先行研究へのコメント

 参照した研究につき、発表順にコメントをしていきたい。以下、まずは参照した研究を列挙しておく。

①土場学 1993:
 「愛というメディア——社会変動のゼマンティーク——」
 『社会学評論』44-3

②高橋徹 2002:
 「愛の関係におけるコミュニケーション・メディアとゼマンティク」
 『意味の歴史社会学』世界思想社

③三上剛史 2007:
 「「切り」つつ「結ぶ」メディアとしての〈愛〉Liebe als Passion(N.Luhmann)解釈のためのノート」
 『国際文化学研究:神戸大学大学院国際文化学研究科紀要』29

④森山至貴 2008:
 「〈愛〉の決疑論」『ソシオロゴス』NO.32

⑤宮台真司 2005:
 『限界の思考』双風舎

1、土場学 1993

 ①の土場論文は、社会学における古くからの対立である社会変動のミクロ的説明とマクロ的説明との対立を超克する道として、著者によればミクロとマクロを連結するメカニズムとして捉えられるルーマン的な「コミュニケーション・メディア」に定位した社会変動論を提示するものである。

 そこではルーマンのメディア論についての著者独自の語り直しが行われた上で、「愛のゼマンティクの進化」過程が、ルーマンの叙述を参考にしつつも、これまた著者独自の仕方で語り直される。

 さて、その理論的な試み全体の評価は私の手にあまるが、ルーマンの「愛」の概念の研究として見るなら、本論文は本稿が第1章第2節2-4で扱った規定、愛において「他者は体験し、私は行為する」という規定を正確に捉えていることに利点がある。

 ただし、それがルーマンの「愛」の概念の全体的研究でないことを示すために強いて「外在」的な限界の指摘—つまり、いかなる意味でも本論文自体の価値を損なうものではないような限界の指摘—を行うとすれば、ルーマンがそこに見ている諸困難(本稿の第1章第2節2-4-1~2-4-3)が視野に入っているわけではないし、当然のことだが、当時出版されていないLUの叙述に属する、私たちが第1章第2節2-2、2-3で扱う諸論点も含まれていない。

 また「愛のゼマンティクの進化」についての歴史叙述もよく整理されたものであり参考になるが、ルーマン自身の叙述に丁寧に寄り添ったものではなく、独自研究の色彩がかなり強いものとなっている。

2、高橋徹 2002

 ②の高橋の著作は、これまで抽象的な理論(家)と見なされ等閑視されてきたルーマン(理論)の歴史的な側面を押し出す研究であり、ルーマンの理論自身がルーマンによって近代社会に即した歴史的なものとして提示されていることを示すことを主要な目的とするものである。

 その研究の主な対象は『社会構造とゼマンティク』だが、その「特別版」である『情熱としての愛』にも一章が充てられている。さて、この著作の目的自体は徹底的に妥当なものと思われる。ここでも私はルーマンの「愛」の概念の全体的研究とはなっていないことを示すために、これまた「外在」的な限界の指摘を行うことにしよう。

 まずは本研究の特長から見ておくと、「愛」の概念の研究としてみたときの本書の利点は、「愛」の「分出」過程をルーマンに即して追いかけつつ、それを理論的規定にもたらしていることである。すなわち、システムの分出の根拠は自己言及性、すなわち、社会システムならば特定の種類のコミュニケーションが他から区別されつつ自らに接続し続けることであるのだが、これが「愛」について成立する過程を問うのである。

 そこで持ち出されるのは、私たちも第1章第3節3-1-2や第2章第2節2-3-1などで違う力点のもとに扱った「情熱」と「二重の偶然性」である。私たちも論じるところだが、曰く、「情熱」はその相互性のうちに能動化され、その根拠付けの不要性によって他の領域からの「愛」の「分出」を支える。

 そのように「分出」した「愛」にあって相互的な選択の自由としての「二重の偶然性」が経験され、その不安定さがコミュニケーションを安定化させる装置を要請する。ここで登場してくるのが「シンボル的に一般化されたコミュニケーション・メディア」と「ゼマンティク」であり、これによって「愛」のコミュニケーションが他から区別されつつ自らに自己言及的に接続されるようになるとともに、その内的な安定性が一定程度確保されるというわけである。

 さて、本研究の限界を「外在」的に指摘するとすれば、それは歴史叙述が「分出」に関わるものに厳密に限定されていること、そして「コミュニケーション・メディア」としての「愛」の「メディア特性」について、これまた①と同様に、LU出版以前では当然のことながら、体験と行為の不均衡という論点しか取り上げられていないことである。

3、三上剛史 2007

 ③の三上論文は、研究状況についての興味深い指摘を含んでいる。曰く、先行研究について、ここで上に挙げた二つ以外は「国内外ともに、他にこれといった研究は見当たらないようである」(114頁、注1)。そしてその理由を三上は以下のように推測する。

 「恐らく、既に知られている社会史や恋愛研究の成果とルーマン独自のシステム理論が並存しているところが分かりにくく、恋愛研究としてはあまりに堅く、システム理論としてはやや事例が特殊すぎるということが、この著作に対する言及の少なさを招いているのであろう。ただ、ルーマン自身はこの本を自分のシステム理論研究の中心の一つと考えていたようであり、また、自著の中でも重要視していたものの一つであるようだ」(94頁)。

 確かに、このコメントは頷けるものである。もちろん、「愛」というテーマの具体性とルーマンの理論と叙述の抽象性との短絡がルーマンの「愛」の研究の最大の魅力の一つなのだが。

 さて、内容の検討に移ろう。本論文はまずルーマン他を参考にしつつ、恋愛結婚イデオロギーが成立するまでの恋愛の歴史を整理する。ここで外在的な限界の指摘を行えば、この叙述は本稿第2章第2節2-1で論じる「三つの時代区分」は基本的に踏まえつつも、その「四つのメルクマール」をおさえていない点で、ルーマンの記述にそれほど忠実ではない。

 続いて本論文の主要な内容を見ていこう。それはギデンズやベックなどに代表される後期近代における親密性の変化をめぐる議論をルーマンによって深めることである。そういった議論は後期近代におけるいやます「個人化」と「非人格化」を強調する。社会の全体的な「非人格化」が「人格的・個人的」な「親密関係」へと人々をますます動機づけるものの、いやます「個人化」は関係を不安定化させ、個人はそれを絶えず努力しながら維持しなければならない…。

 本論文は、ルーマンの「愛」の「メディア論」を、個人化した個人が関係を取り結ぶことを可能にする装置として適切に把握した上でなされる「メディア」と「コード」の差異の規定、「象徴的一般化」の意味の解明などにおいて、非常に参考になる。

 一番強調されている論点は、「二重の偶然性」のルーマン的解決の含意だろう。パーソンズはそれを解決する事前了解や価値規範の共有を強調したが、ルーマンはむしろ不安定だからこそ安定するという見方をしており、「愛」に関して言えば、「愛」が不確かであるがゆえに、「愛」を確かめようとするコミュニケーションの連鎖が生じるのである。

 さまざまな感情や行為が「愛(を示すもの)」とみなされるようになり、さらに「愛」が価値であるとされることで(これが本論文によれば「象徴的一般化」の一つの意味である)、その行為は受け入れられやすくなり、関係の形成が可能になる。そして「愛」が結局は不確かだからこそ、「愛」を示す振る舞いが相互的に接続され続けるのである。

 このようなメディアが成立していることで、非人格化する社会の中でまずます個人化していく個人が互いに繋がりうるのである。一方が「愛」を示すものとみなされた行為をすれば、「愛」に価値があるとされているがゆえに、それは他方により受け入れられやすい。

 そして「愛」そのものはさまざまな行為を「愛/愛ではない」と二元化するコードでしかあり得ないがゆえに決して最終的には確認されないので、「愛」を示すとされる行為がお互いになされ続けるのであって、こうして個人が個人的・人格的につながる「親密関係」が可能になるのである。

 さて、本論文の論究はさまざまな点で参考になるのだが、再び「外在」的な限界の指摘を行えば、ルーマンの「愛」の概念の研究として見るなら、やはりLUの出版前ということもあり、そのメディア特性についての論究は不十分であるし、また「愛」を本稿第1章第3節が試みるようにプロセスとして把握するという視点が欠けているといえよう。

4、森山至貴 2008

 ④の森山論文はルーマンの『情熱としての愛』を参照しつつも、基本的には独自研究である。その論旨を私が把握し得た限りで要約しておこう。近代において人を選ぶことは例えば能力を測るための公正な試験などの合理的な理由が必要なのに(=「理由の専制」)、愛はそれを欠いているように見える。だが、ルーマンによれば「愛」は「愛」を「理由」とするような独自の選択形式であり(この把握は「愛の再帰性」の論点を部分的には捉えている)、それも「理由の専制」の範疇に入っている。

 だが、愛はパラドクス的なものであって、それは「愛」を捉えようとすると、「愛」の外に出てしまって、「愛」が確信できないということである。「愛」による選択だと思っても、実はほかの理由、例えば、「お金」で選んだのではないかなどといった疑念が克服できないのだ。そこで何か「愛」を「愛」たらしめるために何か別のものが必要なのであり、そこで関係の種類、人の種類、場所の種類などが持ち出される。この最後のプロセスが愛の決疑論である。

 さて、私たちは本論文の理論的内容について立ち入って評価する能力はないのだが、ルーマン研究として見るならば、本稿で展開した私たちの議論を十全に理解していただいた上で読むならば、本論文のルーマンへの言及は、ルーマンのうちにはさほど根拠を持たない、いわば独自の利用であるということが理解されるはずである。

5、宮台真司 2005

 ⑤の223頁から225頁において宮台は『情熱としての愛』を簡単に解説している。これもまた独自の見解であるので取り扱っておこう。その主旨は「愛のゼマンティク」は「不可能性のゼマンティク」であり、そのために不安定で「再帰化と自明化の振幅を反復せざるを得なかった」というものである。

 「理想化」においては、不可能性は階層差にあり、それは「パラドクス化」では真の心の分からなさに移される(ルーマン自身の言葉で言えば「コミュニケート不可能性」)。「パラドクス化」では、この苦しみに愛の真価が見出される。愛の不可能性が愛の可能性だという「パラドクス」があるのだ。

 しかるのちには小説を読んで愛し始めるという態度が一般化し、恋愛小説を参照することで恋愛が可能になる。すなわち、愛は「自己参照的」になるとともに、「パラドクス」は大衆的に持ちこたえられるものではないので、結婚が「愛」の「真の心」を示すとされ、結婚と愛との結合がなされる。

 さて、ルーマンがそれほど強調しているわけではないものの、たびたびLPに出現しているテーマである「不可能性」に焦点を当てる解釈は興味深いが、この読解がどれほど正確であるのかということは別問題であり、その点は私たち自身の理解を示す本稿の解明全体を通じて示されているはずである。

 あらかじめ指摘しておけば、ここでの「自己参照」の意味は完全に取り違えられており、またルーマンが「コミュニケート不可能性」に対して提示している答えは「結婚」(だけ)ではない。

 前者の問題は「愛の再帰性」というルーマンの中心概念の理解に関わっており、また後者の問題は本稿第2章第4節以降の展開が示すように、LPの末尾の理解に関わっている。従って、どちらもLPの理解にとってどうでもいい問題ではないのである。

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おわりに—あるいは、理論がおわり、詩がはじまる

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

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