第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(1)

 第1部第2章で展開された通り、人間の性愛の根源的な事実は「両性性」と「多形倒錯的素質」である。その後の第三章はその出発点から性器の中心性が確立されるとともに統一的な自我が形成されるまでの過程、フロイトのいわゆるファルス期の入り口までの過程を、リビード発達と自我発達の絡み合いにおいて記述した。

 ここまでは部分欲動が性器の中心性へとまとめあげられていくという「多形倒錯的素質」の側面に寄り添った記述が多かったが、第2部で問題になるのは「両性性」の方であり、それは、性愛的な関係において人間は、ここまでの記述に性差が介在していなかったことにもその一端が示されている通り、基本的には性別に関係なく、どちらの性の立場も取れるし、またどちらの性を対象とも出来ることを意味する。

 第2部「フロイト性理論の展開―「性差」と「異性愛」の可能性の条件への問い」では、もともとはそうであるのに、なぜ主要な形態としては生物学的性別に沿った形での男性性と女性性の引き受けが成立し、またその間に異性愛が成立するのか―私はこの成立の事実性は否定出来ないと思う―が問題となる。それを可能にしているプロセスがあるはずなのである。

 他方で、第2部はそのプロセスにおける困難を神経症の基底的構造として記述しようと試みる。フロイトの基本的視点、そのいわゆる「結晶原理」1)「私たちにはお馴染みとなっている把握ですが、病理は、ことを誇張したり大雑把にしたりすることで、それがなければ見ることの出来なかったような正常な連関に注意を向けさせてくれます。(…)もし私たちが結晶体を地面に投げつければ、結晶体は砕けますが、恣意的な仕方で壊れるのではなく、それぞれ決められた分裂方向に沿って部分部分に崩壊するのであって、その境界は、目には見えていませんでしたが、その結晶体の構造によってあらかじめ規定されていたのです。精神が病んだ人たちもまた、このように亀裂が入って砕けた構造体です。(…)狂人たちは外界には背を向けてしまっていますが、まさにそれゆえにこそ、内的ないし心的な現実についてはより多くを知っており、それ以外の仕方では私たちにはアクセス出来ないことをいろいろ漏らしてくれるのです」[ⅩⅤ:64=21:76-77]。からすれば「病」によってこそ「普通」のあり方にも正しく光が当てられることになるのだ。以上のプロセスを探求することで「男性性」と「女性性」のフロイト的な本質を捉えることができるはずである。また途中の「補論」では、異性愛とは別の道としての同性愛についてのフロイトの理論を再構成することを試みる。この三つは、主要な道、その道におけるつまずき、そして別の道に対応するが、その複雑な絡み合いにも注意しなければならない。

 さて、本章ではまず男性性を取り扱うが、フロイトが男性性についての理論を練り上げる上で決定的だったのは、ハンス、鼠男、狼男の三つの症例だろう。フロイトは常に症例との関係で理論を練り上げている。同性愛との関わりの深い狼男は補論で扱うとして、ここでは「正常」の極端な範型であるハンスと男性性の道における典型的なつまずきである「強迫神経症」を代表する鼠男を参照しつつ、フロイトの理論の生成を追いかけることとしよう。

 そこで焦点は、第2部では常にこれらが問題になるのだが、エディプスと去勢の二つのコンプレクスに置かれなければならない。この二つこそ性差と性対象の基本的な引き受けを規定しているものとしてフロイトによって構想されているからである。

1、「症例ハンス」―「神経症の中核的コンプレクス」へ向けて

1-1、「原理的な区別」―「器質的抑圧」から「原抑圧」へ

 まず症例ハンスのフロイト理論における位置を明確にしておこう。すでに「器質的抑圧」を論じたところで簡単に述べたが、1909年に発表されたハンス症例はフロイトが「神経症の中核的コンプレクス」という発想にいたるきっかけとなった症例である。本症例の最終ページ近く、フロイトはある「原理的な区別」[Ⅶ:369=10:165]2)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.を立てることを宣言する。

 その分析過程の途中で、ハンス少年は一方で「自慰を止め、排泄物や排泄を見たことを思い出させるものを吐き気とともに遠ざける」など、「その性における支配的な構成要素」、つまり自己身体に対する自体愛への「抑圧」を経験している[同上]。これが「幼児的」な性に関わる「器質的抑圧」と大きく重なっていることは明らかだろう。しかるに、「発病のきっかけとなる出来事において活性化され、症状、つまり恐怖症の内容に対する素材を提供したのはこの構成要素ではなかった」[同上]。

 この条件を満たすものは別にあったのであり、それは「ハンスにおいては、先立って抑え込まれ、私たちが聞き知り得た限りでは、決して制止されずに表明されたことのない蠢き、父に対する敵対的-嫉妬的な諸感情および母に対するサディスティックで性交の予感に対応した衝動」[Ⅶ:369-370=10:166]、簡単にいえばエディプス・コンプレクスであった。

 そしてこの点に関しては、「厳密に言うと、私はこの分析から何も新しいものを聞き知ることはなかった。つまり、確かにしばしばより明確ではなく、またより間接的な仕方においてではあるが、より成熟した年齢で治療された患者たちにおいて、いまだに言い当てることが出来ていなかったような何ものも聞き知ることはなかったのである」[Ⅶ:377=10:173]。

 ハンスは今までのより成熟した患者の分析経験ですでに与えられていたものを明確化してくれたのであり、だからこそフロイトはハンス症例に「典型的で原像的な意義」を認め、神経症の多様性をいくつかの「同じ表象複合体(Vorstellungskomplex)」から導出するという展望をハンス症例の最後の一文で語る[Ⅶ:377=10:174]。

 第1章で確認した通り、フロイトはすでに90年代に神経症が幼年期に端を発するという構想を明らかにしていたわけだが、初めての幼児の分析である症例ハンスは、幼年期に実際に何が起きているかを確認させてくれるものであり、その成果がこれまでのより成熟した患者の分析と一致していたことが、フロイトに以上の理論的歩みを遂行するよう促したのである。

 フロイトの位置づけるところによれば、ハンスに見られるような幼児の普遍的な経験がもたらす不安に端を発する幼児期恐怖症は極めて多いのであり、その多くは自然に治るのだが、それはしばしば後の神経症の素因となり、また後の神経症は常にその種の幼児期における不安を背景にしているのである[Ⅶ:373=10:169]。

 ここで第1章において述べた無意識ないし抑圧の二段階モデルを思い出そう。神経症の二段階モデルは、幼児期の「原抑圧」が無意識の中核をなし、その後の「本来の意味での抑圧」ないし「後発的抑圧」は、意識の側の追い出そうという働きとともに、この「原抑圧されたもの」からの引き寄せが必要なのだということを意味している。

 そして、今述べてきた「原理的な区別」とは、「器質的抑圧」に対する「原抑圧」の区別であり、ここにこそ「原抑圧」の着想の場がある。このことは、本症例でハンスのエディプス・コンプレクス的な欲動の蠢きについて「先立って抑え込まれ、私たちが聞き知り得た限りでは、決して制止されずに表明されたことのない」と言われていたのだが、後のメタサイコロジー諸編のひとつである「無意識」論文で、明らかにそれを理論的に言い換えるかたちで、「原抑圧」に関して「前意識からまだ備給を受けたことがない無意識の表象」[Ⅹ:280=14:229]と言われていることから明白である。

 「器質的抑圧」の対象にせよ、「後発的抑圧」=「本来の意味での抑圧」の対象にせよ、それらは一度意識表面に出てきている、つまり前意識から備給されている。それらが、後になって価値が切り下げられるなり、意識から追い出されるなりするのである。他方で「原抑圧」の対象は一度も意識に出てきたことがないし、出てこないままにとどめ置かれている。

 そもそも、なぜ「後発的抑圧」のことをフロイトが「本来の意味での(eigentlich)抑圧」と呼んだかといえば、これは私の知る限りシュレーバー症例における抑圧についての説明が一番分かりやすいのだが、「抑圧(Verdrängung)」とは、この訳語「抑圧」が英訳「repression」の影響下にあるのに対して、ドイツ語の本来の語義からすれば「追い出し」であり、確かに「後発的抑圧」では意識のうちにあったものが追い出されているのだが、「原抑圧」の対象の場合にはそもそも意識に入ったことがなく「本来の意味」では追い出されていないからである。

 「原抑圧」はむしろ「本来の意味では受動的に後ろに留まること」[Ⅷ:304=11:170]なのであった。だから「後発的抑圧」だけが「本来の意味での抑圧 = 追い出し」なのである。そして、以上のことを「無意識」は「物表象」であり、「(前)意識」は「物表象」に「語表象」が加わったものであるというフロイトの議論[Ⅹ:300=14:251]と関連づければ、「原抑圧されたもの」とは一度たりとも「前意識」に入ったことがない、すなわち「言語化」されたことがないものだということが出来る。

 本節では、ハンス症例において「原抑圧」の対象にして「神経症の中核的コンプレクス」として明らかになったもの、つまり、エディプス・コンプレクスがそこにおいて析出されてくる過程に焦点を当てよう。この分析は、本質的にはフロイトや父の助けを借りてハンスがそれを「言語化」していく努力であった。

1-2、病歴の検討―「エディプス・コンプレクス」と「去勢コンプレクス」の析出

1-2-1、恐怖症前夜―母への愛の要求の上昇

 フロイトは症例狼男において、フロイトから見ると幼児期を十分に重視していないユングやアドラーの向こうを張って「子どもは過小評価されており、人は子どもに何が出来るのかをもはや分からなくなっている」[ⅩⅡ:137=14:109]と言っているが、実際、フロイトの精神分析の功績の一つ、とりわけハンス症例の功績の一つは、子どもがいかに多くのことをすることが出来るのかを示したことだろう。

 それが明らかにしているのは、私たちが見る目を持つならば、子どもは本当にたくさんのことを示してくれるということであり、子どもは自らの周囲で起こるさまざまなことを感じ取り、それを自らの欲動との関わりにおいて多彩に解釈することで、自分なりにそれに応答しようと懸命に試みているということである。私たちはまずそのことに、つまり、ハンスの語りの清新さに純粋に驚くべきであり、また注意を向けるべきである。

 この症例の前提となる事項を述べておこう。ハンスはフロイトに直接分析されたのではなく、フロイト支持者である父親がたびたびフロイトに指示を仰ぎつつハンスの分析を行ったのであり、それは実質的には日々の会話を通じてなされた。フロイトがハンスに会ったのは一度きりで、父によるハンスとの会話やハンスの行動の記録が症例の大きな部分を占めている。そのような報告に応答する形でフロイトがいくつかの治療的介入を指導したのである。

 さて、ハンスが恐怖症になったのは4才の終わりから5才のはじめにかけてである。恐怖症の対象は馬だが、そういって済ませられるほど単純なものではなく、恐怖には様々な条件―「噛む」「転ぶ」「[白い馬や顔に黒いものをつけた馬など、馬に関わる]特別な性質」「重い荷物を載せた馬車」など―があり、またその条件は時間の経過に連れて変容したり、あるいは隠れていたものが表面化してきたりといった運動性を持っていた。

 フロイト自身述べているように、この恐怖症の条件の複雑性が、それが本当に馬を対象にしているわけではなく、何らかの別の不安が、抑圧を被って無意識化された後、表現を求めて自らを馬に転移されたのだと考えるように私たちを促すのである[Ⅶ:286=10:58]。そう考えなければ馬恐怖症は何がしか支離滅裂な馬鹿げたものになってしまう。「しかし、神経症は馬鹿げたことなど言わないのである。夢と同様に」[Ⅶ:263=10:27]。

 以上を前提にして病歴を見ていこう。症例の初めての紹介なので、やや詳細に見て、フロイトの分析がどのようなものなのか、そしてフロイトがいかに「すべてに意味がある」と考えたのかを示すようにつとめたい。

 邦訳全集の年表を参照すれば、ハンスは1903年の四月に生まれている。報告があるのは3才ごろからである。この頃、この辺りにもフロイトがファルス期と言い出す理由の一つがあるわけだが、ハンスは「おちんちん」に生き生きとした関心を示す。動物のそれを見て喜ぶし、いろいろなものにそれを探す。ハンスは汽車の煙突を「おちんちん」だと見なしたりもする。しかるに、先に見たように最終的にはハンスは「おちんちん」を生物にのみ帰着させる。自らに近いものである生物を「おちんちん」で定義することは、それがハンスの自己規定において決定的だったことを示している。

 そうである以上、ハンスは自分に似ている存在におちんちんがないとは思えず、母にも妹のハンナにもおちんちんを帰着させる。そして、それへの絶えざる関心は、当然のごとく他の人のそれを見たいという欲望を生じさせ、母の着替えを注視したり、父や母に「おちんちん」を持っているかを尋ねたりもする。

 そしてまた注目するべきはハンスがそれの「大きさ」に示す関心であり、その成長に示す期待である。母は「大きいから馬のようなおちんちんを持っている」のであり、妹の小さいモノも「成長したら大きくなる」とハンスは言うのである。

 余談ながら言い添えておけば、このハンスの他者の「おちんちん」を見たいという欲求、そこ見える自我との「比較」の欲求へのフロイトの注目が、「欲動と欲動運命」での欲動の「自己自身への向けかえ」の複雑な構造記述の基礎である。

 さて、「大きさ」のエピソードを続ければ、またある時には父が書いたキリンの絵におちんちんが欠けていると文句を付け、父に自分で書き加えるよう促されたハンスは棒を一本書いた後、「もっと長い」といって更に書き足すのである。大きな動物は大きなおちんちんをもっているというわけだ。

 さて、この種の多大な関心は「おちんちん」が快の源泉としてハンスの心的空間で浮かび上がっていることが前提としているだろう。実際ハンスはおちんちんを頻繁にいじっており、3才半の時、母は見かねて医者を引き合いに出しつつ「去勢の脅し」を行う。

 とはいえ、ここではそれは何の作用も持たず、それが切られてしまったらどうやっておしっこをするのかという母の問いかけに対し、ハンスは無邪気に「お尻で」と答える。以上に現れているようにハンスはすでに3才ごろにはファルス期に到達している。

 ハンス一家はフロイトと同じウィーンに住んでいるが、夏にはグムンデンなるところに滞在することになっているようで、3才すぎと4才すぎでの滞在が記録に残っている。

 ウィーンでは遊び友達となるような子どもがおらず寂しいハンスだが、グムンデンには子どもがたくさんおり、ハンスは男女関係なく何人もの子どもに抱きついたりキスをしたり好きだと言って好意を表明する。つまり、ここではまだ対象は性別で区分されておらず「両性性」が非常に見やすい。

 さらに、これらの好意の表明の仕方の由来は母に、その養育に辿ることが出来るだろう。それがとりわけ明確なのは4才すぎの滞在である女の子に対して表明された「一緒に寝たい」という願望である。それは母としか経験されていない。

 かくして、ハンスにとって根源的な対象が母であり、そこから様々な愛の表現や目標が与えられていることが見て取れる。そして友人がいないウィーンに帰れば、ここでハンスは多くは年長のグムンデンでの友人たちを自分の「子どもたち」といって空想のなかで遊ぶのだが、現実的にはハンスの愛はまたすべて母親に戻らざるを得ない。結果としてその愛の要求は過剰に高められてしまう。

 しかも4才頃の引っ越し以来、ハンスは両親とは別々の部屋に寝ることになり母から離されてしまっている。ところで、この種の「愛」、「好き」という気持ち、「対象選択」が欲動を満たしてくれる養育の快の経験で引き起こされることは前章で詳しく述べたが、そう考えればハンスが部分欲動の興奮を総括する「おちんちん」の快を母親との関係にもたらしたいと考えたとしても当然だろう。

 ハンスは母が体を拭いてくれる際にそこを避けるのを見てとって、ソコを触るように促す、フロイトの言葉を借りれば「誘惑」を行うのである。フロイトは後期には幼児期自慰がエディプス的対象の表象と結びついていることを一般的な事態と認めている[ⅩⅢ:398=18:304]。

 もう一つ重要なのは妹の誕生である。それはハンス三才半の出来事であり、ハンスは子どもをコウノトリが運んでくるというありがちな語りを聞かされていたのだが、出産の当日は絶えずコウノトリに言及しつつも緊張した面持ちですべてに不信の目を向けていた。ハンスは母のお腹が大きくなっていたことや出産当日のうめき声を聞いて何がしかを感じ取っていたのであり、コウノトリをもはやさほど信じていなかったのである。

 ところで出産のせいでハンスは母に密着していることは出来なくなった。妹の誕生は母の愛の分け前の減少を意味する。だからハンスは妹の出産直後に扁桃腺にかかった際には、熱にうなされて「妹なんて欲しくないよ!」と叫ぶのである。この激しい嫉妬の念は半年で少なくとも一見したところではおさまり、ハンスは自らの優越を意識した優しい兄として振る舞うようになる。

 ともあれ、フロイトの述べるところ、妹の誕生を通じてハンスに与えられる母の愛は減少し、また妹の養育を見ることは養育に伴う快の記憶を活性化させて、ハンスの母の愛への要求をいや増しに高めることにもなったのである。

1-2-2、恐怖症の始まりと最初の介入の失敗

 恐怖症は1908年初頭、ハンスが4才の終わりを迎えつつある時期に始まる。予兆となるのは母がいなくなって甘えられなくなるという不安夢をハンスが見たことであり、そもそも夏のグムンデン滞在でも夜しばしば不安になって母のベッドに寝かせてもらったのだった。

 さて、ある日ハンスは一ヶ月も前のことを持ち出して叔母が僕はかわいいおちんちんを持っていると言っていたことを母に報告する。叔母は母がハンスを入浴させるところを見ていたのであり、小声で母にそう言ったのだが、ハンスはそれを聞き逃さず、今やそれに言及する。もちろん、フロイトに言わせれば、このハンスの地獄耳にもハンスが一ヶ月も後になってそれを持ち出すことにもすべて意味がある。それは二度目の誘惑の試みであり、母の愛への要求、リビードの高まりを示しているのである。

 その二日後、ハンスは子守り娘といつものように公園に行くのだが、途中で泣き出し帰りたいという。そしてその日は母から離れようとせず甘え続ける。次の日に母は事情を知ろうとハンスが好きなシェーンブルンに連れ出そうとする。ハンスは泣き出し、行きたがらず、恐れる。途上では不安を示す。帰り道に長らく反抗したのちにハンスは母に「馬が僕を噛むんじゃないかと怖かった」と告白する。実際、シェーンブルンでは馬が現れるとハンスは落ち着かなくなっていた。

 分析の後半で明らかになったことだが、この日にハンスは母と馬が転ぶのを目撃しており、これが「馬」恐怖症の真のきっかけだった。また同日に母がハンスにおちんちんを触っているかと尋ねると毎日ベッドで触っているとハンスは答える。翌日、母は「おちんちんに手をやるな」と警告するが、ハンスはやはり触ってしまった。

 さて、馬に噛まれるという恐怖が表明されたことで本来の意味での恐怖症が始まるが、それと不安の始まりは区別される。はじめの不安は家に帰りたいという要求とその後の母への過剰な甘えに示される通り、母の不在、母への愛の要求に由来する不安である。それが次の日には馬に噛まれるという「対象」を獲得することで恐怖症へと発展するわけだ。フロイトはこれをどう解釈するのか。

 フロイトの初期の不安理論はフロイトが不安神経症と呼んだ現勢神経症の臨床研究に由来する。その経験によると不安はリビードが喚起されつつ十分に放散されないことに由来する。フロイトは臨床を通じて不安の背後に中断性交などを見出したのだった(「不安神経症」論)。

 しかるに、不十分な放散は例えば「抑圧」によっても引き起こされることが出来るのであり、かくしてフロイトはメタサイコロジー諸編のひとつ「抑圧」論文で、欲動の表象的代理が抑圧された際の、欲動の量的側面、つまり、情動の帰結について、「不安に転化する」という特別な運命を帰したわけである[Ⅹ:256=14:203]。抑圧されることで満たされなくなったリビードのエネルギーは不安に転化する。

 さて、するとハンスの事例は以下のように理解される。ハンスは先に述べたいくつかの事情により、つまり、ウィーンでの友人の不在や妹の誕生、両親と別の部屋で寝なければいけないことなどから母へのリビードが高まっていた。それを示すのが誘惑である。

 しかるに、それは何らかの理由、ひょっとすると抑圧のゆえに、満たされていない。ここに不安が生じる。そして一度抑圧によって不安へ転化したリビードはリビードに戻りきることはない。だから母が一緒に付き添ってくれても街路は不安なのであり、この自律した不安はいまや対象を見出さなければならない―つまり、「馬」である。

 ここから導きだされる治療的介入は、意識的な恐怖表象をその無意識の源泉に返すという精神分析の原則に則って以下のようになる。馬自体には大きな意味はなく、問題は母が好きで一緒に寝たいということである。それが抑圧されて満たされないことで不安が立ち現れて、それが馬に転移されたのである。

 しかし、なぜ馬なのか。馬と母とを結びつけるものは―先のハンスの語りを思い出そう―両者が共有している「大きなおちんちん」である。ここから分かるのは、ひょっとするとハンスのリビードは、ハンスが母の着替えを凝視していたことから推測出来るように、母のおちんちんを見たいという目標に固着してしまっているかもしれないということである。これは原理的に満たし得ない欲望であり、したがって不安の源泉である。だからハンスに女性にはおちんちんがないと啓蒙するべきである。

 父からの返事は一ヶ月ほど開いて三月になってからもたらされた。フロイトの指示の後、恐怖症の真の由来が母への愛にあるということが父からハンスに伝えられた。この結果、恐怖は一旦改善し、馬への恐怖は馬を見たいという強迫に変容するのだが、実際のところ、この改善は全く十分ではなかった。その後ハンスはインフルエンザで二週間家におり、その後には再び恐怖症が強まった。さらに一週間扁桃腺切除のために―身体部位の切除―家に留まって、その後にはさらに恐怖症が悪化していたのである。

 このように改善が到来しないことが解釈の誤りを告げ知らせる。実際、振り返ってみると母の不在が不安の原因なのに母が付き添っても不安なのは不可解だし、それをリビードは抑圧されるともとには戻らないからだとする説明[Ⅶ:262=10:26]もそれ以上根拠づけがなくアドホックなものに聞こえる。

 そしてそもそもフロイトは想定される抑圧の原因を曖昧にしか説明していない[Ⅶ:261=10:25]。つまり、母へのリビードが抑圧されて不安に転化し馬表象に転移されるという議論は、ハンスの状況を適切に説明しないのである。ハンス症例は、実際、フロイトの後期不安理論、リビードが抑圧されると不安が生じるのではなく、不安だからリビードが抑圧されるという後期理論が準拠する点の一つである。

 ハンス症例そのものではこのことはまだ到達されないが、その萌芽は見てとれる。何はともあれ経過の追跡を続けよう。

1-2-3、「去勢コンプレクス」の上昇とその部分的克服

 ハンス病み上がりの3月1日、父はハンスと駅に向かう道すがら、「馬は噛まない」ことを説得する。対するハンスは「白い馬は噛む」と言い張る。ハンスの語るところではそれはグムンデンでのある印象に依拠している。女の子の友人であるリッチィが家を離れる際、荷物を運ぶ白い馬の馬車が来ていたのだが、その馬が頭を下げてきたのに対し、リッチィの父がこう言ったというのである。「白い馬に指をやってはいけないよ。そうしないとそれは噛むからね」。

 父の最初の反応は、それは「おちんちん」と関係しているのではないかというものだった。というのも、先に見たように母は「それに手をやってはいけない」と言っていたからである。ハンスはそれに対して「おちんちんは噛まない」といって、噛むのが白い馬であることを「躍起になって(lebhaft)」証明しようとした。このlebhaftな感じが分析の立場からすれば何がしか怪しいし、フロイトに言わせると子どもを自慰へと駆り立てる亀頭のむずむず感は通例「噛む」と表現される。

 かくして、ここで「白い馬が噛む」という恐怖の背景には、自慰とその警告への連関とグムンデンにおける出発という印象との連関が隠されていることがおぼろげに予感される。また邦訳の注で紹介されている研究によれば、ここで新しく現れる「白い」という要素は、その直前の出来事である扁桃腺切除を行った医者が着ていたであろう白衣に帰着させられるべきかもしれない。医者とは自慰に対する罰としての去勢の執行者として母に引き合いに出されたものであり、いまやまさに医者は身体部位の切除を行ったのである。

 この連関をもう少しもっともらしくさせるのは、続く日に父が「外に出ないから恐怖症がひどくなる」というのにたいして、ハンスが「いや、おちんちんを触るからだよ」と応答したことであり、また自慰との戦いを容易にする「寝袋(ein Sack zum Schlafen)」を渡すというと元気になって馬への恐怖も減退したことである。馬への恐れの背景には、自慰への恐れがある。ということは、その罰、「去勢」への恐れがあるのである。

 さて、3月15日、父はフロイトの指示に従って「女の子や女性はおちんちんを持っていない。ママも、[妹の]ハンナも…」という啓蒙を行う。これは結果的には逆効果になるのだが、これまでは、病因としての「おちんちんへの関心」が両親によって指摘され強調されたものであり、その限りで両親の影響に帰着させられるかも知れないのに対して、初めてハンス自身の無意識が自律的に展開されるきっかけともなった[Ⅶ:353=10:148]。

 では、どのような反応をハンスは返したのだろうか。まず夜には不機嫌となり馬への恐れを表明する。そして翌々日の朝、不安な様子でやってきて以下のように物語るのである。

僕はほんのちょっとだけ指をおちんちんにやっちゃった。そのときママがまったく裸でシュミーズを着ているのを見たよ。ママはおちんちんを見せてきたんだ。僕は[グムンデンでの女の子の友人である]グレーテ、僕のグレーテにママがやったことを見せた、つまり、僕のおちんちんを見せたんだ。[Ⅶ:267=10:33]

 さて、「指をやる」というリッチィの父が語ったとされる言葉をそのまま反復していることも注目される―これは白い馬についての父の解釈の確認ではないだろうか?―が、なんといっても興味深いのはママにおちんちんがないという啓蒙の真っ向からの否定である。

 そして、ママがやっているから僕もやるというこの空想内容は何を意味しているだろうか。それはママの自慰への注意がハンスに効いているということだろう。「お前もやっているじゃないか」以上に、禁止を破るための最良の口実はないのである。ハンスは自慰をするためにこの空想を必要としたのであり、その意味は「ママもやっているのだから、それをやったって僕は悪くないし罰されるはずはない」というものだろう。

 そして罰とは何か。ママこそが去勢の罰を引き合いに出したのであり、ここでそのママが非難されることは罰として去勢が想定されていることを暗示する。こうして啓蒙の否定にも意味を与えることが出来る。ママにおちんちんがないことは「去勢」の可能性を現実的ならしめるのであり、それが真っ向から否定されるのは「去勢」への不安を示している。おそらくこれよりよく、この空想に意味を与える方法はないだろう。

 さらに興味深く決定的なのは3月22日のハンスの発言である。この日父はハンスをシェーンブルンに連れて行くが、ハンスは象やキリンなどのこれまで怖がっていなかった動物にも恐怖を示す。小さな動物は大丈夫だったが大きな動物はすべて怖かったのである。

 さて、フロイトの最初の指示は母に関する不安が「おちんちん」を経由して馬に移転されたというものだったから、父はここで大きなおちんちんが怖いのだろうと推測し、「それを怖がる必要はない。大きな動物は大きなおちんちんを持っていて、小さな動物は小さなおちんちんを持っているだけのことだ」と言うのだが、それに対してハンスはこう言葉を続ける。

そしてすべての人間はおちんちんをもっている。それでおちんちんは僕が大きくなったら僕と一緒に成長する、だってそれは生えているんだから。(Und alle Menschen haben Wiwimacher, und der Wiwimacher wächst mit mir, wenn ich größer werde; er ist ja angewachsen.)[Ⅶ:269=10:36]

 ハンスの発言は「父 = フロイト」の推測とは別の方向を指し示す。まず注目するべきは前半と後半との分裂であり、前半では「すべての人間はおちんちんをもっている」という先の空想にも現れていたハンスの公式的立場が繰り返されるが、他方で「生えている(anwachsen = 根付く、うまく癒合する)」という言葉、そのanが持っている「ひっつく」感じが、それが取れる可能性があること―「去勢」―を示唆している。そうでなければわざわざ生えていることを確認する必要があるだろうか。

 余談だが、ここにある去勢の可能性の承認と否定との二重性はフロイトが後に理論化する「否認(Verleugnung)」の先駆的な例となっている。「抑圧(Verdrängung)」は「欲動」を意識から追い出すが、「否認」はある現実の「知覚」、典型的には去勢の可能性を示す女性器の知覚を意識から追い出すのであり、こうして主体の自我と現実認識が去勢の可能性を認めるものと認めないものとに分裂してしまうのである。それはそれとして、ここで重要なのはハンスが最終的には「だってそれは生えている」という仕方で去勢の可能性を認めつつ去勢不安の一定の克服を示していることである。

 さて、ハンスの去勢コンプレクス、正確にはその男性版である「去勢不安」については以下のように整理できよう。その発端はかつての自慰に対する、母による医者を引き合いに出しての去勢の脅しだが、それはその時点では何の効果も持たなかった。

 それが新たな自慰への警告と医者が実際に身体部位を切除することの経験によって活性化される。「白い馬が噛む」の背景には「おちんちんに手をやるな」という自慰への、その罰たる去勢への恐怖が見え隠れしている。これは更に女性におちんちんがないことの啓蒙で強化される。

 だから、ハンスはその啓蒙を自慰空想において否定するのであり、また母もやっていることだと考えて自慰に対する罰の可能性を無化するのである。しかるに、先の発言でハンスは「おちんちんは生えている」といって、去勢の可能性を承認しつつも、その不安の一定の克服へと至る。

 もう一つ興味深いのは文の中盤だろう。先に見たようにハンスはそもそもおちんちんの大きさに大きな関心を示していた。それをフロイト的に「子どもの大きくなりたい願望が性器に重ねられている」[Ⅶ:342=10:136]とするのは正当だろう。

 しかるに、ここで他のどこでもなく「おちんちん」が焦点化されることについては、自我構成における性器の重要性に関する私たちの仮説が差し挟まれるべきである。さて、この一般的な状況に加えて、ハンスはいまや自分自身のおちんちんの成長への希望をあからさまに語る、ということは、逆に言えば自分の大きさに明確に不満なのである。しかし、その不満はどこに由来するのか。それは単に動物との比較によるのだろうか。

 この問いへの答え続く過程の中ですぐに見つかる。去勢不安の一定の克服によって何が出てこられるようになったかを見てみよう。あるいは逆に言うと、ここで新たな素材が出てきうるようになったことで、そこで何かが克服されていたことが分かるのである。

1-2-4、「エディプス・コンプレクス」と「父」への関係の前景化

 さて、ハンスは三月二十七日の夜に両親の寝室に来て一緒に寝かせてくれとせがむ。理由は明日話すと言う。翌日、ハンスは以下の空想を物語る。ハンスはこれを「夢に見たんじゃなくて考えてみたんだ」と言っている。

夜、一匹の大きなキリンと一匹のくしゃくしゃのキリンが部屋にいて、僕がくしゃくしゃのキリンを取り上げちゃったから、大きなキリンがわめいたんだよ。そのあと大きなキリンはわめくのを止めた。だから僕はくしゃくしゃのキリンにまたがったんだ。[Ⅶ:272=10:38-39]

 さて、目を引くのは「くしゃくしゃ(zerwutzelt)」なキリンだが、それはどんなものかと聞くとハンスは紙をくしゃくしゃに丸めてみせる。この空想を解釈する道は、これがある毎朝繰り返された場面に対応していることによって与えられた。このころ毎朝ハンスは両親の寝室にやって来たのだが、そのとき母はハンスを引き入れ、父が文句を言うのには反論し、ハンスはしばらく母の寝床に入ることが出来たのだった。つまり、わめく大きなキリンとは父であり、くしゃくしゃのキリンとは母なのである。

 そしてフロイトも認めるハンスの父の推測は、誰もが予想出来るだろうが、この「くしゃくしゃ」とはハンスによる女性器の認識を表しているというものである。後に明らかになることだが、ハンスはよく女友達や母のトイレについていっており、やはり彼の気になる「おちんちん」を見ようとして「何か」を見ていたのだろう。ハンスは、先の去勢不安の一定の克服に基づいて、その種の知覚を否認するのではなく、それに一定の表現を与えられるようになったのである。

 ここで決定的なことは、それはやはり「くしゃくしゃ」につぶされたものであり、もともとは、これはハンスの心的現実にとっては先に見たように実際に妥当していたわけだが、「おちんちん」はあったのであって、それが去勢されてしまったのだと捉えられているということである。男児の心的現実にとって、女性器は男性器とは別なものではなく、それが切除された跡ないし「くしゃくしゃ」につぶされた跡なのであり、「去勢」を現実的なものとする外傷的なものなのである。だから、その表出は去勢不安の一定の克服を必要としたのだ。

 続いて大きなキリンにも注目しておこう。キリンはそれについて数日前に「大きなおちんちん」を持つということが語られた存在であり、またかつてハンスが「おちんちん」を二度描いて、そのおちんちんの大きさを強調された存在だった。そして、その「勃起した(steif)」長い首ゆえに「おちんちん」を象徴的に表現するのにこの上なく適している。

 さて、父がいまや大きなキリンによって表象されていることは、先の疑問、ハンスのおちんちんの大きさへの不満の由来に答えてくれるだろう。それは父と比べて不満なのであり、それがなぜ今やハンスに成長への希望を語らせるまでに高まっているかと言えば、この空想場面で上演されている母をめぐる父とのライバル関係によってだとしか考えられない。

 かくして、ハンスに以下のような発想を帰さなければならないだろう。フロイトは言う。「自分のおちんちんが父のには敵わないから、ママは自分を好きではないのではないかという不安」[Ⅶ:275=10:43]と。ハンスは母が事実的に父のもとにいることを見て、なぜ自分ではなく父なのかと比較を展開するのだが、そこにおいて関心と自己規定の中心となっている「おちんちん」の大きさの差異が焦点化されるのである。

 そして空想全体を見てみれば、これは見紛うことなき「エディプス・コンプレクス」だが、これを見る上でのポイントは、本節の導入で「原抑圧」に関連して述べた通り、それが一度たりとも制止されずに表明されることはなく、はじめからキリンを通じて「歪曲」された形でしか表出され得なかったということ、そして去勢不安の部分的克服がその表出を可能にしたということである。去勢不安はエディプス・コンプレクスの抑圧に寄与している。

 さて、3月30日、ハンスはこれまた興味深い空想を披露する。朝、ハンスは二つのことを考えたという。一つ目は父とシェーンブルンでロープの下をくぐり抜けて羊のところに行こうとしたのだが警備員に捕まってしまったというものである。もう一つは思い出されなかった。

 この話の背景は前日の出来事であり、二人がシェーンブルンに行くと羊のところの周りにロープが張り巡らされて立ち入り禁止になっており、父がハンスにそのことを告げたのである。ハンスはなぜロープで人を防げるのか不思議がったが、父は、それは禁止されているし、行儀のいい人なら禁止を守る、そして守らないと警備員に捕まると言ったのである。とすると、この空想は前日の印象に基づいたハンスのちょっとした、例えば羊が見たいといった願望空想だということになるだろうか。これだけならそう見える。

 しかるに、この日はフロイトへの訪問の日に当たっていたのだが、その帰宅後ハンスはもう一つの話を披露する。これは先に忘れられた二つ目に当たるとみてよいだろう。その内容は父と鉄道に乗り、窓を壊して警備員に捕まったというものである。このもう一つの類似の話の追加は先の単純な解釈を無効化する。それが単に前日の印象に依拠した願望空想なら、それがこのように変奏されて反復される必要はないのであり、反復されたからには何か別の心的意味があったのである。二つの共通点を取り出せば、それは父と一緒に禁止されている場所への侵入ないし禁止されている破壊行為を行うということである。

 さて、かくしてフロイトの解釈は、それはキリン空想、父がハンスの母への関係を「禁止」しようとするキリン空想の続きであるというものである。ハンスは父の禁止をめぐる空想に続けて、今度はそのように自分について禁止する父は、そうしておいて自らは「禁止」された侵入ないし破壊行為をしているのではないかと考えているわけだ―父がハンスには「禁止」した母との関係において。

 しかし、侵入や破壊行為はどこから出てくるのか。ここでフロイトの「欲動」の規定を思い出してもいいだろう。欲動は身体器官から生じ、その器官に応じて別の目標を持つのである。それは器官そのものにある程度プリセットされている。口唇なら舐めたり啜ったりすることであり、肛門なら何がしか棒状のものの出し入れである。さて、破壊的侵入行為がどの器官に由来しているのか、すでに述べる必要もないだろう。

 それはハンスが一番気にしており、いまやそのもとに性欲動が統合されつつあるモノである。こうしてハンスの心的世界にはすでに性器特有の欲動目標がおぼろげながら現れていると見なければならない。これが「母に対するサディスティックで性交の予感に対応した衝動」と先にフロイトが呼んでいたものである。これも今や歪められた形ではあれ表出されたわけである。ここにハンスが先に誘惑で実現しようとした性器感覚を母との関連にもたらすことが空想的に表現されているわけだ。

 さて、フロイト訪問に話を移そう。この時には不安が減少していないことで最初の介入、不安を母への愛にのみ関連づけることの失敗が明らかだった。しかるに、ここで新たに「馬が目の前に持っているものと口の周りの黒」[Ⅶ:277=10:46]が怖いというディテールが判明する。これは今までの素材からは説明出来ないが、親子を前にするフロイトはふと思いつく。そして馬は眼鏡をかけているのかとハンスに聞くのだが、ハンスはこれを否定する。そして父についても同じ質問をすると、父は眼鏡をかけているにも関わらずそれを否定する。むやみな否定は抑圧を暗示する。だからフロイトは「口の周りの黒」はヒゲなのではないかと尋ねた後、こう言うのである。

君は母のことが大好きだから父を怖がっているのだ。君はそれで父が怒るだろうと思っているに違いないが、それは正しくない。父は君のことをやはり好きなのであり、君は怖がることなくなんでも打ち明けることが出来るのだ。[Ⅶ:277=10:46]

 さて、このあと父は「どうして私がお前に対して怒っているなんて信じるんだい」「叱ったこともぶったこともないだろう」などというのだが、ハンスは父が今日の午前中にぶったと反論する。父が思い出すところ、ハンスは父の腹に頭からいきなり突っ込んだのであり、父は反射的に手で払いのけたのである。この行為はハンスの父への敵意の表現だったのであり、だからこそ、それへの何気ない反応は「叱る」などと同列に扱われる「罰」としてハンスによって過剰に解釈されるのである。

 他方で以上から分かるのは父が一貫して自分をハンスの神経症の文脈に読み込むことを怠っていたということである。自分を考慮に入れるのが一番難しいのだ。

 例えば、キリン空想の解釈に行き詰まった際、父はハンスに自由連想をさせるが、そこで出てきたラズベリージュースと銃を、前者はハンスが便秘の際に飲んでいたとして排泄に結びつけ、後者の銃についてはscheißenとschießen、つまり「排泄する」ことと「撃つ」こととの字面上の類似によって前者と結びついていると解釈する。しかるにフロイトからすれば、ラズベリージュースは血であり、銃とあわせて父への敵意と読まれるべきなのである。キリン空想とつながりがよいのはフロイトの解釈だろう。

 続く4月2日。「はじめての本質的な改善」が確認される。ということは「馬 = 父」という解釈は何か本質的な点を射当てたのである。これまでは長い間家の門の前にはいられなかったし、馬が来たら恐ろしがって家に走り帰っていたのに、今回は一時間も門の前にいることができ、馬車が来ても大丈夫だった。

 確かに馬車を見ると家に戻ろうとするが、思い返したように反転する。不安は名残だけであり、改善は見まがいようがない。そしてまたこれをきっかけにして恐怖症もハンスの無意識の表出も活発化する。父に関する不安がある程度取り除かれたことで父に対して無意識が自らを表すようになるのである。

 最初に現れたのは父に関する不安の別の側面だった。4月3日ハンスは父のベッドにやってきて父がいなくなるのではないかという不安を語り、自分はパパが好きなのに、なぜママが好きだからパパを怖がっているなんていったのかとなじるのである。この背景としてハンスは母が悪い子にしていたらいなくなると言っていたことを語る。つまり、ハンスは間接的に父に対して悪い子であることを認めている。

 ただし、この語りはこれまでの事情を更に複雑にしている。フロイト訪問で表出されていたのは、母への愛ゆえの父への憎しみと、そこから帰結する罰への不安だが、他方で父への憎しみは父への愛とも葛藤関係に入っているのであり、自分が悪い子だから愛する父がいなくなってしまうのではないかという不安をも生み出している。

 またハンスは馬の出発を一般に不安がっていることも明らかになる。こうして「白い馬が噛む」という恐怖の背景にもあった「出発」の意味もほの見えてくる。グムンデンでは父がたびたび出発することでハンスは母と二人きりになれたが、かくして父の「出発」は願望されるとともに、その父への敵意は父への愛にとっては父がいなくなるという不安、「出発不安」を生み出し、また父に罰されるのではないかという不安、「噛まれる不安」をも生み出すのである。

1-2-5、恐怖症の更なる展開と収束

 残りの展開は出来る限り簡潔に展開しよう。先に述べたように父に関する不安の一定の解決、父との信頼関係の確立をもってハンスの無意識はさらに自らを展開しうるようになる。

 まず先の解釈の帰結をまとめたい。白い馬に関してはこの時点でハンスによってすべての白い馬が噛むわけではないとされる。これはある種の白い馬は解釈を通じて父へと送り返され恐怖の対象では無くなったのだと解されうる。また口の周りの黒に関してハンスは口ヒゲ説を一応否定しつつ、それは口輪に似ているとする。

 しかるに、何日もその条件に該当する馬はハンスによって確認されず、やはり「口ヒゲ = 父」への還元で恐怖は消えたのではないかと推測される。実際、ハンスはお風呂で父の口ヒゲが口輪に似ていると述べるのだ。つまり、「口ヒゲ = 口輪 = 口の周りの黒」をハンス自身確認するのである。

 続いて恐怖症の新たな展開を見てみよう。4月3日の午後、ハンスは恐怖の条件について新たな言明を行う。旋回時に馬が転ばないか不安、荷積みのときにいきなり動き出さないか不安、大きい馬や粗野な馬が不安、早く通り過ぎる馬が不安などと様々に言われる。

 この意味はすぐに明らかになる。それはつまるところ馬と馬車が転ぶのではないかという不安なのであり、「馬が噛む」とされ本来の馬恐怖症が生じた日に、乗り合い馬車が転んだのを母と一緒に見たことが明らかになる。それが不安の馬への転移の発端だった。ハンスは馬の転倒に大きな不安を覚え、また馬が足をばたばたさせたのがとりわけて不安だったという。こうして今や不安を起こすのは転びやすい重荷を積んだ馬車である。先の雑多に見えた諸条件はすべて転びやすさと結びついている。

 これは二つの方向に展開する。ひとつは父への敵意の文脈との関連であり、このことは、転んだ馬は死んだのかという父の質問に、まずは笑いながら死んだと答え、続いて冗談だと真剣な顔で否定することや、父への敵意について尋ねられると遊んでいた馬のおもちゃを転ばせたりすることで示唆される。またハンスは最初の転倒の場面で父のことを考えたことはありうると即座に認めている。

 この方向で決定的なのはある馬に関してとても傲慢そうで転びやすそうだから不安だとハンスが言明したとき、傲慢なのは誰かと尋ねた後の応答だろう。ハンスは明確に自分がママのベッドに行くときのパパだと答える。パパは裸足で石にぶつかり出血するべきなのだ。そうすればママと少し二人で居られるし、パパが帰ってくるときには見つからないようにさっと逃げるのだと言うのである。

 この「裸足で石にぶつかり出血する」とはグムンデンでライバル的存在だったフリッツルが馬遊び中に石にぶつかって出血した出来事に即して言われており、このときハンスは父もそうなるべきだと考えたという。

 もうひとつの方向は排泄から出産へと流れる筋である。ハンスはまず馬の足がばたばたすることを遊びたいのにトイレに行かなければならないときに足をばたばたすることと結びつけ、さらに排泄物を思い出させるものへの吐き気を語るようになる。このあたり父はハンスの向かう方向が分からなくなるのだが、話はすぐに妹とその出産の方に向かうことになる。

 精神分析にとって連想の時間的連続は内容的連関を意味するわけだが、フロイト曰く、ここではそれは明確である。幼児にとって赤ん坊は母のお腹が膨らんだ後に現れ、現れると母のお腹がへこむ何ものかである。それは母のお腹から出てきたとしか推測出来ないが、そのようなものとして彼らが知っているのは「うんち」だけである。

 だから幼児が自ら生み出す「幼児性理論」にとって子どもと「うんち」は象徴的に結びつく。実際、男児にとっても女児にとっても膣が発見されるのは一般にかなり後であり、赤ん坊はお尻から「うんち」のように出てくるという排泄腔理論による理解が一般的にならざるをえない。だから、排泄物から妹の出産へと話は移行するのである。精神分析が語るこの種の象徴的結びつきを胡散臭く思う向きがあるかもしれないが、その一般的な正当化の試みは次節に譲り、ここは話を先に進めよう。

 この流れの中で、ハンスは、妹が妊娠5ヶ月だったハンス3才時のグムンデン訪問にも、妹は「箱の中」で同行していたなどとして妊娠に関する知を示唆する。最後には母胎、箱、そして重い荷物を積んだ馬車が結びつけられる。馬が転ぶことへの不安は父への敵意によって父がいなくなったり父に罰されたりする不安だけではなく、排泄にかかわる不安を経由して、母の出産への不安でもあるのだ。

 また終盤にはハンスは馬をむち打つ空想を披露し、そうしたら馬が転んで暴れたなどと言って「馬が転ぶ」事態とそれを結びつける。聞くと本当にむち打ちたいのは母であり、「馬が転ぶ」の背後には母へサディスティックな願望も隠れていることを伺わせるが、これは先の母へのサディスティックに構想された性器的欲動の蠢きを継続している。

 何はともあれ、「馬が転ぶ」という表象への不安が父への敵意へ、そして遅ればせながらの「子どもが母から生まれる」という啓蒙で母の出産へ、さらに母へのサディスティックな願望へと、いわば、本来の場所に差し戻されて言語化されたことにより、恐怖症はほぼ完全な収束を見るのである。ハンスはまた不安なしに町に出て行けるようになる。

1-3、総括、そして「小さなエディプス君」の幸福な結末

 さて、私たちの関心からして以上の経過をまとめると以下のようになるだろう。ハンスの馬恐怖症をフロイトははじめ母へのリビード、母への愛の要求が抑圧され不安に転化し、それが馬に遷移されたと説明しようと試みたが、それは症状が解消されなかったことで失敗だと分かる。そもそも、抑圧の理由が説明されていないし、また母が付き添っても不安だったことに説明がつかない。

 しかるに最初の介入の一端をなした女性器についての啓蒙が次の展開への突破口を開いてくれた。そもそも、「白い馬に噛まれる」という恐怖が、その背後に自慰とその罰への恐怖をのぞかせていたが、この女性器に関する啓蒙が否定され、さらに自慰が母親にも帰せられることで事態が見通しやすくなる。母親にも自慰が帰せられるのは母親の罰の脅しが脅威だったからであり、啓蒙が否定されるのは、それがその罰、つまり「去勢」の現実性を高めるからである。「白い馬が噛む」は「去勢不安」の遷移なのである。

 しかるに続く日にハンスは自分なりに「去勢不安」の一定の克服を達成する。またそこではおちんちんの大きさへの不満と見なしうる言明がある。それは何に由来するのか。そして克服は何を帰結するのか。

 続いて現れるのはキリン空想へと歪曲されたエディプス・コンプレクスであり、ここでハンスは自らの女性器の知覚に「くしゃくしゃのキリン」なる表現を与えるとともに、母への愛に基づく父への敵対心を表面化させる。これが「去勢不安」の克服とともに表出されるという連関は興味深い。「去勢不安」の克服とともに無意識的素材が表出されることは、この「不安」が抑圧を引き起こしていたことを推論させ、後期不安理論への道が開かれる。

 以上をまとめれば、「白い馬が噛む」の背後にある「去勢不安」は「母への愛に基づく父への敵対心に対する父の罰」として捉えられており、また「女性器の知覚」はこの不安を高めるものなのだ。そうでなければ、「去勢不安」の克服が、キリン空想における、「母への愛に基づく父への敵対心」、すなわちエディプス・コンプレクスの表出と「女性器の知覚」の引き受けを可能にしてくれるという連関は理解出来ないだろう。

 またおちんちんの大きさへの不満はいまやライバルとなった父との比較に由来しており、母が父を選んでいるという事実に直面して自らと父を比較するとき、ハンスは自らの自己規定の中核に存する「ソコ」に原因を見出すのである。

 この連関の必然性には、母へのエディプス的関係に性器興奮が結びついていることも寄与しているだろう。この母と性器興奮との結びつきは、さらに続く侵犯空想が母に向けられた性器感覚に淵源する類いの侵入的でサディスティックな願望として読みうることから確認される。キリン空想と侵犯空想は二つで「エディプス・コンプレクス」に完全な表現を与える。

 さて、フロイト訪問は、母への愛に由来する父への敵対心と、それによる父からの罰への不安を馬恐怖症に結びつけるが、この解釈はハンスが父に体当たりをしたこと、そしてそれへの父の反応にハンスが与えた罰という解釈によって部分的に確証されるし、続く日に「初めての本質的な改善」が見られるようになることからも支持される。

 さらに父をめぐる不安が父への愛にも由来していること、自分が悪い子なので父がいなくなってしまうのではないかという不安でもあることが明らかになる。

 こういった父との関係の表出を通じてハンスと父との間には信頼関係が成立し、恐怖症、つまりハンスの無意識は更に自らを展開する。恐怖症の本来のきっかけとしての「馬が転ぶ」ことが現れるが、この背後にあるのは父の死への願望である。だからハンスは馬は死んだと言ってから即座にそれを真剣に否定するのだ。父の死への願望は強く抑圧されている。

 さらにフロイトはハンスが恐怖の内容について「馬が転んで、そして噛む」と言ったことに基づいて、「馬(父)は、ハンスが馬(父)なんて転んでしまえと願望するから、ハンスを噛む」、つまり「去勢する」とまとめている[Ⅶ:285=10:57]。馬(父)が転ぶことへの恐怖の背後には、それを願望する自分が馬(父)に噛まれる(去勢される)という不安が隠れているわけだ。

 しかるに「馬が転ぶ」の背景にあったのはそれだけではない。それはまず馬が足をばたばたさせたというところから排泄のテーマへと移行し、それは「うんち = 子ども」の象徴方程式に従って妹とその出産のテーマへと流れ込む。ハンスはコウノトリを信じてはおらず、母の母胎、「箱」の中に妹がいたことを示唆する。

 最後には、母胎と馬車がハンス自身によって結び合わされ、重荷を積んだ馬車が転ぶことへの不安の背後には出産への不安が、それによって母とまた引き離されることへの不安が見通されることになる。さらに付け加えれば、馬が転ぶことへ連なる馬をむち打つことの背景には母へのサディスティックな願望も隠れていた―侵犯空想で見られた通り、性交の予感はまだサディスティックな行為としてしか構想され得ない。

 さて、こうして恐怖症はその背景にある無意識の願望へと、抑圧によって無意識化されていた諸表象へと還元され消滅した。それは無意識的な願望の一定の意識化によって可能になった。

 とすれば、この意識化された願望がどう処理されたかが最後の問題になるだろう。この点を示すのがハンス少年の最後の三つの空想である。前章で触れた養育者の立場をとることで肛門的な快を再肯定している第二の空想を除く三つを見てみよう。一つ目は4月30日。ハンスはかねてから子どもを持つ空想を披露していたが、それに連なる空想であり、二つ目は5月2日の空想である。

ハンスがまた彼の想像上の子どもと遊んでいたので、私はハンスに言いました。「どうしてまだおまえの子どもは生きているんだい。[子どもは母から生まれると啓蒙したのだから]もう男の子は子どもを持てないって知っているだろう」。
ハンス:「僕はそれはもう知ってるよ。前は僕はママだったけど、今では僕はパパなんだ」。
私:「じゃあ誰が子どもたちのママなの?」
ハンス:「いや、ママだよ。そしてパパはおじいちゃんなんだ」。
私:「それじゃおまえは私みたいに大きくなって、ママと結婚して、そしてママは子どもを持つってなわけだね」。
ハンス:「うん、僕はそうしたいよ。そしてラインツに住んでいる人(私の母)はおばあちゃんなんだ」。[Ⅶ:332=10:124]

朝早くにハンスが来てこう言いました。「パパ、僕は今日何かを考えたよ」。はじめ彼は忘れていたようですが、後になってかなりの抵抗のもとで以下のように物語りました。「配管工がやってきて、ペンチで僕のお尻を取り外して、別のお尻をくれたんだ。そしてそのあとはおちんちんだったの。配管工がお尻を見せてと言ったから僕は後ろ向きにならないといけなかった。そして彼はお尻を取り外したよ。そのあと彼はおちんちんを見せてと言った」。
 父は願望空想という性格を見てとり、全く迷わずに唯一許された解釈に到達する。
私:「彼はもっと大きなおちんちんともっと大きなお尻をくれたんだろう」。
ハンス:「うん」
私:「パパが持っているようなのじゃないか。おまえはパパになりたいんだから。」
ハンス:「うん、あとパパがもっているようなヒゲもほしいな、あとそんな毛も」(胸毛を指しながら)。[Ⅶ:333=10:126]

 さて、フロイトのコメントは「すべてうまくいったようだ。小さなエディプス君は運命が定めるよりも幸福な解決を見つけたのである」[Ⅶ:332=10:124]というものである。その意味するところは明確だろう。

 ハンスは分析の経過中に女性器の知によって「去勢コンプレクス」を経験しつつ性差の意味を知り、さらに出産の啓蒙を通じて、今や明確に「ママ」ではなく、「おちんちん」を持つ存在として「パパ」と同一化する。「エディプス・コンプレクス」で母がすでに対象として選択されていたが、いまや父が自分の同一化対象として明確に浮かび上がるのである―「前は僕はママだったけど、今では僕はパパなんだ」。

 これだけであれば多くの男児が―正確にいえば男性的な立場をとる異性愛的な男児は―経験することだろう。ハンスがより幸福なのは、父との敵対を父に祖母をあてがうことで解消し、直ちに母と結びつき子どもをもうける―後のフロイトは異性の親と子どもをもつことがエディプス期の子どもの最大の願望となっていることを指摘している[ⅩⅡ:207=16:131]―ことに存している。

 ハンスは父と同一化するだけでなく、父を置き換えるのであり、だからすでに彼は「大きなおちんちん」を所持しているわけだ。これは去勢不安の最良の克服だろう。フロイトが言うように、おちんちんは取られてしまうかもしれないが、それはもっと大きなものと交換されるためだというのだから[Ⅶ:335=10:129]。

 さて、これと対比して考えれば「運命が定める」結末も明らかだろう。普通はハンスのように去勢不安の部分的克服によってエディプス・コンプレクスが表出されるようになるのではなく、去勢不安のためにエディプス・コンプレクスは断念され「抑圧」されたままに留まり、母へのリビード備給と父への敵対心と罰への不安が「無意識」の中核に座することになる。

 さて、去勢不安を現実化する性器の差の知は、性器が際立った関心の対象となるファルス期には何らかの仕方で得られているだろうから、確かに男児は性差の意味を知り、「おちんちん」を持つものとして多く父に同一化する―去勢不安が男児に男性性を保持させる力は狼男を論じるところでより明確化する―だろうが、それはかくしてハンス的な即座の置き換えではなく、現在における断念と将来的な期待に留まる。いきなり「大きなおちんちん」はもらえないのであり、ハンスが分析の中途で言ったように「僕が大きくなった」ときの成長に期待することしか出来ないのである。

 このあたりの機微をフロイトは後に、エディプス・コンプレクスの継承者にして父の内在化である「超自我」は「父のようになりなさい」と「父のようになってはならない」の二重性であると表現している[ⅩⅢ:262=18:31]。父との敵対関係を解消し「父のようになりなさい」しかない幸福なハンスは、即座に「大きなおちんちん」をもらって父になってしまう。

 しかるに普通はエディプス・コンプレクスを断念し抑圧させる「父のようになってはならない」、あるいは少々言い換えると「父には敵わない」が響いているのであり、そこでは去勢不安に即して言えば、おちんちんはちょん切られてしまうかもしれないし、あるいはおちんちんはまだ十分に、つまり父ほどには大きくないのである。先取りしていえば、このエディプス・コンプレクスにおける父との関係の二重性、「超自我」の二重性、その二つの「配分」のうちに、フロイト的な男性性の全本質が存在している。

 ところで今見た最後の点、つまり「おちんちんが父ほどには大きくないから母との関係において父には敵わない」というハンスも明らかに形成していた思考―そうでなければ最後の配管工の空想はいらないだろう―のうちに、「おちんちんの大きさ」をめぐる「狂騒(曲?)」とでも呼びたくなる事態―自分のは小さいのではないか?もっと大きくするべきなのではないか?―の根源を見るべきだろう。

 さて、フロイディアンたる私たちは、後にドーラ症例のところで触れるように、「合理的 = 意識的」には理解出来ず、また「合理的 = 意識的」な議論によって解消し得ない過剰な思考にはすべて「無意識」の源泉を見出すよう教えられているわけだが[Ⅴ:215=6:65]、ここでその源泉を見出すのは容易だろう。
 
 それは「無意識」の中核に鎮座しているエディプス・コンプレクスにおいて形成された先の思考なのであり、そこでの比較の対象は子どもから見た父のそれなのであって、問題はエディプス的な挫折経験の無意識的作用の残存なのである。

 エディプスという原初的な場面は、この観点からみるならば、子どもにとって「母は僕ではなく父を選んでいる、その理由はおちんちんの大きさだ」という体験なのであり、そこに「おちんちんの大きさ」の意味作用の根源がある―「大きいことはいいことだ」という意味作用は自明ではなく、その発端ないし根源を問うべきなのだ。

 こういうわけで、エディプス・コンプレクスが十分に克服されていない限りで、一般に男性にとって「大きいおちんちん」が欲されるのだし、そのような子どもからみた「父」のそれが比較対照である限りで、自分のそれは常に小さいのである。これはある意味で最も分かりやすいエディプス・コンプレクスの作用かもしれない。

 ハンスにおいておちんちんの「去勢」と「大きさ」の問題が最後の配管工空想に見られる通り密接に結びついていたが、フロイトは「去勢」についてはいつも熱心に語るものの、後者の問題については私の知る限りハンス以外の場所では―映画『タイタニック』での有名なほのめかしにも関わらず―あまり扱わなかったように思われる。

 さて、長くなった本節を締めくくろう。ハンスは19才のときに家でこの論文を見つけ、ハンス少年が自分だと気付いてフロイトのところに訪ねてきた。ハンスはここに書かれているようなこと一切を忘れていたが―ということは、ÖKはやはりその後緩やかにではあれ抑圧されたのだろう―、何の問題もない健康な青年に育っていた。

 そして特筆するべきはハンスが後に音楽の仕事につきオペラ演出家となったことだろう。それは音楽評論家だった父親と軌を一にする職業選択なのである。それは父と同じ道を歩むかどうかの決断を迫られる状況、父との葛藤状況が発症因だった鼠男と完璧な対照をなしている。しかし、鼠男に進む前に、ハンス症例を一つの契機としつつ練り上げられたエディプスと去勢にまつわるフロイト理論を概括的に見ていこう。

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第3章 リビード発達論と自我発達―乳幼児の世界経験への問い
第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(2)

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

References   [ + ]

1. 「私たちにはお馴染みとなっている把握ですが、病理は、ことを誇張したり大雑把にしたりすることで、それがなければ見ることの出来なかったような正常な連関に注意を向けさせてくれます。(…)もし私たちが結晶体を地面に投げつければ、結晶体は砕けますが、恣意的な仕方で壊れるのではなく、それぞれ決められた分裂方向に沿って部分部分に崩壊するのであって、その境界は、目には見えていませんでしたが、その結晶体の構造によってあらかじめ規定されていたのです。精神が病んだ人たちもまた、このように亀裂が入って砕けた構造体です。(…)狂人たちは外界には背を向けてしまっていますが、まさにそれゆえにこそ、内的ないし心的な現実についてはより多くを知っており、それ以外の仕方では私たちにはアクセス出来ないことをいろいろ漏らしてくれるのです」[ⅩⅤ:64=21:76-77]。
2. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
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