第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(4)

4、男性性の諸困難―エディプス・コンプレクスと去勢不安から出発して

 フロイトは男性性の困難を上述の二つのコンプレクスから導出する。理想的な場合にはÖKは克服される、つまり、母の断念が遂行され、父の禁止と父との敵対は父への同一化に交代し、父のように立派になって母の代わりとなる女性対象を将来的に獲得するという欲望が確立されることになるが、他方でÖKが克服されない場合には、性愛関係や性的欲望一般が、ÖKにともなう「去勢不安」、つまり、広く言えば能動的積極的に行動したり、いい気になったりすると大きなしっぺ返しを食らうのではないかという不安によって、妨げられることになる。

 「制止・症状・不安」論文で強迫神経症の機制を述べる中でフロイトが書き付けた決め台詞を引用すれば、「まさに男性性の保持という関心(去勢不安)のために、男性性の一切の発揮が妨げられる」「矛盾」[ⅩⅣ:144=19:42]が帰結するわけである。「去勢」されないために能動的積極的に行為しない、いわば「勃てない」ようにするのである。これが現実に下半身において現れれば「インポテンツ」となる。

 より一般的にいえば、ÖKにおいて不可避の挫折・失敗・断念や失望・屈辱・危険が性愛関係一般に影を落とすことになるわけだ。もし、性愛的な欲望を抱えつつも、そこで能動性を十分に発揮できないとすれば、そしてその発揮できなさが合理的で意識的な計算や意図に還元できず、どこか過剰で不可解な「制止(Hemmung)」の様相を呈しているとすれば、フロイトはそれに対してこのような無意識的作用を指摘するわけである。本節では、フロイトがこの種の「制止」として考えていることの諸様相とその具体的メカニズムを説明したい。

4-1、男性のセクシュアリティにおける「制止」―「心的インポテンツ」の諸相

 フロイトは精神分析家の受ける相談として諸種の不安に次いで多いのは心的なインポテンツであると述べているが[Ⅷ:78=12:231]、この名称をフロイトは男性における性的な「制止」一般に拡張し、勃起不全のみならず、不感症なども含めている。

 具体的に列挙すれば、心的インポテンツとは、男性の場合、リビードが性行為の導入へ向かうのを妨げられることを帰結する「心的不興」、身体的準備に失敗する「勃起不全」や「射精不全」、そしてオルガスムの快感の不経験、つまり不感症や、目標倒錯的ないしフェティシズム的な条件が性行為に不可欠になることなどが挙げられる[ⅩⅣ:114=19:12]。

 フロイトはここでは直接の性行為に関わる点しか述べていないが、同じ枠内の出来事として、性愛的関係における、とりわけその構築や維持における不可解な「行動」や「制止」についても考えることが出来るだろう。

 フロイトにこの種の問題に対する言及がやや少ないとすれば、それはおそらくフロイトの時代は現代に比べて婚前の性愛関係や性交渉は抑制されていた代わりに―『機知』における強引なユダヤ人結婚仲介人に関するジョークへの言及の多さを思い出そう―誰もが結婚はする、あるいはさせられるのであって、関係の維持や構築における問題が比較的目立たなかったからだろう。

4-2、「心的インポテンツ」の一般理論―エディプス・コンプレクスの作用メカニズム

 さて、フロイトが心的インポテンツについて重点的に取り扱った小論が「性愛生活が誰からも貶められることについて」[Ⅷ:78-91=12:231-246]である。フロイトはここである特定の対象に対してのみ生じ、従ってその心因性が明確に分かる類のインポテンツから話を始めている。

 フロイトがここで取り扱っているのは「本当に好きな子では自慰できない」などという仕方で現代でもよく聞かれる問題であり、要するに「情愛(zärtlich)」と「官能(sinnlich)」との対立関係である。

 だが、なぜよりにもよって「情愛」、すなわち、高い心的価値評価の対象に対してこそ「官能」、つまり、あからさまな性的欲求を向けることが妨げられるということがありうるのだろうか。これは不思議ではないか。どうしたらこの現象を理解できるだろうか。

 それは「情愛」の対象でありながら、「官能」の対象としては禁じられているような対象との関係を考えなければ理解できないのではないだろうか。そして実際フロイトによれば、インポテンツの患者の精神分析的研究からは、近親相姦的な対象への、基本的にはÖK的な母対象への固着が要因として発見されるのである。

 もちろん、私たちの意識にとって母は純粋な「情愛」の対象だが、フロイトの幼児性欲に関わる議論、とりわけ養育を通じての性感帯の呼び覚ましに関する議論を追いかけてきた私たちにはこの種の素朴な立場を取り続けることは不可能である。明らかにÖKという原初的場面では母は「情愛-官能」の一体性としての「性愛」の対象であったのであり、それが思春期以後「情愛」の対象としてしか見えないとすれば、それは「官能」の抑圧を明確に証言している。

 これに反対する人々は少なくともキスといった性的な口唇欲動の存在や乳房の性的価値を理解可能にしてくれるフロイトとは他の仮説を提供する必要がある。また初歩的なことを言い添えておけば「無意識」のÖKと思春期以後に「意識」が持っていると思っている両親との関係との間には常に直線的で分かりやすい連関があるわけではない。反動形成によって反対の関係が作られたりもするのだ。だから、自分は母親が好きではないからÖKなど関係ないというのは全くの間違いである。むしろ重要なのは幼児が母親を好きにならないことが可能であるかどうかを問うことだろう。

 さて、話を戻して、先の見通しにのっとって議論を初めから再構築しよう。思春期の直前の段階において、子どもの意識においては母への情愛的な関係があるが、しかるに子どもの無意識には母への官能を含んだ関係、すなわち、ÖKが抑圧されている。

 この頃には子どもは知的な側面と身体的な側面の双方で性的に成熟してきており、強い「官能」的な流れが否応なく噴出してくる。それはまず何よりも昔の道、すなわち、ÖKの周辺へと流れ込んでいくのだが、ここでフロイトが重視するのが「空想」である。

 強い「官能」の流れを現実で発散できない子どもたちはそれを「空想」へと流し込むのだが、それはÖKの周辺を巡り、そのかぎりでは無意識であり、登場人物の置き換え―例えば王家や英雄の物語への―を通じてのみ意識化される。フロイトによれば誰でも一つは思春期の頃からお気に入りのこの種の空想を持っているはずなのだ。

 さて、こうして誰でも「官能」の目覚めにおいて無意識の内のÖKが再活性化されるのだが、これは父との対立への恐怖に由来するÖKの抑圧に端緒を持ち、潜伏期に構築され、子どもたちにもよく理解されている「近親相姦の禁止」のため望みがない。だから「官能」の流れはすぐに昔の道を去って外に対象を求めようとする。もし、その対象獲得がうまくいくなら、「官能」は外の対象に流れ、それに付き従って「情愛」も移っていって、「官能」と「情愛」の一致という理想的な性愛が可能になるとフロイトはいう。

 しかし、こううまく行かないこともある。その要因は第一に性的に成熟しているのに対象が獲得できないという「現実的不首尾(Versagung)」であり、第二に「官能」的なものがどれほど強く母に固着しているか、幼年期のうちにどれほどの「官能」が喚起されていたかという「固着」の強度である。さて、もし二要因が最大であるなら、全ての「官能」は無意識のうちで近親相姦的対象に固着し、それは禁止されている以上、「官能」一般が最高度の否定を被ることになるだろう。これをフロイトは絶対的インポテンツに通じる過程とみている。

 心的なインポテンツに関してはより弱い程度の二要因の作用が認められなければならない。結果として、全ての「官能」がÖKに拘束されることはないのだが、無意識においてÖKに向かう官能の流れが禁止に直面する経験のなかで、無意識のうちに「情愛」と「官能」の対立関係、「情愛」の対象には「官能」を向けるべきではない、向けてはならない、「官能」は「情愛」に比して何がしか「貶められる」べきものであるという評価が成立する。

 フロイトのレトリックを少々改変すればこういうことになるだろう。母や姉妹との性交を想像したら、一般に官能を「貶めている」人はとりわけて強い嫌悪感を抱くだろうし、一般にはそうでない人でも、そこではやはり嫌悪感を感じ、自らが実は「官能」的行為を「貶めている」ことに気付くだろう。そして、家族においてとりわけて嫌悪感が強いとすれば、そここそが官能を貶める価値評価の生まれた場所なのである。

 この過程の帰結はいかなるものだろうか。それは要因の強さに応じて様々であり得る。フロイトが少なくとも教養ある階層には普遍的だと認めているのは軽度の事態、情愛の対象、強い心的価値評価の対象に対しては、対象への尊敬の念のために十分に官能の快を楽しめないといった事態である。

 より重度になれば心的インポテンツとなって、情愛の対象には、あるいはとりわけてどこかしら近親相姦的対象を思い出させる対象とはなぜか性交出来ないということにもなる。また一般に要因が強ければ強いほど性的欲望に対する否定的な見方が主体内部で強まることになるのであって、それは純粋な「情愛」と相容れないものとされ「貶められる」ことになる。

 その帰結は「愛するところでは欲情せず、欲情するところでは愛することが出来ない」[Ⅷ:82=12:235]という分裂の生起であり、一つには、心的に高く評価される「情愛」の対象と心的価値が低い「貶められた」「官能」の対象との対象分割が生じることであり、ほとんど同じ事態だが、「官能」を十全に発揮するためにはどうしても相手を「貶め」なければならないということにもなる。そうでなければインポテンツになってしまうか、十分に快が得られない。

 まとめれば、以上の二要因によって生じるプロセスから「官能」を「情愛」に対して「貶める」価値評価が生じ、その結果として「官能」の対象として「貶められた」存在か、あるいは積極的に対象を「貶める」ことが必要となる。最後の点にある種の人々の性的空想ないし実践における暴力性の過剰の一つの理由を見出すことが出来るだろう。対象を暴力的に取り扱い「貶める」ことで初めて官能の行使が可能になるというわけである。

 以上のフロイトの理路を敷衍していくつかの帰結を引き出しておこう。まずここから男性の性愛に対する態度の違い、いくつかの主体的ポジションのようなものを構成できる。二要因の作用が強い方から考えるなら、最初は何がしか絶対的インポテンツ的な「官能」の完全な否定である。

 続いては、「官能」の完全な否定にはいたらないにせよ、「官能」が否定的に見られ、高い価値をもつ「情愛」と対立関係におかれている場合に生じることだが、「情愛」の対象を獲得しようとしても、そこでどうしても頭をもたげてくる「官能」の動きを承認できず、いわば「自分の下心が許せない」という事態になって性愛的関係の対象を獲得するのが妨げられるといったあり方である。いわば近親相姦的対象との関わり方が女性全般に適用されているのだ。

 続いて現れるのは、この情愛優位的立場と比較していえば、正しく「情愛」と「官能」の分裂を生きる立場であり、女性対象が、高く評価されるが官能の対象とはなりづらい「聖女」と心的には評価されないが官能の対象となる「娼婦」的存在へと二分化されている場合である。鼠男や狼男はおそらくこの類いであり、彼らはそれぞれ古典的な意味でのブルジョアと貴族だが、この種の対象の分割が階級差の大きい当時の社会状況によって容易にされていた。彼らの周りには彼らより階級が低く、容易に「価値が低い」と見なしうるような「下女(Dienstmädchen)」が多く居たのである。

 続いていわば官能優位的立場も想像することが出来、それは先の立場が持つような二分法が前提とされている中で、女性がひとしなみに「官能」に従属した存在と見えてしまい、真剣な「情愛」の対象が見出せないという事態である。そして最後に挙げられるべきはフロイトが述べている「情愛」と「官能」との一致の場合であり、これは幸福な恋愛や結婚を可能にしてくれるのだろう。これがフロイト曰く近親相姦の禁止によって「情愛」と「官能」の分裂から始まる思春期以後に成し遂げられなければならない仕事なのである。

 ÖKの作用の本質は、その固着が強さや思春期における対象獲得の不首尾の大きさによって、そこに「官能」が惹き付けられつづけることで、「情愛」と「官能」の対立を強化し、「官能」に対して「貶められる」という価値評価を固定してしまうことである。これは先に「心的インポテンツ」と一括された様々な性的な機能障害を生み出し、また性愛的関係の形成ないし維持に困難を課することになるのである。

4-3、「去勢不安」の諸帰結―目標倒錯、フェティシズム、そしてある種の同性愛傾向

 前項ではÖKの作用から「勃起不全」や「快の不在」としての心的インポテンツ、そして性愛的関係の維持や構築における諸困難を導出した。本項ではÖKの否定的作用の中核に存する「去勢不安」の諸帰結、先に指摘した、男性性・男性的態度、あるいは能動性の発揮が一般に不可能になるという帰結以外の「去勢不安」の諸帰結を敷衍しておく。

 第一は、先に指摘したことだが、去勢不安によって性器の使用に一定の妨げが生じるとリビードの「退行」が生じ、部分欲動の活動が性行為において過大な地位を占めたり、あるいは独占的な地位を占めたりする目標倒錯が生じる[Ⅴ:133=6:297]。

 第二は、フェティシズム的な倒錯である[ⅩⅣ:311-=19:275-]。フェティシズムとは靴や足や下着などを性的対象そのものにしたり、そのような条件がないと女性との性交が不可能だったりといった類の倒錯だが、これは先に論じたペニスを欠いた女性身体の外傷性、それがもたらす「去勢不安」への防衛作用であり、フェティッシュはフロイト的には、「母のペニスの代理」なのである。

 だから、フロイトによれば、フェティッシュは鼻や足など、ペニスの象徴的代理たりうるものであったり、足・靴・下着・毛皮(=陰毛)だったりといった「母にはペニスがない」こと、「母のヴァギナ」という「不気味で外傷的な」[ⅩⅣ:314=19:279]深淵を見る直前に見ていたものなのである。

 フェティシストはその外傷的な「深淵」から後ずさりし、その直前の印象をあったはずのペニスの代理と見なすのだ。このペニスの代理がなければ女性身体は彼らにとってあまりに外傷的なのである。以上の二つの問題は先の列挙にあったとおり、性交の遂行や十分な満足を阻害しうる「心的インポテンツ」の例となっている。

 第三は、フロイトも明確にフェティシズムと連関させている[ⅩⅣ:314=19:278]、「ある種の」同性愛傾向である。つまり、対象にペニスがないのは耐えられないといった理由での同性愛傾向であり、フロイトはこれを明確に女性的な見た目ないし性格だがペニスを持っている男性への同性愛であるとしている[Ⅶ:178=9:295]。

 このような事情から、フロイトはあまりに早く、ということはあまりに外傷的に性器の差異を知ってしまうことを同性愛の「一つの」要因と見なしている[ⅩⅢ:205=17:353]。それは「一つ」でしかないのであり、それがいかなる位置を持っているかを知るためにはフロイトの同性愛理論を包括的に展開してみなければならない。

4-4、本章の総括と「補論」への移行

 さて、本章で私たちは「両性的」な存在であるところの男児が内的に自らの性を引き受けて男性となる過程とそこに潜むつまずきに焦点を当ててきた。精神分析からすれば、女性ばかりが「女性に生まれるのではなく女性になる」のではなく、男性も「男性に生まれるのではなく男性になる」のであり、だからこそ男性は時には何らかの程度で女性になったりもするし、その逆もしかりなのである。

 簡単に整理しておこう。子どもはまず養育されるなかで自己保存欲動を満たしていくが、その快に「依托」する形で性欲動が自律していく。これははじめ部分欲動であり、対象は部分対象として象られているが、性欲動が性器のもとで統合を獲得することで養育者の人格を対象とした対象選択が可能になる。養育者が典型的には乳房を持つ母である限りで、子どもの最初の性愛の対象は母である。こうしてファルス期の到来とともに必然的にÖKが生じてくる。

 それでは父はどうか。父ももう一人の養育者として愛の対象であり、ÖKの介入前には肯定的な同一化の対象になっていると考えられる。しかるにÖKの介入は事態を複雑にする。父は母をめぐるライバルになり、敵となり、そうなることでその罰を恐れなければならない存在、母との関係を禁止してくる存在となるのである。

 そして、この時期には性器への関心の高まりによって「去勢コンプレクス」が作用しだす。つまり、性器への関心が男性器と女性器との差異の発見をもたらすのであり、男児は「去勢」の現実的可能性を目の当たりにする。これは一方で男女の性差を理解させ父との同一化を強化するが、他方で典型的には「去勢不安」が「父の禁止」と結びついて、その罰への不安から母への愛と父への敵意、つまりÖKが抑圧される。

 この禁止の上に両親対象の取り込みによって作り出される「超自我」にあって、だから父との関係は「父のようになりたい/父のようになりなさい」と「父のようになってはならない/父のようになれてはいない」の二重性、同一化と禁止の二重性である。

 こうして母を対象とし父と同一化する男性が構成されるのだが、そこでは先の父との二重の関係の配分が肝要であり、前者の極端が正常の範型たるハンス、後者の極端が強迫神経症者である鼠男である。通常の場合、つまり、最も典型的な場合は両者の「間」にあり、今は「父のようになってはならない」し「父のようになれていない」が、「父のようになるべく」努力しなければならないという命令が与えられる。

 ハンス症例を見る限り、この命令を受ける子どもにとって父との比較において重要なのは何と言ってもペニスの具体性であるように思われる。伏期に入って性的身体的な関心が抑制されることによってペニスの意義はその象徴的代理物にも移っていくのだろう。この象徴的代理物の意味でファルス、つまり「ふくらむもの」という言葉を使うとすれば、この命令において男児は、去勢不安を逃れて保持したファルスを「父のように」大きく「ふくらませよう」と競争的に努力するということになるだろう。

 さて、ハンスと鼠男の二人の「間」に「通常」の、つまり最も典型的な男性性の構成を位置づけることが出来たが、同時にそこに男性性の構成における困難をも見出すことが出来るだろう。一般的にいえば、ÖKが残っている限り、つまり、無意識において母への官能的固着が残っている限りで、父の禁止の作用が、つまり、罰の不安による官能の「制止」と父への敵意が残存するわけである。

 その帰結が「官能」と「情愛」の分裂であり、「官能」が「貶め」られて、もっとも広い意味での心的インポテンツが生じることである。だから正常性への漸近はÖKの克服と、それによる超自我の十分な脱人格化により保証される。

 また、この困難をとりわけて去勢不安の観点から見れば、それは性愛的関係における能動性の発揮が不可能になることであり、性器的欲動の制止にともなう目標倒錯の傾向、また去勢不安の帰結としてのフェティシズムやある種の同性愛傾向が生じてくる。強迫神経症においては、この種の傾向の極端が発見される。

 さて、こうして男性性の構成という問題を追うなかで私たちは同性愛の問題に出会うことになったが、これは同性愛という問題のほんの一端に過ぎない。ここでフロイトのこの問題についての把握の展開をより詳細に追いかけてみるのがよいだろう。

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第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(3)
補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(1)—ダ・ヴィンチ、去勢・フェティシズム・原父

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

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