補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(2)—狼男・「子どもがぶたれる」・マゾヒズム

4、裏エディプス・コンプレクスとマゾヒズムの本質―狼男・「子どもがぶたれる」・マゾヒズム

 最後に原初的な理論には不在であり、後に新たに加わった契機を見ていこう。裏エディプス・コンプレクスである。さて、フロイトの裏ÖKは、男児は表ÖKで母を対象とし父と敵対関係に入るだけではなく、父を対象とし母と敵対関係にも入ることもあり得るし、どんな場合でも何らかの程度で入っているということだとして[ⅩⅢ:261=18:29]、『自我とエス』のいわば抜け殻のような記述に基づいてしばしば理解される。

 しかるに、その着想の源となった「症例狼男」を見てみると、この裏ÖKのプロセスは非常に豊かな内容を含んでいることが見てとれる。またそれはこの症例との連関で書かれ、フロイトが「マゾヒズムの本質」を論じている「「子どもがぶたれる」―倒錯の発生に関する知識への寄与」や、マゾヒズムが整理される「マゾヒズムの経済論的問題」とあわせ読まれるべきである。

 本節の目的は裏ÖKなるものが具体的にどのようなプロセスをはらみ、それによってどのような帰結が説明されうるのかを明らかにすることである。中心主題は「去勢不安」と「男性の受動的同性愛」と「マゾヒズム」の間に存立する関係についてのフロイト的構想を明らかにすることである。

4-1、「症例狼男」―裏エディプス・コンプレクスとは何か

 狼男は23才から治療を開始したが、症例報告自体は基本的には現在の病の前段階と見なしうる幼児期神経症に限られている。すなわち、4才から5才ころまでの狼恐怖症と5才から10才ころまでの強迫神経症である。

 フロイトは現在の病を不十分な回復しか経験しなかった強迫神経症の残存だと捉えている。それは15年たってからの幼児期神経症の分析なのだが、フロイトはハンスのような子どもの分析では素材は信用出来る一方で、子どもの言語能力の乏しさゆえに素材の内容は貧しいものに留まらざるを得ないのに対して、大人になってからの幼児期の分析は確かに内容の歪曲や加工を考慮する必要があるとはいえ、子ども時代の経験が十分に咀嚼されて豊かに表出されうるとしている。

 前者が説得的なのに対し、後者は教えるところが多いのだ。実際、本症例報告でフロイトが与えている狼男のリビード発達史はリビード発達論のもっとも豊かな応用事例である。私たちは本節で関心を狼男の幼児期のリビード発達に限定することとしたい。

 具体的な議論に入る前にフロイトの症例報告の動機にも触れておこう。それは私たちの基本的テーゼに親和的だからである。本症例は「精神分析運動の歴史のために」で始められたユングとアドラーに対する論争におけるフロイトの立場を根拠づける役割を担っている。

 フロイトの認識によれば、彼らは神経症の臨床において「現在」の葛藤を重視し、幼児期的な素材はそれを表現する媒体としての意味しか持たないとする。他方で、フロイトからすれば幼児期経験こそが神経症の基礎なのである。

 フロイトとて「現在」の葛藤が幼児期的なものを自らの表現のために空想的に作り出し、そこに逃げ込むという作用を否定するわけではないのだが、フロイトは幼児期の方からの作用にも余地を認めるのだ。フロイトの言うところ、そうでなければなぜ幼児期にこそ退行するのか理解出来ないし、そもそも幼児期の外傷こそが「個人が現実的な問題を克服する上で不首尾に陥るのか否か、そしてどこで陥るのかを規定する作用を持っている」 [ⅩⅡ:83=14:56]のだ。つまり、原抑圧で「コンプレクス過敏性」を作り出すことによって。

 またフロイトから見ると彼らは幼児期の意義を格下げすることで性的病因論を後退させている。本症例でフロイトが示したいのは、まさしく後の神経症が幼児期神経症、つまり幼児期の葛藤に実際に基礎付けられていること、そしてそうであることで性的病因が決定的だということである。

 というのも、「文化的な目標追求」などというものについて「子どもは何も知らない」からである[ⅩⅡ:32=14:5]。私たちが先に述べたように、子どもの内的経験は身体的な快を目がけるものとしてすべて性的なのであり、そして神経症を引き起こす本質的な抑圧が幼児期に生じる以上、神経症の主要な病因は性的なのである。

4-1-1、誘惑とその諸帰結―3才のリビード発達

 さて、事柄が明らかになってくるあらましなどは最低限にとどめて、最終的に再構築された狼男のリビード発達に記述を絞ることとしよう[ⅩⅡ:36-53=14:8-25][ⅩⅡ:122-157=14]。

 狼男は愛のある夫妻のもとでロシア貴族として生まれたのだが、母は下腹部の病で子どもと関わりが比較的少なく、父は躁鬱的気分変調で、ある時期以降は家から不在となった。

 また狼男には極めて優秀で男勝りな姉がいた。狼男はおとなしく、姉が男の子で狼男が女の子のはずだったとも言われていたらしい。他方で狼男の最初期の記憶ないし伝聞によれば、父を誇りに思って父のような男になりたいといい、また狼男が非常になついていた子守り女ナーニャに姉が母の子で狼男は父の子などと言われるととても喜んだと言う。

 しかるに狼男3才半の夏に両親が長期滞在から帰ってくると、狼男は気性が荒く手が付けられない子どもになっていて、学校にやれるか心配なほどだった。この性格変容は母や祖母によってこの間に雇われた英国人女家庭教師のせいにされたのだが、その真相を突き止めるのが最初の課題である。

 時期区分は分析過程で分かってきたことだが、先取りして言えば、このあと4才のはじめから狼恐怖症が始まり、4才半に狼男の不安の過剰を心配した母が、ナーニャとともにキリスト教の手ほどきをしたことをきっかけに、狼男の状態は敬虔と冒涜の対立からなる宗教的な強迫神経症の色彩を帯びていった。

 これらのことの基礎が問題になる。もちろん、フロイトの立場からすれば見通されるべきはリビードの発達である。というのも、子どもの経験はリビード的な経験であり、その性格形成にせよ、神経症にせよ、その基礎はリビード以外にはあり得ないからである。

 最初の問題から片付けよう。決定的な契機として明らかになってきたのは姉の誘惑である。姉とトイレでお尻を見せ合ったという想起に加え、夏の両親の不在に先立つ春、狼男が3才過ぎの時点での姉の誘惑が思い出されたのである。それは姉がペニスを触ったことであり、ナーニャに注意されると、姉はナーニャも皆を逆立ちさせてペニスで遊んでいると批判し返したという。

 さて、このことはペニスを触られるという性器的で受動的な性目標を狼男に植え付け、狼男はすでに両親との関係で深刻なライバル関係にあった姉を拒否したものの、その目標自体は保持し、姉の先のなーにゃ批判に示唆されてかナーニャの前でペニスをいじる。一般に自慰が隠されない場合は誘惑であるとフロイトはいう。だが、これにナーニャは去勢の脅しで答え、そんなことしているとそこに「傷(Wunde)」ができると真剣な顔で叱ったのである。

 こうして狼男のリビードのまだ弱いファルス的編成は崩壊してしまう。つまり、肛門-サディズム的な編成への退行であり、これが狼男の性格変容の基礎にある。狼男はとても懐いていたのにナーニャにキツく当たったというが、それはナーニャこそがこの退行を引き起こす拒否の張本人だったからであった。

 またこのころ動物や昆虫をいじめていたが、その背景にはナーニャから一番下の子だから愛されていると聞くことで生じた新たな子どもへの不安もあったという。昆虫や動物は子どもの代理だったのだ。

 しかるに、この時期は単にサディズム的ではなかった。その自分への向けかえとしてのマゾヒズムも始まっており、子どもがぶたれ折檻される、また明らかに自分自身の代理だが、王位継承者がぶたれるという空想があった。

 これにはペニスをぶたれるという要素も含まれており、サディズムからマゾヒズムへの転換に去勢の脅しを引き起こした自慰への罪悪感が関与していること、そして「ペニスを触られる」という性器的な受動的目標がマゾヒズム的な受動的目標へと引き継がれているという連関を感じ取らせる。
 
 ところで「肛門-サディズム期」という名が示す通り、マゾヒズムの特権的な場所は受動的な器官としての肛門であり、「子どもがぶたれる」という空想はしばしば「子どもが裸にされたお尻をぶたれる」[ⅩⅡ:200=16:124]という内容を持っている。

 さて、いまや狼男のマゾヒズムは対象を見出さなければならない。それは父だったのだが、これは父が夏の不在から帰って以降、父が現れるとわざと声を荒げて叱られようとしたことから明らかだった。この対象選択は父が蛇をステッキでバラバラにしたという去勢を思わせる話に規定されていた。それは緩和されて狼男にとって「ペニスをぶってくれる」を意味していたのかもしれない。

4-1-2、原光景の発見と狼恐怖症―4才までのリビード発達

 
 狼男は4才から狼恐怖症になる。そのきっかけとして明らかになったのが分析に長い時間を要した夢、狼男の名前の由来となった狼の夢である。この解明を説得的に再構築することは出来ないので簡便にまとめよう[ⅩⅡ:54-75=14:25-48][ⅩⅡ:122-157=14:93-130]。

 その内容は以下のようなものである。ベッドで寝ていると窓が突然開き、木に白い狼が6~7匹いて恐ろしい。それらはキツネかシェーファー犬に見えた。というのも、キツネのようにしっぽが長く、注意を向けるとき犬のように耳が立っていたからである。狼に食われると思って不安になり叫んで起きるとナーニャが来てくれる。しばらくは夢だと思うのに時間がかかるほどその夢は明晰だったが、最後には安心してまた眠る。夢の中の動きは窓のみで狼は私をじっと注視していた。

 フロイトの夢解釈の原理は、このように与えられた夢のテクストのすべての個々の要素について、その背景にある素材を自由連想で見つけ出し、それを夢のテクスト、すなわち「顕在夢内容」とつきあわせることで、その背後にある「潜在夢思考」を明らかにしつつ、後者から前者への転換―夢作業―において働いている「願望」を見つけ出すことである。

 今回の素材の連想の例を挙げれば、まず「狼に食われる」は「赤ずきん」の童話を思い出させるが、他方で、67という数字は「狼と7匹の子やぎ」という別の童話を示唆する。というのも、そこでは7匹のうち6匹が狼に食われるからである。また別の狼の話も背景にある。祖父が物語ってくれたもので、仕立屋の窓が突然開き、狼が侵入してくるのだが、仕立屋は狼のしっぽを引き抜いて追い払う。後日狼が群れで復讐に訪れて、仕立屋は木の上に逃げる。件の狼が一番下になって「俺の上にのれ、仕立屋を追いつめるぞ」といったようなことを言うが、仕立屋が「しっぽをつかんでやれ」というと恐れをなして逃げ出したという話である。夢に登場した「窓」、「木の上」という要素が見られる等々…。

 この夢の解釈は数年かかったが、そこに神経症の原因があることは合意されており、最後の数ヶ月でようやく満足な解決を得た。その背景には1才半で目撃した「原光景」、つまり、父と母との後背位性交の場面が想定されざるを得なかった。

 これの現実性にはフロイトは最後まで留保をつけているが、空想にせよ、人間は見たものからしか空想は出来ず、4才の時点で、この夢のみならず、「原光景」を前提としなければ理解出来ないことが多々ある以上は、その光景を現実と見なすのが得策であるという立場を取っている。

 鼠男でも述べたが、「子ども時代はもうない」のであり、中核的な出来事は、夢や転移で予感され、諸々の素材の理解可能性のために構築されるのであって、その現実性の判断には慎重でありすぎるということはないのである。さて、夢の思考をフロイト的に再構成すると以下のようになる。

 夢のはじめの夜ベッドで寝ているという部分は、原光景での自分は寝ていたということを表現する。突然窓が開くというのは、原光景で自分が突然目を開いたことを視覚化するために祖父の狼物語からとられたものである。ところで狼男はクリスマスが誕生日であり、この夢は4才の「誕生日 = クリスマス」前に見たことが明らかになっている。かくして窓が開くことは木と合わせてクリスマスへの期待をも表し、「プレゼントだ!」という思考を背景として持つ。その期待には今や性対象となっている父との性的満足の「願望」が含まれていたはずである。

 「窓が開く」「木」など祖父の話が一貫して呼び出されることの中核的理由は、そこで狼が他の狼に「自分の上に乗れ」というからであり、それが今や父との性的満足を欲する中で想起されている原光景の二人を思い出させるからである。

 6匹とか7匹といった数字は原光景の二匹を隠すために「子やぎ」話から取られている。狼男の夢のスケッチでは狼は5匹しかいないが、その5という数字は夜という時間を5時に訂正する。この時間帯には後年でも狼男の憂鬱の発作がしばしば生じたのだが、それは1才半のころかかっていたマラリアの熱が高まった時間であり、この時間に目が覚めて原光景を見たのだと推測される。

 祖父の話と対比して狼の位置が木の下から木の上へ反転していることは別の逆転をも示唆する。狼の注視は原光景で注視していた自分から狼へと反転されたものであり、狼の不動性は原光景の動きの反対だと考えられる。狼の尾が長いキツネの尾になっていることは、祖父の話でのしっぽの引っこ抜きの代償であり、去勢の否定を表す。「しっぽ」はハンスが誤って猿のしっぽを「おちんちん」としてしまったこと[Ⅶ:251=10:13]に見られるとおり、位置や形状がペニスに似ているし、その類似性はドイツ語の「しっぽ(Schwanz)」にはペニスの意味があることによっても証言されている。

 さて、「狼に食われる」という不安は、夢の内容的には狼が動かない以上、根拠のないものに思える。先の去勢の否定と同じように無害化の努力があったのだが、最後には失敗し不安が噴出する。この不安は「子やぎ」や「赤ずきん」が食われる話と父親の冗談での脅かし「食べちゃうぞ」に依拠している。

 しかるに真の不安は「原光景」において狼男が恐れるべきもの、そして「原光景」の表現のために呼び出された祖父の話の中心点でもあるもの、つまり、夢でことさらに否定されている去勢であろうし、「食われる」はその口唇期的退行表現なのである。というのは、この後引き起こされた狼恐怖症は姉が意地悪に見せてくる絵本の絵に対するものだったが、それは狼男曰く、原光景の父を思い出させるからである。

 ポイントは夢の随所に原光景への参照と思われる事態が読み取れることであり、また夢の主軸を見失わないことである。すなわち、受動的な態度で父を性対象として選んでいる狼男がクリスマスと誕生日の接近に際して、「プレゼント = 性的満足」を期待し、その中で「原光景」が想起されたこと、原光景は夢の中で原光景での父と母との姿勢を表現する祖父の狼話で代理されたこと、祖父の話も原光景も―どちらでも去勢された狼が下になり、もう一方が上にのる―去勢不安を生み出すこと、それが「狼に食われる」と退行されて表現されたこと、これが狼恐怖症を生み出したことである。

 さて、この夢で生じた主要な出来事をより明確に捉えよう。ナーニャの去勢の脅し以来、狼男にとって様々なものが去勢を示唆するようになっていたのだが、この父との性的満足への期待の中で、1才半の原光景が想起され、事後的にその意味が理解されて、一定の作用を持つようになる。

 祖父の話が呼び出されたのは、その中で狼が自分の上に乗れと言い、原光景での父と母との姿勢を表現するからだった。しかるに、その場面を今の観点から見てみると母には明らかに(ナーニャの言う)「傷」があるのであり、それが父との受動的で同性愛的な性的満足の前提なのである。

 父との性的満足の期待が原光景を呼び覚まし、それが祖父の話で表現されるが、その原光景の帰結は祖父の話と同様に「去勢」であり、それが父への不安を呼び起こす。狼男は不安で目を覚ましてしまう。狼男の恐怖症は「狼に食われる」ことだが、彼が怖がる狼とは姉が意地悪で見せてくる絵本の挿絵の狼であり、その姿勢は原光景での父を思い出させるという。

 それは父との同性愛にともなう去勢不安の置き換えなのである。こうして狼男には父との受動的関係がリビード発達のすべての段階に対応する形で現れる。口唇期的受動性である「食われる」、肛門サディズム期的受動性、つまりマゾヒズムである「ぶたれる」、ファルス期的受動性である「去勢され性交される」である。

 この原光景を前提としてみると狼男の性発展は更に豊かに見通せるようになってくる。まず、分析の結果によると狼男は糞便を漏らすことで原光景を中断したらしい。これは後の空想かもしれないが、明確に肛門領域の優位を示している。

 フロイトによれば、一般に父母の性交場面の目撃では「おしっこ」のお漏らしが多いのだが、これは子どもによっておしっこだけが唯一可能な性器興奮の表現だからである。フロイトがしばしばおもらしを自慰と等価なものとして扱いたいという意向[ⅩⅣ:22=19:206]を表明するのはそのためである。

 この一般的な事例との対比で分かるのは、狼男において最初期から能動的な器官たるペニスではなく受動的な器官たる肛門での興奮が優位していたことであり、ここでフロイトは狼男の受動的な「体質」に言及する。フロイトのいう「体質」とは、どの性感帯が強く形成される素質を持っているのか、それと関係することだが、「受動性」と「能動性」、厳密にはそれとは一致しないが言い換えれば「女性性」と「男性性」のどちらの素質が優位なのかに関わる。これらはそれぞれ「多形倒錯的素質」と「両性性」に対応しており、それ以上遡れない最初期の経験を規定する選択を説明するものとして前提されざるを得ないものである。

 狼男は夢の時点でも明らかに母に同一化している。それは去勢不安が生じることからも明らかであるし、また別の観点からも根拠づけられる。3才半ごろの狼男は先に言及した英国人家庭教師を嫌っており反抗からしばしば糞便を漏らしたが、4才半頃に漏らした時にはひどく恥じ「もう生きていけない」と言ったという。これは下腹部の病に悩む母が医者に向かって痛みと出血の辛さを訴えて述べた言葉である。

 また母は赤痢という糞便に血が混じる病について話したが、狼男は自分がそれにかかっているのではないかと不安になり医者で検査を受けさえした。つまり、狼男は「下腹部-肛門」の出血と痛みにおいて母に同一化しているわけなのだが、このような特殊な同一化を引き起こしうるものとしては、「傷」を作り出す父との性交を狼男が母に同一化して経験したということ以外には考えられない。この同一化は原光景なしには理解出来ないのである。

 また他方で原光景からは狼男のいわゆる「正常」な性の流れも発している。これは分析の最後の時期に想起されたことだが、グルーシャというナーニャ以前の子守り娘がバケツとホウキを脇において四つん這いで―つまり原光景の母と同じ姿勢で―掃除をしていたのだが、そこで二才半の狼男はおしっこをもらしてしまった。つまり、フロイト風に言えば、狼男は原光景を思い出させる光景に性器興奮を覚えたのであり、これは母を対象とし父にファルス的に同一化するいわゆる「正常」な性の流れである。

 このことは狼男の異性愛的対象選択を完全に規定しており、彼は―肛門サディズム期に退行している強迫神経症者はフロイトによれば皆そうらしいが―女性のお尻にばかり惹かれ後背位性交を好んだ。思春期に官能の流れが爆発した際に姉と関係したかったが拒否され、姉と同じ名の「下女(Dienstmädchen)」を対象として選んで以来、彼の対象は貴族たる彼からすれば身分の低い娘ばかりだった。

 それは「強迫的な愛」という性質を持ち合わせており、18才のころにマトローナという農民娘に惚れ込んだ際には、屈んで洗濯している後ろ姿を見て、顔さえ見る前にすでに恋に落ちていた。また数年前に好きになった下女も最終的なきっかけはバケツやホウキとともに四つん這いで掃除をしているところに出会ってからだった。原光景の母の代理となったグルーシャの社会的地位、仕事、姿勢が彼の対象選択を支配していたわけである。

 以上を踏まえて再びリビード発達を捉え直してみよう。1才半で原光景の目撃があったのだが、そこで肛門領域の興奮があったとされていること、また4才時点の夢における原光景の再活性化で母との同一化が強い点から明らかな通り、そして女の子らしいおとなしい性格が示していたように、狼男は「受動的」な「体質」が強かった。

 他方のファルス的な能動性も原光景から派生した2才半のグルーシャのシーンで明らかだが、それも誘惑で受動的な「ペニスを触られる」に転化してしまう。その目標はナーニャの拒絶と「傷」が出来るという「去勢の脅し」によって潰え、狼男のリビードは肛門サディズム的編成へと退行する。

 このことは攻撃的な性格変容に明らかなのだが、他方で自慰への罪悪感とそれまでに培われた受動性への志向からか、能動的なサディズムから受動的なマゾヒズムへの転換も進んでおり、子どもがぶたれる、ペニスをぶたれるという空想が出現する。このとき対象の地位を引き受けたのは父であった。狼男は父にわざと叱られようと声を荒げるなど、父によるマゾヒズム的な性的満足を求めていたわけだが、そのような中で4才の誕生日近く、狼の夢が出現する。

 ここで父による性的満足を求める狼男はかつての原光景を想起するが、それを今や事後的に理解する。受動的な立場で父を対象にしていた狼男は当然母に同一化する―これは下腹部の出血において母に同一化していることから明らかである―のだが、そこにこれまでの去勢の示唆が手伝って、「傷」を発見してしまう。

 この去勢の契機は夢の中心的な背景となっている祖父の仕立屋の話に明確であり、また狼男の父に対する対象選択は去勢するものとしての父を語る逸話、父がステッキで蛇をバラバラにした話に依拠していた。それは夢の中では口唇的な受動性の表現である「食われる」へと退行して表出されるが、この不安が狼男を目覚めさせ、彼はナーニャによって安心させられることで初めて眠れる、つまり、狼男は女に逃げ込むのである。そして「狼に食われる」は狼恐怖症を形成する。狼男が怖がる絵は原光景の父を思い出させる。

 さて、これをフロイトはどう理解しただろうか。重要なのは、ここで肛門-サディズム的編成から一瞬であれ性器的編成への進展があることである。そうでなければ「去勢」のモチーフが決定的になるわけがない。狼男はここで事態を完全にファルス期的に理解しており、父との性器性交へと空想が進むのだが、そこで父との性器的な受動的な性的満足は「傷」、つまり「去勢」を前提としていると理解したのである。

 こうして狼男に初めて性差の十全な理解が生じる。それが重大なのは狼男のこれまでの中心的志向である受動性の帰結の理解と関わるからだ。狼男に分かったのは、父に対して受動的であることは去勢を前提とするということであり、従って女性的だということである。この夢において狼男は肛門サディズム的な父へのマゾヒズムから性器的な父との同性愛へと進むのだが、それが去勢と女性化を意味していることを知って、去勢不安からナーニャへと逃げ込むのである。

 受動的同性愛は去勢不安により抑圧され、再び肛門サディズム的なサディズム-マゾヒズムへの退行が生じる。いわば去勢不安が狼男を受動的-女性的な道から一定程度逸らせ、男性性の道に進むように仕向けた。そしてこの去勢不安が「狼に食われる」不安として狼恐怖症を生み出す。先に確認したように、リビード発達の三つの時期に即して「食われる」「ぶたれる」「去勢され性交される」が現れる。

4-1-3、その他の諸々の事柄

 狼男は父との受動的同性愛空想で去勢不安に直面し、同性愛的欲望を抑圧するとともに、その不安を狼に食われる不安として表出した。4才以降、受動的同性愛が無意識の中核をなしており、それは後年の神経症でも、その基底には時には1ヶ月も自然な排便がない極端な便秘というヒステリー的症状があったことから明らかだった。狼男は排便のためにおつきの人に浣腸されなければならなかったのであり、要するに男に何がしか挿入されることなしには排便したくなかったのである。ここでは正確に症状は病者の性的活動として機能している。

 狼男の症状の中核もこの受動的同性愛と去勢不安の抑圧に規定されている。そのために父への愛に満ちた態度とともに、それへの不安という矛盾した態度が形成されたのだが、ここから生じた父代理への不安定な関係が狼男にとって最も本質的な症状であり、先に去勢に関して触れたように彼は祖父の話に登場した「仕立屋」、つまり「ちょん切る者(Schneider)」に怖じ気を感じていつも高い謝礼で取り入ろうとしていたし、またフロイトに初めて会った時も「食われる」のではないかとフロイトの機嫌を窺いつつたびたび時計を見ていた―7匹の子やぎの一匹が助かったのは時計に隠れたからである。

 そして宗教的な強迫神経症も、「父 = 神」との間のこの種の不安定な関係が中核だった。宗教と狼男の関係で興味深い部分を列挙しておくと、まず狼男は誕生日が同じキリストに同一化することで男性への同一化を確保した。これには受難史によるマゾヒズムの満足が関わっている。

 また、ここでも父との受動的同性愛の問題が頭をもたげ、狼男はあるときキリストにもお尻はあるのかと聞いた。つまり、父によって性的に利用可能かと聞いたわけである。しかるに、後にはそれをキリストは無から食料を生み出せる以上は、排泄物も無化できるはずでありお尻はないなどと打ち消す。

 またある強迫症状は神-糞という強迫的連想だったが、これは一方で不安をもたらす父へのサディスティックな攻撃性であり、他方で肛門的な愛の表現でもあって、両者の妥協形成だったのである。そして彼の宗教への関係の中心にあった強迫的な敬虔は先に見たような父的人物に対する取り入りの試み以外の何ものでもなかった。狼男の父的なものへの関係は、まず愛であり、続いて去勢の不安であり、それが生み出す反抗であり、最後に不安からくる取り入りである。

 そしてまた狼男ではお金と糞便が象徴的に結びついており、肛門的な快への志向が彼のお金への関係を不合理なものとしてしまっていた。フロイトはお金への関係を合理的なものとするために、そこから肛門的な快の意義を引き剥がさなければならないと述べている。

 この辺りにしておこう。把握するべき決定的な点は、狼男の神経症の中核にあるのは父との受動的同性愛空想、つまり裏ÖKであり、それが去勢不安により抑圧されていたことである。それは一方で便秘のヒステリー症状で表現され、他方で父的な人物に愛を向けつつ不安であり、それを打ち消すために過剰に取り入ろうとするといった不安定な関係に現れていた。

 宗教的強迫神経症も父の代理としての神との間に成立したこの種の関係に基礎をおいていた。また狼男の生活能力を破壊していたお金との関係も抑圧された肛門的な快と関係している。先に見た通り、狼男は意識のレベルでは男性性を引き受けつつ異性愛的対象選択を行ってはいたものの、無意識にある強い同性愛志向のためにその関係は極めて不安定であった。

 フロイトの夢解釈はその説得力の評価が難しいが、今回の事例に関して言えば、便秘や父代理との不安定な関係、そして強迫神経症や母との特異な同一化から父との受動的同性愛の抑圧は明らかであるし、それらに加え、さらに狼男の異性愛の流れをよく説明するためには「原光景」が想定されざるを得ないように思われる。

 ところで、当たり前のことだが、裏ÖKを強く形成した人の一般的な運命を狼男が代表しているわけではない。狼男では去勢不安の強度のために男性同性愛が強く「抑圧」を受けることになり、そこはらまれる諸々が神経症を形成したが、例えば、この「否定」がそれほど強く働かなければ、それこそ「神経症は倒錯のネガである」という公式にしたがって、狼男はネガではなくポジの側になって同性愛者としてうまくやっていたかもしれない。

4-1-4、裏エディプス・コンプレクスと去勢不安

 狼男の経験から裏ÖKの意味するところを改めて探っておこう。その『自我のエス』的な定義は、表ÖKが母を対象にして父と敵対することであるのに対し、裏ÖKでは父を対象にして母と敵対するというものだったが、重要なのはこのような並行性の高い記述に惑わされず、両者に内在する欲望の形の差異に注意を払うことである。つまり、能動性と受動性との差異である。

 再三述べてきた通り、人間は両性的で性愛においてまずはどちらの性の立場をも取れるし、どちらの性をも対象に出来る。これが顕著に現れているのが狼男である。彼にはグルーシャへのファルス的能動性、ナーニャへのサディズムなどの表ÖK的な女性を対象とする能動的な立場取りが見られる一方で、すでに原光景で母と同一化し肛門領域で興奮を表現していることから想定される「体質」や、姉の「誘惑」という偶然的体験によって受動性の契機がとりわけ強かった。

 こちらの受動性の系列では、能動性の系列がリビード発達の三つの時期に即して「食べる」「ぶつ」「挿入する」だとすれば、「食われる」「ぶたれる」「去勢され挿入される」が与えられる。そして、この受動性の対象としては、幼児期にその人に対して能動的立場を取ることが困難な人、典型的には父が選ばれるわけである。ここで考えられているのは男児だが、男児は誰でも何らかの程度でこの表裏のÖKを通過するわけだ。

 しかるに、続いて重要なのは狼男にも決定的に現れていたこと、この過程の中で性差が見えてくるようになる様を考えることである。口唇期と肛門サディズム期には幼児自身の内的空間では性差は何の意味ももたないが、ファルス期には性器が関心の対象になることで性差が重大な意義をもってくる。

 そして何度も述べたことだが、この性差の知の意味作用を明らかにするのが「去勢コンプレクス」であり、男性の場合は「去勢不安」だった。狼男はその強く形成された受動性の道を歩んでいたのだが、それが性器的な編成に至ると、そこでの父との受動的な関係、受動的同性愛は「去勢」を前提とする「女性的」なものだとわかり、「去勢不安」から肛門サディズム期へと退行するとともに、ペニスを保持するものとして「男性的」な道へと一定の「逆戻り」を行うのである。

 肛門サディズム期までは「能動性」と「受動性」しかないが、ファルス期には性器の差異と結びついて、「受動性」と「女性性」が結びつき、「能動性」と「男性性」が対応していることが男児に理解される。こうして「去勢不安」が男児を肛門サディズム期へと、そして男性的な道へと逆戻りさせるのだ。この「逆戻り」の作用のうちにフロイトは「マゾヒズムの本質」の一端を見ているように思われるし、私たちはそこに男性の受動的同性愛の重要な特徴を見てとることが出来ると考えている。まず、マゾヒズムを見てみよう。

4-2、「子どもがぶたれる」――マゾヒズムの本質と生成

 さて、フロイトのマゾヒズム論というと「欲動と欲動運命」や「マゾヒズムの経済論的問題」がよく知られているが、もっとも実質的なのはこの「子どもがぶたれる」論文だろう。

 だが、まず前二者の内容を一瞥しておこう。先に欲動の規定で見た通りフロイトはすべての欲動を基本的には身体器官に還元しようとしている。その発想からするとサディズムは筋肉組織に属する欲動であり、それは他なるものを支配し破壊しようとする。

 そういうわけで、前者の論文、すなわち、「欲動と欲動運命」[Ⅹ:219-221 =14:178-180]ではフロイトはマゾヒズムを一次的なものとは想定しなかった。自己破壊性が生命に備わっているとは思わなかったのである。だからマゾヒズムはサディズムが「自己自身へ向けかえ」られることで生じる。

 フロイトは『性理論三編』で、例えば学生が試験前の緊張から性器に手を伸ばすといった事態から、どんな情動も一定の強度に達すると性的興奮を引き起こすことがあることをみてとり、そういったプロセスを「共興奮」[Ⅴ:104-105=6:261-262]と呼んでいたが、この論理を使って「自分自身へ向けかえ」られたサディズムの「苦痛」が性的興奮を引き起こしてマゾヒズムを生むのだとする。

 「マゾヒズムの経済論的問題」[ⅩⅢ:375-376 =18:291-292]では、「死の欲動」の導入によって、生命の原初的な自己破壊性、一次マゾヒズムが認められているが、理論の変更は最小限であり、一次マゾヒズムがサディズムとして外化されるとともに、残存したマゾヒズムが共興奮メカニズムにより「苦痛の快」としての「性愛的マゾヒズム」となるのだという。

 さて、すでに見てとられる通り、この議論はあまりに一般的であり、誰でもが持ち合わせているようなマゾヒズム的素質しか説明しない。「性(器)的興奮」をマゾヒズム的条件に強く、あるいは排他的に結びつけ、マゾヒストと呼ばれるに値するような強いマゾヒズムの形成をそれは説明しないのである。

 それを説明し「マゾヒズムの本質」を明らかにしようとする試みが「子どもがぶたれる」[ⅩⅡ:195-226=16:121-150]論文であるが、それはマゾヒズムという「倒錯の発生」をÖKとの関わりにおいて、男児の場合には裏ÖKとの関わりにおいて明らかにしようと試みている。フロイトはすでに「神経症の中核的コンプレクス」であると判明しているÖKに、「倒錯」との関わりでも中心的な役割を与えようと試みているのである。

 本稿の出発点は神経症者の分析でしばしば現れる「子どもがぶたれる」、あるいは「子どもが裸でお尻をぶたれる」という空想であり、これは快を伴うために反復され、性器の自慰をもたらす。フロイトは多くの事例を念頭においているといっているが、本稿でとりわけてフォーカスされているのは四つの女性症例と二つの男性症例であり、フロイトはその分析を通じて典型的なものを把握したという。議論を簡潔にまとめよう。

 この空想は4~5才には習慣化しているが、学校で子どもが現実に教師によって叩かれることの影響が極めて強く、空想の内容は教師が不特定多数の子どもを叩くといったものが標準的である。この学校での経験に源泉を帰したくもなるが、この空想内容の出現よりも自慰が早かったという想起もあり、前史があるのではないかと疑われる。分析の結果、実際にそのことが明らかになった。フロイトはまず議論を女性症例に限定している。

 空想は三つのフェーズに分けられる。第一フェーズでは殴られるのは別の子であり、いるとすれば兄弟であり、殴るのは父である。これはサディズムに見えるが、そもそも性的な含意を持っていると推測する根拠はない。

 第二フェーズは最も重要であり、それは自分が父に殴られるマゾヒズム空想なのだが、これは決して想起されず、そういう意味では存在しない。それは分析で「構築」されるべきものであり、「だからといって必然性がより小さいわけではない」[ⅩⅡ:204=16:129]。それが様々な素材によって示唆され、それらの理解可能性を与えるものであるとき、想起されなくてもその要素は必然的なのである。

 第三フェーズが先に前景化しているものとして一瞥を与えたものであり、それは第一フェーズと似ていて、子ども、とりわけ男の子がぶたれるのであって、ぶつ人は教師などの父代理である。自分はせいぜい見ているだけである。

 だが、ここに第二フェーズの想定の必然性を見るための端緒もあるわけだが、そこには性的興奮と自慰満足が付着している。どうして男の子がぶたれるという一見サディスティックな空想が女児の自慰満足を引き起こすのか。これはこの空想が生まれた背景を考えることで見えてくる。連関を再構築しよう。

 第一フェーズ。そもそもなぜ父が兄弟をぶつのか。これは父への独占欲へと高まる愛、すなわち、ÖKを考慮に入れればすぐに了解出来る。兄弟は親の愛を分かち合わざるを得ないものとして嫉妬の対象であり、ぶつことは愛の最も分かりやすい拒否である。お父さんは奴らをぶっている。お父さんは私しか愛していないというわけだ。ここではまだ性的興奮の要素は推測出来ない。

 第二フェーズ。ÖKは必ず没落するものである。それはある時期がくれば抑圧され、近親相姦の禁止が創設される。つまり、ÖKは罪の意識を伴うものになる。父を独占欲をはらむような仕方で愛してはいけないのであり、愛されるなどと思ってはいけないのだ。

 さて、父は他の子をぶっている、父は自分しか愛していないという風に考える女児にとって最大の罰とはなにか。自分自身がぶたれることだろう。ÖKが抑圧され罪悪感を伴うものとなったとき、かくして、この空想が介入してくる。

 だが、なぜこれが性的興奮を伴うのか。ÖKの抑圧と同時に、リビードの性器的編成が肛門サディズム的編成に退行しているからであり、その限りで父とのマゾヒスティックな関係が、父との受動的な性器性愛の意義を引き継ぐからである。

 実際、この空想をもつ事例は強迫神経症者、つまり、リビードを肛門サディズム期へと退行させている事例が多かった。フロイトはここで働く抑圧の三要素を厳密に規定している。第一にそれはÖK、すなわち、父との間の受動的性器性愛を無意識に追いやる。第二にそれはリビード編成を肛門サディズム的なものへと退行させる。第三に抑圧に伴う罪悪感の作用によりサディズムをマゾヒズムに転換する。こうしてマゾヒズム的な「父にぶたれる」空想は同じ受動性の系列にある父との性器性愛の意義を引き受け、性器興奮を伴う自慰を引き起こせるようになる。

 第二フェーズの「父にぶたれる」はÖKの抑圧が介入してくるとき、先の第一フェーズの空想の反転として生じるが、この空想は抑圧過程が肛門サディズム期への退行をはらむことで父との性器性愛を引き継いで完全な性愛的意義を獲得する。これがマゾヒズムの本質である。そして今やなぜ第二フェーズが想起され得ないかも分かるだろう。それはÖKの抑圧、「原抑圧」に密接に関わるからである。

 第三フェーズ。ここではÖKの抑圧過程がすでに終了しており、幼児期健忘が終わっている。そこで第二フェーズの残滓が歪曲された形で出てきて、それに即して自慰が展開されるわけである。ただ、先に自慰が第三フェーズに先行しているという報告があったことを忘れないようにしよう。それは第二フェーズの構築の正当性の一つの支えである。

 さて、第三フェーズの主な内容は、父が父代理になることであり、ぶたれるのが自分ではなく男の子になることだった。つまり、父は教師などにズラされ、ぶたれるのが男の子にズラされて意識に表出可能になるのである。

 これは一見サディズム空想だが男の子とは実は自分であり、したがって興奮はマゾヒズム的である。というのも、この空想は分析の中で恥や罪悪感のために表出に際して抵抗が強かったのだが、興奮と快に罪悪感という本来不快なものが寄与するのがマゾヒズムの特徴だからである。

 そして男の子へのズラしの恒常性は―このあたりすでに次章のテーマだが―女児の女性性を父との性器性愛だけが支えており、それが後退するとする女児は男性性コンプレクスですぐに男児になってしまうことで説明される。こうしてマゾヒズムがÖKの抑圧過程が残した傷跡として生じるのである。

 では、男児はどうなのだろうか。フロイトは一般的にまだマテリアルが足りないと嘆いている。まずは女児との並行を想定して「母にぶたれる」のではないかとも考えた。そのような空想は確かに見つかったが、これは第二フェーズに当たるはずで意識化され得ないはずなのに、意識されている点で異なる。並行性は厳密には成立しなかったのである。

 フロイトに光明がさしたのはマゾヒストの一般的特徴を考えたときであった。男性の場合には多くこの空想は孤立しておらず、一般に性生活がマゾヒズム的条件に括り付けられていることが伴っていた。性生活はマゾヒスティックな空想による自慰に限られているか、女性との性交にせよマゾヒズム的な条件が興奮に必要だった。

 一般に倒錯者は自らの性を楽しんでいるので分析には来ないのだが、この種のマゾヒストはいざ女性と性交しようとするとインポテンツであると発覚したり、突然マゾヒズム的条件に性器が反応しなくなったりするのでしばしば分析の門を叩くのである。彼らを観察してフロイトに分かったのは、彼らがそのマゾヒズム的状況で女性的な立場をとっていることである。

 この角度から探求してみると、女児と同じように「父にぶたれる」、つまり、父に対する受動的場面が原初的なものとして明らかになった。「母にぶたれる」は第三フェーズに対応していたのである。

 整理しよう。女児にせよ男児にせよ、マゾヒズム形成の原初的場面は父に対する受動的場面、つまり女児のÖKと男児の裏ÖKである。続いて、ÖKの抑圧が、肛門サディズム期への退行と罪悪感によるサディズムのマゾヒズムへの転換とを伴うことで、そうして肛門サディズム期的な受動性であるマゾヒズムが受動的な性器性愛の意義を引き継ぐことで、生じるというわけだ。

 この第二フェーズに形成された空想は強く抑圧され表出されないが、それは歪曲と加工をへて第三フェーズとして意識化される。女児では男性性コンプレクスに応じてぶたれる自分が男児になる。男児ではぶつ主体が父から母へと代わり裏ÖKの同性愛が避けられる。実際、典型的なマゾヒストは「女王様」といった女性対象と戯れるわけである。

 最後に一つフロイトが提示している素材に触れてみよう。フロイトはこの種の「子どもがぶたれる」マゾヒズム空想ないしマゾヒズム実践を抱えている人について、第一に現実の殴打を見ることは快や興奮をもたらさず、むしろ強い拒否感や耐えられなさをもたらすこと、第二に父的な人物との間に特異な関係を抱えやすいという性格形成をしていることを指摘している。父系列の人物に対して感受性が強く興奮しやすく、それに容易に苦しめられて、しばしば「父にぶたれる」をいわば現実化してしまって苦悩するのである。

 これらは以上の議論を正当化する役割を持つ。というのも、「ぶたれる」マゾヒズム空想がÖKの抑圧過程というもっとも外傷的なものと関わっており、無意識の中核をなしていると想定するとき、以上の素材はよく理解されるからである。確かに空想や限定された実践は性的興奮をもたらすが、それがÖKを抑圧せしめた外傷性と関わっているために、その空想の現実化はあまりに外傷的なのであり、またその外傷性をはらむ父との関係は不安定なのである。

 さて、以上と関わりがある限りで「マゾヒズムの経済論的問題」[ⅩⅢ:374-377 =18:290-294]
も見ておこう。先にサディズムとして外化を免れた自己破壊性向が「共興奮」で「性愛的マゾヒズム」を形成するというところまで見ておいたが、いまや予想出来るように、本式のマゾヒズムは、この基盤の上に「女性的マゾヒズム」として展開される。

 その形成の本質は父との受動的な性器性愛によって頂点を迎える女児のÖKないし男児の裏ÖKが抑圧されるに伴い「肛門サディズム期」への退行が生じて、この退行にあわせて「父にぶたれる」が「父に性器的に愛される」の意義を引き受けて性愛化されることにある。

 この基礎の上に、男性の場合で考えるなら、リビード発達のすべてのフェーズに対応して、「食われる」「ぶたれる」―もちろん、マゾヒズムの実践の中心はこの「ぶたれる」の変奏が中心である―「去勢される」「性交されて子どもを産む」という性目標が現れるが、典型的なマゾヒストが同性愛を避けていることを考慮に入れるなら、彼らは父との裏ÖKという原初的場面から遠く退いていることが分かる。

 なぜだろうか。もちろん、父との性器性愛に去勢という条件を強く結びつけてしまったために「去勢不安」が強いからだろう。かくして以下のようにフロイトが言っていることの必然性が理解出来る。フロイトはマゾヒズム的空想ないし実践においてペニスと目が慎重に守られていると指摘しているのである。

4-3、 裏エディプス・コンプレクス―去勢不安・受動的同性愛・マゾヒズム

 さて、私たちなりに諸事象に連関を与えて本節を締めくくろう。議論を極限まで単純化したい。出発点は裏ÖKであり、父との受動的な性器性愛の場面である。これは表ÖKと同様、ファルス期が到達されて性器が関心の中心となるとともに対象選択が生じることで起こる。表と裏の相対的な強さは、狼男で見た通り、言うところの「体質」や「誘惑」といった偶発的な出来事の帰結として決定されるのだろう。

 さて、注目するべきは表ÖKでも抑圧の中心的動因となった去勢不安との関係である。表ÖKでは母との性器性愛的関係が父との敵対を媒介にして去勢不安を強化するという関係にあり、願望の実現と去勢不安の関係は間接的であるが、裏ÖKでは願望の実現の前提として去勢があるというのが子どもの典型的な理解であるという意味で、願望の実現と去勢不安の関係は直接的である。

 実際には肛門を使えばいいわけだが、ファルス期に男女の性差を「去勢されていない」か「去勢されている」かによって理解し、それを「能動性」と「受動性」に結びつける子どもにはそう了解されるというわけだろう。父との受動的関係は去勢を前提にするのだ。こうして表ÖKの抑圧は異性愛的欲望そのものから離れることを帰結しないが、裏ÖKの抑圧は受動的な同性愛的欲望そのものから離れさせる一定の作用を様々な程度で持つと考えるべきだろう。

 この観点からその抑圧過程を捉えてみよう。ここでもÖKの抑圧過程の中心にあるのは表と同様に去勢不安であり、それはÖKを無意識化させるが、他方でしばしばリビード編成の肛門-サディズム的編成への退行も行われる。ここで父との受動的性器性愛の意義を父とのマゾヒズム的関係が引き受けることになり、「ぶたれる」といったことに性的興奮を感じるマゾヒズムの素因が形成される。

 さて、ここでは表ÖKの強度やファルス的な能動性の強度も考慮に入れなければならないが、それと去勢不安の強度が絡み合って様々な帰結を生み出す。狼男では去勢不安の強度のために裏ÖKが強く抑圧され、他方で発達していた―狼男はナーニャに安心させてもらって再び寝られたことを想起しよう―異性愛的な流れへの逃げ込みが生じたが、その帰結は裏ÖK的欲望の抑圧に基づく強迫神経症と不安定で強迫的な異性愛関係だった。

 典型的なマゾヒスト、女王様その他の女性対象と戯れるマゾヒストも男性に対する受動的関係を避けている以上は、裏ÖKからの逃避が強いと想定されるが、実際マゾヒズムを生み出す肛門サディズム期への退行からして去勢不安の強度を推定させるし、またマゾヒズムの実践においてペニスが慎重に守られるというフロイトの報告はそれを裏付ける。

 続いて顕在的な受動的同性愛の事例を想定出来るだろう。これは先の二つと比べると去勢不安や異性愛的流れが弱かった事例であり、肛門サディズム期への一定の退行に伴ってマゾヒズム的な傾向が付け加わることがあり得るにせよ、思春期以降は裏ÖK的な受動的な立場取り優位の同性愛が形成される。

 フロイトの立場からすれば男性の受動的同性愛とマゾヒズムは連続的であり重なり合う。またフロイトの議論が正しいならば、以上の諸立場は狼男に何がしか類似した父的なものとの不安定な関係を抱えていることがありうる。

 さらに極端な想定では去勢不安が作用しないどころか、去勢の完全で現実的な引き受けさえ想定されうるだろう。この場合は裏ÖK的な情愛のまったき受容が生じる。実際、性転換手術を行う人もいるわけである。あるいは女性的な見た目になっても外性器全体を残す人もいるし、男性ホルモンを減らして女性化するために陰嚢は取り払うものの、陰茎のみは残すという人もいる。

 この辺りは興味深い多様性を示しているが、それは「去勢不安」の強度という変数を入れる時もっともよく理解されるのではないだろうか。余談だが、フロイトのいう去勢はいつも陰茎に関わるのに対し、去勢は医学的には陰嚢に関わる用語である。

 ところで私たちはいま去勢不安の作用の強度によって裏ÖKの諸帰結を展開したが、興味深いのはフロイトが「終わりある分析と終わりなき分析」[ⅩⅥ:96-99=21:290-294]で去勢不安を分析がしばしば超えられないこと、有名な「去勢の岩盤」を指摘しているところで、具体的な事象として男性が他の男性に対して完全に受動的な立場に立たされることを激しく拒否することを指摘していることである。

 つまり、フロイトがそこで引き合いに出しているのは裏ÖKの場面と連関する形での去勢不安であり、他の男性に対して完全に受動的な立場を取ることは女性的であって去勢を意味するという、裏ÖKの場面で形成されたと思しき思惟連関であるということである。

 フロイトは割礼によって去勢を思い出させるユダヤ人への嫌悪や、その身体によって去勢を連想させる女性への嫌悪を去勢不安によって説明しようとすることがあるが[Ⅶ:271=10:39]、そうだとすればここに男性の男性同性愛への嫌悪感を引き起こす要因を見てとることが出来るかもしれない。

 それは自分が挿入され受動的な立場に置かれるという表象を通じて―それと無意識に結びつく「去勢」の観念によって強化されながら―作用しているのではないだろうか。さて、このように言うことは、もちろん、その感情を正当化することではない。それはフロイトがユダヤ人嫌悪や女性嫌悪を正当化したわけではないのと同様である。

 去勢不安なるものは徹底的に無意識であり、その帰結からその存在が推定されるしかないが、その推定が正しいならば、そのような要因を考慮に入れてみることこそがその帰結から身を引き離す唯一の可能性を与える。

 合理的な議論で解消されない強い情動には無意識の源泉があるはずだが、もし上の三つの嫌悪がそのような性質を持っており、それに去勢不安を読み取るフロイトの立場が正しいとすれば、実際、フロイト的な思惟だけがそれらを解消する可能性を与えているのである。

5、補論と第4章の総括―男性性とは何か

 さて、以上がフロイト的な同性愛理論である。とはいうものの、フロイトは人間の諸々の動きに関してそれを規定している「意味 = 意図」を可能な限り見出そうと試みる精神分析の立場、かくして人間の動きの形成における意味的媒介の領域を最大限大きく見積もる精神分析の立場に限界があり得ることを認めていた。

私たちは私たちなりに自然主義を制限する根拠をいくつか述べておいたが、ひょっとすると性転換に至るような性同一性障害には器質的な要因があるのかもしれないし、同性愛や異性愛といった性対象選択にも器質的な基盤があるのかもしれない。

 フロイトの理論はこの種の自然的基盤を最小限に見積もっているのだが、もしかすると実際は分厚い自然的基盤の上で展開されるちょっとした誤差にしか関わらないかもしれない。何はともあれ、以上が同性愛についてフロイトがいい得たことであり、私たちはそれがさまざまな連関を的確に指摘し得ていることによって一定の説得性を持つことを期待したい。本補論の議論を概観しておこう。

 フロイトの基本的な立場とは欲動は対象と自然に結びついているわけではなく、欲動と対象との関係は「はんだ付け」[Ⅴ:46-47=6:188]であるというものである。だから、生のどこかの段階で欲動と対象が結合するのであり、しかも異性愛と同性愛なるものが「一応」存在している以上、性差と結びついた形で結合されると考えなければならない。

 もちろん、フロイトにとって重要なのは潜伏期以前の最初の性発達の時期、エディプス期までの時期である。さて、以上の「はんだ付け」を出発点とすると、異性愛的対象選択と同性愛的対象選択の差異を検討することで、その要因として働きうるものを推定出来る。

 結果としてフロイトの理論が考慮に入れている差異は、(1)対象が自分に類似していること、(2)対象にペニスがあること、(3)対象に受動的な立場を取り挿入されうることだった。フロイトにははじめ自体愛から対象愛への発達段階に同性愛を位置づける理論構想があったが、崩壊して先の(1)と(2)が現れ、後に(3)が加わった。

 それらはそれぞれ(1)母への強い固着とそれとの同一化によるナルシシズム的対象選択、(2)去勢不安と原父空想の密接に連関する二つを含む去勢コンプレクス、(3)裏エディプス・コンプレクスで説明された。(2)は表ÖKの通過を前提とする側面が強く能動性と親和的だが、(3)は受動性と親和的であると思われる。この受動性ととりわけて親和性の高い要因はフロイトの理論的な歩みの中で最後に見出されたものである。

 ところで、ここで興味深いのは、以上の議論が正しいとすれば、「去勢不安」は受動的同性愛を避けさせ、様々なレベルで男性性を保持させる要因となるが、能動的同性愛を引き起こす要因ともなるという連関である。他の男性に対して受動的な立場を取ることは去勢不安のため避けられるのだが、他方で去勢不安は女性身体への忌避と女を独占する原父への怖じ気を媒介に男性の対象選択を生み出すというわけだ。ここにも複雑な連関がある。このような連関は矛盾していないだろうか。ここでは取り組まないが、さらなる検討を要する部分である。

 以上をまた「父」との関わりから整理してみよう。(1)の要因は父の不在であり、(2)の要因は表ÖKにおける超自我的な父の過剰、(3)の要因は裏ÖKにおける父の過剰である。フロイトはさらに(2)の要因が(3)の要因を強化する可能性も指摘している[ⅩⅦ:117-118=22:231-232]。表ÖKの能動性のレベルで過剰な父に対して敗北すると、父に対して裏ÖK的な受動的立場を取りやすくなるのである。この複雑な連関も矛盾を免れていないのかもしれない。さらなる検討を要するだろう。

 また以上では触れられなかったが、一応フロイトが指摘している同性愛の形成メカニズムとしては、当然、依托の論理に依拠したものがあり、フロイト曰く、貴族で同性愛が多いのは、そこでしばしば男性の召使いが養育にあたるからである[Ⅴ:131=6:294]。またフロイトは親に続いて兄弟姉妹を重視するが、同性の兄弟への嫉妬の憎しみに対して強い愛の反動形成が行われた場合には、それは同性愛的対象選択を促す要因になると指摘している[ⅩⅢ:266=18:34-35]。

 以上で私たちの男性性についての議論の展開を終えることになるが、その展開の最初に述べたこと、つまり、性差と性対象の原初的引き受けを規定しているものとして、フロイトはエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスの二つを提示しているという観点から、簡単に議論を総括しておこう。

 出発点はファルス期だ。それは性器の中心化によって定義されるが、性器の決定的な意義は、その興奮集積メカニズムが身体的な快経験、リビードに統一を与えるということである。私たちは先に幼児期の快経験があるものを性的なものとして規定すると考えたが、そんなことが可能であるとすれば、それは性器が身体の快によって興奮するようなものとして存在しているからでしかあり得ない。

 こうして身体の快経験に依拠する自我形成が統一へともたらされると同時に、部分欲動の快経験が統合されることで養育者の人格を対象とした対象選択、「愛」が可能になる。こうしてファルス期には、性器への興味によって去勢コンプレクス、性器の差の知の意味作用が介入してくることが可能になると同時に、エディプス・コンプレクスも前景化してくるわけである。

 さて、対象選択という側面に関して言えば、表ÖK、すなわち異性愛的対象選択は、典型的な養育者が母ないしその系列にある女性である限りで、「依托」の論理で比較的容易に説明がつく。欲動が満足させてくれるものを対象とするなら、単に自分を生かしてくれるのみならず、養育を通じて性感帯を目覚めさせ、性器興奮さえ教えたはずの養育者が欲動の対象となるのは当然である。

 他方で裏ÖKについては、父も養育に参与していることに加えて、子どもの受動的な性目標が形成されると、それに対して能動的に振る舞うことが難しい存在としての父が対象として選ばれる蓋然性が高いと言えるだろう。このÖKという原初的場面での配分が対象選択を規定する上で重要である。同性愛的対象選択の可能性を列挙してきた今や明らかなように、それがすべてであるわけでは全くないのだが。

 もっと重要なのが去勢不安であり、これが性差の引き受けと男性性の構成に決定的な役割を果たす。まず表ÖKに限定して考えると、それは女性器の知、正確には女性における男性器の不在の知によって大きく活性化される。いまや性差を知る男児は自覚的に、というよりファルス的に父親に同一化するが、他方で去勢不安は典型的には表ÖKにおける父との敵対の由来する不安とも連関しており、表ÖKの抑圧の強力な動因となる。

 だからこの抑圧を通じて形成され、父を継承する超自我、子どもの父との関係は「父のようになりなさい」と「父のようになってはならない」の二重性、同一化と禁止の二重性なのである。この二重性、私たちはそれをハンス的な正常性と鼠男的あるいは強迫神経症的な過剰―模範としての父とその原父的な過剰とも言い換えられる―と言っておいた。

 「正常」といってもその無制約的な貫徹によって原父的な過剰が無化されると欲望が窒息することも想起しておこう。「欲望」は「禁止」と「さらに先」があるから存続する。さて、この二つの配分が決定的であり、この二つの重なりあいの様々な度合いとして男性性の「通常」のあり方が存在する。

 ハンスが即座に父になり、強迫神経症者が父の禁止を背景に、父への敵意から父への最終的に劣位であるしかない反抗を企てるとすれば、「通常性」は「今」は「父のようになってはならない」し「父のようになれてもいない」が、頑張れば「父のようになれる」のであって、そのように努力しなさいということになるだろう。

 先の二重性はこの命題の前半と後半の配分に関わる。「父のようになってはならない」という禁止が「おちんちんをちょん切るぞ」という去勢不安に関わっているとすれば、「父のようになれてはいない」というÖKにおける挫折の側面に対応するのは、私たちがハンスにおいてファルス期に子どもがそのように考えることの必然性を示しておいたように、「おちんちんが小さすぎるのではないか」という不安である。

 かくして先の命題、つまり男性性の本質において決定的なのは、無くなってしまうかもしれない「おちんちん」を固持することであり、また小さすぎるかもしれないそれを「大きく」することである。もちろん、潜在期の突入によって、この欲望は身体的な快の直接性を離れ「おちんちん」の象徴的代理物にも転化されうるのだが、その起源を見誤ってはならない。

 さて、続いて裏ÖKにおける去勢不安の作用に注目しよう。受動的な欲動目標を発展させて父を対象にしていた男児だが、ファルス期に突入して性差が知られると、父との間の受動的満足は女性的なものであって去勢を前提にするという思惟連関が形成される。

 男児にとり能動性の器官たるペニスが重要であることは裏ÖKだろうと変わらない。そして表ÖKにおいて去勢は母への欲望そのものではなく父との敵対に由来するが、裏ÖKでは欲望充足の前提として想像される。だから去勢不安は男児を裏ÖK的な願望の形、受動的欲望から様々な程度で後退させ、受動性に陥りたがらないという意味での男性性を保持させるのである。

 どの道が選ばれるかは表ÖKと裏ÖKの相対的な強さ、そして裏ÖKと去勢不安の相対的強さに規定されるが、ある男児は表ÖKに逃げ込み、ある男児は裏ÖK的な欲望に留まりつつも他の領域では能動的な男性性を保持し、ある男児は女になるだろう。この意味での去勢不安の作用は多くの男性が他の男性に対して完全な受動性の立場に置かれることを厳しく拒否することに現れている。どんなときも能動性の体面を保つことが重要なのである。例えば、私たちは自分が誰か他の男性にすべての点で劣っていることを認めるのは耐えがたいのである。

 かく重層的に把握される去勢不安から男性性の諸性質が導出できる。なぜか。女性性と区別される限りでの男性性は性差から生じる他なく、その性差の知の意味作用を名指すものこそ去勢コンプレクスだからである。その具体的内容は受動的な立場に置かれたがらない能動性、他の男性に対して屈服しないこと、どこかで自分の優位を確保することに固執することであり、お金であれ地位であれ知であれ、保持への執着であり、その拡大への志向である。

 以上の意味でファルス期に展開されるエディプスと去勢の二つのコンプレクスが、対象選択、性差の引き受けとその構成、つまりセクシュアリティにとって決定的なのである。去勢不安なるものが性器の差の知、つまり、「生物学的性差」への子どもの解釈と応答であることを考慮すれば、以上がフロイト的な「生物学性差」「社会的性差」「対象選択」「性自認」の諸連関の典型の構造化であると言えるだろう。

 典型的な男児は、ファルス期に依托の論理によって「母親」を対象として選択するが(「対象選択」)、他方で同時に「性差」の知によって去勢不安にかられ(「生物学的性差」)、能動性の器官たるペニスの保持に固執して、それを通じて父と同一化して「男性」であることを引き受けるとともに(「性自認」)、「男らしさ」として名指されるような諸性質を形成してしまうのである(「社会的性差」)。

 以上の四つの構成要素をもって人間の性現象―セクシュアリティ―は基本的に包括されると思われるが、とすれば、以上をもってフロイトが人間のセクシュアリティを脱自然化したことの帰結の大枠が示されたと言えるだろう。フロイトは確かにそれを脱自然化したが、それをアナーキーなままに放置したのではない。

 幼児自身が性器の差と両親との間で形成される原初的な場面を経験し、それに解釈を与え、それに応答しようとする苦闘の中から、つまり去勢コンプレクスとエディプス・コンプレクスを通過する中から、自分で四つの構成要素の典型的な諸連関を作り出していく一定の必然性をフロイトは明らかにしたのである。こ

 れを何がしか保守的と見なす見解があるかもしれないが、私たちフロイディアンの立場からすれば、現に存立している事実、性の領域がアナーキーではなく優れて構造化されているという事実を無視することは無意味であり、逆にその構造化の諸プロセスをきっちりと見極めることからだけ、可能なる変容について、私たちに与えられている可能性について現実的に思考することが出来るようになるのである。

 少々挑発的に言えば―最終的に批判するのであれ―以上のフロイトの立場を正確に踏まえずに性について何かを語ることは馬鹿げているようにさえ、私には思われる。

 さて、こうしたフロイトの議論から何か私なりに一つの結論を引き出しておくとすれば、男性性は―この価値判断を最終的にどう見るかは各々に委ねておきたいが―あまりに「しょうもない」が、さしあたり、私たちはその「しょうもなさ」を認めるところから始めるべきだということである。

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補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(1)—ダ・ヴィンチ、去勢・フェティシズム・原父
第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

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