果たすことが出来たといえるだろう。つまり、ラクラウに対する批判と整合的な政治的変革の形式的論理として例外要素の「引き抜き」の論理を提出し3)ジジェクは「例外 = 普遍」の論理をバディウやランシエールにしばしば帰している。この論理に対するラクラウの側からのありうべき批判―そして実際にラクラウがしている批判―は、そのような例外要素の点を政治化するといっても、それが真にラディカルな変革効果を発揮するのはポピュリズム的な等価性連鎖への発展によってのみであるというものである(Laclau [2006])。これには一定の説得力があるだろう。、そうすることで〈現実的なもの〉、政治過程における開放性を開くことという要素を保持しつつ、排除された要素を参照することで、「純化」の論理に陥らず、また所与の状況に対する一定の関連を回復し得たからである。ただ、その射程がどれほどのものかということは明らかではない。序論第三章で触れたことを想起すれば、ある意味で当然ながらジジェクも「何をなすべきか」の「公式」のようなものを持っているわけではないのだが、この点に近づくために次章ではジジェクによる以上の論理の少々具体的な適用の試みに触れておこう。

2、「ポストモダンの共産主義」(?)

 特に金融危機以降目立つようになった近年のジジェクの身振りの一つは「コミュニズム」への回帰を訴えることである。それはいつもながらのジジェク的政治の帰結として、ポジティブな構想には重点を置いておらず、ジジェクは「コミュニズム」を「永遠のイデア」としつつも、その内容よりも、それを必要なものとする「敵対性」、「コミュニズムへの要求を作り出す現実の社会的敵対性」への参照を重視する。その敵対性が現にある以上は「コミュニズム」について再考することが不可避であるという「呼びかけ」にその重点がある。

 さて、この「敵対性」についての論究が前節の議論の具体化をなしている。順次見ていくことにしよう。その過程でポジティブな構想の基本的な欠落にもかかわらず、なぜジジェクが自らの立場を「コミュニズム」と呼んでいるのかも明らかになるだろう。

 ジジェクは具体的には大きく四つの重大な「争点 = 敵対性の地点」を見いだしている。「迫り来るエコロジカルなカタストロフの脅威、いわゆる「知的財産」との関係における私有財産の概念の不適切性、新しい技術的-科学的発展(特に遺伝子工学)の社会的-倫理的含意、そして、最後に、だからといって重要でないわけでは全くないが、新しい形態のアパルトヘイト、新しい〈壁〉とスラムの創造」(Žižek [2009c:91])である。少し後に書かれたものでは、知的財産という争点は「システム自身のうちにある不均衡(知的財産の問題、やがて生じる諸原料、食料、水をめぐる闘争)」としてまとめられている。

 さて、ジジェクに言わせると最初の三つと最後の一つは質的に異なり、最初の三つはネグリとハートが「コモンズ」と呼ぶもの、「私たちの社会的存在の共有の実体」である。

 つまり、第一に「知的財産」と名指されるものは「文化のコモンズ」であり、私たちの生きる現実性そのものを産出している「言語」その他の象徴的なものである。それは私たちのコミュニケーションと自己理解の手段であり、誰もがそれを必要としているし参与している。これが私的財産の論理で私有化されているのは問題的であるとジジェクは言う。

 第二に、「エコロジカル」な問題、すなわち自然環境は「外的自然のコモンズ」とでも言うべきもので、私たちの生存に必要不可欠なものとして全人類の関心の対象だが、それが私的な論理によって過剰に開発・搾取されている。

 第三に「遺伝子工学」の問題は「内的自然のコモンズ」とでもいうべきもので、人類が共通のものとして持っている遺伝的な遺産がこれまた私的な仕方で作り替えられたり、管理されてしまう可能性が現実のものとなっている。

 ジジェクが総括的に述べるところ「これら全てが人類自体の自己-抹消を含む、破壊の可能性」を含んでおり、この危機に瀕する「コモンズ」への参照によってコミュニズムという語の使用がさしあたり正当化される(Žižek [2009c:92])。私たちは「私たちの社会的存在の共有の実体(substance)」であるこれら「コモンズ」を喪失することで「全てを失う危険のうちにある」。

[ここにある]脅威は、私たちの象徴的実体を奪われ、遺伝的基礎に重大な操作が加えられ、生きることの出来ない環境でかろうじて生きる、全ての実体的内容を欠く抽象的な主体に還元されることである。(Žižek [2009c:92])

 あるいは、同じことをジジェクは「デカルト的コギトというはかなく消え行く点に還元される」とも言う。さて、ジジェクの哲学を追いかけてきた私たちとしては、以上のことを端的に「危険」と名指し、あるいは「危険」を以上のような言葉で表現し、それを避けるべきものとして提示するジジェクに―以前に参照したフランスでの論文集の著者の一人が適切にそうしているように(Moati [2010:70])―驚きを禁じえない。

 この文脈においてジジェクは少し先で「疎外された実体の再-獲得」という表現を私たちの読む限りでは肯定的に用いている(Žižek [2009c:99])。これは「実体は主体である」という名の下にジジェクがかつて拒否していた解決策である(Žižek [1993:Ch1])。

 つまり、ジジェクの哲学的立場からすれば、空虚な主体が実体的内容を再び自らのものとして獲得することが重要なのではなく、むしろ、実体自身の内に否定的なものとしての主体が刻み込まれていることの認識が重要なのだが、ここでジジェクはむしろ空虚な主体への還元を危険と名指し、それが実体的内容を再獲得するべきことを提案しているように見える。

 第二章ではジジェクにおける哲学と政治の分割を取り扱ったが、私たちはここにジジェクの「哲学」と「政治」の分割がまさにそのものとして現れていることを見てとらざるをえない。いや、もしかしたらここに「政治」から「哲学」への一種の跳ね返り、つまり政治的な議論における以上のような立場取りが哲学における認識と立場取りを変化させているという過程もあるのかもしれない。だが、この点はまさに現在進行形の事柄であるし、今の私たちの決しうることではない。

 とはいえジジェクはこのような主体の変革的ポテンシャルという論点は保持している。というのも、ジジェクは以上の叙述を、このような連接自体はジジェクにあって今までもしばしば為されていたが、マルクスのある時のプロレタリアートの定義、「[生産手段・生産物から疎外されているという意味での]実体なき主体性」の転用・拡張解釈として提示しているからである。

 私たちは「全て[の実体的内容]を失う危険のうちにある」ということは、ジジェクに言わせると私たちが生産手段・生産物に照準するマルクス的な意味よりもラディカルな意味でプロレタリアート化しつつあることを意味する。ここで登場するのが第四の最後の敵対性、つまり、〈排除されたもの〉をめぐる敵対性である。

 ジジェク曰く決定的なのはこの最後の敵対性である。それは他の三つと質的に異なる。ジジェクはいくつかメルクマールを挙げている。曰く、最初の三つは人類の生存に関わるが、最後の一つは正義の問題である。どれも「実体性の剥奪 = プロレタリアート化」が問題となっているが、最初の三つでは実体的内容の事実的剥奪が問題なのに対して、最後の一つでは社会空間から排除され、そこにおいて承認・表象されないこと、そうして肯定的規定が奪われることがプロレタリアート化を引き起こす。

 そして、これがジジェクの強調していることで、前節とのつながりをなす部分だが、この敵対性への参照がなければ、他の三つの「敵対性 = 争点」は「転覆的な刃」を失い、「私的なもの」に堕してしまう。曰く「エコロジーは維持可能な成長の問題に、知的財産は複雑な法的難問に、遺伝子工学は倫理問題に変わってしまう」(Žižek [2009c:98])。さらにはこれらの問題のある側面は「穢らわしい〈排除されたもの〉によって脅かされる〈包摂されたもの〉」という観点から定式化することさえ可能である。そうした場合には、問題は〈包摂されたもの〉の、つまり、社会の中で特定の位置を与えられたものの利益となり、「私的なもの」となる。

 では、なぜ四つ目の敵対性への参照は「転覆的な刃」を保持し、また「私的なもの」ではなく、「公的なもの」、つまりは「普遍的なもの」でありうるのだろうか。前節で展開されたような論理によってである。

 つまり、〈排除されたもの〉とは、それを排除すること、それを適切に見ないことこそが「内部」の整合性を支えているようなものであり(=「転覆的」)、そしてまた「内部」において分節される特殊的・肯定的諸規定を剥奪されているがゆえに「普遍的」なものであり、同じことの別の側面だが、そのような肯定的諸規定を剥奪されてあるということを基礎としているが故に、そこへの参画はどんな社会的・自然的諸規定性によって制限されておらず、誰でも主体的な決定によって参加しうるために「普遍的」であり、さらに今しがた付け加えられた私たち全員の潜在的なプロレタリアート化という論点に照らしてみれば、私たち全員の運命を直接に体現しているという意味で「普遍的」だからである。

 ジジェクは普遍性の側面を捉えて、「全ての本当に解放的な政治は[今述べたように特殊で私的な諸規定性から独立するという意味に解された、カントの啓蒙論のいう]「理性の公的使用」と[〈排除されたもの〉という]「[全体の中に]居場所のない部分(part of no-part)」との短絡によって作り出される」(Žižek [2009c:99])と指摘している。以上のように第四の敵対性への参照が生み出す「公的」「普遍的」性格、皆にcommonであることが最終的にコミュニズムの語の使用を正当化するのだとジジェクは言う。

 では、そうであるとしてこのコミュニズムとは何なのか。ここで―残念ながら(?)―ジジェクも何をなすべきかを知らないということを思い出さなければならない。ジジェクはここでコミュニズムは「理想としてではなく、敵対性に対して反応する運動としてのコミュニズムというマルクスの考え方」(Žižek [2009c:88])を引き合いに出している。ジジェクが指示しているのは『ドイツ・イデオロギー』の有名な以下の一節だろう。

コミュニズムというのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らがコミュニズムと呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。(マルクス, エンゲルス [2002:71][今まで用いた言葉と統一性を持たせるために共産主義をコミュニズムという訳語に変更した])

 つまり、この現実の状態に応答する中で、ジジェク的に言えば現在の敵対性に応答する中で、コミュニズムの具体的内容は見いだされなければならないというわけである。

3、第二部の総括

 そろそろ第二部を総括し、もって本稿を締めくくるべき時である。第二部の出発点は第一部が解明したジジェクの哲学の応用としてジジェクの政治があるということであり、具体的には「否定的なもの」をこそ優れた意味での「政治的なもの」と見なすという理論的挙措である。

 このことが第一章で説明された。そこではMarchartにならう形で、第一部の解明を引き継ぎ後期ハイデガーの基本構図から議論を始め、第一部でのハイデゲリアンとしてのジジェクという観点に従ってジジェクへと話を進めた。

 その要点は、どんなパースペクティブを持ってしても、その観点からは記述しえないもの、「否定的なもの」にぶつかる、そしてこのことは別のパースペクティブの存在を含意する。しかるに、実際のところはそのような一切のパースペクティブの前提として「否定的なもの」があるのであって、それがパースペクティブの複数性を不可避にしているということである。

 ジジェク的な概念化からすると、この「否定的なもの」が一切の秩序の「無根拠」を露わにし、それを新たな決断へと開くものとして、状況の全き開け、「一切が可能である」かのような奇跡的な瞬間を開くものとして、優れた意味で「政治的なもの」である。

 そして、このようなものに秩序が基礎付けられ、それによって貫かれている限りで、パースペクティブの複数性、経験的な意味での「敵対性/政治的なもの」の可能性が不可避である。ジジェクに言わせると「右翼」とはこの純粋で内在的な敵対性の否認であり、典型的にはその外在化である。他方で「左翼」とはこの敵対性の内在性の承認である―これがジジェクの政治的立場をもっとも広く枠付けている枠組みである。

 第二章はジジェクの哲学の最初のはっきりとした政治的応用にして恐らくもっとも直接的な応用である「行為」の概念を取り扱った。これは絶対的否定性の、秩序の無根拠の、政治過程の開放性そのものの通過であるところの「行為」を、為すべきこととして称揚するものだが、集合的という意味で政治的な概念としてはあまりに問題が多すぎ、最終的には、政治的立場を示す語彙としては放棄されることになる。そういうことが政治的な変革にあって生じることがあるにせよ、それを一種の目標とすることはやはり適切ではないのである。ここにジジェクにおける政治と哲学の切断がある。

 第三章と第四章の目的は、「行為」の放棄のきっかけとなった、「純化/引き抜き」の対置関係から出発して、「引き抜き」の論理としてジジェクが明確にしようとしたもの、ある政治的変革・政治的普遍性の形式的論理を検討した。

 第三章はラクラウを取り扱ったのだが、それは一つには、それはジジェクから見てラクラウは一種対照的な論理を採用しているため、ジジェクの論理をはっきりとさせるために有用であるからである―逆にラクラウからするとジジェク的な論理は自らの論理に転化しなければ有効性を持ちえないのだが。

 もう一つには、ラクラウの議論はやはり緻密であり、そのものとして価値を持つと思われるからである。一般的にいえば、「政治」理論家として見た時にはジジェクよりもラクラウの方が適切に「政治的」だと言えよう。ジジェクは自らの哲学的枠組みに、その切断の後ですら、強く規定されすぎている。

 第四章はラクラウの「例外によって構成される普遍性」と対比する形で「例外である普遍性」の概念のジジェク的構築に取り組んだ。ジジェクの「普遍」論はジジェクの中でもとりわけて難解なものであり、私たちも以上の叙述でその内実を掬いきれたとは思っていないし、ヘーゲルなどと対照することもまた将来の課題である。

 だが、恐らくその錯綜する叙述を適切に組み立てるための設計図は示し得ただろう。普遍というと、普遍的な概念が特殊な諸要素を自らの下に包摂しているというのが基本的なイメージとなるが、ジジェクの理論化するところ、特殊な諸要素の内には普遍の次元そのものを体現する例外要素がある。普遍は特殊な諸要素の内で自分自身に出会う。

 さて、この例外要素とは、しかし、所与の普遍の外にあるもの、それから排除されたものであって、そうして特殊的規定を奪われていることによってのみ、普遍そのものを体現するのである。だから、この例外要素の十全な現れは所与の普遍の再編を促す。それは普遍の無根拠を明らかにする「否定的な普遍性」である。この例外要素を通じた普遍の具体化と再編の運動性がジジェク特有の具体的普遍である。

 第四章の後半は、この論理の射程の評価に近づくことを一つの目的として、ジジェクによるこの論理の具体的適用を一瞥した。それは現代における「コモンズ」をめぐる三つの「争点 = 敵対性」と、〈排除されたもの〉の敵対性への参照によって「コミュニズム」と呼ばれうるもの、それらへの応答として現実に生じなければならない「運動」としての「コミュニズム」としてジジェクによって概念化されている。このことが示しているのは、要するに何をするべきかは分からない、それは現実の応答のうちで見いだされていくしかないということである。

 以上の議論の過程で注目されたのは「主体」の契機の評価に関してジジェクの哲学と政治との分断がそのものとして出現しているように見えた点である。これが単なる分断なのか、それとも翻って哲学にも何かしらの変化を与えるものであるのかという点は注意を要する主題を形成する。

 さて、以上で第二部は終わりである。第一部に比べると、それはやはり困難な道であり私たちとしても不本意な精彩を欠く叙述を行わざるを得なかったところが多くある。それは「純粋」、超越論的(あるいは、アプリオリ)、〈現実的〉といった論理には収まらない、現実のざらついた手触りとでもいうべきものの帰結ということが出来るかもしれない。

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第三章 エルネスト・ラクラウの政治理論―例外を通じて構成される普遍性
終わりに―あるいは終わりなさそのものへ

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. その中には例えば、普遍的な人権というものがあるとして、そこから排除されている人々がいるなら、人権の普遍性そのものを体現できるのは、その排除された人々だけであるといった議論もある。というのも、その時点で人権が普遍的なものとして自らを示すことが出来るのは、その排除された人々を包摂することによってのみだからである。
2. 次段落はまだしも、本段落の議論はそもそもヘーゲル解釈なのかという点も含めて、ヘーゲル解釈としては更なる検証を要する。私たちは第一部でジジェクがヘーゲルと対象a、今回でいえば、排除された特殊要素の議論を連接しようとする努力につき、検討を将来に先送りしておいたのだが、先にも見た通りジジェクもこのあたりに潜む少々の無理には自覚的であるようで、最近の著作の序文ではヘーゲルは対象aの特異性を評価しきれていないと述べている(Žižek[2012:18])。
3. ジジェクは「例外 = 普遍」の論理をバディウやランシエールにしばしば帰している。この論理に対するラクラウの側からのありうべき批判―そして実際にラクラウがしている批判―は、そのような例外要素の点を政治化するといっても、それが真にラディカルな変革効果を発揮するのはポピュリズム的な等価性連鎖への発展によってのみであるというものである(Laclau [2006])。これには一定の説得力があるだろう。
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