フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

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目次

はじめに―セクシュアリティの解釈学の基礎づけとしてのフロイト理論

はじめに―セクシュアリティの解釈学の基礎づけとしてのフロイト理論(本ページの下)

第1部 フロイト性理論の諸基礎

第1章 精神分析とは何か―「理解への賭け」、神経症、セクシュアリティ

第2章 フロイト性理論の基礎―「両性性」と「多形倒錯的素質」

第3章 リビード発達論と自我発達―乳幼児の世界経験への問い

第2部 フロイト性理論の展開―性差と「異性愛」の可能性の条件への問い

第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(1) (2) (3) (4)

補論 フロイトの男性同性愛理論の展開
―ダ・ヴィンチ、去勢・フェティシズム・原父、狼男・「子どもがぶたれる」・マゾヒズム(1)
(2)

第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(1) (2)

第6章 異性愛とは何か―その可能性と不可能性の条件

結論 Liebesfähigkeitのための実践としての精神分析

結論 Liebesfähigkeitのための実践としての精神分析

はじめに―セクシュアリティの解釈学の基礎づけとしてのフロイト理論

1、フロイトは「性欲動」中心主義なのか?

 フロイトについては、彼は理性に対してそれが抗い得ない「性欲の魔力」、あるいはより適切にフロイト自身の言葉で言えば「性欲動」の魔力を対置したのだなどという「通俗的な理解」が存在するようだが―『世界の名著』シリーズではそんな文句が帯に書いてある―、実際のところ、ある意味で事態は逆である。

 というのも、世間では、性的興奮の「最高度の切迫性を持つ特異な緊張感情」[Ⅴ:110=6:268]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.の故だろうか、各人が持つ諸々の性的興奮の条件は各人にとって所与でいわば自然のものであり、その理由や意味が問い得ないものであるかのように見なされていることがしばしばであるように思われるから、言い換えるなら、世間でこそまさに性欲動は理性が立ち入ることのできない場所であるかのように考えられているように思われるからである。

 これに対してフロイトが断固として主張したのは、セクシュアリティには意味があり、それを「読む」ことが出来る、それは単なる自然な所与ではなく、私たち自身が幼少期以来、さまざまな経験とその解釈を通じて引き受け(させられ)てきたものであって、それは有意味に了解できる、つまり、セクシュアリティはいわば「理性」的な理解の範疇に入っているということだからである。

 さて、しかも、フロイトはこの理解可能性を断固として主張しただけではない。おそらくは史上初めて、その理解可能性に理論的な基礎付けを与え、さらにこの理解を実際に可能にするための道具立て、基本的な理論的枠組みをも残したのである。

2、セクシュアリティの解釈学の場としての「無意識」

 そして世間が性的興奮の意識に対する異他性ないし外在性の感覚から、その自然性を想定するとすれば、対するフロイトは「自然」にではなく、意識とは別の思考の場所である「無意識」へと至ることになる。

 セクシュアリティの理解の理論的な基礎付けの中心は『性理論三編』で獲得された「両性性」と「多形倒錯的素質」、そこから始まる「リビード発達論」という人間の性の根源に関する想定であり、その基本的な理論枠組みは、このリビード発達論に加えて、その他各種の個別研究によって与えられているのだが、先に述べた事情から、それは同時に「無意識」の基本的な内容の手引きともなっている。

 簡単に定式化すれば、フロイトの理論の中核はセクシュアリティの解釈学の基礎づけとその解釈のための手引きであり、それが読まれるべき場所が「無意識」なのである。

 しかるに、ここで、とはいえフロイトが性欲動の力を強調したのは事実ではないかと反論があるかもしれない。いい機会なので、本稿は第1章でフロイトの性中心主義について明らかにすることから議論を始めることとしたい。確かにフロイトは性を議論の中心に据えたが、それはなぜかを正確に理解する必要がある。そうすればフロイトの立場が別に大それたものではないことが分かるだろう。

3、本稿の構成

3-1、第1部 フロイト性理論の基礎

 本稿の構成を大まかに見ていこう。第1部ではフロイト性理論の基礎を展開する。まず精神分析的な実践と知の特質を明らかにした上で、精神分析の生まれ故郷である「神経症」から議論を始め、そこからなぜセクシュアリティの重要性が帰結するのかを論じる。

 このことを踏まえて展開される第1部の中心点はフロイトの性理論の基本となる諸事項―「両性性」「多形倒錯的素質」「リビード発達論」―を説得的に再構成することである。

 「リビード発達論」とは、私たちの理解するところ、乳幼児の世界経験の形、彼らがどう内的に世界を経験しているのかを再構成しようとする試みであり、いわば「赤ちゃんになったつもりで考える」試みであって、人間的なものを問う一切の問いに対する基底を提供するはずのものである。

 それを扱う第3章は本稿でもっとも思弁的で哲学的な部分を含む――そこではフロイトの自我論を読み替えることで、フロイト的な「自己意識」の生成理論を提出することになる。

3-2、第2部 フロイト性理論の展開

 第2部では、ここにフロイトの性理論の特徴があるのだが、その性理論の諸基礎、とりわけ「両性性」を前提とするとき、フロイトにとって「性差」と「異性愛」そのものが説明を要することになったという認識から出発して、それを可能にしているプロセス、いわば「性差」と「異性愛」の可能性の条件を明確にしようとするフロイトの努力を「エディプス」と「去勢」の二つの「コンプレクス」から理解しようと試みる。

 「性差」と「異性愛」の可能性の条件というのは、生物学的な男性と女性が、それぞれ性愛関係における男性的立場と女性的立場を引き受けることで、相互に惹かれ合うようになり、また一定の安定した関係性が成立することを可能にするプロセスを意味する。

 このことが「両性性」、つまり、生物学的性差と関係なく、私たちは性愛関係において、どちらの性の立場も取れるし、どちらの性を対象とも出来ること――こう考えることの必然性は第一部で証明が試みられる――を前提とするとき、説明を要するものとなるのである。

 しばしば「同性愛の原因」なる言葉を耳にすることがあるが、それになぞらえて言えば、この第2部が扱うのは「異性愛の原因」ということになるだろう。フロイトに言わせれば、同性愛も異性愛も根源的な両性性の制限として等しく説明を要するのだ[Ⅴ:44=6:185]。

 そして、さらにフロイトの視点からすれば、いうところの「正常」な構成そのものが「病気」との連関で見られるべきである。かくして前段落で示した第2部の基本的な発想には以下のような補足がなされなければならない。

 「性差」が引き受けられ、両者の間で「異性愛」と呼ばれるべき関係が可能になるプロセスがあるとすれば、つまり、それが「自然」でもなんでもないとすれば、このプロセスの途上で失敗すること、その結果として「愛」がある主体において不可能に、あるいは少なくとも困難になることがあり得るのであり、それをこそフロイトは「神経症」の基底的構造として思考したということである。

 つまり、女性における「ヒステリー」と男性における「強迫神経症」である。「神経症」理論は異性愛の不可能性の典型的条件を記述するのであり、それとの関わりで「正常」なるものの構成も初めて正しく見えてくる。第2部はこのことをフロイトの症例に多く言及しつつ明らかにしていくことを試みる。それを通じてフロイト症例の面白さを感じてもらえたら嬉しい。

3-3、結論 Liebesfähigkeitのための実践としての精神分析

 ここで重要なことは、かく「神経症」がその最根源的な次元において「愛」を遂行する上での困難、「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」[Ⅴ:273=6:144]、いわばLiebesunfähigkeit2)Liebe:「愛」、un:否定の接頭辞、Fähigkeit:「能力」、つまり、Liebesunfähigkeitは「愛に関する無能力」。である限りで、精神分析とは主体の「愛の能力」、そのLiebesfähigkeit[ⅩⅡ:18=16:60]を取り戻させる試みであり、そこにこそ――「愛」なるものが重要である限りで――精神分析という営みの決定的に根源的な意義が、そしておそらくは現在的な意味が存するということである。

 思うに、これがフロイトの最終的な問題意識だと言ってもさほど間違いではないだろう。突き詰めていえば精神分析とはLiebesfähigkeitのための実践なのである――最終的に私たちは愛を性に還元するフロイトに賛成はしないかもしれないにせよ。

3-4、フロイト性理論の体系性について

 ここまででフロイト性理論の基本構造の叙述が完了する。私はそれをフロイト性理論の基本的な体系性を明らかにするべく配列したつもりである。

 フロイトは精神分析理論について経験を離れて思弁的な整合化を行うこと、そういう意味での体系化を一方で避けようとしたのだが[Ⅹ:96=13:96]、結果としてその理論は一定の体系的というべき連関を持っていると思われる。

 私はその体系性を明確にすべく議論を構造化した。つまり、第1部は人間のセクシュアリティに関する通常の理解とフロイト性理論の出発点との距離を、後者の正当性を含めて明らかにし、そうすることで以後の議論すべての必要性を証明するとともに、その理解への不可欠の前提を与える。

 第2部はそこにおいて人間のセクシュアリティにおいて少なくとも主要とは言いうる形態となっている「性差」と「異性愛」の可能性の条件についてのフロイトの思考を解明する。だが第2部は同時にその可能性の条件の必然的な裏面、その不可能性という事態として、精神分析の生まれ故郷である「神経症」の問題を理解しようとする。

3-4-1、フロイト性理論における同性愛の位置づけ

 また私たちは「補論」で男性同性愛に関するフロイトの理解、その理論の発展を取り扱うが、それは異性愛の問題と密接な仕方で絡み合うために「男性性」をめぐる章の直後に挿入される。さて、同性愛は異性愛と同様に、あるいはむしろそれ以上に、一枚岩ではない複雑な現象であり、それに応じてフロイトの理論も複雑な発展を遂げる。

 フロイト性理論の基本的前提たる「両性性」からすれば、人間ははじめ性対象を性別で区別などしていないという意味で誰でも両性愛的であり、同性愛と異性愛の差異は量的なものに過ぎないが[Ⅴ:45=6:186]、フロイトが晩年に「終わりある分析と終わりなき分析」で問題提起したように[ⅩⅥ:89-90=21:281-282]、それを質的な差異として現れさせる謎めいたプロセスが存在している。

 つまり、「両性愛」を除く多くの場合、顕在的な異性愛は同性愛的な流れの抑圧と無意識化を、顕在的な同性愛はその逆を帰結するのである。だから、根本において人間が両性愛的であるにせよ、みな両性愛的に楽しもう!といった気楽な立場は残念ながら簡単には現実化できそうにない。

 例えば、フロイトの解釈が正しいとすれば、シュレーバー博士は自らの同性愛的空想―「女になって性交されたらやはりすばらしいに違いない」[Ⅷ:244=11:104]―と折り合いをつけるために、自らが女性化し「神の女」となって神と性交することが人類の救済となるといった壮大な神学的世界観を必要としたのである…。

 それはそれとして話を戻そう。平板な仕方で一般的に述べれば、顕在的な同性愛とは、欲動を同性愛へ導く諸要因が量的に異性愛へ導く諸要因にまさった事例ということになり、「両性性」から発する、異性愛とは別のいくつかの道の総称ということになるだろうが、フロイトが異性愛に安定的な主体の形態を認めたのと同様に、同性愛にも安定的な主体の形態を認めたことは確かである。

 というのも、フロイトは「女性同性愛の一事例の心的成因について」で、親に連れてこられた同性愛の少女には何らのヒステリー症状もなく、また自分のセクシュアリティに対する内的な違和や葛藤がない以上、「病人ではなかった」[ⅩⅡ:276=17:241]と言っているからである。

 「素人分析の問題」の冒頭あたりの叙述[ⅩⅣ211-213=19:106-109]が分かりやすいが、精神分析の治療対象はヒステリー症状や強迫症状、そして自らのセクシュアリティに対する―単に社会規範や家族などとの外的な葛藤といったものではないという意味で―「内的」な葛藤や違和、あるいは性的不能や不感症などの機能不全であり、何といっても自らが病んでいてそれを改善したいという主体の認識が前提である[ⅩⅡ:275=17:242]。

 もちろん、しばしば外的葛藤が内的葛藤だと思い込まされてしまったり、外的葛藤が内的葛藤につながったりすることがあり得るという点で内的と外的は厳密に区別出来ないが、それでこの区別が無効になるわけではないだろう。というのも、「神経症」は明らかに内的な葛藤だからである。

 そういうわけで精神分析にとって同性愛それ自体は治療対象ではない。内的葛藤を抱えていたり何らかの神経症的症状を持っていたりする同性愛者はその意図があれば治療の対象になりうるだろうが、それは同様の場合に異性愛者が治療の対象となることと同じである。
 
 ここで、しかし、フロイトの症例を読んでみるとしばしば「同性愛」が病因とされているではないかという疑念が生じるかもしれない。この点に説明を加えることは精神分析の本質的な特徴を明らかにすることになるため、ここで言及しておくとしたい。

 確かにフロイトのいわゆる五大症例のうち三例においてフロイトは同性愛的な欲望に病因を見定めている。シュレーバーと狼男の受動的な男性同性愛、そしてドーラにおけるおそらくは能動的といっていい女性同性愛である。

 しかるにここでのポイントは、これらが病因なのは「同性愛」だからではなく「抑圧」されているからだということである。抑圧されたものが回帰してくるのが症状であり、抑圧にのみ病因性がある。分析は抑圧されたものを意識に浮上させることで病因性を消去するのが目的であり、その後その欲動がどうなるべきなのかは分析の感知するところではない。それはいまやその欲動に対する影響力を取り戻した自我が決定するべきことなのだ。

 何はともあれ、補論では、第2部で叙述される異性愛的な道とは「別の道」としての同性愛についてフロイトが解明し得た限りのことを叙述することを試みたい。

 もちろん、別の道と言っても二つの道は複雑に絡み合っており、この絡み合いに注視したことに精神分析的な同性愛理論の特異な貢献と興味深さがあると言ってよいだろう。以上を簡単に整理すれば、第2部は人間の性愛における主要な道(「異性愛」)とその主要な道の上でのつまずき(「神経症」)を、その中で補論は主要とは別の道(「同性愛」)を描き出すということが出来るだろう。

3-4-2、すべては「神経症」から始まった―「フロイト的懐疑」について

 フロイトの理論にとって「神経症」はいかなる意味を持っているのか。その意味をもう少し敷衍してみよう。第2章で話題とするところだが、フロイト的性理論の絶対的な出発点は「異性間性器性交の自然主義」と私が名付けているところのものを解体することである。つまり、「性欲動は異性という対象に惹き付けられ、その目標は性器結合である、これは自然なことである」という考えを否定することである。

 これを私は、哲学一切を可能にするらしいデカルト的懐疑の向こうを張って、精神分析的性理論一切を可能にするフロイト的懐疑とでも名付けたいくらいだが、このような懐疑が現実的で切迫したものとなる場所こそ、他でもない「神経症」という場所である。

 神経症者の症状には言うところのあらゆる「倒錯」―私たちとしてはこの語に悪い意味を込めるつもりはないし、そもそも今や社会的に「倒錯」などというカテゴリーは存在していないだろう―的な性活動が表現されており、彼らはまた一様に強い同性愛傾向を抱えている[Ⅴ:65-66=6:212-213]。だからフロイトは「神経症」という経験に向き合うことによって、先の懐疑を引き受け、性に関する一切の認識をそこから組み立て直すことが出来たのである。

4、本稿の目的―フロイトのために、フロイトとともに

 最後に本稿の目的を総括的に述べておこう。それは第一にフロイトの立場の基本的解明であり、第二にフロイトの基本的な正当性を証示しようと試みることであり、最後に第三に、以上を通じて各人の自分自身を理解するという課題の深化に寄与することである。それが十分に説得的であるか否かは、よくある言い回しだが、読者諸賢の判断に委ねられている。

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 第1部 フロイト性理論の諸基礎:第1章 精神分析とは何か―「理解への賭け」、神経症、セクシュアリティ

References   [ + ]

1. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
2. Liebe:「愛」、un:否定の接頭辞、Fähigkeit:「能力」、つまり、Liebesunfähigkeitは「愛に関する無能力」。
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