補論 イーグルトンとジジェク

 テリー・イーグルトンはジジェクの良い読者である。イーグルトンがあるインタビューで語るところ、ジジェクの英語圏でのデビュー作『イデオロギーの崇高な対象』をとても興奮して読み、以後ジジェクの著作を熱心に追いかけているという(Eagleton [2012:412])。

 そして実際にイーグルトンの『テロリズム 聖なる恐怖』(“Holy Terror”)は暗にジジェク論としても読めるものであって、しかもその「否定的なもの」に病的にとり憑かれている有様を描き出すものとして、私たちの視座からすれば、英語圏で出ているジジェクの研究書や入門書の多くよりもジジェクの本質に肉薄している。

 このことを簡単に示してみよう。本書は「聖なるテラー」を対象とするもので、冒頭において一方で「テロリズム」を近代の発明としつつも、他方でその先駆となるような「テラー」の形象を「聖なるもの」の概念の両義性に見いだす。

 イーグルトン曰く「聖なるもの」は、「祝福されることと呪詛されること、神聖なことと下劣なこと」「創造的であるとともに破壊的」「生命付与的でありながら致死的」であることを意味する(Eagleton [2011:3])。そしてこのようなものとしての「聖なるもの」の形象を「神」そのものから「崇高」「自由」へとたどり、それらを「自己の核心に位置する他者」(19)として位置づけつつ、「私たちが放り込まれるこの豊饒なる深淵は、結局のところ、人間主体以外の何ものでもないことが判明する」(70)とする。

 イーグルトンの述べるところ「アウグスティヌスは、人間の自己なるものが、ある種の深淵であり無限であることを見抜いた、おそらく最初の重要な哲学者の一人」であり、「現実の核心にある真のテラーとは、人間主体であり、アウグスティヌスにとって、それは一種の無である」(71)という。本書がジジェク論としても読めることを示すのには、あとは第5章冒頭の要約を引用するだけで十分だろう。

これまでの議論を要約させていただこう。聖なるものは、ヤヌス神のように二面性を備え、ふたつの異なる力を同時に体現する。すなわちそれは、生を付与するともに死をもたらすものであり、このことは、ディオニュソス神のオルギアから、崇高なるもののもつ破壊的な惑溺状態に至るまでたどることが出来る。近代後期の文明にとって、この聖なる力の根源的化身は、無意識、死の欲動、〈現実界〉として知られている。この奇怪な両義性は、ユダヤ=キリスト教の系譜にとって、神の聖なるテラーのなかに、その典型的形象を見出すのだが、それはまた自由という近代的概念の根底にも見出すことが出来る。(179)

 これはジジェクの議論そのものの極めて簡単な要約とも見なせるものだろう。ここで補論としてイーグルトンに触れた一つの理由は、この一文によってジジェクの思惟に簡単な概観を与えるためである。もう一つの理由はというとイーグルトンの立場取りが私たちからして少々共感しうるものだからである。

 それはどういう立場取りだろうか。イーグルトンの議論は、ジジェクとは別の仕方で入り組んでおりなかなか真意を読み取りにくいのだが、一つ言いうることは、イーグルトンはこのような両義的な「聖なるもの」、とりわけ、そのテラーの側面の不可避性、その人間への内在性の承認を主張していることである。

 それはテラーではあるにせよ、同時に創造的で生命付与的なものでもあるのだし、なんといっても不可避のものであって、これを否認しようとする場合には否認する側が最悪のテラーに堕さざるをえない。「やむにやまれぬかたちで自己破壊へと向かう」「奇怪な欲望」が「日常生活の潜在的材料となっていることを認識できない者たち」は「最終的には暴力を増幅させがちである」。イーグルトンがこの両義的な「聖なるもの」への対し方において、良きものと悪しきものを区別しようとする仕方は、多種多様で微妙なところが多く読み取りにくいのだが、さしあたり以上のようには言えるだろう。

 さて、この著作にジジェクはあるところで触れている。ジジェクの反応は予想しうるものだ。ジジェクは本書を基本的に「称賛に値する(admirable)」としつつも、本書が「〈聖なるもの〉の過剰、〈現実界〉の過剰としての〈聖なるテラー〉の弁証法」、「それに対して適切な距離を保つべき〈現実的〉な〈物〉というポストモダンの一大モチーフの一つ」を展開するなかで、そういったものは「尊重され、満足させられねばならないが、離れたところに保たれなければならない」といった「両極端の間」で「バランス」を保とうとする「知恵(wisdom)」の立場に立つところでは折衷的で保守的であると批判的に対している。

 ジジェク曰く、その種の両極端のバランス論では均衡点は「常に暗黙のうちに前提とされている」。だが、この均衡点を規定している尺度そのものを変えることが問題なのであり、そのためには「異教」的な「知恵」の立場ではなく、ジジェク曰く「キリスト教」的な「〈真理〉への狂った賭け」が必要である…(Žižek [2008e:99])。ジジェクの応答の基本線は、第一部で解明したその根本的立場に沿って、〈物〉への距離を保つことではなく、〈物〉への「欲望を諦めるな」というものである。というのも、その深淵のうちでのみ新たな象徴的世界の再創造が、ここでの言葉でいえば、尺度の変化が可能になるからである。

 かくして両者の差異は倫理的立場へも反映される。イーグルトンの語るところ、イーグルトンがある種のフランス哲学のエリート主義を批判したところ、ジジェクは共感したものの賛成はしなかったという。イーグルトンはジジェクは自分と同じようにユーモアを用いてスタイルにおいては高尚なものから低俗なもの、日常的なものへのの飛躍を縦横に駆使しつつも、その思想的内容、例えば倫理理論においては「高尚でエリート主義的」だと総括している(Eagleton [2012:413])。

 恐らくイーグルトンが「ジジェクは正確にいえば機知があるとは言い難い」(429)というのは、この高尚さ、私たちならHeideggerian pathetic styleと距離を取りつつもハイデガー的な思惟のモチーフからは距離が取れないこととでも言いたいもののことを指しているとみることもできよう。

 さて、私たちからしてもイーグルトンの言うところは理解できるし、やはり共感もできるものである。「〈現実界〉の倫理」を私たちは先の第4章で見たように、〈現実的〉な〈物〉、あるいは対象が欠落したあとの〈現実的〉なものの場所、否定的なものの場所をひたすらに目指すことだけを命じる命法と解するが、これは確かにカントの倫理が厳格であるというのと少なくとも同程度には厳格であり、普通の意味での自己利益の顧慮一切を超え出ていくことを要求する。この倫理は困難である。人間にそれが担いきれるかどうかといえば甚だ心もとない。

 だが同時にジジェクに従って私たちもイーグルトンの議論に賛成することはできないだろう。私たちには人間と否定的なものとの関係が人間にとって、人間を「その内的可能性において担う」という意味で根源的・本質的なものであり、その関係のことさらの経験が人間的経験の絶対的な限界点であるように思われるし、したがってそれをそれとして経験することが人間にとって本質的であると、やはり思われるからである。

 そうである以上、そこで要請される倫理がいかに厳格であるにせよ、非難されるべきはその倫理ではなくして、私たち自身の弱さであるということになるだろうからである。私たちはイーグルトンに共感しつつも今のところはそう考えておきたい。

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第四章 ジジェクの倫理 “Gelassenheit” vs “Ne pas céder sur son désir ”
第二部 ジジェクの政治:緒論「否定的なもの」から「政治的なもの」へ

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

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