おわりに—あるいは、理論がおわり、詩がはじまる

 ルーマンは先に引いた最終段落の後に引き続いて一つの「詩」を置いている。今まで述べてきたところからして明らかな通り、ルーマンが彼の主要な理論的想定、つまり「機能分化」という想定を徹底し、いわばその「分出の思惟」をその最後の帰結にまでもたらすなら、「愛」は「真理」からも分出され、「理論」という「真理」のための語り口そのものが「愛」において挫折しなければならない。

 だから「愛」を語る本書の最後に「詩」が置かれること自体がいわば「理論」に適ったことなのだ。ルーマンの「理論」は自らを徹底することで自らを廃棄する。「愛」が問題である場合には、そのようにしてのみ、語られる「内容」と語りの「形式」とが調和にもたらされるからである。

 さて、すると「詩」を解釈し、それを「理論」の言葉に変換することほど、誤ったこと、おそらく「野暮」とでも名指されるべきこともないだろう。だが、もう一度繰り返すなら、本稿は自称「哲学的」解釈としてテオーリアの遠き子孫としてのTheorieにのみ奉仕する、というより、私にはそうすることしかできない。それが私の限界である。だから私は私なりのやり方で行けるところまで行ってみよう。「詩」は以下のようなものである。

Ein Gesicht vor dem
Einen
keins mehr Sub-ject
nur noch Bezug
unfaßbar
    und
      fest

         (Friedrich Rudolf Hohl)

 第一行から第二行を直訳すれば「一方の前に一つの顔(Ein Gesicht vor dem Einen)」となる。二つの「顔」の向き合いは二人が接し交わり貫入しあう「面」としての「相互浸透のシステム」を象徴化する。

 第三行は「どちらもいまや主-体ではなく(keins mehr Sub-ject)」、ポイントは「Sub-ject」とハイフンで区切られていることで「下に-投げられたもの」という原義が強調されていることである。「相互浸透のシステム」の外部に、それの「下」にあって、それを支える基礎になるような仕方で、二人が「主体」として存在するのではもはやない。二人は相互に向き合う「顔」としてのみ、その「現れ」としてのみあるのであって、その背後になんらかの二人「自体」があるわけではない。

 言い換えれば、第四行目、あるのは「ただ関わりだけ(nur noch Bezug)」。この「関わり」は、もはや背後になんらの「関わっている」「実体」を持たないというラディカルな意味で「ただ関わりだけ」のものである。

 かくして、この「関わり」はその真偽や誠実性をそれに照らして、つまり、それに一致しているかによって測るための基準がないのだから、五行目、この「関わり」は「つかめない(unfaßbar)」、あるいは認知的・道徳的な図式では「把握できない(unfaßbar)」。

 だが、このような「真理」や「道徳」から分出したところ、それらの外部で、愛は自らを証しだて、「関わり」の「透明性」として統べる。「愛」は「相互浸透のシステム」において、あらゆる情報に即してなされる相互的な「確証」ないし「統一」の経験、そこで感受される「繋がり」の「透明性」なのであり、私たちはそこに徹するのであって、その背後を問うことはもはやしない。

 それは、六行目、この限りで「しっかり(fest)」していて、「堅固(fest)」なのである。愛はいまや「愛の再帰性」の意味で愛自身の「存在根拠」であるだけでなく、自らの唯一適切な「認識根拠」でもあるのだ。

 そして最終行。作者の名前としてフリードリッヒ・ルドルフ・ホールという名が掲げられている。この名は本書の冒頭にも現れる。LPは「フリードリッヒ・ルドルフ・ホールへの追憶のうちで」書かれているのである。

 彼はルーマンの親友であり、体を壊して60才で法学講師を引退したのち、1979年で亡くなるまでの数年間を詩作に費やし、ルーマンの思想世界を詩にもたらそうと努力したようである。ルーマンをある特異な仕方で「理解」しようとした唯一無二の親友、初めと終わりに彼の名を掲げていることから明らかな通り、ルーマンは本書を彼に捧げている。それはルーマンなりの「愛のお返し(Gegenliebe)」なのかもしれない。

 以上が私たちなりのLP末尾の「詩」の解釈である。それは「愛」の「真理」からの分出を主張し、そのために「真理」の語り口としての「理論」を避け、「詩」という形態を自らにまとう。私たちの解釈はそれを「理論」の語り口に移し戻すだけであり、何も新しいことを理解させない。

 実際、そこで語られていることは「真理」という「一般性」の次元では決して分かりようがない。それはただ「愛」のうちに現にいる二人だけに、二人の「愛」によって、まったく「個別的」に理解され経験されるのみなのである。「分出」ということをラディカルに考えるなら、そこまで行かなければならない1)もちろん、「分出」ということが言われうるために必ずここまで行かなければならないというわけではない。「分出」自体はもっといわば形式的・建前的なものとしてクールに把握することができる。例えば、ある女性が婚活の結果、数人の候補者から年収の高さで夫を選んだとする。おそらく、彼女はそれを仲の良い友人に話すことはできるだろうが、夫にそのことを正直に打ち明けることは多くの場合不可能だろう—それは婚約破棄に通じうる。このように「本当のこと」が言えないということ、「金で選んだ」ではなく、「好きです」と言わなければならないということ、ここに「愛」の「分出」が制度化されているということが読み取れる。また、愛の「真理=理性」に対する分出についてはLPの第九章も参照のこと。

 かくして、「理論」の語り、第三者の語り、普遍の語りとしての「哲学的解釈」たる本稿がついていけるのはここまでである。その先には私たちの手は届かない。そこにあるものは「概念(Begriff)」では、もはや「つかむ(begreifen)」ことができない。

 私たちはいまや、ひと昔前の仲人のごとく、「あとは若い二人に任せて」立ち去るしかないのだ2)この二人がルーマンとホールである場合には、彼らは私たちよりもよっぽど年長であるのだが。いずれにせよ、これ以上のBL的空想は差し控えるとしよう。というのも、ホール×ルーマンなどというコアなカップリングを嗜む腐女子など決して現れそうにないからである。。ルーマンの思惟の歩みに最後までつき添おうとした私たちの試みは、「詩」と「哲学」との旧き分割に従って、かく終焉する。そして、この場所、『情熱としての愛』が終わるこの場所で、おそらく私たち自身も、理論の「一般性」から、私たち自身の生きることの「個別性」へと戻っていかなければならないのだろう。(了)

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第2章 第4節 愛の非根拠—あるいは真理に対して愛を守ること
ルーマン『情熱としての愛』:先行研究へのコメント

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1. もちろん、「分出」ということが言われうるために必ずここまで行かなければならないというわけではない。「分出」自体はもっといわば形式的・建前的なものとしてクールに把握することができる。例えば、ある女性が婚活の結果、数人の候補者から年収の高さで夫を選んだとする。おそらく、彼女はそれを仲の良い友人に話すことはできるだろうが、夫にそのことを正直に打ち明けることは多くの場合不可能だろう—それは婚約破棄に通じうる。このように「本当のこと」が言えないということ、「金で選んだ」ではなく、「好きです」と言わなければならないということ、ここに「愛」の「分出」が制度化されているということが読み取れる。また、愛の「真理=理性」に対する分出についてはLPの第九章も参照のこと。
2. この二人がルーマンとホールである場合には、彼らは私たちよりもよっぽど年長であるのだが。いずれにせよ、これ以上のBL的空想は差し控えるとしよう。というのも、ホール×ルーマンなどというコアなカップリングを嗜む腐女子など決して現れそうにないからである。
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