第一章 ジジェクのカント理解―理性・自由/苦痛・崇高、あるいは快原理の彼岸

0、はじめに―「否定的なもの」のための場を開く

 本章は、ジジェクのカント理解・解釈、あるいは「改釈」を解明することを通じてジジェクの根本問題へと接近していくことを目的とする。ジジェクの根本的問いは、私たちの視座からすれば、「否定的なもの/否定性」をめぐる問いである。それゆえ、ジジェクの一見多岐にわたり錯綜するそのカント理解も「否定性」の問いという視座から切り詰められ再構成される必要がある。

 このことを基本的な視点としつつ、本章の主要な目的は二つある。第一に、よく知られたカント的な諸概念を通じて、「欲望」、欲望の究極の対象としての〈物〉、「享楽」などの基本的な概念を照らし出すことであり、第二に、ジジェクがカントの立場を最終的に克服されるべき「欲望の主体」として特徴付けていることを明らかにすることである。

 さて、ジジェクとカントの関わりに話を移し、この第0節では緒論で述べたことをより仔細に反復しよう。ジジェクは一貫してカントを称賛し、暴言であることを断った上で「カントが最初の哲学者だ」(Žižek, Daly [2004:28])と言っている。

 ここでジジェクが意図しているのはカントのいわゆる「超越論的転回」であり、哲学の超越論的側面、「可能性の条件」を問うという問い方である。

 ジジェクは、カントによってこそ、哲学がただちに「万物の構造を理解しよう」とする「誇大妄想的な試み」ではなく、諸物が私たちに現に現れているように諸物を現れせしめている構造、「世界が私たちにいかに開示されているかを、私たちがいかに理解するかを規定している、何らかの、少なくとも歴史的には先行しているアプリオリな構造」を理解することなのだということ、経験そのものの「可能性の条件」となる次元を理解することなのだと了解したという。

 この視座からすれば、ジジェクの見るところ、「私たちは実際の事実や合理的な仮説を取り扱っているのに、あなた方、哲学者は万物の構造について、ただ夢想しているだけだ」というような「ナイーブな科学者」に反論することができる。

 哲学は、このような科学よりも「批判的」「慎重」であり得、より「初歩的な問い」を発する。つまり、科学者がある問いにアプローチする時、「この問いを定式化するために、科学者が既に前提としていなければならない概念は何なのか」と問うことが出来るという。

 哲学は、私たちが常にすでにその中にいる経験を可能にしているものを問うのだから、「既にそこにあるものについて尋ねる」1)第三章で話題になることだが、ハイデガーが哲学は常に論点先取的とも見える「循環」を避けられないと主張しているのはこのためである。だけであり、「あなたが言っていることを言いうるために、あなたが理解していることを理解できるために、あなたがやっていることをやっていると知りうるために、既に存在しなければならない概念的その他の前提」について問うているだけなのだ、と。この点で「カントは常に模範的な哲学者だった」(Žižek, Daly [2004:25-26])。

 だが、そうであるとしてなぜカントが「最初の哲学者」だということになるのだろうか。その根拠についてジジェクはさらに説明している。

 曰く、カントの転回以前には、先に見た「万物の構造を理解しよう」として、「哲学は特殊科学との質的差異なしに究極的には〈存在〉としての〈存在〉の一般科学として、全現実性の普遍的構造の描写として受け取られて」いた。

 それに対して、ここでハイデガー用語が使われていることに注意すべきだが、カントが初めて「[存在者に関わる]存在的(ontic/ontisch)現実性と[存在に関わる]存在論的(ontological/ontologisch)地平、すなわち、私たちがどう現実性を理解するか、何が現実として私たちに現れてくるかを決定するアプリオリなカテゴリーのネットワークの区別を導入する」。

 そうすることで、ジジェク曰く、前者、「存在的な/オンティッシュな現実性」を扱い、具体的な存在者に関わる「経験的/実証的 = 肯定的(positive)」な諸科学と、後者、そういった存在者の開示の地平、「歴史的に支配的な「〈存在〉の開示」とハイデガーなら呼んだであろうもの」、存在者を存在者として規定するもの、すなわち、何が「存在する」のか、何が「現実」なのかを規定するもの、つまり「存在(Sein)」を扱う哲学との間に、単なる量的差異ではない質的差異が導入され、哲学が他と区別されたものとしての「自己自身の領野に到達した」からである、と。

 つまり、カントの転回以前では、哲学と他の諸科学の対象の違いが、単に世界の全部と一部という量的差異に留まらずに、ある種の質的差異を含むことが明確にされていなかった、そしてその質的差異の内実、「経験的/超越論的」の差異の内実が明確にされていなかったのである。そして、この区別を可能にした転回を一言で要約するのが「現実性の超越論的構成」という概念である(Žižek [2012:9])。

 そしてジジェクの見るところ、精神分析はドイツ観念論で獲得された主体による世界の「措定/構成」という考え方を受け継いでいる。「精神分析は「現実性」を構成されたもの、正確にドイツ観念論で獲得された意味において、主体によって「措定」されたものと考える」(Žižek [2008c:57])。私たちは「生の現実」に触れることはない。私たちが経験する対象は、私たちが経験する限りで、常にすでに一定の認知的な枠組みを通じて媒介され、構成されている。

 これはジジェクがよく用いるラカン用語、世界が言語のネットワークによって分節されていることを示す〈象徴界〉という言葉で指し示そうとしていることの一つである。この「構成」はジジェクの議論の前提といっていい部分だが、この妥当性について私たちの日常経験を引き合いに出すことができるだろう。私たちが日常においてどんなものと出会おうとも、それは対象として、常にすでにある特定の仕方で言語的に分節され切り分けられ、意識的思考以前に特定の何ものか「として」経験されている。

 ここにあるのは「概念」の謎であると言ってもいいだろう。よく言われるように「概念」の不思議さはその一般性と先行性のうちにある。私たちは犬を見る時に、意識的に思考する間もなく「犬」と分かるのだし、それは無数の犬に一般的に当てはまるものと想定される。

 このことからして「概念」の座として、個々の経験とは区別され、経験一般を覆い、従って経験に先行する次元、アプリオリな次元を想定せざるを得なくなる。ここに恐らくカントが「超越論的統覚」、つまり、一切の経験的表象に潜在的に伴うことが出来る「私が考えているのだ(ich denke)!」、それゆえに経験に対し先行的で一般的な自己意識を、「悟性」、すなわち概念の能力を等置した理由の一つを見いだすことが出来るだろう。

 さて、だが「超越論的転回」をめぐる以上の一般論にも増して私たちの視座からして決定的に重要なのは、これをジジェクのカント理解の第一の要点と言ってよいと思うのだが、カントのこの超越論的転回、この経験的現実性そのものに、主体の先行的な綜合・統一の活動が構成的に関与しているという観念によって、「否定性」の次元がはじめて適切に思考可能になったということである。

 この点を説明してみよう。経験的な世界は諸事物から成り立っている。諸物は各々時間と場所を持ち、諸性質を持つ。それらはその時間や場所、それが保持する性質によってその「何であるか」を規定することが出来る。それについて肯定的な述語付けを行うことが出来る。肯定的な述語付けが行われうるということは、それは何かであり、それ以外の何かではないのだから、そのものは限定されたもの、有限なものであるということができる。

 かくして、世界のうちにあるもの、経験に属するもの、時間と場所をもつものは肯定的で有限である。それは「肯定的」「限定的」「有限的」である。このような諸物の集積さらには総体として考えられた「世界」が自然で所与のものとして、経験の究極の地平であると考えられたとき、「否定的なもの」、言い換えれば「無限定的なもの」「無限なもの」など存在しない。

 だが、この肯定的なものの集積としての「世界」が所与のものではなく主体の構成によるものとされて「究極の地平」という地位を失うなら、話は変わってくる。そうすればこの肯定性の宇宙とは別の次元の可能性が開けてくる。

 すなわち、この「現実性の超越論的構成」という視座からすれば、第一に、それを構成する主体、「超越論的統覚」は肯定的なものではあり得ず、その領野から追い出され、そうして肯定的に規定し得えないもの、肯定的なものではないもの、「否定的なもの」になるだろうし、第二に、また一般に肯定的なものの領域、現象の領域に留まらないものが思考可能になる。それはカントによっては物自体や叡智界として名指されることになるものだが、経験的な存在者としての人間にとって、物自体や叡智界と呼ばれているものとの関係は「現象的/感性的/経験的なもの」、つまり、有限的なものの否定として、ある否定作用として、「否定性」として生起することにならざるを得ないだろう。実際にカントもそのように記述している。

 こうした問題構成からジジェクのカント解釈は「現象界と叡智界」、「現象と物自体」、「感性と理性」の交差する点に注視するものとなり、三つの批判書から、それぞれ「理性」「自由と苦痛」「崇高」が重要なモチーフとして取り出される。この三つの重なりあいから「否定的なもの」が惹起する純粋感情として「享楽」の、カントが描く「快原理の彼岸」の領野の輪郭が浮かび上がることになる。

 ここであらかじめ注意をしておけば、ジジェクがカントを批判するのは、現象の領野の内部でないものを「物自体」「叡智界」として何かしら実体的で肯定的な領域として想定することについてである。ジジェクの見るところ「現象」は主体によって構成されたものとして「限界」がある。だが、それとは別の次元に、それを超えた「超越」的なもの、「物自体」が、「肯定的」な秩序として、何か人間以外の認識能力をもつものであれば捉えられるような仕方であるわけではない。

 あるのはただ現象の「限界」、肯定的なものの連鎖としての現象の破れ、そこに生じる肯定的に規定しえない「否定的なもの」の経験のみであり、その向こう側はある意味で存在しない。このことをジジェクは「限界が超越に先立つ」(Žižek [1993a:35])と表現している。そしてこれはジジェクがカントとヘーゲルの差異を規定する際に最も良く用いる定式でもある。

カントこそが、外的でアクセス不可能な存在者(entity)としての物自体への参照を未だ維持していることによって、形而上学の破壊において道半ばにある。ヘーゲルは単にラディカル化されたカントであり、「絶対的なもの」への否定的アクセス[引用者注:崇高論のこと]から、否定性としての「絶対的なもの」自身というところにまで歩を進める。(Žižek [2009a:27=52])

 ジジェクの見るところカントは「現象」とは別の実体的秩序、なにか肯定的なものとしての「物自体」を想定する点において性急だったのだが、この世界を主体の構成からなる「現象」とすることで、この肯定性の宇宙に破れがある可能性、「否定的なもの」の経験の可能性を初めて適切に開いたことに変わりはなく、実際、いくつかの形でカントは「現象」の破れ、否定的なものの経験の瞬間を、それを最後には「物自体」「叡智界」へと帰着させるにせよ、やはり書き留めたのである。すなわち、「カントの現実性の超越論的構成という考えはある特別な「第三の領域」を開く。それは現象的でも叡智的でもない」(Žižek [2000a:51])。

 では、この否定的なものの場所は具体的にどのように開かれるのか。この点について本章ではジジェクの議論を追っていく。

 以下、第一節から第三節は三批判書にそれぞれ対応するものであり、第一節はジジェクの主張するラカンの「欲望」とカントの「理性」の並行関係、そして主体の欠如を超越論的主体から理解しようとするジジェクの企てに目を向ける。

 第二節と第三節は現象の領野の破れ、「否定的なもの」の経験をそれぞれ「自由」と「崇高」に即して確認する。ここでジジェクが、ラカンに従って主張すること、カントこそが「快原理の彼岸」の輪郭をはじめて描き出したのだとする判定に触れる(例えばZupančič [2000:vii]にジジェクが寄せた序文)。

 これを一言で表現すれば、ジジェクの読解視座から見ると、カントは人間の「理性」と「感性」への分裂を彼が「快と不快の感情(das Gefühl der Lust und Unlust)」と呼ぶものの領野へと書き入れることで、単なる快ではなくて、苦痛であることによって同時に快であるような特別な快、「享楽(jouissance)」と呼ばれうるようなものの輪郭を描き出したということである。それは「否定的なもの」の経験が引き起こす純粋感情である。

 最後に第四節では本章を総括しつつ、次章への橋渡しを行う、そこで「主体」をめぐる問いが上昇してくることになる。では順次見ていくことにしよう。

1、「欲望」から「理性」へ

 先の第一の要点、超越論的転回が「否定的なもの」のための場所を開くことに続く、ジジェクのカント理解の第二の要点は、これはラカン自身の示唆に従ってということになるだろうが、カントの「理性」とラカンの「欲望」を並行的に理解できるというものだろう。このことを以下、1-1、ラカン派における欲望の構成、1-2、主体の欠如から超越論的主体へ、1-3、「理性」、という形で順次見ていくことにしよう。

1-1、ラカン派における欲望の構成

 カントの「理性」との連関を考えるために重要なことはラカンが「神学者たちが欲望に見出した無限性の印(marque d’infini)」(E812)について語っていることである。この点に注目して議論を進めよう。

 では、このような特殊に人間的な欲望の次元はいかにして生じるのか。ラカン派が通例とするのは生物学的な「欲求」と他者に向けて発される「要求」の関係から人間に特有の「欲望」の次元を導出することである。だが、ここにもいくつかヴァリエーションがあるようである。本項ではまず「要求」に重点を置いたもの、次に「欲求」に重点を置いたものの二つを取り扱っていこう。そして次項で「他者」の場における主体の地位の不確定性からの欲望の導出を取り扱う。

 第一にジジェクが丁寧に追っている「ファルスの意味作用」における「要求」に重点を置いた「否定の否定」としての欲望の導出から見ていこう(Lacan [1966:690-692])(Žižek [1993a:120-122])。人間は生物として自然的な「欲求(besoin/need)」を持っている。その欲求は特定の対象によって満たされるはずのものである。例えば、空腹は食べ物によって満たされる、等々。

 しかし、人間の欲求はそれを満たすために〈他者〉(典型的には母親)に向けて身振りや言語などの意味を持つものと見なされる印によって、つまり、象徴的媒体によって表現されなければならない。これが「要求(demande/demand)」ということだが、ここにおいて欲されているものは個々の欲求対象であるより、むしろ、個々の欲求対象を与える能力を持った他者そのもの、「他者の愛」へと変化する。

 この「他者の愛」への「要求」という次元の出現によって、欲求対象の個別性は「止揚」「否定」される。というのも、それらはその個別性そのもの、欲求の満足という点で欲されるのではなく、それが他者の愛の証明であるという点で欲されるからである。

 ジジェクがここで強調しているのは、これがある「行き詰まり」に行き着くことである。愛への要求という体勢において、手渡される個別的な欲求対象は「これは“あれ”じゃない!」と感得されるからである。行き着く先は愛への要求に忠実であるが故の、具体的な個々の欲求対象の「否定」であり、その極端な発露はジジェクがラカンに従ってよく引証する、何も食べていないのではなく、他者の愛という、つかみ所のない「無」を食べていると見なしうる幼児拒食症である。

 さて、この行き詰まりゆえに「否定の否定」が必要である。「欲望(désir/desire)」は要求から欲求を引いたものとして「否定の否定」を実現する。それが「否定の否定」であるのは、欲望はこの「要求」−「欲求」の引き算の結果の「差」として、個別の欲求対象に対する自律性を維持しつつも、先の「否定」「“あれ”じゃない」という行き詰まりそのものを具現する、肯定的で個別的な対象、欲望の「対象-原因」、対象aを産出し、それを目指すから、つまり、一度は否定された「対象」というものに、あるひねりを加えられた形で回帰するからである。

この逆説的対象は、そのために要求が欲求に還元できなくなる次元を「具現」する。あたかも要求の(文字通りの)対象―要求が直接的-文字通りに要求しているもの―に対する要求の剰余が、再び自らをある対象に具現化したかのようなのだ。対象aは、「これは“あれ”じゃない」の経験に遭遇するたびに出会われる空虚の一種の「肯定化/実定化(positivization)」、穴埋めである。そのなかで、全ての肯定的な対象の不十分性、欠陥そのものが肯定的な存在を獲得する、つまり、対象になるのである(Žižek [1993a:122])。

 肯定的で有限的な諸対象(欲求)を超えた次元を具現する特殊な対象に紐付けされたものとして、「欲望」は肯定的・有限的な諸対象に対する自律性、それへの還元不可能性を獲得する、それは「無限性の印」となるのである。

 さて、第二はシニフィアンへの「疎外」を強調するもので、さっきの「要求」ではなく今度は「欲求」に重点を置いたヴァージョンと言えるかもしれない。ジジェクが先に引証していた部分の直前でラカンが言うところ(Lacan [1966:690])では、欲求が要求に従属すると、欲求は「疎外された」形で帰ってくる。欲

 求は要求として〈他者〉にシニフィアン、象徴的媒体を通じて発せられる。その意味を読み取るのは、そのメッセージを作り出すのは、〈他者〉である。それゆえ聞き届けられた要求と欲求との間に齟齬が生じ、欲求には満たされない残余がある。これが欲求の疎外であり、このことが「原抑圧」を構成する。

 ラカン派において一般に「原抑圧」とは象徴秩序への参入を通じて生じる、原初的な満足の対象としての母的な〈物〉の喪失、その禁止のことである。それは「禁止」を通じて欲望の究極の対象、すなわち、〈物〉となる。だから、ここでラカンは「シニフィアン」の介入から「原抑圧」を導入し、そこに萌芽的な形で「欲望」が形を成すのだという。

 ここでは欲望は先とは逆に「欲求」から「要求」を引いた「差」であるように見える。聞き届けられた要求に対する欲求の残余として「原抑圧」、原初的な満足の対象の禁止が思考され、その禁止されたものへ向けて「欲望」が組織されるというのだから。だが、ここでも欲望は一切の具体的に聞き届けられた要求に対する剰余として、肯定的・有限的な対象を超えた〈物〉への固着として、肯定的・有限的なものによって汲み尽くされない「無限性の印」を帯びていることに変わりはない。

 さらに「欲望」の導出の第三のヴァージョンとして「他者」の中における「主体」の位置の不確定性に強調点をおくものがある。これがジジェクお気に入りの「否定性である主体」の問題系との連関でジジェクが特権化するものであり、それが次節の議論の中心となる。

1-2、主体の欠如から超越論的主体へ

 さて、ジジェクは「主体 = 否定性」という問題系を特権化する。ジジェクの全企てはここからすべての帰結と含意を引き出すことだといっても過言ではない。それゆえジジェクにあっては「欲望」の導出の第三のヴァージョン、「他者」の中での主体の位置の不確定性が重視される。

 すなわち、主体は自分が他者にとって何であるかを知りえないがゆえに、というのは、他者がある要求を向けてくることで本当は何を欲しているのかは究極的には分からないからだが、そのために、現に自己がそうであるところのものに確信を持てず、確固たる同一性を持つこと、自己自身に一致することが出来ない、そのことが(自己探求の)終わりなき欲望を駆動するという議論の文脈が重視されるのである。そして欲望を動かすこの「主体の欠如」を主体の否定性から理解することが目指される。

 だからまずジジェクは「原抑圧」、欲望の究極の対象である〈物〉の喪失、あるいはむしろ、その喪失によって初めて欲望の究極の対象が遡及的に構成されるような喪失において、失われたのは主体そのもの、他者のうちでの主体の確固たる位置だということを強調する(Žižek [1993a:91])。シニフィアンの介入としての象徴化によって、欲望の究極の対象である〈物〉としての母が、私にとって直接の対象ではなくなるだけでなく、私自身が母の対象ではなくなると述べた上でジジェクはこう続ける。

[この瞬間から]目に見えないほどの距離が永遠に私の人格の実体的内容を「自己意識」の空虚な点から切り離す。すなわち、私はもはや「私の何であるか」と、私の中の特殊な諸特徴の豊富さと直接に同一ではない。私の自己同一性の軸はS(満ちた、実体的な、「パソロジカルな」主体)から$(「抹消線を引かれた」、空虚な主体)へとシフトするのである(Žižek [1993a:91])。

 象徴秩序への参入によって失われたのは対象だけではない。〈他者〉の中での私の確固たる地位が失われたのであって、それは自己自身、実体的同一性としての自己、肯定的に「~である」といいうる自己が喪失されたといってもよく、主体はすべての肯定的対象や同一性への距離である空虚な否定性としての自己意識に還元されたということもできる。それゆえに主体はどんな肯定的対象や同一性を持ってきても、それに一致し満足することの出来ない「欠如 = 欲望」を抱えている。

 さて、ジジェクの見るところ、この空虚な主体、否定性である主体を初めて適切に定式化したのが、カントの超越論的主体である。ジジェクはことあるごとに「私は「精神分析の主体はデカルトのコギトである」というラカンの指摘を文字通り受け止めている」などと語るが、それはこの意味において、つまり、デカルト-カントの伝統が主体を非実体的で空虚なもの、単なる否定的なものとして考える方向に舵を切ったことで、あらゆる肯定的内容・同一性と一致することが出来ない、欠如した「欲望の主体」を思考するための基礎を作り出していたという意味においてである。

 この点をもう少し詳しく見ておこう(Žižek [1993a:Ch1])。ジジェクのストーリーの出発点に置かれるのはデカルトである。デカルトはその方法的懐疑によって一切を疑い、最後には疑いえないこととして現に疑っている主体の存在を確証する。それゆえ、この主体は疑いうるものである世界から切り離されている。こうして主体が実体的な諸存在者の領野としての世界からいったん切り離されるまでは良かったものの、ジジェクの見るところ、デカルトは最終的に主体を「レス・コギタンス」、「考えるモノ」、つまり、一つの実体的・肯定的な存在者として、世界の一部に還元してしまった点で不十分である。

 ここで登場するのがカントであって、カントはその超越論的主体、その綜合の活動を通じて、統一性をもった経験が初めて立ち現れるところの主体、すべての表象に伴いうる「私が考える」という自己意識を、そこにおいて世界が現れる場所として、世界内部のいかなる場所、いかなる実体的・肯定的存在者、いかなる「表象」とも見なさない。それは実体的存在者、世界の一部ではなく、世界がそこに現れる場所、世界の限界であって、それゆえに決して捉えられない空虚、自己自身を含めすべての肯定的存在への距離である否定性と見ることが出来る。

 ここで問題になっているのは極めて単純なことである。つぶさに見てみると私たち自身は、そこにおいて世界が現れる「世界の限界」であって、経験的存在者としての、つまり見えるものとしての「私」であれ何であれ、世界内部の肯定的な存在者と一致していない。このような私たちは内容のない空虚さであって、肯定的に規定しうる存在者ではなく、肯定的なもの一切に対する距離であるために「否定性」といいうるということである。カントはこのような主体の地位を明確化したのであり、ジジェクの読解方針からすると、この「主体 = 空虚」の定式、主体の自己および肯定的諸対象との距離から、主体の欠如、欲望を支える主体の欠如を理解することが出来ることになる。

1-3、「欲望」から「理性」へ

 さて、私たちはラカン派における欲望の構成、欲望の無限性の基礎付けから、それを支える主体の欠如へ、そして主体の欠如を更に超越論的主体から理解するという道筋を辿ってきた。それゆえ、これはカントにとっては全く意想外の連関だろうが、ジジェクの視点からすれば、カントの超越論的主体、この空虚な、「主体の自己自身への不透明性に基礎付けられた」 (Žižek [1993a:128])自己意識がどんな肯定的な対象にも満足しない、一切の肯定的対象を否定して進む無限の「欲望」を抱えていたとしても全く不思議はない。

 そして実際にカントにおいても抱えている。それにカントがつけた名前が「理性」である。

 このことは第一批判において既に明確になっている。そこで「理性」が導入される一つの文脈は「自然素質としての形而上学はいかにして可能か?」という問いに答えるため、つまり、経験の枠内では答えられない問い、すべての経験的・有限的なものを超えた問いへと「止みがたく」駆り立てられてしまうという人間の性質を「人間理性の普遍的本性」から説明するためだからである(B21-22)。

 さて、なぜ理性は経験的なもの一切を超えた領域へと絶えず邁進してしまうのかに関するカントの説明を簡単に見ておこう。それは理性が論理的使用に関していえば「推論」の能力であるというところに求められている。

 カントによると「理性推論」は以下の構造を持つ。第一に「悟性」の与える規則、例えば「人間は死すべきものである」(大前提)が与えられる。第二に「判断力」が、ある認識、例えばソクラテスを「大前提の条件 = 主語」へと包摂する、「ソクラテスは人間である」(小前提)。最後に、漸く「理性」が登場して、その認識、ソクラテスに対して「小前提」を媒介にして「大前提」の述語を規定する、すなわち、「ソクラテスは死すべきものである」(結論)(B360-361)。

 ここでカントは「理性」特有の操作を第三の段階に割り当てている。少し先での説明によると、「理性」とは「ソクラテスは死すべきものである」という結論を正当化するある操作、つまり、まず「人間は死すべきものである」といったより普遍的な条件(大前提)を探し求め、続いて「ソクラテスは人間である」といった小前提を媒介にして、大前提に結論を包摂することで正当化するような操作なのである(B364)。

 ここからカントは理性について、より普遍的な条件、例えば「ソクラテスは死ぬ」にたいして「人間は死ぬ」といった条件を終わりなく求めるという性質を導きだす。曰く「[大前提が与える]規則はこれまた理性のまさに同様の試みにさらされており、かくして条件の条件が(前三段論法を介して)どこまでも求められなければならない」(同)。

 さて、こうして「理性一般の特有の原則」は「悟性の条件づけられた認識のために無条件的なもの(das Unbedingte)を見いだし、かくして悟性の統一を完結させること」(同)ということになる。そして経験は肯定的・有限的な諸対象、つまり、相互に条件づけられた諸対象の領野なのだから、無条件的なものを求める理性は経験を超えたものに至らざるを得ない。こうしてカントの見るところ、人間には自然素質として形而上学、経験を超えた問いに「やみがたく」駆り立てられるという素質が備わっているのである。

 「理性」は「無条件的なもの」を求める。そして経験の領野は肯定的な諸物が条件付けあう、有限性の領域である。だから、「理性」の求めるものは「経験/現象」ではないもの、カントが「物自体」として名指す領域においてのみ可能ということになる。ここでジジェクは当然ながら、カントにおいて現象に収まりきらない「物自体」と欲望の究極の対象である〈現実的〉な〈物〉を平行させる。

 両者の並行性に注意して図式的に記述すれば、カントの「理性」は「無条件的なもの」へ向けた衝迫として、感性と悟性の共同作業によって作り上げられた現象の領域、肯定的な諸対象の領野に満足せず、条件づけられた有限的なものの領域であるしかない現象を飛び越えて、カントが「物自体」と名指す領域へと越境しようとしてしまう。

 他方のラカンの「欲望」は想像的なものと象徴的なものによって織りなされた現実性の領域、それを構成する肯定的な諸対象に満足せず、想像的・象徴的な現実性の絶対的外部、〈現実界〉に属する欲望の究極の対象であるところの致命的な〈物〉に不可避的に引き寄せられている。

 かくして、それを「理性」と呼ぶにせよ「欲望」と呼ぶにせよ、人間には、経験的・肯定的・有限的などんな対象にも満足せず、それらをある意味で「否定」して無条件的・絶対的なものを目指してしまう性向が存在しているのである。

 そして、次節以降の展開を先取りしておけば、この〈物〉との関わりで生じるのが優れた意味で「享楽」と呼ばれるべき特殊な感情である。

2、「自由」と「苦痛」、「自由」の「苦痛」

 さて、前節では「欠如した主体」と「超越論的主体」の並行関係、どちらも空虚で肯定的内容に対する距離、つまり「否定性」として考えうること、さらにそれに支えられる「欲望」と「理性」の並行関係、どちらも肯定的・有限的なものに留まりえずに無限定的な〈物〉を目指すことが確認された。

 さて、いまやカントの超越論的転回が「否定的なもの」の可能性を単に開いただけではなく、カント自身が「否定的なもの」の経験を書き留めたことを確認する必要がある。ジジェクなら「現象/世界」が「全て-ではない(non-All)」こと、つまり、そこに不可避的な裂開があることが明らかになる、第一批判のアンチノミーの議論や、ジジェク曰く、そのいわゆる「第三の領域」を開くとされる「無限判断論」も引き合いに出すだろうが、私たちとしては「否定的なもの」の経験がより明確に現れている、第二批判の「自由」と第三批判の「崇高」を取り扱うことになる。ジジェク自身の言葉を引用するところから始めよう。

カントが正当に評価し損なったことは、「通常の」現実性にとって構成的である[構想力の]綜合が、前代未聞であると同時に極めて根本的な意味で「暴力的」だということ、その綜合の本質が、主体の綜合的活動によって、印象のごた混ぜの混乱へと押し付けられた秩序にある限りでそうである、ということである。(Žižek [2008d:282])

 この現実性自体、言語的に分節されて意味を持って現れてくる世界自体が自明のものではなく、主体による先行的な綜合-統一によって可能になったものであるとすれば、そこには一つの秩序を押し付ける「暴力性」が存在することになる。

 この「暴力性」、先にみた欲望を動かす欠如の意味での「主体の否定性」に還元できず、むしろその「可能性の条件」であるような、この主体そのものに内在するより根源的な「否定性」の次元についてジジェクのカント理解を扱う本章ではまだ扱うことが出来ない。それは次章の課題である。

 本章で扱うのはジジェクがこの「超越論的構想力そのものの先行する暴力性にたいする一種の解答」(同)と見なしている暴力性、超越論的構想力が織り成す現象の領野が非一貫性に晒され、「否定的なもの」が現出する可能性である。構想力の綜合の失敗は二つの形で生じるという。

第一に、内在的な仕方で、把捉と総括との不均衡を通じてのものであって、これが数学的崇高を作り出す。(…)第二に、外在的な仕方で、(道徳)「法(則)」の介入を通じてであって、それは別の次元の、叡智的な次元の存在を告知する。(同)。

 かくして「否定的なもの」、現象の領野に開く裂開は、本節の主題である「道徳法則」、すなわち「自由」として、そして次節の主題である「崇高」として現れるのだが、両者において「理性」が中心的な役割を果たしていることに注意を向けることが重要である。

 というのも、理性の本来的対象である「無限定的なもの/絶対的なもの」は、現象界、肯定的・有限的な諸物が織り成す経験の領野の内に住む私たちにとって、肯定的・有限的なものの「否定」として、「否定性」として現れるからである。

 さて、本節では「自由」、すなわち、ジジェクが先の引用で「外在的な仕方」として特徴付けている道徳法則の介入について取り扱う。

 以下、2-1、「道徳法則」と「超越論的自由」、において、これらが現象の因果性、ということは、肯定的な規定性の領野の破れ、そこへの「否定性」の侵入であることを確認する。

 2-2、「苦痛」と「尊敬」の道徳感情、において、感性的な意志の規定とは別種の「自由」と「道徳法則」に基づく意志規定の、感性的存在者としての私たちへの帰結、道徳性の経験、「道徳感情」についてのカントの論述を取り扱う。ここにジジェクの視座からすれば、単なる感性的な快とは異なる快、苦痛であると同時に快であるような奇妙な快、「享楽」が描出されていることを読み取ることができる。

2-1、「道徳法則」と「超越論的自由」

 さて、第二批判におけるカントの議論の展開を概観し、「道徳法則」と「超越論的自由」の概念を位置づけておこう2)以下の()内の数字は宇都宮訳『実践理性批判』のページ数を示す。

 道徳法則の方から見てみよう。カントは道徳法則として、単に主観的にのみ妥当する「格率」ではなく、客観的に、必然的に妥当する「法則」を探し求める(45)。とすると、道徳法則は経験的対象が与えてくれる快を善と見なし、それを目指すこと、「意志の規定根拠とする」ことを指示するようなものではあり得ない。

 というのも、対象と快との関係は「経験的なもの」として必然的ではないからである(51-52)。ある対象が快を与えてくれるかどうかを必然的に規定することは出来ない、ある人にとっては快でも他の人にとっては快でないかもしれない、あるいは皆にとって快かもしれないが、経験から言えることは今のところまで皆にとってそうだということであって必然的にそうであるということではない、経験の証明力はそれ以上には決して到達しない。だから、経験的対象の与える快に依拠する道徳法則はそれ自身経験的なもので必然的ではなく道徳「法則」の名に値しない。

 こうして道徳法則から経験的対象とそれが与えてくれる快、カントがマテリー、「内容/実質」と呼ぶものは捨象される。内容が捨象されてしまったら残るは形式のみである。だから道徳法則はある行為や対象へむけて意志を規定するのだが、その行為や対象の与える快(内容/実質)によってそうするのではなく、それが単に普遍的な立法の「形式」に適っているということによってそうするのでなくてはならない。

 それゆえ道徳法則の内実として有名な定言命法が導かれる。「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当することができるように行為せよ」(77)。私たちは何らかの行為や対象へむけて意志を規定する。その際にその行為や対象が与えてくれる快のためにそうする、すなわち、快を意志の規定根拠とするなら、それは道徳「法則」にのっとったものではない。

 そうではなくて、その行為が「普遍的立法の原理として妥当する」から、それゆえ「義務」であるから、という理由のみによって、その行為へと意志を規定しなければならない。対象や行為が「善」であるのはそれがもたらす「快」によってではない、それが先の定言命法に適い、しかも、快のためではなくその命法への適合性ゆえに、それに対して意志が規定された場合のみ、その行為は「善」と言われうるのである(149-150)。

 さて、このような道徳法則が可能であるためには、人間に「超越論的自由」が「絶対的な意味での自由」(11)が属していなければならない。というのも、「道徳法則」は単に普遍的立法として妥当するという理由で意志を規定するものとして、対象が快、あるいはその総体としての幸福を約束してくれるが故に、それに向けて意志を規定するという、経験的で現象的な因果性に従属した下級欲求能力ではない意志の規定能力、経験的な快と因果性から自己を切断し自らを規定する「自律」した意志の能力を必要としているからである。

 これをカントは上級欲求能力、あるいは純粋実践理性と呼ぶ。その内実は現象界と経験的な因果性を超えた「超越論的自由」「絶対的な意味での自由」であって、これは現象界と叡智界の区別によって第一批判でも不可能ではないとされていたのだが、今や第二批判において完全に肯定されるに至る。曰く、自由は道徳法則の存在根拠であり(13)、しかも道徳法則は理性の端的な「事実」(79)である以上、道徳法則を通じて自由が認識されることになるからである。道徳法則は自由の認識根拠である(13)。

 さて、純粋実践理性は道徳法則を与えるものとして上級欲求能力、経験的因果性としての快から自律する「超越論的自由」である。

 ここでも「理性」は、第一批判と同じように経験的・感性的なもの、一切の限定的・有限的なものを超えたもの、その意味で「絶対的なもの」と関係すると考えられている。ここでの「自由」は経験的な快であれ何であれ、自ら以外の何ものにも条件づけられない自律である。そしてこの点に「理性」と「欲望」との並行関係が存していたことを思い出すなら、ラカンが「道徳法則は純粋状態の欲望に他ならない」(Lacan [1973:247=2003:371])と述べていたとしてもそれほど不思議ではないことになる。

 実践「理性」が超越論的自由として感性的な快・幸福・傾向性から自律した意志規定、義務が義務であるが故にのみ従うという意志規定が可能であるとされているのと同様、「欲望」もラカンのいわゆる「純粋欲望」としては一切の感性的な快・幸福・傾向性から自律することが可能であり、一切の帰結を考慮せずに欲望するが故にのみ欲望するという〈物〉への断固たる忠実さでありうるということである。

 ここに重点を置くことで、カントが重視した「普遍性」の契機よりも、自由と自律の契機に重きを置いた形で、カント的な義務論的倫理としての「欲望について譲歩するな」という構想が生じてくる。

ラカンにとって、倫理は究極的には欲望の倫理である―つまり、カントの道徳法則は欲望の命法なのである。(…)私たちの欲望する能力は完全に「パソロジカル」[※]なものと見た(…)カントとは対照的に、ラカンは「欲望の純粋能力」があると主張する。(Zupančič [2000:x]、ジジェクによる序文)[※パトローギッシュ、経験的・感性的の意味]

 ここからジジェクが擁護しようとするのが「欲望の倫理」、「欲望に関して譲歩してはならない」という倫理的命法である。以上から明らかな通り、このことはさしあたり「欲望」に対して対象が与える快、快の総体としての幸福を超えて忠実でなければならないということを意味する。この倫理の諸相およびジジェクの立場からの正当化は第一部の終わりを待って初めて展開されることが出来る。

2-2、「苦痛」と「尊敬」の道徳感情

 第二節全体は「現象/経験」の領野の破れ、肯定的な規定性の領野への「否定性」の侵入として「道徳法則」の介入を取り扱うものだが、前項からカントの「実践理性」「自由」がそのような「切断」、経験的な因果性による規定関係の全き「否定」、つまり、肯定性の領野である現象への「否定性」の介入であると見なしうることは明らかだろう。

 さて、しかるに、ここでより興味深いのは、カントがこの道徳の経験を、経験的・感性的存在者としての私たちの立場から、「快と不快の感情」に即して記述している道徳感情論である。カントからすれば「自由」の「なぜ可能か」と同様に、下級欲求能力のように快ではなくて道徳法則が「動機」となることの「なぜ可能か」は答えることができない。だが、道徳法則が動機となる経験、人間の自由の経験の「いかに」と「帰結」、つまり、その種の経験の現象的記述は可能であり、それが道徳感情論の内実を形成する(185-186)。

 そしてカントによると、この道徳感情、道徳性の経験に伴う感情は第一に「苦痛(Schmerz)」である。これはラカンがそのセミネール『精神分析の倫理』で朗読している部分とも重なる所だが、確かに長い引用を誘う印象的な文章である。

道徳法則による意志の全ての規定に本質的な事柄は、意志が自由な意志として、したがって感性的衝動と協働しないばかりか、自ら一切の感性的衝動を拒絶し、また傾向性がかの法則に反対しかねない限り全ての傾向性を断絶し、たんに法則を通じてのみ規定される、ということにある。それゆえ、その限りにおいては動機としての道徳法則の作用結果はたんに否定的であり、そのようなものとしてこの動機はアプリオリに認識されることが出来る。なぜなら、一切の傾向性とそれぞれの感性的衝動は感情に基づいており、そして感情に対する否定的な作用結果(傾向性に生ずる断絶を通じての)はそれ自身感情だからである。したがってわれわれは、道徳法則は意志の規定根拠として、われわれのあらゆる傾向性に妨害を加えることによって、苦痛(Schmerz)と呼ばれるような感情を引き起こさざるを得ないということを、アプリオリに洞察できるのであり、そしてわれわれはここに、認識(ここでは純粋な実践理性[の認識]であるが)が快不快の感情に対して持つ関係をアプリオリな概念に基づいて規定できた最初の事例を、おそらくは唯一の事例を、もつのである。(187)

 この引用がほとんどすべてを語ってくれている。「超越論的自由」「道徳法則」の経験は私たちを感性的な規定性、肯定的な規定性一切から引きはがすもの、「否定性」の経験として、感性的な存在者としての私たちにとっては「苦痛」である。

 だが、カントは道徳法則は単なる感性的な動機の否定ではなく、それによって同時に道徳的意志規定を促進するという意味でそれ自身積極的なものであるから(202)、「尊敬(Achtung)」の対象であって、ある積極的な感情をも呼び起こすという(188)。それが「尊敬」の道徳感情である。

 この感情のカントの特徴付けを見ていこう。この感情は感性的には「苦痛」であるから「快」ではない(199)。それと近い感情は「空にそびえる山、天体の巨大さや無数や広がり」などが引き起こす「驚嘆(Erstaunen)」「賛嘆(Bewunderung)」だが、尊敬は人格、つまり人間にのみ属するという点で異なる。これは「崇高論」との密接な連関を示唆する部分である。

 さらに、「道徳法則」による意志規定は、自分自身の理性による立法、理性による意志の直接の規定として理性の適意を引き起こすから、「尊敬」の感情は「高揚(Erhebung)」(207)を「特別な喜びの感情(das Gefühl besonderer Freuden)」(292)を含むこととなる。もちろん、カントによればこの感情は道徳法則による意志規定の結果にすぎず、この感情を動機ないし規定根拠と見なしてしまうのは誤りである。しかし、理性による意志規定は「崇高」な事柄であって、この錯覚でさえ「崇高」である(292)。

 さて、この議論のラカン・ジジェク的転用へ話を戻すなら、自由の経験、道徳性の経験に即してカントが「快原理の彼岸」の輪郭を描き出していると見ることができる。「自由」「道徳法則」は感性的存在者としての私たちにとっては苦痛である。それは感性的なもの、それによる被規定性、それへの愛着、「傾向性」の「否定」であり、私たちを感性的な諸対象から引きはがすからである。

 だが、私たちは理性的存在者として、感性を超えて、無条件的で絶対的なものへと惹きよせられる存在でもある。とすれば、もはや条件づけられていない自由の経験、道徳法則の経験は理性による自己規定の経験であって、理性の自己満足とでもいうべきもの、「適意」を引き起こす。それゆえ、それはある「高揚」「特別な喜び」でもあって、したがって、「苦痛」の中の「快」として「快原理の彼岸」の、「享楽」の次元を示すものである。「不快そのものによってもたらされる逆説的快、これは正確に享楽のラカン的定義のうちの一つである」(Žižek [2008a:229])。

 総括的に言えば、カントはここで感性と理性への人間の分裂そのものを「感情」の次元に書き込み直すことによって、「否定的なもの」の経験、それは「肯定的なもの」のうちで暮らす感性的存在者としての私たちにとっては苦痛の経験でしかないのだが、その経験のうちに、「理性」の視座を導入することで、ある特別な快、すなわち「享楽」を見いだしたのである。というのも、「理性」の求める無条件的なものは、肯定的な現象の領野から見た時には「否定性」としてしか現れないからである。かくして、「理性」は、あるいは「欲望」は、ある絶対的な切断の経験、経験的な快も幸福も生も超えた場所においてのみ感得される感情を持っている。

 この構図がより鮮明に浮かび上がるのは、第三批判の「崇高」論においてである。直前のジジェクの引用も崇高論に際して言われたものであった。かくして、議論を「崇高」論へと進めることにしよう。

3、「崇高」について

 さて、第三批判に移って、現象の破れの、「否定的なもの」の顕現の第二の場合、ジジェクが先に「内在的な仕方」と特徴づけていた数学的崇高の事例を取り扱うことにしよう。ジジェクが「内在的(internal)」というのは、この「破れ」は、自然的因果性と異なる「自由」という、現象にとって「外在的」な別の因果性の侵入の結果ではなく、現象が構成されたものであるということだけから帰結するものとして、カントによって概念化されているからである。

 道徳感情論、「苦痛/尊敬」論と崇高論の類似性に関していえば、前節でのいくつかの引用から既に明らかである。カントは理性による意志の直接の規定を「崇高」だと語っているし、「尊敬」が類似している「賛嘆」の感情の原因として「空にそびえる山、天体の巨大さや無数や広がり」を挙げているからである。これは、後で見ることになるが、数学的崇高を引き起こすものの性質、「巨大さ」を持つものである。

 さて、ここではさしあたり類似性の更なる展開を後回しにして、以上の類似性にも関わらず存在する両者の位置づけの差異、それはおそらく「現象/経験」にとって、ジジェクがそういっているように「外在的」か「内在的」かといった形で整理できるものだが、その差異を確認することから始めよう。以下、3-1、「尊敬」と「崇高」の場所の差異、において今述べた問題を論じ、3-2、「深淵」としての「崇高」、において「崇高」の諸契機を今までの論述との関係に配慮しつつ取り扱おう。

3-1、 「尊敬」と「崇高」の場所の差異

 カントの自己認識によれば、第三批判は第一批判と第二批判を架橋し体系を完結させるものである。カントの見るところ人間の心的能力は「認識」「欲求能力」「感情」の三つに区別でき、そのうち認識能力はさらに上級認識能力である「悟性」「理性」「判断力」に分けられる。

 さらにカントの構想では、三つの心的能力にそれぞれ一つの上級認識能力が対応し、「認識」については「悟性」が主導権を握り、悟性の諸概念自身が自然認識の可能性の条件となることによって(現象の構成)、自然について必然的な認識を可能にし(第一批判)、他方で「欲求能力/実践」については「理性」が主導権を握り、純粋理性の事実としての道徳法則が実践の領野に対して構成的であるために、実践について必然的な認識を可能にした(第二批判)。しかるに、第一批判の自然・現象界の領野と、第二批判の自由・叡智界の領野はラディカルに分断されている。

 カントはここで彼によれば心的能力の体系のうちで「認識」と「実践/欲求能力」にとって中間的である「感情」と、上級認識能力のうちで「悟性」と「理性」にとって中間的である「判断力」を持ち出して、「感情」の領野に対して「判断力」がアプリオリな原理を提供し、そうすることを通じて自然と自由、認識と実践、悟性と理性、第一批判と第二批判を架橋するのだという枠組みを立ち上げる。

 ここから、どちらも叡智的なものと現象的なものとの狭間である「尊敬」と「崇高」の位置の差異を規定することが出来る。第三批判第一序論第三節でカントが三つの心的能力「認識」「欲求能力/実践」「感情」のアプリオリな連関について言及する箇所で、カントは第二批判の「苦痛」と「尊敬」の道徳感情を明らかに指示して、そこでも確かに認識と欲求能力と感情のアプリオリな連関が洞察されたのだが、それは自由の概念の「認識」、それに続く実践理性による「欲求能力」の規定、最後にその結果としての苦痛と尊敬の「感情」という順序の連関であり、要するに現象にとって(ジジェクの規定を援用すれば)「外在的」な「自由」「道徳法則」とそれによる「意志規定」が先行していて、「感情」はその結果に過ぎなかった。それに対して第三批判では、現象に「内在的」な認識→感情→欲求能力というアプリオリな連関を取り扱うのだとする。この順序によって現象-認識から叡智-実践への移行が可能になるとカントは見るわけである。

 このような「感情」に該当するのが「美」と「崇高」の感情である。だが、そのうちで、第二批判の道徳感情が「苦痛」とそれと同時的な「尊敬」という特殊な「快」であったのと並行する、ある種の二重性を有するのは崇高の感情だけである。それもまた同様の二重性によって規定されている。すなわち、「崇高」は、カント曰く、「否定的な快」である。

3-2、「深淵」としての「崇高」

 崇高論の冒頭の総括的な記述、おそらく無類といっていい記述を長く引いておこう3)以下の()内の数字は宇都宮訳『判断力批判』のページ数である。

両者[美しいものと崇高なもの]の間の著しい相違もまた目立っている。自然の美しいものは対象の形式に関わり、この形式は限定を旨とするが、これに反して崇高なものは無形式な対象においても、つまりこの対象において、あるいはこの対象を機縁として、無限定性(Unbegrenztheit)が表象され、しかもこの無限定性の全体性が付け加えて思考される限りにおいて、無形式な対象においても見出されることが出来るのであって、そこで美しいものはある無規定的な悟性概念の表出と、だが崇高なものはそうした理性概念の表出とみなされるように思われる。(…)崇高の適意はその種に関して美の適意からまったく区別されるが、それは美しいものが直接に生を促進させる感情を伴っており、したがって魅力や戯れる構想力と一体になることが出来るが、崇高なものの感情はただ間接的にのみ生ずる快である。つまりこの快は、生命諸力が瞬間的に阻止され、それにただちに続く生命諸力のいっそう強力な発出という感情によって生み出されるのであり、したがって感動として、構想力の働きにおける戯れではなくて、その働きにおける厳粛さであるように思われる。したがってまた崇高なものは魅力とは相容れない。この場合、心は対象に単に引きつけられるだけではなく、交互に繰り返し突き放されるのでもあるから、崇高なものに対する適意は、積極的な[=肯定的な]快というよりは、むしろ賛嘆もしくは尊敬を含んでおり、言い換えれば消極的な[=否定的な]快と呼ばれるに値する。(181)

 ここでほとんど全てのことがいわれている。カントによれば美の適意と快とは、構想力と悟性との調和的な遊びによって生じるものであり、構想力の描き出す像が、それを規定しようとする悟性と調和することが本質的なことである。つまり、美は「形式/限定」に関わる。それは「肯定的なもの」の範疇にある。

 他方で崇高で問題になるのは無限定的なものである。数学的崇高の議論に定位すれば、崇高な対象、ピラミッドや巨大な山はその大きさによって構想力の総括能力を限界にまでもたらし、対象を肯定的に規定することを不可能にする。もともと構成されたものである現象の領野に破れをもたらす。そこに無限定的なものの経験がある。

 それは構想力に対して振るわれる「暴力」であり、崇高なものは感性に対する「深淵」(Abgrund)である。それは経験的なもの、肯定的・有限的な規定の暴力的な崩壊によって生じる「否定的なもの」の経験であり、感性的な存在者たる私たちにとってまず生じるのは生命諸力の瞬間的な阻止である。しかるに、カントによればその後に生命諸力はいっそう強力に発出するという。崇高はやはり快であり適意である。この二重性に「否定的な快」がある。ここまでくれば、無限定的なもの、無限なものを求める「理性」、感性と対立する「理性」が崇高の経験を思考するために前提されなければならないことが明らかだろう。

 それは二重の意味においてである。第一に、なぜ私たちは巨大なものの認識において有限的諸規定の崩壊を通じて無限定的なものを経験できるのだろうか。その可能性の条件は何か。実際カントによれば悟性は数概念によって、大きさの表象のために必要な総括を導くが、そこには「直観における多の総括の大きさを、構想力という能力の限界にまで、そして構想力が表出においてともかくも到達しうるところまで押し進めるように強いたものは何一つない」(202)。一挙に捉えようとしなければ、限界まで行こうとしなければ、有限な諸規定の崩壊に至ることはない。では、何故上述の事柄は可能なのか。それは心が「理性の声」を聞くからである。

だがしかし、心は自らのうちで理性の声に傾聴するのであって、この声は、与えられたあらゆる大きさに対し、また決して全体的に把捉されることは出来ないが、にもかかわらず(感性的表象において)全体的に与えられたと判定される大きさに対してすら、全体性を要求するのであり、したがって一つの直観のうちへの総括を要求し、前進しつつ増大する数系列に対して表出を要求するのであって、無限なものすらもこの要求から除外せず、むしろこの無限なものをどうしても全体的に与えられたものとして考えるように仕向けるのである。(203)

 そして第二に、なぜこの感性にとっての「暴力/深淵」がやはり快であり適意なのだろうか。これも理性があるからに他ならない。「実践理性」が感性にとっての「苦痛」の感情を同時に自らの力能に対する感情として「尊敬」という特別の快に変化させたのと同様、巨大なものにおける構想力の総括の崩壊は感性的なものが追いつかない理念の偉大さを予感させることで理性を満足させるのである。

 感性に対する暴力が快でありうるのは、有限なものの崩壊が快でありうるのは、人間のうちに感性を越えたもの、有限なものを越えたものを追い求める何か、「理性」/「欲望」があるからである。「理性」が享楽の可能性の条件である。だからジジェクは以下のように言う。

この無条件的享楽は、理性は享楽に節制の論理を押しつけ私たちが過剰に享楽するのを防ぐとする通念に反して、「単なる理性の限界内における」享楽である。享楽が理性の無限性によって触発された時にのみ、享楽は快のプラグマティックな諸限界を乗り越え、自らを苦痛の中の快として現れさせるのである(Žižek [2008b:xci])。

 こういうものとして「苦痛」と「尊敬」と並んで、「否定的な快」たる「崇高」は、現象にとって内的な仕方で、単なる感性的快、「快原理」の支配の彼岸、「享楽」の次元を描き出していたのである。

 本節の要点をつづめて言えば以下のようになるだろう。ピラミッドのような巨大な対象に向き合った際、直観が次々と感性的データとでもいうべきものを取り上げていく(auffassen)のだが、構想力がそれを一つの像へとまとめ上げようとする(zusammenfassen)能力には限界があるために、しかも無限なものを目指す理性は一挙に全体を捉えなければならないとして構想力を限界まで駆り立てるために、それはあるところで限界に達し、構想力によって描き出される一貫した経験の領野に破れが、肯定的に規定しえないもの、私たちの言葉でいえば「否定的なもの」が現出することになる。

 これは感性に対する暴力に他ならないが、これによって理性はこの「否定性」の経験を通じて、自らの対象たる理念が感性によっては描出できないという偉大さを持っていることを感じ取る。理性は「否定的なもの」の向こうに感性的には規定しえないほどに大いなる理念を幻視する、そこに理性は、快を、あるいは「享楽」を、感じとるのである。

4、総括と次章への移行

 以下、4-1、総括、4-2、次章への移行、の順で話を進める。

4-1、総括

 さて、本章の歩みを振り返っておこう。本章はジジェクのカント理解の要点として、その超越論的転回によって「否定性」の次元が思考可能になったというところから出発した。私たちが住む経験の世界は肯定的な諸物の相互規定の領野、自然的因果性が支配する肯定性の領野である。この領野を主体相関的な物として相対化することによって初めて、肯定的・有限的なものではないもの、「否定的なもの」の可能性を開くことができる。

 第一節ではラカンの「欲望」とカントの「理性」の並行関係を主張した。「欲望」も「理性」も肯定的・有限的なもので満たされることはなく、無限(定的)なものを目指す。それらは結果として、肯定的なものの領野たる「現象 = 経験」を超えた場所、「物自体」、〈現実的〉な〈物〉を目指すものと見ることができる。そのような欲望の主体は、自己と一致することができない主体、空虚な主体でなければならないが、ジジェクの視座ではカントの超越論的主体こそが、超越論的転回によって主体を世界の限界へと追いやることで、主体の空虚性の次元を初めて適切に理論化した、あるいは少なくとも理論化の前提を整えたのである。

 第二節と第三節では、カントが超越論的転回によって、否定的なものを適切に思考する可能性を単に開いたのではなく、実際にそれを経験し、それを書き留めたことを示すために道徳感情論と崇高論に注目した。「現象」そのものが主体の先行的な綜合活動によるものだということの必然的帰結として、「現象」の領野に裂開が走ることがあり得る。「外在的」な「自由」「道徳法則」の侵入という形と「内在的」な現象の裂開という形で。

 どちらにおいても感性的・経験的なもの、肯定的なものが否定されることで感性的存在者としての私たちにとっては「苦痛」だが、理性的存在者としての私たち、無限定的なものを求める私たちにとっては、そこで否定的・無限定的なもの、〈物〉がその否定的様態において顕現している限りで「快」である。ここに「苦痛」である「快」、「享楽」の次元を垣間見ることができる。

 私たちが注意を向けたのは、どちらにおいても「理性」/「欲望」、無限定的なものへの衝迫こそがそもそも「否定的なもの」の経験を可能ならしめ、またその苦痛の経験を別種の「快」として捉え返すことを可能にしたということである。

 ここまででジジェクのカント解釈の一つの終着点となる構図が現れたと言えるだろう。肯定的な諸対象の領野として現れているこの現実は「現象」、構成されたものであって、絶対的な所与ではない。

 人間は感性的存在者として肯定的諸対象により規定されてはいるが、他方で不可解なことに「理性」をも併せ持っており、第一批判では「理性」は無条件的なものを求めてしまう能力として、人間を現象の、有限的なものの領野の彼方、「物自体」が問題となる場所にまで導いてしまう。

 第二批判では実践理性の「自由」が経験的因果性、私たちの有限的諸事物への固着を切断し否定する。道徳性の経験は「否定的なもの」の経験である。第三批判では「理性」が絶対的に大きな対象を捉えるために構想力を限界まで酷使することで現象の領野に裂け目を、「否定的なもの」を現出させる。

 第二批判でも第三批判でも、この理性の介入による「否定的なもの」の経験―その先にカントは物自体・叡智界を想定するのだが―はカントが「快と不快の感情」と呼ぶものの中へと書き込まれ、肯定的なものに固着する感性にとっては痛みと不快を与えるが、「無限なもの」を求める理性にとっては快を与える。

 この不快と同時的な快こそ「享楽」と呼ばれるべきもの、「快原理の彼岸」を形作るものである。「享楽」は「否定的なもの」の純粋感情に他ならないのだが、それは私たちが「理性/欲望」を持っていることによって、そうしてそれが果てまで行こうとすることによって初めて可能なのである。

 以上でジジェクのカント解釈ないし改釈、ジジェクがラカンに見いだす「不気味」(Zupančič [2000:vii(ジジェクによる序文)])なカントの主要諸契機の展開は終結した。では、なぜここで次章に移行する必要があるのか。次章に移る前にその点を明確にしておこう。

4-2、次章への移行

 次章はジジェクのヘーゲル理解を取り扱う。そしてジジェクは自らの立場をヘーゲル的なものとして特徴づけ、常にカントからヘーゲルへの移行を語る。ジジェクはカントの立場に何らかの不十分性を感じ取り、それを解決したものとしてヘーゲルを捉えている。

 では何が不十分なのだろうか。このことの総括的な表現は、実際これはヘーゲルのいうところの分裂のある種の言い換えなのだが、ジジェクがカントを「欲望」の主体的ポジションを特徴づけていることである。「欲望」は深淵的で無化的で致命的な〈物〉に紐づけられつつ、〈物〉に達することは決してなく満足を得られない。

 本章の議論に即して言い換えれば、「理性」は無条件的なものへの衝迫として現象の彼方へ到ろうとするが、そこにあるはずの「物自体」を認識することは出来ない。

 「実践理性」のレベルでは、完全に道徳的な「聖なる意志」は人間にとって不可能とされるために自由で自律した道徳的行為にしても感性的な意志規定が混入している可能性を排除することは出来ない。人間は真の道徳性に達するために果てしなく努力しなければならない。それこそ「魂の不死」がそのために要請されなければならないほどに。

 「崇高」論にあっても「否定的なもの」の経験は「感性/構想力」が絶対的に大きなものを捉えようとして果たせずに崩壊した結果として、感性的には表象できない理念の偉大さを喚起するものとして解釈され、「否定的なもの」は「物自体」ではなく、その表象不可能性、その否定的様態でしかない。物自体そのものは、その「否定的なもの」の先にあるはずのものである。

 では、これはどのような方向で解決されるべきなのだろうか。ここで本章の初め近くでの引用を再度取り上げておこう。

カントこそが、外的でアクセス不可能な存在者(entity)としての物自体への参照を未だ維持していることによって、形而上学の破壊において道半ばにある。ヘーゲルは単にラディカル化されたカントであり、「絶対的なもの」への否定的アクセス[引用者注:崇高論のこと]から否定性としての「絶対的なもの」自身というところにまで歩を進める。(Žižek [2009a:27=52])

 問題は物自体に到達し、それを認識することではなく、物自体は崇高で現れたような「否定性」としてしか存在せず、それこそが物自体の本体なのだということである。このことの認識を可能にする契機は本章の中で既に現れていた。カントには見られない視点、2節での引用でジジェクがカントは「正当に評価し損なった」という「主体」の「否定性」「暴力性」である。

 この点を考慮に入れることで以上の移行を完遂することが可能になる。曰く、「ヘーゲルは物自体(その接近不可能性)の空虚を、主体を定義する否定性そのものと同じものと考えることによってカントをラディカル化した」(Žižek [2008c:158])。ジジェクはこの移行の帰結を「欲望」に対比される「欲動」として特徴付けている。

 だが、この移行とは正確に何であり、いかにして可能であり、いかなる帰結を持つのだろうか。このことの検討が次章の中心的課題となる。

前後のページへのリンク

第一部 ジジェクの哲学と倫理:緒論―欲望・否定性・主体
第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(1)

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. 第三章で話題になることだが、ハイデガーが哲学は常に論点先取的とも見える「循環」を避けられないと主張しているのはこのためである。
2. 以下の()内の数字は宇都宮訳『実践理性批判』のページ数を示す。
3. 以下の()内の数字は宇都宮訳『判断力批判』のページ数である。
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