第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(2)

2、「神経症は倒錯のネガである」―ドーラに対するポジとしての「女性同性愛の一事例」

 さて、フロイトは「女性同性愛」論文[ⅩⅡ:269-302=17:237-272]を、女性の同性愛はこれまであまり顧みられていなかったので、ここでその心的成因をほぼ完全に再構築し得た事例を提示できれば有益だろうという執筆の動機を述べることから始めている。

 だが、問うべきはなぜこの事例こそが選ばれ、この事例こそがフロイトに書かれるべきものとして自らを提示したかである。それを私たちは本事例が「神経症は倒錯のネガである」の論理に従ってドーラに対するポジとして捉えられうることに求める。

 ドーラは同性愛的欲望の抑圧、つまりその「否定(ネガ)」によってヒステリーに陥ったが、「女性同性愛」はむしろ同性愛的欲望を意識的なものとして表出させている。そこで女性の同性愛的欲望を捉えよう―もっと言えばドーラの分析のやり直しをしよう―というわけだ。以上の見方を正当化してくれる両事例の並行性に着目しつつ、本事例を紹介していこう。

2-1、分析開始にいたる経緯

 さて、分析の対象はドーラとまったく同様に18才の美しく賢い少女である。そして今回の少女も父の強い指示のもとにフロイトのもとに連れてこられた。

 その理由は同性愛であり、彼女は10才年上の婦人を情熱的に追いかけ回していたのだが、父の気に食わないことに、この婦人は性的に悪い評判があり、ある既婚の女性と同居しつつ何人もの男と緩い関係を保っていて、要するに高級娼婦に他ならないのだった。少女もこのことを知悉しているが、彼女曰く婦人は気位を保っており、今の状況は家族のせいに他ならず、少女は婦人を救いたく思っている。

 さて、父は娘の同性愛傾向を許しておらず、この婦人への愛着以前にも一度強く咎めたことがあった。この父の怒りに対する娘の反応は不思議なものであり、父に婦人との逢い引きがばれないようにあらゆる方策を尽くすとともに、しばしば父に出会う可能性があるような仕方で町を婦人と二人で堂々と闊歩していた。

 しかるに婦人も少女を一定以上に受け入れることはなく、手へのキスを許す程度のことで、むしろ同性の自分に執着するのを止めるようにと説得すらしていたという。

 この少女にとっての苦しい状況に改善をもたらし、また父がフロイトに助けを求めるきっかけとなった出来事がある。それは以上の少女の反応のある種必然的な帰結なのだが、少女が婦人と歩いているところを父が見つけて娘を睨みつけた後、少女が婦人にその男が自分の同性愛に強く反対している父だと告げると、婦人がもう二度とあわないという拒絶の言葉を述べたのである。

 重要なのはその直後に少女が列車の線路に飛び込むという―ドーラの本気でないそれとは違う―本気の自殺行為を行ったことである。幸い大事には至らなかったが、これで父は強く出られなくなり、また婦人も少女の本気を認めて態度を和らげたので、少女にとって状況は好転した。父は家庭教育では改善は不可能と思って娘をフロイトのもとに連れてきたのである。何はともあれ、ここにも自殺を一つのきっかけとするという点でドーラとの共通性があるわけだ。

2-2、同性愛の分析治療について

 さて、フロイトは分析を引き受けたものの父にとってポジティブな展望を述べることはなかった。というのも今回は分析に有利な前提条件が揃っていないからである。その前提条件とは患者自身が症状その他で内的に苦しんでおり、その苦しんでいる健康な自我と分析家が協力して主体の内的葛藤を克服するというものである。

 対して今回の少女は内的に苦しんでおらず、症状もない―つまり、ドーラと違ってヒステリーではない―わけで、根本的には病人ではなく、彼女が分析に参加する理由は外的なもの、例えば親への配慮くらいしかなかったし、実はフロイトによるとこの配慮の裏に今回の分析の最大の罠があった。

 さて、そうでなくても一般に同性愛の治療なるものは困難なのであり、有利な状況でも人間の根源的両性性に従って今は使えなくなっている異性愛的な流れを再活性化し、両性愛化するぐらいがせいぜいだとフロイトは言う。異性愛にせよ両性性の制限には違いなく、同性愛を異性愛にするのは異性愛を同性愛にするのと同じくらい難しい。だからフロイトはただ娘さんを詳しく調べる準備があるとしか述べなかったのである。

2-3、分析の成果

 フロイトはこの短い症例報告では素材が集まる過程や、解釈が正当なものとして立ち上がってくる過程については全く省き、その成果だけを確認されたものとして報告しているので、私たちはそれをそれとして受け止めることにしよう。それが比較的信用出来るとすれば、本事例において同性愛の心的生成史の「構築」までは何らの抵抗もなかったという事情による。

 先に「症例鼠男」のところで触れた分析の二段階図式をフロイトはここで解説しているのだが、それはこの事例で第一段階の「構築」と、「構築」に基づいて患者が自ら働き、想起や転移を通じて「構築」を確信し内的変容を遂げる第二段階との区別が明確であり、第一段階の終わりで分析が中断されてしまったからである。

 フロイトによるとこの種のことは強迫神経症の事例によく起きる。患者の意識はほとんど抵抗せず素材が順調に集まり、「構築」が出来上がるのだが、患者には何の変化も生じない。つまり、第一段階は順調に経過するが第二段階への移行が生じない。それは患者が分析過程の一切を「懐疑」のもとに置いているからであり、抵抗はあるところまでは自発的に引き下がるのだが、この「懐疑」の動機に分析がかかわると俄然強化されるのである。

 これをフロイトは―まだ二次大戦前なのだからナポレオン戦争などの経験に依拠してだろう―ロシア流の抵抗と呼んでいる。今回の少女でもこの「抵抗」の動機が決定的であり、そこで分析は中断したのである。

 それはさておき分析の成果を見ていこう。まず少女の同性愛化の契機として浮かび上がってきたのは16才の時に母が弟を出産したことである。それまで少女は小さな男児に深い情愛を示し、母になり子どもを持ちたいという願望を露わにしていたのだが、この出来事の後から、少女は30から35才の子持ちの婦人に愛着を示すようになり、父に咎められたのである。

 ここに働いている内的な論理はいかなるものか。少女は父への愛と母との敵対という女性的なÖKを通過していた。思春期初期は第二次性徴とともに性的成熟が生じ、無意識でÖKが再活性化される時期である。つまり、母になり子どもを持ちたいという意識的な願望は無意識において「父の子どもを持ちたい」という意義を持っていたのだ。

 だから、この時期に母が出産することは決定的な意義を持つ、それは無意識においてライバルである母の勝利なのであり、父の裏切りを意味する。ここで少女は父という対象喪失を同一化で乗り越え、不義である男を対象としては捨て、父になって母を対象として選択する―だからはじめの同性愛的対象は30から35才の子持ちの婦人なのである。かく男性的な立場をとった少女の同性愛は「愛される」ことより「愛する」ことを重視するという意味でフロイト的には男性的な愛の形であった。

 このあとに二つの変化がある。第一は父の叱責であり、そもそもが父の裏切りへの反応である同性愛化がこれによって強化される。それを父がいやがるなら、父の裏切りへの復讐になるというわけだ。だからこそ一方で少女は父に嘘をつき騙しつつ、他方で自分の同性愛が父に見つかるようにもするのである。
 
 第二は対象の性質の変化であり、対象は子持ちの婦人たちから、より若くかっこいい件の婦人へと変化する。これは少女が長く対象として選択していた兄と関わっており、件の婦人は兄の面影を思い出させるのである。つまり、最後の婦人は少女における同性愛と異性愛の総合を表現しており、こうして最終的に同性愛的対象選択が確固たるものとなった。

 さてフロイト的な見方にとって思春期初期は対象選択における試行錯誤の時期であり、多くの少年少女が同性愛的な行動をもする時期である。しかるにだからといってその時期に母が出産すれば皆同性愛化するわけではない。さらに幼児期の素因に目を向けなければならない。

 フロイトは二つのことを指摘している。これらは後にフロイトの女性性論の決定的契機となるものだが、第一は「母への固着」であり、第二は「ペニス羨望」と「男性性コンプレクス」である。

 第一の点に関して、フロイトによれば、少女は確かに女性的なÖKを通過していたが、根本的には母への固着が非常に強く、学校では厳しい女教師、つまり娘に厳しかった母の代理に愛着を寄せていた。弟の誕生以前から意識の表面には同性愛の流れがあったのであり、弟の誕生は無意識にあった異性愛をもさらに同性愛化しただけだったのかもしれない。

 第二の点に関しては、5才のころに兄と性器の比べ合いをして、それが強い印象を残していた。つまり、ペニスを持ちたいという「ペニス羨望」が形成されていたのであり、男性になりたいという「男性性コンプレクス」が強かった。活発な子で闘争心が強く兄に遅れを取りたくないと思っていて以前から男性的な態度が強力だったのである。

 母は息子たちを贔屓したので、この「ペニス羨望」に関しては、母からの冷遇を母への固着のなかで性器の比較に結びつけたという理解も可能だろう。こうして幼児期以来の素因が解明されることで少女の同性愛の心的生成史の構築はほぼ完全なものとされた。

2-4、ドーラとの並行関係と分析の結末―フロイトの過剰防衛?

 ドーラとの並行関係を見てみよう。ドーラも兄をもっており、ライバルと見なして遅れをとるまいとした。ドーラも活発でおてんばな男の子らしい少女だったのだが、今回の事例が男性性を継続したのとは異なり、7才から8才で男性性が―フロイトにとってはクリトリス性愛が―「抑圧」され、意識レベルでは女性性が優位になって兄に遅れをとるようになるとともに、結核の父との同一化がぜんそくの「症状」として表出されるようになる。つまり、ヒステリーである。

 さて、次に注目するべきは父との関係だろう。今回の事例では、ÖKが再活性化される時期に父の裏切りが生じることによって、男性対象の拒否と父への同一化が成立して無意識の異性愛も同性愛化され、二つの幼児期的素因とあいまって同性愛的体制が構成される。

 他方のドーラも父との深い情愛の時期にK夫人に父を取られてしまう。すると今回と同様、浮気者でさらに自分を見捨てた裏切り者である父の対象としての拒絶と同一化による同性愛化のメカニズムが生じることになるだろうが、問題は素因の支援がなく、父との同一化にしてもK夫人への同性愛的対象選択にしても、深く無意識化されてしまうことである。

 前節で私たちは口唇系の症状が父に同一化してのK夫人との性交空想を表現している可能性について指摘しておいた。ドーラにおいては男性的立場にせよ同性愛にせよ、「否定」され「抑圧」されることを通じて症状化されてしまっているのである。かく「神経症は倒錯のネガ」なのである。

 最後に分析の中断の問題に触れておこう。フロイトの理解によれば、ドーラの分析の中断は転移によるものであり、今の地点から見返すとするならば、父の裏切りによって生じた男性への拒否が、さらにそれにK氏の家庭教師への言い寄りという第二の裏切りという事態が重なりあった上で、フロイトに向けられた結果だった。汚らわしい―と私などでも思うのだが―男性たちへの復讐がフロイトの治療への努力と希望を台無しにするという形で遂行されたというわけである。

 さて、それでは今回の事例で少女のロシア流の抵抗を支えていたもの、構築を容易にしつつ少女の内的変容を妨げていた動機はなんだろうか。それは同性愛的対象選択の一大契機でもある裏切った父への憎しみと復讐欲以外ではあり得ないだろう。そしてこのことに気付いたとき、フロイトは分析を今度は自ら放棄するのである。

実際、彼女は男性に対する徹底的な拒否、父によって失望させられたときから彼女を支配していた拒否を私に転移していたのである。男性に対する憤慨は、通例、医者において簡単に満足させることが出来る。それは嵐のような感情の発露を必要としないのであり、ただ医者の努力をすべて無駄にし、病に固執するだけでいいのである。被分析者にこの物言わぬ症候を理解させ、治療を危険に晒すことなしに、そのような潜在的でしばしば過剰に大きな敵対心を意識化させることがいかに難しいかを私は経験から知っている。だから私は、少女の父に対する立場取りを認識するや否や、即座に分析を中断し、治療の試みに何がしかの価値を見出すなら女医のもとで続けなさいという助言を与えたのである。[ⅩⅡ:292=17:261-262]

 さて、以上の一節にドーラの「経験」がフロイトに残した傷跡を読み取るのは容易だろう。フロイトは「経験から知っている」のだ。かくしてフロイトはドーラ的な「否」に対していささか過剰防衛的とも見える仕方で先手を打つのであり、分析の中断という結果によって本症例とドーラ症例との並行関係を完全なものとするのである。

 以上から本症例報告が「神経症は倒錯のネガである」というフロイト的論理に従って、フロイトがドーラ症例の不十分を補おうとした試み、そのやり直し、その根底に見定められた同性愛的欲望の内的論理の追求、ヒステリーの根底への遡行であることは明確だろう。

 ここでドーラの「否」を説明するはずのヒステリーと同性愛と男性への拒否の連関についてのフロイト的構想の原型が構築される。後期フロイトの女性性論はその一般化であり、そのさらなる理論的洗練である。いまやこれを理論的首尾一貫性の相のもとで見ていくことにしたい。

3.女性性とは何か―なぜ女性性は二次的構築物なのか

 さて、以上の症例を踏まえて20年代中盤頃からフロイトの女性性理論の定式化が進行する。これはフロイトの同時期の大きな理論的著述、つまり、前章の叙述の中核となった『自我とエス』や、強迫神経症の最終的な理論化が与えられた「制止・症状・不安」論文が何といっても男性性という経験の理論化に偏っていることを補う意味を持っているだろう。

 私たちとしては最後に現れる総括的な叙述である「女性の性について」や『続・精神分析入門講義』の「女性性」を参照し、私たちが今まで積み重ねてきた歩みに立脚しつつ、それを可能な限り説得的に展開することを目指したい。フロイトの精神分析の立場は人間の生における意味的な媒介を最大限大きく見積もる立場であり、「女が女になる」プロセスも可能な限り幼児自身の経験と解釈から導出しようとする。

3-1、前エディプス期への遡行から「ペニス羨望」へ

 「前エディプス期」の問題とは先に「女性同性愛」で現れた「母への固着」の問題である。フロイトの「両性性」の立場に立ち戻って考えると、そもそも人間のリビードが異性に「自然」に惹かれるわけではないのであって、女児の性発達の最初から父を対象とし母をライバルとするエディプス・コンプレクスが成立していると見なすのは明確に誤っている。女児もやはり「依托」の論理ゆえにはじめの恋着の対象は母なのである。

 だが、分析によれば女児もファルス期には父との関係を焦点とし、「女性同性愛」でも現れた父と子どもをもうけることを最大の願望内容とするÖKが「二次的構築物」[ⅩⅣ:22=19:207]としてではあれ生じている。ではなぜ母から父への対象の交換が生じるのか[ⅩⅣ:22=19:206]。これが女児におけるエディプス・コンプレクスの成立への問い、つまり前エディプス期の問題である。

 さて、ここに極めて問題的で論争的な概念である「ペニス羨望」が登場する。はじめに私たちの立場を明確化しておくと、私たちが以上で正当化を試みたフロイト的な諸前提から始めると―この「去勢不安」と並んでフロイトの中でもっとも馬鹿げたものに見える―「ペニス羨望」は、まさしく無意識にあるはずのものとして―どういうわけか―「想定されざるを得ない」ように思われるということである。それを想定しないと様々なことが理解不可能になるのだ。

 フロイトがあれだけ「ペニス羨望」について語りつつ、その具体的素材をほとんど提示していないのは残念だが、私たちは一応フロイトが分析の結果として提示するものは信用することとし、それを「想定されざるを得ない」という意味での理論的必然性の観点から補足するように試みたい。

 私たちが再三述べているように、精神分析にとっては意識の実感などよりもこの種の理論的必然性の方が無限に重要である。ひょっとすると「ペニス羨望」も決して想起されないという意味で「存在しない」が、かといって「必然性がより小さいわけではない」類いの存在なのかもしれない。精神分析にとって中核的なもの―もっとも抑圧されたもの―のすべてがそうであるように。

 以下の理路がどこかで混乱したり誤りに陥ったりしていないかどうか、読者にも一緒に検証していただきたいと思う。

 フロイトは女性性の最初期の構成に関わる議論も分析経験に基づいたものとして提示しているのだが、それは典型的とは思われるものの少数の例に依拠したものであり[ⅩⅣ:30=19:215]、さらにフロイトは自分が一例たりとも最後まで見通せなかったと言っている[ⅩⅣ:519=20:217]。

 前節でフロイトの及び腰を見たが、それをまったく引き継ぐ形でフロイトは女性の前エディプス期は男性たる自分には見通しがたく、むしろ女性分析家が母の代理になる形の方が有利に探求を進められると言うのである。母と女児がおりなす前エディプス期の原初的関係性に男は入り込みづらいのだ。そういうわけでフロイトも自らの議論を完成したものと見なしておらず、他の分析家たちに検証されるべきものとして提示している[ⅩⅣ:20=19:204]。

3-2、ペニス羨望とその諸帰結

 さて、具体的な議論を見ていこう。問題はなぜ女児は対象を母から父へと交換するのか、である。フロイトは女児を母から離反させるような「告発と苦情の長いリスト」[ⅩⅤ:130-133 =21:158-162]を列挙していく。ここに現れるような敵意と憎しみは一生続くこともあるが、一部克服される場合もあり、また過剰代償的に愛が強化されることもある。もちろん、これらの非難は事後的な解釈で加工されつつ分析で現れている。

 第一は母が十分な母乳を与えなかったという愛の欠如への非難であり、これは不十分で病ませる栄養として毒殺不安などとしても表出されるという。第二は下の子の誕生による愛の不足の非難であり、これは第一とも結びつく。第三は母が性器興奮を目覚めさせることで自慰を呼び覚ましつつ、そのあとで自らそれを禁止したという非難である。

 これらの避けようもない非難を見てみると、この最初期の愛は満たし得ない際限なき要求を持つものとして必ず失望を生み出し、その結果として愛はアンビヴァレントなものとなって没落せざるを得ないのだと考えたくもなる。

 だが、決定的なことは、男児もこれらを経験するにもかかわらず母への関係が緩むことはないということである。ここで理論的に考えてみよう。女児は母から離反し、男児は母から離反しない。女児と男児という性別の差にそって一貫した形でこのような異なる効果をもたらす経験はいかなるものに即して生じうるだろうか。

 それは両者の差異が明確に現れる「性器」に即してでしかあり得ないのではないか。そして女児だけが母から離反する以上、その「性器」に即した経験は女児において母に関連するネガティブな意味作用を産出するのでなくてはならない。こうして現れるのが女児にとっての性器の差の知の意味作用を名指そうとする概念、つまり、「ペニス羨望」である。

 さて、フロイトはこの種の理論的必然性のみならず、「ペニス羨望」が臨床的にも発見されると主張している。その基本的内容は以下のようなものである[ⅩⅤ:133-139=21:162-170]。

 女児は男児のペニスを見ると、どういうわけか―しかし、先に理論的に要請されたように―直ちに「自分は損をした」と考え、まずはそれを去勢の罰と捉えるが、いずれそれを女性に普遍的な事態であると認め、母の価値を切り下げると同時にペニスを与えてくれなかった母を憎むのである。この結果、女児だけが母からの離反へ導かれる。しかるに、このペニス羨望にはいくつかの可能な帰結が存在するという。

 その検討の前に確認しておくと、フロイトは両性性の前提に結果として一致する形で、この「ペニス羨望」の介入までは母という対象選択のみならず、欲動の活動にも有意な性別差はなく、女児も男児も等しく能動的な性活動と受動的な性活動を発達させているという。つまり、ファルス期でいえば、養育を通じて性器感覚を呼び覚まされるといった受動的なファルス的活動のみならず、自らそれを触る自慰という能動的なファルス的活動を両者とも発達させているのだ。

 そして自慰はそれを呼び覚ましたエディプス的対象の表象と結びついている。このように能動的な性活動の場所となり、母を対象とするという点において、この時期にはペニスとクリトリスの違いは幼児自身の意味世界にとっては何らの差異をも生み出さない。だからそれらはファルスと一括されるわけである。「小さな女の子は小さな男なのである」[ⅩⅤ:126=21:153]。

 これは一種の男性中心主義なのかもしれないが、さしあたりフロイトの観点からは、事実の問題として男性と女性ははじめ内的に差異がなく、後に女性だけが対象と性器領域の変化、すなわち、クリトリスの能動性から膣の受動性への変化を経験しなければならず、男性はそのままである以上、はじめのフェーズを男性的というのは理にかなっていることになる。

 さて、ペニス羨望の生成はこのような基本的な一致という事態を一変させる。それによって女児にとってクリトリスを用いたファルス的な自慰は劣等感を思い出させるものに変わってしまい、結果としてファルス的な能動性が弱まることになる。

 これがフロイト曰く女性が男性より自慰から遠いこと[ⅩⅣ:26-27=19:210-211]の根本的な理由なのだが、ペニス羨望の第一の可能な帰結は、この動向が極限までもたらされて性生活一般を放棄し強く抑圧してしまうことである。ここでは性生活の領域は劣等感を生み出すものとなってしまうのである。これは性欲動の過剰な抑圧によって神経症、つまりヒステリーを生み出すとフロイトは言う[ⅩⅤ:135= 21:164]―私たちは後にこれを訂正する。

 続いて第二の帰結は、あくまでペニスとファルス的能動性にこだわり、それをもう一度自分で持ちたいと思うことであり、「男性性コンプレクス」的な性格変容の道である。

 この契機が強ければ、女児は男児になりたいと思い、男児にはりあい、ドーラや「女性同性愛」の少女のようなおてんば娘になり、あるいはさらに同性愛者になったりもするだろう。もちろん、潜伏期以降にはペニスへの関心はその象徴的代理物へと「昇華」されうるのであり、フロイトに言わせると、この道の帰結として知的な職業においてや女性の権利擁護者としての活躍が見込まれるのである。

 最後に第三の帰結がいわゆる「正常」な女性性の発達の道である。これは第一の帰結を生み出す動向が極端でない場合に生じる。つまり、ファルス的能動性が取り除かれて残った受動的な立場が前面に出てくるのだが、これが父との結びつきを準備しつつ、最後に、ペニスを自ら持つのではなく、それを持っている人にもらうという転換が果たされることで、女児は対象を母から父へと交換するのである。こうして父との間にペニスをもらうという受動的な関係、エディプス・コンプレクスが成立する。

 私たちが第4章で触れた通り、ペニスと子どもは象徴公式で結ばれているので、これは更に「子ども」への欲望へと転化する。女児は失われたペニスを求めて男性を対象として選択するのであり、それが子どもへの欲望に転化されて、「父との子どもが欲しい」というエディプス的空想の頂点にして、いわゆる「正常」な女性性への道でもあるものに至るのである。ペニス羨望は性器の差の知の意味作用として普遍的だが、その三つの帰結はそれぞれ様々な度合いで混交しつつ諸個人に作用すると考えるべきだろう。

 さて、フロイトの女性性をめぐるこの種の議論には多くの批判が想定されようし、現に批判がなされてきた。それらに私たちなりに応答する試みは少々後回しにして、ここで、以上のプロセスの帰結としてフロイトが述べていることと先に私たちが「訂正する」と述べておいたことを取り扱っておこう。まず前者を見ておこう。

3-3、女性化のプロセスの諸帰結

 さて、ここはフロイトが述べていることを簡潔に整理すればよいだろう。「ペニス羨望」は女児にクリトリス自慰を放棄させる、つまり、ファルス的能動性を取り除くのである。残った受動性が女児とペニスを持つ父との関係形成に寄与するが、ここでさらに「ペニス = 子ども」の方程式に従う形で、父との間に子どもをもうけるというエディプス空想が形成される。これが女性の異性愛的欲望である。

 この後、女児も男児と同様にÖKの抑圧と潜伏期を経験するが、第二次性徴期にはそれが破られ性発達が再開される。ここで新しいのは膣が発見されることであり、これが、性が生殖機能に従属するはずであるとすれば、女性の最終的な性器領域とならなければならない[ⅩⅤ:126=21:153][Ⅴ:121-123=6:282-284]。

 先のファルス的能動性の取り除きを継続する形で、クリトリス性愛の相対的な抑制と「挿入される」という意味で受動的な体制と欲望が確立される必要があるのである。実際、これが簡単に「自然と」確立されるなどと考えてはならない。それははじめ男性異性愛者にとって挿入されることの表象が困難なのと同程度には困難なはずである。女性は思春期に男性と比べると余分な変化と抑圧、クリトリスの男性的能動性の抑圧とその膣の女性的受動性への移し替えを必要としているのだ。この困難なプロセスの一つの帰結は次項で扱う。

 もう一つはエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスの順序が男児と違うという点である[ⅩⅣ:28-30=19:212-215][ⅩⅤ:138-139=21:168-169]。男児の場合の経過は、ÖKが去勢コンプレクスによって抑圧され、超自我形成と潜伏期への突入が生じるというものだが、女児の場合には、去勢コンプレクスがあって初めてÖKが構成される。

 するとÖKが即座に抑圧される理由もないわけで、その没落はゆっくりしたものとなり、超自我も愛されなくなるぞといった脅しや教育を通じて比較的緩やかに形成されることになる。こうして女性の場合は超自我が平均的に言えば男性ほど強く形成されないのである。

 フロイトに言わせると、これが「社会的存在」としての女性の本質を形成しており、女性は男性に比べると平均的にいって直接の情動から距離をとる度合い、そうして一般的なものへの志向、例えば「正義感覚(Rechtsgefühl)」などを養う度合いが低い。逆側から見ると、それは内的規範に縛られて自分自身の立場から距離を取ることを強いられるといった無理がない自由な生き方が可能ということでもある。

3-4、ヒステリーとは何か―男性性と女性性の交錯として

 前々項ではフロイトが女性の神経症の道、つまりヒステリーの本質をペニス羨望の介入によるファルス的能動性の取り除きが行き過ぎ、性的領域全体が過剰な抑圧に晒される帰結として定式化しているのを見た。こうしてあまりに強く性が抑圧され、そのエネルギーが症状として回帰してくるというわけだ。しかし、これはフロイトが過去の自身の定式に捕われたままである結果であり、本章の展開が指し示すフロイトの本来の洞察を適切に表現出来ていない。このことを示すことを試みよう。

 さて、過去の定式とは『性理論三編』での議論のことである[Ⅴ:121-123=6:282-284]。この1905年の著作ではペニス羨望と前エディプス期の母からエディプス期の父への対象交換という議論はまだほとんど何の理論的地位も持っていないが、女性性に関してクリトリスから膣への中心的な性器領域の交替は重要なものとして論じられている。

 男児にとってと同様に、女児にとっても膣が発見されるのは多く思春期以後であり、それまでの性生活はクリトリスを用いた―後の言葉でいえば―ファルス的な能動性としての自慰から成り立つ。だが、思春期以降に性が生殖に従属するべきであるならば、性器領域のなかで能動的ファルス的なクリトリスから受動的な膣への中心の移動が生じなければならない。

 この交換には一定の時間がかかり、多くの女性ははじめ膣において不感症であるという。ここに男性に比べて余分な抑圧、性の能動的成分の抑圧が加わるのであり、その余分な性的抑圧が女性性とヒステリーの親近性を基礎付けているのだというわけである。

 フロイトの後期女性性論でのヒステリーの定式化がこの『性理論三編』の考えを早期化しつつ反復したものであることは明白だろう。しかし、これのどこが不十分なのだろうか。

 ドーラ症例に対するフロイトの反省にフロイトの女性性論の起源を見定め、そこからの連続的な発展として女性性論の叙述を構成してきた私たちにはすでに明らかだろうが、一言でいえば、ヒステリーとは能動的な性欲動の抑圧により性生活全域からの撤退が生じることではなく、むしろ、男性的で同性愛的な欲望が女性的で異性愛的な欲望に「書き換え」[ⅩⅣ:523=20:222]られることで前者が抑圧されることの帰結なのである。

 だから、ヒステリーはペニス羨望の第一の動向の極端な帰結として捉えられるより―もちろん、その種のヒステリーの存在を否定するわけではない―も、むしろ、第二の帰結たる「男性性コンプレクス」と第三の帰結たる「いわゆる「正常」な女性性」のせめぎ合いとして捉えなければならないのである。

 つまり、ヒステリーの典型的メカニズムは以下のようになる。はじめにあるのは母へのファルス的な関係性である。これがペニス羨望の介入で断ち切られる。その後一方で再びペニスを自ら所持し母との原初の能動的で同性愛的な性関係を保持したいという志向が生じるとともに、他方ではペニスの自己所持は諦め、それを父にもらうという受動的で異性愛的な志向も生じる。前者が「男性性コンプレクス」の道であり、後者がいわゆる「正常」な女性性の道である。

 ヒステリーの素因は、前者が後者へと、つまり「ペニスを持つ」が「ペニスをもらう」へと十分に移転されず、また前者が「昇華」されることもなく、後者の優位のもとに抑圧されてしまうときに生じる。ヒステリー者は能動的に女性を愛する原初の関係性を取り戻したいという志向と異性愛的関係の中で否応なく女性として受動的に対象化されてしまうこととの間で引き裂かれる。

 フロイトのいうヒステリーは、私たちが日常的に聞くヒステリーという語の用語法とは似ても似つかないが、そこにも少なくとも一つは共通点があると言えるかもしれない。ヒステリーの本質には、通俗的な意味でのヒステリーの語が指し示すような、自らを受動化する異性愛的関係への女性の拒否、それに対する女性の「否」が属している。

 これこそフロイトがドーラから聞きとった「否」であり、それは女性たちが原初に保持していた同性愛的な関係性への志向が抑圧された後で回帰してきた結果なのである。その抑圧が中核になりヒステリーが形成されるのだ。

 この意味で前エディプス期にこそヒステリーの素因となる固着が存在するのである。これは「エディプス・コンプレクスが神経症の中核的コンプレクスである」というテーゼに反する結論だが、フロイトはÖKを幼児期の両親との関係一般と定義し直すことで、このテーゼを維持することを選択している[ⅩⅣ:518-519=20:216-217]。

 ここで注意するべきはヒステリーの素因を避ける方法が三つあることである。一つは「男性性コンプレクス」的な欲望をいわゆる「正常」な女性性の道へと流し込むこと、もう一つは「男性性コンプレクス」を「抑圧」するのではなく「昇華」すること、そして最後の一つは「男性性コンプレクス」を意識的に生きることである。

 二番目の方法について言えば、フロイトにとって、ある欲動を「抑圧」することは病因を生み出すが、それを「昇華」することで別の形で発散することは病因を取り除いてくれることを想起しよう[Ⅹ:162=13:143]。その意味で「抑圧」と「昇華」は反対概念であり、フロイトが挙げている例でいえば、知的な職業や女性の権利擁護活動、あるいは今風の例でいえば会社での出世競争などの社会的活動へと男性と張り合うような「男性性コンプレクス」の「昇華」が成功するなら何の問題もないし、社会的に有益ですらあるわけだ。

 三番目の方法は「女性同性愛の一事例」に現れているもので、彼女は男性的に女性を愛するのだし、またその種の欲望を昇華してもいて女性の権利の擁護者でもあったのである。

 だが他方で反対向きの注意も必要だろう。女性にとって母とのファルス的な―もっと厳密に考えると、それは「ペニス羨望」の介入で事後的にファルス的になると言うべきかもしれない―同性愛的欲望が原初であり、それへの追憶はやはり何らかの程度で残存するだろう。またそのことに従ってペニス羨望へのはじめの反応はペニスを他の人にもらうことではなく、ペニスを再び自ら所持して先の原初的関係を再興することだろう。

 そうだとすれば、どんな女性も何らかの程度でヒステリーの素因を免れない。これは父の禁止がどんな男性にも響いており、何がしかの程度で男性が強迫神経症の素因を逃れられないことと同様である。かく病は「正常」な構成の裂け目を体現するのである。

3-4、フロイト女性性論の批判への応答

 さて、フロイトの女性性論は多くの批判に晒されてきた。ここではそのうち「ペニス羨望」に関わるものと「男性性/女性性」を「能動性/受動性」と重ねあわせることに関わるものに対して応答しておきたい。

 前者に関して私たちはフロイトの性理論の全体連関を考えるとその想定は―どういうわけか―不可避であると考えており、後者に関してはフロイトのそれなりに繊細な規定を考慮すればかなりの程度擁護出来ると考えている。その観点から順に論じていこう。

3-4-1、「ペニス羨望」の諸問題

 まず私たちの考える「ペニス羨望」の不可避性なるものがどこから出てくるのかを明確にしよう。必要な前提は、両性性、依托、異性愛の事実性だろう。私たちやフロイトの考えでは異性愛は事実的に存立している。だが、それは「自然」ではなく「両性性」から出発して一定のプロセスを通じて作り上げられる構築物である。原初の対象選択は「依托」メカニズムにより説明される。

 すると、男児も女児も最初の恋着の対象は―授乳する者として―養育者の典型である「母」になる。しかるに女児は異性愛が成立しているとすれば「父」に対象を代えなければならない。なぜ女児だけが男児と違って母から離反するのか。それは母に何かネガティブな感情を抱くからだが、男児と女児に対して性別の区分に従って経験の差異を一貫して生み出すものといえば、フロイトが「解剖学的性差」と呼んだもの、つまり、性器の差異しかない。

 だから、女児は自らの性器に即して「損をした」と考えているはずなのである。この「去勢」という事態の女性に対する一般性が認められるとともに、女児は母の価値を切り下げ、ペニスを与えてくれなかった母のもとを去る。そしてペニスをもらおうとして「父」のもとへ赴く。ここにもまたペニス羨望の必然性がある。

 実際、ペニスが欲しいのでなければ母を離れたとして父に赴くことが必要にはならないのである。女性の異性愛的欲望を原初的にはペニスへと還元するこの議論は何がしか馬鹿げて見えるかもしれないが、そう見えるのは、その人が何らかの「自然主義」を前提としているからだろう。

 精神分析の立場からすれば、対象ははじめ性別によって区分されておらず、ある時点から性別によって規定される。なぜ対象が性別に従って区分されるのか。それを説明しうるのは性差だけであり、そこでもっとも目立つのは性器の差異なのである。「女性」が「男性」を性対象としていつかの時点で選ぶとすれば、つまり、それが「自然」でないとすれば、その理由はまずもって性器に求められなければならない。

 さて、ペニス羨望の批判を見ておこう。重大な批判は二つに分けられるだろう。第一は女児がペニスを羨望する理由が不明確であり、したがってペニス羨望の存在は正当化されず、結局のところ存在しないというものである。第二は、ペニス羨望は存在するが、それは解剖学的性差への蓋然的な反応ではなく、むしろ不平等に構造化された男女の社会的差異がペニスへと帰着された結果なのであるというものである。

 第一の批判に対してまず言われるべきことは、理由はどうあれ、私たちが示したように想定する必然性があるということである。つまり、理由が示されていないという批判は弱く、もしペニス羨望が存在しないと言うなら、先の必然性の論証が具体的に批判されなければならない。例えば異性愛の事実性を否定したり、自然主義への回帰を組織したりすればいいのである。異性愛的欲望が存在しないか、それが理解される必要のない自然であるならば、ペニス羨望など想定する必要はない。

 しかるに、これは私たちがとる道ではないので、私たちとしては羨望の理由として考えられうるものを示しておこう。第一は、女児がクリトリス自慰をしているとすると、男児がもつペニスは、より触りやすく、従ってより大きな快を産出するものと見えるというものである。第二は、子どもはハンスがそうだったように一般に大きくなりたいと思っている以上、大きいものをうらやましがる可能性があるということである。

 だが、第三に、ここにもある関係性の媒介を考えることができる。ハンスが「おちんちん」の小ささを気にしたのは母をめぐるライバルである父との比較においてだった。とすれば、女児が母に愛着しているときに、より愛されているように見える男兄弟や父との比較によって「ペニス羨望」を抱く可能性があるだろう。男兄弟に関しては「女性同性愛の一事例」でフロイト自身この論理を指摘していた。

 この解釈はフロイトの初発の問題意識、つまり、同性愛への志向と男性への憎しみが相関しているという問題意識とよく調和すると言えるかもしれない。女児が「ペニス羨望」を引き起こす原初的な場面に到達するとき、女児は母に固着するものとして父とライバル関係にあり、その意味で父と同一化しているのではないだろうか。

 この同一化のゆえにこそ女児は自分も父と同様にペニスを持っていたはずだと考え、その不在を、父が自分を「去勢」したことに帰着させ、父はそうすることで自らは保持しているペニスで母を私から奪ったのだと考えるのかもしれない。つまり、女児は母が父を選んでいる事実を、ハンス流にペニスの「大きさ」に見定めるのではなく、その「有無」に見定めるわけだ。

 女児にとって「ペニス羨望」の原初的場面の初期―つまり、母のペニスの不在に気付くまで―においては母ではなく、母をめぐるライバルである父こそが憎むべき存在であり、仕返しに「去勢」されるべき存在なのではないだろうか。「処女性のタブー」論文[ⅩⅡ:176=16:71-91]はこの方向を指し示している。

 未開社会では夫に妻の処女を奪うという重荷を免除するための制度が存在している。つまり、「処女性のタブー」が成立しているのだが、これをフロイトは妻が夫を「去勢」し、ペニスを自分のものとしたがっているという危険に帰着させるのである。この欲望をフロイトは新婚の女性の夢解釈で見出すことが出来たと主張している[ⅩⅡ:159-180=16:86-87]。以上の三つがさしあたり私たちの考えることができる羨望の理由である。

 続いて二番目のペニス羨望の二次性、それは男女の社会的不平等をペニスに帰結させた結果だという解釈に関して言えば、これも議論の全体連関を適切に考慮していないといえるだろう。この議論が正しいとすると男女間の社会的不平等が消滅すればペニス羨望もなくなるのであり、ペニスへの欲望が女性の異性愛的欲望を支えている以上、女性の異性愛的欲望もなくなるということになるし、少なくとも社会的境遇に不満がない女性にはすでにそれが存在しないことになろう。

 もちろん、自然主義への回帰を組織するなら話は別である。二次性の主張者はこのどちらかの帰結を引き受けるつもりがあるのだろうか。またフロイト的に考えたときにペニス羨望がエディプス期の入り口で作用しているのでなければならないことも二次性の契機の重要性を批判する根拠となる。

 幼児の関心は身体を通じて快を得ることであり、快を産出するものとしての身体が決定的な関心の対象である。したがって、彼らの関心の中核には性器が存在している。それゆえ彼らや彼女らが「社会的差異」なるものに、特権的に快を産出する身体部位としての「性器の差異」よりも敏感に反応すると想定することは説得的ではないだろう。

 こういうわけで、私としては「ペニス羨望」の想定の必然性は否定出来ないように思われるのである。

 さて、おそらく「ペニス羨望」への批判は、それが女性の劣等性を含意しているように思われることによって動機づけられているのだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。最後にこの問題を取り扱っておこう。当たり前のことだが、フロイトは女性が生まれつき、例えば知力において劣っているなどとは言っていないどころか、それをきっぱり否定してさえいる[ⅩⅤ: 125=21:152]。

 「ペニス羨望」が含意するのは、幼児期に女児がファルス的能動性の観点で男児に劣っていると自ら考えてしまうということである。このことは男性性コンプレクスかファルス的能動性の放棄に繋がる。ここで前者に関して注意するべきは先に見たようにフロイトが生まれつきの能力差なるものを云々していない以上、男性性コンプレクスが昇華された追求において女性が男性より成果を挙げることはいくらでもありうるし、別にフロイトはそれがペニス羨望の帰結だから意味がないなどとも言っていないということである。

 そして後者に関して注意するべきは、確かに女性はファルス的能動性において自己の劣等を意識するにせよ、それを放棄し受動性を引き受けていく先には膣の発見があるのであり、思春期には、「男性的」と「去勢されている」との間の対は「男性的」と「女性的」との対へと交替する[ⅩⅢ:297-298= 18:237-238]。ここにおいて男性器より劣ったものとしての女性器ではなく、それとは別物で別の役割をもつ女性器が発見されるわけで、ここには劣等性なるものを語るいかなる根拠も存在しないのである。

 だが、これに対してそれは女性を「受動性」へと押し込めているではないかという反問があり得るだろう。かくして問いは「能動性」と「男性性」、「受動性」と「女性性」とを結びつけるフロイト的構想へと移行する。

3-4-2、「能動性」と「受動性」の諸問題

 さて、厳密に述べるならフロイトは最後の最後で「能動性 = 男性性」「受動性 = 女性性」という構想を放棄し、「女性性」を「受動的目標を好む」ことだと特徴付け、それは「受動性」ではないと訂正している[ⅩⅤ: 123=21:149-150]。

 というのも、受動的な目標の追求にも能動性が必要だからである。これは「リビードは男性的である」というかつてのテーゼの否定を帰結する。かつての構想では、リビードは能動的な目標をもつにせよ受動的な目標を持つにせよ、目標を追求するものとして能動性であり、「能動性 = 男性性」であるかぎりでリビードは男性的なのだった。

 しかるに、いまや女性性は受動性ではなく、受動的な目標の追求を好むことなのだから、男性性も単純に能動性なのではなく能動的な目標の追求を好むこととなり、したがってどちらにも共通の「目標の追求」という側面を捉えて「リビードは男性的」だと述べることは出来なくなる。リビードには性別はない。これはフロイトなりに女性は受動性であるとする規定の一面性を克服しようという努力を示している。

 とはいえ、フロイトが女性と受動、男性と能動を結びつけたことには変わりがない。私たちは以下で「受動性」を「受動的な目標を好む」ことというフロイトの最後の意味で捉えた上で、それを「女性性」と結びつけることの含意を問うていこう。結論から言うと、私にはそれはさほど大それたことを意味しているわけではなく、性差を考慮に入れる控えめな方法だと思われる。

 さて、フロイトが出発点として与えているのは精子と卵子の話である[ⅩⅤ: 122-123 =21:148-149]。これはさほど重視する必要はないが、精子は自ら泳ぎ卵子を目指すのに対して卵子は待っているだけであって、ここに能動性と受動性の原型を見てとれる。

 重要なのは、むしろこれと重なり合う性行為の場面であり、そこでは男性が目標に向かって進み「挿入する」のであり、女性はというと「挿入される」ことが最終的な目標となる。これがフロイト的な「能動性 = 男性」と「受動性 = 女性」の根底である。私は、この特徴付けは否定出来ないように思う。というのも、性交が絶対的に失敗する理由があるとすれば、それは男性の勃起不全くらいだろうが、これは性交に男性の側の能動性が必要であることを意味していると思われるからである。

 こうすると次に動員されてくるのがフロイトの性的領域の生に対する範型性の議論である。鼠男症例の理論部でも取り扱ったことだが、フロイトの考えによれば、性的領域での振る舞いが生全体に対して規定的に働く。だから、性交場面での能動性と受動性という役割分担が直接の性交場面のみならず性愛関係全般を規定する一定の必然性があり、さらに生の全般を規定する一定の必然性があるのだ。

 フロイトの「ペニス羨望」の理論は、はじめは何ら心的に男児と異ならない女児が、「解剖学的性差」に直面し、それに一定の解釈を与えて応答していくなかで、性的領域で能動性を放棄し受動性を引き受けていく、それを通じて生の諸領域にわたって一定の受動性を引き受けていくプロセスを捉えようと試みていたわけである。

 だが、以上に対しては直ちに二つの但し書きを付け加えなければならない。第一はフロイトも認めていたことだが、先の性的領域の規定力なるものはその度合いにおいて未規定の代物であり、したがって社会の様々なレベルで通用している女性の受動性なるもののいかなる部分が性的領域の規定力に帰着させることが出来、またいかなる部分が単に社会的な慣習なのかは分からないということである[ⅩⅤ: 123=21:150]。それゆえ、フロイトの理論は全てを必然的だといって所与の体制を無制約的に擁護することとは関係がない。

 第二は、これまたフロイトも認めていた通り、純粋な男性性や純粋な女性性は理論的構築に過ぎず、諸個人は両者の混合であるということである[ⅩⅣ:30=19:214-215]。フロイトの基本的前提たる「両性性」はこのことをも含意しており、実際、男性は裏ÖKという形で、また女性は「男性性コンプレクス」という形で、それぞれ「受動性」と「能動性」を発達させることができることをフロイトは示している。

 ただ、フロイトが譲らないのは、男性が「能動性」をより発達させ、女性が「受動性」をより発達させるという傾向は、両者の性的領域による役割の違いによって、そしてそれと関係する「解剖学的性差」への蓋然的な反応によって、何らかの程度で必然的であるということである。

 私はこれが何かしら大それた立場だとは思わないし、やはり厳然として存在している「解剖学的性差」―フロイトも認めている極稀な境界事例の存在はこの区別の存在自体を否定するまでには至らない―の意味作用と諸帰結を考慮に入れる洗練された方法であるように思われる。

4、総括―女性性とは何か

 ここでは女性における「生物学的性差」「社会的性差」「対象選択」「性自認」についてフロイトが構想した典型的連関をまとめておこう。はじめ女児は男児と内的に異ならない。その心的世界に差異が生じるのは「ペニス羨望」という「生物学的性差」への応答による。

 ここでファルス的能動性が取り払われ、「ペニスをもつ」のではなく、「ペニスをもらう」という志向が形成されることで「社会的性差」の根幹としての「受動性」が形成されるとともに、女性としての「性自認」とペニスをもつ「父 = 男性」という「対象選択」の原型が形成される。

 他方で、「ペニスをもつ」という「ペニス羨望」への留まりは別種の道を開く。それは様々な程度で作用しうるのだろうが、「社会的性差」「対象選択」「性自認」のそれぞれのレベルで上とは反対の道が開かれるのである。

 「対象選択」という点について一言しておこう。フロイトの女性性論のポイントは、女性にとって原初の対象選択は同性愛的であり、異性愛は「二次的構築物」に過ぎないということである。フロイト的視点から見たときには、ここにこそ男性の異性愛と同性愛の間よりも女性の異性愛と同性愛の間の垣根が低いという事情の理由が存在する。

 だから、ひょっとすると女性においてさしあたり目立つ同性愛者が「男性性コンプレクス」的な同性愛者であるかもしれないにせよ、女性にあって同性愛的欲望は極めて一般的であるために同性愛的な主体の形態はそれに尽きないのかもしれない。

 また女性の同性愛の実践が男女の役割関係を模倣することがあるにせよ、その関係性はそれに尽きるものではない。実際フロイトは女性の同性愛的欲望の前エディプス的起源に従う形で、女性の同性愛において男女関係の再現のみならず、母子関係の再現というモチーフが大きな地位を占めていることを指摘している[ⅩⅤ:139-140=21:170-171]。それは性差が介入してくる以前の世界への遡行なのかもしれない。

 この最後の点にも関連して、私たちが本章でたびたび示唆しつつ明確には定式化してこなかった点を定式化しておこう。それは「ペニス羨望」の捉え方についての微細な変更であり、私の知る限りフロイトが述べていない部分を補う試みである。

 フロイトは女児が男児ないし男性のペニスを見た時、自らを「去勢」されていると捉えると考えるが、単純な話、一度も持っていなかったものを「切断された」と考えるのは奇妙である。女児は自分もそれを持っていたはずだとどうして考えるのか。それは母に固着するものとして、女児が父とライバル関係に入り、その意味で父と同一化しているからではないか。

 はじめの母固着―ここにはまだ性差のいかなる介入もなく、女児にとっていかなるファルスもない―がファルス期への突入につれて強化されるとライバルとしての父の存在感が上昇してくる。そして「ペニス羨望」を引き起こす性器の目撃の場面が生起する。

 ここで女児は母を求めるものとして父と同一化しているがゆえにこそ、自分もペニスを持っていたはずであり、それが去勢されたのだ、それもライバルである父によって去勢され、父はペニスでもって母を奪ったのだと考えるわけである。

 女児からすれば母は自分を選んでいてしかるべきなのだが、現にそうはなっていない。女児はその母の選択をペニスの有無に帰着させつつ、その納得いかない事態をさらにライバルたる父による去勢に帰するのである。ここに「処女性のタブー」が示唆するような仕返しとしての「去勢」への欲望の可能性、そしてフロイトの女性論の基本的モチーフとしての女性における同性愛と男性への敵意の連関が確立される。

 そして、ここで母との関係がはじめてファルス的なものとして女児自身に解釈されることにもなる。母との関係はペニスの所持が前提なのである。ここまでは母に固着する女児にとって持ってもいないペニスは何らの意味作用も持っていなかったはずである。

 続いて、こうして性器の問題が女児を捉えるとそれに関する熱心な探求が始まり、ペニスの不在は「去勢」という偶発事のせいではなく、女性には一般にペニスがないこと、母にもペニスがないことが明らかになる。フロイト自身、母からの離反は母のペニスの不在の認識による女性の去勢の一般化によってはじめて生じるとしている[ⅩⅤ:135=21:165]。

 私たちの補足は、それ以前に何が起きているのかを明確化する試みである。さて、こう一般化されると「去勢」はもはやライバルたる父ではなく、自分を正しく産まなかったとされる母に帰責され、母への固着が緩みだす。

 ここから先の三つの道も生じてくることになるだろう。一つは性的領域からの撤退であり、もう一つは「ペニスを持つこと」に固執して母への固着に留まろうとすることであり、これはより早期の立場の継続である。そして最後はペニスを持たない存在として母と同一化しつつ、父から「ペニスをもらおう」とする立場である。

 私には、母への固着を継続しつつ、ライバルたる父に同一化し、またそのように敵である父に全てを帰責するペニス羨望の初期段階を想定することが、フロイトの提示する様々な素材をよりよく理解するために必要であるように思われる。

前後のページへのリンク

第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(1)
第6章 異性愛とは何か―その可能性と不可能性の条件

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

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