第2章 第1節 前史 —「政治的 = ポリス的」な愛

 ルーマンはLUで、近代的な、いわゆる恋愛の意味での「愛」以前の「愛」の語義についても簡単に触れている。ここは単にルーマンの議論を紹介しておくとしよう1)LU, S.28-31.

 ルーマンは「フィロス-フィリア-アミキティア-アムール」という語の伝統を追いかける。ルーマンによれば、古典ギリシア語で「愛」を示す名詞であった「フィリア」よりも、「フィロス」という形容詞が先行する。

 これは「近くに立っている、属している」といった意味であり、「家族、世代、氏族によって分化した社会の中で家族関係や親族関係を示すのに用いられた」、すなわち、形容詞「フィロス」は「社会構造を直接に表現にもたらす」ものだった。

 その後、ポリス時代への移行期に名詞「フィリア」が現れ、感情状態を意味するようになる。さて、プラトン的なエロースについての思弁といった例外もあったけれども2)もちろん、プラトンの『饗宴』に対する参照である。ところで『饗宴』を読んで明らかになるのは「哲学」の、「知への愛」の、「フィロ-ソフィア」の語りが、この原初においては明らかに同性愛的な誘惑の語りとしても機能していたということである。『饗宴』の最終場面でアルキビアデスは「われわれ」が「ひとしく驚倒し、心を奪われてしまう」対象としてソクラテスを称える。ソクラテスは「一切の所有は無価値でありわれわれも無に等しいものであると考えている」。そのソクラテスが語るのを聞くと「僕の今送っているような生活はもう堪えられないぞとまで思うほどの気持ち」が生じるのである。そうして私たちからすると不可解なことに(?)、アルキビアデスはソクラテスを夕食に誘い、さらに寝床へと引っ張りこむ。しかるに、ソクラテスは手を出さない。「ソクラテス」の「内部」にある「非常に神々しく、黄金のごとくに、また限りなく美しくかつ驚嘆すべきもの」を語るアルキビアデスに対して、ソクラテスは「僕には何の価値も無いということに君が気づかないといけないから」と返すのだ。ソクラテスは何か「神々しいもの」で「欲望」を充足させてしまうよりも、むしろ、「欲望」を動かす—というより、欲望そのもの「である」—「空虚」を重視するのだ。この「空虚」は、もちろん(?)、ハイデガーが「存在の退去」が吹かせる「隙間風」と呼んだものである。、「フィリア」の中心的な意義は(アリストテレス的と言ってもいいのかもしれない)共同体の精神的紐帯を意味する「ポリス的 = 政治的な(友)愛」として固定される。こうしてルーマンは前近代において愛が全体社会そのものと重ね合わされる形で考えられていたことを示そうとする。

 もちろん、前近代においても個人に対する情熱的な愛着がなかったということではないのだが、それは社会秩序を形成するものというよりは、むしろ、社会にとって危険なものであり、早婚や少年愛によって無害化されていたにすぎない。

 さて、「政治的 = ポリス的な愛」を基本としつつ、ルーマンによれば、キリスト教などを想定して言っているのだろうが、その後に展開された哲学的・宗教的な思弁は愛を特定の共同体を超えた人類全体まで普遍化する傾向を示す。

 にもかかわらず、近代的な「愛」はその方向の延長線上にあるのではなく、その全く逆、すなわち、愛の一人の個人への集中として出現するのである。

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第2章 ルーマンの「愛の歴史社会学」—「愛のゼマンティク」の来し方と行く末
第2章 第2節 愛のゼマンティクの進化—理想・パラドクス・自己参照

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1. LU, S.28-31.
2. もちろん、プラトンの『饗宴』に対する参照である。ところで『饗宴』を読んで明らかになるのは「哲学」の、「知への愛」の、「フィロ-ソフィア」の語りが、この原初においては明らかに同性愛的な誘惑の語りとしても機能していたということである。『饗宴』の最終場面でアルキビアデスは「われわれ」が「ひとしく驚倒し、心を奪われてしまう」対象としてソクラテスを称える。ソクラテスは「一切の所有は無価値でありわれわれも無に等しいものであると考えている」。そのソクラテスが語るのを聞くと「僕の今送っているような生活はもう堪えられないぞとまで思うほどの気持ち」が生じるのである。そうして私たちからすると不可解なことに(?)、アルキビアデスはソクラテスを夕食に誘い、さらに寝床へと引っ張りこむ。しかるに、ソクラテスは手を出さない。「ソクラテス」の「内部」にある「非常に神々しく、黄金のごとくに、また限りなく美しくかつ驚嘆すべきもの」を語るアルキビアデスに対して、ソクラテスは「僕には何の価値も無いということに君が気づかないといけないから」と返すのだ。ソクラテスは何か「神々しいもの」で「欲望」を充足させてしまうよりも、むしろ、「欲望」を動かす—というより、欲望そのもの「である」—「空虚」を重視するのだ。この「空虚」は、もちろん(?)、ハイデガーが「存在の退去」が吹かせる「隙間風」と呼んだものである。
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