第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(1)

0、はじめに―ジジェクによる「ジジェクとハイデガー」

 本章と次章はジジェクとハイデガーの関係を関心の中核に据え、ハイデガーについて検討を行う。その始まりをなす本節ではまずジジェクによる明示的なハイデガーへの立場取りを参照することで議論の発端を作ることとする。

 本節の目的は、ジジェクにおけるハイデガーに対する両義的な態度の存在を明らかにすることである―私たちのさしあたりの印象を述べておけば、ジジェクはハイデガーに対して明示的に立場取りを行おうとするときにはしばしば誤っており、他方でほんのついでといった形でハイデガーに言及するとき多く示唆的である。

 さて、この両義的な態度はジジェクの主要な関心に沿う形で「否定的なもの」をめぐって形成される。ジジェクのこの点に関わる議論を順を追って追跡することとしよう。

 ジジェクの思惟の中心は、ここまで見てきたとおり、主体性に内在する否定性の次元である。それをジジェクはヘーゲルの「世界の夜」という語によって、あるいはフロイトの「死の欲動」といった語で指示している。先に見たように「死の欲動」をヘーゲルの「否定性」から読むことこそ、ジジェクの根本的な企図である。

 さて、ジジェクはこの問題系を「the only true Sache des Denkens」とあからさまにハイデガー的な言葉で呼んでいたのだが1)後に示されるように、この言明はハイデガーから見ても正当なものである。、この議論の文脈においてジジェクにとっては出発点でもあったハイデガーはどこに位置づけられているのだろうか。

 ジジェクの著作におけるハイデガーの位置は少々複雑である。英語での最初の著作である89年の『イデオロギーの崇高な対象』では、ハイデガーの「死への存在(Sein zum Tode, being toward death[」は、ジジェクが「死の欲動」を貫徹した人物としてたびたび引き合いに出すアンティゴネーを形容する語として用いられ、「死の欲動」と並置され同一視されている。

 曰く、「アンティゴネーは、限界まで行き、けっして「自らの欲望をあきらめず」(ラカン)、「死の欲動」、死への存在(being-toward-death)へのこの固執のために、ぞっとするほど無慈悲となり、日常的な感情・思慮・情熱・恐怖の環の外に出てしまう」(Žižek [2008a:131])。ここでジジェクはセミネール7のラカンに従っている。

 次に『否定的なもののもとへの滞留』では、1950年代のラカンは「死への存在」を背景として「死の欲動」を理解しようとしていたが、60年代以降はそうではないと示唆され、「ラカンとハイデガーの関係への新たな視野からのアプローチが必要」とされるが、はっきりした答え、明確な理論的差異は明らかにされていない(Žižek [1993a:128])。

 続く1994年の『享楽の転移』(“The Metastases of Enjoyment”)に付録として収録された’A Self Interview’では「はっきりした答え」に向けて一つの方向性が与えられる。ここでジジェクが述べているところによれば、哲学はハイデガーも含め「思考(「人間」)と世界との一種の原初的な「一致(accordance)」に依拠している」(Žižek [2005:184-185])。

 ハイデガーの場合であれば、このことは「現存在は常に既に世界の「内」にいる」こと、あるいは「ハイデガーによるカントの有名な逆転」、哲学の「スキャンダルはいかに私たちの心の中の表象や観念から客観的現実に移ることが出来るのかという問題が解決されていないことではなく、真のスキャンダルはこの移行が問題と受け取られていたこと自体である。なぜなら、これは暗黙のうちに主体を世界から切り離す架橋不可能な距離を前提しているからである」(同)といった考えの内に表現されている。

 少々補っていえば、『存在と時間』でハイデガーは、この主観から客観への移行を問題として認識することが前提とする主体と客体の分断は、世界内存在という原初的な事実のうちで常に既に乗り越えられていると述べていた。他方でジジェクの読むラカンにとっては「「世界内存在」がすでに一種の原初的な選択の結果である」、というのも「精神病的な経験は世界を選ばないことも十分に可能であるという事実を証言する」からである。つまり、そこでは人間に対する世界の開示以前、人間と世界との原初的「一致」以前が思考の対象となっている。

 この論点が十分に展開され一個の解答が与えられるのは、1999年の”The Ticklish Subject”においてである。それは前章で一部見たように、ハイデガーはカントの超越論的構想力の問題に到達しながら、そこに潜む否定的次元、「主体性の深淵」、「世界の夜」を「見落とし(miss)」(Žižek, Rasmussen [2007])、あるいはそれに向き合いきることが出来ず後期の「存在の歴史」へと「後ずさり(recoil)」(Žižek [2000a:23])したというものである。だから結果としてジジェクの把握するフロイトの「死の欲動」とハイデガーの「不安」「死への存在」の関係については以下のように言われることになる。
 

ハイデガーの死への存在とフロイトの死の欲動はどう関係しているのか。それらを同一視しようとする幾つかの試みに反対して(1950年代前半のラカンの仕事に見られる)、両者の根源的不一致を主張するべきだろう。死の欲動は「死せぬ」ラメラ、欲動の「不死の」固執であって、それは〈存在〉(Being)の存在論的開示に先行する。その開示の有限性が「死への存在」の経験において人間に襲いかかるのである。(Žižek [2000a:66])

 ここでのジジェクの対比の意味、そしてそれが『享楽の転移』での議論を引き継いでいることは明らかだろう。「死の欲動」「世界の夜」が「存在」あるいは世界の開示以前、〈現実界〉の象徴化以前という意味で「前存在論的(pre-ontological)」な―ここでジジェクの「前存在論的」という語はセミネール11でラカンが無意識の存在論的地位について「前存在論的」と述べたところに由来し、「さしあたりたいてい」の存在了解の様式を形容するためにハイデガーが用いた「vorontologisch」と語形は似ているが、意味内容は全く異なることに注意が必要である―次元なのに対して、「死への存在」は既に開示された「世界」「存在」の枠内で経験される、開示の地平の有限性であるというのである。

 このジジェクのハイデガーへの論難、ハイデガーがカントの超越論的地平の探索のうちで主体に内在するラディカルな否定性の次元を見逃すか、あるいはそこから逃走するかして後期の「存在の歴史」に「後ずさり」してしまったという批判は、2001年”On Belief”ではまた少し別様に表現される。

 ジジェクはハイデガーに「ユダヤ教」の経験への参照が欠けていることに焦点を当てる。ハイデガーⅠ(『存在と時間』)とハイデガーⅡ(「存在の歴史」)の間にこそ、実はその経験のための場所があり、ハイデガーが『存在の時間』で採用していた「カントの超越論的地平」を最後まで辿りきったなら「人間の本質が、根源的な〈他者性〉との、トラウマ的な遭遇に基礎付けられていること、更にはこの神的な〈他者性〉(divine Otherness)自身が、自らの啓示の場所として、人、人間性を必要とすることという、ユダヤ-キリスト教の根本的な体験のための場所」(Žižek [2001:107])が開けていたという。

 もちろん、ジジェクのいうユダヤ-キリスト教の根本的な体験、超越論的な問いの果てに出会われるdivine Othernessとの出会いとは究極的には「世界の夜」に他ならないが、ハイデガーはこれを見落としてハイデガーⅠの『存在と時間』の「超越論的」アプローチを放棄しハイデガーⅡの「存在の歴史」へ後ずさりしてしまったという。

 だが、このようなハイデガーとの差異化とは反対の方向性、同一化とでも呼べる方向性も残存しており、2000年の『脆弱なる絶対』(“The Fragile Absolute”)では、ハイデガーを自らの議論の文脈に再び統合してもいる(Žižek [2000b:Ch7-8])。

 ここで取り上げられるのは1943年(もとになる講演は1930年)の『真理の本質について』での「真理より古い非真理」、1936-38年の『哲学への寄与』での現存在の「錯乱」(Verrückung)という観念である。

 「真理より古い非真理」とは、ハイデガーにとって真理が「アレーテイア = 非隠匿性(Unverborgenheit)」、すなわち、開示である限りで、存在の開示「より古い」次元、つまり、先に触れたジジェク的な意味で「前存在論的」次元を名指しており、更にジジェクの解釈するところ、ハイデガーは「真理の次元そのものより古い非真理の概念を練り上げる中」で「真理の本質的展開への人間の歩み入り」は「存在者の中での人間の地位の錯乱(Verrückung)という意味での人間存在の変容」(Žižek [2000b:81], GA65.338)であることを強調したのであり、かくしてこれは「存在の開示」に先立つ人間の「錯乱」として、まさに自分の言う「死の欲動」や「世界の夜」と同じものだという。

 だから当該書では「死の欲動」が、後期ハイデガーの中心概念の一つである「Lichtung」を作るなどと言われる(Žižek [2000b:30])。ジジェクは注でここに残る問題を決定的な仕方で定式化している。すなわち、「真に問題的で中心的な点はハイデガーがこの「存在論的不均衡」ないし「錯乱」を主体と呼ぶことを拒否している点である」(Žižek [2000b:168])。

 ジジェクのハイデガーに対する態度の両義性は、このように同一化の論理を明確に表現した後ですら、ハイデガーがこの点、すなわち、「前存在論的次元」を認めていないとして幾度となく批判する所に現れている―もしかしたら、それは単にいかにもジジェク的な適当さのゆえかもしれないが。一つだけ例を挙げよう(Žižek [2009a:163-170])。

 ジジェクは19世紀の実証主義化に対して20世紀の哲学には実証主義的な存在者への還元、オンティッシュな次元への還元に対して「現象」の還元不可能な自律性を主張する思想潮流が「現象学」以来存在しており、それはジジェク曰く「現代を代表する三人の哲学者」である「ハイデガー、ドゥルーズ、バディウ」が実体的な現実性に還元不可能な〈出来事〉の思想を展開していることに反映されている。

 ジジェクの考えるところ、この地平において観念論と唯物論の対立は〈出来事〉の背後に回ることを認めるか否か、〈出来事〉を絶対的出発点とせずにその生成過程そのものを問うことを認めるか否かのうちにあり、この基準からしてドゥルーズやバディウは唯物論であるとしつつ、ハイデガーは「存在」の開示の〈出来事〉の存在者に対する全くの独立性を主張する点で「観念論」、先に見られた意味での言説的・超越論的観念論と見なす。

 そして、このハイデガー的〈出来事〉にたいして唯物論的身振りとして「〈出来事〉の背後に回るリスクを冒し、あらゆる存在論的開示を可能にする切断、恐ろしい収縮(contraction)を名指し、その輪郭を描いてみるべきである」(Žižek [2009a:166])とする。だが、もちろん、これが少し前で見た通り同一化するジジェクにあってはハイデガーに認められていたことなのである。

 私たちは本節の目的としてジジェクのハイデガーに対する「両義的な態度」、すなわち、そこにおける差異化と同一化とでも呼ぶべき二重性を明らかにすることを掲げた。この点はここまでで既に明白になったといえよう。明らかになったことを整理しておこう。

 まず差異化の方から見るなら、ジジェクの「世界の夜」「死の欲動」は「世界が私たちにとって意味の経験として開かれるために起きていなければならなかったこと」(Žižek and Daly [2004:64])である。それゆえこれは一切の「真理」に先行している。

私たちの経験の究極の次元は真理の次元ではありません。真理がどのように考えられていたとしても、ハイデガーの用語でいう開示(disclosure)として考えられていたとしても、そうなのです。主体性と経験の最も根源的なレベルには、何か原初的な狂気の契機が存在します。享楽、否定性、死の欲動などなどの次元であり、真理の次元ではないのです。(Žižek and Daly [2004:64])

 こうしてハイデガーと差異化するジジェクによれば「世界の夜」「死の欲動」は、存在の開示の地平内部で起きるハイデガーの「不安」や「死への存在」に先行している。この議論の文脈ではハイデガーは先にカントのいう哲学のスキャンダルの逆転という形で表現された人間と世界との原初的一致へのコミットメントの為に、この存在の開示に先立つ次元を思考出来ないとされる。だが、ハイデガーと同一化する、あるいはハイデガーを自らの議論へと同一化するジジェクによれば、ハイデガーは「真理より古い非真理」および現存在の「錯乱」の観念によって、まさしく存在の開示に先立つ次元、そこにある「不均衡」を思考しており、それは「世界の夜」や「死の欲動」と同じものである。

 さて、では事態は本当のところどうなっているのだろうか。ここで事態をはっきりさせるためにはハイデガーについての検討が必要である。本章はこのことを遂行する。その結論と本章の展望を予め述べておくなら、ジジェクの両義的な態度のうちでより適切なのは先に「同一化」と呼ばれた立場である。そしてこの視点からはハイデゲリアンとしてのジジェクという像が浮かび上がり、従ってハイデガーの議論の解明を通じてジジェクの議論をより明確にし、またそれに新たな正当化を与えることが出来る。

 だが、それだけではない。私たちからすればハイデガーのいわゆる「転回(Kehre)」―いわゆるというのは、後に詳論するように思惟の立場の変化としての解されたKehreはハイデガーにおけるKehreの本義ではないからである―で問題となっていたのは今まさに議論の対象となっている「存在の開示」以前の「否定性」に対する人間の無力、人間がその主人ではないこと―有限性―だったのである。この点はハイデガーが原初的な「否定性」を「見落とし」、あるいはそこから「後ずさり」したというジジェク自身が見落としてしまっている盲点である。

 ハイデガーにあって問題だったのは、この否定性を見落としたり、そこから後ずさりしたりすることではなく、その否定性と人間との関係における人間の非力さ、そこにひそむ行き詰まりを識別することだったのであり、そこではまさに「否定的なもの」の問題を真正面から見据えて対峙するということが起こっていたのである。この点では私たちはハイデガーと差異化するジジェクに対して異議を唱える必要を認める。あるいはジジェクは「私はハイデガーが立場を反転させる前に、すなわち、初期のハイデガーから後期のハイデガーへの30年代前半における移行の中で、何かに気づいていた(on to)と考えている」(Žižek and Daly [2004:27])という時にこのことを予感しているのかもしれない。本章の試みはこの「何か」を明るみに出すことだとも言えるだろう。

 以上から明らかな通り、ここでは少々ジジェク自身が述べていることを超え出る必要がある。だが、私たちがハイデガーを読む中にあって以下で判明になるように随所でジジェクに助けられてもいる。以下で私たちが言うことはジジェクなら本来言えたはずであろうことのみであるとすら言えるかもしれない2)そんなにジジェクを持ち上げる義理もないのだが。

1、本章の構成

 本節では本章の議論の構成を示す。本章の目的は、第一に、「差異化」よりも「同一化」の方が適切であることを証示することであり、そのためにジジェクの「差異化」図式の反駁と「同一化」の正当化が行われる。

 第二に、「同一化」の地平にあって、ジジェクはハイデゲリアンとして見えてくることになり、従ってここでジジェクの議論をより明確に把握し、それに新たな正当化を与えるためにも―もちろん、そのためだけではなくハイデガーの思惟そのものへの関心のためでもあるが―ハイデガーの思惟の基本図式を検討する必要が生じてくることになる。

 第三に、ハイデガーとジジェクの違いを扱うことである。それは結局ジジェクがハイデガーにおける「この「存在論的不均衡」ないし「錯乱」を主体と呼ぶことの拒否」と呼んでいたことに収斂するのだが、ここにジジェクがまだ見ていないように思われる、ハイデガーのいう「有限性」の問題がある。これは先にハイデガーがいわゆる「転回」によって立場を変える前に気づいていた「何か」として名指された事柄でもあると言えそうである。

 本章は以上のことを明らかにするために―以上のこと全てを貫き統べている問題は、いつもながら「否定的なもの」の絶対的に始原的な運動はいかなるものかという問題であり、ハイデガーがそれをいかに把握し概念化したかという問題である―ハイデガーの議論を検討する。

 さて、この目的を達するため私たちは続く第二節を『存在と時間』から始める。とはいえ、それは私たちの主要な関心事である『存在と時間』以降の道筋への出発点を明らかにするためであり、ごくごく基本的な構図の形式的かつ図式的な検討に留まる。

 第三節は『存在と時間』以後、ハイデガーが可能性の条件の問いという意味での「超越論的」な問いの方向性を先鋭化した時期を対象とする。ここで「差異化」図式の誤りがさしあたり証示される。

 続く、第四節はこの超越論的な方向性の極点である1929年のフライブルク大学教授就任講演『形而上学とは何か』(以下WMと略記)を取り扱う。「無」あるいは「無の無化」を扱う本講演は私たちにとって決定的なテキストであり、私たちがそこからハイデガーを読解する特権的なテキストという地位を占める。私たちの把握するところWMはそこからして後期ハイデガー―私たちの言う「後期」とはいわゆる「転回」以後のことであり、それは後に主張されるように本質的にはWM以後のことである―の思惟が理にかなったものとして見えてくるようになる場所なのである。

 ジジェクとの関連で言えば本講演の検討から先の「同一化」の方向性の正しさが示されると同時に、先にジジェクの見ていない点として指摘されたもの、「有限性」、「主体」をめぐる差異、ハイデガーが気づいていた「何か」といった問題に関する議論への端緒が開かれる。

 第五節はWMが決定的な震源地であるという解釈のもと、ハイデガーの第二の主著などとも称される、後期の代表的なテキスト、『哲学への寄与』の一側面が取り扱われることとなる。論点は「無の無化」と「存在の退去」の連関、もっと言えば両者の連続性である。ここまでで私たちの把握するハイデガーの議論の基本的な構図が明らかとなる。

 第六節は「場所」と「Lichtung」の概念を解明する。私たちの見るところ、ここにハイデガーによる「否定的なもの」の絶対的な先行性への承認がある。

 続く第七節は、それまでで論じ残された問題群、すなわち「形而上学」「存在の歴史」「転回(Kehre)」について取り扱う。

 第八節はジジェクとハイデガーの関わりをまとめて取り上げる。前節の「形而上学」規定の検討はハイデゲリアンとしてのジジェクという捉え方を最終的に正当化するが、続いて両者に残存する差異を明確化することも試みられる。この差異の問題に関して本節ではハイデガーのヘーゲル批判に端緒を取る。この差異の問題はジジェクの「倫理」の問題へ私たちを導き、議論は最終的に次章へ持ち越されることになる。

 最後に第九節で本章の総括が行われる。

 こうした過程を経ることでハイデガーの思惟の基本的な発想を明らかに出来、またジジェクとの関連でいえば、ジジェクを一種のハイデゲリアンと解することが正当化され、それにともなってハイデガーを通じてジジェクの思惟に正当性を与えつつ、両者の間に残存する差異を明確にすることが可能になる。このことは総じて―これが常に私たちの究極の目的だが―「否定的なもの」についての私たちの把握を明確化し問題化することに通じるだろう。

 では、具体的な議論を始めよう。

2、『存在の時間』と「転回」

 私たちは『存在と時間』を、もっぱらそれ以後のハイデガーの思惟の展開との関連において取り扱う。そのとき重要な語として浮かび上がってくるのが「転回」である。のちにこの「転回(Kehre)」という語について私たちの考えを整理するが、話を始めるにあたってさしあたり了解すべきは、「転回」とは「第一には問うている思惟の中での出来事ではなく」「『存在と時間』『時間と存在』という題目によって名付けられた事態そのものに属する」(GA11.149)3)以下、ハイデガーからの引用は全集(Gesamtausgabe)から行う。既に邦訳がある場合は適宜それらを参照しつつ、最終的には引用者が訳している。『ヒューマニズム書簡』についてのみ、渡邊二郎による既存の邦訳をそのまま使用した。ということ、つまり、近年よく指摘されることだが、「転回」を思惟の立場の転換と解することは一次的には誤りであるということである。このことを念頭に置きつつヒューマニズム書簡の有名な一節から議論を始めよう。

主観性を捨て去っていくこの別の思惟を、十分に、跡づけ直しつつまたそれと一体化しつつ遂行してみることは、『存在と時間』の公刊に際して、「時間と存在」というその第一部の第三編が差し控えられたことによって、困難にさせられている。ここで全体が逆転する。問題の第三編が差し控えられたのは、思惟が、この転回を十分にいい述べようとしてもうまくゆかず、また、形而上学の言葉の助けによっては切り抜けられなかったからであった。(…)『真理の本質について』という講演が、『存在と時間』から「時間と存在」への転回の思惟の内部を伺わせる若干の洞見を与えている。(GA9.327-328/渡邊二郎訳、ただし「思索(Denken)」は私たちが一貫して用いる訳語である「思惟」に変更した)

 この一節を読むための文脈を整えることから始めよう。後年のゼミナールでハイデガーは自らの思惟の道のりにおける変遷を「意味」「真理」「場所」の三つの語によって印づけている(GA15.344)。思惟の中心をなす語が「存在の意味」「存在の真理」「存在の場所」と変化していったという。

 さしあたり関心の対象としたいのは「意味」から「真理」への移行である。そのゼミナールでハイデガーはこの移行に説明を与えている。曰く、「意味」は企投から理解され、企投は了解から説明されるが、これは企投を人間の遂行することだという捉え方、企投は主体性の構造であるという捉え方に対し無防備であった(GA15.335)。

 かくして、「存在の意味という語が存在の真理という語のために放棄されることで、『存在と時間』から立ち現れた思惟は、もっと後には、存在自身の開性を、存在の開性に直面しての現存在の開性に対して、より強調するようになる」(GA15.345)。

 つづめて言えば、「意味」から「真理」への移行は、人間主観から存在自身への強調点の移動であり、「存在了解」から「存在の生起」への重点の変化である。これが思惟の立場の変化という意味でのいわゆる「転回(Kehre)」であり、実際いまの引用に続けて「転回とはこのことを意味する」とされている。しかるに先に確認したように第一には「転回」はこのような思惟に起きることがらではなく思惟されるべき事態に属するとされていた。

 ここで最初のヒューマニズム書簡の引用に戻ろう。冒頭に「主観性を捨て去っていくこの別の思惟」とあるが、これは企投を「主観性のなす機能」として把握してはならないという議論に続けて言われており、これがいま見たいわゆる「転回」、存在了解から存在の生起への重点変化と同じことを指していることは明らかである。

 だがこの引用ではこの思惟の変化が「転回」と呼ばれているわけではない。この一節の主張するところは、『存在と時間』の既刊部分に続く第一部第三編「時間と存在」には、あるいは両者の間といってもいいだろうが、そこには「全体が逆転する」ということがあるのだが、これこそが「転回」であり、このまさしく「『存在と時間』『時間と存在』という題目によって名付けられた事態そのものに属する」(GA11.149)「転回」を言うことに困難が存し、それが「形而上学」の言葉では切り抜けられなかったのだということである。

 とすれば、この「転回」を言うことの困難から、主観性とは別の出発点から明確に再出発する必要が自覚され、「意味」から「真理」へと語を変化させ、企投を主体の行為と見なすという逸脱をとりわけて阻止する試み、いわゆる「転回」が遂行されることになったということになるだろう。つまり、いわゆる思惟の「転回」は『存在と時間』既刊部分に続く第一部第三編「時間と存在」における「全体が逆転する」「転回」、思惟されるべき事態そのものに属する「転回」を言うことにおける一種の挫折の帰結なのである。

 では、この思惟されるべき事態そのものに属する「転回」、『存在と時間』に続く「時間と存在」にある「全体が逆転する」ということとしての「転回」とは何か。私たちの考えるところ、ここでは素朴に考えることが必要である。『存在と時間』を暴力的に形式的な―本章の議論は可能な限り形式的・図式的に遂行される―仕方で要約すれば以下のようになるだろう。

 『存在と時間』は「存在了解」の超越論的地平として「時間」を解明することを目的としていた。このことを解釈しよう。まず「存在了解」とは何か。それは「ある(ist)」ということが了解され、その結果、諸事物が、あるいは存在了解する現存在自身が、「存在するもの/存在者(Seiende)」として現れてくるようになることであり、「存在(Sein)」とは第一には、「ある(ist)」と感得され言明されるときにそこで了解されている内容、存在者がそこを参照して存在者として現れ規定されているところの参照点、存在者が存在者である限りで持っている存在者全てにに共通の「何であるか(Wassein)」(GA3.14)である。

 ハイデガーの挙げている哲学史上の例は例えばアリストテレスのエネルゲイアやニーチェの力への意志であり、ハイデガーに言わせれば彼らはそういった概念によって「存在するとはどういうことか」、存在者である限りの存在者の根本特徴を考えていたのである。そして「存在」の名のもとに了解されている内容が「存在するとはどういうことか」を規定している限りで、「存在」は「何が存在しているのか」「何が現実なのか」を規定している。

 ここについてジジェクが「[正確にこの「存在」の次元に関わる]存在論的(ontological/ontologisch)地平」を適切に「私たちがどう現実性を理解するか、何が現実として私たちに現れてくるかを決定するアプリオリなカテゴリーのネットワーク」(Žižek [2012:9])として規定していたことを想起しよう。

 だが第二に、ハイデガーの「存在」とはその究極のところでは「あるんだ!」「存在するんだ!」という端的な経験であり、ハイデガーからすると「存在」のどんな了解もまずもってこの「ある!」ことの赤裸々な感得に先立たれているはずである。両者は後に明確に区別され、第一の側面が「存在(者性)Sein/Seiendheit」と呼ばれ、第二の側面が「Seyn」と呼ばれるようになる。ハイデガーの概念化によると第一の「存在者性」は第二の「Seyn」の派生形態、その「ひとつの規定された」あり方にすぎない(GA9.131注c)。『存在と時間』からすると少々先走りすぎたかもしれない。『存在と時間』に戻ろう。

 次に「存在了解」の超越論的地平として「時間」を解明するとは何か。超越論的地平とは「可能性の条件」のことである。ハイデガーのいわゆる「存在の意味」は「時間」であるとは「存在了解」の「超越論的地平 = 可能性の条件」をなすのは「時間」であるということであって、「存在の意味」への問いは存在了解の可能性の条件の問い、存在了解がそこから可能になり、結果としてそこから規定されるところへの問いである。それは「ある」ということが感じ取られ、「ある」ということについて何がしかの理解がなされることのはいかにして可能かを問うのである。

 かくして『存在と時間』の目標は時間性が発現することによって初めて「ある」ということが了解され、かくして、諸事物が、そして私たち自身が、存在するものとして見えてくるようになるということを主張することであったということができる。

 では、この解明がどういう方向で為されるかといえば、まず「存在了解をする存在者」=「現存在」である人間に照準することであり、さらに「現存在」の「根本体制」とされる「世界内存在」の分析から、そのような世界内存在のあり方の「可能性の条件」、すなわち、現存在の「存在意味」として「時間性」の発現を明らかにすることである。つまり、存在了解の可能性の条件として時間性を解明するという課題は、『存在と時間』の既刊部分においては、まず存在了解を常に既に持っている人間的現存在へと目を転じ、次に、現存在の根本体制たる世界内存在に注視し、この世界内存在というあり方の可能性の条件として時間性を取り出すというプロセスを経たことになる。

 ここで本題に戻ろう。では、ここ、つまり『存在と時間』既刊部分に続く「時間と存在」での「全体が逆転する」「転回」とは何か。それは素朴に考えるなら「存在了解→現存在→世界内存在→時間性」という差し当たり大枠で「可能性の条件」への遡行といいうる道筋が、その終着点、「可能性の条件」たる「時間性」へ到達することで、今度はこの「可能性の条件」たる「時間性」を「存在の意味」として解明し、そこから「存在了解」を展開することに反転することではないだろうか。「全体が逆転する」「転回」とは、可能性の条件への遡行から可能性の条件からの展開への反転、この歩みの方向の反転という意味で「全体が逆転する」「転回」なのである。「存在了解→現存在→世界内存在→時間性=存在の意味→存在了解…」というわけである。

 この把握は『存在と時間』の既刊部分の終結部、そこに「時間と存在」が続くはずだった場所が、「根源的な時間から存在の意味への道が通じているのだろうか?時間自身が存在の地平として自らを開示するだろうか?」と問いを投げかけることで終わっていることからも支持されると思われる。『存在と時間』と「時間と存在」の間で問題だったのは、時間性を存在了解の可能性の条件として明確に解明することである。

 28年の論理学講義における「転回」の最初の用法と目されるものも私たちの理解を傍証する。というのも、そこで「転回」は存在了解の可能性の条件への遡行たる基礎的存在論の「徹底」化の帰結として、思惟の遡行の歩みが、存在了解の可能性の条件から、存在了解を、更には全体としての存在者を展開する歩みへ反転することを指し示しているように思われるからである。この全体としての存在者への展開をハイデガーは基礎的存在論に対して殊更にメタ存在論と呼称している(以上GA26.196-202)。とすれば、先の『存在と時間』のプロジェクトの全体構図をこう補うことが出来るだろう。「存在了解→現存在→世界内存在→時間性=存在の意味→存在了解(ここまでが基礎的存在論)→全体としての存在者(メタ存在論)」。この「=」の場所で生じているのが「転回」である。

 さて、しかるに先のヒューマニズム書簡に戻れば、この「転回」を十分に言い述べることに思惟は失敗したとされる。そこから新しい発端が求められることになったわけである。とすれば、私たちはこの「転回」を遂行する試みに焦点を当て、その中で失敗が自覚されるに至る道筋を捉えるべきだろう。このことを目がけて次節の議論は出発する。

3、超越論的問題設定の先鋭化―「超越」の可能性の条件の問い

 さて「時間と存在」は「時間性」を「存在の意味」として、つまり、「存在了解」がそこから可能になり、したがってそこから規定されるようになるところ、一言でいえば「存在了解」の「可能性の条件」として解明し、そこからして「存在了解」がより根源的に展開されるはずであった。

 だが、ここに何らかの失敗が存在した。私たちはこの失敗の自覚へと導いた最初の躓きの石を「存在了解」と「時間性」、言い換えれば「現存在」とその「根本体制」たる「世界内存在」との曖昧な関係の内に求めたい。『存在と時間』の本来のプロジェクトは先に確認したように、「存在了解/現存在→世界内存在→時間性=存在の意味→存在了解/現存在」という道行きである。

 ここで要となっているのは明らかに「世界内存在」であり、「現存在」と「世界内存在」の関係である。というのも、「世界内存在」の分析から、その「可能性の条件」として「時間性」が取り出されたのであって、この「時間性」を「存在の意味」、すなわち、「現存在/存在了解」の「可能性の条件」として展開しうるかどうかは、「現存在」と「世界内存在」の関係にかかっているからである。しかるに、私たちの見るところ、ここに最初の綻びがあったのである。

 この点をめがけて議論を始めよう。『存在と時間』直後の講義、「『存在と時間』第一部第三編の新たな仕上げ」(GA24.1)とされる『現象学の根本諸問題』では、未だにこのプロジェクト、現存在を世界内存在へ差し戻し、世界内存在の可能性の条件たる時間性から「存在了解 = 現存在」の可能性の条件を展開しようとするプロジェクトが維持されている。象徴的な部分のみ引用しておこう。

求められているのは存在者を手元存在と眼前存在の意味で了解する存在了解の可能性の条件である。このような存在者は我々にとって日常的な配慮しつつのそれとの交渉において出会われる。差し当たり出会われる存在者との、この交渉は、現存在の存在者への実存しつつの関わりあいとして実存の根本体制、すなわち、世界内存在のうちに基礎付けられている。(…)世界内部的存在者との交渉は、現存在が世界内存在であり、現存在の根本体制が時間性のうちに存している限り、世界内存在の或る規定された時間性の中に根拠づけられている。(GA24.413)

出会われる存在者との交渉に属する存在了解の可能性の条件へと問い遡るとき、私たちは差し当たり世界内存在一般の可能性の条件を問う、そしてその世界内存在の可能性の条件とは時間性に基づいているのである。(GA24.414)

 さて、しかるにその翌年の講義、28年『論理学』講義では事態に変化が見られる。この講義でまずもって注目するべきは、先の「転回」を遂行するために可能性の条件の問いという意味での超越論的問題設定がより先鋭化し、明確化されていることである。それを表現するのが「超越そのものの内的可能性の条件の問い」(GA26.252)という表現である。

 ハイデガーのいう「超越」とは人間が「現存在」となり「世界内存在」となること、つまり、「存在了解」を作り出し「世界」を形成することである。そういう意味での超越の可能性の条件を問うこととは、まさに「存在了解」の可能性の条件を問うことであり、「転回」―存在了解の可能性の条件として時間性を明らかにし、そこから存在了解を展開すること―のためのより明確な問題設定と見なしうる。

 ここで注意するべきは、このような意味での超越の可能性の条件を問うことは、とりもなおさず、存在と世界の開示以前を問うこと、ジジェク的な意味で「前存在論的」な次元を問題にすることであるということである。このことと同じことを捉えてハイデガー全集の編者の一人でもあるゲルラントは「『存在と時間』において現存在は世界内存在「である」が、今や[引用者注:28年論理学講義]現存在は世界内存在に「なる」」(Görland [1989:8])と述べている。

 ただ、「現存在」を存在がそこで開示される現場として厳密に捉えるなら、「超越」が存在了解そのものを初めて形成する以上、いまの引用文は「超越」において「現存在は世界内存在になる」というのみならず、「人間が現存在/世界内存在」になるといった方がより正確であるように思われる。

 さて、それはそれとして話を進めれば、こうしてこの時点で既に、ハイデガーは「思考(「人間」)と世界との一種の原初的な「一致」」から出発することで「前存在論的」な次元を問題にしえないという「差異化」するジジェクの議論は的を外していると思われる。

 このことは主客問題に定位しても確認出来る。確かにジジェクも指摘した通り、ハイデガーは『存在と時間』の第43節で主客の分離を前提とし、主観から客観へどう移行するかを問題とする認識論一般を、その種の分離は世界内存在という事実のうちで常に既に乗り越えられているとして批判し棄却している。だが、28年講義ではハイデガーは「主観客観関係の問題」を「全く新しく立てる」ことの必要性を承認している(GA24.165)。

 二つの言明の間の関係はいかなるものだろうか。恐らくそれを以下のようにまとめることが出来よう。第一の主客問題を棄却する言明から見ていこう。

 それが表現しているのは、主観から客観へいかにすれば移行出来るのか、主観的表象は客観に一致しているのか、客観の実在性は証明出来るのか、といった認識論的問題設定は誤りである、なぜならそれらは主客の分離を前提としているが、この前提は二次的で派生的であるに過ぎない事柄を一次的で根源的な事態に優先させ出発点に置く転倒だからである、ということである。

 原初的な事実は「世界内存在」、世界の開示、少し後の時期の世界の規定を用いれば「全体における存在者としての存在者の開示性(Offenbarkeit)」(GA29-30.§68)、つまり、存在者が存在者として或る全体性、全体を形成する連関のうちで現れていることである。私たちにとって原初的なのはこの開示である。

 この開示の後に、この開示が人間というある特定の一存在者に属していることが認識され、そこから存在者の総体としての世界と一存在者たる認識主観が分離された状態でもともと立ち向かいあっているという表象が作り上げられ、ここから主客問題が立てられるのである。だから、このような主客問題の問い方は一次的な世界内存在の事実をそれから派生した分離の認識に従属させる転倒であると言いうる4)ところで、この転倒が、なぜこれほど頻繁に生じ、かつ自明なこととして通用しているのかを説明することが「頽落」概念の賭け金の一つである。というのも、「頽落」とは、現存在が世界内存在として関わる事物的存在者の方から、自分を含めて一切を理解しようとする傾向のことを示しており、現存在が自らを存在者とその総体としての世界と並んで存在するような存在者、他の存在者と並んで存在するというのは事物的存在者に特徴的なあり方なのだが、そういう存在者として、それゆえ、世界との間にこれから初めて架橋がなされるのでなくてはならない存在者、つまり、客観と分離された認識主体として理解することは、頽落の一帰結だからである。

 ここで主客問題をめぐる二つの言明の関係の問題に戻るなら、第一の主客問題の棄却の言明が表明しているのは、確かに以上のような主客の分離は二次的であり、それを出発点にするのは誤りであるということだが、他方で第二のその新たな立て直しが表明しているのは、それでもそもそも人間がどうして現存在・世界内存在たり得ているのかという問題は―それは所与として現れるにせよ決して自明なことではないから―残存するということである。

 これを表立って問うのが存在了解の遂行と世界の形成としての「超越」の可能性の条件の問いであり、ハイデガーは主観客観関係の問題を新しく立てるというとき、この意味での超越の問いを理解していると思われる。かくしてやはり世界と存在の開示以前、人間と世界との一致以前の領域が問題となっており、ハイデガーによるカントのいう哲学のスキャンダルの転倒から「前存在論的」な問題設定の不在を推論するジジェクの議論の問題性はここでも明らかである。

 さて、私たちはもともと『存在と時間』の本来のプログラムにおける失敗の自覚への道筋を追跡しようとしていた。今や、28年講義で置かれた「超越の可能性の条件の問い」というより根本的な発端に伴って生じたこのプログラムの遂行における変化を見ていく必要がある。

 まず注目するべきは、先に触れた『現象学の根本問題』では時間性から存在了解を展開することには何ら疑義は挟まれていなかったのに、ここでは「時間は存在一般の了解への未だ暗い関連のうちに立っている」(GA26.254)ことが認められることである。

 このことが語られた「超越と時間性(根源的無)」と題された節で、ハイデガーはいつもながら根源的時間、時間性を脱自性と、その統一としての地平性格という観点から説明し、この脱自的な時間性の統一としての地平こそ「世界」であり、時間性が時熟(zeitigen)し発現することは「世界」を形成することであり、すなわち「現存在」「世界内存在」になることとしての超越であり、こうして存在者が出会われるようになるのだとする。

 だが、ここで私たちにとって興味深いのは、ハイデガーがこの「世界」を単に空虚な否定の意味ではなく、存在者ではないという意味だと断りつつ、殊更に「無」として特徴づけていることである。曰く「自らを時熟する時間性を脱自的統一として時熟させるのはその地平の統一であり、すなわち、世界である。世界は自らを根源的に時熟させる無であり、時熟のなかで、時熟とともに発現するものそのものである。だから私たちは世界を根源的無と名付けるのである」(GA26.272)。

 このこと、時間性と存在了解一般とが未だ暗い関連のうちに立つことを認めつつ、それに引き続いて時間性の時熟によって形成される「世界」を殊更に「無」と特徴づけることは何を意味するのだろうか。その後の展開、とりわけ「無」を「存在了解」の可能性の条件として解明するWMを視野に入れるなら、この事態は、存在了解、「ある」ということの端的な了解が可能になるためには、何といっても「無」と呼ぶべきものとの接触が必要であることが自覚されつつあるのだが、この洞察を端的に展開するのではなくて、時間性をこそ存在了解の可能性の条件、すなわち、「存在の意味」として解明するという当初の計画に何とか接ぎ木しようとする試みとして理解できるのではないだろうか。

 私たちは『存在と時間』の本来のプログラムの失敗の自覚へと導く最初の綻びを「存在了解/現存在」と「時間性/世界内存在」との曖昧な関係にあると先に述べておいたが、ここでは「存在了解/現存在」の根本可能性は「無」にかかっていることが明らかになりはじめ、そういうものとしての「存在了解/現存在」と「時間性/世界内存在」が曖昧な関係に―「未だ暗い関連」に―立たされているわけである。

4、超越論的問題設定の最果て―「無の無化」と現存在の有限性

 さて、両者の曖昧な関係はつづく『カントと形而上学の問題』でも見て取れる。本書はカントの「コペルニクス的/超越論的」な「転回(Wende、つまり、Kehreではなく)」とは「全てがオンティッシュな[存在者に関わる]認識なのではなく、それが存在するところでは、それはオントローギッシュな[存在に関わる]認識によってのみ可能である」(GA3.12-13)ことを意味しているという見通しのもと、対象性と一貫した経験の領野を初めて作り出し「経験」を可能にするカント的なアプリオリな認識に、オンティッシュな認識を初めて可能にするオントローギッシュな認識、すなわち、存在了解を重ねあわせ、カントが対象性と一貫した経験の領野―これが今や存在了解と重ねあわされているわけだが―を形成する超越論的統覚の綜合-統一の活動の発端においた超越論的構想力を時間性として殊更に解釈することで「存在了解」の可能性の条件として時間性を解明しようとするものであって、『存在と時間』の当初のプログラムに沿っている。

 他方で「無」も明確に重要な位置を占めるようになり、「基礎的存在論」―それは一切の「存在」についての認識、すなわち存在論がそこで可能になる場所、すなわち、存在了解を遂行する現存在を取り扱うものであり、いわば存在論の可能性の条件を取り扱う存在論のメタ理論である。後期ハイデガーに特徴的な言い方である「存在の思惟(das Denken des Seins)」にせよ、この存在論のメタ理論という議論の位相は変わっていないことを把握しておくのは重要であると思われる―のプログラムを改めて定式化する最終章では「存在者の存在は一般に以下の時にのみ了解可能となる―そしてここに超越のもっとも深い有限性が存しているのだが―つまり、それは現存在がその本質の根底において自らを無のうちへと到らせその内に保つ(sich hineinhalten)時にのみ可能なのである」(GA3.238)ということ、すなわち、存在了解に対する「無」の構成的性格が認められ、カントそのものの読解においても「対象性」を形成することは「対して立たせる」ことであるが、経験的「諸対象/諸存在者」を「対して立たせる」ことを初めて可能にする「対象性」の形成において「対して立た」されるものは存在者ではあり得ないから、それは「無」であるとされる。「…を対して立たせることが自らを無の内へと到らせその内に保つこと(Sichhineinhalten)である時にのみ、表象することは無の代わりに、そして無のうちで、無ではないもの、すなわち、何か存在者のようなものを出会わせることが出来るのである―そのようなものが経験的に自らを示す場合には」(GA3.72)。ここで恐らく重要なのはハイデガーがこの(無を)「対して立たせる」ことを「悟性」の行為として構想力/時間性の次元と区別していることである(GA3.73-74)。ここに時間性-世界-無を直結させる『論理学』講義との差異があるように見える。

 さて、こうして1929年のフライブルク大学教授就任講演、私たちにとって決定的であり、超越論的問題設定の一つの極限を示す『形而上学とは何か』(WMと略記)に移ることが出来る。その前にここまでの私たちの把握を整理しておこう。

 『存在と時間』の見通しからすれば、存在了解をしている存在者たる現存在は世界内存在というあり方をしており、その世界内存在の「可能性の条件」が時間性であるのだから、存在了解の可能性の条件、すなわち、「存在の意味」も「時間性」であるはずであった。

 しかるに、この「存在の意味」からする存在了解の展開、「全体が逆転する」「転回」を「超越の可能性の条件の問い」を端緒として敢行して、「時間性」からして「存在了解」を展開しようとしてみると、存在者の存在が「時間性」と密接に連関していることは示せるにせよ、いかなる存在了解もそこから派生してくるはずの「ある」ということの端的な了解、存在そのものの赤裸裸な開示性については―ここはWMを先取りして、そこに先行的に視線を向けて言うのだが―「無」が構成的なことが明らかとなってきた。

 28年の論理学講義は「時間性」の統一地平である「世界」を「無」と考えることで、この問題を切り抜けようとする試みと見うるが、その後のカント書やWMの歩みを見るに、第一にハイデガーは時間性と無とを区別し、第二に「ある」ということの端的な開示、すなわち、存在の真理に関わる「無」をより根本的な次元と見るようになったと言いうると思われる5)時間性と無との連関はもっと厳密かつ詳細に考えられるべきであるが本稿はこのことをなし得ない。なぜ考えるべきかと言えば、『存在と時間』では無を開示する「不安」において、そして「不安」によって統べられた先駆的決意性において本来的時間性が開示されるとされており、無と時間性との深い連関がうかがわれるからである

 さて、WMを検討しよう。私たちはまず本講演の内容を文脈を補いつつ概説的に整理し、その後でそこで生じた超越論的問題設定の限界への逢着についての議論を展開する。前者は二重の超越論的遡行と「無の無化」としてまとめられ、後者は「有限性」によって要約される。

 この「有限性」という限界への逢着こそが「存在了解」をその可能性の条件としての「存在の意味」から展開することとしての「転回」の挫折にして、「存在了解」から「存在の生起」への移行としてのいわゆる「転回」の理由を与える。かくして以下本節は三項に分たれる。第一項は二重の超越論的遡行と「無の無化」を、第二項は超越論的問題設定の限界としての有限性を、第三項は「転回」を扱い、またジジェクとの関係を改めて整理しておく。

4-1、二重の超越論的遡行と「無の無化」

 概説的に把握されるとき、本講演の最も決定的な論点は、人間が存在了解を遂行し世界を形成すること、すなわち、「現存在」になり「世界内存在」になること、それを名指す語が「超越」だが、その「超越」の可能性の条件として、平たくいえば超越があるために―そして超越は私たちが「ある」「存在する」ということを確かにおぼろげながらであれ理解している以上、すなわち、存在了解を持っている以上、確かに常に既にあるのだが―起きていなければならなかったこととして「無」と人間との接触を把握するということである。

 これはつまり、ここで先にジジェクの同一化路線と呼ばれたものの正しさが明らかになるのだが、人間の人間的なあり方を可能にしたもの、それゆえ人間にとってもっとも原初的・始原的なものとして「無」を、私たちの好む言葉でいえば「否定的なもの」を把握するということである。

 このことの正当化に向けて二重の歩みが歩まれなければならない。私たちは先にジジェクをハイデゲリアンと見なすことが可能であり、それゆえにハイデガーを通じてジジェクの思惟にまた別の正当化を与えることができると指摘したが、ここでさしあたり二重の歩みと呼ばれたハイデガーによる可能性の条件への超越論的遡行の原理的な厳密さがその正当化の中核にあり、ここをいかに把握するかにジジェクの思惟に新たな正当化を与えることの、私たちの思惟にそうすることの、いや、それだけではなく後期ハイデガーの思惟の歩みを合理的に把握することの、すべてがかかっている。

 さて、この二重の歩みを具体的に歩みはじめよう。この二つの歩みの内容をあらかじめ要約的に把持しておこう。第一の歩みとは私たち人間の全ての自己と自己以外のものとの関係、自己関係・世界関係からその可能性の条件としての存在了解へと遡行すること、簡単にいえば、どんな自己への関係、他なるものへの関係であっても、その自己なり他なるものがまずもって存在するものとして見えてくる事が必要であるということを示す事であり、第二の歩みとは存在了解からその可能性の条件としての人間と「無」との始原関係へと遡行することである。この第二の歩みがWMでなされた歩みである。

 この二つの歩み、とりわけさしあたり第一の歩みを説明するためにハイデガーの「真理」という概念に端緒をとって考えてみよう。ハイデガーの真理をめぐる語りの出発点にあるのは、言明の言明される事柄への一致という形で言明の一性質として考えられた真理、存在者について言明する実証主義諸学が前提とする真理概念である。だが、ハイデガーの議論に従うと、この一致が成立するためには、その可能性の条件として、そもそも言明される事柄がそのものとして開示されていなければならない。そのものがそのものとして、或るものがコップとして、あるいはまた別の或るものが定規として既に開示されていればこそ、それらについてコップであるとか定規であるとかする言明がぴたりと一致しうるわけである。

 ハイデガーは「真理」について探求する際、ギリシアの真理概念、すなわち、「アレーテイア(非隠匿性 = 開示)」について考えることによっても、一致としての真理の可能性の条件を考えることによっても、私たちはより本質的な真理の概念として「開性」、つまり開示性にたどり着くと述べている(GA65.338)。

 では、一致としての真理を可能にするような人間特有の開示とは正確にいかなるものか。この開示のあり方についてのハイデガーの考え方は人間的な「世界」についての先にも見たWMとほぼ同時期の定式化に現れていると見てよいだろう。すなわち、「全体における存在者としての存在者の開示性(Offenbarkeit)」(GA29-30.§68)、つまり、存在者が存在者として或る全体性、全体を形成する連関のうちで現れていることである。

 さて、ここで再び私たちが通常考える一致としての真理概念の方へ視線を転じて、そちらから考えを進めるなら、一致としての真理の可能性の条件は、先に見た通り或るものがコップや定規として、すなわち、特定の何かとして立ち現れ開示されていることであった。これがあってこそ「これはコップだ」という言明は真理として妥当するのである。では、この或るものが特定の或るもの、例えばコップとして開示されることと「世界」の規定との関係はどうなっているのだろうか。両者の関係は再び可能性の条件であり、或るものがコップとして現れることは或るものが存在者として現れること(これが「世界」の規定に含まれていた)によって可能になる。このことはハイデガーが、オンティッシュな真理・開示よりオントローギッシュな真理の方が先行している、「存在の露呈性が存在者の開示性を初めて可能にする」(GA9.131)というときに含意されていると言えよう。

 以上の連関を整理すれば、「一致としての真理←存在者の開示、或るものが特定の或るものとして現れていることとしてのオンティッシュな真理←存在の開示、或るものが存在者として現れていることとしてのオントローギッシュな真理」という順で「可能性の条件」という規定関係が成立している。この最後の矢印の正当性がいかにして証示しうるのかという点について、私たちは困難の内に陥っているのだが、差し当たり「言明」に依拠して以下のように説明できるかもしれない。

 すなわち、或るものが特定の何かとして現れていることを明確な言明にもたらすなら、例えば、”Das ist ein Buch.”となり、ここには”Das ist”が、すなわち、それが存在する、それが存在者であるということがあらかじめ含まれているのである、と。こういうわけで、或るものが特定の何かとして現れるよりも、或るものが存在者として現れること、存在の開示のほうが先行しているのである、と。

 確かにここで「言明」に依拠することが証明力を持つのかという疑問はあるし、ハイデガーのこの点についての議論を私たちが見落としているのかもしれないとの疑惑は残るのだが、少なくとも、或るものについてそれが「何か」「である(ist)」と言明する時には常に既に存在の了解、「ist」が何を意味するかの了解がなされていなければならないという事は言える。

 つまり、言葉を語る私たちの生にとって、存在了解が決定的に先行しているということは言えるわけである。私たちは言明するとき、その言明の対象について「である」と言わざるを得ないし、ということはそれらを存在者として見ざるを得ない。私たちは言葉を語る限りで諸事物が、そして何よりも自分自身が存在するという事を知っている、ということは、存在について何がしか知っているという事である。

 さて話を進めれば、かくしてハイデガーに従って一致としての真理概念の可能性の条件へと遡行を進めると、根源的な真理は存在の開示としての真理であり、そうして存在者が存在者として現れるようになることであり、更に、私たちに対する事態の開示はある全体的な一貫性を持っているから、存在者がある全体において出現するような「世界」が形成されることである、ということになるだろう。この世界のうちで或るものが特定の何かとして開示され、それに一致する言明などを発することも出来るようになるというわけである。

 さて、ここで第二の歩み、WMの主題に移ろう。第一の歩みを説明する「真理」についての議論は人間的な世界や自己との関わりから、その可能性の条件と目された存在了解へと遡行した。それは、存在者を扱う実証的諸学の真理にせよ、自分自身を含めた存在者として現れているものたちとの私たちの関係にせよ、とりわけ、それらについて何か言明する事にせよ、存在者が存在者として現れている事、つまり、存在了解を前提としていることを示そうと試みた。

 第二の歩み、人間と「否定的なもの」、「無」との始原的関係を肯定する事は、第一の歩みで正当化された事、「存在の開示/存在の了解」、つまり、「ある」ということの開示、「ある」ということの経験の一切の人間的経験に対する絶対的先行性が正しいとするなら、非常に容易であるように見える。

 というのは、「ある」ということの理解、存在の理解は「無」の理解によってのみ可能だからであり(GA3.283-284)、ハイデガーのより比喩的な語りに耳を傾けるなら、「存在者の無は夜が昼に付きまとうように存在者の存在に付きまとう。夜がもしなかったとすれば、どうして私たちは昼を昼として経験することが出来るというのだろうか!」(GA6-1.413)ということになるからである。こうして存在の絶対的先行性はそのまた「可能性の条件」たる無の絶対的先行性を含意する。この点を初めて詳細に展開したのがWMであり、そこで「無の無化」—これは無が無くなることではなく、無が無として働くことを意味するのだが—は、存在者(の素になるものたち)に対する距離を生み出す作用、それらを「滑り落ち(entgleiten)」させる「拒否(abweisen)」(GA9.112)の作用であり、だが、単に拒否する作用ではなく、むしろ、「無」である自らとの対照関係によって初めて人間に「存在」を理解せしめ、かくして、存在者を初めて存在者として開示するような作用、つまり、人間に存在了解を獲得させ「現存在」に変容させる作用であるとされる。

 「無の無化」は存在者を拒否し、それに対して距離を作り出す運動であり、その引き離されたものを始めてそのものとして、存在者として開示し見させるのであって、かくして「無」の本質は「拒否しつつの指し示し(abweisende Verweisung)」(GA65.483/GA9.114)ということになる。ハイデガーは「無」についての主張を単に空虚で虚無的で破壊的なものとする誤解に基づく批判に答えるためか、後年には「無の無化」は存在者の単なる拒絶、否定、破壊ではなく存在者を存在者として「肯定」することであると強調している(GA65.483/GA15.361)。

 さらに言えば、「創造」のハイデガー的定義、「存在者がより存在者的になること」、存在者がよりありありとすることに照らすなら、「無」は単なる否定や破壊であるどころか、それに耐え抜くことからのみ「創造」が発現するとさえ言えることになる(GA65.246)。

 以上を簡潔に言えば、「存在」「ある!」の端的な経験、「ある」ということが感じ取られる経験とは、存在者と無との境界の経験、存在者と無との差異の経験であり、これがあって初めて存在者は存在者として現れるということ、そして、私たちにとって存在者が存在者として現れている限りで、存在者の直中における無の生起があったのでなければならないということである。
 
 これをハイデガーがWMとほぼ同時期に扱った「動物」と対比すれば、ハイデガー的枠組みでは「現存在」ではない動物は「無」と触れ合うことなく「存在者(の素になる諸物)」べったりであるがゆえに「存在」「あるということ」を理解することはなく、彼らにとって諸物が「存在者として」現れることは決してないということになる。

 「無」の先行性を言うためには以上の「存在了解」の先行性だけで十分だと思われるが、このことはまた「世界」が「全体における存在者としての存在者の開示性」とされていた事に含まれるもう一つの規定、すなわち、「全体」という事からも言える。

 というのも、ある全体として現れる世界を形成するためには、全体としての存在者を飛び越えていなければならないが、存在者を全体として縁取りうるものとは「無」であり、かくして、この飛び越えは無との接触を含まなければならないからである。

 こうして「世界」の二つの規定にとって「無」が構成的であることが明らかである。整理すれば、「存在者としての存在者」の開示は「存在了解」を、従って無を必要とし、「全体」ということは存在者を全体として縁取る事、従ってこれもまた「無」を必要とするからである。

 以上より、「無の無化」が、人間が現存在になり世界内存在になることの可能性の条件であることは明らかであり、それ故、まさに「超越」とは「先立って自らを無の内へと到らせその内に保つ」ことなのである(GA9.115)。

 更にこの「無」があればこそ自由や自己も可能である。なぜなら、「無」によって存在者への距離が生起する事ではじめて存在者を規定している因果連関から逃れうるからであり、無によってはじめて存在者が存在者として、従って、自分自身も存在するものとして現れるからである(同)。存在了解に「無」が構成的であることを認めるために、存在は自由な存在者によってのみ理解されることを肯定するところは、ハイデガーの存在論、より正確には存在論の可能性の条件を問う存在論のメタ理論の一つのラディカルな点であると思われる。

 さらにまた以上と関連してハイデガーが「存在は決してある因果的な作用連関のうちで動くのではない」(GA11.120)と述べることの一つの根拠を与える事も出来るだろう。その根拠とは、存在の生起とは存在者の直中における無の生起であり、従って、存在者を規定する因果連関とは別の秩序に属するからである、というものである。

4-2、「有限性」―超越論的問題設定の限界

 こうして二重の遡行の歩みにより、一切をその可能性において担うもの、決定的に先行的なもの、絶対的に原初的・始原的なもの、まさに超越の可能性の条件として、「無の無化」、存在者への距離の生起、そのうちに人間が立つことが把握されることとなる。

 だが、この無の中心化において行き詰りの自覚が生じる。というのは、無の生起は今や超越そのものとして、存在了解を遂行し世界を形成することとして、常に既に生じているのでなければならないにも関わらず、無を開示する根本気分たる不安は極めて稀であり、人間が随意に生ぜしめうるものではないからである。ハイデガーは超越の可能性の条件、超越そのものとして「無」の生起を解明した後、以下のように述べる。

しかし、長らく差し控えられてきた憂慮がとうとう言葉へともたらされなければならない。現存在が無の中に自己を保つことにおいてのみ存在者に関わりうる、それゆえ実存できる[※実存とは、自らの存在に関わること、存在者としての自らへ関わることである]のなら、そして無は根源的には不安のうちでのみ明らかになるのなら、私たちは単に実存できるためだけにも、いつもこの不安の中で揺れていなければならないのではないか?だが、私たち自身この根源的不安は稀だと認めたのではなかっただろうか?しかるに、何はともあれ私たちはみな実存しているし、私たちが自身でない存在者や私たち自身である存在者に対して関わっている―この不安なしで。不安は恣意的な発明、それに帰された無は誇張なのではないか?(GA9.115-116)

 だが、ハイデガーはこの疑問を続いて以下のように述べる事によって大筋において否定する。

だが、この根源的な不安が稀な瞬間においてのみ起こるという事は何をいっているのだろうか?無はその根源性においてはさしあたりたいてい遮蔽されてしまっているということ以外のなにものでもない。では、このことはどうして起こるのか?私たちが確固たる仕方で存在者へと全く自らを喪失してしまうことによってである。私たちが私たちをあちこちに追い立てる日々の雑事の中で存在者へと身を向ければ向けるほど、私たちは存在者を存在者として滑り落ちさせないのだし、私たちは無から離反することになるのである。そうして私たちは自らを現存在の公共的な表面性のうちへとますます確実に押しやるのである。(GA9.116)

 ここで何が言われているのか。ハイデガーは原初的な不安と無は誇張であるという疑義を否定する。無と不安は原初的にあったのだし、今もある。ハイデガーは直後に述べている。「無は間断なく無化する。私たちが日常的にそのうちで動いている知をもってしては、私たちはこの生起を知ることがないのだが」(GA9.116)。

 ハイデガーは二重の超越論的遡行と「無の無化」の先行性と、「無の無化」ないし「不安」が稀にしか経験されないという矛盾した事態を前にして、前者の議論、私たちが前項4-1で展開した議論を「恣意的な発明」「誇張」として放棄するのではなく、それはそれとして現に存立するのであって、単に「遮蔽」されているだけであるとする。そして、この遮蔽の原因に関してハイデガーは存在者への自己喪失を明らかに「頽落」の概念を想起させる仕方で語っている。「無の無化」は現にあるが、「頽落」している私たちには見えないというのである。

 私たちの見るところ―私たちは以下でこのことを示そうと試みるのだが―超越論的遡行とその結果として示された「無の無化」の絶対的先行性を放棄しないというこの決断は後期ハイデガーの全てを担っている決断である。というのは、後期ハイデガーの思惟の主要部分は、超越論的な遡行によって「あったのでなければならない」と想定せざるを得ない「無の無化」と私たちの―ハイデガー風に言えば―「さしあたりたいてい」の現実におけるその不在との落差を説明するために必要とされたものとして捉えるとき理にかなったものとして立ち現れるからである。

 だが、まずはWMの枠内で話を進めよう。先ほど指摘された「落差」との関係で注目しなければならないのは「有限性」概念である。「無の無化」は、今や人間が現存在になり世界内存在になることとしての「超越」そのものだから、「無」を開示する不安の稀さと非随意性は「超越」が人間主体の為す業ではないということを含意する。

 このことをハイデガーは有限性概念を二重化・自己関係化させることによって、つまり、有限性概念を有限性への有限性へと押し広げる事によって表現する。カント書において「超越のもっとも深い有限性」は存在了解に対して「現存在」が「自らを無のうちへと到らせその内に保つ」ことが構成的であることだと言われていたことを念頭におきつつWMの以下の一節を参照しよう。

私たちは自らの決意と意志によって自らを根源的に無の前のもたらすことが出来ないほどに有限である。有限化は現存在のうちに、もっとも固有でもっとも深い有限性そのものが私たちの自由に対しては与えられていないというほどに、それほどに深淵的に刻み込まれているのである。(GA9.118)

 ここに同年の仕事でありながらカント書とWMの間に存在する決定的な差異がある。カント書では「有限性」は大要二つの事を意味したということが出来る。

 第一は直観の有限性であり、無限な根源的直観が直観することによって直観されるものを創造するのに対して、人間の有限的直観はオンティッシュに、つまり、存在者的なレベルでは創造的ではなく、外的な触発を必要とする。これが直観の有限性である。

 だが、第二に、外的な触発を必要とするが故に、人間は外的な触発を「対して立たしめ(gegenstehenlassen)」、外的な触発をあらかじめ「対象性(Gegenständlichkeit)」へと成形し、「対象」となすのでなければならない。直観の無秩序な多様を対象へと変形し、一貫した経験の領野を作り上げる主体のアプリオリな綜合-統一過程があるのでなければならない。だが、この「対して立たせる」ことをハイデガーは先に引用した通り「自らを無の内へと到らせその内に保つこと」(GA3.72)として把握したわけだから、ここに第二の「もっとも深い」「有限性」があると言える。

 人間の直観が「有限」でありオンティッシュに創造的ではないが故に、人間はオントローギッシュに創造的であり、直観されたものが対して立ち、対象として出会われるようになるような「対象性」の領野をアプリオリに作り出さなければならない。これを作り出すことがオントローギッシュに創造的と言われるのは、これをハイデガーが存在者を存在者として可能にし出会わしめる「存在了解」と重ねあわせて理解していたからである。ところでこの存在了解が「無」と相関してのみ可能であるがゆえに、このオントローギッシュな創造性はまたもやこの「無」との関わりの意味で「有限性」であるということになる。

 だが、カント書にあって、確かに存在了解の形成としての超越が二重の有限性によって担われているにせよ、ハイデガーが、人間は存在了解を作るという意味で「オントローギッシュに創造的」であることを認めたという事実(GA3.§25)、さらにその創造性をカッシーラーとの討論ではやはり「無限性」と呼んでいるという事実は残る(GA3.280)。

 人間主体が「対象性」を作り出し、存在了解を創造する。それは確かに二つの有限性、直観の有限性と、まさに存在了解が「自らを無の内へと到らせその内に保つ」事である限りで「無」の意味での「有限性」に貫かれている。しかし、それでもやはりそれは存在了解の創造として創造的であり一種の無限性なのである。ここで「存在了解」の起源、すなわち「無」「否定的なもの」の起源は自己を定立する超越論的な主体にある。ここまではジジェクによっても認識され、一部、自分の議論の論脈への取り入れられている部分だと言えよう。

 だが、WMは有限性を有限性への有限性へと二重化する。私たちは「自らを根源的に無の前のもたらすことが出来ないほどに有限」であり、「有限化は(…)もっとも固有でもっとも深い有限性そのものが私たちの自由に対しては与えられていないというほどに、それほどに深淵的に刻み込まれている」。否定的なものの起源は主体のうちにはない。こうして存在了解の形成、超越は人間主体の遂行することではないことが明らかになる。ならば、超越は主体の自己根拠づけとしては破綻することになるだろう。
 
 このことをハイデガーはWMと「同時に成立した」(GA9.123)『根拠の本質について』の末尾で示している。本稿の概要をさらっておこう。ハイデガーはライプニッツへの参照を通じて根拠とは真理を根拠づけるものとしてあり、従って真理概念によって根拠の本質が規定される事を示す。ハイデガーの認める真理とは開示としての真理であり、根本的には存在そのものの開示としての存在論的真理である。だから根拠とは存在の開示性を基礎付けるものでなければならず、それはもちろん「超越」である。だが、WMと「同時に成立した」、つまり、有限性が二重化されている本稿にあって「超越」はもはや超越論的主体の自己根拠づけとしては把握出来ない。根源的な根拠としての超越自体は無根拠である。本稿末尾近くを引用しよう。

しかし、根拠への自由の意味での超越が、徹底的に深淵/無根拠(Abgrund)として理解されるなら、私たちが現存在が存在者の中で/存在者によってとらわれていること(Eingenommenheit)と名付けた事柄の本質もそれによって先鋭化することになる。現存在は―確かに存在者の直中に情状的に、存在者に徹頭徹尾規定されながらではあるが―自由な存在可能として存在者のもとに投げられている。現存在が可能性に従って自己であり、その自由に応じてその都度事実的に自己であるということ、超越が原生起として時熟するということは、この自由自身の力のうちにはない。そのような無力(被投性)は現存在のもとに存在者が押し掛けてくることの結果ではなく、現存在の存在そのものを規定している。すべての世界企投はそれゆえ被投的なものである。(…)現存在の有限性の本質は根拠への自由としての超越において自己を明らかにする。(GA9.175)

 こうして「可能性の条件」への超越論的遡行は、もっとも根源的な可能性の条件からする一切の根拠づけ、人間主体、超越論的主体による自己根拠づけとしては、「超越」そのものである「無の無化」の生起の稀さと非随意性、それへの人間の無力―有限性への有限性―の自覚を契機として、崩壊する。

 だが先に指摘した通り本質的で決定的なことはmハイデガーが二重の超越論的遡行を、つまり、一切の人間的な自己関係・世界関係から、その可能性の条件としてのハイデガー流の「世界」と「存在了解」へと遡行し、「世界」と「存在了解」からその可能性の条件としての「無の無化」へと遡行する二重の歩みとその帰結を、「恣意的な発明」「誇張」などとして放棄することはしていないということである。

 超越論的思惟により見いだされ、原初的にあったはずとされる「無の無化」「超越」と、経験的に明らかな「不安」と「無」の稀さと非随意性の矛盾的事態を、ハイデガーは前者を放棄する事によって解消するのではなく、「無の無化」としての「超越」は確かにあったし現にあるのだが、頽落する人間には見えないとするのである。この選択により「超越」そのものが維持されるとすれば、それは「自由自身の力のうちにはなく」、まさに人間のなす「存在了解」としてではなく(先の引用にある)「原生起」として、「存在の生起」として把握されざるを得ない。こうしていわゆる「転回」へと話を移す事が出来る。

4-3、いわゆる「転回」とハイデガーが気づいた「何か」としての「有限性」

 さて、私たちがさしあたり転回を二つの意味で把握しておいたことを想起しよう。ハイデガーにとって転回の第一の意味は「『存在と時間』『時間と存在』という題目によって名付けられた事態そのものに属する」ものであり、これを私たちは『存在と時間』の既刊部分でなされた可能性の条件への遡行がその終着点としての「時間性」に到達することで反転し、そこから時間性が存在了解の可能性の条件、すなわち、存在の意味として明らかにされることで、存在了解がその可能性の条件からして展開され根拠づけられることだと把握した。

 「全体が逆転する」「転回」とは、可能性の条件への遡行から可能性の条件からの展開へという方向転換のことである。ヒューマニズム書簡の示唆するところによれば、この転回をいい述べることに失敗があり、「形而上学の言葉」を超えた新たな発端が必要とされた。このことは「主観性/主体性を捨て去っていく」「思惟」とされており、存在了解から存在の生起へ、すなわち、意味から真理への移行と同義であることは明らかである。

 この思惟の立場の移行が転回のもっとも人口に膾炙した意味、いわゆる転回であり、ハイデガーによっても一応認められていると思われる意味である。というのも先に見たように「意味」「真理」「場所」という形で自分の思惟の主要語の変遷を明らかにした後年のゼミナールの記録では、「存在の意味という語が存在の真理という語のために放棄されることで、(…)存在自身の開性を、(…)現存在の開性に対して、より強調するようになる」とした上で、「転回とはこのことを意味する」と言われているからである(GA15.345)。そして転回の二つの意味の関係は、以上からして、思惟の事柄そのものに属する転回をいい述べることの失敗が、思惟の立場のいわゆる転回を必要なものとしたというものである。

 しかるに以上三節にわたる検討を経てこの二つの転回を統べている論理は今や明確になったと言えよう。簡単にさらっておこう。

 『存在と時間』既刊部分で存在了解が可能になる場所である現存在をその根本体制としての世界内存在について分析し、その可能性の条件として時間性を取り出したハイデガーは、存在了解の可能性の条件、「存在の意味」は「時間性」であろうとの見通しを得たのだが、このことを明確に示すために「超越」の可能性の条件の問いという新たな問題設定を行う。

 この問いはまさしく超越論的問題設定の先鋭化であり、ハイデガーは一切の人間的な世界関係・自己関係の可能性の条件、それに先だって存在しなければならないものとして、「存在了解」あるいは「世界」を解明し、更に「存在了解」と「世界」の形成こそ「超越」なのだから、「超越の可能性の条件の問い」という形で、更に「存在了解」と「世界」形成の可能性の条件、それに先立ってあるのでなければならないものを問う。

 その結果取り出されたのが「時間性」よりもむしろ「無の無化」、全体としての存在者を滑り落ちさせる、存在者一般への距離の生起である―時間性と無との連関への問いは私たちの力不足のために今は開いたままにしておく。以上の過程を私たちは二重の超越論的遡行と呼んでおいた。

 その遡行の極点、超越論的問題設定一般の、とは言えなくとも、少なくともそのハイデガー的な遂行の極点・終着点としての「無の無化」を問うWMは、だが同時に超越論的問題設定のある限界をも取り扱う事になる。それを表現するのが有限性の二重化、有限性への有限性、無の無化への無力である。

 このことの自覚の発端は超越論的な思惟によってそもそもの始めに「あったのでなければならない」とされる「超越」「無の無化」と経験的に見いだされる「無の無化」の不在、稀さと非随意性の矛盾である。この両者の矛盾的関係、解消を要する敵対的緊張関係にあって、ハイデガーは超越論的遡行そのものを放棄することはしない。

 ここで超越論的遡行という思惟方法そのものの問題性、あるいは少なくともそのハイデガー的な遂行、すなわち、先の二重の超越論的遡行に潜む誤りを剔抉しようと試みることも可能ではあろうし、そこにのみハイデガーの本質的批判が可能になる場所があると思われる。

 とはいえ、私たち、というより、いまこう書いている「私」にはその道はまだ見つからないし、実際のところ、その積極的な動機もない、というのも、この二重の超越論的遡行によってこそ「否定的なもの」―今や明らかだろうが、「否定的なもの」はハイデガーが「存在」と呼んだもののもっとも根本的な側面である、というのも「ある!」ということの端的な感受、存在の赤裸裸な開示としての「存在の真理」を可能にするのは存在者との距離の生起、「否定的なもの」の生起であり、それゆえ、「存在」の本体とはこの距離としての「否定的なもの」だからである―と人間の最始原的関係という私たちの中心的思惟が正当化されるから、ここにハイデガーを通じてジジェクの思惟および私たちの思惟に新たな正当化を与えることの中心点が存在するからである―もちろん、この点が批判されうることが示されるならば意見を変える準備はあるし、私たちは密かにそれを、つまり否定的なものの閉域を私たちが今考えている仕方、否定的なものの極限化とその十全なる通過という仕方とは別の仕方で脱出することを、望んでさえいるのかもしれないのだが。

 それはさておき、ここでのみ批判が可能になるということの理由を解明しておくと、この両者の矛盾的関係にあって超越論的遡行を放棄しないことが選択されるならば、つまり、第一に、もし先の二つの可能性の条件への遡行、存在了解への遡行と無への遡行が正当だと認められ、そして、第二に―こちらは誰もが認めるだろうが―もし私たちが「さしあたりたいてい」は「無の無化」を感知せずに存在者へと頽落していることが認められるなら、後期ハイデガーの主要概念と主要構図こそが事態に即し理にかなったものとして立ち現れ、完全に正当化されざるを得ないように思われるからである。

 その主要概念の第一が「存在の生起」である。「無の無化」ないし「超越」がそもそもの初めに原初的にあったのでなければならず、しかも、それは現になく人間によっても随意に引き起こされるものではないとしたら、それは人間によっては基礎付けられない形で「生起」したのでなければならないし、その生起は存在者の直中における「無」の生起として、「決して[存在者を統べているような]ある因果的な作用連関のうちで動くのではない」(GA11.120)ということになるから、無根拠・深淵的な「存在(そのもの)の生起」を想定せざるを得なくなるからである。

 そして次節の展開を少々先取りするなら、第一の遡行によって、なんといっても存在了解は人間の人間的なあり方の一切に先立って存在しなければならず、しかも第二の遡行によって、それは更に「無の無化」としての「存在の生起」によって先立たれなければならないから、「無の無化」としての「存在の生起」は「元初(Anfang)」として原初的に生じていたと考えなければならず、しかも、その生起、「ある」ということの純粋な経験が今や私たちの視界のうちになく、私たちがそれを経験しない以上、存在には退去するということが属することが、「存在の退去(Entzug des Seins)」があるということが正当化されることになる。

 そして「存在」は無根拠に生起するのだから、この状況を打開しうるのはもう一度「存在」が、「無の無化」が生起すること、つまり、「Ereignis」が生じること、そうして再び一切の始まりとなる、つまり、「ある!」が経験されて、そこからはじめて世界が意味的に開かれ来る「開闢」そのもののやり直しとしての「第二の元初」への移行が生じることだけであるということになる。

 だが、先走るのはこのくらいにして、「転回」を言い述べることにおける挫折といわゆる「転回」の問題に戻ることにしよう。その内的論理を三たび要約するなら、「転回」、すなわち、存在了解のその可能性の条件からの展開は、まさにその可能性の条件たる「無の無化」への到達において超越論的思惟の帰結と経験的現実の乖離を認識し、だがそこで超越論的思惟を放棄しないことを選択することによって、超越と無の無化そのものの存立は擁護され、ただそれらのあり方に関して「存在了解」から「存在の生起」への、現存在から存在への、「意味」から「真理」へのいわゆる「転回」を必然的なものとした。

 この「意味」から「真理」へのいわゆる「転回」の本質的な場所を、今までの議論から明らかな通り、私たちはWMに見いだす。その根拠を列挙的に述べておこう。第一に、例えば後年の後書きが「存在者があるということという驚異の中の驚異」(GA9.307)について語っていることから、そして講演そのものの中心テーゼ「不安の無の明るい夜においてはじめて存在者の存在者としての根源的な開性、それは存在者であって―無ではないということが立ち上る」(GA9.114)から明らかな通り、ここで恐らく初めて存在そのものの、「あるということ」の端的な開示、つまり、「存在の真理」が―ハイデガーにとり真理とはさしあたり「開示/非隠匿性」である―直截に取り扱われたからである。

 第二に、後年にWMに付された「形而上学の根底への戻り行き」と題された導入が「形而上学とは何か」という問いは形而上学の、形而上学には見えない根底への道行きであり、形而上学を超えた立場から発されていると強調しているからである。ハイデガーの把握するところ、西洋の形而上学は存在者から出発して存在者の存在へと向かう遡行を常としており、それゆえ、そこでの存在は「存在者性」なのだが、そのような遡行を支えているもの、形而上学そのものを支えているものは、存在者が存在者としてすでに現れていることである。この先行事実に基づいてのみ存在者からその存在(者性)への遡行は可能である。しかるにこの先行事実は「無の無化」にその可能性を負っており、だからハイデガーはWMの序文を「形而上学の根底への戻り行き」と題しているのである。

 この存在者から遡行された存在とは区別された、まずもって存在者を存在者として開示することを可能にする「ある!」の端的な感受の、「存在の真理」の次元を、ということはつまり「無の無化」の、ある後退運動の次元を指し示すために或る時期採用されたのが「Seyn」という用語法であるとみてよいだろう。それは存在者を存在者として初めて開示し、存在者と「存在(者性)Sein/Seiendheit」との形而上学的な存在論的差異を初めて作り出すものとして「存在と存在者との、統べる立場にある(waltend)差異としてのSeyn」(GA9.201)として簡潔に定式化されている。後にはSeynの語は放棄され、Seinに×を付してみたり、あるいはEsといった語が好まれるようになるとみてよいだろう。

 この用語法に賭けられているのは、形而上学が見ることができなかったものを名指すことであり、ハイデガーの見解によれば、西洋の形而上学は、自らが絶えず依拠する存在論的差異―それは存在者が存在者として現れていることのうちに含まれている―をそのものとして問題にすることが出来なかった、つまり、「無」を見ることが出来なかったのであり、すなわち、Seynとしての存在を忘却していたわけである。

 第三に、いわゆる「転回」は意味から真理への移行、人間的現存在のなす存在了解から存在の生起への重点の移動であるが、WMにおいて初めて有限性概念が二重化することにより、すなわち、有限性への有限性が問題になることにより、存在了解を形成するとされていた超越に関して、その遂行の権能が人間の側にあるのではないことが明確にされるからである。以上によりいわゆる「転回」の論理とそれが生じた場所に関しての解明は十分になされたと思われる。

 続いて、ここまでの解明の成果からジジェクとの関係を整理しておこう。私たちは本章第0節でジジェクのうちにハイデガーに対する差異化と同一化という両義的な態度の存在を明らかにしたが、第3節では差異化における中心的議論、ハイデガーはジジェクのいう「前存在論的」を扱いえないという議論が、転回の遂行においてまさに存在了解の可能性の条件を問うという形で前存在論的次元そのものが問題になっていたことが明らかにされることで棄却された。

 続く第4節ではジジェクの同一化の方向性の正当性が示されたと思われる。というのも、この「前存在論」的な次元で生じていなければならなかったことはハイデガーにとっても「無の無化」という存在者への距離の生起、つまり、「否定性」だからである。

 この並行関係の一つの傍証と見なすことが出来るのは、ジジェクがある映画に即してジジェクのいわゆる「行為」、「幻想を横断」し「主体の解任」を経験することで、自らを取り囲む象徴秩序の一端解体し、それを初めから再構築する、「生を最初から始めなおす」という意味での「行為」を解説した部分、そこでの用語法である。

 ジジェクのいうところでは、「行為」を完遂した映画中のヒロインは、ヘーゲルのいう「抽象的自由」「抽象的否定性」を経験したのだが、それは彼女が火山の雄大な噴火に直面することで「her bare “being there”」に還元されたことによるという(Žižek [2008c:49])。「her bare“being there”」では分かりにくいが、この部分の独訳は「ihr reines>Dasein<」(Žižek [1993b:40])、すなわち「あるということ」の純粋な感受であり、まさにWMのハイデガーが「不安」のうちでの「無の無化」の経験において用いた言葉である。

私たちは不安の中で「揺れ動く」。もっと明確に言えば、不安が私たちを揺り動かす、というのも、不安は全体における存在者を滑り落ちへともたらすからである。そのことのうちには、私たち自身―存在者である人間―が存在者の直中で自らをともに滑り落ちさせるということも含まれている。それ故根本的には「あなたにとって」とか「わたしにとって」不気味なのではなくて、「人」にとって不気味なのである。何も支えとなるものがない揺れ動きの徹底的な振動にあってただ純粋な現-存在(Da-sein)だけが未だ現にある。(GA9.112)

 ここでやはりジジェクはハイデガーのこの一節へと暗黙の参照をしているように思われる。だが、ジジェクが見ていない、少なくとも見ていないように見える点―というのも、私たちがこれから言うことをジジェクが見落とすことはほとんどあり得ないようにも思われるからだが―もWMの内にある。それが有限性への有限性である。

 差異化するジジェクは、ハイデガーは主体に内在する否定的なものの次元から「後ずさり(recoil)」したといい、同一化するジジェクにしろ、ハイデガーは1930年代における立場の転換の前に「何か」に気づいたと言ってみたり、「真に問題的で中心的な点」としてハイデガーによる「「存在論的不均衡」ないし「錯乱」を主体と呼ぶこと」の「拒否」を挙げてみたりするだけで、そのことの理由、そこにある洞察の具体的内容に―私たちの知る限り―踏み込んでいない。

 だが、以上の全てに応答しうる論点が、私たちが有限性への有限性と呼んでいるものであると思われる。具体的に見ていこう。

 第一の差異化の議論から取り扱おう。ジジェクは以下のように述べている。

ハイデガーが彼の『存在と時間』の探求の中で実際に出会ったのはカントの超越論的構想力によって告知されている根源的な主体性の深淵であり、ハイデガーはこの深淵から存在の歴史性の思惟へと後ずさり(recoil)してしまったのである。(Žižek [2000a:23])

 だが、今や私たちにとって事態は正反対であることは明らかだろう。ハイデガーはカントの超越論的構想力によって告知された主体性の深淵ないし否定性から後ずさりしてしまったどころか、それをWMで明確に主題化しつつ、その深淵性、否定的なもの、無を経験することについての人間の無力についてこそ問題にしていたからである―その経験から逃れようとするのではなく。この無力の表現が有限性への有限性として結実している。

 第二の同一化への傾向性のうちにある議論を見るなら、ジジェクが曖昧なままにしておいている問題に、有限性への有限性を答えとして提示することができる。

 すなわち、ハイデガーが立場を変更する前に気づいたこととは、超越論的になければならないとされる事柄、原初的にあったのでなければならない超越ないし無の無化と、そんなものが差し当たり存在していないという経験的事態との矛盾的関係であり、これが「無の無化」の生起、超越そのものに対する人間の無力、すなわち、(有限性への)有限性概念へと結実する。

 そしてハイデガーが始まりにある「存在論的不均衡」を主体と呼ばないことも、ここから説明出来るだろう。先に見た通りカント書までのハイデガーは無造作に否定的なものの起源を主体に帰しているのだが、WMでの有限性の二重化に伴い、否定的なものの起源はもはや主体に帰せられなくなるのである。無の無化は人間の力能のうちにはない。だからハイデガーはそれを主体と呼ばず、存在そのものの生起として把握するのである。

 かくして両者の有限性概念にも違いが見られる。ジジェクの有限性概念はカント書を主に参照するものであり(Žižek [2000a:Ch1])、少々内実を変えてはいるが基本的に4-2で明らかにしたカント書の有限性概念をなぞっている。

 先に見たようにカント書のハイデガーの述べるところ、人間の直観は直観されるものを創造しないという意味で有限であり外的な触発を必要とするが故に、外的な触発をあらかじめ対象性へと成形し一貫した経験の領野を作り出さなければならない、ハイデガー的にいえば存在了解を作り出さなければならない。だがここに無の介入が必然的であるために、超越は有限的である。このように二様の有限性が存在した。

 ジジェクの有限性もこれに並行している。曰く、直観が有限であるが故にどのような意味的な世界の構成、超越論的構成も、偏ったもの、偏った見方の押しつけであるという暴力性を含んでおり、その構成の過程には所与のものを解体し再構成する絶対的に否定的なものの契機が不可避のものとして存している―そしてこれが無であり、死であり、有限性である―というのだから。

 だが、再三主張されたようにハイデガーはWMで有限性を有限性への有限性へと高める。確かに「無」という意味での「有限性」が超越論的な思惟のプロセスに従えば、あったしあるのでなければならないにせよ、経験的にはその有限性は「さしあたりたいてい」経験されない。ハイデガーにおいて有限性はこの有限性への無力を指し示すものとなり、その最深次元において超越論的な思惟プロセスそのものの行き詰まりを指す名となるのである。

 ハイデガーによる超越論的な道の放棄を巨大な損失として嘆き(Žižek and Daly [2004:27])、また絶対的否定性を超越論的思惟プロセスによりあったはずであるとして正当化するジジェクはこのことを、超越論的にあるはずのことの経験的な不在という行き詰まりの表現としての有限性を、明確に見据えているようには見えない。ジジェクが「ハイデガーの達成を個別に見た時に最も偉大な達成は、有限性を人間であることの肯定的な構成要素として十全に仕上げたこと」であり、「有限性こそが超越論的次元への鍵であることを明確にしたこと」(Žižek [2009a:273])であるといってハイデガーを称賛する時にも、また有限性に関するその他の言及にあっても、その有限性は先の二つのレベルに限定されており、三つ目の有限性概念が射程に収められることはないのである。

 だが―ここでもう一度議論をひっくり返すなら―ジジェクはこの二つの有限性のレベルではハイデガーを今見たように称賛しているのにもかかわらず、時にハイデガーの有限性の立場に対して無限性の立場を対置することがある(Žižek [2000a:293-294][2009a:110])。

 そこでジジェクの述べるところは、「死の欲動」はまさに絶対的に否定的なものであり、無であり、死であり、「有限性」でもあるのだが、それは同時にある生の過剰の次元でもあり、「無限性」でもあるということである。このことの意味は次章に持ち越すとして、さしあたりジジェクが二つの有限性のレベルではハイデガーを称賛しているにもかかわらず、他方でハイデガーの有限性の立場を無限性の立場から批判している事実は、ジジェクがやはりハイデガーのうちに容認しえない第三の有限性を見ていることを推測させる。

 ジジェクはやはり以上のことを少なくとも何らかの仕方で知っており、自覚的にハイデガーの第三の意味での有限性に自らの無限性の立場を対置し、「存在の歴史」に対して主体の立場を掲げているのかもしれない。そうであるとすれば、ここでジジェクにそうさせる根拠があるのかという疑問が生じる。だが、この問題は後にハイデガーのヘーゲル理解を検討するところ及び次章で扱うこととして、今はもう少しハイデガーの歩みを追っていこう。

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補論 ジジェクの〈現実界〉概念―ジョンストンの『ジジェクの存在論』によりながら
第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(2)

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. 後に示されるように、この言明はハイデガーから見ても正当なものである。
2. そんなにジジェクを持ち上げる義理もないのだが。
3. 以下、ハイデガーからの引用は全集(Gesamtausgabe)から行う。既に邦訳がある場合は適宜それらを参照しつつ、最終的には引用者が訳している。『ヒューマニズム書簡』についてのみ、渡邊二郎による既存の邦訳をそのまま使用した。
4. ところで、この転倒が、なぜこれほど頻繁に生じ、かつ自明なこととして通用しているのかを説明することが「頽落」概念の賭け金の一つである。というのも、「頽落」とは、現存在が世界内存在として関わる事物的存在者の方から、自分を含めて一切を理解しようとする傾向のことを示しており、現存在が自らを存在者とその総体としての世界と並んで存在するような存在者、他の存在者と並んで存在するというのは事物的存在者に特徴的なあり方なのだが、そういう存在者として、それゆえ、世界との間にこれから初めて架橋がなされるのでなくてはならない存在者、つまり、客観と分離された認識主体として理解することは、頽落の一帰結だからである。
5. 時間性と無との連関はもっと厳密かつ詳細に考えられるべきであるが本稿はこのことをなし得ない。なぜ考えるべきかと言えば、『存在と時間』では無を開示する「不安」において、そして「不安」によって統べられた先駆的決意性において本来的時間性が開示されるとされており、無と時間性との深い連関がうかがわれるからである
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