第2章 第4節 愛の非根拠—あるいは真理に対して愛を守ること

 さて、こうして私たちはルーマンの歴史叙述の大筋を歩み抜いたことになる。「愛のゼマンティク」は、はじめ社会の「階層的-道徳的」構成に即して、愛を「(道徳的)理想」として語り、続く諸機能の分出の時期には、愛を生の他の諸領域と区別するために、それを尋常ではない「パラドクス」によって特徴付けた。
 
 その後、一定の確立をみた機能分化社会では愛は自律し「自己参照」的なものとしてゼマンティク的にコード化され、「近代社会が自らの獲得物をまだ欠けているものとしてのみならず、もはや現実としても経験しなければならなくなった」1)LP, S.199.現代においては、愛は恒常的に欲されつつも、まったく外的な支えを欠くがゆえに不安定なものとして、各人にとっても社会全体にとっても極め付けに「問題」的なものとして絶えざる語りの対象となる。

 それは上手くいくことが「ありそうもない」ものだが、復習すれば、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアのコードの機能は、一般的に言うと、ありそうもないような無理な要求に対して、十分な引き受けのありそうさを保証すること」2)LP, S.67.であり、「愛のゼマンティク」は「愛の可能性、愛のもっともらしさ、愛の実現可能性」3)LP, S.47.を描出し、また「もし対応するコミュニケーションが成立したならば生じるであろう帰結に対処すること」4)LP, S.23.ができるためのコード—例えばルーマンの「理解のプログラム」—を与えることで、「愛」への「動機」を全社会的に調達し、また「愛」の関係の維持が可能であるようにしなければならない。そして先に述べた通り、「愛のゼマンティク」の分析たるLPは—さらに言えばLPを分析する本稿も—同時に「愛のゼマンティク」の一例でもあるのだ。もちろん、以上のことはLPが何らかの意味で「恋愛マニュアル」としての機能をももつことを意味している。

 以上がルーマンの「愛の歴史社会学」について与えることができる一応のまとめである。ここで私たちは論述を締めくくってもよさそうだが、もう一踏ん張りしてみよう。

 それはLPでルーマンが立っている最終的な境位を明らかにするために決定的に重要な一踏ん張りであり、ルーマンの歴史叙述の上の再構成の未解決部分に関わる。それが決定的に重要であることは、それがまさにLPの最終段落において語られていることからも見て取れる。私たちはそれを適切に解釈しなければならない—実際、最終段落を適切に解釈できなければ、その著作を正しく理解したことにはならないだろう。

 さて、もったいぶるのはこれくらいにして、具体的な解釈に取り掛かろう。上の再構成の未解決部分とは「コミュニケート不可能性」の「第一の方向性」に関するものであり、「真の愛」「誠実な愛」「感情の真正性」が伝達不可能であるという事態がいかに乗り越えられたのかという問題である。

 これについてのルーマンの論及は—少なくとも私には—さしあたりよく分からない。順に見ていこう。まず第2章の2-1の四つのメルクマールのまとめ部分で言及したところだが、ルーマンは「[感情の真正性のコミュニケート不可能性という]このことは、ロマン派がコードの統一を愛の自己参照そのものに置き移す度合いに応じて、意義を失う」5)LP, S.54.という。

 それはいいのだが、それがいかにしてかが判明ではない。さらにルーマンは18世紀を論じる中で、「論理学のモデルに従った」「思考と認識に類似した」「二元図式化」、つまり、「愛している/愛していないという違い」「真の愛と偽の愛との差異の認識」といった問題の立て方の衰退を語る6)LP, S.129.。あるいは「認知的図式と道徳的図式への不動の信頼の崩壊」について述べる7)LP, S.134.。引き続いてルーマンはこの時期の新しい「感情」理解に関して以下のように言う。

感情はいまや、それが[誠実性が決して伝達されえず確信されえないという]実存的な不誠実性という深い問題を解決するべきであるならば、自分自身に関して判断能力があるものとして、それとともに愛に関しても判断能力があるものとして把握されなければならない。外的な審級は必要ない(…)。真の愛と偽の愛との区別という古い問題は後退する。自分自身を判断する感情はただ真正な愛のみを育てる—あるいは、それに挫折するのである。「愛において」、と最後にシャンフォールにおいて言われる、「すべては真であり、すべては偽である。そして愛はそれについて人が馬鹿げたことを言うことのできない唯一のものである」。愛の分出はこれ以上明確にはほとんど定式化できない。もはやたんにコントロール不可能な情熱のみならず、愛において認知的および道徳的な差異図式が挫折すること、それこそが愛の自立性を表現にもたらすのである。8)LP, S.134-135.

 もはやルーマンの—そこへの行き方は別として—行きたい方向性自体は明らかだろう。「真の愛/偽の愛」は「認知的」な「真理」の問い方であり、「誠実な愛/不誠実な愛」は「道徳」の問い方であって、「愛」というメディアの分出が徹底的なものであるべきならば、「愛」はさきに「過剰」な「情熱」に即して見られたように「経済」「政治」「(法的)結婚」などから分出するのみならず、「真理」と「道徳」からも分出しなければならない。

 「愛」について「真」とか「誠実」とかを問うても、それは「コミュニケート不可能性」というデッドロックにぶつかるだけだ。これはルーマンが一貫して思っていることを正直に言うという意味での「誠実」を全面化することに懐疑的なことの一つの理由と見なしうる9)LP, S.210-211.

 「愛」はそのような問い方を越えなければならない。「愛」はルーマンの言い方では—これはどういうことなのだろう?—自らを判断しなければならない、言い換えれば、自らによって自らを証し立てる、いわば「自証性」を持たなければならないのである。

 さて、そして、ルーマンがLPの最終段落で問題としているのも—ということは、ルーマンが最も言いたいこと(の少なくとも一つ)は—まさにこの問題である。最後だから少々長く引用しよう。

親密性を相互浸透[のシステム]として理解するなら、回顧的に、情熱恋愛とロマンチック・ラブというゼマンティク的な伝統がそのために方向付けの模範を提供しているかどうか、(…)慎重に探ることができる。(…)行きすぎたパラドクス化と、まずもって分出を正当化するはずのものであった情熱や過剰という意味契機は放棄することができる。それに対して(…)固有の世界を構成する個人という(…)概念は、断念できないものであり続ける。同様に重要なのは、それによって「親密領域ではシステムはシステムの構成と存続を可能にする条件を自ら産出しなければならない」という考えが保持されるところの、自己参照の表象、愛のために愛するという表象である。(…)愛は、愛にとって根拠と動機でありうるような一切の性質を解消するということを、かつてなくラディカルに認めなければならなくなるだろう。他者を「見透す」いかなる試みも、「底なし」へと、[言い換えれば]一切の基準から逃れ去る、真と偽との、誠実と不誠実との、あの統一[=区別不可能性]へと私たちを導く。それゆえに全ては言われえない。透明性は、ただシステムとシステムとの関係のうちにのみ、いわば、システムを構成するシステムと環境との差異にもとづいてのみ、存在する。愛はこの透明性そのものでしかありえないのだ。 10)LP, S.222-223.

 前半に関しては、『情熱としての愛』の著者の最終的な立場が「情熱」の「放棄」であることが覚えておくに値しよう。ルーマンは「愛」の本質を「コミュニケーション・メディア」、つまり、「愛される者」の選択が「愛する者」に伝達され、「愛する者」によって確証されることのうちに見定める。

 それゆえ「愛」にとって本質的なのは「愛する者」による「愛される者」の「理解」であり、だからこそ、ルーマンにとって、コントロール不可能で、それゆえに「他者」の「理解」を妨げるような「過剰」な「情熱」は「愛」にとっては妨げでもありうるし、「放棄」可能、あるいは「放棄」するべきですらあるのだ。こうしてルーマンは、カント風の用語を使えば、「愛」の重心を、受動的な「情熱」ないし「感性 = 官能(Sinnlichkeit)」から、能動的な「悟性 = 理解(Verstand)」へとズラすことになるのである。

 さて、前半には難解な部分は何もない。理解の上で問題があるとすれば、後半、「かつてなくラディカルに認めなければならなくなるだろう(konzedieren müssen wird)」という予言(?)以降の文章である。ルーマンは何を言いたいのだろうか。

 最後の最後だから—私たちのルーマンへの愛を十全に示すためにも、というのは、テキストは結局のところ愛なしには読まれえないのだから—逐行解釈をしていこう。

 続く一文が、それがいまさっきまで私たちが追跡してきた論脈に属していることを明かしている。私たちが「相互浸透のシステム」のうちでの他者との交わり、いわば他者の「現れ」を越えて、その背後にいる他者を「見透す(durchschauen)」ことを試みるとすると、それは他者の「現れ」の後ろに他者「自体」を想定し、それと引き比べることで他者の「現れ」の「真/偽」ないし「誠実/不誠実」を問うことになるだろう。

 だが、他者「自体」など決して見えない、他者「自体」はいわば「底なし」であり、そこには何らの「真」「誠実」の「基準」も見出せない。せいぜいどんな「現れ」も「現れ」ている限りで「真」でありえないという無限後退、「真」と「偽」の区別不可能性、「あの統一[=区別不可能性]」が生じるだけだ。かく他者「自体」は決して表現されえず確信されえないから—「コミュニケート不可能性」—「全ては言われえない」。

 むしろ、私たちは「愛」を徹底的に分出させるために「真理」と「道徳」との問い方を放棄しなければならない。「相互浸透のシステム」の「背後」にある他者「自体」を「見透す」ことを試みるのではなく、「私とあなた」という「システムとシステム」が触れ交わる接触面、「相互浸透のシステム」という「関係(Beziehung)」そのものに徹しなければならない。

 そのときにのみ、ある「見透す」こととは違う「透明性」が、「システムと環境との差異」、つまり、「私とあなた」との「差異」に基づけられた—第1章末尾を思い出そう—「無根拠」な「透明性」が経験されうる。

 それは結局、あらゆる情報に即して確認される統一のことだろう。この「透明性」こそ、いまやルーマンに言わせれば「愛」そのものなのであり、以上の意味で「愛は、愛にとって根拠と動機でありうるような一切の性質を解消するということを、かつてなくラディカルに認めなければならない」。

 だが、これを「愛の無根拠」というのはおそらくもはや的確ではない。というのは、「根拠」は「真理」の問い方であり、第1章末尾で解釈したLP最後から一つ前の段落がたんに「愛には根拠がない」という意味で「愛の無根拠」を宣したとすれば、本段落は「真理」そのものからの「愛」の分出を主張すること、いわば「真理に対して愛を守ること」によって、「根拠」の「有/無」という問い方、その区分そのものの外に出ているからである。だから、ルーマンがLPの最後に立っている場所は、おそらく「愛の非根拠」とでも名指すべきなのだろう。

 だが、この場所はどんな場所なのか。それを私たちは—先に使った言葉を繰り返せば—まだ「分からない」し、そこへの「行き方」も不明である。一つだけ確かなことは、「愛」がいまや「真理」の外である以上、それは、私たちの語り口、つまり「理論」の語り口では分かりようがないということである。語られるべき「内容」が「真理」の外にあるなら、それを語る「形式」も「理論」という「真理」のための語り口ではありえない。さて、こうしてようやく私たちはLPの本当の終わりに到達したようである。

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第2章 第3節 現代に向けての胎動—「解決のない問題」への方向付け
おわりに—あるいは、理論がおわり、詩がはじまる

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1. LP, S.199.
2. LP, S.67.
3. LP, S.47.
4. LP, S.23.
5. LP, S.54.
6. LP, S.129.
7. LP, S.134.
8. LP, S.134-135.
9. LP, S.210-211.
10. LP, S.222-223.
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