第1章 精神分析とは何か―「理解への賭け」、神経症、セクシュアリティ

 フロイト理論の基礎を展開する第1部「フロイト性理論の諸基礎」は、3章に分かれている。この「第1章 精神分析とは何か―「理解への賭け」、神経症、セクシュアリティ」では、まずフロイトの理論の基礎になっている精神分析について理解することを試みる。

1、「理解への賭け」としての精神分析

 フロイトの性理論はその精神分析の実践から生まれたものであり、その知としての性質は精神分析という実践の特質に依存している。したがって私たちは精神分析の基本性質の理解を必要とするが、それは一つには「人間的なものは必ず理解できる」、言い換えれば「人間的なものには必ず意味がある」と言い表せるだろう。

 フロイトは「不合理」で「無意味」と見なされがちな「夢」にも(『夢解釈』)、言い間違いや物の紛失など「単なる不注意」に還元されがちな「錯誤行為」にも(『日常生活の精神病理学』)、そして神経症のさしあたり不可解な諸症状にも、広い意味で合理的なものとして理解されうる「意味(Sinn)=意図(Absicht)」[ⅩⅠ:33=15:36]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.があることを断固として主張したし、そもそも精神分析の実践は抑圧された外傷的な記憶を想起することで、それまで不可解だった症状の「意味」が理解され、そうすることで同時に消失することの発見に端を発するものだった(『ヒステリー研究』)。

 かく精神分析とはまずもって人間の言動は理解しうるということに賭けることなのであり、「無意識」とはさしあたってはそのような理解が可能であると前提とした時に、理解を試みるなかで見えてくる欠け、つまり意識的な連関に現れてくる「穴(Lücken)」[ⅩⅦ:81=22:194]を埋めるものとして想定されなければならないものなのである。

 分析に現れる様々な素材が、その理解可能性の条件として「あること」、ある思考や出来事を指し示すのだが、その「あること」は意識にはのぼってこない。そこに「無意識」が想定される、フロイトの言葉でいえば、ある無意識となっている思考や出来事などの連関が「構築(Konstruktion)」されるのである。

 意識的連関の「穴」に即して無意識的内容が「構築」され、それが更なる探求の道しるべとなるわけだ。ある行為の「意味 = 意図」が意識だけを見ていては理解出来ないとき、無意識の「意味 = 意図」が想定されるのであり、それを確証すべく以後の探求が組織されるのである。

 しかし、このプロセスの正当性、根本的には「理解可能性への賭け」の正当性はどこで担保されるのか。そこには行為を理解可能にする無意識の「意味 = 意図」などなく、単なる偶然しかないかもしれないではないか。その「構築」なるものがこじつけでない証拠はどこにあるのか。

 精神分析にとって、この賭けの正当性は、分析という臨床実践の枠内にあっては、様々な解釈や構築、つまり症状の意味の理解の試みをきっかけとして、それまで無意識に沈んでいた素材が次々に立ち現れ、そのプロセスの結果として最終的には症状が解消すること、つまり、症状の意味の理解とその解消が一致するという意味で、理解に現実的効果があることによって保証されている。

 解釈や構築に無意識的素材の想起や症状の解消という現実的効果がある以上、もっと正確にいえば、現実的効果がある解釈とない解釈がある以上、現実的効果がある解釈は単なるこじつけではないのである。他方で分析という臨床実践から離れた際には、その賭けの正当性は、残念ながら、基本的にはそのように理解を進めることで事象の諸々のディテールをうまく連関づけることが可能になるというより貧弱な地盤に依拠するしかないと思われる[以上についてⅦ:338-340=10:131-133]。

 この落差のうちにフロイトが症例研究においてしばしば記している、このような症例論を書いても分析で得られる確信を再現することは出来ないという諦観[Ⅶ:338=10:132]の根拠があるのだろう。

 私たちは症例を読むことによっても基本的には先のより貧弱な地盤という側面にしかアクセス出来ない、多くの素材がある一点を指し示すことで解釈ないし構築を産出し、その内である解釈は何の効果も生まないが、別の解釈は効果を生みだし、今まで思いもよらなかった出来事の想起や症状の解消を帰結するということに伴うリアリティ、そこに生じる特異な確信は十全には経験出来ないのである。

 ともあれ、このように精神分析は「理解への賭け」を組織するのであり、精神分析の立場とは人間が起こす諸々のことにおいて「意味 = 意図」の媒介を極限まで大きく見積もるというもの、つまり、人間が起こすことを最大限「行為」とみなすというものなのである。

2、「心的現実」からフロイト理論の四つの知の源泉へ

 さて、それはそれとして話を進めれば、以上の「理解への賭け」ということから精神分析的な知ないし理論の重要な性質が帰結する。私たちが人間の言動を理解しようとする際、まずもって参照されるべきは外的客観的な現実ではなく、それをその人間がどのように経験し意味付けたかである。

 ある人が柳を前に逃げ出したとして、私たちがその行動を理解しようと思うなら、単に柳を見ていてもしょうがない、それがその人に幽霊に見えたということを見なければならない。かくして精神分析的な知は外的客観的な現実についての語りとしてではなく、それを経験する人間の「心的現実」の語りとして成立する。

 これは性理論についても同様である。このことを確認するために、フロイトの性理論の基礎が展開されている『性理論三編』の序言の文言を以上の観点から説明してみよう。フロイトはそこで当該書が精神分析の経験なくしては書き得なかった、言い換えれば、「子どもの直接観察」だけでは書き得なかった[Ⅴ:32=6:168]と、そして、当該書には精神分析がそれを「確認することを許してくれた」こと、また「想定するよう強いること」しか書かれていないと述べている[Ⅴ:29=6:165]。

 なぜ、幼児の直接観察は不十分にとどまるのか。それは精神分析が人間の行動を理解しようと試みる中で参照するべきは人間の「心的現実」だからであり、幼児の性についての理論にしても問題は幼児の内的経験、幼児自身が世界をどう経験したかだからである。

 もちろん、幼児の直接観察から分かることも多くあるが、内的経験は直接見ることは出来ないから、外的観察から内的経験にいたるのに必ず推測を経ざるを得ないし、幼児自身が内的経験を語る言葉を持っていない以上、観察からの出発―つまり、「実証」―は不十分にとどまる。

 では、どうすればいいのだろうか。そこで重要なのが「精神分析が確認することを許してくれたこと」、および「精神分析が想定するよう強いること」である。つまり、フロイト的性理論の知の源泉は一つには精神分析が「確認することを許した」幼児期記憶の想起、つまり幼児の内的経験の―もちろん、幼児期以後の知に媒介され言葉を与えられた―想起であり、もう一つには、患者たちの私たちから見れば奇怪な言動が、そして私たち自身のあり方が有意味であり理解可能であるためには「想定せざるをえない」ことなのである。

 ここに私たちが精神分析理論について言及する際、「~だと想定しなければ、理解できない、説明できない」という言い回しを多く用いることの根拠がある。分析家でもなく分析されてもいない私たちは「精神分析が確認することを許した」幼児期記憶には直接アクセス出来ない以上、この想定の論理を多用せざるをえない。これは、先にもこの語を持ち出したが、フロイトが「構築」と呼んだ手法と何がしか似ている。「構築」とは様々な素材から、それらを理解可能にし、連関を首尾一貫したものにしてくれるようなある無意識的内容を想定することである。

 更に二つの知の源泉を付け加えておこう。一つには先に見た幼児の直接観察からくる推測であり、そして最後には幼児の内的世界に関する基礎的な諸想定とそこからの諸推論が挙げられなければならない。これら四つの知の源泉に配慮しつつ私たちはフロイトの性理論を検討する必要がある。

3、「神経症」からセクシュアリティへ

3-1、「神経症」とは何か―「表象」をめぐる病い

 以上で精神分析の実践としての性質から精神分析的知の性質と諸源泉が明らかにされたので、本章の残された課題は、精神分析理論全体の中での「性」の位置とその性理論の基本的方向性を明らかにし、その「パン・セクシュアリズム」という誤解を解く、あるいは少なくともそのイメージをより正確にすることである。

 さて、フロイト自身、『性理論三編』への後年の序言で「精神分析は「すべて」をセクシュアリティから説明する」という「パン・セクシュアリズム」なる「馬鹿げた批判」[Ⅴ:32=6:168]と言っているが、なぜこれは「馬鹿げて」いるのか。一言でいえば、フロイトの精神分析はセクシュアリティから「すべて」を説明するものではなく、まずもって「神経症の病因」を説明するものだからである。この点から精神分析における性の位置とその性理論の基本的方向性を見定めることが出来る。

 では「神経症」とは何か。それは身体器官に(少なくとも当時の学問の水準においては)物質的・物理的に特定可能な、いわゆる器質的な病因が見付からないにも関わらず、様々な症状に苦しめられる一群の病気の総称である。

 最初期のフロイトはそのうちで「現勢神経症」と「精神神経症」を区別し(「防衛-神経精神症」論や「不安神経症」論[Ⅰ=1])、後者を精神分析の特権的な対象と見なす。その区別の原理は症状の形成に心的精神的な過程が参与しているかどうかであり、フロイトはその思想の成熟期にあって「恐怖症(不安ヒステリー)」、「転換ヒステリー」、「強迫神経症」を精神神経症と見なしている。

 恐怖症とは例えば有名なハンス少年のように馬が恐くて通りに出られないといった症状であり、転換ヒステリーは体の一部の麻痺や拘縮や不随意運動、そして感情の爆発や気分変調や痛みや幻覚といった症状を中心とする。その特徴は症状が精神から身体に、より正確には動力系に「転換」するというところにある。最後に強迫神経症者は何か自らを不安や不快に陥れる強迫観念ないし強迫表象を持っており、それらを追い払って不安や不快を避けるために儀式的な強迫行為を遂行する。

 これらの症状形成に「心的精神的な過程」が参与しているというのはどういうことだろうか。これは簡単に「表象」だということが出来る。心的なものの弁別特徴とは、それが「表象」を持つことである。フロイトが考える精神神経症の症状形成過程とは、かくして、「表象」に関する過程、ある特定の「表象」が抑圧され、意識の外に追いやられ無意識化するが、その表象に付着していたエネルギーがなにか元の「表象」との連想関係のうちにある別の「表象」(恐怖症・強迫神経症)ないし「身体部位」(転換ヒステリー)へと移されて再び表に出てくることなのである。この「抑圧されたものの回帰」[Ⅹ:257=14:204]が神経症の症状である。

 かくしてフロイトの「抑圧」の対象に関する厳密な定義は「欲動の(表象)代理」[Ⅹ:250=14:197]なのである。症状が継続する以上、そこには持続的なエネルギー供給があるはずであり、したがって抑圧されるのは「欲動」なのだが、しかるに抑圧が心的過程である以上、抑圧されるのは「欲動」そのものというよりは、それに付着し、そのことで「欲動」を代理しているような、ある「表象」なのである。こうして症状形成が「表象」という内面からしかアクセス出来ないものに即して起きているために、精神神経症には内面に作用する道具であるところの言葉による治療が可能ということになるわけだ。

 そして、このように連想関係ないし象徴的関係にしたがって簡単に「エネルギーの移動」、つまり、「表象の交換」が起きる場所としての無意識が存在することを正当化し、最終的に「遷移」と「縮合」としてまとめられるそのエネルギー移動の原理を明らかにすることが、無意識三部作といってよい1900年前後の初期の三作『夢解釈』『日常生活の精神病理学』『機知』のもっとも主たる眼目であった。

 さて、話を神経症に戻そう。後期フロイトの「制止・症状・不安」論文の把握によれば、神経症の原因となる抑圧が生じるのは大雑把に言えば「外傷・危険・不安」――フロイトはこの三つを厳密に区別したがその点は詳述しない――といった不快な経験のためであり、「表象」が抑圧を通じて別のものに移されているとはいえ、症状との関連において回帰してくるのも、「不安」かそれに準ずる不快感情である。

 まず欲動に関する「不安」の経験があり、その欲動、正確にいえばその欲動が付着している表象が抑圧され、その欲動のエネルギーが別の「表象」にズラされて「症状(馬恐怖、不潔強迫…)」が生じ、それに即して私たちは不安を経験するようになる。

 例えば不潔強迫であれば、「不潔」であることへの過剰で不合理な不安は、本当は何か別の真に深刻ではあるが抑圧されてしまった出来事への不安の代理であり、その代理性が気付かれ経験されないうちは真に解消されることもなく、不安を避けるために手を洗い続けるという強迫行為、あるいは汚いものを触れないという自我の機能の「制止(Hemmung)」が続くというわけだ。

 そして精神分析の実践は、患者にその最初の出来事をそれに伴っていた不安などの情動とともに想起させ、そうすることで過大で馬鹿げたものに見えていた症状の意味を理解させなければならないということになる。すると症状は解消されるのである。

3-2、「無意識」とは何か

 さて、ここで前項において行きがかりに触れた「無意識」の問題に立ち寄っておこう。それを私たちは先に症状形成過程に関して、そこで連想関係に基づいて表象間で簡単にエネルギーの移動が生じる場として扱っておいた。このような場所の存在とその運動法則を示すのが先に述べたように無意識三部作の眼目だった。この無意識について、まさにその発見の場所である症状形成との関連に着目し、そのフロイトにおける着想から出発して、より詳しく見ておきたい。

 その主要な発端はブロイアーの発見であり、『ヒステリー研究』の序論に当たる「ヒステリー諸現象の心的機制について」でその経緯を知ることが出来る。その発見とは、ブロイアーがヒステリー患者に催眠をかけて症状が発生した時を思い出させると、そこには不快で外傷的な記憶が隠されており、その記憶がその外傷性に対応する十分な情動を伴って想起されること、言い換えれば、情動に「言葉を与える」[Ⅰ:85=2:10]ことによって症状が解消したというものであって、いわゆるカタルシス法の発見である。症状はある記憶表象の代理だったのだ。

 さて、その記憶が催眠下でしか思い出せなかったということが決定的である。それは意識の分裂、普通に「想起 = 意識化」できるものとそうでないものへの心的なものの分裂を想定させる。ブロイアーはこの「そうでないもの」の方を類催眠状態と呼んだのだが、フロイトはこれを自我ないし意識の「防衛」あるいは「抑圧」により生まれた「無意識」として捉え直したわけだ。

 こうして治療は自我によって「抑圧」されることで「無意識」に留まり、そうであることによって症状を引き起こすエネルギーを保持し続けているものを―フロイトは催眠を放棄したので―「自由連想」とその解釈を積みかさねることで想起させ、そのエネルギーを解放することとなる。「自由連想」とは、意識による検閲を可能な限り除去するために、思いついたことをひたすら述べていくという分析手法である。

 さて、しかるに、その直後のフェーズにおいてフロイトはもう一歩議論を進展させ幼児期に注目する。それは「防衛-神経精神症再論」や「ヒステリーの病因論のために」に現れているが、後者がとりわけ注目に値する。

 そこでのフロイトの問題は、症状から出発して外傷経験を思い出させてみても、その経験が症状を引き起こす外傷的強度に欠けていたり、あるいは症状を他でもなくその症状として決定する性質を持っていなかったりすることがしばしばであり[Ⅰ:428-429 =3:222-223]、要するに症状を合理的に理解出来ないのであって、またその際には症状も改善しないということである。

 では外傷理論は間違いなのか。フロイトはそうではないという。まだ遡行が足りないのだ。外傷はネットワークをなしており、まさしく連想関係によって無意識のうちで相互につながっている。そのネットワークを更に辿っていけば、以上の条件を満たした外傷場面に行き当たるのである。

 その遡行はフロイト曰く必ず思春期の少数の性愛に関連する体験に行き着く[Ⅰ:435-436=3:230-231]。本稿でフロイトは自分が見た18例全てでそうだったといって性的病因論を一般的原則として打ち出している。だが、この思春期への性的経験への遡行でもまだ十分ではない。その体験の価値はまちまちで、症状を決定する性質や強度を十分持っていない場合も多いのだ。では、どうするのか。更に遡ればよいのであって、そうすれば幼年期に症状をそれとして決定し十分な外傷的強度を持った性に関係する経験が発見されるのである。

 ここで一つ着目しておきたいのは、フロイトが幼児期に言及する際にヒステリー患者の「心的過敏性」を持ち出していることである[Ⅰ:455=3:253]。ヒステリー患者はちょっと他者に軽んじられたという印象を受けるだけで致命的な打撃を受けることがある。これは明らかに不合理だが―というのも、大人は誰か一人に軽んじられたからといって現実には致命的な打撃など受けないから―フロイトはこれも実は合理的に理解できるという。

 さて、それではどうやって理解されるのか。もちろん、過去にその反応を正当なものとする抑圧された大きな屈辱体験があったのであり、更にフロイト曰く、一度も克服されたことのない幼児期の屈辱体験があったのである。

 決定的なことは、ヒステリー患者が受ける衝撃の過剰さ、軽んじられたことで致命的な打撃を被るということをなんとか理解しようとすれば、幼児期を持ち出す以外にないということである。というのも、「寄る辺ない(hilflos)」幼児期においてのみ、特定の他者に軽んじられることが本当に致命的でもありうるのだから。

 ここに後年の不安論における「神経症者は幼児期の不安条件を継続している」[ⅩⅤ:95=21:115]といったテーゼの先駆けを見ることが出来る。神経症者は現下の状況に対して、それと連想的につながりを持つ幼児期の外傷的な出来事への幼児的な反応を反復しているのである。だからその反応は過敏であり、不安は過剰なのである。

 ここからフロイトが幼児期に着目することの、観察による根拠づけではなく、ある種の理論的必然性を引き出しておこう。神経症者の不安の過剰、その心的過敏が幼児期起源性を推定させるのだが、これをより説得的にするために、なぜそもそも「抑圧」するのか、つまり、いわば見なかったことにして意識から追い出してしまうのかという問いを立ててみよう。

 すでに先に触れた『ヒステリー研究』の序論的部分で言われていることだが、外傷的な体験とはいえ、別に抑圧を必然化するものではなく、例えば屈辱的体験に対して思いっきり怒ったりすれば情動エネルギーは単純に発散されるし、またそんなに分かりやすく発散をしなくても、他の諸々の出来事との連想関係のうちに位置づけてしまえば、それらはもはや外傷的ではないのである[Ⅰ86-88=2:12-13]。

 つまり、誰かに馬鹿にされたとしても、別の人には評価されている、そもそも彼は私の一面しか知らない、また彼は厳しい人物として知られているなどといった他の諸事実との連関付けを行えれば、外傷性はいわば合理的に処理されうる。そして健康な人はこれを行っているのだ。ではなぜ神経症的な人だけが過剰な不安によって有無を言わさず「抑圧」してしまうのか。

 これを「不合理で馬鹿げた理解不能」な過敏性と言わないならば―そして今まで述べてきたように精神分析はそんなことを言わないことを決意しているわけだが―やはり子ども時代に説明を求めなければならないだろう。

 フロイトが後年に述べることだが、まだ自我の弱い子ども時代にのみ意識から問答無用で追い出す「抑圧(Verdrängung)」が生じるのであり、大人であれば合理的な判断によって否定する「断罪(Verurteilung)」[Ⅶ:375=10:172]ないし「判断棄却(Urteilsverwerfung)」[Ⅹ:248=14:195]が可能なのだ。

 かくして、神経症者がいまだに「抑圧」を行使するとすれば、それは今抑圧されたものが子ども時代に抑圧されたものと連想的な関連を持っており、その「抑圧」が一種の反復的自動機制として働くからであって、問題はこのように「抑圧」が簡単には撤回出来ないことなのだ。これが無意識に戦いを挑む精神分析が幼児期に焦点をあわせる理由である。

 しばしばフロイトは全てを幼児期に帰着させたなどと批判的に述べられることがあるようだが、幼児期への着目には以上のような理由、そこにおいてのみ「無意識」を作り出す「抑圧」という反応が必然的であるという理由が存在しているのである。

 ただ、言い添えておくなら、フロイトは幼児期に形成された無意識の内容が後年に空想を通じて書き換えられたり、また後年の外傷体験との関わりで内容を変容させ拡大していったりすることにも適切に注意を払っており、全てを幼児期に帰着させたというのはそもそも正しくないのだが。

 さて、話を戻そう。以上の事情はまたフロイトが幼児期より後の「(後発的)抑圧」には意識による追い出しと無意識による引き寄せがなければならないと強調する理由でもある。この「ヒステリーの病因論のために」の意義は、このフロイトの無意識の二段階モデルの起源となる観察が提示されていることである。

 この無意識の二段階モデルについても詳しく見ておこう。それは幼児期の「原抑圧」で無意識の核となる部分が形成され、それ以降、とりわけ思春期以降の「本来の意味での(eigentlich)抑圧」「後発的抑圧(Nachdrängung)」においては、意識の側からの追い出しだけではなく、無意識の側からの引き寄せが介在しているという理論である[Ⅹ:250-251=14:198]。

 大人における問答無用の「抑圧」には、先に述べた理路から考えて、それが子ども時代の「原抑圧」と関連しているという条件が必要なのである。しかるに、このようなことが可能であるとすると、そこから無意識に関して重要な帰結が引き出せる。

 まず考えるべきは、なぜそのような結びつきが可能なのかという点である。ここで必要とされる想定が、無意識においては連想関係を通じて簡単に要素同士が結びつき、その間をエネルギーが移動するという想定であり、原抑圧されたものは、このような無意識の性質によって自らの周りにネットワークを張り巡らせていくのである。

 だから後の出来事が原抑圧されたものに引き寄せられて無意識に引きずり込まれるということも可能なのであって、このネットワーク化された要素を指すためのフロイトのお気に入りの言葉が「ヒコバエ(Abkömmlinge)」[Ⅹ:251=14:198]である。

 以上の事態を指してフロイトは無意識について、それは「生き生きしている(lebend)」[Ⅹ:289=14:238]と述べている。木の根元や切り株から生えてくる若芽を意味する日本語版全集の「ヒコバエ」という訳語は、無意識が「生き生きして」おり、放っておくうちにいわば「鬱蒼と茂ってしまう(wuchern)」[Ⅹ:251=14:199]というイメージを喚起出来る点でぴったりの訳語である。

 だが、これだけでは話は終わらない。そうであるにしてもなぜそんなに昔の「原抑圧されたもの」が思春期以降にも活動し、さらにこれほど時間的距離が離れた諸要素を未だに引き寄せ続けるのだろうか。こんなことが可能であるとすればある想定が必要である。つまり、フロイトがいう無意識には「時間がない(zeitlos)」[Ⅹ:286=14:235]という想定が。

 フロイトが鼠男に無意識について解説した際の比喩を借りれば、ポンペイがそうであったように埋まってしまうことが保存の条件なのであり、無意識は「原抑圧」されることで時間的劣化から解き放たれる。

 無意識とはそうして私たちに残った幼児的な心なのであり、通常の意識の思考原理である「二次過程」に対比していえば、「一次過程」に従って動くのである[同上]。その原理は知覚の類似に基づいて表象を際限なく連想的に結びつけていくことであり、またそれに加えて言葉が物として取り扱われることである(だから、語の形の知覚的な類似が決定的なのだ)。

 かくして無意識においては私たちが普通記憶について考えるのとは違って、時間的な劣化も時間的な距離も時間的な順序も存在しないのであり、「原抑圧されたもの」を中心に様々な表象が際限なくネットワーク状に結びついていくのである。

 少々繰り返しになるが、この連関において「コンプレクス」という今や日常語となっている用語に説明を加えておこう。これは日常語としては「~がコンプレクスで」などと「劣等感の原因」といった意味で用いられたり、「マザコン」「ロリコン」などの例に見られる通り「~が大好き」「~に弱い」程度の意味で使用されたりしているが、これを私たちは「無意識」から私たちの思考や行動を規定し続ける「心的複合体」という本来の意味でのみ使用する。

 しかるに、なぜそれらは必然的に「複合体(Komplex)」であり、原語の語義が指し示す通り「複雑(komplex)」なのだろうか。ここには無意識の先に述べた性質が関わっている。つまり、それが「無時間的」であり、「生き生き」していて、連想関係を通じて様々な要素の連関を際限なく作り出していく、「ヒコバエ」を組織化していくということである。

 いったん抑圧されることで無意識化された思考は、私たちが記憶について普通考えているのとは違って、時間的順序や距離や劣化などしらず、消え去ることなく際限なく結びついていき、様々な仕方で私たちを規定するのであって、だから無意識的なものは必ず「心的複合体 = コンプレクス」を形成するのである。そして精神分析は、「自由連想」を通じて比較的表面に出てきやすい「ヒコバエ」を捕まえ、そこから無意識の中核へと遡行しようと試みるのである。

 フロイトのいう「コンプレクス」は全て無意識的な複合体であり、有名なエディプスや去勢のコンプレクスもそうである。初歩的なことだが、エディプスや去勢を「実感出来ない」などと否定することは、このことへの無理解を示している。

 無意識的なものが無意識に追いやられているのは意識が自らと相容れないものとして抑圧したからであり、「実感」なるものがさしあたり意識への問い尋ねに過ぎない以上、「実感出来ない」という否定の振る舞いは、少々フロイト的に喩えるなら、警察が極めて疑わしい窃盗の容疑者のところに尋ねていくのだが、容疑者が「何も持っていない、私は何も隠してなどいない」と否認するのを聞いて簡単にそれを認めてしまい、すごすごと帰ってくるようなものである。

 むしろ、警察は状況証拠を集めて容疑者を出来る限り問いつめてみるべきであっただろう。私たちがするべきことも同じであり、自分自身の諸々の、とりわけ自分自身理解しがたい行為や想起や性向や感じ方を拾い集め、それを理解するためにはある特定の心的複合体を想定しなければならないのではないかと考え、つまり、「構築」を行い、それを自分自身に突きつけてみるべきなのだ。

 とはいえ、後に論じるように「構築」で分析のすべてが尽くされるわけでは全くなく、それは第一段階に過ぎない。何はともあれ、私たちは精神分析を読むに際しては自分自身の意識を極限まで疑わしい容疑者として取り扱わなければならない。フロイトの理論はいわばその捜査マニュアルのようなものである。そこには犯人の典型的な手口と犯人が隠しているものの典型が、そして私たちが容疑者として一般的にいってどれほど疑わしいのかが記されている。

3-3、「神経症」からセクシュアリティへ

 さて、前二項の議論を簡単に確認しよう。3-1で確認されたのは、精神分析の扱う神経症の症状が「抑圧されたものの回帰」に存するということだった。3-2では、その「抑圧されたもの」を中核とする「無意識」の「幼児期-それ以後」という二段階性とそこから想定される基本性質を明らかにしておいた。

 では、ここからどうして精神分析にとって「性」の重要性が帰着するのだろうか。前項に現れる通り、それはフロイトにとってまずもって症例から明らかになった観察事実だったのだが、ここで重要なのは理論的基礎付けである。

 さて、「抑圧」が「外傷・危険・不安」によって、そして「幼児期」に生じる以上、上の問いに対する答えは、「性」が「幼児期」において特権的な「外傷・危険・不安」の場所であり、「抑圧」されやすいからでしかあり得ない。しかし、なぜか。

 「通俗的な理解」がしばしば述べるように、フロイトの時代は「性」をまさに「抑圧」する社会規範が強かったからでは「ない」。少なくともそれが全てなのではないし、それが本質なのでもない。それが幼児期に生じるということだけからしても、私たちは「社会規範」なるものの意義を過大評価するべきではないと判断出来るだろう。

 さて、フロイト自身、なぜか「性」だけがとりわけて抑圧されるという理論的な予想に反する事態に困惑し[ⅩⅦ:112=22:225-226]、それに説明を与えるために研究の進展に応じていくつか議論を提出しているが、その最終的な答えのみを取り出すなら、私たちはおそらく二つの議論を提出出来るだろう。

 第一は、一見すると驚くべき主張だが、ある意味で幼児期の経験が全て、あるいは少なくともその多くが「性的」であるということであり、第二は、フロイト自身、それを認めるか否かで「精神分析」への賛成と反対が決定されると考えた、かの悪名高い(?)「エディプス・コンプレクス」に帰着する。それは極めて外傷的な経験なのである。これら二つの答えを適切に理解することへ向けて次章以降の議論は進む。

 何はともあれ本章で把握しておくべきは、精神分析にとって「性」が重要なのは、それが「すべて」を支配することによって「すべて」を説明しうるものであるような、もっとも「強い」ものだからというよりは、それがまずもって抑圧を引き起こし神経症の病因となるような不安の多く外傷的な「弱い」場所だからだということである。

 セクシュアリティとそれを不可避に含む「(恋)愛」は人間にとっての急所なのである。かくして、精神分析が性に焦点をおくとしても、それは「パン・セクシュアリズム」という言葉が喚起するであろうイメージとは必ずしも一致しない。このことの具体的意味を次章以降で追跡していこう。

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目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ
第2章 フロイト性理論の基礎――「両性性」と「多形倒錯的素質」

References   [ + ]

1. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
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