第3章 リビード発達論と自我発達―乳幼児の世界経験への問い

 さて、「両性性」と「多形倒錯的素質」から始まって様々な「編成」ないし「体制」が立ち上がる発達史、フロイトのいわゆる「リビード発達論」を追いかけていこう。フロイトはリビード発達と自我発達を連関させつつも区別しており、それに従って私たちも両者を区別しつつ、それらの発達をその絡み合いにおいて叙述する。

 私たちの読解の基本的な観点は、先にも述べたが、「リビード発達論とは幼児自身がどう世界を経験しているかを表現しようと試みるものである」というものである。問題となっているのは幼児自身の内的経験であり、私たちの世界経験の形を無条件の前提とはせず、幼児自身に現れているように世界を見ようと試みることが決定的なのである。

 これはフロイトの精神分析に関する私たちの先に示した基本的理解に適合的である。フロイトは人間の行動に関して、例えば夢や錯誤行為に関して、そして神経症の症状について、「不合理」「馬鹿げた」「無意味」「単なる不注意」などを認めずに、常にそれを有意味なもの、広い意味で合理的なものとして理解しようとつとめた。

 さて、このような行為の有意味な理解のために参照する必要があるものは何か。それは客観的な現実ではなく、その現実をある人がどのように経験しどのように意味付けたかである。そのような「心的現実」への参照からのみ、その人の行動の有意味な理解が可能になる。だから患者の理解のために組織されたフロイトのリビード発達論は幼児自身の内的経験、その「心的現実」を取り扱うのである。

 もう一度確認しておけば、ここでは四つの知の源泉に配慮しなければならない。つまり、一つには「精神分析が明らかにした」幼児期記憶の想起であり、もう一つには患者たちの私たちから見れば奇怪な言動が、そして私たち自身の日常的なあり方が有意味であるためには「想定しなければならない」ことである。ここにこそ私たちが精神分析理論について言及する際、「~だと想定しなければ、理解できない、説明できない」という言い回しを用いることの根拠があったのだった。

 更に二つの知の源泉として、幼児の観察からくる推測と幼児の内的世界に関する基礎的な「諸想定-諸推測」が挙げられなければならない。これら四つの知の源泉に配慮しつつ私たちはリビード発達論を検証する必要がある。

1、「欲動」とは何か――「リビード発達論」の出発点

 さて、ではその叙述をどこから始めるべきか。最後に指摘した基礎的な諸想定からだろう。では、フロイトのこの点に関するもっとも基礎的な想定とは何か。

 ここでフロイトが、精神分析の経験によって明らかにされた諸事実で構成され、また精神分析の諸事実を位置づけ可能にする体系的心理学の試み、フロイトの思惟の最盛期の産物と見なしてよいであろう、いわゆるメタサイコロジー諸編の一番はじめに「欲動と欲動運命」を置いたことの意味を正しく評価しなければならない[以下本節につき、Ⅹ:211-216=14:168-174]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.。つまり、フロイトにとってもっとも根源的な想定は「欲動(Trieb)」なのであり、そのことはある種の「身体性」からの出発を意味する。

 では「欲動」とは何か。フロイトは生理学の「刺激-反応」モデルから出発している。例えば私たちが熱い鉄板に触れてしまったとしたら「あちっ」となって手は反射的に鉄板を離れるだろう。私たちは、あるいは生物一般は、もっとも原初的には、外界の刺激に対してその刺激を反射的に逃れるという仕方で反応を行うのである。

 欲動は、もっとも単純にはこのように考えられる刺激の一種なのだが、二つの限定がつく、それは「心的なもの」に対して「身体内部から」発する刺激である。つまり、「欲動」は単に反射的に反応されるのではなく、反応に際して「心的なもの」に媒介されるのだ。

 一番分かりやすいのは「飢え」や「乾き」だろう。それを私たちは喉やお腹のあたりの不快な刺激として「感じ」、しかるのちそれによって意図的な行動へと促されるのである。そして、ここでフロイトが重視するのは、身体内部からくる欲動の内的刺激は、外からやってくる外的刺激とは性質が違うということである。

 外的刺激は一回的である、というより、それから筋肉運動を通じて即座に逃れられることで一回的なものとして処理しうるのに対して、内的刺激はいくら体をばたばたさせても解消されないという意味で恒常的である。そしてフロイトはここに赤ん坊の世界経験の根源を見る。

 赤ん坊は、原初的な生命体よろしく不快な刺激を避けようとする―これは赤ん坊の「内的世界」、その関心構造にとって不快な刺激とその解消としての快こそがもっとも重要なものとして立ち現れていることを意味する―のだが、そこにおいてこの刺激の質の区別にぶつかり、初めて内と外とを識別する指標を得る―赤ん坊はそこでしか区別なるものにぶつかれない、それ以外に関心はないのだから。

 かくして外なるものとは根源的には筋肉運動で逃れうる不快な刺激であり、内なるものとは逃れ得ない不快な欲動刺激である。というより、逃れられない不快がその逃れ得なさによって「内」なるものとして認定を要求するのだ。

 かくしてフロイトにとって「自我」とは原初的には「逃れがたい不快」なのである。もちろん、この段階の赤ん坊には「自我」など存在せず、それへといずれ収斂する「内」が漠然とあるだけなのだが。

 ここでフロイトの「欲動」に関する更なる規定を見てみよう。それは今まで見てきたように心に現れる身体、「心的なものと身体的なものと境界」なのだが、それが心的なものに現れる一般的様態は「衝迫(Drang)」、つまり、それが何かをするように私たちを圧迫するということである。

 さて、では欲動がするように駆り立てる「何か」とは何だろうか。それは欲動の刺激を鎮めて満足させることであり、欲動の「目標(Ziel)」は満足である。その目標の形は欲動の「源泉(Quelle)」から、つまり、欲動刺激がそこから発する身体器官によって規定されている。

 だが、重要なことは、私たちの心は身体内部の刺激過程を見ることは出来ないので、「源泉」を直接には知り得ないということである―フロイトは意識から出発する「心理学」の限界をよく守っている。

 では、何によってそれらを知ることが出来るのか。「心的なもの」とは「表象」なのだから、それが明確に知りうるのは「欲動」に付着している「対象」と「目標」の「表象」だけである。身体的なものの心的な現れである欲動は心的であるために「表象」に付着している必要がある。

 欲動は表象に代理されなければ心的なものたり得ない。そして、その「対象」は欲動の満足という「目標」に適することで選ばれるのであり、この「対象」と「目標」を通じて私たちは欲動の「源泉」を推測しうる。

 フロイトの欲動の規定で注意するべきは、「対象」に対して「目標」が先行しているということである。「目標」に比べれば「対象」は二次的であり可変的なのである。

 これはフロイトが『性理論三編』の第一編で「性欲動」は最初から特定の「対象」、つまり普通そう考えられがちであるように「異性」に付着しているわけではないという結論を出したことと関連しているし、またこう想定しなければ欲動の「表象代理」の抑圧によるエネルギーの他の「表象」への移動という神経症の根本機制が説明不可能になる。

 そして事情を更に複雑にするのは、特定器官に源泉を持つ部分欲動が全てなのではないということである。フロイトは欲動を自己保存欲動と性欲動に大きく二分したが、少なくとも性欲動、つまりリビードに関していえば、先に見た口唇欲動が性器的欲動の興奮をもたらすといったことに現れているように、そしてあるところで満足が不可能になれば別のところで代理満足が求められるといったこと、つまり「退行」や「目標倒錯」の存在からも分かるように、器官欲動の間にある種の交通回路を前提とせざるを得ず、したがって、器官から一定程度独立したある欲動全体、身体全体あるいは自我全体に対応する「欲動」を想定せざるを得ない。

 「愛」のフロイト的な定義は、単なる部分欲動ではなく自我全体に対応するリビード備給であり、ここに愛する人へのリビード備給といった、単に「部分欲動-部分対象」的ではない全体自我的なリビードが語りうるようになる。

 しかるに、今までの議論の流れが示すように、このようなリビードの交通回路とそれによる一定の全体性の想定は性器の役割によってのみ可能になるから、後に詳論するが、フロイト的には「愛」の可能性は性器優位の確立に存している[Ⅹ:230=14:190]。

 さて、欲動について最後に述べるべき基本事項はその分類に関わることである。フロイトはこの点に関しては、自己保存の要求に関わる「自己保存欲動」ないし「自我欲動」、例えば食欲や排泄欲と、部分欲動としては前者に「依托」して始まりつつ、それから独立して「快」の獲得を目指すようになる「性欲動」とを区別した。今更述べるべきことでもないかもしれないが、「リビード」とは後者の性欲動のみを指す語であり、欲動の一下位区分である。

2、なぜ「穴」がそれほど重要なのか―あるいはなぜ幼児の経験は全て性的なのか

 さて、「リビード発達論」に回帰しよう。重要なのは赤ん坊になって考えてみることだ。赤ん坊にとって関心の対象となっているのは不快な刺激であり、それが彼らの世界の中心であって、そこで持続的で回避不能な内的刺激が「内」と「外」との区別の指標として浮かび上がってくる。

 だが、赤ん坊にとって重大な欲動刺激とは何か。それはまず何よりも自己保存欲動と関わりのある欲動刺激であり、「空腹」「乾き」と「排泄」に関わる欲動だろう。これが満たされなければ人間は死んでしまう。

 私たちをその解消へと圧迫する空腹や乾きの不快な持続的刺激、そして排泄物が溜まってまさに出ようとしているときの不快な持続的刺激は私たちにもよく知られたところだ。とりわけ、毎朝電車通学・通勤をしている人なら排泄欲求がどれほどの不快と緊張を強いるかをよく知っているだろう…。

 さて、それはそれとして、何度でも注意するべきことだが、私たちがそれらの不快な刺激を自分の身体の特定部位に帰しているのに対して、赤ん坊にはまず自分の身体なるものの明確な像は存在せず、その確立こそがまずもって問題だということである。かくして赤ん坊にはまずはいくつかの不快緊張の場所がバラバラに感じられ、そのしつこさによって内なるものと認められ始めているに過ぎない。

 次に考えるべきは、その不快緊張の解消の有様である。重要なのは、その解消がどれも内と外との交通、すなわち、食物の摂取と排泄物の排出によるということだ。だから赤ん坊の内的世界において、その交通が起きる場所、内と外との交通路、つまり、諸々の「穴」がそれを通じて不快が解消される場所、「快」の場所として浮かび上がってくる。

不快な欲動刺激が内と外とを区別させ、その解消において内と外との交通路としての「穴」が快の場所として浮上する。もちろん、これこそフロイトがしばしば列挙する性器以外の三大性感帯、すなわち、「口唇・肛門・尿道」の起源であり、「性感帯」、つまり、身体表面においてもっとも敏感な快の場所が穴という形象に集中することは、性的な器官欲動が自己保存欲動の活動に「依托」して現れるというフロイトの仮説を正当化するだろう。私たちはこれ以外に「なぜ穴がそれほど重要なのか」を理解する術を持っているだろうか。

 そして私たちはここから全ての帰結を引き出しておこう。ここから分かるのは、(乳)幼児期において快がそこで生じる場所として経験されたところが将来には性器に興奮を伝達する「性感帯」として自らを主張するようになるということであり、(乳)幼児期の快経験が性的なものを性的なものとして立ち上がらせるということである。ここにフロイト的に把握された「性器」の本質規定を与えることが出来るだろう。「性器」とは身体の生み出す快から興奮を集める器官なのである。

 以上を踏まえると私たちは「性生活は身体の諸領域から快を獲得するという機能を包括(umfassen)しており、それが事後的に生殖に役立つようになる。このふたつの機能は完全には一致しないことがしばしばである」[ⅩⅦ:75=22:187]というフロイトが最晩年に書き付けたテーゼの前半部分をもっともラディカルな意味で理解することが出来るだろう。

 乳幼児期の快経験こそが何かを「性的なもの」として立ち上がらせる。だからこそ逆に「性」とは身体から快を得ることすべてを包括するものなのだ。そして欲動と幼児の心的生活についての私たちの根本的想定からいえば、「身体の領域からの快の獲得」以上に子どもの関心を惹くもの、子どもの内的経験において目立ってくるものは何も存在しないだろう。

 かくして私たちは子どもの内的経験を考えるとき、幼児期の経験はある意味で全て、あるいは少なくとも大部分「性的」であると考えざるを得ないのである。幼児期の快経験があるものを性的なものとして規定するが、幼児は快にしか興味がなく、だから、その経験のすべてが性的なのである。

 そして、それゆえにこそ、幼児期に成立する「抑圧」にあって性的領域が特権的に重要なのだ。

3、「リビード発達」と「自我発達」―あるいはなぜファルスがそれほど重要なのか

3-1、口唇期―「内」と「外」の区別に関する二つの動向

 さて、そろそろリビードと自我の「発達」そのものに立ち入っていこう。フロイトがリビード発達の最初の段階として口唇期を立てていることは、赤ん坊の内的関心が最初は空腹という欲動刺激とその解消を中心に構造化されているということを意味する。

 赤ん坊は母乳ないしその代替物を啜ることで不快な欲動刺激を解消する快を得る。だから「母の乳房」はもっとも根源的な対象である。この生理的な快に依托し、それを再現しようとして口唇欲動が性欲動として自律していくが、それはおしゃぶりに満足を見出し、その特権的対象は指などの自分の身体であって、こういった部分欲動は自分の身体を対象とするという意味で「自体愛」的なのである。

 このおしゃぶりは自分の身体の一部をしゃぶることで、そこにも「快」をいわば転移させて二次的な「性感帯」を作り出していくが、ここで注目しておきたいのはフロイトがおしゃぶりについて、それと同時に赤ん坊たちはしばしば耳をリズミカルに握ったりすると述べていることである。赤ん坊たちは他人の一部を握ったりすることもあるのだが、それもたいてい耳であるという[Ⅴ:80=6:230-231]――ドーラがそのような想起を報告している[Ⅴ:211-212=6:61]。

 このようなことを通じて耳にも快が転移され、それは性感帯として目立ってくるのだろうが、思うに、耳が選ばれる理由は赤ん坊の短い腕にとって耳がとりわけ握りやすい場所にあり、またその不器用な手にとってそれが身体から突出していることで握りやすい形状をしているということだろう。

 このような快の転移のプロセスによって身体はあらゆる場所が性感帯であり得るが、以上の事情からして耳は性感帯たる蓋然性が高いと言えるかもしれない。何にせよ、このプロセスについて考えてみることは、幼児期に経験された快こそがあるものを性的なものとして際立たせるのであり、快しか経験し得ない幼児にとって、全ての経験がある意味で性的であるというテーゼをより説得的にするだろう。

 さて、先にフロイトがもっとも原初的な区別として欲動の不快な刺激の質に依拠した「内」と「外」の区別を想定していることを確認したが、この「内」と「外」の区別に関してフロイトはリビード発達の過程に寄り添う形でかなり錯綜したことを述べている。先に進む前にこの点についての私たちなりの解決を明らかにしておきたい。それは「内」なるものとしての「自我」の発達の基礎を明らかにすることに通じている。

 まずはその錯綜をフロイトに即して確認しよう[Ⅹ:226-229=14:186-189]。フロイトによれば先の「内」と「外」の区別に基づいて二つの動向が生じる。第一は、性欲動の自体愛的な側面に対応する動向だが、この面に関していえば赤ん坊は自分の身体だけで一切を満足出来るわけで、そこでは「内」が快の場所であり、「外」はどうでもいいものとして無関心なまま放置される。ここでは先の「内」「外」区別から逸脱することはなく、身体の「穴」や「表面」の快が追求されているわけだ。

 第二は、自己保存欲動の経験に対応するものであり、そこではどうしても自分だけでは解消出来ない欲動の不快を経験せざるを得ない。しかるに、口唇欲動中心の世界関係は「快を与えてくれるものを内に取り込む」というものであり、その帰結として、第一に、ここで快を与えてくれるものへの行為としての愛は、対象の取り込み、その破壊と一致する。このような原初的な世界経験に裏打ちされた愛の形、広くいえば世界との関係の形は、のちのちまで私たちの愛の形、世界との関わりの形を規定するというのがリビード発達論の基本的前提である。

 そしてこちらが今の議論の流れで重要なのだが、その第二の帰結は、赤ん坊の世界像が不快の質に依拠する現実的な内外の区別から逸れて、「取り込み」の結果として、快なるものとは全て内であり、不快なるものは全て外であるという「快-自我」なるものへと歪められるということである。

 ここでは快を取り入れるという口唇的な世界との関わり方に応じて、またフロイトに言わせると赤ん坊は知覚と想起を区別しておらず、かつてあった快を幻覚的に再現しようとするので―実際、私たちは夢で幻覚的な満足を経験するし、ある種の精神病ではこの幻覚的な満足のために現実認識そのものが怪しくなる以上、赤ん坊にそれを拒む理由はないだろう―快なるものが全て内とされ、不快なものは外に追い出されてしまうわけだ。

 自己保存欲動の不快な刺激に対する口唇的な満足のあり方と幻覚的満足の能力が、母親の密着によりある程度欲動が即座に満たされることとあいまって、赤ん坊の「現実-自我」を、「快は全部内にあり、不快なものは外である」という「快-自我」へと歪めてしまうのである。これは自分のうちの不快なものを外在化し他者に帰する「投影」のメカニズムの基礎でもある。

 この「快-自我」はいつまでも母が密着してくれているわけでもなく、幻覚的満足の努力には限界があるということによって挫折し、赤ん坊は見えており感じられているものが本当にあるのかを確認する、つまり想起ないし想像と知覚を区別する「現実検証」を強いられることになる。

 さて、この二つの議論の流れはどちらもそれ自体としては理解出来るものだが、二つをあわせるとやはり座りが悪いという印象が残る。一方で「現実-自我」的な「内」と「外」の区別があり、他方で「快-自我」的な「内」と「外」の区別があると言うのだから、その関係をどう考えればよいのかという疑問が残る。

 これを「現実-自我」から「快-自我」へという時間的交代の論理で捉えればよいという考えもあるかもしれないが、その両者が自体愛と自己保存欲動という同時的に存在する源泉にそれぞれ依拠している以上、その見方には―フロイト自身がその方向を指し示しているように見えたとしても―説得力がない。ここで思いつくのは、ひょっとすると私たちの「内」と「外」の区別にも二つの系列があり、以上の二つの議論の流れは根本的にはそのそれぞれに対応しているのではないかというものだ。実際、それこそ私たちがこれから提案したい読み方である。

3-2、「自我発達」の基本的把握にむけて――「主体平面」と「対象平面」

 議論は本稿でもっとも思弁的な部分へと突入するが、ここはフロイトの教説のもっとも基礎的な部分であり、手を抜くわけにはいかない。
 
 さて、私たちが世界を虚心坦懐に経験してみると、もっとも根源的な事実は「現れている」というものだろう。まずもってあるのは「現れ」である。だが、即座に気付くのは「内」と「外」と呼ぶことの出来るような区別が私たちにあって二つ成立していることである。

 第一は私が「主体平面」における区別と呼びたいものであり、その本質は「現れ」の場そのものの自己関係化である。つまり、「現れ」がまずあるのだが、私たちはこの「現れ」は「私にとって」現れているのであり、それは世界そのものではないという区別をしている。

 いわば「現れ」全体が「私」に関係付けられているのであり、この「私」は「一切の表象に伴いうる」「私が考えているのだ」という「私」として、カント風にいえば「超越論的統覚」である。

 もう一つの区別は私が「対象平面」における区別と呼びたいものだが、それはこの「現れ」の内側にもある別の「内」と「外」の区別が成立していることに注目する。つまり、「身体」と「外界」との区別であり、現れてくる一切の中で「身体」が「内」なるものとして特権的な地位を占めているわけだ。

 そして重要なのはこの二つの区別の重なり合いである。私たちにあって「現れ」は自己関係にもたらされ、すべての「現れ」は「私にとって」現れているものとなり、私に現れているものと世界そのものという「内」と「外」の区別が成立するのだが、この「現れ」のうちにも「内」と「外」の区別があって、それは「身体」とそれ以外の「外界」の区別である。

 そしてこの二つは、世界がそこに現れ、そこで感じられ、そこで見られている「私」はこの「身体」に属しているという仕方で繋がっているわけである。

 そして問いはこうなる。この連関はいかにして成立するのか。私たちの仮説はこうである。フロイトが先に見た議論を通じて論じているのは二つの区別とその連関の生成過程なのではないだろうか。

 このことを示すように試みてみよう。フロイトのもっとも根源的な想定である「欲動」によって、すでに後に「心的なもの」と呼ばれるようになるような「現れ」の場が立てられている。赤ん坊にも何かが「現れ」ている。その「何か」とは、赤ん坊が生命体である限りでまずもって見るべきであるもの、つまり先に見たように不快なる刺激とその解消としての快であり、赤ん坊は不快を察知して快の方へと動こうとする。「快-不快」がその動きを規定する規則であり、赤ん坊は「快原理」に従う。

 その不快にも二種類あって、それは一回的な外的刺激と恒常的な欲動刺激であり、もちろん、後者の欲動刺激への対処がより重要である。この二つの刺激の差異に即して「内」と「外」の区別を立てる可能性がはじめて与えられる。というのも、赤ん坊がこの身体的な不快と快以外の何かにより注目するとは思えないからである。

 さて、この区別はフロイトに言わせると結果的に「身体」と「外界」の境界に沿う形で「内」と「外」を分ける「現実的」な区別であり、ここに生じる「内」は「現実-自我」である。これは「現れ」の中で生じる区別として、私たちのいう「対象平面」における区別であることは明らかだろう。

 そして先に二つの動向として提示したフロイトの錯綜する議論のうち、性欲動の自体愛的側面に対応し、自分の身体で欲動を満足させることで「内」、もっと正確にいえば「表面」を快と見なし「外」をどうでもいいものと見なす動向は、この「対象平面」における区別を精緻化する方向と見なしたい。

 この見方を正当化するために、ここで『自我とエス』でのフロイトの議論の展開を差し挟もう。そこでのフロイトによれば、「自我」とはそもそも「身体表面の投影(Projektion)」[ⅩⅢ:253=18:21]である。つまり、「自我」とは「私とは何か」に具体的な答えを与えてくれるもの、「私は~な人で…」といった「内容」ないし「述語」の集積なのだが、それはもともと身体のイメージとして生じるというわけだ。

 私たちとしては「私は~な人で」などという仕方で表現されるものであるところの自我、その意味で「自己イメージ」でしかありえない自我が、そもそもは「身体イメージ」であるということに反対する理由は何もないだろう。私について具体的なイメージを与えるものとして「身体イメージ」こそもっとも具体的であり、幼児にとってもっともアクセスしやすいものであることは明らかなのだから。

 そしてこのような「身体イメージ」としての「自我」の生成についてフロイトが重視しているのが自分の身体を触るという経験である。世界の「現れ」において、まずはそもそも外界の対象と自分の身体との区別はない。もちろん、私たちの想定では、不快な刺激の質における差異が「内」と「外」の区別をすでに原初的に可能にしているし、また前節で明らかにしたように「内」と「外」の間としての「穴」が特権的な快の場所として浮かび上がっても来ているだろう。

 しかるに、この「内」と「外」の区別をさらに精緻化し、「身体表面」を確定し、その「投影」として原初的な「自己イメージ」=「自我」を発生させる活動として何があり得るだろうか。「外界」と「身体」を区別せしめるものがあるとすれば、それは自分の身体に触れることが外界の対象に触れるときとは違う二重の感覚を生じさせるという事実だろう。

 しかるに、ここで発するべき単純な問いは、なぜ赤ん坊は自分の体を触るのかというものである。フロイトは『性理論三編』で「おしゃぶり」について、なぜ物や他人ではなく自分をしゃぶるのかと問うて、この問いに明確に答えを出している。曰く「こちらのほうが心地いいから」[Ⅴ:82=6:233]である。更に言えば、二重感覚といっても、そもそも赤ん坊にとって「快」以外に重要な感覚などあるだろうか。様々に与えられる感覚印象のなかで赤ん坊の関心は快不快に焦点しているはずであり、それしかとりわけて感知することはない。

 かくしてこの二重の根拠、つまり、身体がもたらす二重感覚が身体イメージを精緻化していくにしても、そもそも快がなければ触らないし、また幼児は快にしか重点をおかないということによって、自我形成のプロセスにおいて自体愛的活動が決定的なのである。

 赤ん坊は二重の感覚がもたらす余計な「快」に導かれて他人や物ではなく自分の体をしゃぶるのだし、また先に「耳」に即して論じたように自らの体をいろいろと触ってみもするのだろう。そうしてその余計な「快」に自分の身体という対象の特異性を認めるのだ。いわば赤ん坊は快に導かれて自分の身体を「開発」するのであり、その帰結として自らの身体イメージを、ゆくゆくは「私はどんな人か」への具体的な答えとなる「自我」の原基を確立していくのである。

 この意味で自体愛的な活動は、欲動刺激の質に依拠する原初的な「内」「外」の「対象平面」における区別を精緻化して、人を「自我」の確立へと導く。赤ん坊の「自我」は、そのもっとも原初的な形態である「身体イメージ」は、快に導かれることで、快の場所である「身体表面」に即して、快に徹頭徹尾貫通されたものとして、生じるのである。

 しかるに、原初的には「身体イメージ」として与えられる自我、「私はそれだ」の「それ」にあたる「自我」だけでは全ては尽くされない。そもそもこの「私は」はどこから生じるのだろうか。「私」なるものをわざわざ参照する必然性はどこに淵源するのか。これは私たちの言葉でいえば「主体平面」における区別に相当するが、私たちの読解の指針によれば、先に第二の動向として見たフロイトの思考はこちらに説明を与えるものなのである。このことを見ていこう。

 第二の動向とは、すべての「快」なるものは「内」であり、「不快」なるものは「外」であるという「快-自我」という世界像へと経験が歪められることだが、注目するべきは、この用語が「心的生起の二原理についての定式化」ではじめて導入された時には、それは明らかに赤ん坊が幻覚的満足の能力を無制限に行使して「快原理」を追求する時期、「快原理」を「現実原理」に置き換える以前の体制を意味していたことである。

 実際、「快-自我」への歪曲を可能にするのは幻覚的満足だけだろう。私たちの出発点に回帰すれば、そもそものはじめ「内」とは「不快」な刺激の逃れがたさとして与えられる。母親による即座の世話にしても「不快」の事実的経験を減らしてくれるだけで、「不快」が「外」に追いやられ、「快」がすべて「内」に取り込まれることを帰結しはしない。

 ただ、事実的な「不快」の経験の中で世話によって与えられた満足を幻覚的に再現するような努力においてのみ、赤ん坊の心のうちで「不快」はないはずのものとして「外」へと追いやられ、「快」が近くへと、「内」へと惹き寄せられるのである。そして、これは母親の世話が一定の密着性を持っている限りは維持されることになろう。この幻覚的満足の再現の努力が破綻する前に世話によって欲動の現実的満足が到来し、その努力に裏付けを与えてくれるわけだから。

 そして注目するべきはこの幻覚的満足が決定的な失敗に陥らない限り、赤ん坊にとっては「見えているもの」、一般的にいえば「感じられているもの」と「現実」とを区別する必要は一切無いということである。では、逆にこのことの失敗においては何が生じるのか。赤ん坊は満足を表象して幻覚的に再現しようとするが不快な欲動刺激は収まらない。不快を外に追いやり、快を内に集めようとする努力は功を奏さない。

 ここで赤ん坊は気付くだろう。「不快」が逃れ得ないものとして「内」にあるのであり、欲動を満たす「快」なるものは「外」にある。そして、「感じられているもの」は「あるもの」と区別されなければならない。もっと正確にいえば、そもそも現に「現れ」ているものが「感じられている」に過ぎないということがはじめておぼろげに知られるのである。

 ここに私たちが「主体平面」における区別と呼んだもの、「現れ」の場所そのものの自己関係化の萌芽がある。「現れ」は「見えている」「感じられている」に過ぎない。そして「私」なるものを参照する可能性一般は、この「感じられている」というときに「感じているもの」という仕方ではじめて与えられるだろう。「感じられているもの」と「あるもの」の区別が「感じているもの」としての「私」を参照する可能性、「自己意識」の可能性をそもそもはじめて与える。

 すると人間が自己意識を持つのは、それが幻覚的な想像力を持っていることで、「あるもの」と「感じられているもの」との区別に直面せざるを得ない状況をぶつかるからだということになるのだろうか―フロイトはその方向を指し示す[ⅩⅣ:14=19:6]。「現実」以上のものを「想像 = 幻覚」する能力があるからこそ、その「現実」と「想像 = 幻覚」との落差の経験において、「感じているもの」としての「私」に言及する必要が与えられるのである。

 さて、それはそれとして、この失敗、「快-自我」の破綻がいかなる経験であるかを捉えることを試みよう。幻覚的満足の努力は「不快」の感じを自らから遠ざけようとし、同じことだが「快」を自らに引き寄せようとする。しかるに、これをいつまでも維持することは出来ない。「不快」が消え去らず、「快」が到来し「ない」ということを赤ん坊も認めざるを得ない。
 
 こうして「快」の不在によって「快」が外からやってくるものであることが判明する。そして、これまで赤ん坊が「外」にはとりわけて興味が無かったことを考え合わせるなら、ここではじめて「外」が「快」を与えてくれるものとして適切に関心を向けられるようになる。ここではじめて「外」なるものとして「対象」が赤ん坊の心に生成するのである―しかも、「喪失されたもの」として。

 そして他方の「内」に注目してみるなら、ここでははじめて「現れ」が「感じられている」に過ぎないものと捉えられて「現実」から区別されると同時に、「感じているもの」としての「私」に言及する可能性がはじめて与えられる。この出来事の連関を考え合わせれば、以下のようにテーゼ化することが出来るだろう。

 「私」なるものは原初的には「対象の喪失」のかわりに、対象が喪失された場所に現れる、と。いや、もっと正確にいうなら、「私」なるものは「対象の喪失」の代わりに現れるのだが、そもそも「対象」もそこで「喪失されたもの」としてはじめて現れる―だから対象発見は必然的に再発見だとフロイトは述べたのである[ⅩⅣ:14=19:6]。

 しかもこれらのこと一切は欲動の不快な刺激の切迫の中で、ということは、後に詳しく論じるが、後期のフロイトの不安についての把握からすれば、まさしく「不安」のなかで遂行される。この「私」を「自我」と区別して「主体」と呼んでおくとすれば、「主体」は「喪失された対象」、対象の「ない」と相関的に「不安」のなかではじめて生じると言えるだろう。

 このプロセスによって初めて外なるものがすべての不快なものがそこに追いやられる場所としてではなく、肯定的な関係性を取り結ぶべき場所として現れる。「対象」との関係、「他者」との関係、そして「規範」との関係―それは原初的には快を与えてくれる「対象」ないし「他者」の機嫌を取ることとして生じるだろう―の最も根源的な可能性の条件がここで創設されるわけである。

 そしてフロイトが「心的生起の二原理についての定式化」[★]で述べていることだが、以上の「現実」と「見えているもの」の区別の生起によって、「見えているもの」は本当に「現実」なのか、それは本当に「ある」のかを調べる「現実検証」が可能になり、幼児の心は「現実」に配慮するようになる。

 言い換えれば、この「ない-不安-主体と対象の生成」の経験が赤ん坊に「ある」というカテゴリーを用いる必要性を初めて与える。幻覚的に到来するはずの快が「ない」ことの経験によって、赤ん坊に本当に「ある」ものと単に感じられているにすぎ「ない」ものとの区別に注意する必然性が生じるわけだ。

 かくして幻覚的満足を貫徹しようとする無制約の「快原理」が現実に配慮しつつ快の実現を目指す「現実原理」に置き換えられはじめる。「意識」は快不快以外の感覚印象にも目を向けはじめ、現実の状況に絶えず注視する「注意力」が生じる。

 また知覚印象が自覚的に蓄えられはじめ、単なる幻覚的想起を現実の知覚と区別する「現実検証」とあいまって、記憶の名に値する「記憶」が初めて生じる。また「現実検証」はそれが本当にあるのかないのかという「判断」をその本質として伴う。

 そしてこのようにして知られた現実の中で快を実現するための目的的な「行為」が始まり、その「行為」の予行演習として「思考過程」が誕生する…。かくして私たちの知る人間らしい知性が生まれてくるのだが、「現実原理」はあくまで「快原理」の延長であり、人間を動かす力は身体に発する欲動しかない。「現実原理」は向こう見ずな「快原理」の追求を現実にあったものに変えるだけなのである。

 議論の見通しとして述べておくなら、「快原理の彼岸」なるものがあるとすれば、喪失された対象を現実的に再獲得しようとする「現実原理」の中にではなく、「対象喪失-主体の生成-不安」の同時性として定義されうる「外傷」の中にしかない。『快原理の彼岸』と「制止・症状・不安」論文を読み合わせてみると、真に「死の欲動」と呼びうるものは、この「外傷」の「外傷性」のしぶとさであり、その永遠性であるように思われる。この永遠性だけが「神経症」にその可能性の条件を与えている。

 さて、私たちはここまで「現れ」の場所の自己関係化としての「私 = 主体」の生成、つまり「主体平面」における「私 = 主体」の生成と、「現れ」内部における「外界」と「身体」の区別の生成、つまり「対象平面」における「自我」の生成をフロイトの論述に沿う形で追求してきたのだが、いまや両者が重なり合う必然性、「私はそれだ!」「これが私だ!」という「同一化」が起きる必然性を私たちは理解出来るだろう。

 「私」とはまずもって「感じているもの」であり、「身体 = 自我」とはそこにおいて「二重の感覚」が与えられるもの、それを触ることで別のものや人を触るよりも余計な自体愛的な快が「感じられるもの」として「感じているもの」である。

 だから「私」は「身体」を自分に属しているもの、あるいは自分が属しているものとみなしてそれに同一化するのであり、そこに「私はどんなものか」に対する具体的な答えを与えるものである「自己イメージ」としての「自我」の基礎を見出すのである。

3-3、肛門-サディズム期

 さて、「自我発達」への長い迂回路を経て再び「リビード発達」へと回帰しよう。フロイトはリビード発達のフェーズは単純な交代関係として捉えるべきではなく、重なり合いつつ徐々に重点が移動していく過程として把握されるべきだと考えたが、一応の時期の目安を与えることは出来る。

 肛門-サディズム期は口唇期に続く時期であるが、要するに赤ん坊の筋肉支配が一定程度発達し、単に乳房や指をしゃぶるという口唇的活動しか出来ないという状態を脱して、四肢のコントロールがある程度出来るようになってきた頃、だいたい1才から2才頃までの時期を名指す。

 このころ一方で「快-不快」の場所として目立ってくるのは肛門であり、それは赤ん坊が排泄をコントロールすることが出来るようになってきたからであって、このころ初めての「しつけ」―つまり、そこで従うか従わないかの選択が生じる規範的経験―といってよいトイレトレーニングが始まる。

 フロイトの印象深い叙述によれば、このはじめのしつけにおいて二つの態度が可能であり、ある種の赤ん坊は養育者に排泄を促されても、それが十分にたまって排泄が高い不快緊張の一挙的解消によって強い快をもたらすようになるまでは排泄を我慢するということが生じる[Ⅴ:87=6:238]。

 この原初的な世界との関係性のうちにフロイトは、肛門が「性感帯」として固定されることに加えて、他者に反抗することの原初的経験を見定め、後者に関して例えば「頑固」や「けち」といった性格類型の起源を認めた。リビード発達論の立場からすれば、この生理的機能とそこから派生する性的快の経験が赤ん坊にとって世界との関わりを根本で規定する原初的体験であることを忘れてはならない。

 この「しつけ」に対するもう一つの反応は、排泄の自体愛的快を断念して養育者に従って適切な時期に排泄することである。これは自己の身体をしつけが与える規則に従って自律的にコントロールすることの始まりである。おそらく、これこそが初めての規律的な身体支配の経験であり、それに従うことで「承認」が与えられる経験であるということのうちに、大人の「おもらし」がもつ自尊心を根底から破壊する力の起源を認めなければならないだろう。「うんちはトイレにしよう」は最も原初的な命令であるように思われる。

 そしてまたしつけに対するこの二番目の反応は、一番目の反応と対比して言えば、自分に快を与えてくれたはずの対象―「糞便」―をおぼろげに感じられ始めている「他者」に明け渡すことである。それは心地よいものを愛ゆえに他者に明け渡す最初の行為なのであって、だから「糞便」は原初の贈り物であり、それゆえに後年に卓越した贈り物として通用する「金銭」と強い象徴的な結びつきを得るのである。

 この点に関しては、狼男の経験、貧しい親戚と会った後に「もっと気前よくお金を渡しておけばよかった」と考えたら、その直後に人生最大の排便を経験したり、あるいは試験に合格するために試験官を買収した帰り、金で試験に受かるならもっと金を渡してもよいと考えたら、図らずも家に着く前に「おもらし」をしてしまったりといった経験を思い出しておこう。狼男はお金を出そうと思うと糞便を出してしまうのである[ⅩⅡ:105=14:77]。

 「糞便」と「金銭」の象徴的結びつきに関する疑義は後者が疑いなく「よいもの」であるのに対して、前者が明らかに「汚い」―とはいえ、フロイトも指摘していることだが、意味深なことにお金ほど様々な意味で「汚い」と呼ばれるものも珍しい―からだろう。

 だが、これは私たち大人の偏見である。精神分析からすれば「糞便はなぜ汚いと感じられるのか」「糞便はなぜ臭いと感じられるのか」と問うべきなのだ。赤ん坊にとって排泄は不快緊張の解消としてまぎれもなく「快」なのであり、「快」を与えてくれる「糞便」は間違いなくはじめ「よいもの」なのであって、したがって贈り物として機能する。

 それが「汚い」ものになるのは―フロイトが「器質的抑圧」と呼んでいるものを除いて考えれば―これまた大部分、それを「汚い」ものと教える「しつけ」の結果に過ぎない。この排泄の快について確認するため、ここでハンス少年の最後の三つの空想のうちの一つを想起しよう。ハンス少年は言う。

午前中に僕は僕の子ども全員をトイレに連れていってあげたんだ。(…)僕は子どもたちをトイレに座らせて、彼らはおしっことうんちをしたよ。そして僕はお尻を紙で綺麗にしてあげたんだ。どうしてか分かる?僕はとっても子どもが欲しいから、子どもたちが出来たら僕は彼らに何でもしてあげたいんだ。子どもたちをトイレに連れて行ってあげて、お尻を掃除してあげる。つまり、ひとが子どもにしてあげること全部だよ。[Ⅶ:332-333=10:125]

 さて、なぜこれが「ひとが子どもにしてあげること全部(alles, was man mit Kindern tut)」なのか。それはハンス少年の内的経験においては養育の中でこのことがとりわけて強い印象を残しているからであり、それがなぜかといえば、それこそが決定的な快の経験だったから以外ではあり得ない。この発言からは子どもの世界がどれほど性感帯における身体的な快を中心に構造化されているかを見てとることが出来る。

 ここに、つまり、肛門を糞便が通過する際に、そしてそれを拭き取ってもらう際に経験される快に、性感帯としての肛門の起源があるわけだ。これを明確に証言するのは、フロイトはこれを明示的に先のハンス少年の発言と結びつけているが、やはりシュレーバー博士の回想録だろう。

腸内に存在する便によって引き起こされる圧迫からの解放は、官能的快神経にとって、とりわけて強烈な快感を帰結するのである。(…)この根拠からして、私がこの[排便と排尿という]自然な機能に取りかかろうとすると、人はいつも、たいていは無駄なことだったにせよ、排泄衝迫と排尿衝迫を奇跡によって押し戻そう(zurückwundern)と試みるのである。[Ⅷ:260=11:122]

 シュレーバー博士はその受動的な同性愛空想―「女になって性交されたらやはりすばらしいに違いない」―からして、肛門領域が性感帯として特別に強く形成されていたと想定する根拠がある。

 さて、肛門が性感帯として浮かび上がってくることについてはこれくらいにして、「サディズム」の方に目を向けると、それはこのころには四肢の支配の獲得とあいまって、とりわけ手の筋肉支配と結びついた「把捉欲動」ないし「制圧欲動」という、「サディズム」と、おそらくは一般的な触りたいという欲望につながるような欲動が目立ってくることを意味している。

 体の自由が少しは効くようになった子どもたちは自らの手を使ってものをいささか暴力的に握りつかみ取ったり、時には投げ捨てたり壊したりといったことをするわけで、ここでも対象への関心が暴力的で破壊的な性向と区別出来ないということになる。もちろん、手を中心とした筋肉支配の発達は先に注目した身体感覚を獲得する上で重要な自体愛的活動を促進する効果もある。

 この二つの契機が「肛門-サディズム期」を特徴付けるのだが、もう一つ大事なことは、ここでサディズムが能動性を、肛門が受動性を表現しており、フロイトに言わせると性生活を支配している両極性であるところの―その原型は性生活が生殖機能に従属する時に決定的になる「挿入する/される」の両極性だが―「能動性/受動性」、あるいは「能動的な目標/受動的な目標」の分化が生じていることである。

 サディズム的な欲動は攻撃的に目標へと突き進んでいくのであり、他方で肛門的な部分欲動の快は棒状のものがそこを通過することによって与えられる。それははじめから「挿入される」ことと強い親和性をもつのである。このどちらの欲動がより強く形成されているかということは後の発展にとってどうでもいい問題ではあり得ない。以上が肛門サディズム期についてさしあたり述べておかなければならないことである。

補足:「器質的(organisch)抑圧」とその運命

 先に排泄に関係する快が抑圧を被り、それらが「汚い」ものとされ「吐き気」などの嫌悪感をもって対されるようになることについて「しつけ」という要因をあげておいたが、そこで「器質的抑圧」を別にすればと留保を付けておいた。それは排泄的な快、まとめていえば「肛門的なもの」全般が抑圧されることを説明するものだが、実際、この仮説は、仮説に留まらざるを得ないとはいえ、やはり必要ではある。というのも、そもそもそのような「しつけ」が生まれた理由は「しつけ」では説明出来ないからである。

 では「器質的抑圧」とは何か[Ⅶ:462=10:272][Ⅷ:90=12:243]。「器質的」とわざわざ言われるのは、「抑圧」が基本的には表象に関わる過程として「心的」であるからであり、「器質的抑圧」仮説とは、人間が直立歩行をするようになることで嗅覚系が衰退し、それによって「心的」過程を媒介することなしに、それに密接に関係する「肛門的なもの」全般の「抑圧」が必然的になったという仮説である。つまり、人間だけが完全に二足歩行する存在であることによって、人間だけがことさらに「糞便」の処理に気を遣うようになったという仮説なのである。

 この「器質的抑圧」の仮説は「肛門的なもの」が抑圧されることを説明するための仮説としては生涯放棄されなかったようだが、他方でそれが初期に、たとえば1905年の『性理論三編』の初版で持っていた中心的地位は失われたし、それはそこにはらまれていた理論的難点のゆえに当然のことでもあった。このことを「器質的抑圧の運命」として示しておこう。

 『性理論三編』では主要な抑圧理論を述べているところで、それは「器質的に条件づけられた」[Ⅴ:78=6:228]ものだと明示的に言われている。そして、そこでの理論の基本構成は以下のようなものだろう。幼児期の性は「肛門的なもの」を含め、部分欲動の無政府状態であり、「多形倒錯」的である。

 しかるに、成人の「正常」な性では性器の中心性が獲得されていなければならない。そのためには「肛門的なもの」などが「器質的抑圧」を被って押え込まれ弱められ、さらには昇華されたりしたうえで、残りは「性器」の中心性へと従属しなければならない。これが首尾よく行けば「正常」だが、性器領域が弱かったり、部分欲動が幼児期にあまりに大きな快をもたらし固着が生じていたり、あるいは「抑圧」その他の過程がうまくいかなかったりして、「多形倒錯」的な「部分欲動」がそのまま残ってしまえば「倒錯」が生じ、逆にそれらを過剰に「抑圧」してしまうと、それらが「症状」として回帰してきて「神経症」となる。

 この連関に「神経症は倒錯のネガである」[Ⅴ:65¬=6:212]という定式も属している。倒錯的な欲動をそのままにすると「倒錯」であり、それを過剰に抑圧すると「神経症」になるというわけだ。

 しかるに、この定式は文脈を考慮しないと誤解されやすい。それは「症状は病者の性的活動である」というまた別の定式の誤解を取り除くという意図で始まる論述のうちで言われている。

 「症状は病者の性的活動である」[Ⅴ:63=6:209]という定式―注でのフロイトの補足を加味すれば「症状は性的活動と自我との葛藤である」―は、抑圧された性欲動が症状の形で回帰してくるというフロイト理論の基本を意味するが、フロイトはこの「性的活動」を「性器的」と狭く捉えることから誤解が生じるという。

 自分は「性的」を単に「性器的」とは捉えていないのであって、今まで論じてきたような部分欲動をも含めている。そうすれば「性的」を「性器的」と捉えた時には「症状は病者の性的活動である」に当てはまらないとされ、反例として機能するような例でも、この定式に包摂出来るようになるというわけだ。そして、その時には「神経症は倒錯のネガである」とも言えるわけだ。

 さて、この定式が誤解されやすいと言うのは、確かに「抑圧」が「倒錯」的な部分欲動に関わる時には確かに「神経症は倒錯のネガである」と言えるにせよ、そもそも「神経症」でもっとも問題になっているのは「正常」な「性器的欲動」の抑圧だということによる。「神経症は倒錯のネガである」を前段落で見たような文脈に差し戻すことは、この限定性を思い出させてくれる。

 確かに、倒錯的欲動の抑圧からも神経症的症状は生じるだろうし、その意味で「神経症は倒錯のネガである」ことは確かであるにしても、もっと重要なのは「正常」な「性器的欲動」の抑圧である。それが「もっと重要」だと言えるのは、フロイト自身、「神経症」において倒錯的欲動の抑圧が大きな問題になるのは、正常な性器的性の抑圧によって、リビードがそこでは十分に放散されなくなり、リビードの連絡路モデルに従い、リビードが倒錯的部分欲動に「退行」することの結果だと説明しているからである[Ⅴ:69-70=6:217-218]。

 かくして「神経症は倒錯のネガである」という定式を無制約に振り回すことは誤解を生むのである。一言でいえば、私たちはその前にまずもって「神経症はいわゆる「正常」のネガである」と付け加えなければならないのだ。

 そして、ここで私たちは『性理論三編』が抱える最大の理論的問題に逢着する。たった今確認したようにフロイトは一方で神経症について「性器的欲動」の「抑圧」こそ症状を生み出す最大の要因であり、その結果である部分欲動への退行のゆえにこそ倒錯的欲動が強化され、そのさらなる「抑圧」と症状化によってはじめて「神経症は倒錯のネガである」といえるような事態が現出することを認めている。

 さて、最大の問題というのは、にもかかわらず、他方でフロイトは「性器的欲動」が抑圧される具体的メカニズムについてまとまった理論的な見解を述べていないということである。そこで主要な抑圧理論となっている「器質的抑圧」では、肛門的なものなどの「倒錯」的欲動の抑圧しか説明されないのである。

 この理論的問題が解決の糸口を見つけだすには、次章で詳しく論じるが、ハンス症例が必要だった。ハンス症例においては観察の中途で、排泄を見たいとか見せたいというハンスの願望は、排泄を見られることへの恥や排泄物への吐き気に転化した。つまり、排泄物に関する「抑圧」、「器質的抑圧」が介入してきたのだが、それはハンスの主症状たる「馬恐怖症」の病因において中心的な意味を持たなかった。

 病因性を持っていたのは、はじめは明確に表明され、その後抑圧された排泄に関わる欲動ではなく、そもそも一度たりとも歪曲されずには表に出てくることのなかった、その意味で「原抑圧」されていたもの、両親へのある特定の感情関係、母への愛着と父への敵意、つまりエディプス・コンプレクスだったのである。いまやそれが去勢コンプレクスとあいまって「性器的欲動」の抑圧を説明する。

 フロイトはこの経験をきっかけに、いままでの経験の総括として、「神経症の中核的コンプレクス」という発想に至る。神経症は少数の中核的コンプレクスから生じているのであり、以上の二つがその決定的な代表である。

 こうして『性理論三編』が残した理論的問題は発展的に解決されたのだが、その度重なる書き換えや注の追加にもかかわらず、『性理論三編』本文にはこの成果が十分に一貫した仕方では持ち込まれることはなく、この書籍を単体で評価するとなると、その理論的不十分性はやはり否定出来ないのである。

3-4、ファルス期―幼児期の「自我発達」と「リビード発達」の終着点

 さて、本筋に戻ろう。だいたい3才から5才のころにはフロイトが幼児のリビード発達、その性発展の頂点と見定めるファルス期、そこにおいてエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスが介入してきて性差と性的対象の原初的な引き受けが完遂される時期が到来する。「性器」が作用しないここまでの叙述には性差が介在する余地がなかったことを確認されたい。

 つまり、ここまでは「性器」が関与していなかった以上、男でなければ、あるいは女でなければ出来ないということは何もないし、また幼児自身の視点をとってみると、彼らは性差の意味を知らず、かくして性差は彼らの行動を内的に規定する作用を全く持っていない。つまり、「外的」にも「内的」にも、ここまでは彼らの行動が性差に従って別様に発展する理由は全くない―もちろん、周囲の誘導を除けばだが。

 以上のことに合致する形でフロイトは後期の女性論でファルス的な能動性の時期まではリビードの活動に個人差で埋め合わせられないような顕著な性差はないと論じている[ⅩⅤ:125-126=21:153]。性差が意味作用を持ち始めるのはファルス期であり、幼児自身にとって「性差の知」がいかなる意味作用を持つかを把握しようという試みが、フロイトのいわゆる去勢コンプレクスである。性差の知は普遍的であり、誰でも性差の意味を知っている。しかし、多くの人はそれをいつ、いかに知り、それにどう対したかを覚えていない。その意識の「穴」を埋めるのが無意識的な去勢コンプレクスなのである。

 しかし、ちょっと先走りすぎたようだ。去勢コンプレクスと性差の問題は次章以降に回し、ここではそれ以前のファルス期の一般的状況の記述のみを行うこととしよう。ファルスとはフロイトにとってさしあたりペニスとクリトリスという器官を意味しているが、これらがファルスと一括されるのは、これらは私たちから見れば違うにせよ、「去勢コンプレクス」の介入以前においては、それらが幼児自身の内的経験において全く差異を産出しないからである。男児も女児も自分の「性(器)」に基本的には同様に対しているのである。

 さて、ファルスと一括される「性器的なもの」の運命を確認しておこう。まずもって第一にその宿命性を感じさせるのは、それがとりわけて尿の排泄口に近いということである。つまり、何度か見てきた「依托」の論理のためにそれは初めから赤ん坊の内的世界において快の場所として知られるようになる傾向を持っている。

 そして第一と関係しているが第二に注意しなければならないのは、赤ん坊にとって逃れがたい不快の一つに排泄物が処理されないまま性器周辺に付着していることの不快があるように思われることだ―ここに肛門的なものの不快への反転の一要因を見るべきかもしれない。私たちは赤ん坊の泣き声にたいして「おっぱいかな、おむつかな」などと言われるのをよく聞くのである。

 さて、こういうわけで養育者たちは赤ん坊の性器周辺をとりわけて入念に掃除することにもなるのだろうが、それは赤ん坊にとって排泄物の不快な感触の除去として快であり、またもともとが敏感な場所である性器の接触快を目覚めさせる効果を持たざるを得ない。

 そして、この結果、フロイトが述べるところによれば、しばしば分析に現れる母親が誘惑によって性器活動を目覚めさせておきながら、あとになってそれを禁止したという非難にも理由があるのだ[ⅩⅣ:525=20:224]。母親はその念入りの掃除によって現実に性器感覚を目覚めさせたのであり、にもかかわらず、子どもたちがそれをずっと触っているようなら、それを禁止するのである。

 これがフロイトのいわゆる幼児期自慰だが、これを私たちは幼児期健忘によって忘れてしまっている。この健忘こそ、フロイトに言わせればそもそも幼児性欲の発見を遅らせたものなのである[Ⅴ:75=6:222]。フロイト的には「健忘」は「抑圧」のせいであり、フロイトは「自慰」の強い抑圧を、のちにこの結合について詳論するが、それが「原抑圧」されるエディプス・コンプレクス(以下、ÖKと略す)と結びついていることに帰している[ⅩⅡ:215=16:140] [ⅩⅢ:398=18:304]。 

 しかるに、私たちが忘れているにしても、幼児期自慰の存在は、幼児が身体的快を追い求めること、性器がとりわけ敏感な場所であること、そして先のようないきさつで性器が発見されざるを得ないことからして極めて高い蓋然性を持つ。

 インターネットで「性器いじり」などと検索してみればすぐに分かることだが、世のお母様方にはこれに悩まされている方が多数いる―中には古典的な「去勢の脅し」をしている例すら見られる。実際、幼児は加減を知らず、気持ちよければいつまでも触っているわけで、それに悩まされるのも当然ではある。さて、それはそれとして、こういうわけで性器がいまや子どもにとって快の中心的な場所として目立ち始めているわけである。

 ファルス期とは、このように発見された性器がいまや幼児の性活動の中心に踊り出る時期であり、またこの時期にエディプスと去勢の二つのコンプレクスが介入してくる。私たちは厳密に考えを進めよう。そのためにここでいくつかの問いを立てなければならない。第一に、性器がいまや幼児の性活動の中心に踊り出るとはどういう意味か。第二に、なぜこの時期にこそエディプス・コンプレクスが介入してくるのか。第三に、なぜこの時期にこそ去勢コンプレクスが介入してくるのか。

 第三の問いは簡単に答えられる。先に述べたように去勢コンプレクスという概念は「性差の知」の意味作用を把握する理論的試みであり、「去勢」の名が示すように、それは「性器の差の知」として生じる。それが幼児の内的世界で意味を持つためには幼児がすでに性器に十分な関心を向けていなければならない。だからそれはファルス期に介入してくるのである。

 ここで「性差の知」とその意味作用が「性器の差の知」とその意味作用として生じなければならない必然性を疑う向きがあるかもしれないが、身体から快を引き出すことを最大の関心とする幼児にとって、とりわけて気持ちいい身体部位としての「性器」の差以上に、性差が目立つ場所は存在しないのである。

 そのため男女の社会的差異が身体的差異よりも子どもにとって重視されるとは考えられないし、また身体に視点を限った際には、それが与えてくれる快ゆえに性器がもっとも重視されるということに加えて、すくなくとも子どもの時点では性器以外に男女の身体に大きな差異はないことも指摘されなければならない。

 残るは第一の問いと第二の問いだが、第二の問いから検討をスタートしよう。第二の問いを言い換えれば、それは、なぜこの時期に全人格を対象とした、つまり、他者を対象とした対象選択が生じるのか、もっといえばそもそも可能となるのかという問いである。対象選択を基本から考え直すと、先に欲動の定義を参照した際に見たとおり、対象は欲動の目標を満足させてくれるものとして選ばれるのだった。簡単にいえば、子どもは欲動を満たす快を与えてくれるものが好きなのであり、不快なものは嫌いなのである。

 さて、子どもに初めあるのは部分欲動であり、局所的な不快な欲動刺激とそれに対応する局所的な満足快である。例えば食欲-口唇欲動の次元に注目すれば、まず喉やお腹のあたりに不快な刺激があり、それが「母の乳房」によって満たされる。だから、「母の乳房」が最初の対象である。もちろん、それが「母の乳房」だと子ども自身が分かっているわけではないし、そもそもはじめは「対象」としても意識されていないのだが。

 さて、こう考えていくと肛門や尿道に関する快において対象は直接的には尿や糞便ということにもなろうが、他方で、先のハンス少年の子どもの世話空想に現れているように、そこにも養育者が関与していることを忘れてはならない。汚れたおむつを交換してそこを綺麗にしてくれるのも養育者なら、トイレにはじめ連れて行ってくれるのも養育者なのだ。

 さらに私たちは部分欲動として「おしゃぶり」から拡大していく身体表面の接触快を挙げておいたけれども、ここに養育者が抱きかかえてくれたり、揺すってくれたり、さすってくれたり、愛撫してくれたりといった経験が参与していることも否定され得ないだろう。

 かくして、この種の各部分欲動にしても、それが自体愛的でありうるとともに、人間対象、養育者、典型的には母という対象との関わりは否定され得ない。しかし、決定的なポイントは、これらの部分欲動がバラバラに活動する「部分欲動の無政府状態」にある限りで、対象も一定のまとまりにおいて見られうるにしても、それが統一にもたらされることはなく、各々の部分欲動の快に対応する部分対象として象られているに過ぎないということである。

 すると部分対象が養育者という人格へと統一されることは欲動ないしリビードの一定の統一を前提としていることが分かる。部分欲動の間に連関が確立され、それが一つにまとめあげられるに従って、その部分欲動たちを満たしてくれた対象も一なるものとして見られうるようになるのだ。

 ここで第一の問い、「性器がいまや幼児の性活動の中心に踊り出るとはどういう意味か」が決定的になってくることは予想がつくだろう。それは性器が生来一番敏感な場所であり、それを触るのが一番気持ちいい、一番大きな快を産出するというだけのことではないのだ。

 そこには私たちが第2章で「予快-終端快(Vorlust-Endlust)」メカニズムに即して論じておいた連絡路を通じた興奮の集積メカニズム、身体各部の快経験から興奮を引き出し、それを自らにおいて放散するという機能がすでに一定程度確立されていると考えるべきなのである。フロイト曰く、「性器は興奮過程における自らの役割にすでに就いている」[ⅩⅡ:207=16:131]。

 そして、これは本章で「欲動」を導入したところで論じておいたが、性器との関係で想定されざるを得ないリビードの連絡路こそが自我ないし身体全体に対応するリビード全体なるものの想定を、その備給にして初めて「愛」の名に値するようなリビード全体の想定を支えているのである。

 かくして、二つの問いへの答えは以下のように連関する。第一の問いへの答えは、性器は興奮の集積回路の終端という役割を引き受けているというものであり、第二の問い、なぜこの時期に他者全体を対象とすることが可能になるのかへの答えは、性器による部分欲動の一定の統合の成立によって、自我全体に対応するリビードについて語りうるようになり、もろもろの部分欲動の部分対象だったものも、養育者という一つの人格へと統一されるからだというものである。

 だから、人格を対象とした対象選択、エディプス・コンプレクスがここで成立するのである。そうだとすれば、幼児の性器興奮とその放散はエディプス的対象の表象と結びついていることになろう―次章で検討するハンス症例ではこの点にも注目していただきたい。ともあれ、これが幼児の「リビード発達」の到達点である。

 ところで、本項のもう一つの副題だった「自我発達」についてはどうだろうか。自我発展については前々項で詳細に取り扱ったが、それによれば「自我」とははじめ「身体イメージ」として生じ、その形成過程には、身体表面において生じる快感覚の経験が重要だった。それを触ることでより多くの快が得られるものが自身の身体として認められていくのである。

 しかるに、そのように形成される身体像には統一が欠けているのではないだろうか。その時々の快によりある部位が自らに属すると認められるにしても、その経験は必然的に断片的だろう。その時々に、その時々の特定の部位というわけだ。とすれば―もちろん、ラカンならここで鏡像段階を持ち出すだろうが―私たちとしては「自我形成」、すなわち、統一的な身体像の形成にも性器が一枚噛んでいると想定する根拠がある2)自我が身体イメージの投影として生じるとすると、身体への運動支配が自我の形成において決定的に作用している可能性もある。こちらも考慮しなければならない。

 「性器」が身体の様々な場所に発する快から興奮を拾い集めつつ特権的な快の場所として立ち上がることで、身体についての快に基づいた統一的把握が初めて可能になるのである。性器は自我の根源的綜合を可能にし、自我に統一を与えるのだ。こうしてファルス期の成立、ファルスの中心性の成立において、リビードの統一と自我の統一、それらによって可能になる対象の人格的統一が成立する。ここに幼児の精神-性的発展のクライマックスがある。

 さて、しかるに、最後の「自我発達」に関する議論の展開はいささか強引に見えたかもしれない。しかし、私たちには以上の議論の正しさを信じる理由がある。またハンス少年に登場願おう。その三つの発言が極めて重要である。

「犬と馬はおちんちんを持っている。机と椅子はおちんちんを持っていない」[Ⅶ:247=10:6]
「ママ、ママもおちんちんを持っているの?」[Ⅶ:245=10:4]
「でもおちんちんはまだ小さいね。[慰めるように]成長したら大きくなるよ」[Ⅶ:248-249 =10:9]

 これらは3才時、遅くとも4才のはじめごろまでの発言である。このころハンス少年は彼がWiwimacher、「おしっこをつくるもの」と呼んでいたもの、つまり「おちんちん」に生き生きとした関心を示していたのだが、はじめの発言で彼は生物と非生物を区別する指標としておちんちんを挙げている。

 もちろん、生物とは生きているものとして自らと近いものであり、かくしてここで自らへの近さと遠さがおちんちんの有無で測られているわけだ。これはハンス少年の自己規定がおちんちんを中心になされていることを意味する。

 かくして、彼は自分に似ている存在におちんちんが欠けているなどとは決して信じられない。彼はママにもおちんちんを持っているかと聞くし、「ママは大きいから馬のようなおちんちんをもっている」[Ⅶ:247=10:7]と思っている。そして生まれて半年の妹がお風呂に入れられているのを見て、「でもおちんちんはまだ小さいね。[慰めるように]成長したら大きくなるよ」と言うのである。

 ハンスはそこにおちんちんがないことを認めない。自分に似ている存在にどうしても「おちんちん」を持たせようとする執念は、いかにそれが自己規定において中核的な役割を果たしているかを物語る。このことを理解しようとするならば、私たちは私たちが先に提示した議論を採用するべきだと考える。

 つまり、「おちんちん」はその興奮過程における役割によって快の経験から立ち現れる身体像に初めて統一を与え、かくして「自我」そのものの構成に決定的な仕方であずかり、その中心的規定でさえある。だから、それは自己愛の大きな部分がそこに投入される究極のナルシシズム的器官なのである。

 ここで私たちは鏡の前に立って自らのペニスを眺めるという鼠男の強迫的奇行―それが奇行というほど稀なのかについては問いを開いたままにしておくが―に思いを馳せざるを得ない[Ⅶ:425=10:230]。そこで彼は自分のペニスが小さすぎるのではないかと悩んでいたわけだが[NT(Nachtragsband):558=10:353]、これは性器が「自我」、すなわち、「自己イメージ」「自己評価」にとって構成的な役割を果たしていることを意味している。

 この点についてはまた帰ってくることとしよう。付け加えておけば、フロイトはドーラ症例で女性にとっても性器の状態が自尊心に対して「信じられないほど」大きな意味を持っていることを指摘している[Ⅴ:246-247=6:106]。

 ところでナルシシズムとは「自我」に対する愛であり、フロイト風に言えばリビード備給だが、自我の生成を身体の快経験から基礎付けた私たちはいまやなぜ自我がリビードを惹き付けてナルシシズムを生み出すのかを理解出来るだろう。

 この局面での「自我」とはまずもって快なるものとしての身体、つまり、欲動を満たしてくれるものであり、だからナルシスティックな仕方でリビード備給の対象となるのである。そして、そのうちでも「快なるものとしての身体 = 自我」に統一を与え、それ自身卓越した快を産出する身体部位、「性器 = ファルス」は極めつけのナルシシズムの対象なのである。

 さて、以上で幼児期におけるリビードの発達と自我発達をエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスを除く形で、ということは、未だ性差を考えなくてよい部分だけ論じたことになる。かくして議論は「性差」と「異性愛」を中心的な契機とする第2部に移行する。

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第2章 フロイト性理論の基礎―「両性性」と「多形倒錯的素質」
第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(1)

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

References   [ + ]

1. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
2. 自我が身体イメージの投影として生じるとすると、身体への運動支配が自我の形成において決定的に作用している可能性もある。こちらも考慮しなければならない。
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