『情熱としての愛』徹底解読—ニクラス・ルーマンの「愛」の概念

 本稿は「ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』:哲学的(?)解釈の試み」というタイトルで、ルーマンの「愛」の議論の全体を体系的に解明しようと試みたものです。10万字近い論考の最初のページである本ページでは、「はじめに」と「目次」を載せておきます。

はじめに―ルーマンの「愛」についての探求の全体的解明に向けて

 本稿はニクラス・ルーマンの「愛」の概念の解明を目的とするものである。タイトルは、もちろん、アレントのパロディであり、したがって、副題としては「哲学的(?)解釈の試み」を掲げたい。

 さて、本稿はこの目的を果たすため1982年に出版された『情熱としての愛 親密性のコード化(Liebe als Passion Zur Codierung von Intimität = LP)1)Niklas Luhmann, Liebe als Passion, Suhrkamp Verlag, 1994. LPと略記する。』 を参照するのは当然として、さらに1969年に書かれ2008年に遺稿の中から出版された『愛についてのゼミナール(Liebe Eine Übung = LU)2)Niklas Luhmann, Liebe Eine Übung, Suhrkamp Verlag, 2008. LUと略記する。』 を重視する。

 ゼミナールの準備のための小論である本書は、たしかに歴史社会学的ないし知識社会学的3)ルーマン自身はWissenssoziologie、すなわち、「知識社会学」という語を用いている(Vgl. LP, S.9.)。私たちはさしあたり「歴史社会学」という言葉の方を主に用いることとしたい。内容の豊富さにおいて前者に遠く及ばないけれども、他方で、そのおかげもあってルーマンの「愛」の概念、「愛とは何か」という問いへのルーマンの答えがより明確に見て取れる。

 いわば、そこで展開されているのはルーマンによる「愛の歴史社会学」ならぬ「愛の哲学」なのである。私は後者を適切に読解する事を通じて、前者をよりよく理解できると考えている。というのも、ルーマンの「愛の歴史社会学」 、近代の「愛のゼマンティク」と彼が呼ぶものの解明は、ルーマン的に展開された「愛の哲学」を最終的なゴール地点としているように思われるからである4)とはいえ、この区別は単純にすぎる。LPの中心部分は「歴史社会学」的な仕事だが、その最初の三章と最後の一章は「愛」についての理論的規定に充てられているという意味で「哲学」的である。しかるに、そうではあるにせよ、私たちの考えるところ、どういうわけかLPにはLUにはある重要な議論がいくつか欠落しており、LUを読むことでLPにある欠けを補わなければLPの理解はおぼつかない。そのことは以下の論述において個別具体的に示されるだろう。

 逆に言えばルーマンはその「愛の哲学」を、近代における「愛のゼマンティク」の到達点として、ある意味では歴史的なものとして提示している。いずれにせよ、ゴールが見えれば途中の道筋が見通しやすくなるのは当然だろう。

 かくして私たちはまずは第1章でルーマンの「愛の哲学」を解明し、その観点から第2章でその「愛の歴史社会学」を整理する。このような過程を通してルーマンの「愛」の概念、あるいは思い切って少々大言壮語すれば、その「愛」をめぐる探求の全射程が、十全に解明されることになるはずである。
 
 ルーマンの「愛」についての探求に関する個別の先行研究についてのコメントは本稿全体の末尾の脚注に譲るが、管見の限り、少なくとも国内には、このテーマについての包括的な研究は未だに存在していない。本稿は、ルーマンの「愛」をめぐる探求の全体的構想を、理論と歴史の両面から、そして両者の連関のうちで捉え、それを包括的に明晰かつ首尾一貫した形で表現にもたらすことを試みることで、この領野において基本的な研究たることを―それを実現しえているかは別として―目指すものである。

★目次★

はじめに―ルーマンの「愛」についての探求の全体的解明に向けて(本ページ)

第1章 ルーマンの「愛の哲学」―コミュニケーション・メディアとしての愛

 第1節 コミュニケーション・メディアとは何か
  1-1、「世界の複雑性」から「コミュニケーション・メディア」へ
  1-2、「共生メカニズム」について

 第2節 コミュニケーション・メディアとしての愛の特質

  2-1、コミュニケーション・メディア、機能分化、そして「愛」の場所
  2-2、「行為メディア」と「体験メディア」―貨幣や権力との差異
  2-3、「普遍性」VS.「個人性/具体性」―「二重化された意味確証」とは何か
  2-4、Alter erlebt, Ego handelt―愛の「悲劇性」としての行為と体験の不均衡配分
   2-4-1、縮減の不在と先取りのチャンス
   2-4-2、他者理解という難問
   2-4-3、行為者と観察者による帰着の齟齬
   2-4-4、ルーマンにおける「愛の悲劇性」の総括

 第3節 愛の成立・安定・危機

  3-1、愛の成立―好きになる・アプローチする・成就する
   3-1-1、好きになる―愛の再帰性・追求対象模範・メディア資源、「偶然/運命」
   3-1-2、アプローチする―動機付け・情報の生成・構成的差異
   3-1-3、成就する―愛の再帰性、再び・愛の証明・愛のお返しの生起
  3-2、愛の安定と危機―共同世界の構成・人間間の相互浸透・予期の予期
   3-2-1、「相互浸透のシステム」としての「愛」―「親密関係」とその危機
   3-2-2、「予期の予期」―「愛」による「象徴的な一般化」の理解に向けて

 第4節 第1章の総括:愛の無根拠―あるいは、愛を信じること/理論を信じること

補論1 愛のゼマンティクを分析するLPも愛のゼマンティクの一例でありうることについて

第2章 ルーマンの「愛の歴史社会学」―「愛のゼマンティク」の来し方と行く末

 第1節 前史―政治的な愛

 第2節 愛のゼマンティクの進化―理想・パラドクス・自己参照

  2-1、三つの時期区分と四つのメルクマールの意味の解明―階層分化社会から機能分化社会へ
  2-2、「理想」の時代―社会の階層的-道徳的秩序と一致する愛

   補論2 「社会的再帰性」とは何か―「単に実体としてではなく主体として…」

  2-3、「パラドクス」の時代―「情熱」かつ「過剰」、愛を分出させる反社会的な愛
   2-3-1、情熱・過剰・パラドクス―17世紀の諸変動
    2-3-1-1、「パラドキシカル」な対象評価―想像力と社会的再帰性
    2-3-1-2、「情熱」の諸パラドクス―冷静と情熱のあいだ
    2-3-1-3、「パラドクス」的表現の機能―「不可能なもの」として「可能」
    2-3-1-4、「分出」の諸相と「過剰」―そして「愛」の「限界」
   2-3-2、反動・個人化・コミュニケート不可能性―18世紀の諸発展
    2-3-2-1、情熱恋愛への反動―再道徳化と友情の強調
    2-3-2-2.、LiebeとFreundschaftの>>Zwischen<<―再訪「共生メカニズム」
    2-3-2-3、個人化の諸動向とコミュニケート不可能性という「岩盤」
  2-4、「自己参照」の時代―英独仏の合作としての「ロマンチック・ラブ」

 第3節 現代に向けての胎動―「解決のない問題」への方向付け

 第4節 愛の非根拠―あるいは真理に対して愛を守ること

おわりに―あるいは、理論がおわり、詩がはじまる

先行研究へのコメント

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第1章 ルーマンの「愛の哲学」―コミュニケーション・メディアとしての愛

References   [ + ]

1. Niklas Luhmann, Liebe als Passion, Suhrkamp Verlag, 1994. LPと略記する。
2. Niklas Luhmann, Liebe Eine Übung, Suhrkamp Verlag, 2008. LUと略記する。
3. ルーマン自身はWissenssoziologie、すなわち、「知識社会学」という語を用いている(Vgl. LP, S.9.)。私たちはさしあたり「歴史社会学」という言葉の方を主に用いることとしたい。
4. とはいえ、この区別は単純にすぎる。LPの中心部分は「歴史社会学」的な仕事だが、その最初の三章と最後の一章は「愛」についての理論的規定に充てられているという意味で「哲学」的である。しかるに、そうではあるにせよ、私たちの考えるところ、どういうわけかLPにはLUにはある重要な議論がいくつか欠落しており、LUを読むことでLPにある欠けを補わなければLPの理解はおぼつかない。そのことは以下の論述において個別具体的に示されるだろう。
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