第四章 ジジェクの倫理 “Gelassenheit” vs “Ne pas céder sur son désir ”

0、はじめに―ジジェクの「倫理」へ

 本章の目的は前章で残された問題を引き継ぎつつ、それへの応答としてジジェクの「倫理」を考えることである。残された問題とはジジェクとハイデガーの差異の問題であり、それは始原的な否定性をハイデガーが「主体と呼ぶこと」を「拒否」している点に収斂する。私たちは、この「拒否」の理由を「有限性」、正確には「有限性への有限性」と私たちが呼ぶものに求めた。

 他方でジジェクの方はといえば、ハイデガーの「有限性」のこの次元を明確には見ていないようであり、ハイデガーの「拒否」に正面から対して、それをその根拠に遡って解明し、そこからして始原的な否定性をやはり主体と呼ぶべきであるという論拠を提出しているようにはさしあたり見えない。

 だが、私たちがこの点において少なくとも観測しうる事実として二つのことを持っている。すなわち、前章でも簡単に触れられたようにジジェクが時折ハイデガーの「有限性」の立場に対して「無限性」の立場を対置していること、そして、その際にジジェクは「死の欲動」が「生の過剰」でもあることを強調しているということである。

 とすれば、ここから私たちはジジェクがハイデガー的な有限性、つまり「否定的なもの」に対して無力な人間に対して、「生の過剰」、ある過剰な力能を持つものとしての主体を対置し、そうして主体に「否定的なもの」の生起に対するより積極的な参与を承認し、そういうものとして主体をある点において無限的であると考えているのではないかと推測しても良いだろう。

 そしてこれは結局人間主体に対して「否定的なもの」の生起に対して積極的な役割を認めうるのかどうかに掛かっている。もし、人間主体が否定的なものの生起に対して積極的なイニシアティブを持っているならば、確かに、この始原的な否定性を「主体」と呼ぶこと、人間主体に「生の過剰」を認めること、そしてそれを一種の無限性と解することに一定の根拠があることになるだろう。

 こうして私たちが探求するべき領野が見えてくる。それは人間が「何をなすべきか」という意味での倫理の領野である。そこにおいて人間主体に否定的なものの生起へのイニシアティブが認められているか認められていないかが決定されるからである。そして倫理の領野に注視するとき、実際に、ハイデガーとジジェクとの差異が見えてくる。それが「Gelassenheit」と「Ne pas céder sur son désir」との差異である。

 本章は長く複雑な構成を持った前章とは異なって短くシンプルに構成される。第一節は後期ハイデガーの倫理的立場と見なしうるもの、すなわち「Gelassenheit」について解明する。第二節はジジェクの倫理的立場を特徴付けるラカン由来の「Ne pas céder sur son désir」、つまり「欲望に関して譲歩するな」にジジェクが与えている意味を解明する。第三節で以上からしてジジェクとハイデガーの差異を明確化する。第四節は第一部全体を総括し、第一部の歩みを締めくくる。

1、Gelassenheit―「有限性」の中で

 さて、後期のハイデガーが「何をなすべきか」という意味での倫理について述べたこととして私たちはGelassenheitという語を取り出すことが出来る。私たちの主張するところ、この倫理的態度は「有限性」の内で「存在の生起」へと開かれてあるために要請された態度であり、「存在の生起」が「無の無化」である、存在者との距離の生起であるがこそ、Gelassenheitは存在者に「否」を言い、それから身を引き剥がすことなのである。この点を簡単に確認していこう。

 まず重要なのはカント書の欄外注である。基礎的存在論のプログラムを定式化している最終章、私たちが前章で引用した「無」を「超越のもっとも深い有限性」とした一節と同じ段落でハイデガーは、この「自らを無のうちへと到らせ保つ」ことは「恣意的な時折試みられる無の「思惟」ではなく」「すでに存在しているもの(存在者)の直中で自らを情状的に見いだすこと一切の根底にある」「生起」であるとした上で、この「生起」の語に対して後年欄外注を付けている。

 すなわち、「無化する振る舞い、この振る舞いは、しかし、Gelassenheitの中に根拠づけられている」。これだけでもうGelassenheitが「無の無化」=「存在の真理」の生起を何らかの意味で準備するために必要とされる姿勢として構想されていることは明らかだろう。

 Gelassenheitがこのような目的に奉仕するものであるというところから、それが如何にあるべきかを考えてみて得られる内容と、実際にハイデガーによってGelassenheitについて述べられたことは大方で一致すると見ることが出来る。

 まず前者の方向で考えてみよう。「無の無化」とは、存在者との間の距離の生起であり、そうして存在者と無の境界が経験されることが、まさに「あるんだ!」ということの端的な感受として「存在の真理」である。では、このような経験に対して開かれてあるためにはどうすればよいのか。すぐに思いつくのは、存在者に執着しないこと、それから距離を取ることだろう。

 ハイデガー曰く、「人間が存在者的で無くなれば無くなるほど、言い換えれば、人間が自分をそれとして見いだすところの存在者へと自らを固着させることが無くなれば無くなるほど、人間は存在に近づく」(GA65.170-171)。

 さて、続いてここでハイデガーによる明示的なGelassenheitへの言及に目を移してみよう。具体的には単行本”Gelassenheit”に収録された二つのテキストであり、全集13巻の”Zur Erörterung der Gelassenheit”と16巻の”Gelassenheit”である。

 より簡潔な規定を行っている後者の方から見ると(GA16.526-529)、そこでGelassenheitは一切が計量され技術的に利用されるようになった現代において私たちが新しい土着性を得ることへの道を開く態度として導入される。

 確かに「技術的な諸対象」の使用は現在において避けられず、私たちはそれに”Yes/Ja”を言うことが出来るのだが、他方で同時にそれを「私たちのもっとも内的で本来的な所には関わらない」ものとして「それ自身のもとへと放置する(auf sich beruhen lassen)」という意味で”No/Nein”というべきである。このことによって技術的な諸対象は「絶対的なものではなく」、「より高きものに依存している」ものとして現れる。

 さて、そしてこの態度は新しい土着性を開くもう一つの態度、「秘密への開性」と密接に連関している。ここで「秘密」と訳した「Geheimnis」とは、ハイデガー曰く、自らを「隠匿」しつつ「到来」するもの、それ自身を示しつつ「退去」するものである。もちろん、これが「存在」を指し示していることはすぐに見て取れる。

 技術的諸対象、存在者に対して本質的なところでは「否」ということで、自らを退去せしめる存在、あるいは私たちの理解するところ退去そのものである存在へと開かれてあることが出来るというわけである。この二つのことの連関を明示的に根拠づけるとするなら、今まで見てきたように存在が退去として存在者からの距離であるがゆえに、存在者に否を言うことで存在へと開かれてあることが出来るのだと考えることができよう。

 続いてより本格的な解明が行われる前者の『場所究明(Erörterung)』に向かうとしよう。本テキストは対話篇で、すべての発言がハイデガーの真意というわけではないと思われる点に少々困難がある。この形式自体がハイデガー自身の暗中模索という事態の表現であるとも言いうるだろう。

 だが、それはそれとして具体的な検討に移ろう。先に検討した後者のテキストではGelassenheitに関して人間が技術的諸対象をlassenする、放つということが語られていたが、このテキストにおいては人間が究極的には「存在」と言われるべきものへとlassenされている、受け身のgelassenという側面が際立たせられている。とすれば、Gelassenheitはさしあたり、先のテキストに従って、存在者を「(解き)放っている(lassen)」ことであり、このテキストに従って、存在へと「(解き)放たれてある(gelassen)」ことであるということができるだろう。より詳細に見ていこう。

 本テキストでGelassenheitは思惟の本質規定とされる。曰く、「思惟とはGegnetへのGelassenheitである」(GA13.56)。では、会域などと訳されるGegnetとは何か。それへ話を移す前にハイデガーは「超越論的-地平的表象作用」(GA13.44)のことを話題にしている。

 この表象作用は私たちが木を木として、木を木の「見相(Aussehen)」のうちで見ること、つまり木を木「として」見ることを予め可能にする「見通し(Aussicht)」を与えるものであり、そのようなことを可能にする視界である。このことのうちで諸物は諸対象として現れ、諸対象として私たちによって表象される。「超越論的-地平的表象作用」、あるいは「超越」と「地平」のうちで対象と対象の表象が可能になる。

 Gegnetは、この「地平を地平たらしめているもの」(GA13.45)として導入されてくる。「地平」は視界であり、私たちはその内に見入る。視界として「地平」は「開けたもの」だが、この「開性」自体は私たちが見入る事によっているわけではない。Gegnetとはこの「開けたもの」そのものであり、これが私たちが見入るということとの関連において「地平」として現れるのである。

 地平とはGegnetの「私たちへと差し回された側面」(同)である。そういう「開けたもの」としてGegnetは一切を取り集め、「出会わ(begegnen)」せる場所であり、だから会域と訳されるのだろう。

 これが結局のところハイデガーのいう根源的な開けとして「存在」ないしLichtungの次元を指していることは明白だが、幾つか傍証を上げておけば、Gegnetは一方で「後退する(sich zurückziehen)」(GA13.47)と言われ、また真理を非隠匿性と解する場合には、Gegnetは「現成する真理」(GA13.63-64)と等置されている。

 さて、Gelassenheitは思惟の本質としてGegnetへの適切な関係である。ではGelassenheitそのものについて何が言われているのかを確認していこう。まず、それは思惟の伝統的規定が表象作用として一つの意欲であるのに対して「無-意欲」であるとされ(GA13.38-39)、表象作用、それは対象への関係、存在者への関係でもあると思われるのだが、そういう表象作用、「地平への超越論的関係」から「解き放たれてあること」だと言われる。

 これらが先のテキストで見た「技術的諸対象」「存在者」への「否」と並行していることは見やすい。では、私たちが「存在者」へと否といい、存在者との表象的関係、表象作用、意欲から解き放たれてあるように試みれば、それはすでにしてGelassenheitなのか。もちろん、そう言ってしまえばそれは「有限性」以前的な考え方だろう。だから以下のように言われている。

学者:私たちが少なくとも意欲という習慣を脱しうる限りで、私たちはGelassenheitを目覚めさせることを手伝うことになる。
教師:むしろGelassenheitに対して目を覚ましていることを手伝うというべきです。
学者:どうして目覚めさせることではないのですか。
教師:なぜならGelassenheitは私たちの側からして私たちにおいて目覚めさせられるのではないからです。(GA13.40-41)

 Gelassenheitは後に言われるところではGegnetからして生じる。だから私たちはGelassenheitを目覚めさせることを手伝うことはできないが、ただ、意欲という習慣を脱そうと試みることにおいて、つまり、表象作用から、対象から解き放たれてあるように試みることにおいて、Gelassenheitの生起に対して気づき応答すること、それに対して目を覚ましていることは出来るということになる。かくしてGelassenheitに向けて私たちに可能なこと、私たちにおけるGelassenheitは「待つ」(GA13.42)ことだということになる。

 恐らくこの二つのテキストにおける解明とカント書の欄外注を組み合わせることでGelassenheitなる語に与えられた意味の輪郭を捉えることが出来るだろう。カント書からはじめるなら、Gelassenheitは「ある」の端的な経験としての「存在の真理」そのものである「無の無化」の生起を何らかの仕方で根拠付けるものである。

 「無の無化」が存在者に対する極限の距離の生起である限りで、それを支えるはずの態度たるGelassenheitも存在者から距離を取ることだと推測されるのだが、実際、講演”Gelassenheit”においてそれは「技術的な諸対象」、つまりは「存在者」に「否」と言い、それ自身へと放ち放置することであるとされた。そうすることで退去する秘密へと、私たちの理解からすれば「無の無化」として退去そのものである存在へと、開かれてあることができるのである。

 他方の対話篇『場所究明』の方では、Gelassenheitは思惟の本質として、Gegnetへの、存在への適切な関係であるとされる。それが生じるのはGegnetそのものの力によるのであって、私たちに可能なのは表象作用から、諸対象との関係から、意欲から自らを離脱させる無意欲に至ろうと試みることだけである。こうしてGelassenheitに対して目覚めつつ「待つ」ことが出来るわけである。

 私たちの視座からまとめるなら、最初に述べた結論通り、Gelassenheitとは「有限性」の内で「存在の生起」へと開かれてあるために要請された態度であり、「存在の生起」が「無の無化」である、存在者との距離の生起であるが故に、Gelassenheitは存在者に否を言い、それから身を引き剥がすこと、そして「有限性」故に人間は「無の無化」を引き起こすものではないから、そうして存在そのものが生起するのを「待つ」ことなのだということになる。

 このように解明された時、Gelassenheitは前章で明らかにされたハイデガー自身の思惟全体と整合的なものである。ハイデガーの考えるところ、存在と人間の関係が人間にとってもっとも根源的なものであり、人間は「存在了解」を遂行することによって初めて人間である。

 だから人間は存在との関係にことさら心を配るべきであるし、そういうまでもなく「存在」は退去しつつ私たちの心を惹きつける、「否定的なもの」が私たちを呼ぶ―ソクラテスのダイモーンの声、カントの理性の声、ヘーゲルの意識が絶えず感じる不安、ハイデガーの良心ないし存在の声、そしてジジェクからするなら、フロイトの死の欲動/反復強迫…。こういうものとしての人間は「存在の真理」を経験し、そのなかで存在者を存在者として肯定し回復するべきである。

 ところで、「存在の真理」とは存在の赤裸々な現れのことであり、つまり、「あるんだ!」という感じの端的な感受である。この感受は無との対照関係においてのみ可能であり、それは存在者と無との境界の経験そのものである。だから「存在の真理」のためには「無の無化」と呼ばれる存在者との極限の距離の生起が構成的である。しかるに「無」を開示する根本気分、「不安」は稀なものであり、非随意的なものである。

 とすれば、「無」も、したがって「存在」も、人間的主体に基礎を持つものではなく、人間の力能とは関係のないところで生起するものである。ここで「存在の真理」に忠実にあるためにはどうすればよいか。「存在者」に「否」を言い、存在者への関わりとしての意欲を離れて無意欲へ向かうことである。しかし、そのような態度が「無の無化」を引き起こしうるわけではないから、そのようにして存在そのものの側での生起を待つことになる。

 存在者に「否」と言う私たちの態度としてのGelassenheitによって、少なくともその生起に気づきうるように目覚めてあることは出来る。これが、存在者を存在者自身へと「放っておき(lassen)」、存在者から「解き放たれ(losgelassen)」、存在への関わりへと「放ち容れられている(eingelassen auf…)」という、lassenの「集積体(ge)」としてのGelassenheitの全体の中で人間にとって可能なことである。

 存在への関わりにことさらに入ること自体は、存在への適切な関係としてのGelassenheit自体は、人間の側の力には属さない。

2、Ne pas céder sur son désir―「有限性」を超えて

 さて、ジジェクに話を移そう。ジジェクはハイデガーのとは特定していないものの、Gelassenheitという語に、それを大要経験的な存在者を放置し、それから解き放たれることといった意味で解した上でしばしば言及する。基本的にジジェクのこの語への立場取りは批判的であり、その論拠も様々あるように見える。だがここでまず注目したいのはジジェクがある注でことさらに以下のように述べていることである。

とすれば、〈他者〉の欲望の謎を超えた次元が存在するのだろうか。私達の経験の究極の地平が他者の欲望の深淵では無いとしたらどうなるだろうか。ここにある避けるべき危険は、もちろん、ニルヴァーナや宇宙的Gelassenheitの何らかの別のヴァージョンという異教的経験に「退行」することである。(Žižek [2001:165][※ここではもとの英文からは少々無理な意味の取り方をしているが、ここでの言葉遣いおよびジジェクの主張の全体的傾向から考えて以上のように取るしか無いと思われる。1)原文は以下のようになっている。Is there, then, a dimension BEYOND the enigma of the Other’s desire? What if the ultimate horizon of our experience is NOT the abyss of the Other’s desire? The danger here is, of course, to avoid “regressing” to the pagan experience of nirvana or some other version of cosmic Gelassenheit. 最後の文が問題である。これをそのまま訳せば、「ここにある危険は、もちろん、ニルヴァーナや宇宙的Gelassenheitの何らかの別のヴァージョンという異教的経験に「退行」することを避けてしまうことである」という事になるだろうが、このとり方はジジェクの一般的な立場にそぐわないし、「退行」という言葉遣いとも整合的ではない。ジジェクが一貫して否定的な意味で用いる「異教的」なもの、そして「退行」を避けるのが危険とは奇妙である。だからこれは一種の書き損じと―あるいはそれは何か深い真理を明かす「フロイト的な」書き損じなのかもしれないが―みなすべきだろう。])

 興味深いことは、ここでジジェクが自らの思惟の目標地点でもあるはずの〈他者〉の欲望の謎の彼方について、そこを思考する上でこそジジェクが把握するところのニルヴァーナなりGelassenheitなりに「退行」する「危険」があり、それを避けなければならないとされていることである。ここでジジェクが取ろうとする立場とGelassenheitなる立場が少なくとも一見したところでは極めて近いということが含意されている。

 この近さの理由はすぐに洞察できる。今まで見てきた通りジジェクにとって〈他者〉の抱える謎は「超越的」な物自体と並行的に理解されており、したがってジジェクの思惟においてこれを克服するのは「絶対的否定性」の通過である。とすれば、否定性とは存在者への距離、肯定的な存在者の正反対である限りで、存在者に「否」を言い、そこから身を引き剥がし、無意欲へと至るGelassenheitこそ、ジジェクの倫理的立場としてふさわしいのではないか、もっと言えばそれ以外の立場はありえないのではないかとすぐに考えつくからである。

2-1、「無意欲」と「無の意欲」

 だが、ジジェクはこの一見すると近いはずの立場を「退行」と名指し「危険」とみなす。では、何が違うのだろうか。ジジェクにとって決定的なことは、何も欲しないこと、つまり、無意欲と、無を欲すること、すなわち、無の意欲との差異である(Žižek [2000a:107-108])。

 始原的な否定性に忠実であるためには、肯定的存在者を拒否して何も欲しないのが一番だというわけではない。私たちは積極的に「無」を、つまり、「否定的なもの」を求めることが出来る。だが、いかにして、そして、なぜ可能なのか。二つの問いへの答えをまず一言で述べておこう。

 少々順序が変則的になるが、なぜ可能かの問いから答えれば、それはジジェクがラカンを媒介にして考えるところに従うと、人間の欲望の対象、いわゆる対象aは始原的な否定性の場所を埋めているからであり―ここで決定的なことは人間の欲望の限りなさを支えているのは否定性だったことを想起することである―、次にいかにして可能かの問に答えれば、欲望の対象を諦めないことによってである。

 ジジェクの見るところ、ある欲望のために、ここにこの命法の義務論的な側面があるのだが、一切の帰結を顧みず全てを犠牲にすることによって―こうして対象は始原的な否定性を穴埋めするものへと高められる―、だがそのあとでその欲望の対象自身を犠牲にすることによって、欲望の対象が埋めている穴、それが「否定性」の場所なのだが、その裂け目を純粋に経験する可能性が開かれる。

 ジジェクの述べるところ、欲望の対象は偽物だが、それが占めている場所自体は本物であり、徹頭徹尾〈現実的〉なものである。欲望の対象は始まりの「否定性」の場所を埋めているのである。

もし欲望の対象が錯覚に基づく疑似餌(lure)だとしても、この錯覚の中に〈現実的なもの〉が存在する。つまり、欲望の対象はその肯定的性質において無益なものであるが、しかし、それが占めている場所はそうではない。それは〈現実的なもの〉の場所であり、それゆえ欲望への無条件的な忠実さのうちに、それを追い求めることの無益さへの諦めきった洞察よりも多くの真理があるのだ。(Žižek [2006:408])

 だから私たちは原初的な裂け目、開口、「否定性」の場所を占める特定の対象への無条件的忠誠を維持するべき、もっと正確に言えば、ある特定の対象への無条件的な忠実さによって、それを原初的な否定性を穴埋めするものへと高めるべきなのである。

 その過程を通じてこそ、その高められた対象の剥落にともなって、あの「否定性」の場所を、人間を人間として可能ならしめることで人間そのものを徹頭徹尾統べている「否定性」を純粋に経験することが恐らくは可能になる。

 それは人間そのものの可能性の条件にして人間にとって可能なものの最果て、ジジェク風にいえば「非人間的なもの」にして人間にとって最も本質的なものであり、だからジジェクにとって倫理的命法は「欲望について譲歩するな」なのである。

 以上から明らかな通り、この命法は「帰結を顧みない」「無条件的な忠実」であることにポイントがあり、だからジジェクはしばしばカントの義務論的な倫理を引き合いに出している。

 私たちが第一章で論じたように、カントにとって道徳律が、その無条件性によって、肯定的存在者への私たちの固執を断ち切る「痛み」、あからさまに「否定的なもの」の声として経験されていた限りで、そしてそこで「痛み」と同時的な「高揚」「喜び」が、すなわち、私たちが用いている言葉では「享楽」が経験されている限りで、両者の間には実際に強い結びつきがあるのだ。

 さて、先に私たちはジジェクによる、有限性に対する無限性の対置を問題にしたが、ジジェクが無限性の次元と名指しているものは、肯定的で経験的な有限なものの反対物たる「否定的なもの」であり、主体性に内在する絶対的否定性の次元を名指す「死の欲動」という「死せぬ」欲動、それにこびり付いた取り除きえぬ「享楽」であり、その享楽を凝縮する対象aという「死せぬ」残滓である(Žižek [2000a:293-294][2009a:110])。

 人間は予め絶対的に否定的なもの、肯定的で経験的な有限なもの一切を否定し超えているものに関係付けられ、それによって貫き統べられており、欲望あるいはカント的な理性はこの次元に基づいている。このものとの関係があればこそ人間は経験的な帰結一切を超えて求めることが出来るのであって、このものの場所、この〈現実的なもの〉の場所、否定的なものの場所は致命的で無化的な「享楽」の場所であり、そこに対象aが座を占めているのである。この「享楽」、対象a、死の欲動は、経験的な生死を超えたものとして「死せぬ」ものであり、「無限性」の領野を形成する。

 以上の議論、とりわけ「無」を積極的に求めることが「なぜ可能か」の問いの答えである「対象aが否定的なものの場所を埋めているからだ」ということにつき、ハイデガーとの関係で興味深いのは、ラカン(とそれに依拠したジジェク)によるソクラテスをめぐる指摘だろう。

 ジジェクは私たちが前章で引用したハイデガーによるソクラテスへの言及を、「退去することによって私たちを惹きつける〈存在〉の退去の「隙間風」に関して言えば、「ソクラテスはこの隙間風、この流れの中へと自らを位置づけ、その中に自らを保つ以外のことは何もしなかった」[※ジジェクによるハイデガーの引用]」」(Žižek [2001:108])と取り上げたうえで、ソクラテスがこのように「否定的なもの」の場所を占めていることとソクラテスが対象aとして機能することを結びつけようとして、以下のようにコメントしている。

ラカン派の用語で言えば、この退去の「隙間風」は〈他者〉の裂け目(gap)であり、ソクラテスはこの裂け目の中で持ち堪えた唯一の人、この裂け目の代役ないし場所保持者として振舞った唯一の人、対話相手にとってこの裂け目を具現化し、その場所を占めた唯一の人だということになる。(…)ラカンは、転移についてのセミネールでソクラテスの立場を、対象aの場所を占める者、つまり、大〈他者〉の欠如/非一貫性の場所を占める者たる分析家の立場[と同じ]であると考えた時、正しかったのではないか。(同)

 ここでさしあたり問題となっているのはアルキビアデスによるソクラテスの賞賛であるとみてよいだろう。アルキビアデスは「われわれ」が「ひとしく驚倒し、心を奪われてしまう」対象としてソクラテスを称える。ソクラテスは「一切の所有は無価値でありわれわれも無に等しいものであると考えている」。そのソクラテスが語るのを聞くと「僕の今送っているような生活はもう堪えられないぞとまで思うほどの気持ち」が生じる。だがそういうソクラテスの正体はいかなるものか。アルキビアデスは続ける。

ソクラテスが一たび厳粛になってその内部を開帳しているとき、その内なる諸像を見た者がはたしてあるかどうか、僕は知らない。しかし僕はかつてそれを見た、そうして僕にはそれが非常に神々しく、黄金のごとくに、また限りなく美しくかつ驚嘆すべきものと見えた、その結果僕は、ソクラテスの求めることならなんでもただもう実行せずにはいられなくなったのである。(以上、プラトン[1952:135-138])

 ソクラテスは自らのうちに黄金のような神々しい宝、欲望の対象たる対象aを蔵するように見える。だが、ジジェクの主張するところ、そう見えるのはソクラテスが退去する存在の隙間風の場所に身をおくことによって、〈他者〉の「裂け目/欠如」の場所に身をおくことによってである。

 だから、ジジェクが別のところで言うところではソクラテスは「アガルマ、彼の中の隠された宝物と同一視されることを拒否し、アガルマによって埋められる空虚に固執する」(Žižek [1993:2])。実際ソクラテスは「僕には何の価値も無いということに君が気づかないといけないから」といってアルキビアデスの誘惑を拒否する(プラトン[1952:142])。以上からしてソクラテスにおいて、「否定的なもの」の場所を占めることと欲望の対象となることとの連関が、欲望の対象が否定的なものの場所を埋めていることが、明白に現れ出ているように見える。

2-2、「西洋」と「東洋」

 これまでの議論をより広い文脈に接続しよう。ジジェクは先に導入された2つの立場の差異、無意欲と無の意欲との差異をより大きな差異の系列のうちに位置づけている。それはあまりに大振りであって粗雑とも見えかねないし(その点については私たちにはまだ判断できない)、また理論的にも少々不明確なところのある議論ではあるものの、それなりに興味深い洞察を含むものと思われる。その議論を追いかけておこう。

 それが展開されているのは『脆弱なる絶対』の注57である(Žižek [2000b:166-167])。ジジェクはそこで以上の対立からこそ「〈東洋〉対〈西洋〉という一般的テーマにアプローチ」するべきだとする。つまり、東洋と西洋の差異がどこに存するのかという問題に。

 ジジェク曰く「その最もラディカルな点における〈東洋〉のパースペクティブにあっては、究極の「現実」は〈空〉という現実、「肯定的な〈空虚〉」の現実であり、すべての有限的な・規定された現実はそもそもからして「錯覚的」である」。

 したがって「倫理的-認識論的〈真理〉への唯一の真正な道は、私たちを有限な諸対象に縛り付ける条件、したがって苦しみの究極の原因である条件としての欲望を断念すること、すなわち、ニルヴァーナの苦の無き至福へと入ることである」ということになる。つまり、東洋は何も欲しない無意欲により、有限な規定された諸対象以前の〈空〉へと歩み入る。しかるに…

このスタンスとは対照的に、〈西洋〉的な枠組み(matrix)の最内奥の核心は第三の道が存在するということである。カント的-ニーチェ的な用語で言えば、「何も欲しないこと[東洋の道]」と、私たちを肯定的で経験的な諸対象に縛り付ける「パソロジカル[経験的-偶然的]」な欲望との二者択一はすべての選択肢を尽くしてはいない。なぜなら人間の中には無(nothingness)そのものへの「純粋な」欲望が存在するからである。あるいは、ハイデガーの用語で言えば(というのは、始原的なレーテー[真理より古い非真理]の概念においてハイデガーは究極的には同じ点に到達しているからである)、「前-存在論的な錯乱」は人間の条件そのものと本質的に同一で、〈空虚〉への至福なる没入と「パソロジカル」な欲望への奴隷化の二者択一よりもより「原初的」である、ということである。

 ここで行われている操作を整理しておこう。まずジジェクは無意欲と無の意欲の差異を、東洋と西洋の差異と結びつける。そして〈空〉への言及とハイデガーの用語系への参照を通じて明らかになるのは、それが更に存在論的と言ってよいレベルにおける構想の差異へと結び付けられていることである。

 ジジェクの把握によれば東洋的パースペクティブの存在論的構想は有限的な・規定された諸対象とそれがそこから生じた場所である始原的な〈空虚〉ないし〈空〉との二項図式である。この存在論に対応するのが無意欲であり、何も欲せずに有限な諸対象から身を引き剥がすことで私たちは〈空〉へと没頭する。

 だが、西洋的な存在論的構想には第三項が存在する。それは「存在論的な錯乱」、つまり、今までの本稿の論述が、そして以上の引用の直後のジジェクの議論が示しているように、始原的な空虚としての絶対的なものそのものの中の「混乱/逆転/動揺」であり、要するに現象以前の実体たる絶対的なものが現象するために必要とする実体そのものに内在する「裂け目/否定性/主体」である。

 ジジェク曰く、これは先の〈空〉と有限な諸対象との二元論に先行する。なぜなら、単に〈空〉があるだけではなく、現に有限な諸対象が存在してしまうことを説明するためには、この「ニルヴァーナそのものに内在する混乱/逆転/動揺」が想定されざるをえないからである。この存在論レベルにおける第三項たる絶対的なものに内在する「裂け目/存在論的錯乱/否定性」に対応する倫理的立場の第三項が「無そのものへの「純粋」な欲望」「〈無〉そのものの代役である対象への欲望」ということになる。

 この論点につき私たちが理論的に疑問があるといったのは、ここでの存在論における第三項と倫理における第三項との繋がりについてである。この両者の間に必然的な繋がりがあるといいうる理由を、私たちは未だ洞察できていない。

 例えば、どうしてハイデガーは、ジジェクの把握するところ存在論において第三項の立場を取っていながら、倫理においてはGelassenheit、すなわち無意欲という立場を採用したのだろうか。それはハイデガーの立場の不十分なところということになるのだろうか。ジジェクはそういうだろうが、少なくともこの事実からして存在論と倫理の第三項の間に自明の必然的な繋がりはないことを推測してもいいだろう。

2-3、アンティゴネーからメディアへ、欲望から欲動へ

 さて、続いてジジェクの思惟の道行きにおいて生じた倫理的立場の移行に焦点を合わせよう。この立場の変化はあくまで「汝の欲望について譲歩するな」という命法の枠内で起きているのだが、この移行に注目することでジジェクの倫理について、既に述べられていながら、とりわけては光を当てられていなかった事柄をくっきりと浮かび上がらせることが出来るからである。ジジェクはこの変化をアンティゴネーからメディアへという移行として構想する。その内実はいかなるものだろうか。

 ジジェクは”For They Know Not What They Do”の第二版(2002)に付された序文で『イデオロギーの崇高な対象』(以下『イデ崇』と略記)で自らが取っていた立場を自己批判して、アンティゴネーと純粋欲望の倫理から自らを引き離そうとする。

『イデ崇』が、対象のこの滑稽な不十分性を見落としているがゆえにこそ、この著作は自発的に自らの死を受け入れるアンティゴネーという形象のうちに具現された純粋欲望の倫理に囚われたままなのである。それによると、彼女が自らを〈物〉に向けて投げ出す瞬間、彼女はその光に焼かれ、私たちは致命的な〈物〉の近みにおいて彼女の崇高な美の自殺的な輝き(éclat)を目撃するというわけである。(Žižek [2008b:xvii])

 ジジェクが言うところ、このような「荒々しい乙女が、籠に囚われた生の不活性から奇跡的に解放されて、自らの究極の実現を死のうちに見出す」ということこそが、「欲望のシニフィアンとしてのファルス」(Žižek [2008b:xvi])であり、かくして「『イデ崇』に通底する倫理的立場は、まさにそのアンティゴネーという形象への集中において、「ファルス中心的」なものに留まっている」(同)。

 では、どういう方向にこの立場は乗り越えられたのか。いかにもジジェク的なユーモア交じりの議論だが、注目すべきはジジェクが以上の一節の直前に「貝やカタツムリや亀」の不気味さを論じて、その不気味さの中核を、殻に対して不釣合いで「内部に何らの骨格も持たず」「最小限の安定性と堅固さ」を欠いた「ほとんど形状のないスポンジ状の物体」である「裸の」身体に求めた上で、これをこそ〈現実界〉の完全な形象ではないかと述べていることである。

 それは致命的な〈物〉という仰々しいものであるよりもむしろ、失われた〈物〉のみすぼらしい残滓に過ぎない。そして先の長い引用にもどるなら、この「対象のこの滑稽な不十分性」の見落としこそが『イデ崇』における問題的な立場を引き起こしていたとされている。

 だが、実際のところ『イデ崇』でも「対象のこの滑稽な不十分性」について決定的な仕方で論じられている。それはまさしくカントからヘーゲルへの移行という、ジジェクの中心問題との連関において、「物自体」から「否定性」への移行との連関においてである。

 そこでジジェクはカントの崇高論を通じてカントとヘーゲルとの差異を明確にしようとする。ジジェクの見るところ崇高論はカントの体系における一個の「特異点」を形成する。というのは、そこで「現象と〈物自体〉との亀裂、ギャップが否定的な仕方で取り除かれるからである。なぜなら、崇高のうちで〈物〉を適切に表象することに対する無能力そのものが現象自身のうちに書き込まれるからである」(Žižek [2008a:230])。

 カントにあって現象と物自体を隔てるギャップは一般に「乗り越え不可能」(229)だが、崇高の経験、構想力が巨大なものを表象しようとして自らの能力の極限にまでいたりつつも、それを表象しきれずに結果として表象が破綻する、そこに破れが生じる経験、肯定的なものの領野たる表象に裂け目が、つまり、「否定的なもの」が顕現する経験にあって、「物自体」と現象とのギャップそのものが現象へと書き込まれる。

 すなわち、「否定的なもの」が物自体の場所を予告するのである。それはもちろん現象の彼方に鎮座する実体たる「物自体」そのものの全貌ではないのだが、少なくともその否定的様態によって捉えられた「物自体」ではある。

 さて、この崇高論からしてヘーゲルの立場はいかにして規定しうるのか。今までの議論から明らかなとおりジジェクの立場は、ヘーゲルはカントの捉えきれなかった「物自体」の構造を、物自体の否定的表象を超えて、その肯定的な有様において直接に捉える、「〈物〉をその「自体」において、それ自身から、それがその純粋な〈彼岸〉においてあるように把握する」(232)というものではない。そうであるとすればヘーゲルの立場は「夢想(Schwärmerei)」(231)になってしまう。そうではなくて…

[「カントが未だ〈物自体〉が表象の領野、現象の彼方に肯定的に与えられた何かとして存在することを前提している」のとは]対照的に、ヘーゲルの立場は現象の彼方、表象の領野の彼方には何もないというものである。根源的否定性の経験、すべての現象のイデアに対する根源的な不十分さの経験、この2つのものの間の根源的な亀裂の経験―この経験はすでに「純粋」で根源的な否定性としてのイデアそれ自身である。カントがまだ〈物〉の否定的な描写を取り扱っているだけだと思っているところで、私たちは既に〈物自体〉のまっただ中にいるのである―というのも、この〈物自体〉というものは、この根源的否定性に他ならないからである。言い換えれば、(…)〈物〉の否定的経験は根源的否定性としての〈物自体〉の経験に変わらなければならないのである2)この最後の一文を「存在の退去」の経験は「退去としての存在そのもの」の経験に変わらなければならないと言い換えればハイデガーの思惟の正確な再現になるのではないだろうか。。(232-233)

 このこと自体は一章と二章の振り返りにすぎないが、ここで決定的なことは、この移行をジジェクが「対象の滑稽な不十分性」と明確に結びつけていることである。ジジェク曰く、この移行を通じて「崇高な対象の地位は、ほとんど気づかれ得ない形で、にも関わらず決定的に、置き換えられる」(234)。

カントにあって崇高の感情は何らかの無限定の、恐ろしいほどに壮大な現象(怒り狂う自然などなど)によって引き起こされたが、他方ヘーゲルにあっては、私たちはみすぼらしい「〈現実界〉の小さなかけら」を取り扱う―精神は不活性の死んだ頭蓋なのである。(234)

 なぜか。カントにおいては崇高な対象はその巨大さによって私たちの表象能力が限界にまで至らされることにより、「物自体」の私たちの能力を超えた巨大さ-偉大さが喚起されるような対象であるのに対して、「物自体」は無であることを見据えるヘーゲルにあっては、崇高な対象は「空虚としての、絶対的否定性の純粋な〈無〉としての〈物〉の空の場所を埋める」「対象」だからであり、それゆえ「崇高なものはその肯定的な身体が〈無〉の具現でしかないような対象」(234)だからである。

 さて、「対象の滑稽な不十分性」の認識が、超越的次元の無化と結び付いていることが明らかになったので、その「不十分性」を見落としたがゆえに誤ってしまったという、アンティゴネーと純粋欲望の倫理が乗り越えられる方向性も、この超越的なものの無化と結びついていることが予測できるだろう。実際、そのとおりなのである。ここでは長い一つの引用を行うだけで十分だろう。

いまやアンティゴネーに対する度を越した賞賛に反して、アンティゴネーの不気味で不安にさせる片割れであるメディアを、真正な行為の主体として再び肯定しなければならない。(…)[「メディア的な行為」である]セスの[「自分にとってもっとも大切なもの」である子供を殺すという]行為は、(…)固有に近代的な倫理的行為の範例的なケースである。伝統的(前近代的)行為にあって、主体は全て(全ての「パソロジカル」なもの)を、主体にとっては生命自身よりも重要な〈大義-物〉のために犠牲にする。アンティゴネーは、死罪を言い渡されて、彼女の早すぎる死のために経験することが出来ないであろう全てのものを数え上げる(結婚、子供…)。これは〈例外〉(それは、そのために人が行為する〈物〉であり、それゆえまさに犠牲にされることはない)を通じて犠牲にするという「悪無限」である。ここでの構造はカント的崇高の構造であって、犠牲にされた経験的・パソロジカルな対象の圧倒的な無限性が、否定的な仕方で、そのためにそれらが犠牲にされるところの〈物〉の途方もなく理解不能な次元を痛感させる。だから、アンティゴネーは犠牲にしつつあるものを悲しく数え上げることにおいて崇高なのであり、そのリストはその途方も無さにおいて、それに対して彼女が無条件的な忠誠を保持しているところの〈物〉の超越的な輪郭を指し示すのである。このアンティゴネーがまさに男性的幻想そのものであると付け加える必要があるだろうか。近代の倫理的な状況(constellation)においては、反対に、人はこの〈物〉の例外を中止する。〈物〉自身を(も)犠牲にすることによって〈物〉への忠誠を証言するのである。(Žižek [2000b:153-154])

 ここでアンティゴネーとメディアの差異は経験的なもの一切を〈物〉のために犠牲にすることと、更に〈物〉そのものを犠牲にすることの差異として記述されている。本項の今までの議論を振り返れば、第一に、〈物〉そのもののために一切を犠牲にするアンティゴネー・純粋欲望の倫理という不十分な立場取りは「対象の滑稽な不十分性」を見落としたことに起因する。

 そして第二にこの「不十分性」の十全な認識は、超越的な物自体の絶対的否定性への置き換えに存する。とすれば、〈物〉のために一切を犠牲にするアンティゴネーから〈物〉そのものを犠牲にするメディアの間には、第一の点からして「対象の滑稽な不十分性」の認識があるはずであり、従って第二の点からして、絶対的否定性の経験による超越的「物自体」の無化が無ければならない。

 こうして整合的な解釈が定まる。すなわち、純粋欲望の倫理により、まずある対象のために一切が犠牲にされる。すると今さっきの引用曰く、「カント的崇高」の構造が生じて、その対象は〈物〉へと高められる。恐らくここでジジェクが言いたかったのは「カント的崇高」よりもむしろ「ラカン的崇高化 = 昇華」だろう。それは「〈物〉の威厳にまで高められた対象」として定義されているからである。対象は、それに向けて一切が犠牲にされることで〈物〉のレベルにまで高められる。これが純粋欲望の倫理とアンティゴネーの形象が至りつく場所である。

 だが、ここでさらに〈物〉へと高められた対象を放棄しなければならない。ここで何が生じるのか。先の二つの点からする推論が示していたように、ここで生じるべきは絶対的否定性の経験である。〈物〉の場所を占めるまでに高められた対象が放棄されることにより、〈物〉が空虚な場所として、つまり、「無」そのものとして、絶対的に否定的なものとして経験可能になる。

 ここに本節の最初の引用の言葉、欲望の対象は無益な錯覚だが、それが占めている場所は〈現実的〉なものであるという言葉の意味を読み取らなければならない。このことを通じて対象そのものは〈無〉を具現するものに過ぎないこと、すなわち、「対象の滑稽な不十分性」が認識される。そして最後に付け加えておけば、絶対的否定性の通過がジジェクにあって欲望から欲動への移行を規定していた限りで、この〈物〉そのものの放棄の歩みが「欲望の倫理」から「欲動の倫理」への移行の歩みでもあるといってよいだろう。

 こうしてアンティゴネーからメディアへという移行を参照することで、「欲望を諦めるな」という「欲望の倫理」という標語をジジェクが掲げているにせよ、重要なのは欲望の対象ではなく、それが占める場所、〈現実的〉で否定的なものの場所であり、その絶対的に否定的なものの場所は、欲望の対象のために一切を犠牲にし、それを〈物〉の場所を穴埋めするものにまで高め、すなわち、昇華・崇高化し、だがその次にその欲望の対象そのものを犠牲にすること、この第二のプロセスによってのみ経験として開かれうるのだということ、そしてそこでは欲望の倫理は欲動の倫理へ変わっているのだということが、よりくっきりと見えるようになったといってよいだろう。

2-4、「アンティゴネーからシモーヌ・ヴェイユへと線が引かれるべきである」

 以上で主題的な展開に不可欠の諸契機の提示は終わった。ここで以上に関連して興味深い点を幾つか指摘しておこう。

 第一はジジェクが比較的初期の著作である1992年の”Enjoy Your Symptom!”で「アンティゴネーからシモーヌ・ヴェイユへと線が引かれるべきである」(Žižek [2008c:53])と述べていることである。ここで興味深い点は、これはもしかしたら「無の意欲」ないし「無そのものへの純粋な欲望」という第三の道が西洋の枠組みの最内奥の核心にあるというジジェクのテーゼの小さな傍証となることかもしれないが、ヴェイユが、ジジェクがアンティゴネーに見ている〈物〉への純粋な欲望どころか、ジジェクが後にメディアに見出す〈物〉そのものの放棄という次元で思惟を展開していることである。ヴェイユ曰く…

欲望は悪いもので、いつわるものである。だが、しかし、欲望がなければ、人は絶対の真理も、真に限りないものをも求めることはしないだろう。一度は欲望を通ってこなければならないのだ。欲望の源泉となるこの余分のエネルギーを疲労のためになくしてしまっている人々の不幸。(ヴェイユ [1995:238])

 欲望が人を絶対的なものへと駆り立てる。欲望を通らなければならない。だが、あくまで欲望は悪いもので、いつわるものである。この欲望への両義的評価に対していかにして決着が付けられるのか。ヴェイユは別の断章で答えを定式化している。

さまざまな欲望の根源にまでくだって行って、エネルギーをその対象から引き離してしまうこと。欲望はそこにおいては、エネルギーとしてみれば本物である。対象が、にせものなのである。だが、欲望とその対象とを切り離そうとすると、たましいの中には言葉にはいいつくせないもぎ離しの現象が生じる。(ヴェイユ [1995:43])

 ここで欲望の両価性に明確な解決が与えられている。欲望は人を絶対的なものへと駆り立てるその「エネルギーとしてみれば本物」である。それが「悪いもので、いつわるもの」であるのは、その対象が「にせもの」であるという点においてである。

 とすれば、決定的なことは本物であるエネルギーが十全に果てまで発揮されたあと、つまり、「一度は欲望を通」ったあと、その対象を放棄すること、「欲望とその対象とを切り離そうとする」ことである。そこに「言葉にはいいつくせないもぎ離しの現象が生じる」。

 つまり、ヴェイユの言い方では「たましいの中」に、そこにのみ「恩寵」が入ってくることの出来る「真空」が開かれるということになるだろう。ここに欲望の対象は偽物だが、その対象の占める場所は本物であり、その場所の経験のために、欲望の倫理の果てで対象そのものが喪失されなければならないとするジジェクの思惟との親近性を見出すことは容易いだろう。

 第二にキルケゴールにも目を向けてみよう。キルケゴールは『死にいたる病』で救済のための必要条件として、地上的なあるものに対する絶望から地上的なもの全体への絶望への転回―これによってキルケゴール曰く、地上的なもの全体を超えた永遠的な自己の自覚が生じ、絶望は永遠的なものを忘れて地上的なものに執着してしまっていた自分自身の弱さへの絶望に転化する―を語るが、ここに生じる地上的なもの全体の乗り越えの論理のキルケゴール的構想のうちには興味深い点がある。

 地上的なもの全体の乗り越えはハイデガーの「超越」を思い起こさせる。ハイデガーはそれを「無の無化」の生起による存在者全体の滑り落ち、存在者全体の一緒くたな滑落として構想し、そしてそれが恐らく存在者一般と距離を取るGelasssenheitという倫理的立場と相関しているのだが、キルケゴールはこの乗り越えをそういう風には構想しない。

 キルケゴール曰く、この乗り越えが達成されるのは、特定の対象の喪失を無限に高めること、「現実的な喪失を無限に高め」(キルケゴール [1996:114])ることによってである。私たちを地上的なもの全体を超えて高めるのは特定の対象への欲望であり、それが無限にまで、存在者全体に匹敵するものにまで高められ、しかるのちに喪失されること、あるいは逆に喪失されたある特定の対象へを、それが無ければ地上的なもの全体が無意味であると言いうるほどに無限に高めることによってなのである。おそらく私たちはここにもジジェク曰く西洋に通底するらしい「無意欲」とは異なる「無そのものへの純粋な欲望」を見出すことが出来るだろう。

 さて、私たちは本項でヴェイユとキルケゴールを少々唐突に持ち出したのだが、この参照もジジェクの内に根拠を持っている。というのも、本節が主題としてきた〈物〉そのものの喪失の身振り、まず〈物〉に一切を賭け、その後に〈物〉を喪失するという二重化された喪失の見ぶり、無のために一切を捨てる「純粋に否定的な身振り」(Žižek [2009a:75])を名指すためにジジェクが一貫して用いているのが「Versagung」という言葉なのだが、この構造を描き出すことにおいてキルケゴールは「弁証法的唯物論」から「細い、ほとんど見えない線」(同)によって隔てられているのみだと言われているのだし、その同じ節でヴェイユもまた確かな連関のもとに引用されているからである(Žižek [2009a:80])。本節の基本的論理の要約にもなるので最後にキルケゴールに関連する箇所を引用しておこう。

近代的主体は「第二の死の彼方」の次元と厳密に相関している。最初の死は、私たちの特殊で「パソロジカル」な実体を普遍的な〈大義〉のために犠牲にすることである。第二の死はこの〈大義〉自身の犠牲、それへの裏切りであり、結果として残っているのは$、「抹消線を引かれた」主体である空虚だけである―主体は、そのために主体が一切を犠牲にすることを覚悟している〈大義〉そのものの犠牲という、二重化された、自己関係的な犠牲によってのみ現れるのである。(…)キルケゴールはこの点で不気味なほどヘーゲルに近い。キルケゴールの〈宗教的なもの〉の観念は、以上のものと厳密に相似的な二重の自己関係的な犠牲を含んでいないだろうか。はじめ私たちは普遍的な倫理的〈法〉のために特殊な「美的」内容を断念せねばならないが、続いて〈信仰〉はこの〈法〉そのものを宙づりにするように私たちに強いるのである。(Žižek [2007:121])

 ジジェクがあるところで述べているところによると、ある点では「神」とは、この「無」のために一切を犠牲にする第二の犠牲において参照されている、というより現れる、「純粋に否定的な身振り」である(Žižek [2009a:75])が、おそらくこの辺りにジジェクがキルケゴールの神は、〈現実界〉という/の神という次元に到達していると評価する理由がある。とはいえ、私たちにとってはキルケゴールやヴェイユを本当に読むことは未だ将来の課題である。

3、三たびジジェクとハイデガー

 本章の問題の発端はジジェクとハイデガーの差異を見定めることにあり、その問題がジジェクの倫理へと私たちを導いた。私たちの主張するところ、両者の差異はそこにおいてもっともはっきりと現れ、また逆にジジェクの倫理の方から見ても、その倫理に与えられた意味は、両者の差異の問題から見るときに明瞭になるからである。

 簡潔に振り返れば、前章から引き継がれた両者の差異の核心はハイデガーによる「主体」の語の拒否であり、それは「有限性」の問題に帰着することが前章で示された。本章第一節はハイデガーの倫理と見なしうるもの、Gelassenheitをこの「有限性」という事態に即し、その認識に基づくものとして解釈した。「否定的なもの」の生起、すなわち、存在そのものの生起は私たちの力能に属することではなく、私たちに出来ることは存在者に「否」をいい、そこから身を引き剥がすことであり、そうして「待つ」ことだけである。

 続く第二節はジジェクの倫理を問題にし、ジジェクが人間主体のあり方にハイデガーよりも強いイニシアティブを認めていること、従って「有限性」に対する弱い解釈とでもいうべきものを採用していることを示そうと試みた。このことはジジェクが無を積極的に求める欲望の存在を承認していることに端的に現れている。

 私たちがあらかじめ「否定的なもの」に貫き統べられてある限りで、私たちは存在者一切を超えて求めることが出来る。「否定性」が欲望を支えている。だから「否定的なもの」の場所を欲望の対象が埋めているのといえるであって、欲望の対象としての対象a、そこにまとわりつく享楽、そしてそこへと執拗に向かう死の欲動が人間にひそむ無限なものの次元を形成する。

 この状況の中で私たちはある特定の欲望の対象のために一切を犠牲にすることで、その対象を否定的なものの、〈物〉の場所を埋めるものにまで高め、崇高化・昇華することが出来るし、しかるのち、その対象そのものを放棄することで、〈物〉の空虚な場所、すなわち、始原的な否定性の場所を純粋に経験することが出来るはずである。かくしてジジェクの倫理にあっては存在者から身を引き剥がして「待つ」ことが問題なのではなく、無そのものへと向けて欲望を持ち堪え抜く私たちの力量こそが問題なのである。

 この欲望ないし欲動の倫理の肯定、そこに含意されている一種の無限性の承認と「有限性」の弱い解釈の帰結をハイデガーとの関係で整理しておこう。前章で明らかにされたように後期ハイデガーにおいて決定的なのは、二重の超越論的遡行の帰結と経験的にある事態との齟齬に直面して超越論的思惟の帰結を放棄しないこと、それが経験的には稀であり非随意的であるのにも関わらず、「存在の真理」=「無の無化」が絶対的に先行的なものとして確かに存在すると確言することである。

 この超越論的思惟の帰結の護持の最初の帰結が、超越論的思惟の成果と経験的な事態との齟齬を説明する現存在ないし人間の「有限性」だが、それが更に押し進められることによって後期の主要諸概念、「存在の生起」「元初」「存在の退去」、更には「存在の歴史」が産出される。

 存在は人間の力の及ばないものとして「生起」したと言われねばならず、しかも、それは一切を可能にする条件として原初的に「元初」として生じたのでなければならず、そして、にもかかわらず私たちがそれを経験しない以上、存在には「退去」するということが属していると言われなければならない。

 そして、「元初」的に「生起」した存在の「退去」の連なりが存在の「差し控え = エポケー = エポック」の連なりとしての「存在の歴史」を形成する。この構図の中でハイデガーは「存在の歴史」を貫く「退去」の亢進過程を構想し描出しようとし、かくして「存在の退去」の極限における「存在の真理」への「転回」、Ereignisによる第二の元初への移行を予見しようと試みたのである。この後期の思惟がいかに常識はずれに見えるにせよ、それは超越論的思惟の前期ハイデガー的遂行の護持を承認すればほとんど不可避に見えるほどに理にかなっているのである。

 私たちは以上のことにつき超越論的思惟の帰結を護持するという決断の是非についても問いを開いておいたのだが、ジジェクはといえばその点は何ら問題としていない。ではジジェクは何に異議を唱えているのか。すでに「有限性」の弱い解釈という言葉で示唆しておいたように、超越論的思惟の護持の最初の帰結たる「有限性」をハイデガーほどには強く取らないということである。

 ジジェクももちろん超越論的思惟を支持し、はじまりに何か「否定的なもの」の存在を見定める。更にジジェクとて「否定的なものの生起」とでもいうべきもの、ジジェクはそれを「幻想の横断」「主体の解任」「行為」といった言葉で指し示すのだが、そういったものの稀さや起こそうと思えばすぐ起こせるようなものではないという意味での非随意性を認めないわけではない。

 曰く「絶対的・無条件的行為は確かに起こる」が、それは「純粋な〈意志〉をもってそれを意図する主体によって遂行される自己透明な身振り」としてではなく、「完全に予測できないテュケーとして、私たちの生を粉々に打ち砕く奇跡的な出来事」としてである。「いくぶんかパセティックな言葉遣いで言えば、これが私たちの生において「神的」な次元が現前している仕方なのである」(Žižek [2000a:376])。

 とはいえ、ジジェクは「欲望の倫理」、欲望を最後まで持ちこたえることにより、この「否定的なもの」の生起に対して準備が整うことを認める。だからそれは私たちのあり方と密接に連関しているのであって、私たちからの独立性は強くない。「有限性」は制限されている。

 ハイデガー的な「元初」と「存在の歴史」の観念は「有限性」についての極めて強い解釈を前提にしている。ギリシアの「第一の元初」において存在が生起して以来、ずっと存在は退去したままであり、その間に存在が、否定的なものが、その十全性において経験されたことはないというのだから。

 他方のジジェクはこのことを主体のあり方と再びより強く結びつけることで「有限性」を制限し、「否定的なもの」の生起は―『存在と時間』における本来性・非本来性のように―私たちの生の、実存の相異なる2つのモードとでも言うべきものとして捉え直され、「主体」の根本次元として名指される。

 確かに否定的なものは私たち個々人の生の始まりにおいて原初的に生起しはしたのだろうが、ギリシアの「元初」を持ち出すには及ばないし、それから現代までずっと存在が「退去」しているという「歴史」を構想する必要はないのである。ここにおそらくジジェクが大げさな歴史図式を拒否し、またハイデガーの「存在の歴史」を「退行」とみなすことの根拠がある。

 ところでジジェクにあって問題がまた『存在と時間』的な実存の2つのモードに戻っているという事実は、「欲望に関して譲歩するな」という命法が、ラカンのセミネールの7において、『存在と時間』の「死への存在」との一定の関わりにおいて生じてきたという経緯を思い起こさせるところがある。ここでもハイデガーの影がほの見える。したがって極めてささやかなというべきなのだが、最終的に、以上がジジェクとハイデガーの差異である。

4、第一部の総括―やはり「否定的なもの」について

 今や、第一部を締めくくる時である。私たちは第一部をパスカルの引用から始めた。パスカル曰く人間は「どんなものも埋めることは出来ない」「無限の深淵」としての「欲望」なのだが、私たちからすると、こうしてどんな肯定的存在者、欲望の対象に対しても距離が残存すること、これが人間と否定的なものの始原的関係性の、あるいは人間主体そのものが否定性であるということの帰結の一つであり、また証拠の一つでもある。

 もちろん、ここからパスカルのように恐らくは存在者的に表象されている神へと一足で飛躍するのは性急だろうが、人間と世界との不調和という事実、人間が世界を超えたものを求めるという事実は残るのであって、それを可能にしているものへの問いは残存する。

 一言でいえば、しばしば言われるように「神は妄想である」かもしれないにせよ、人間が神を妄想せざるを得なかった、あるいは妄想することが出来たという事実、人間が神のみが埋めることが出来るような「無限の深淵」を抱えているということは否定出来ず、それ故これを可能にしている構造が問われるべきものとして残っているということである―その構造にさしあたり付された名が「否定性」である。

 私たちが序論の第三章末尾で解明したところ、これと同じことをジジェクは一切の肯定的・経験的なものを超えた〈物〉への人間の固着として、また肯定的なもの一切を否定する「死の欲動」の人間に対する原支配として把握していた。

 以上のことを第一部の成果に従って少々強引にハイデガー用語へと翻訳すれば以下のようになるだろう。すなわち、確かに形而上学的に想像されてきたような「最高の存在者」としての神は「妄想」であるのかもしれないが、そのようなものを妄想することを可能にし必然とする構造は存在する。

 すなわち、Seynの後退運動によって存在者が存在者として立ち現れ、存在と存在者との差異が生じていること、そうして存在者を超えてという超越の挙措が可能となること、更にSeynが後退することによって不安が生じ、存在者そのものを根拠づけようとして最も根本的な根拠を目がけた際限なき志向が生じることである。こうして「最高の存在者」としての「神」の観念が生じるのであるから、「神」が妄想であるとかないとかを超えて、私たちからすれば、このSeyn、つまり、否定的なものの最始原的運動を問うということの必然性が存在するのである。

 こうしたSeynないし「否定的なもの」は存在者を存在者として可能ならしめるものだから、存在者的に表象された神、つまり、それについて肯定的に「~である(ist)」と語られうる神よりも、「もっと根源的なもの」である3)肯定的に語られうる「神」については、「否定的なもの」との関連にあって、ジジェク的にその無化と無神論への移行を強調する方向性と、ハイデガー的に神は存在者として存在の後なるものであるとして「存在の真理」から初めてその適切な規定が可能になると見る方向性との二つが可能であるように思われる。。私たちはこの「否定的なもの」にやはり「神」の名を与えたいという誘惑にかられもするが、実際にそうするとすれば、神は「信仰の対象」から「一切の懐疑の可能性の条件」へと位置を変えると言えるだろう。

 かくして私たちのテキストに通底する「否定的なもの」への狂信とも見えるものは、一切の懐疑的な立場よりも一層懐疑的なのである。というのも、肯定的なものの懐疑、存在者の懐疑、すなわちそれらから距離を取ることを可能にするのは人間の否定的なものとの関係であり、従って懐疑する際に人は否定的なものを暗黙に参照し、それに依拠し、それに帰依しているのであって、私たちはこの依拠を自覚的に遂行しようとしているだけだからである。

 ソクラテスが「否定的なもの」の声を聞かなかったなら、本質的な意味での懐疑も問いもない、つまり無知の知がないし、したがって知への愛としての哲学もなかっただろう。「否定的なもの」だけが問うことを可能にし、更に退去することによって私たちの心を惹きつけることで自らからして問わしめる。

 だからハイデガーに言わせれば「何が思惟を命じるのか(Was heisst Denken?)」という問いへの答えは退去することによって私たちを惹きつける「存在」であり、「思惟とは何を意味するか(Was heisst Denken?)」という問いへの答えは「存在」に思いを致すことであり、それ故に「存在」こそが、「否定的なもの」こそが、Sache des Denkensなのである。

 私たちは基本的にはここからしてのみ「思惟」という言葉を使っている。それはそれとして、以上からして、不可思議なことに、私たちの否定的なものへの狂信と見えるものから見かえすなら、一切の懐疑的立場そのものが自らの可能性の条件に無自覚な独断論でしかないのである―第一部の歩みが誤りでないなら私たちはそう言わざるをえない。「否定的なもの」は懐疑そのものの懐疑不可能な核心である。

 さて、第一部の問いに戻るなら、この否定的なものによる貫通によって人間は「無限性と有限性との総合」(キルケゴール)であり、自己と不一致な不幸であり、キルケゴール風に言えば懐疑と絶望、ニーチェ風にいえばニヒリズムということになるだろう。

 こうして私たちにはこう問う必然性がある。「否定的なもの」について事態はどうなっているのか、と。第一部はこの問いのジジェクからする遂行であり、それはこう問うことにおいてすでに想定された否定的なものと人間の始原関係を改めて根拠付けつつ、否定的なものについて事情はどうなっているのか、それに貫かれてある人間の状況にいかなることが希望しうるのか、そして私たちはどのような態度をとるべきかを解明する。この問いがジジェクの哲学と倫理への私たちのアプローチを形成する。

 私たちは第一部の本編をジジェクのカント論から始めた。それはカントの超越論的な転回にあって初めて「否定的なもの」が占めるべき正当な場所が―「否定的なもの」を感得する事自体はソクラテスにおいてすでに生じていたにしろ―可能なものとして開かれたからである。肯定的な存在者の領野たる経験が絶対的な所与であるなら否定的なものが存在する余地はない。

 そして更にカントは否定的なものの声を―ただし理性の声として―確かに聞き取る。第一批判で人間はその「理性」ゆえに「止みがたく(unaufhaltsam)」「無条件的なもの」を追い求め、結果として有限なものの領野を飛び越えてカントによって「物自体」と呼ばれる超越的領野に越境しようとしてしまう。

 第二批判では「実践理性」の、「道徳法則」の声が私たちの肯定的・経験的存在者への依存、それによる被規定関係、「傾向性」を断ち切る。それが自由である。それはそういうものとしてまさしく「否定的なもの」の声であり、肯定的なものからの切断は感性的存在者としての私たちに「痛み」をもたらす。だが、道徳性の経験をカントが「痛み」と同時に、私たちが理性的存在者でもあるために「喜び」「高揚」として記述する限りで、そこには「享楽」の概念が既に先駆的に素描されている。

 第三批判は、「理性の声」を聞くことによって巨大な対象を一気に表象しようとする構想力が限界まで至り、表象の、現象の、経験の領野が破れるところに、つまり、「否定的なもの」の現出するところに、感性的次元を超えた超越的な「物自体」の場所を幻視することとして「崇高」の経験を見定め、それがもたらす感情を感性的不快と同時的な理性的快として正確に「否定的な快」として記述する。享楽は「否定的なもの」の純粋感情である。

 続く第二章に移ろう。さて、ここでジジェクが把握するところのヘーゲルは何を為すのか。それはカントの「超越的前提を引きぬく」(Žižek [2008a:233])ことである。だが如何にして。それはカントが聞いた否定的なものの声に最後まで付き従うことによって、そうして経験的なものの彼方に行く事によって、しかし、肯定的な実体たる物自体があるはずのその場所に、否定的なものを、絶対的否定性としての主体を、実体たる物自体が現象することを初めて可能にする実体に内在的なものとしての「裂け目/否定性/主体」を見出すことによってである。

 カントの経験的なものとしての内在と超越的な物自体との緊張関係はヘーゲルにおいて実体とそれが現象することを可能にする実体そのものに内在する「裂け目/否定性/主体」との内在的な緊張関係に変化する。絶対的否定性の場所にまで行って以上のことを認識することで実体としての物自体そのものが穴あきとなり抹消線を引かれると同時に、現象そのものも自らの可能性の条件として否定的なものを持つことで抹消線を引かれる。

 これがジジェク的に考えられた理性であり絶対知である。実体も現象も裂け目を持ち、全て-ではない。この実体そのものへの主体の内在性こそが、絶対的なもの、真理を単に実体としてではなく主体としても把握し表現するということの核心であり、和解とは否定的なものの消滅ではなくして、否定的なものの極限において出会われる、否定的なもののせいで私たちがそれから切り離されてしまっていると見えていたもの、すなわち実体が、実はそれ自身否定的なものを内に含んでいるという認識なのである。

 「ヘーゲルが考えているのは私たちと〈絶対的なもの〉との間の分裂(split)(それを理由として私たちが主体であるような分裂)が同時に〈絶対的なもの〉の自己分裂でもあるということである。私たちは(…)私たちを〈絶対的なもの〉から永遠に分離するまさにそのギャップを通じて、〈絶対的なもの〉に参加するのである」(Žižek [1993:243])。

 以上のことがジジェクの言う「弁証法的唯物論」の核心をなす認識であり、ヘーゲル的/ジジェク的に解されたキリストが究極的に意味することであり、またジジェクがラカンをそこから読解する場所、欲望から欲動への移行、行為、主体の解任、幻想の横断といった事柄をそこから把握する場所である。

 そしてまたこれが、私たちが人間の自己分裂、その有限性と無限性との狭間性格において望みうることでもあるだろう。絶対的に否定的なものの場所の通過は、否定的なもののせいで私たちが切り離されてしまっていると見えていたもの自身が否定的なものを内に含むと見せてくれることによって、否定的なものの異他的性格を消失させるのである。あるいはジジェク的な言い方を借りるなら、欲望は対象に到達しえずに永久に不満足な状態を強いられるが、欲動は対象の周りをぐるぐるめぐることに満足を見出す。否定的なもの―対象の到達不可能性―は消えないが、それに対する対し方が変わるのである。

 本私たちは続いてジジェク自身の示唆に従って第三章でハイデガーについて一定の検討を遂行し、そこにも同一の構造を見出した。ハイデガーにとって「存在(了解)」は決定的に先行している。「存在する」ということを理解することで人間は人間となり、更に人間にとって諸物が存在者として、更に特定の何かとして、総じて言えば意味を持ったものとして開示される、つまり、「現象」するようになる。「存在(者性)」は存在するとは何かを、従って何が存在するのかを規定するものとして私たちの現実性の支えである。

 だが、この存在了解をさらに可能にするものは存在者と無との狭間の経験であり、存在者の只中で生起する無、究極的にはLichtungであって、それはどんな「現実性」をも解体してしまう深淵である。ジジェク的にラカン用語を用いれば、私たちの現実経験を規定する言語の領野としての〈象徴界〉を破壊してしまう〈現実界〉ということになるのだろう。

 存在者(の素になるもの)の中に裂け目が、否定的なものが、無が生起すればこそ、存在了解が可能になり、存在者が存在者として現象することが可能になる。そして超越的な「最高の存在者」はといえば、存在そのものをこの無として認識することの失敗から生じるのである。形而上学はこの「無」を見なかった、もっと正確に言えば、この「無」が退去であり後退の運動性である限りで、つまり、それが見えなさそのものである限りで、形而上学は見えなさそのものを見えなさとして見ることが出来なかったのである。

 この見えなさという点について更に述べるなら、「存在/否定的なもの」は任意の退去するものなのではなく退去の運動性そのものである限りで、それは任意の見えないもの、語り得ないもの、捕まえられないもの、謎ではない、そうではなく、それは見えなさそのもの、語り得なさそのもの、捕まえられなさそのもの、謎性そのものなのである。

 だから存在ないし否定的なものの問には終わりはない。それは終わりなさそのものなのである。本筋に戻るなら、以上からしてハイデガーにあっても超越的存在者は否定的なものに差し戻され、存在者と超越的な「最高の存在者」との緊張関係は、存在者とそれに内在する裂け目との緊張関係に転化される。

 そしてハイデガーには私たちが「否定的なものの異他性の消滅」と呼んでおいた事柄も観察しうる。ハイデガーの示唆するところ、「存在の退去」=「無の無化」の純粋な経験、否定的なものの純粋な経験はすでにして「ある」ことの端的な感受としての「存在の真理」そのものであって、このことが生じる「第二の元初」以降にあっては退去が退去として、EnteignisがEnteignisとして、それらが存在そのものとして見えており、かくして退去・否定的なものの否定的性格は消滅する。

 ハイデガー曰く、「否定的なもの」は「存在そのもの」としての深淵から「ただちに立ち返る」ことによって存在者を出発点となし、存在者のみを重要とみなし、存在者を存在者性から基礎付けることしかなしえずに、「存在そのもの」を視野にいれることの出来ない形而上学の枠内からのみ、悪しきものという意味での否定的なものに見えたのである。

 私たちはむしろ「否定性という贈り物を正当に評価する」ようにならなければならない。ここにも否定性の極限化による、「否定的なものの異他性の消滅」の論理が見いだせる。これがハイデガー的なニヒリズムへの対し方である。ハイデガー的なニヒリズムとは「存在の退去」、すなわち「否定性」であり、その極限化によってのみ「否定性」が「否定性」として存在そのものであることが感得しうるのである。以上の構図の共通性からしてジジェクをハイデゲリアンとみなすことが正当化され、ハイデガーの検討はそのままジジェクの思惟の更なる根拠付けともなると言えるだろう。

 以上との連関でジジェキアンの最小公式とでも言うべき定式を私たちは前章で明らかにしておいた。すなわち、経験的なものと超越的なものとの緊張関係を、経験的なものを初めて可能にする超越論的なものの更にまた可能性の条件であって、同時に経験的なもの(の素になるもの)に内在する裂け目でもあるもの、つまり、否定性への参照を通じて、経験的なものと否定性との緊張関係へと解消するという身振りを中心とするカント、ヘーゲル、ハイデガー、ラカンの四者関係についてのある構想である。

 それは物質・実体しか無いのだが、それが「全て-ではなく」、その中には、そのものが現れ出て現象することを可能にする「無/主体/Lichtung」が存在しており、そうであるがゆえに私たちの住む現象の領野、象徴的領野にしても自らの可能性の条件としての「否定的なもの」に貫かれてあるとする存在論的立場、この立場を名指す名がジジェクにあっては「弁証法的唯物論」である。

 ハイデガーの用語でいえば、経験的な存在者と(しばしば超越的な最高の存在者に読み替えられる)存在から、存在者そのものに内在する無としてのSeyn、存在者と存在の差異を初めて可能にする原初的な差異化作用、差異としての差異であるSeynへの視座の移行である。一切の現実性はSeyn、すなわち深淵そのものによって可能になっているのであって、全ての現実性は否定性に貫かれてあり、ジジェクならこういうだろうが、絶対的否定性が肯定的な形を取ったものなのである。

 さらに三章から四章にかけて主題になったのはジジェクとハイデガーの差異である。ハイデガーとジジェクの間に残る差異は、この否定的なものと人間との関係の構想をめぐるものであり、ハイデガーは原初的な否定性を「主体」と呼ぶことを拒否するが、他方のジジェクはそれを一貫して「主体」と呼ぶ。

 このハイデガーの「拒否」は私たちの見るところ「有限性」という事態に淵源している。人間はこの否定的なものの生起に関与する力を持たないのだから、それを主体と呼ぶこともできないというわけである。

 そのような事態の中でハイデガーは人間の使命を、いまや人間を人間として可能にしたものとして人間にとってもっとも根源的であると見なされている「存在の真理」を殊更に経験し、それによって存在者を存在者として可能にし保つこと、つまり、存在の開示性を守ることとしての現存在を基づけることに見定める。そうしてハイデガーは存在の生起が生じた時、Ereignisに気づくために「目覚めてある」ことの方途として、何も意欲せずに存在者から身を引き剥がし待つこととしてのGelassenheitに自らの倫理的立場を定位する。

 他方のジジェクは「否定的なもの」を「主体」と呼ぶ以上、そこに人間のより強い関与を認めるのでなくてはならない。ジジェクにあってそのことを表現するのが「欲望に関して譲歩するな」という倫理的命法である。欲望の対象は否定的なものの場所を埋めており、欲望は無への欲望である。

 ある欲望の対象のために帰結について顧みずに全てを犠牲にすることで、その対象は否定的なものの、〈物〉の場所を穴埋めするものに高められ、昇華・崇高化される。だが、そこまでいった後に対象を放棄することで、その対象が埋めていた穴、否定的で〈現実的〉な場所そのものが経験可能になる。

 否定的なものの経験可能性は欲望を担い抜く私たちの力量に掛かっているのであり、「存在の歴史」によるものではない。そこで問題なのは第一の元初以来ずっと続いている「存在の退去」と、Ereignisによる第二の元初への移行における「存在の真理」との差異ではなく、人間的な生の、実存の、2つの様態の差異なのである。

 本章の、そして第一部全体の結論を述べよう。ハイデガーにとってと同様、ジジェクにとっても、そしてまた私たちにとっても、原初的な否定性、それと人間との関係が唯一の真のSache des Denkensであり、その次元は「可能性の条件」の地位にあるものとして絶対的に先行的であり、人間を人間として初めて可能にしたものとして人間にとってもっとも根源的なものであると同時に、人間の経験の限界、その可能性の最果てでもある。

 この何よりも根源的な「否定的なもの」に忠実である倫理、各人が自らの行けるところにまで行くことをしか命じない倫理―もちろん、そこに特異なひねりがあるのだが―こそが、ジジェクにとっては、そしてそれに付き従ってきた私たちにとっても、他の一切の倫理よりも根源的である。人間が「否定的なもの」に貫き統べられて初めて人間である限りで、人間としての人間は「否定性」への忠実さを可能にする先の命法以外のことは命じられていない、といって言い過ぎであれば、それ以外の命令は全て二次的なのである。それは「否定的なもの」の後からやってくるにすぎない。

 とはいえ、私たちの言説は私たち自身にとってもやはり訝しいもの、そして際限のない不安を引き起こすものでありつづける。どこかで何か決定的な間違いが犯されているのではないかという疑惑が消えない。これらの疑惑のための道に私たちはいくつか目処をつけておいた。それらの道がいつか自らを開くときには、私たちはそれらの道を歩んでみるつもりである。

 これ以上の総括、特にジジェクの哲学的倫理的立場の簡潔な整理、そしてそれから更に幾つかの帰結を引き出すことは、第一部と第二部との繋がりを形成する第二部緒論に期することとしよう。ジジェクの政治はやはりジジェクの哲学の応用だからである。

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第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(3)
補論 イーグルトンとジジェク

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. 原文は以下のようになっている。Is there, then, a dimension BEYOND the enigma of the Other’s desire? What if the ultimate horizon of our experience is NOT the abyss of the Other’s desire? The danger here is, of course, to avoid “regressing” to the pagan experience of nirvana or some other version of cosmic Gelassenheit. 最後の文が問題である。これをそのまま訳せば、「ここにある危険は、もちろん、ニルヴァーナや宇宙的Gelassenheitの何らかの別のヴァージョンという異教的経験に「退行」することを避けてしまうことである」という事になるだろうが、このとり方はジジェクの一般的な立場にそぐわないし、「退行」という言葉遣いとも整合的ではない。ジジェクが一貫して否定的な意味で用いる「異教的」なもの、そして「退行」を避けるのが危険とは奇妙である。だからこれは一種の書き損じと―あるいはそれは何か深い真理を明かす「フロイト的な」書き損じなのかもしれないが―みなすべきだろう。
2. この最後の一文を「存在の退去」の経験は「退去としての存在そのもの」の経験に変わらなければならないと言い換えればハイデガーの思惟の正確な再現になるのではないだろうか。
3. 肯定的に語られうる「神」については、「否定的なもの」との関連にあって、ジジェク的にその無化と無神論への移行を強調する方向性と、ハイデガー的に神は存在者として存在の後なるものであるとして「存在の真理」から初めてその適切な規定が可能になると見る方向性との二つが可能であるように思われる。
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