第三章 エルネスト・ラクラウの政治理論―例外を通じて構成される普遍性

私たち哲学者は狂人です。というのは、私たちはある一つの洞察を持っていて、それを何度でも何度でも断言していくだけだからです[引用者注:もちろん、ジジェクにとっての「一つの洞察」とは「否定的なもの」に関するものである]。これが、私とエルネスト・ラクラウの間に、今いくつかの政治的・理論的な意見の相違があるにもかかわらず、彼が本物の理論家-哲学者であると分かるだろうと私が考える理由なのです。彼はある一つの洞察、ドイツ人たちなら彼らの素晴らしい表現でGrundeinsicht、根本洞察と呼ぶであろうものを持っていて、何度も何度も同じポイントを明確にしているだけだからです。つまり、敵対性、ヘゲモニー、空虚なシニフィアン、と。彼は根本的には同じ話を何度も何度も述べているだけではないでしょうか?これは批判ではありません。私はこれが彼が本物であること、本物の才能を持っていることの証拠だと考えているのです。私がいいたいのは、哲学者というのは「これについて書こう」「あれについて書こう」などというような人間ではないということです。(Žižek, Daly[2004:41])

私は私の知的な発展を既にそこにあったいくつかの直観を深化する過程にすぎなかったと考えています。例えばヘゲモニーと節合としての政治というアイディアは私の政治的軌跡にいつも同伴していたものです。私は1984年に、長い年月がすぎた後に(after many years) 、シャンタル・ムフとブエノスアイレスまで旅行に行き、そこで私の初期の仕事を参照することができた時のことを覚えています。シャンタルは私が編集していた20年前のLucha Obreraの私の論説を読んで驚いていました。そこにはすでに社会主義者の闘争について、労働者階級による、民主化の仕事のヘゲモニー化のための闘争であると語られていたからです。(Laclau [1990:177])

 本章はエルネスト・ラクラウの政治理論の概要を提示することを目的とするが、それが本稿のうちに配されているのは、それとの対照を通じてジジェクが「例外」である「普遍性」ということで考えている事柄、「引き抜き」の政治という言葉で考えている事柄をはっきりさせるためである。ラクラウの理論はジジェクからみると、それとは対照的な「例外を通じて構成される普遍性」の論理と見なされているからである。

 もちろん、それだけが目的なのではなく、ラクラウの理論自体の検討も関心の対象である。ラクラウの理論が優れているのは、それがその方法論的前提に極めて自覚的である事によると思われる。ラクラウは理論は一番根本にある前提から始めて、最後まで一貫した形でその帰結を引き出している。本稿の検討の第二の目的はこの理論的な首尾一貫性をそれとして示すことである。

 一般に、時に複雑で難解に傾きがちな理論を理解する上では、その初発の問題意識をしっかり心に留めておくことが有用だろう。かくして以下では、まず第一節でラクラウのいわゆる「ポスト・マルクス主義」がいかなる問題意識のもとで出発しているかを確認する。

 次に第二節では、その問題意識から出発してある解決へと到達するためにラクラウが彫琢した諸概念を一つ一つ整理しつつ、その理論の概要を描き出す作業を開始する。第二節は基本的にムフとの共著”Hegemony and Socialist Strategy”(HSS)に即する形で議論を進め、そこで導入された言説・要素・契機・差異・等価性・敵対性・ヘゲモニーといった諸概念を位置づける。

 第三節では、HSS以降の理論的変容に注目し、ヘゲモニーの理論に導入された、欠如としての主体と普遍性の問題系を整理する。続く第四節は本稿の主題的展開の終わりをなす部分だが、そこではラクラウの理論において最初から絡み合う形で存在し、その後もお互いの関係を複雑に変容させている二つの概念、民主主義とポピュリズムの概念について一瞥する。

 そして最後に終結部をなす第五節でジジェクとラクラウの論争について整理して次章へのつながりをつけることとしよう。

1、何が問題だったのか?

 ラクラウはHSS第二版序文で、マルクス主義から彼のいわゆるポスト・マルクス主義への理論的な変化において、経験的なレベルでの変化こそが理論的なレベルでのパラダイムの変化を必要としたのだと指摘している(Laclau, Mouffe [2001:x])。

 では、(1)「どのような」経験的なレベルでの変化が(2)「どのような」理論のパラダイムを(3)「どのような」理由で無効なものとし(4)「どのような」新しい理論を必要なものとしたのだろうか。最後の(4)「どのような」がHSSの理論自体を検討する第二節での主題になる。この第一節では初めの三つの「どのような」の問いについて取り扱うこととしよう。

 まずは失効したとされる理論は(2)「どのような」ものかという所から見ていくのがよいだろう。それは一言でいって経済決定論/階級還元主義であり、より一般的に、それらの根になっている方法論上の根本立場のレベルでいえば、ラクラウが初めての著作”Politics and Ideology in Marxist Theory”(PIM)の序文ですでにして批判している「コノテーティブな節合(articulation)から分離された諸概念がその論理的性質の単なる展開によって現実を全体として再構築できる」という「錯覚」である(Laclau [1977:9])。

 より詳しく見てみよう。まずこの文の前半から始めれば、ラクラウの見るところ私たちが日常的に犯している誤りは、諸概念にコノテーティブな意味を持たせてしまうところにある。例えば「資本家」という概念は概念的に記述可能な資本主義的生産様式における特定の「役割」を指すものなのだが、それがその「役割」を担う具体的な人間を指すものとして転用/誤用され、その誤用から翻ってその特定の具体的人間の「役割」外的な諸性質が「資本家」概念にコノテーティブな意味として含まれるようになってしまう。

 日常的なこの誤りに対立する理論の役割は、まずもってこのコノテーティブな意味からの概念の「純化」である。だが、ここにおいて生じる理論に特有のもう一つの危険が先の文で主題になっている「錯覚」であって、それは純化された諸概念の論理的連結によって現実すべてを再構成できるという「錯覚」である―この「錯覚」に反対するHSSでの理論的契機が、後に見るように、「契機」に対する「要素」の過剰である。

 この「錯覚」をラクラウは「社会は概念的に把握可能な運動法則や諸基礎からなる客観的で一貫性を持った全体として理解できるだろうという想定」(Laclau [1990:180])とも言い換えている。この理論的前提の典型的表現が経済決定論/階級還元論である。

 少々戯画的に述べれば、それはまず概念的レベルで資本主義的生産様式の論理を記述し、そのうちの「役割」として「資本家」「労働者」の概念を導出し、さらにはその利害と敵対関係をも概念的に導きだす。そして資本主義的生産様式の運動法則から「労働者」の増大と窮乏化という「社会学的仮説」を導出する。こうなればその「窮乏化」ゆえに労働者階級の利害は資本主義の転覆であり、しかもその「増大」によって彼らが圧倒的多数であるがゆえにその政治プログラムは普遍的であり、革命は必然的かつ正しいということになる。そしてこれで現実を記述し尽くしたとしてしまうのである。それは概念的に記述可能な構造をそのまま現実そのものの構造と見なす。

 では、以上の理論を無効なものとした経験的レベルでの変化は(1)「どのような」ものであり、その変化が理論を無効なものとした理由は(3)「どのような」ものだろうか。

 前者の(1)「どのような」の問いへの答えは非常に単純なものである。それは上記の「社会学的仮説」が現実のものにならなかったということである。この「仮説」が現実のものとなったなら理論を変更する必要は大きくなかっただろう。

 しかるに、この仮説が現実のものにならなかった以上、具体的には、「資本主義下における社会構造のますますの単純化」、つまり、労働者階級の増大と窮乏化による「資本家/労働者」への社会の二極分化が生起せず、しかも労働者階級自身が内的に多様化し、さらに労働者以外の諸々の多元的なアイデンティティに基づく政治運動も盛んになってきている以上、上の理論を死守しても、いまや普遍的階級なのではなく「特殊」な立場にすぎない労働者階級によってはラディカルな変革は不可能であるという悲観的な結論か、もし変革が成功してしまった場合には、もはや「一般」ではなく「特殊」にすぎない労働者階級、更に悪い場合には「党」の利害ないし観点が普遍的なものとして全社会に強要される「権威的」支配(Laclau [2007a:26])という帰結に至らざるを得ないだろう。

 このこと、現在の状況において「ラディカル」な変革の不可能性か「多元的」な利害ないし観点の抑圧という帰結しか導き出しえないこと、これが旧来の理論の無効性の根拠、すなわち、後者の(3)「どのような」の問いへの答えをなす。旧来の理論の行き詰まりがこのように思考されているからこそ、HSSにおいて「ラディカル」かつ「多元的」な民主主義という立場が提唱されているのである。

 さて、いまやこの立場を思考可能にする新しい理論的装置が考案されなければならない。つまり、最後の(4)「どのような」の問いに取り掛からなければならない。

2、ヘゲモニーの理論

 さて、このような立場を思考可能にするのは、つまり、多元化した現代社会、その政治状況・政治過程を適切に分析できる理論的諸概念を産出し、単に「特殊」な立場による多元的な闘争ではなく、新しいラディカルで「普遍的」な対抗的・解放的な政治的プロジェクトの立ち上げのために役立つことが出来るのは、ラクラウにあっては「ヘゲモニー」の理論である。

 この理論の展開を準備するために、まずはラクラウの最初の著作PIMとムフとの共著である第二の著作HSSとの間の理論的差異を簡単に見ておこう。

 1977年のPIMの序文ですでにラクラウは「経済決定論/階級還元主義」の批判、概念の論理的展開による現実の「全体的」再構成の批判を「プロレタリアートが一切の狭い階級的視点を放棄し、資本主義の世界的な斜陽化(decline)の時代[引用者注:!] にあって、ラディカルな政治的方向転換を求める多くの大衆に対するヘゲモニー的な力として自らを提示しなければならない時代」(Laclau [1977:12])状況、つまり、先の「行き詰まり」の萌芽的な認識と結び付けている。

 しかし、HSSから見るならここでの批判は道半ばであって十分なものではなかったということになるだろう。というのも、PIMは概念の論理的展開による現実「全体」の再構成は批判していたが、概念の純化という方法、そして純化された概念の論理的展開による生産様式の記述可能性は肯定されており、またそのように記述された生産様式を中心とする下部構造による「最終審級による決定」は維持されていたからである。つまり、純化された概念の使用と、規定的なレベル、下部構造のレベルでの概念の論理的展開による現実の記述可能性は正当化されていたのである。

 本書で展開される議論は、例えば以下のようなものである。曰く、生産様式は概念的に記述しうるが、具体的な現実は生産様式の「非-必然的な組み合わせ」、すなわち、「節合」である経済システム、社会構成体としてのみ記述しうる…。すべてのイデオロギー的要素が階級に還元可能なわけではなく、浮遊するイデオロギー的要素が存在するが、それを「節合」しうるのは生産様式のレベルで概念的に構成しうる敵対する諸階級、資本主義的生産様式の下ではブルジョアとプロレタリアートの二大階級である…。一見して明らかな通り、上部構造のいわゆる相対的自律性の承認を伴う一種の折衷主義が理論構成の中心をなしている。

 さて、HSSではこれに対して概念の純化と、純化された概念による論理的構成を通じた現実記述という方法論全体が、概念のレベルで設定された「本質」から現実を説明する、別様に言えば、「本質」へと現実を還元する「本質主義」として批判される。たとえ生産様式だけについてであっても概念的構成のみによってその「必然的」「自動的」運動を記述できるなどということはないのであって、どこにでも「偶然的」「政治的」なレベルが入り込んでいるということ、いまやおそらく常識となっているといってもよい事柄が強調される。

 かくしてHSSでラクラウとムフは、先に見た「行き詰まり」を克服するために、純化された自己同一性をもつ概念ないし要素を出発点とした概念的構成によって現実の記述を行うこととは別の思考を準備する。では、現実についての別な思考を可能にする概念装置はいかなるものなのか。以下、HSSの第三章に基づいて順を追ってみていくことにしよう。

2-1、言説・要素・節合・契機

 概念の論理的展開による現実記述を置き換えるものは「言説(discourse)」である。このことが言おうとするのは、すべての対象は、私たち自身を含めて、言語の網の目に媒介されることによってのみ私たちにとって認識の対象になるということである。

 もちろん、私たちの認識の外に現実は存在するが、それらが私たちの認識対象になるのは、つまり、意味をもって現れてくるのは、先立つ言語の秩序によってそれらに意味ないし役割、すなわち、「同一性」、その「何であるか」が割り当てられる限りである。

 ラクラウは現実に存在する個人や集団は「要素(element)」と呼び、それが言語の秩序、「言説」の内に包摂され場所を与えられて意味ないし同一性を付与されている限りで「契機(moment)」と呼ぶ。

2-2、「社会は存在しない」―(1)多義性と(2)敵対性

 さて、社会は「言説」として存在し、現実的諸「要素」はそのうちで位置を与えられて「契機」となる。「要素」は「契機」として初めてその意味ないし同一性を受け取り、私たちにとって認識可能なもの、対象、「対象的/客観的(objective)」なものになるが、ラクラウの概念化するところ「言説」は「差異の体系」なので、それぞれの「契機」の同一性、その「何であるか」は他の「契機」との差異によってのみ規定される。

 だが、「社会は存在しない」。このいささか大げさな言明は、社会が閉じられ完結した全体としては存在しないこと、諸契機の差異の体系としての「言説」が完結したものではないことを意味しているにすぎない。もし、言説が完結していて諸契機の意味が固定されたものであるとしたら、それは概念の論理的展開による現実記述と類似した形で、諸「要素」に固定された内容ないし同一性、「本質」を与え、そこに現実を還元する本質主義にすぎないとラクラウは見る。

 では、どのようにして「社会は存在しない」のか。二つの仕方においてである。それが(1)多義性と(2)敵対性である。

 (1)の多義性は要素の契機への還元不可能性を指し示す。要素の意味ないし同一性を単一の言説のうちで他の諸要素との差異を通じて確定しようとしても、要素の受け取りうる意味ないし同一性は「過剰」であるために、常に意味の変容が発生しえ、ある特定の言説のうちに要素を契機として固定することできない。要素の意味、その「何であるか」は、特定の言説において付与されるよりも潜在的には常に多いのである。

 具体的にいえば、ある人が現実社会のうちである特定の位置を占めているからといって、ある自己理解が必然的に生じてくるわけではない。そこには偶然性、他でもありうるということが存在するし、それがなぜかといえば特定の規定は人間の持っている多面性をくみ尽くしていないからである―何でもありうるということではないにせよ。ジジェク風に言えば、象徴化以前の現実として考えられた〈現実界〉には特定の象徴化の様態が必然的なものとして書き込まれているわけではない。

 さて、ここで「節合(articulation)」の概念を導入することが出来る。「節合」とは要素間の関係を打ち立てる実践、その中で要素の意味ないし同一性が変化を被るような関係構築の実践として正確に定義されるからである。要素が契機として、その意味内容において「本質主義的」に固定されておらず、他でもありうるからこそ、そこにおいて意味内容が変更されるような関係構築の実践、「節合」が可能になる。

 この「節合」こそが固有の意味での「政治的」次元を構成する―これは私たちが第一章で展開した「政治的なもの」と完全に重なり合うわけではないが。もし今言われている意味で「社会」が存在し、要素の意味が、つまり、個人や集団の同一性が、従ってその要求が固定されているなら、政治は既に社会のレベルで既に完全に構成されている諸利害を表象するだけにすぎないだろうし、従って政治は自律性のない「透明な存在」になり本質的には存在しないことになるだろう。ここでの用語法でいえば「社会は存在する」という立場に他ならない「経済決定論」に政治は存在しない。

 だが、実際には上述の意味で社会が存在せず、要素の意味に不確定性が存在するがゆえにこそ、諸主体の同一性が必然的なものではないからこそ、政治的・節合的な実践によって要素の意味、主体の利害、現実そのものが初めて作り出されるという側面が存在するのであって、社会そのもの、現実の構成そのものに「政治的」な次元が浸透しているといえるのである。

 HSS第二版序文で言われているように、「言説」として社会を見るという立場は「政治的節合の契機を特権化する」(Laclau, Mouffe [2001:x])立場、自律的なものとしての政治の次元に特に注意を払う立場である1)もちろん、この立場の限界を指摘するのは容易い。経済がすべてを決定するというのは誤りであるとして、経済が何も決定しないわけではない。要素が特定の契機に還元され得ない豊かさを持っているからといって、どんな象徴化も可能であるわけではない。つまり、「言説」「節合」「政治」の自律性を認めたとしても、それはやはり「現実」「経済」その他のものに規定されてもいるのであって、この次元が「言説」の立場からは見えてこないし、主題化することもできないのである。当然ラクラウもこの限界に自覚的で、おそらくはそれを積極的に引き受けてさえいるのだろう。だからわざわざ「政治的節合の契機を特権化する」と述べているのだろうから。。簡潔に標語風に言えば、社会が存在すれば政治は存在しないのであり、社会が存在しないから政治が存在するのである。

 話を戻して次に「社会が存在しない」ことの第二の意味、(2)の敵対性に進んでいこう。だが、その前にまず今までの議論の流れを振り返っておこう。ラクラウはマルクス主義の一つの典型としての「経済決定論/階級還元主義」という立場、一般的には概念の論理的展開による社会的現実の記述という立場に限界を見て取り、それに変わる現実の捉え方として「言説」という見方を打ち出す。

 ここにおいて前者の立場の極端な帰結である本質主義、概念的に与えられる本質に現実が還元されることを避けることが目指されている。だから「言説」にしてもそれが完結したものであってはならない。このことは第一に現実的諸「要素」の言説内の諸「契機」への還元不可能性、ある言説内で要素に与えられる「同一性」、その「~である」という肯定的規定に要素が還元できず、その規定が別様にもあり得ることによって可能にされた。

 この単一の「~である」への還元を不可能に、それゆえ「言説 = 社会」の完結を不可能にする第二のものとして導入されたのが「敵対性」である。「敵対性」の概念内容はラクラウの理論のなかで度重なる変化を被るのだが、さしあたりHSSでは、「敵対性」は先の多義性のような特定の言説内部で与えられる「~である」にたいする可能的に存在する他の「~である」の過剰、肯定性の過剰としてではなく、一切の「~である」から要素を切り離す「~でない」として、肯定性の過剰ではなく否定性として、しかも、ある「敵」の現前として定義されている。「敵対性の場合には」「「他者」の現前が私が完全に私であることを妨げるのである[強調は引用者]」(Laclau, Mouffe [2001:125])。

 そういうものとして、敵対性は肯定的な「~である」として記述しうる諸差異の体系としての「言説」とその中の「要素」が、記述不能な外部性、「~でない」という否定性に遭遇する地点、自らをそのようなものとして経験する地点であって、「すべての安定した差異の究極的な不可能性、それゆえに、すべての「対象性 = 客観性」の究極の不可能性であるような、「経験」」として、「閉域化の不可能性(つまり、「社会」の不可能性)」(Laclau, Mouffe [2001:125])が明らかになる地点であるとされる。

 もちろん、敵対性のこの側面こそジジェクが〈現実界〉ないし「否定性」と結びつけてとりわけて強調し自ら取り入れた部分である。「多義性」概念の基本的発想は現実は言語が表現しうるよりも豊かな内容を保持している、ある対象に付与されうる肯定的規定、「~である」は特定の言説のうちで表に現れているよりも多いというもので、従ってそれは「肯定性」の過剰に注目するものだが、「敵対性」の方はといえば、言説が言説として裂け目を持っており、要素は自らの一切の肯定的規定に対して、「それではない」という否定的距離を経験しうると見るのである。その意味でそれは「否定性」の契機である。

2-3、敵対性・等価性・ヘゲモニー

 前項に述べられたことからして「言説」として考えられた社会は、閉じられた全体としては「存在しない」。それには二つの理由がある。第一は要素の契機への還元不可能性、「~である」の過剰たる多義性であり、第二は「~である」ことを妨げる「~でない」、否定性を導入する敵の現前、敵対性である。

 さて、しかし、「敵対性」の概念の重要性は以上のことに尽きない。「多義性」の想定によって「節合」と「政治」一般がそもそも可能になったように、「敵対性」は特別な形の「節合」、つまり、そこで要素の同一性が変化するような関係構築の実践、それゆえ特別な形の「政治」を可能にする。それは「等価性の論理(logic of equivalence)」「等価性連鎖(equivalential chain)」を可能にするのである。

 ラクラウにおいて「等価性の論理」とは「差異の論理(logic of difference)」と対になった概念である。後者は「言説」が差異の体系、お互いに異なるものたちのなす体系、「差異的 = 示差的(differential)」な諸「契機」とされていたことに対応するもので、社会内のもろもろの個人や集団を互いに異なるものとして処遇し、「差異の体系」としての「言説」=「社会」に、その一契機として包摂する。

 PIMで「差異の論理」が導入された際には、それは端的に支配階級の節合論理とされていた。支配階級は社会において生じる諸々の要求をそれぞれ異なるものとして別個に対応し、それらを個別に満たしてやることで諸個人や諸集団を体制へと包摂、「差異の体系」としての社会を安定させるというわけである。

 対する「等価性の論理」はPIMで被支配階級、体制に挑戦する対抗的階級の節合論理として導入されている。それは諸々の要求ないし要素を「差異的なもの = 互いに異なるもの」にとどめ体制内化してしまうのではなく「等価なもの = 同じもの」として連結し「等価性連鎖」を形成することで体制そのものに挑戦するラディカルな変革を可能にする。

 先のPIMの引用で「プロレタリアートが(…)ラディカルな政治的な方向転換を求める多くの大衆に対するヘゲモニー的な力として自らを提示しなければならない」という時にラクラウが考えていたのはこのことである。

 さて、HSSに戻れば、そこにおける本質的な理論的展開は「敵」の存在、「敵対性」が「等価性の論理」の可能性の条件として明確に導入されたことである。互いに異なる、差異的な「要素/項(term)」が等価なものとして連結されることはそもそもいかにして可能なのだろうか。ラクラウは言う。「問題は等価性内部の様々な項のなかに存在している「同一的な何ものか」の内容を規定することである」。これに答える部分を少し長く引用しよう。

もし等価性連鎖を通じて諸項の全ての差異的で客観的な規定が失われているとしたら、[等価性連鎖の諸項に通底する]同一性は(1)それら諸項全てに通底する肯定的な規定によって与えられるか、(2)何か外的なものに対する諸項共通の参照によって与えられるかである。これらの可能性のうち最初のものは除外される。共通の肯定的な規定は直接的に、等価性の関係なしに表現されるからである。しかるに、[第二の可能性を選んだとしても]共通の外的な参照は何か肯定的なものに対するものではあり得ない。というのも、その場合には二つの極の関係は直接的で肯定的な仕方でも表現されうるであろうし、それゆえ、完全な等価性の関係が必要とする諸差異の完全な取り消しは不可能になるだろうからである。(Laclau, Mouffe [2001:127]) [注:(1)(2)は便利のため、引用者が付した。また[]内は引用者が補ったものである。]

 さて、相互に異なる差異的な要素ないし項が、等価となるのはいかにしてだろうか。(1)それは肯定的な規定、つまり等価性のうちのそれぞれの項が共通して持つ肯定的に規定しうる(「~である」と言える)内容にはよらない。それではもともと諸項の間に差異がなかったのであって、差異的な項が同じものとして連結される等価性関係として特別に取り扱うに価しないものだからである。

 つまり、ここで現代社会の多元化という状況診断に対応して、互いに異なるものが連接するという事態が関心の対象になっているのであって、例えば資本主義化における二極分化により皆が労働者階級になり同様の境遇にあるといった、もともとみんな同じだという状況は関心の対象になっていない。

 さて、そうであるとすれば、(2)等価性関係は「外的なもの = 等価でないもの」、その等価性連鎖への反対極、すなわち、「敵」に対する諸項共通の指示に依ることになるわけだが、その等価でないもの、反対の極はこれまた肯定的な内容を持ったものではありえない。反対極が肯定的な内容を持つものとして見なされていたら、等価性関係内部の諸項の間の「差異の完全な取り消し」が不可能になってしまうからである。

 なぜかといえば、反対極に肯定的な内容があるとすれば、等価性の諸項の間でも各々の内容によって反対極に対する立場が分かれてしまい、諸項が「同じもの = 等価なもの」にならない、つまり、等価性関係が不可能になってしまうからである。

 それゆえ「敵」の存在、「敵対性」が等価性連鎖の可能性の条件であり、しかも、そうであるためには、その「敵」は、「肯定的」内容をもつもの、つまり、言説・社会内部の一つの差異的な項であってはならず、言説・社会そのものの限界、外部そのものの具現、純粋な悪そのものの具現へと、いわば「否定性」の具現へと変化していくのでなければならない。

 そのような「敵対性」関係においてのみ、個別の要素は互いに異なる差異的な意味を持つと同時に、「敵」に対するものとして互いに等価なものとして連接されうる。個別要素が「差異」と「等価」のそれぞれの関係に従って二重の意味を獲得するという事態も「言説」としての社会という方法論上の立場が思考可能にしたもので、特定要素が持つこの意味の二重性にこそ、ラクラウはとりわけて「重層決定」という用語を割り当てている。

 さて、前項での「言説」や「節合」や「差異」、本項での「敵対性」と「等価性の論理」を経て、ようやく「ヘゲモニー」の概念にたどり着く。というのも、「ヘゲモニー」は「節合」の特殊形態、「等価性の論理」に基づく「節合」として正確に定義されているからである。ラクラウにあってヘゲモニーは単に何か漠然としたイデオロギー的優位のようなものを意味しているのではない。それは「等価性連鎖」によって現れる「普遍性」の次元を占拠することによる優位なのである。

 このことは第三節でより詳細に取り扱うが、こうして「ヘゲモニー」は互いに敵対的な二つの等価性連鎖への社会空間の分割、そして、両陣営による「浮遊する諸要素」の節合の試み、そこで生じる分割線の変動、すなわち、「陣地戦」の状況において際立った形で立ち現れるということが出来る。

2-4、「ラディカル」で「多元的(plural)」な「民主主義」

 さて、HSSが第四章で明確に宣言する立場は「ラディカル」で「多元的」な「民主主義」である。私たちは第一節でラクラウによって古典的なマルクス主義、より一般的には、「社会は、概念的に把握可能な運動法則や諸基礎からなる、客観的で一貫性を持った全体として理解できるだろうという想定」という方法論上の立場が、現在の状況下では、それによっては「ラディカル」な変革は不可能であるという悲観的結論か、もし可能であるとすれば特殊にすぎないものの全体への強要という「一元的」な権威的支配を帰結するがゆえに無効と見なされていると考えられることを確認した。

 さて、この袋小路を抜けるためにラクラウが提示したのが「言説」としての社会という方法論的立場であり、その「言説」から導かれる諸概念、多義性/節合/敵対性/等価性…、そして「ヘゲモニー」であった。

 さて、それゆえ今やこの方法論上の立場がいかにして「ラディカル」で「多元的」な「民主主義」を思考可能にするかを考えよう。

 本書は「民主主義」を、一切の不平等と支配を批判する平等主義の原理と解しており、民主主義革命とはこの平等主義の原理としての民主主義が政治の基本的な参照点となった時点を意味するとされる。旧体制は「差異の論理」によって、諸主体を互いに異なるものとして、支配と不平等を伴う位階的秩序へと体制内化していた。支配されている諸主体が支配者に対して反抗しうるのは、民主主義の平等原理を参照して支配者を「敵」として構築し、敵対性を出現させることによってである。

 さて、こうして民主主義原理は、社会の様々な場所で不平等を告発する敵対関係、闘争を生み出す。民主主義ははじめ政治的平等の言説だったが、それが性関係に転用されれば男女間の平等の言説になるし、あるいはまた別の場所では経済的平等の言説にもなるといった具合である。こうして民主主義は様々な場所に転用されて「多元的」で自律的な平等を求める闘争を可能にする。

 では、「ラディカル」の方はどうか。それを可能にするのが「等価性の論理」であり、民主主義的諸闘争が織りなす等価性連鎖である。そして、敵対性と等価性に基づく「節合」が「ヘゲモニー」を定義していたことを思い出すなら、民主主義的な「ヘゲモニー」構築の実践がそれを可能にするといえる。

 単に「多元的」な闘争があるだけでは、「特殊」な諸闘争があるだけだが、民主主義の原理によって様々な不平等を一つの「敵」として構築し、それとの関係で諸民主主義闘争を「同じもの = 等価なもの」として連接することで「権力全体 vs 人民」というような「普遍性」を帯びたラディカルな闘争が可能になるというわけである。

 そして、そのような等価性連鎖の構築によって「多元的」な諸闘争自体も強化される。「ヘゲモニー/等価性」と「自律性/多元性」は必ずしも矛盾しない。ラクラウは社会内部の様々な場所、様々な政治空間(性、人種…)で生じる民主主義的諸闘争ないし敵対性が等価的に連接されて社会全体の二つの敵対的陣営への分割へ向かうとき、様々な政治空間が社会全体と一致する単一の政治空間へと統合されていく時、「人民的(popular)」闘争について語りうると述べている(Laclau, Mouffe [2001:137])。

 こうして本書は、左翼による「ラディカル」で「多元的」な「民主主義」を目指しての、民主主義的諸闘争の等価的・ヘゲモニー的節合、ヘゲモニー構築への呼びかけで終わっている。それはまた目立たない形でしか言われていないが、やはり、等価性連鎖の拡大を主張する限りで権力全体に対抗する「人民」を立ち上げよという呼びかけでもあるだろう。

3、主体の欠如と普遍性―HSSの後で

 本稿冒頭に引用されたインタビューでラクラウは「ヘゲモニー」と「節合」が常に自分の政治的軌跡に伴ってきたと語っている。HSSでは「言説」という方法論上の根本立場が導入されることで「節合」と「ヘゲモニー」を適切に思考するための領野が開かれた。少々別の視点からもう一度整理してみよう。

 まず「言説」が「要素」の「契機」への還元不可能な多義性によって「節合」、そこで要素の同一性そのものが変わる関係構築の実践の一般的領野、自律的なものとしての「政治」の領野を開く。だが、より重要なのは「敵対性」の観念であり、ここでHSSでこれらの諸概念が導入された第三章が”Beyond the Positivity of the Social : Antagonism and Hegemony”というタイトルを付与されていたことを思い出すなら、「敵対性」によって導入することが可能になった「否定性(negativity)」の観念である。

 これもまた「言説」によって可能になったことは明らかだろう。というのも、第一部第一章でカントについて述べたことと同じことだが、単なる諸物の総体と見なされた世界には肯定的なものしか存在せず「否定性」など無いのだから。

 他方で「言説」はそのうちでの「肯定的」な規定の取り消しを通じて、肯定的差異の体系としての言説の限界である「否定性」に「言説的な現前形態」(Laclau, Mouffe [2001:122])を与えることが出来る。さらに後のラクラウの理論化(Laclau [2007a:36-46])によれば、差異の体系としての言説は「否定的なもの」に対して自らのうちに場所を与えなければならない。

 論証はいくつかのステップを踏んで進む。第一に、言説が差異の体系で、諸契機の肯定的規定が他との差異によって定まるなら、ある契機の規定を定めるためにも他の諸契機の全体がある仕方で現前していなければならない、とすれば第二に、差異の体系はある全体をなしていなければならない。そして第三に、全体であるためにはその外部のものに対して全体として切り取られているということが必要である。それゆえ第四に、差異の体系は外部・否定性・「敵」を、そういうものとして自らの限界に位置づけることで自らを全体として構成しならなければならない。要するに「言説」は全体であるために自らの「外部」を表現する要素、しかも、それは内部化されてしまう肯定的な内容ないし差異ではあり得ないから、「否定性」、ある「空虚」な要素を持たなければならないのである。

 さて本筋に戻れば、敵対性、敵の現前という形での否定性の導入が重要であったのは、それが単に節合、すなわち政治一般ではなく、「等価性の論理」という特殊な節合形態を可能にするからであり、そして「ヘゲモニー」とは「等価性」に基づく「節合」なのだから、「ヘゲモニー」そのものを初めて可能にするからである。

 これがHSSにおける「言説」の導入によって「節合」、さらに「否定性/敵対性」と「等価性」を媒介にして「ヘゲモニー」が思考可能になったということである。そしてラクラウが「何度も何度も同じ話を述べているだけ」だといいうるとすれば、それはこの「敵対性」が「等価性連鎖」を可能にし、「等価性連鎖」が新たな「ヘゲモニー」形成を、つまり、多様な諸立場の連接し「普遍性」の次元を保持するラディカルな変革を可能にするという論理についてであるといえるだろう。

 さて、ラクラウの立場はこの「同じ話」からほとんどブレない。だが、そこに細かな理論的修正が無いというわけではなく、むしろ、それの繰り返しとしてラクラウの言説は存在している。本節ではHSS以降のいくつかの進展に焦点を当てる。節のタイトルに掲げたように、「主体の欠如」と「普遍性」の問題系についてである。

3-1、主体の欠如

 HSSの次の著作 “New Reflections on the Revolution of Our Time” (NRR)には付録としてジジェクの”Beyond Discourse Analysis”という小論が収録されている。この文章がラクラウにおける「主体概念の練り直し」と「敵対性概念の位置変化」 の少なくとも一つのきっかけとなったと目されるので、序論第四章も想起しつつ、まずこの文章の要点を整理しよう。

 この文章はジジェクによるHSSへのコメントだが、その要点は三つにまとめられる。第一にHSSは主体を基本的に言説内部における位置、差異的な「主体位置」として思考しているが、これは「社会は存在しない」こと、その内でもとりわけては解消不可能な否定性の存在を示す敵対性の観念と整合しない。敵対性が社会を貫いていると考えるなら、主体も社会の内部に自らの位置を持つことの出来ないもの、肯定的・差異的な「~である」に還元できない「~でない」、つまり「否定性」、自己への不一致として考えなければならない。

 しかも、第二に、主体に内在する否定性こそが一次的なものとして「純粋な敵対性」を形成しており、HSSの敵対性、具体的な「敵」の現前は二次的であり、むしろ「純粋な敵対性」の外在化・外的投影である。

 そして第三に「敵対性」概念と相関するものとして、それを隠す「幻想」の概念を考える必要がでてくる。この文章ではさほど明確ではないが、要点第二で述べられた敵対性の外在化が優れて「幻想」の操作であるというのがジジェクの主張である。

 「幻想」は「純粋な敵対性」「主体の自己不一致」を具体的な「敵」へと外在化し、その排除を想像することで主体に内在する「純粋な敵対性」の解消不能性を消去し、「自己への一致」「享楽の十全性(fullness of enjoyment)」を約束するのである。

 ジジェクから見られるなら、HSSの「敵対性」概念は、いかなる閉域化も妨げる「純粋な敵対性」と、それを転倒し外在化し、社会を全体として切り取り閉域化することを可能にする「幻想」の操作を区別していない点で十分明確ではない。

 ラクラウはここからいくつかの理論的進展のきっかけを受け取った。「敵対性」の位置に関していえば、敵対性に先立つ言説・構造・体系のほつれとしての「転位(dislocation)」の概念が登場し、敵の現前としての敵対性は前項で参照したラクラウの分析に現れていたように、それに対してシステムが閉じられたものとして切り取られうるような外部として「システムの全体性」を保証する契機、「構成的外部」となっていく。

 後にラクラウはおそらくはこのdislocationの概念をさらに発展させるような形で、単一の言説/構造/システムを逃れ行くものの様々な形態を広く「異質性(heterogeneity)」として扱うようになっていく。

 「主体概念の練り直し」の方では、「主体位置」から「欠如した主体」「否定性としての主体」への主体概念の変化がある。ラクラウが簡潔に要約しているところでは、構造のもつれ、「転位(dislocation)」によって構造内部に肯定的な同一性を持ちえない主体、「欠如した主体」が出現し、この欠如を逃れるために主体は決定を下して新しい構造へと「同一化」する(デリダ他 [2002:104])。

 ジジェクとの差異は、今まで見てきたようにジジェクが主体の欠如ないし否定性をもっとも原初的なものとして設定するのに対して、ラクラウは主体の(肯定的同一性の)欠如を、「転位」と呼ばれる構造のもつれに帰していることである。

3-2、普遍性

 さて、90年代のラクラウは特殊主義の勃興という時代認識のもと、しかし、純粋な特殊主義は、例えば諸々の特殊が共存しうる地平として普遍性が不可欠である以上、維持不可能なものであるとして、HSSではまだ明確な位置づけをもっていなかった「普遍性」概念の練り上げに向かう。

 その少なくとも一つの回路となったのが前項でみた「主体の欠如」の観念である。主体の欠如のために、主体はその「特殊性 = 肯定的規定」に自足しえず、また欠如から翻って、その反対物として「不在の十全性(absent fullness)」という普遍的価値が立ち現れる。

 欠如した主体は欠如・無秩序を逃れるために社会・秩序へ「同一化」をしなければならないが、その秩序は「特殊」な秩序であると同時に、欠如・無秩序の脅威を背景にして、単に秩序を与えるというだけで、「不在の十全性」という普遍的価値を部分的に代理するという機能を果たす。あらゆる秩序には普遍性の機能がある。

 だが、ラクラウの理論化するところ「主体の欠如」は構成的で消去不可能なために「不在の十全性」としての普遍性は最終的には「不在」にとどまる。主体が完全に同一化できる完璧な秩序は存在しない。

 まとめると、主体が欠如である限りで、その反対物として現れる「不在の十全性」という普遍的価値の参照は不可避的で「必然的」だが、他方でそれに到達することは「不可能」であり、特殊な諸対象ないし秩序がそれを代理するしか無い。

 消去不可能な「主体の欠如」こそが、「空虚」で「不可能」にとどまりつつ、その場所をつかの間諸対象が奪い合うという「ヘゲモニーの普遍性」の構造を可能にしている。さらにこのヘゲモニーの普遍性の構造こそ「民主主義」そのものの構造であって、「民主主義」は普遍性の直接的・最終的実現を不可能なものとして普遍性を空虚に保ちつつ、それを実現しようという諸プロジェクトの競争を可能にする(Laclau [1994:11-39])。これが前章のジジェクの民主主義論とほとんど重なっていることは見やすいだろう。

 さて、これが「必然」であると同時に「不可能」であり、特殊の諸要素によってつかの間に占拠される「ヘゲモニーの普遍性」であって、そういうものとしてHSSの議論との接続可能である。

 実際、HSSと近著”On Populist Reason”(OPR)は、大筋としてはやはり「同じ話」だが、そこでの大きな変化は先の「異質性(heterogeneity)」の導入を別にすれば、90年代以来のヘゲモニーに特有の普遍性の概念とそれに対応する「空虚なシニフィアン」の概念の練り上げの成果が盛り込まれたことであり、それを通じた「備給(investment)」の問題系、つまり、ラディカルな変革を支える主体の情動的基礎を巡る問題系への踏み込みであるといえる。

 主にOPRに基づき、その議論の流れ、HSSの理論と普遍性概念とのつながりを整理しておこう。ラクラウは分析の最小単位を「要求(demand)」へと変化させている。要求は体制に向けて発せられる。安定した体制においては要求は聞き届けられ、それぞれの要求は互いに異なるものとして差異的な社会秩序に包摂されるだろう。

 だが、体制が要求を満たせないような場合が存在する。満たされなかった要求は欠如として、「不完全な存在(deficient being)」として自らを感受する。つまり、差異的秩序への包摂されなさである「欠如」が生じる。そして、その「想像的反転」として「共同体の十全性(fullness of community)」が、つまり「普遍性」の次元が感得される。ここに主体の欠如が必然化する「普遍性」への参照がある。

 だが、単にひとつ、またはいくつかの要求が満たされないだけでは、孤立した欲求不満だけでは何も事態は変化しないだろう。この孤立したままの要求をラクラウは「民主主義的(democratic)」要求と呼ぶ。だが、体制の統治能力が低下し、不満足な要求が増え続ける状況では、不満足な要求が相互に「同じもの = 等価なもの」として連結され、「人民的(popular)」要求へと変化する可能性が生じる。そこで根本的な変革を可能にする主体としての「人民(people)」が立ち現れる可能性が生じる。

 さて、ここで思い出しておかなければならないのは「等価性連鎖」の可能性の条件は「敵対性」であり、等価的な連結は純粋な「否定性」の具現へと傾向的に構築されていく「敵」との関係においてのみ可能であるということである。だから「あらゆる潜在的な普遍化効果は抑圧的なセクターの敵対的排除に依存している」(Žižek, Butler, Laclau [2000:46])。

 普遍性そのものは欠如によって、まずもって不在なものとして感得されうるが、それを現実化するためには等価性連鎖・人民的要求の立ち上げが必要であって、それは敵、「権力」との敵対関係、その「否定性」としての構築を必要条件とするのである。敵が端的な否定性へと向けて構築されるほど、等価性連鎖は拡大する可能性を得、「純粋な悪」の反対物として純粋な肯定性、つまり、十全性ないし普遍性の次元を体現しうるようになる。

 さて、これは「等価性の論理」に基づく「節合」としての「ヘゲモニー」のうちで現れた普遍性であるから「ヘゲモニーの普遍性」である。それがそれ自身の内容を持たず「空虚」な普遍性であったことを想起しよう。その根拠が今やより明確になったといえる。というのも、その普遍性は単に欠如の「想像的反転」によって得られたものでしかなく、それを支えているのも「敵」の構築によって相互に等価なものとして連接された「特殊」的ないし個別的諸要求でしかないのだから。あらかじめ定められた普遍性の内容は存在しない。

 だが、現にヘゲモニーの、「権力 = 敵」に対立する等価性連鎖、つまりラクラウのいう人民(people)の普遍性が立ち上がっている以上、どこかからその内容が与えられなければならない。それは等価性連鎖を織りなす特殊・個別的内容からやってくるしかない。そのうちのどれかが自らの特殊的内容を徐々に失いつつ、他の諸要求も書き込まれうるような、そして等価性連鎖全体、「人民」がそこで表象されうるような、純粋な肯定性・普遍性を体現しうるような「空虚なシニフィアン」―「連帯」、Change、構造改革など―へ向けて、「向けて」というのは完全に空虚になることは出来ないからだが、変化しなければならない。

 この「空虚なシニフィアン」の地位、普遍性を体現する特殊内容の地位を誰が体現するかという闘争が優れた意味でヘゲモニー闘争の領野を形成する。

 ラクラウによれば、この「空虚な/へ向かうシニフィアン」が支える「ヘゲモニーの普遍性」が等価性連鎖で生まれる人民に統一性を与えるのであり、このヘゲモニーの普遍性の論理は空虚で不可能な普遍性の場所を占める特殊内容として、ラカン派がいうところの不可能な〈物〉の場所を占める対象aの論理と同一であるとラクラウは主張する。

 この普遍性、「人民」は、純粋な肯定性の代理になるものとしてラディカルな「備給」の対象となる。この「備給」がラディカルな変革への主体の参与を下支えする。それは一種のユートピアへの希求を示す契機である。

 OPRは以上のように「形式的」に、つまり特定の政治的内容から独立に思考された「人民」主体の立ち上げ、すなわち「ポピュリズム」は、「ポピュリズム」という言葉が通常もつ否定的なニュアンスが示唆するところとは異なって、あらゆるラディカルな政治の、その名に値するあらゆる政治の可能性の条件であるとして擁護するものである。それは「人民」を立ち上げるという政治プロジェクトを唱導するものと見ることが出来る。

4、民主主義とポピュリズム

 民主主義が人民による支配を意味し、ポピュリズムが人民という政治主体を立ち上げることを意味するとすれば、両者はそもそも非常に近しいものなのだと考えることが出来るだろう。ラクラウにおける両者の意味と関係の変化を簡単に追って本章の主要部分を終えたい。

 最初のPIMでは民主主義(democracy)はポピュリズム、人民(people)、人民的(popular)と非常に近接した形で考えられている。そのことを表現するのは「人民的-民主主義的呼びかけ」という用語である。先に少し述べたように経済による「最終審級における決定」等々の(ポストではない)マルクス主義的思考を残すPIMでは、生産様式・下部構造のレベルで構成される階級が、上部構造のレベルで必然的な階級帰属をもっていない浮遊するイデオロギー的諸要素を節合するとされており、「人民的-民主主義的呼びかけ」はその浮遊するイデオロギー要素の一つであって、権力に対抗する人民として人々に呼びかけるものである。

 本書の終結部では権力に対抗する「人民」は、国家・権力を最終的に廃絶するプロレタリアートに節合された時にのみ完成に至り、逆にプロレタリアートは人民を節合することで自らの役割を完遂するという壮大な物語が語られている。このような人民と「民主主義」がハイフンで結ばれているのは、ラクラウが「民主主義」を自由民主主義的な諸権利・制度「以上の何か」として理解し、むしろ、それに参加する主体、つまり人民という契機を重視して、民主主義を「それを通じて「人民」が権力ブロックとの対立を通して自らの同一性を自覚するようになるようなシンボルや価値などなど、一言でいえば呼びかけの集まり」(Laclau [1977:107])として理解するとしているからである。

 続くHSSでも民主主義と人民の距離は遠くない。先に少し確認したように、HSSの民主主義は平等主義の原理として、様々な場所で平等を求める民主主義的闘争を可能にするものとされている。様々な政治空間で発生する民主主義的諸闘争が等価的に連接され、社会そのものが単一の政治空間への収斂へ向かい、社会の二大敵対勢力への分割へと向かう場合にのみ、人民的闘争について語りうる。人民は民主主義闘争の特殊な形態、その極限的形態として理解されている。

 続く時期において、ヘゲモニーの「空虚」な普遍性概念が練り上げられるのと並行して、クロード・ルフォール流の民主主義理解、権力の場を何か特定のものによって埋めてしまうのではなく、最終的に「空虚」に保つものとしての民主主義という理解が前景化してくる。ヘゲモニーの普遍性は必然的だが不可能であり、本質的にいって空虚なものである。その空虚な場所を特殊個別の内容が占拠しようと試みるのだが、それはいつもつかの間で不安定なものである。民主主義は権力の場を最終的には「空虚」に保つことで完全なヘゲモニーを不可能にしつつ、それを目指す諸プロジェクトを競合させる場を開く。ヘゲモニーの理論そのものがこの規範的立場へのコミットメントを含んでいるとされる(cf. Žižek, Butler, Laclau [2000])。民主主義はポピュリズムの限界を規定する。

 OPRは民主主義の語義の重点を初期のような「人民」との関係へと移動させている。そこで言われるところでは、クロード・ルフォール流の権力の場を「空虚」に保つこととしての民主主義概念は、自由主義的なものであり、民主主義を自由主義と結びつけ、「自由-民主主義的体制(regime)」に重点を置いている。だが、自由主義と民主主義との連結は必然的なものではなく、「民主主義」はもっと本質的には人民の支配、peopleの構成の問題なのである。だからここでは民主主義について「人民的-民主主義的主体」の問題に重点をおく(Laclau [2007b:166])。「民主主義の問題は、その真の普遍性において見られるなら、「人民」の出現を可能にする枠組みの多元性の問題となる」(Laclau [2007b:167])。

 だが、ここで自由-民主主義的な「体制」に重点を置いた民主主義理解とされたもの、クロード・ルフォールに帰せられてはいるが、ラクラウ自身が以前に熱心に取り組んでいたといってもよい問題系も捨て去られたわけではないだろう。ほぼ同時期の”the future of radical democracy”という文章でラクラウはラディカル・デモクラシー、つまり、民主主義には三つの側面があるというバランスのとれた成熟した見解を示している。

 それは第一に「自由民主主義的な制度」であり、その適用の「普遍」化としてラディカル・デモクラシーを考えることが出来る。第二に民主主義的な主体、つまり「人民」の立ち上げである。第三に特定の「人民」の等価性連鎖は全ての民主主義的要求を受け入れることはないのだから、特定の「人民」の「普遍性を疑問に付す」「多元性」の次元としてラディカル・デモクラシーを考えうる。この三つの相互に異なり究極的には相互に両立しがたい三つの次元の相互作用としてラディカル・デモクラシーを考えなければならない(Laclau [2005])。

 とすれば、問題は現在の状況でどの契機を強調するかということになるのだろう。2000年のHSS第二版序文がこの点について一つの立場を示しているように思われる。「疑いなく、左派がついに多元主義と自由-民主主義的な制度の重要性を認めたことはよいことである。しかし、問題は、このことがそれは現在のヘゲモニー秩序を変容させるいかなる試みをも捨てることだという誤った信念に伴われていたことである」(Laclau, Mouffe [2001:xv])。

 おそらくこの認識の延長線上で、新しいヘゲモニーの構築、等価性連鎖の構築、「人民」の構築を優先するというOPRの判断が生じているのである。

5、ジジェクとラクラウ

 最後にジジェクとラクラウの論争について取り扱うことで議論を次章へと接続しよう。

5-1、周辺事情

 まず、論争に至るまでの周辺事情・経緯を振り返っておこう。ジジェクの最初の英語著作『イデオロギーの崇高な対象』(1989)はラクラウとムフの編集する”Phronesis”シリーズから出たものであり、その中でジジェクはHSSからラカン理論から政治を見るという着想を得たといって謝辞を述べている。先に述べたように「敵対性」概念に連関してのことである。

 他方でラクラウにしても『イデ崇』の出版と序文の執筆のみならず、先に見たように自らの著作にジジェクの小論を収録して理論的な影響を受けたりと、どちらから見ても良好な関係を維持していたということができる。

 関係が悪化するのは2000年のバトラー、ラクラウ、ジジェクが相互に応答しあう論文集『偶然性・ヘゲモニー・普遍性』においてである。本書は最初にそれぞれからの問題提起があり、それに応じた三人の論文、それを読んでからの三人の応答、さらにもう一度の応答と三人×三回の九本の論考を収録したものである。ここでジジェクとラクラウの間には多数の意見の不一致が生まれ、回を重ねるごとに雰囲気が険悪になっていく。

 かくして本稿の冒頭の引用にあったように2004年にジジェクは「理論的・政治的な意見の相違」を語る。そして2005年のOPRを契機としてジジェクが”Against populist temptation”という小論を発表したのを皮切りに、ラクラウが、そうしてもう一度ジジェクが応答するという形で、一種の論争の様相を呈した。

5-2、論争の要点

 さて、多岐にわたる論争からラクラウの理論に関する限りでその内容を検討しよう。ジジェクの主張の要点は3-1で見た小論”Beyond Discourse Analysis”に萌芽的な形ですでに含まれているし、その論理を私たちとしては序論第四章ですでに十全に解明している。

 つまり、敵対性・等価性の論理、ということはヘゲモニーの論理、ポピュリズムの論理は「幻想」の論理なのではないか、ということである。これは確かに否定的なものとして構築された敵との関係ではじめて等価性連鎖が可能であり、その構築によって初めて普遍性・十全性の領野が開き現実化する、「普遍性が存在するまさにその条件として、ラディカルな排除が前提とされている」(Žižek, Butler, Laclau [2000:216]) というラクラウの立場に当てはまるように見える。

 ジジェクの見るところ、これは解消不能な「否定性」「不可能性」を経験的な対象に一点集中させることとして過度の単純化、イデオロギー的神秘化の操作であり、また自らを支えるために排除、構成的例外に依拠し続けなければならない点において望ましくない。ジジェクは全体主義の一要件として「敵」を作り続けなければならないことと規定したルフォールに従って、これを潜在的に全体主義的な操作とも見ている。「敵」の形象の最高の例はナチスのユダヤ人である、と―ジジェクにある少々安易な傾向は「敵」を排除する幻想という弁別特徴に重きを置きすぎ、それがあれば問題であり、それがなければ問題ではないかのように語りがちなところである。

 さて、先に少し触れた2000年の共著でもジジェクはこのイデオロギー幻想の分析を、後に述べるようにラクラウの立場の直接の批判としてではないのだが、話題にしている。ラクラウはこの分析全般には同意しつつ二つほど疑問を呈している。

 それを要約すれば、第一に、一緒くたに内在的な不可能性を外在化する「排除」といっても、「ユダヤ人」のような全くいわれのない排除、社会の抱える不可能性と特別の関係のない全く恣意的な排除と「ツァーリズム」や「アパルトヘイト体制」のような「民主主義的改革の多元主義」に対する「現実の障害」でもあったものの「排除」を混同するべきではない。

 確かにどちらも表象不可能な「不可能性」を外的な個別対象に具現させて表象する操作である以上「恣意性」は存在するのだが、その中にも全く恣意的なものの排除とある程度は現実の障害であるものの排除という質的差異がある。こういうことでラクラウが言いたいのは、おそらく相対的に「良い」「妥当な」排除と「悪い」「不当な」排除があるということだろう。

 そして第二に、この時期のルフォール的民主主義理解に沿うかたちで「不可能性を超えたという幻想によって不可能性を隠す」のではなく、「不可能性それ自体を実質的な価値として象徴化」する民主主義の可能性が存在する(Žižek,Butler,Laclau [2000:198-199])

 さて、実際この時期には今の第二の論点のラインに基づく形で、先にも見たようにラクラウは民主主義概念の強調点をこの「不可能性」の受け入れに置き、ヘゲモニーの普遍性の「必然的」かつ「不可能」な性質を強調していたから、ジジェクのイデオロギー「幻想」論も直接にラクラウの立場の批判としては提出されていなかった。

 では、ジジェクからラクラウへはどのような批判がなされていたのか、少々些末だが一応確認しておこう。第一は、これは結局イデオロギー幻想の議論と関係するのだが、ラクラウのヘゲモニー理論は中立的で「ファシズム」から「社会民主主義」まであらゆるイデオロギーの普遍的メカニズムを説明するものなのに、その理論に依拠する形で、ラクラウが左派によるヘゲモニー形成としてラディカル・デモクラシーを唱えていることに向けられる。

 ここで問題になっているのは理論的レベルで自らが擁護する左派の立場を「ファシズム」ないしその他の政治と区別する必要があるのではないかということである。これに対するラクラウの可能的な応答は先の第二の論点と連関して、また第四節で見たようにヘゲモニーの理論の立場は中立ではなく最終的な解決の「不可能性」の受け入れという「民主主義」的な規範的コミットメントを含むというものである。だが、これに対してジジェクは、ああいえばこういう式(?)に、その立場には最終的な不可能性にまつわる諦念がつきまとっているのではないかという。ジジェク曰く、ラクラウの基本的姿勢はイデオロギー批判、すべての特定のヘゲモニー形成に付きまとうイデオロギー的錯覚を批判するという姿勢である(Žižek [2000a:182-183])。

 さて、先に第四節で見たようにOPRは「民主主義」概念の重点を「ヘゲモニー/人民」の限界ではなく、むしろ「人民」の構築、つまり、新しいヘゲモニーの構築へと再び近づける。これをもってジジェクは「ラクラウは民主主義[概念]を体制「内部」の民主的要求としてのみ用いる」ことで「明確に立場をラディカル・デモクラシーからポピュリズムへとシフトさせた」(Žižek[2006c:197])と判断する。それゆえ今やジジェクはイデオロギー幻想の批判をラクラウの立場に対する直接の批判として提示することになる。

5-3、論争の評価

 では、この論争をどう考えるべきだろうか。まず、第四節のラクラウの民主主義に対するバランスのとれた立場についての論述から、ジジェクのラクラウの立場変化に関わる判断は性急だと示しうると思われる。その点を差し引いて考えるとして、単に特定の政治的内容から純化された形式的な形でポピュリズムを定義し、それをラディカルな政治一般の条件として擁護するというとき、そこには「敵」の構築という要素があり、しかも、ポピュリズムの普遍性・等価性連鎖の維持可能性自体がその構築に依存しているのだとすれば、そこにいくつかの問題がはらまれることは確かだろう。

 二人の距離はラクラウが、おそらくは出身地南米での経験の影響もあって、まずもって「権力/ツァーリズム/アパルトヘイト等々に敵対する人民」を想像して、ポピュリズムはそれ自体において必然的に反動的・全体主義的であったりするわけでは無いというのを強調するのに対して、ジジェクも必然的に反動的であるわけではないことは認めつつ、一つの極限的事例として「ユダヤ人」を排除する「ナチズム」、そしてまたこちらも出身地での経験から旧ユーゴでのナショナリズムの猖獗を想像して、それと自らの立場を理論的に区別する可能性を確保するべきだとする点にある。

 とすれば問題にこの危険をどの程度と見積もるかということになるが、「権力に敵対する人民」であるうちはともかく、一端「権力」を掌握したあとで、もしその立場の普遍性・一体性が「敵」への参照によってのみ維持されるのだとすれば、むやみやたらと「敵」を産出する反動的な立場へと転落する危険は大きいだろう。

 ここでもう一歩議論を進めると、この危険は、その立場の正当性が「敵」への参照に依存している度合いに比例するものであり、更にこの依存度合いは等価性連鎖を構成している特殊な諸項の要求が、政権掌握によって実際に満たされているか否かに左右される。政権はとってみたものの実際に状況が改善しないとき、政権の正当性を維持は敵への参照によってのみ可能となり、敵の絶えざる産出が必須となるのである。

 それゆえ、問題は結局ポジティブな政権構想の問題へと送り返されることになる。そしてこの点において少なくとも私たちの知る限り、ラクラウもジジェクがそうであるのと同じ程度には心もとないのである。

 等価性連鎖の論理とポピュリズムの論理は、ラクラウもいうように必ずしも全体主義的ではなく、深く民主的でもありうるにせよ、私たちの考えによると、この悪しき形態への転化の可能性は、最終的にどれだけ等価性連鎖に参加している特殊な諸主体の肯定的な要求を満たすことが出来るか、つまり、肯定的な「同じさ」を見いだすか、あるいはそれぞれに異なった要求に繊細に対応していくことによって、満たすことが出来るかにかかっているからである。

 他方でジジェクの方に逆に問いを向けてみるなら、ポピュリズムの擁護を、そこに内在するイデオロギー幻想の論理ゆえに、その危険な全体主義的的な頽落形態との区別を欠いているとし、他方でかつてはその「民主主義」的制限には最終的な「不可能性」をめぐる諦念があると、ある意味「ああ言えばこう言う」的に批判していたジジェクは、何かポジティブに主張しているのだろうか。

 ジジェク自身の擁護したい積極的な立場と見なせるものは、今扱っている問題の枠内でいうなら、普遍性の論理には二種類あるというジジェクの主張にある(Žižek[2006a:564])。

 曰く、「構成的例外」「排除」に依拠したヘゲモニーの普遍性ではなく、逆に「例外」であること、「排除」されていることによる普遍性、ジジェクがランシエールやバディウにも帰している「例外」である普遍性という論理がある。

 それはジジェクの見るところ、いかにもジジェク的に「現に存在する普遍性において何が間違っているか」を指し示すだけで「何も肯定的な内容を持たない」純粋に否定的な普遍性であって、この普遍性は「救うことが出来る」(Žižek, Daly[2004:160-161])。この論理は一見して「人民」を立ち上げるポピュリズムより控え目で野心的でないようにも見える。そういうわけで、今やこの論理が解明されるべきである。ラクラウの理論を詳細に検討することでこのことの準備はすでに整っている。これが次章の課題をなす。

6、本章の総括

 本稿はエルネスト・ラクラウの政治理論の概要を提示することを目的としていた。ラクラウの理論は、その方法論的諸前提に十全に自覚的である点でジジェクもいうように「真の概念的厳密さ」(Žižek[2006a:555])をもつ希有な例であるように思われるし、HSSから定式化され始めた「言説」とそれに付随する諸概念、そしてそれによる「節合の契機の特権化」が政治的諸現象の分析や政治的戦略に対して開く生産性も、やはり確固としたものである。

 そこに欠けているもの、すなわち、第一に、政治空間の論理の形式的提示として、ポジティブに提示されるべき具体的な政治的プログラムがないこと、第二に、「政治的節合」を特権化し、「言説 = 社会」の偶然的性格を主張するのはよいにしても、経済を中心とする社会的過程の規定性、現実による言説の規定そのものは当然に残存しており、それを分析できないこと、それどころか、どれほど必然性・規定性の領域があり、どれほど偶然性があるのかも分析できないこと(ラクラウならこの分割線自体が偶然的であるというだろうし、それは正しいが、そういうだけではあまり助けにならないだろう)、こういったことを求めるのは無い物ねだりというものだろう。それは後進達(?)に託された仕事なのである。

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第二章「行為」の政治―ジジェクにおける「哲学的/精神分析的」政治とその挫折
第四章 例外である普遍性―ジジェクの普遍性概念

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

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1. もちろん、この立場の限界を指摘するのは容易い。経済がすべてを決定するというのは誤りであるとして、経済が何も決定しないわけではない。要素が特定の契機に還元され得ない豊かさを持っているからといって、どんな象徴化も可能であるわけではない。つまり、「言説」「節合」「政治」の自律性を認めたとしても、それはやはり「現実」「経済」その他のものに規定されてもいるのであって、この次元が「言説」の立場からは見えてこないし、主題化することもできないのである。当然ラクラウもこの限界に自覚的で、おそらくはそれを積極的に引き受けてさえいるのだろう。だからわざわざ「政治的節合の契機を特権化する」と述べているのだろうから。
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