第1章 第3節 愛の成立・安定・危機

 だが、この決め台詞のあとでルーマンはこの「可能にすること」につき具体的なことをほとんど述べていない。わずかに述べられるのは、以下のことである。

愛は、パラドクス的に定式化すれば、コミュニケーションを広く断念することによって、コミュニケーションをインテンシブ化することができるのである。愛は広く間接的なコミュニケーションを用い、先取り[的な理解]と既に理解しあっているのだということを信頼する。愛は明示的なコミュニケーション、すなわち、問うことと答えることによって、そうすることで何かが自然には理解されていないことが表現にもたらされるがゆえに、まさに不快な気分になるのである。1)LP, S.29.

 しかし、これだけではいかにも貧弱である。だが、ここで69年のLUに目を向けるならば、私たちはそこにルーマンがこの理路をより具体的に理論化した論述を見いだすことができる。

 それが「予期の予期(das Erwarten des Erwartens)」というアイディアであり、これとルーマンが「愛(すること)の再帰性(die Reflexivität der Liebe/des Liebens)」と呼ぶものが本節の論述の中心となるだろう。

 私たちは、「愛の成立・安定・危機」という形でいわば時系列的にルーマンの論述を再構成しつつ、その中で前節最後で提出した問い、メディアとしての愛は先の諸困難を越えられるのかどうかという問いへの答えを探ることとしよう。

3-1、愛の成立―好きになる・アプローチする・成就する

 さて、愛の成立という観点からルーマンの論述を整理するとき、その内実を「好きになる」「アプローチする」「成就する」と分節することが便利であり、また事象に即しているように思われる。かくして、本項はさらに三つの項へと分割される。

3-1-1、好きになる―愛の再帰性(1)・追求対象模範・メディア資源、そして「偶然/運命」

 さて、愛は多くの場合に人を好きになることから始まる。この点でまず何よりも重要なルーマンの主張は、ルーマンの「愛の哲学」のもっとも中心的な概念の一つであり、おそらくはその「愛」についての探求がその「社会システム理論」の全構想、そのいわゆるオートポイエーシスの理論と交差する地点でもある、「愛の再帰性」の主張である2)LP, S.36-37. LU, S.38-42. 「愛の再帰性」の記述の精密な理解にあっては、ともに読書会を行った友人に助けられることが多かったことをここに付記し、感謝の表明としたい。

 これもメディアとしての愛の作動を規定する文化的・歴史的・社会的なコードの一種だが、ルーマンの機能分化仮説やシステム理論の諸想定から必然的に要請されるコードであるようにも見える。その点は徐々に明らかにしていくことにして、まずはその内容を見てみよう。

 「再帰性/反省性(Reflexivität)」とはあるものがあるもの自身に関わることを意味している3)私は最近までこのReflexivitätを「反省性」と訳していたが、今回、「再帰性」に改めることとした。これは「反省性」はやはり意識の働きとしての「反省」のニュアンス、いわば特殊なニュアンスが強いのに対し、「再帰性」はその基本的な語義が、「再帰代名詞」という言葉に見られる通り、主語と目的語の一致一般を指しているので、今回の場合、「再帰性」の方が適切だと考えるようになったためである。「愛の再帰性」とは「愛が愛を愛すること」であり、そこにおける「主語と目的語の一致」である。。例えば、意識は意識自身を意識すること、自己意識であることによって「再帰的(=反省的)」な存在である。

 それでは「愛の再帰性」とは何か。それは愛が愛自身に関わること、「愛することを愛すること」である。近代において愛が十分に他のメディアないし機能から分出し、それに応じて愛のゼマンティクが成熟したのちには、愛は愛自身に再帰的に関わるようになる、あるいは正確に言えば、そういうものとしてコード化され、その下に生きる私たちは「愛することを愛している」のである。

 さて、現代において「恋に恋する」などと言うと相手自身を見ていないという意味で批判的なニュアンスがあるように感じられるが、ルーマンに言わせると「愛することを愛すること」には重大な意義があり、それは近代的な「愛」にとっての決定的な基礎である。本項ではさしあたりその半面を取り扱うことにしよう。

 さて、「愛することを愛すること」によって、私たちは現に愛する対象が存在する前から愛することを求めるようになり、そこからして現に愛していないこと、愛の対象の不在を感じ取ることができるようになる4)LP, S.23.

 この現実的な愛の対象の存在に対する愛の剰余は、まずルーマンが「追求対象模範(Suchmuster)」ないし「偶像(Idole)」と呼ぶものに向けられ、それが現実的な対象選択を容易にしてくれるという。「宣伝されている愛の諸偶像、とりわけ、身体的な美や魅力といった外面的なとっかかりが、対象の選び出しのための一般化された追求対象模範を形成する」5)LU, S.37-38. もちろん、このIdoleを私たちは現代日本における意味の「アイドル」として読むこと、あるいは読み替えることもできる。そのような意味での「アイドル」は―特にいわゆる「会えるアイドル」に顕著なことだが―しばしば「追求対象模範」であることを超えて、「追求されるもの」そのものになってしまうこともあるのだが。ところで、ルーマンは「追求対象模範」は「選択を容易にするが、愛という感情自身の仕方にしたがって深められた愛の成就を妨げることもありうる」(LP, S23-24)と述べている。「愛という感情自身の仕方にしたがって深められた(gefühlsmäßig)」という語は「愛を愛する」という「愛の再帰性」の次元を指し示しており、このことの適切な理解のためにはまず本稿の第1章第3節の第1項(3-1)全体と第2章補論2を一読されたい。そこでの議論を踏まえた上で述べるならば、この一文でルーマンは私たちが「追求対象模範=アイドル」に囚われすぎて、現実的な対象に向かえないか、あるいは現実的対象に向かおうとするにしても、あまりに高望みのためにそれを発見できないという事態を考えていることが分かる。どちらの場合にせよ、そこには対象の視線を通じて私を見るという「社会的再帰性」(補論2)の次元が欠如しており、そこでは「愛の再帰性」(3-1)の論理が働かない、それゆえに「愛」が「愛という感情自身の仕方にしたがって深められる」ことがないのである。。簡単に言えば、私たちは愛することを愛しているために、現実的な対象の存在以前に愛することを求め、愛の偶像から追求対象の模範を受け取り、そうして現実的な対象選択が準備されるのである。

 ここでルーマンは対象選択の基準ないしとっかかりとなるものとして「身体的な美や魅力」を挙げているけれども、「愛という表象症候群に本質的成分として属している」らしい「美」6)LU, S.72.の他にルーマンが対象選択の基準となるものとして想定しているのは、テキストの幾つかの箇所から推測しうるように7)LU, S.26, S.40. LP, S.36(注26), S.175. 、いわばメディア資源とでもいうべきものである。つまり、「(道)徳・権力・富・知」といったものだが、そのことはコミュニケーション・メディアが人を動かす力であるとすれば当然のこととも言えよう。

 さて、こうして私たちは本項の副題に沿う形で「愛の再帰性」「追求対象模範」「メディア資源」について述べてきたのだが、ここで今一度「愛の再帰性」、「愛することを愛すること」の意義により深い次元で立ち戻らなければならない。ルーマンは以下のように述べている。

ひとが愛を愛することに基づいて惚れ込むときにのみ、そうして形成されるシステムが愛をコミュニケーション・メディアとして用いることを期待することができる―というのは、とりわけ、そうすることでのみ感情状態が統一として感得されうるのだし、また選択意識が潜在的なものにとどまりえ、あるいは再び抑圧されうるからである。8)LU, S.42.

 この一節は何を意味しているのだろうか。「愛の再帰性」という言葉が導入された直後の文言がヒントになる。「ひとは愛することを愛するようになり、それゆえにそのひとが愛せるような人間を愛するのである」9)LU, S.38.。とすれば、そのひとは自らの愛の理由を尋ねられた時、こう答えるだろう。「愛せるから」、と。

 テーゼ化すれば、愛は「愛することを愛すること」へと、自己関係へと、再帰性へともたらされることで、自己自身の根拠となる。

 他方で、そうでなければ、例えば、「権力」や「富 = 貨幣」が「愛」の根拠であるとすれば、それは「権力」や「貨幣」というメディアによって動かされていることと区別がつかない、つまり、上の引用文に即すなら、それではそこで成立している関係が「愛をメディアとして用いることが期待できない」し、またそれは複数のメディアの複合的作用の所産として「愛という感情状態が統一として感得される」こともないだろうし、そこでは「権力」や「貨幣」で選んだという「選択意識」が残り続けるだろう。

 とはいえ、最後の文の「潜在的なものにとどまる」や「再び抑圧されうる」といった言葉遣いが示唆するのは、あまりに当然のことだが、選択は存在しなければならないし、そこには理由があるだろうということである。

 とすれば、私たちは先のテーゼにこう微修正を加えるべきだろう。愛は再帰性へともたらされることで、自己自身の根拠となり、そうして自己自身の起源を抹消する、あるいは自ら以外のものへの関係を切断する、と。

 さて、この抹消あるいは切断、正確に言えば、そこから帰結する愛の始まりの「無根拠性」を「象徴」するのが、もちろん、出会いの「偶然性」であり、「偶然」という言葉はこの抹消ないし切断の痕跡である10)この文脈における「偶然」は、「選択の根拠」の「抹消」、あるいはそれからの「切断」の痕跡として読まれるべきであり、額面通りに受け取られるべきではないということは、次のような問いを発してみることですぐ分かるように思われる。そもそもあらゆる他者との出会いは、出会わないこともあり得たという意味で「偶然」である、ではなぜある特定の「偶然」だけが、「偶然(にして運命)」などとして殊更に寿がれるような「偶然」となったのか。もちろん、この「なぜ」への答えは完全には「偶然」ではないのである。すなわち、もしひとが多くの出会いについて、事実的にはそれはないこともあり得たという意味で「偶然」であるにもかかわらず「偶然」を言い立てないのに、愛の関係に関しては殊更に「偶然」を語るとすれば、私たちはそこにこそ、「愛」など様々な機能を他の諸機能から独立せしめる、ルーマンが「分出」と呼んだ社会的動勢の「力」を看取しなければならない。ルーマンの視座からすれば、かくして、恋人たちの語らいのうちといった、もっとも個人的と思われているところ、そこにこそ社会が「顕現 = 現象」しているのである。。そういうわけでルーマンはこの「偶然」という言葉をこの上なく正確に「切断象徴(Trennsymbol)」として位置づける11)LP, S.181.

 メディアとしての愛は、機能分化社会への移行のうちで他のメディアと分化し、自己関係性にもたらされることで、自らの他からの切断を完全なものとする。かくして愛の始まりは、いまや決して根拠の不在による不安の表明などとしてではなく、むしろいわば堂々と(?)「偶然」だと、つまり「偶然にして運命」だと語られるようになるのである。この点につき、最後にルーマンの言葉を引いておこう。

「偶然にして運命(Zufall/Schicksal)」という組み合わせは以下のことを言っている。すなわち、前提を欠いた始まりは愛の関係の意義を損なうものではなく、むしろ一切の外的影響からの独立性として、その意義をまさに上昇させる、いわば自己自身のうちで絶対化するのだということを言っているのである。12)LP, S.181.

 いまや半ば以上明らかだろうが、ルーマンの愛についての語りが私たちからすると時に異様にベタであるように「見える」のは、愛の絶対性、愛の独立性、愛の純粋性ということが、ルーマンの根本仮説としての「機能分化」の主張と徹底的に絡み合っているがゆえなのである。

 愛はメディア-システムの一つとして、近代において他のメディア-システムと分化する。ということは、それは他から「独立」しており、他が混入していないために「純粋」であり、そのようにして他から切り離され「孤絶」していることで「絶対的(ab-solut = 絶-孤)」なのである。

 逆に、ルーマンがそのゼマンティク研究において「愛」を特別扱いしたとすれば、その理由の一つは「愛」というテーマにおいてこそ、「分出」「分化」を「象徴化」するような、つまり、「絶対」「独立」「純粋」を語る大げさな語りが横行しているから、そのためにそこに即して「機能分化」仮説が明確に示されるからなのだと言うこともできるだろう。

3-1-2、アプローチする―動機付け・情報の生成・構成的差異

 少し先走りすぎたようだ。この重要な問題はひとまず先送りして話を順々に進めよう。さて、愛は人を好きになることから始まる。そして、それは偶然である―より正確には偶然として語られる。それにしても、偶然は非合理的なものであるから「二人がそれに同時に見舞われることはありそうもない」。「愛は偶然のように到来するのかもしれないが、おそらく普通は二重の偶然としてではない、だからひとはあと押ししなければならない」13)LP, S.76.

 それにしても、そんなことをする「やる気」はどこから湧いてくるのだろうか。愛という試み、ルーマンの言い方を借りれば、「愛という賭け(Das Wagnis Liebe)」14)LP, S.47が上で見てきたように異常に困難であるとするならば。

 ルーマンは答える。「 [愛への]動機は、愛の可能性、愛のもっともらしさ、愛の実現可能性を描写するゼマンティクから独立に生じるのではない」。「愛という賭けと、それに対応する複雑で、要求の多い、日常生活における方向付けは、文化的な伝統、文学的な手本、説得力のある語りの模範とシチュエーションのイメージ、要するに、伝承されたゼマンティクに支えられてのみ、可能なのである」15)LP, S.47.

 平たく言えば、愛についての語りがコードとして共有され、ひとがその規則に従うことで、愛というありそうもないコミュニケーションが成功しやすくなり、あるいは少なくともそう想像され、そうすることで愛へと人を動機付けることが可能になるということである。

 とはいえ、この問題性をその一般性において取り扱うことはできないし、またこの場所にふさわしいことでもない。本項の表題と副題、本項の関心に合わせて、私たちはコードの機能についての以下の二つの文言に集中するとしよう。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアのコードの機能は、一般的に言うと、[引き受けられることが]ありそうもないような(unwahrscheilich)無理な要求に対して、十分な引き受けのありそうさ(Annahmewahrscheinlichkeit)を保証することである。16)LP, S.67.

[象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの]コードは、私たちが情報の生成として特徴づけたく思う機能を満たすことが出来るのでなければならない。(…)情報はグレゴリー・ベイトソンのよく引かれる文句に従えば、「重要な違いを作る差異(a difference that makes a difference)」である。(…)情報処理が可能になるのは、純粋な事実性を超えて何かが「そうであって他ではない」として経験されるとき、すなわち、ある差異図式のうちに位置付けられるときのみである。(…)ゼマンティク的なコードは、何かを情報として把握することの基礎に置かれる差異を明確に規定するのである。17)LP, S.107.

 問題は、この二つの一節の言わんとすることが一致する地点に到達することである18)この議論はある知人との会話に着想を得ていることをここに記して感謝の表明に代えたい。

 さて、後者から始めよう。ルーマンが引き続いて述べるところを要約すれば19)LP, S.107-108.、各々のメディアの内的な統一は、各々のメディアが情報処理のために用いる諸差異が、各々のメディアの領域にとってのみ意味を持ち、各々のメディアの領域に属するもの一切に情報価値を与えるような「主導的差異」ないし「構成的差異」20)LP, S.205.へと還元されることによって確保される。

 かくして、理念的に言えば、機能分化にともなって、このような各メディアに対応する構成的差異がお互いに分化するのであり、各々のメディアにそれだけに特化した情報処理過程を可能にするのである。

 このことは具体的には何を意味するのか。ルーマンの具体的な歴史叙述から考えてみよう。ルーマンによると愛のゼマンティクのコードが急激に発達したのは17世紀のフランスにおいてであり、それはそこで「愛の関係に入っていくことについての女性の自由の承認」21)LP, S.35.がなされたことによる。こうして愛の関係は男女の双方に選択可能性がある状態、すなわち、「二重の偶然性」が存在する状態になる。

 「両者が愛の関係に入っていくことについて肯定的にも否定的にも決断できる自由としての「二重の偶然性」の分出[こそ]が、社会関係が不安定な時に、その代わりに頼ることができるような、ある特別なゼマンティク[、つまり、愛のゼマンティク]の発展を促進したのである」22)LP, S.76.

 その発展とはいかなるものだろうか。このころの愛の関係において注意しなければならないのは、ルーマンも指摘しているように、それが既婚者の婚外恋愛を意味しているということである23)LP, S.60.。そして17世紀以前においては女性の方には愛の関係に入ることについて自由はなかった。

 とすると、恋愛といっても、それは身分の低い騎士達が身分の高い貴族の婦人にたいして叶わぬ愛を歌うといった類のものとならざるを得ない。ここで女性は何も選ぶことができない以上、何かを考える必要はないし、男性としても成功の見込みはもともとないがゆえに何も思案する必要はない。

 だが、女性が自由になり、「二重の偶然性」が生まれると事態は一変する。女性は受け入れるのか受け入れないのかを選ばなければならないし、男性は自分が受け入れられるのか受け入れられないのかについて思い悩まなければならない。ここまで考えておけばルーマンが歴史叙述において提示する具体的なコードの必然性が見えてくる。

 すなわち、ルーマンが述べるところでは、一方で生じた区別は「プレシューズ」と「コケット」、つまり「一方はいつもノーと言い、他方はいつもイエスと言う」という意味での女性の類型的区別である24)LP, S.60.。また他方で生じた区別は「真の愛」と「偽の愛」ないし「単に装われた愛」との区別である25)LP, S.88. その他の場所はLPのRegisterを参照のこと。

 かなりの単純化であることを断った上で述べるなら、前者は男性にとって自分が受け入れられるのか受け入れられないのかをはっきりさせるための差異であり、後者は女性にとって受け入れていいのか受け入れていけないのかをはっきりさせるための差異である。

 要するに、コミュニケーションを始める側は受け入れられるという意味での「成功」の条件が知りたいのであり、それを受ける側は受け入れていいという意味での「成功」の条件を知りたいのである。それを知り得ない時、私たちは尻込みしコミュニケーションへの関わりから撤退しがちなのだ。

 そして、この例から判明する重要なことは、成功の条件の知はある根本的差異によって形式的に可能にされているということである。重要なのは「受け入れるか、拒絶するかという問題」26)LP, S.113.であり、言い換えれば成功か失敗かの問題なのであって、だからこそ構成的差異は二項対立的なのである。

 こうして私たちは先の二つの引用が一致する地点に到達した。コードは無理な要求、困難なコミュニケーションに関わるという無理な要求を人々に引き受けさせなければならない、すなわち、そこへ人々を動機付けなければならないが、それはある根本的差異、成功の条件を規定するために必要な差異、言い換えれば、一切に情報価値を与える「構成的差異」を作り出すことによって可能になるのである。

 これではあまりに抽象的なので、具体的に考えておこう。男性のアプローチに直面している女性は受け入れるか受け入れないのか決断しなければならないが、そのための条件が分からなければ何も具体的に思考できないだろうし、とすれば撤退するのが一番安全だろう。

 だが、ここに「真の愛/偽の愛」という区別があればどうだろうか。真の愛なら受け入れ、偽の愛なら拒絶すればいいのだ。そして、この差異は構成的差異として一切に情報価値を与える。具体的にどんな要素が双方に割り当てられるのかは時と場所によって異なるだろうが、何はともあれ、彼女はアプローチしてくる男性を観察し、その個々の振る舞いを、これは真の愛を示すもの、あれは偽の愛を示すものなどとして、つまり「情報」として「読む」ことができるようになるのである。

 このような「構成的差異」が存立していれば、何はともあれ彼女はコミュニケーションに関わる気は起きるのであって、しかるのち「真の愛」が示されたなら愛の関係に入っていくことを決断できるのである。

 他方で男性の場合は、これはかなりの単純化なのだが27)というのも、実際は「プレシューズ」は目標として断念されるのではなく、「より追求するに値する目標」(LP, S.60)とされたからである。とはいえ、「プレシューズ」や「コケット」という類型化に基づいて「誘惑の確実な手段があるかのように」考えられた以上(LP, S.64-65)、本項の論旨そのものは揺るがないだろう。、「プレシューズ」と「コケット」の「構成的差異」によって女性の振る舞いをこれは「コケット」的、あれは「プレシューズ」的などと観察し、成功が保証された「コケット」を見出せばよいのである。このような差異の存立によって愛のコミュニケーションを始めようという動機がかろうじて調達されるというわけだ。

 さて、ルーマンはLPでメディアとしての愛にとって歴史的に存立した「主導的差異」として、「amour/plaisir」を掲げているが 、これは女性的な「真の愛/偽の愛」という差異の背景になっている差異である。単に「快楽(plaisir)」が目的なのか、それとも「真の愛(amour)」があるのかというわけだ。

 それはそれとして私たちはのちにルーマンが愛のメディアにとっての構成的差異として論じた「愛されている/愛されていない」を一般的な定式として認めておいてよいだろう。これは先の「真の愛/偽の愛」と完全に一致しているし、「コケット」「プレシューズ」は一定の単純化によって「愛(し返)されうる/愛(し返)されえない」として、この一般的定式の派生態と見なしうる。

 また、「愛されている/愛されていない」の構成的差異はコミュニケーションの開始の場面でかく有用であるのみならず、成立した親密関係でも用いられる。「愛されている/愛されていない」という差異によって相手の振る舞いを情報として観察し、「愛されている」ことが確認され続けること、言い換えれば、双方の選択が双方によって確証され続けることによってのみ、親密関係は存続するのである。

 ところで、ここで重要なのは先に詳述したように「理解」が難しい双方の特異な、つまり「個人的・人格的」な諸選択の確証を容易にする、あるいはむしろ代替する社会的なコードである。

 すなわち、ある特定の振る舞いは相手を愛していること、少なくとも尊重していることを示すといったことが社会的にいわば儀礼的なものとしてコード化―例えば、女性に車道側を歩かせないなど―されていれば、私たちは他者の特異な諸選択を確証するのとは別の仕方で、他者に愛を伝えることができるのである。これは「愛」のコードが「愛」の諸困難を乗り越える一つの仕方ではある28)もちろん、こういった儀礼的なコード化は、「それをしない」ことが「愛がない」と見なされる根拠となってしまい、従って愛の成立・維持を困難にするという逆機能的な作用も持っている。

 さて、最後のところとも関連する話だが、現代においては「こんな振る舞い、見かけ、言動はモテる/モテない」といった技法論的な文脈で「モテる/モテない」29)ところで、この差異にはいわば静的な用法と動的な用法があるように思われる。すなわち、それは動的に、いわば一種のテクニックとして「こうすればモテる/こうするとモテない」という風に語られることもあるし、静的に、「誰某はモテる/モテない」と、いわば人間の本性的性質として語られることもある。もちろん、前者は愛のアプローチの成功の条件を記述するものとして、それが正しいかどうかは別として、とにかく「こうすればいいんだ!」と思わせることによってひとを動機づけるという意味で、コード本来の機能を満たすもの、その意味で機能的なコードだが、後者は「モテない」と自己認識するひとの動機を失わせるものとして逆機能的なコードであるといえよう。以上から明らかな通り、本文で想定しているのは前者の用法である。ということに関しておびただしい言説が紡がれているけれども、その必然性を今や私たちは理解出来る。

 この「モテる/モテない」という差異が、「愛」の領域以外では何の意味も持たないが、「愛」の領域において多くの事実的差異に情報価値を与えているという意味で「愛」というメディアにとっての「構成的差異」であることは論をまたないし、またそれが上の「愛されている/愛されていない」の派生態、あるいは「愛(し返)されうる/愛(し返)されえない」の派生態であることは明白である。

 すなわち、この差異を保持すること、この差異に様々な要素を割り振り続けることによってのみ、その割り振りが事実として正しいかどうかということとは無関係に、ともかくも愛のアプローチの成功の条件(とされるもの)が記述されうるのだし、そこに成功の条件があるという信憑が生産され続け、そうすることで愛のコミュニケーションを始めようという動機がかろうじて社会的に調達され続けるのである。

 もちろん、そこで具体的にどのような要素の割り振りがなされているかということ、つまり現代における「愛のゼマンティク」の具体的な事情は経験的研究によってのみ接近可能であり、自称するところ「哲学」的解釈として「テオーリア」の遠い子孫たるTheorieへの「愛」によってのみ駆動されている(はずの)本稿にあっては、そのことはさしあたり関心の範囲外となっている。

 理論の立場から言えることは、ルーマンがメディアに付随するゼマンティク的なコードに与えた基本的な理論的規定性からして、すなわち、「ありそうもないコミュニケーションをありそうなものとするべく動機づけること」、「そのために情報を生成する構成的差異を産出すること」からして、この種の差異の存立の必然性と重要性が示されるということ、そして現代における愛のゼマンティクの経験的研究なるものがあるとすれば、この種の差異が一つの重要な着手点となるだろうということである。

3-1-3、成就する―愛の再帰性(2)・愛の証明・愛のお返しの生起

 さて、愛のアプローチの成功という意味での成就は種々の要因に依存しており、その条件を一般的に記述することは不可能であるが、他方でルーマンはその「愛の再帰性」の主張によって、その条件につき一定の理論的記述の可能性、コミュニケーションに内在的な―つまり、「美」やその他のメディア資源などによらない―条件の記述の可能性を確保しているように思われる。

 先に「愛の再帰性」は「愛することを愛すること」として把握されたが、それはこの概念のいわば前半部分にすぎない。その後半部分を見るためにルーマンの以下の一節を読んでみよう。

[愛の再帰性を表現する言葉であるところの]「愛のための愛/愛のゆえの愛(Liebe um Liebe)」が最高のものとなる(…)。(…)愛することの再帰性には以下のことが属している。すなわち、ある呼応し合う感情がその感情自身の仕方で肯定され追求されること、つまり、ひとが愛する者としてまた愛される者として自らを愛すること、そしてまた相手をも愛する者としてまた愛される者として愛すること、かくしてまさに自らの感情を二人の感情の合致へと向けることである。愛は私と君に向けられるのだが、それは両者が愛の関係のうちに立っている限りにおいてであり、つまり、愛の関係をお互いに可能にする限りにおいてであって―両者が道徳的に善であったり、身体的に美しかったり、身分的に高貴だったり、金銭的に豊かだったりするからではないのである。30)LU, S.40. LP, S.175. この一節は、13年間という時間的な隔たりを超えてLUからLPにほぼそのまま引き継がれた数少ない一節であり、この事実によってその重要性が示されているように思われる。

 さて、ここから分かるのは「愛の再帰性」は「愛することを愛すること」のみならず、「愛」を成立せしめることへの「愛」として、「愛されることを愛すること」をも意味していることである。「愛の関係をお互いに可能にする限り」でお互いに愛し合えるとすれば、それは私たちが愛することを愛するのみならず、愛されることも愛しているからだろう。

 「ひとは愛することを愛するようになり、それゆえにそのひとが愛せるような人間を愛するのである」という先に見たルーマンの言葉には、「ひとは愛されることを愛するようになり、それゆえにそのひとを愛してくれるような人間を愛するのである」という対となる文句を補うことができるわけだ。この二つを合わせることで、相互的な関係としての「愛の成立」を十全に支えることが可能になる。

 かくして、愛することの根拠は、先に見たような私たちが「愛することを愛する」からであるだけではなく、「愛されることを愛する」からでもあり、いずれにせよ「愛」である。愛はこの意味で十全に自己関係的に自己自身を根拠づけ、引用文の最後に示されているように、自己以外の一切の根拠を無化する。このことが「愛の再帰性」の完全な意味なのである。ルーマンの別の箇所での定式化を引いておこう。31)この段落の論理展開にはやや疑問が残っているようにも思う。おそらく、その感覚は「愛されているから愛せる」という連関の根拠が弱いと感じられることに由来するのだが、これは次項にてこの論理の実質的な基礎が見出されることで解消されるように思われる。

この特殊な現象[、つまり、再帰性]が十分に隔離されるという条件のもとでは以下のことを想定(postulieren)しうる。すなわち、愛は愛によってのみ動機付けられうるということ、言い換えれば、愛は愛に自らを関わらせ、愛を求める、そして、愛を見出すことができ、また自らを愛として実現することができる度合いに応じて成長するということを想定しうるのである。32)LP, S.36.

 ここで一つルーマンが「愛の再帰性」から引き出している帰結について言及しておこう。愛が愛のみを根拠とするようになり、それ以外の根拠―例えば「美」「貨幣」「権力」など―を必要しないとすれば、「愛」について「機会の平等」が達成され、「分配問題」が解消される。こうして「愛の再帰性」を通じて「愛」の領域に一切の人々を「包摂」することが可能になるのである33)LP, S.36.。ルーマンに言わせると、一般的に近代はあらゆる部分システムに対する全員の参加を求めるのである。

 さて、「成就」に話を戻そう。「愛」が「愛することを愛する」かつ「愛されることを愛する」という意味での「愛の再帰性」という仕方でコード化されている限りで、あるいは―極めて重要なことだが―ルーマンが想定するように、近代が機能分化社会であり、システムが自己参照的に自己を再生産するものである限りでは必然的にそのようにコード化されるはずのものである限りで34)ルーマンはその『社会システム理論(Soziale Systeme)』で以下のように述べている。「自己参照的なシステムの理論は、諸システムの分出は自己参照を通じてのみ成立しうる、すなわち、諸システムがその要素と要素的な作動の構成において自分自身(そのシステムの要素であれ、作動であれ、統一であれ)に準拠することによってのみ成立しうるのだと主張するのである」(SS, S.25)。、私たちは「成就」の条件として以下の理論的規定を主張しうるはずである。すなわち、愛する者がその愛を十全に示すなら、愛される者にも愛が引き起こされるはずである、と。

 そういうわけで問題は「愛の証明」に移る。もちろん、それは「真の愛/偽の愛」というコードの具体的内容の諸変遷において時と場所に応じて変容しもするのだろうし、またルーマン自身「愛の証明」において何を証明するべきかという問題が困難である有様について叙述してもいるが35)LU, S.71.、私たちが愛をコミュニケーション・メディアとして捉えるというルーマンの立場を堅持するならば、結局のところ、愛は「選択遂行の伝達と引き受け」の作動において自らを示すということになるだろう。

 すなわち、愛される者の選択が確証されることにおいてであり、またとりわけては先取りによって個別具体的な選択の確証がアイデンティティの確証に二重化されることにおいてである。この「認知的にとても難儀な(strapaziös)」な「理解する愛(verstehende Liebe)」36)LP, S.29.にルーマン的な「愛」の理論の中心点がある。

 さて、こう解することで私たちは以下のようなルーマンの一節を理解できるようになる。すなわち、「そしてまさにひとは他者の世界のなかに自らの場所をもっているがゆえにこそ、他者の世界を受け入れることもできる」37)LU, S.22.

 重要なのは、これが「二重化された意味確証」の一節の直後に来ることである。ここから私たちはルーマンの思惟の内的連関を再構築できるだろう。

 愛する者は愛される者の選択を確証しようと行為するが、それが積み重なり、またとりわけては他者の理解に基づいた「先取り」が生じることで、個々具体的な選択の確証は愛される者のアイデンティティ全体の確証として感受される、あるいは少なくとも感受されうる。

 こうして愛される者の視点をとると、「ひとは他者のなかに自らの場所をもっている」ことになるのだが、結局、「ひとが愛として求めるもの(…)が(…)まずもって自己描出の妥当性の承認」である限りで、これが「愛の証明」となる。

 そして「愛の再帰性」によって私たちが「愛」そのものを愛しており、「愛」が成立する限りで、「愛されることを愛している」限りで、このことは相手を愛し返す理由になる。だから「他者の世界を受け入れることもできる」というわけだ。

 こうして愛される者から愛する者への「愛のお返し(Gegenliebe)」が生起するのだが、このことによって、再び「愛の再帰性」により、お互いに愛が愛を産出するような事態、愛が他から切り離され自己根拠となる事態が現出するのである。これをさしあたり「愛」の「成就」と呼ぶことは許されよう。

3-2、愛の安定と危機―共同世界の構成・人間間の相互浸透・予期の予期

 私たちは次に「成就」したところの「愛」の叙述に取り掛からなければならない。当然ながら愛はいったん「成就」すれば終わるわけではなく―よく言われる言葉を借りれば、「人生は長い」ので―むしろここからが重要なのである。

 さて、前項の最後に引いた「他者の世界を受け入れることもできる」という一節の直後でルーマンは「自我確証」と結びついた「近世界の共同的な構成」38)LU, S.22.について語っている。これをもう少し具体的に考えてみよう。

3-2-1、「相互浸透のシステム」としての「愛」―「親密関係」とその危機

 愛の成就以前、情報は愛される者の側から愛する者の側へと流れている。愛する者は愛される者が発するあらゆる情報を読み解こうとし、そこに読まれる愛される者の選択を確証しようと行為する。

 そこで愛される者のアイデンティティが確証されるとすれば、愛される者のうちにも「愛のお返し」が芽生え、愛する者の諸選択を確証しよう、その世界を受け入れようと思うはずである。

 それは「愛の再帰性」によっても説明できるし、あるいはまたルーマンが別の箇所で述べているように、私が他者における私のアイデンティティの確証を享受しうるのは、「私が彼と彼の環境を私のものとして受け入れるときのみ」39)LP, S.29.だからと言ってもよいだろう。

 簡潔に整理すれば、他者の世界のなかに私がいるから、私は他者の世界を受け入れる、そうすることによってのみ、私は他者を通じて私を見ることができる、他者のうちで私が確証されているのを十全に経験できるから、ということになる―この論理は「愛の再帰性」とは別のものというより、その実質的な基礎だと見るべきかもしれない。

 それはそれとして、このことの帰結として生じること、両者がお互いの世界を自らのものとして引き受けあい、そのなかでお互いがお互いのうちで確証されているのを見出すこと、そこにある世界の重なり合いは、確かに「共同的な世界の構成」と呼ばれてもよいように思われる。ルーマン自身の言葉を引いておこう。

双方が、自分自身が相手の世界の中で特別な地位を割り当てられているという理由で、すなわち、相手の世界の中で愛されているものとして存在するという理由で、(それぞれが最高度に個人的・人格的な仕方で体験しているにもかかわらず)相手の世界を共に担いうるということが、共同のプライベートな世界の分出のための条件となるのである。40)LP, S.18.

 この共同的な世界として成立するのがルーマン流の「親密関係」であり、ルーマンが「人間間の相互浸透」と呼ぶものである。そしてLPの最終章のタイトルが示すように「愛」は最終的に「相互浸透のシステム」として位置付けられる。このことの意味をルーマンに即して見ておこう。ルーマンは「親密関係」について以下の定義を掲げる。

親密関係といったことで考えられていることを、ひとはまずもっては高度な人間間の相互浸透として把握しうるだろう。すなわち、ひとがお互いに対する関係のうちで有意性の閾値(Relevanzschwelle)を低くし、結果として、一方にとって有意なことが、ほとんど常に他方にとっても有意であるようになることである。それに応じてコミュニケーション的関係も濃密化される。(…)親密関係は、パートナーの行為のみならず、その(選択的な)体験がすでに他方の行為にとって有意であるということによって特徴付けられる。(…)愛の関係における高い度合いの言語化もこのテーゼを証明する。愛し合う者は、すべての体験が伝えられる価値があり、またすべての体験が[相手において、いわゆる「共感」などの]コミュニケーション的な共鳴を見出すがゆえに、飽くことなく互いに語り合えるのである。41)LP, S.200.

 こうして親密関係ないし相互浸透においては、お互いからお互いへと有意性の閾値が低くなることに応じて多くの情報が流れこむようになる、まさに相互的な浸透が起こるわけだが、ルーマンはこの相互浸透の「システム」について語る。

 ということは、そこには「環境」との差異があるはずだが、それはどのような意味においてだろうか。その一つの側面をとりあえず見ておこう。さて、有意性の閾値が低くなることに対応することだが、ルーマンによれば「愛を中心的な参照点として構造化される社会システムは、自らを「先立って指定されていない諸テーマに対してもコミュニケーションが開かれていなければならない」というコミュニケーションの[無限定的な]開放性の要求のもとに置く」42)LU, S.16.

 しかるに、それは「秘密を守ることを前提とする。秘密を守ることは認識可能なシステム限界に依存しており、愛の場合はさらにパートナーの双方が同じシステム限界を知りかつ尊重していること、またこのことをお互いに知りかつ予期できることに依存している」43)LU, S.17.

 つまり、親密関係においては様々なことが語られ、あるいは語られなくても知られるのだが、それはその外では語られることがない、ということは、そこに参与する者が外と内との区別をしているということである。

 この点で相互浸透ないし親密関係は環境と区別されており、システムであるといえるわけだ。あるいはまた別の視点で言えば、愛の関係にある相手は、単なる他人よりも私の選択を確証してくれる可能性が高いという意味でそこでは複雑性が縮減されている。それゆえ、そこでは環境と区別されるシステムが存立していると言えるのである。

 さて、それではそのようなシステムの「内」では何が起きているのだろうか。もちろん、基本となるのは相互的な確証であり、言語的に流れ込んでくる情報が言語的に共感され確証されるのみならず、一方の体験に他方が応じる確証的な行為がなされ、それが前者に体験され、ある場合には前者が対応する行為をし、あるいは前者の行為なしに再び前者の体験に応じて後者の行為がなされ…といった仕方で確証的なコミュニケーションが接続され続ける。

 そして「愛の再帰性」ということが言われうるなら、一方による確証が他方による確証を動機づけるはずである。あるいはもっと根本的に言えば、他者の世界において私が認められてあることが、私が他者の世界を認めることを動機づけるはずなのである、というのは、私が他者を認めればこそ他者は「私の世界に意味を供給することができる」44)LP, S.219.のだから。

 こうして相互浸透のシステムは自らのプロセスを内在的に、つまり、自己を自己参照的・自己関係的に、自分自身の内から再生産する。ルーマン自身のシステムの作動の描出を見てみよう。

相互浸透は[、神秘的一致(unio mystica)のような全面的融合とは違い]、諸要素の再生産、ここでは体験と行為とによる出来事のユニットの再生産という作動の次元においてのみ進行する。ひとつのシステム[、つまり、親密関係の一方の当事者]がそれによってその出来事の連なりを再生産する、あらゆる作動、あらゆる行為、あらゆる観察が、そこでは同時に他方のシステムにおいても生じるのである。その作動は、自らが一方のシステムの行為として同時に他方の体験でもあることに注意しなければならないのだ。そしてそれは単に外面的な同一化ではなく、同時にその作動自身の再生産の条件でもある。愛のうちではひとはただ以下のようにのみ行為できる。すなわち、まさにこの他者による[そのひとの行為の]体験とともに更に生きるという仕方でのみ行為できるのである。行為は他者の体験世界に組み入れられなければならず、そこからして再生産されなければならない。45)LP, S.219.

 私のあらゆる行為が他者の体験への応答であり、他者の体験に組み込まれ、それを変容させ、その変化に応じる仕方で私の行為は再生産されなければならない。このことが相互的に起こるのであり、相互的な確証のプロセスそのものから、愛の再帰性によって、そのことを継続する動機が調達される。両者が関わる相互浸透のシステムにおいて、コミュニケーションの接続も動機の調達もシステムのプロセスに内在する仕方で行われる。かくシステムは自己参照的に再生産されるのである。

 それにしても、ここで「あらゆる」ということが、「あらゆる作動、あらゆる行為、あらゆる観察」などということが語られることを大げさに思う向きがあるかもしれない。実際、確かにいかに緊密な親密関係においてであれ、一方のあらゆる行為が他方に体験されること、他方の「体験世界に組み入れられる」ことなどあり得ない。

 だが、私たちはこの「あらゆる」に、少々弱められた形ではあるものの、確かに意味を与え返すことができる。ルーマンに言わせれば、親密関係のうちにある人にとって「あらゆるコミュニケーションの情報内容」が「「彼(女)にとって」という観点」によって二重化されるのだ46)LP, S.25, S.215.

 確かに、一方のあらゆる行為が他方に直接に体験されるわけではないが、一方は―真に親密関係のうちに立っている限り―自らが得るあらゆる情報について、それを単に自分の観点ないし一般的な観点から考えるのではなく、「彼(女)にとって」はどうかということを考えているのであり、わかりやすい例で言えば、自らのあらゆる行為に際して他方のことを考えているのであって、他方の意に沿わないであろうことはやりにくいのだ47)例えば、独身時代は夜遅くまで飲み歩くのを常としていた人が、結婚後には一次会での帰宅を心がけているといったことを考えればよい。いや、この例は帰宅時間の差異という仕方で現実に他者の体験世界に組み込まれるから不十分かもしれない。一次会で行く店が、女性接客者がいる店からいない店に変化するといった事例の方がより適切だろう。

 このような仕方において親密関係の当事者は一切が他者の体験に組み込まれるかのように「あらゆる」局面で他方の体験に応答し、その選択を確証するよう方向付けられているのである。ところでルーマンは愛についてしばしば語られる「全体・全部(total)」よりも「普遍(universal)」を重視するが、それはこのことと関係している48)LP, S.25.

 愛において重要なのは「全」コミュニケーションをパートナーに集中したり、パートナーの「全部」を理解したりすることであるよりも、「普遍的」に、あらゆる場面でパートナーを顧慮することなのである。

 さて、以上述べてきたようなシステムないし共同世界の成立と維持とを通じて、私とあなたが「いま」相互にお互いのあり方を確証するだけではなく、私のあなたに対する関係の積み重ねそのものが私の歴史を、つまり、私の一部をなすようになる。いまやあなたとの関係の積み重ねが私の重要な部分を形成しているがゆえに、私は私であるためにあなたとの関係を必要とし、そうしてますます共同世界に深く組み込まれるようになる。ルーマンは語る。

パートナー選択と愛における相互理解を通じて固有の具体的な世界を自らに作り出した親密関係のシステムは、そのあと逆にこのプライベートな世界によって保たれ、情熱なしで済ますことができるということである。気付かれぬままに情熱は歴史となり、同時に歴史によって置き換えられる。(…)パートナーとの別離は同時に自己変容でもあり、また自分自身の歴史の喪失あるいは意味変容を意味するのである。49)LU, S.58-60.

 さて、これはこれで美しい描像であるのだが、二人の間の共同世界、その相互浸透のシステムにおいて二人の間に生じることは相互的な確証とその積み重ねのみではない。というのも、二人は二人であるというだけからしてすでに相互に異なるのであり、当然ながら、それ以外に諸々の事実的差異を抱えてもいるからである。

 いや、こう平板に言うだけでは生ぬるいだろう。ルーマンはこの点に潜む困難を徹底的に剔出している50)LP, S.24-25.。再三述べられた通り「愛」ないし「親密関係」は「個人性」ないし「人格」に関わる。

 そこでは「最高度に人格的・個人的(persönlich)なコミュニケーション」が行われるのだが、それは「発話者が自らを他の個人から区別しようとするコミュニケーション[、そうして自らを個として際立たせようとするコミュニケーション]であり」、そのことは「発話者が自己自身をテーマにすること、自分自身についてしゃべること」、あるいは「自分自身以外のテーマにおいても、発話者のテーマへの関係をコミュニケーションの中心点とすること」によって可能になる。

 しかるに、発話者が自らを他とは区別された―ということは、それを聞く者とも区別された―個人として際立たせようとするコミュニケーションにおいて発話者を確証しつづけることは端的に困難である。ルーマンは続ける、「各人に固有の立場、固有の世界観がより個人的に、より極度に特異に、より奇抜なものとなればなるほど、他者における合意と関心はありそうもないものとなる」。

 もちろん、近代社会における世界の複雑性の増大、諸々の選択可能性の増大は個人のいや増す「個人化 = 特異化」を意味している51)身近な例を挙げるなら、テレビからインターネットへの主要なメディアの移行は、明らかに個人の趣味嗜好の多様化に拍車をかけている。。このような事情のもと「最高度に人格的・個人的なコミュニケーション」は以下のようなものになる。

他者が自らを世界構成的な個人性として与えるなら、語りかけられる者は誰でも、この世界につねにすでに含み込まれ、それによって不可避的に以下のような二者択一の前に立たされる。すなわち、自己に中心化された他者の世界企投を確証するか拒絶するかという二者択一である。[最高度に人格的・個人的なコミュニケーションにおいては、]その世界企投は独特で、それゆえ他者に固有のあり方をしており、それゆえ合意可能ではないということが示唆されているにもかかわらず、この世界を確証する者という補完的な立場が語りかけられる者に対して要求されるのである。

 「最高度に人格的・個人的なコミュニケーション」において、語り手は自らを他者と区別し個として際立たせようとしながら、つまり、自らの語りが自らに固有の、他者とは異なるものだと暗に示しながら、他者たる相手に自らが語ることへの確証を求めるのである。事態がこのようなものであるとすれば、親密関係ないし相互浸透においては相互的な確証だけが起こるのではない。ルーマンは述べている。

[相互浸透のシステムということで]問題となっているのは以下のような情報獲得と情報処理を行う社会システムの可能性である。すなわち、そのうちであらゆる情報が共同的な世界の統一を確証するべきであり、そうであるがゆえにあらゆる情報が差異を噴出させうるような情報獲得と情報処理を行う社会システムである。[強調は引用者] 52)LP, S.219.

 相互浸透のシステムにおいては、有意性の閾値の引き下げによって、双方から、あるいはそれ以外からも双方について、大量の情報が流れ込んでくる。そして、そのあらゆる情報においてなんらかの程度で相互的な確証、合意、共感が起こるべきであると強く期待されているがゆえに、あらゆる差異に対する敏感さが必然的となる。

 高められた個人化により二人の間には無数の差異が存立しており、また各人が自らを個として際立たせようとコミュニケーションする中で、流れ込む情報の多さと深さが差異の発見の蓋然性を高め、確証への期待の高さが差異を対立ないし葛藤へと発展させる。

 形式的に言い換えてみよう。親密関係におけるコミュニケーションの基本は相互的な確証であり、相互の顕在的潜在的選択がお互いによって肯定されることである。そして一方が他方の選択を確証するとき、他方は―「愛」は選択を伝達しその確証へと動機づけるメディアとして把握されていたことを思い出そう―「愛されている」と感じる。

 このときは良い。しかし、一方が他方の選択をなんらかの理由、価値観の違いや読み違えによって確証し得ないとすればどうか。このことは他方にとって「愛されていない」ことを感じさせる。

 問題は、この「愛されていない」ことを意味する一方の選択を、他方はこれまた確証し得ないということである。自分が「愛されていない」ことを意味する選択を確証することなど不可能なのだ。他方は、これに対して異議を申し立てざるを得ないし、一方もそれを素直に受け入れられるかは不明である。

 まとめよう。相互的な確証により、相互的に「愛されている」ことが経験されているうちはよいのだが、一度、一方が否定を行い、「愛されていない」ことが伝達されると、そこでこの好循環は一瞬で破綻してしまう、あとはどこでストップできるか分からないまま否定が連鎖するだけだ。そして関係が深まるほど、各人の特異な諸選択が現れてきて、このような「否定」の発生可能性を高めるのである…53)ここでアレントの『人間の条件』の以下のような一節を引用したくなる。「許しは復讐の対極に立つ。復讐というのは、最初の罪に対する反応的な活動の形で行われる活動である。だから、この場合、人は最初の罪の帰結に終止符を打つどころか、あらゆる活動に含まれている連鎖反応をその無制限な進路にまかせてしまい、結局、過程に拘束されたままとなる。しかし、復讐は、罪に対する当然の自動的反応であり、活動過程は不可逆なものであるから、それだけに予期され、計算さえされうるものである。これと対照的に、許しの行為はけっして予見できないものである。それは、予期せざる仕方で活動し、反応[反活動(reaction)]でありながら、活動の初源的な性格のなにがしかは保持している唯一の反応である。いいかえると、許しは、単に反応するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐からの自由である。なぜなら、復讐を続けた場合、行為者と受難者は共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動過程は、許しがなければけっして終わることはないからである。(…)許しと許しが樹立する関係は、常に、目立って人格的な(必ずしも個人的あるいは私的ではないが)事象であり、そこでは、行われたところのもの(what)がそれを行ったもの(who)のために許されるからである。(…)キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体(who)」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである」(p376-379)。

 以上のことへのひとつの対処法はルーマンに言わせれば「流れ込む情報を少なくすること」、そうして差異の発覚と問題化を避けることだが、これは「[親密関係の]機能の最適化の断念、他者において自らの世界の十全な確証を得るという可能性への断念」を意味する54)LP, S.221. ルーマンはこの方策についての価値判断を留保しているが、これは現実的で懸命な方策であるように見える。例えば、お互いの趣味については口を出さないといった仕方でこのことは日常的に実践されてもいるだろう。

 だが、それ以外に何らかの方策、あるいは何らかの安定化メカニズムはないのだろうか。そうでなければ二人の差異により、そして前節の最後の問いを思い出すなら、理解の困難などを理由とする確証(の継続)の諸困難により、このシステムの存続はあまりに覚束ないのではないのだろうか。というのも、差異は確実に存在し、その差異がいつでも噴出しうるのだし、容易に対立へと発展するのだから。

 本項の副題に戻るなら、ここにはまだ「危機」しかなく、「安定」が存在しないのだ。しかるに、ここで再び13年の時間を遡ってLUに目を移す―実際、本稿の第2章第3節で詳論するが、ここに私たちは13年という時間の流れを感じ取らなければならない―と、私たちはそこでルーマンがこの安定化のメカニズムを捉えようとして用いたある概念を見出すことができる。それが「予期の予期」である。

3-2-2、「予期の予期」―「愛」による「象徴的な一般化」の理解に向けて

 さて、「予期の予期」とは、一般的に言えば、他者の予期を私が予期すること、他者の考えていることに対する私の考え、他者の意識についての私の意識だが、愛の文脈で重要なのは、当然、先にアイデンティティの確証と言われていたことに対応する「予期の予期」、すなわち、「他者が私をありのままに予期し受け入れてくれているだろう」という私の予期ないし期待、要するに「他者が私を愛してくれているだろう」という私の予期である。

 ルーマンが愛という文脈での「予期の予期」の含意を以上のような仕方で明確に述べているところはないのだが、私たちの考えによれば、これがLUのいくつかの議論を整合的に解釈するために必要な前提的解釈なのである。中心的な二つの節を引いておこう。

ある社会的関係における一般化された根本テーマとして、愛は以下のことを可能にする。すなわち、親密システムが、(…)関係の次元の差異を作り出し、意識にもたらすことができるということ、言い換えれば、愛自身とその持続が具体的な日常的相互行為から区別されることを可能にしてくれるのである。(…)ひとは常に愛の証拠を要求する必要はないし、そうしてはならない。ひとはあらゆる出来事において全部が賭けられていると見る必要はないし、そうしてはならない。ひとは愛を取り下げることによって脅してはならないし、そうすることで相互行為のシステムに対する危険な帰結を予告してはならない。「君がそうしたら、君は私を愛していない」という議論は、それが先に見た関係の次元の差異化を疑問に付し、更にそのように議論する者自身が愛していないという推測を容易に引き起こすがゆえに、特異な破壊力を持っているのである。[強調は引用者]55)LU, S.50.

以上のすべては決して結婚内部での葛藤を排除するものではないが、それに対してある規定された重心、世界についての直接の意見対立の次元ではなく、「予期の予期」の次元に存する重心を与える。この次元からして、事実的に存在している合意は成功裏に過大評価され、つまりは一般化されうる。そのような場合、争いが重大なものとなるのは、他方の予期が何であるかという問いにおいてではなく、他方の予期についてひとがいかなる予期を抱くことができるかという問いにおいてである。他者の意識の意識という個人的な再帰性のこの次元において初めて、対立は爆薬となる、というのは、ここで対立はそこからしてシステムの世界が共同的に特別なものとして構成されているような重点に触れているからである。世界についての意見の相違自身は、愛を台無しにしてしまうこの深いところでの対立のための症候、象徴、あるいは武器として役立つだけである。ここから導き出せるのは、良い結婚において、相互的な他方の「予期の予期」の次元に負荷をかけるような意見対立は抑圧されるか、あるいはそのような「予期の予期の予期」の次元で、つまりは三段階の再帰性の助けによって方向転換されなければならないということである。[強調は引用者]56)LU, S.60-61.

 さて、私たちの論点は、前者の引用のいう「関係の次元の差異」の創設を、後者の引用のいう「予期の予期」と結びつけた上で、その「予期の予期」の具体的内実を、私たちが先にした解釈、すなわち、簡単に言えば「あのひとは私をわかってくれ(てい)るだろう、愛してくれているだろう」として読むことが可能であることを主張することにある。つまり、「予期の予期」において、私が他者の予期のうちに予期しているものは「ありのままの私の確証」、すなわち、「愛」なのである。

 具体的に見てみよう。後者の引用で重要と思われるのは、ここでルーマンが「世界が共同的に特別なものとして構成されているような重点」として「予期の予期」、「他者の意識の意識」という次元を明確に名指していることである。

 前項で明らかにした通り、世界が共同的なものとして構成されるのは、「ひとは他者の世界のなかに自らの場所をもっているがゆえにこそ、他者の世界を受け入れることもできる」からだった。

 確かに、ここでポイントになっているのは、「他者の意識の意識」ないし「予期の予期」、つまり、他者の意識の中に私がいることについての私の意識である。こう読み合わせられるならば、ここで「予期の予期」の内実を「他者の世界の中に自らの場所を持っている」こととして、つまり、「あのひとは私を愛してくれているだろう」として読むことは正当化されよう。

 このことを踏まえて後者の引用から帰結を引き出しておこう。まず注目するべきは、「事実的に存在している合意」の「過大評価」という論点である。

 確かに相互に相手が自分をありのまま受け入れてくれている、「私は愛されている」と考えることができる、つまり、「予期の予期」が維持されている限りで、いまだ実際に明示的に合意がなされていない事柄については先行的に合意が想定されることになる、その意味で事実的な合意の範囲が過大評価されることになるだろうし、付言すれば、細かな相違は一般的な合意ないし合意の見通しの下で大きな意義を持たないだろう。このことは関係における問題の出現を妨げてくれる。

 他方で、この「予期の予期」が危険にさらされるような事態は徹底して避けなければならず、そのような事態をもたらす差異は抑圧されるか、あるいは、相手の「予期の予期」を守るように配慮しつつ、つまり、ルーマンが「三段階の再帰性」と表現しているように、相手の「予期の予期」を予期しつつ、平たく言い換えれば、相手の中にある、私が相手を愛しているという信憑が傷つかないように気をつけながら、対処がなされるかしなければならないのである。このとき、私は私の中の他者の中の私の中の他者を考えているのであり、それが「三段階の再帰性」と呼ばれているのだ。

 さて、後者の引用がすでに「予期の予期」と「直接の意見対立」との、前者の引用の中の言葉で言えば、「関係の次元の差異」を導入しているのだから、さらに付言すれば、両者がこの機制を「一般化」という同じ語彙で名指しているのだから、これまでの理解の図式によって前者の引用を読み解くことができることが期待されよう。

 そしてそのことは「君がそうしたら、君は私を愛していない」というルーマンの例において簡単に示すことができる。これは「愛自身」と「具体的な日常的相互行為」との「関係の次元の差異」を無化してしまう例だが、ここで「日常的相互行為 = そうしたら…」と直結させられているのは、「君が私を愛している」という私の「予期の予期」以外の何物でもない。

 逆に言えば、「予期の予期」という次元が成立して「関係の次元の差異」が保持されている限りで、愛は「具体的な日常的相互行為」から切り離され独立し、私たちは常に「愛のしるしを求める」といった強迫から解放されうるのである。

 そして私たちの解釈するところ、「社会的関係における一般化された根本テーマとして、愛は以下のことを可能にする」という冒頭の一節が指し示しているのは、「愛」という言葉が知られ、用いられること、「愛」が語られることによってのみ、この「一般化」が保持されうるということである。

 私たちなりに敷衍すれば、「愛」はその「二重化された意味確証」によって、正確に言えば、まさに「二重化」によって、個別具体的な選択の確証という直接的な現実性を超出し、アイデンティティ「全体」の確証を可能にしていた、いわば「一般化」を可能にしていたのだが、この直接的な現実性に対する剰余が、以上で述べてきた意味での「予期の予期」として保存されるのである。

 そして、おそらく「愛」という言葉があること、「愛」について語ること、もっと的確に言えば「愛を語ること」によってのみ、私たちはこの「剰余」を保持しうる。それこそ「「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしたよ~♪」というわけだ57)「愛」は単なる言葉であり、単なる「響き」に過ぎないが、にもかかわらず、やはり何らかの力をもつ。このことの不思議に私たちは驚いて驚きすぎることはないのだが、他方で、その「響き」だけで一切が解決されるわけではない。ルーマンは私たちが前項で引いた「コミュニケーションの開放性」を論じた部分で以下の様に述べている。「[コミュニケーションの開放性の要求によれば]パートナーの全体験が共通の体験となるべきであり、それぞれがそれぞれの日常的に体験することを物語るべきであり、自らの抱える問題をパートナーに打ち明けるべきであり、それをパートナーと共に解決するべきなのである。そこには何らの「前線」もあるべきではない。すなわち、ある[自分の気持ちや考えや状況などについての]描出が打ちたてられ、維持され、守られるのだが、その背後に語られざるものが隠されているといったことがあるべきではないのである。実際このことは現実的な(つまり投影的でない)他者の予期の予期の条件である」(LU, S16-17)。結局、「愛」を語るにしても、それは相互的な理解に現実的に基づいていなければならない。何がしかカント風に定式化すれば、「理解のない愛は空虚である」とでもいえるだろう。このような空虚な愛の実例としては映画『ロスト・イン・トランスレーション』が印象的な事例を提供している。。このことこそルーマンが「愛」による「一般化」、おそらくその「象徴的な一般化」の作用と呼んでいることである58)ここで私はルーマンが「コミュニケーション・メディア」を「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」と呼ぶことの意味についての一つの読み方を提示しているのだが、これにはまだ確固たる確信はない。「象徴的」というのは、「言葉による」という意味だと考えてよいのだろうか。

 前者の引用の直後のルーマンの指摘が興味深いので、ここで最後にそれを検討しておこう。前の引用の直後でルーマンは以下のように述べている。「日常的な事柄からの愛のそのような区別と際立たせをまさに感情の強烈さとそのような感情のなかで構成される世界観の具体性において持ち堪えることがいかに難しいかということは、そこにおいてまさにこのことが失敗している嫉妬ということの広がりから読み取ることができる」59)LU, S.50-51.

 「愛」は相互的な「予期の予期」として日常の具体的な相互行為から一定の超脱性、剰余、「一般化」を獲得しうるのだが、ルーマンによれば、「嫉妬」はそれが失敗している事例である。確かに、行きすぎた「嫉妬」の事例においては「君がそうしたら、君は私を愛していない」が作動している。

 「君の帰りが遅かったら…」「君が異性と食事に行ったら…」「君が異性とメールをしていたら…」、この場合、このようにいう主体はこの種の日常の具体的な相互行為を超えた「予期の予期」を失いつつあるわけだが、ポイントは、ルーマンも述べているように、このような嫉妬的な言明の表明が、他方の「予期の予期」に対して破壊的な影響を及ぼすということである。

 このように言う主体は、もはや他方を信じておらず、他方を浮気的な主体として予期しており、他方からすれば、「このひとは私をありのまま受け入れ愛してくれている」とは思うことができないのだ。この文脈で他者の世界を受け入れることは、自らを浮気的な主体として見ることを意味しているのである…。ルーマンが知らなかったであろうことを付け加えるなら、このことの問題性は近年「携帯を盗み見る」ことの問題性として盛んに議論の対象となっている。
 
 さて、本項の論究を経ることで、私たちは「愛」の「安定」と「危機」の条件について、いまや以前より厳密な規定を有している。

 愛が安定しうるのは、そこにおいて特殊な意味での「予期の予期」という、現実的一致を過大評価し、また現実的差異の意義を切り下げる特別な次元が成立し、手入れされ、維持されている限り、つまり、「愛」が「一般化」の機能を保持している限り、もっとルーマンらしい言葉を使うなら、まさしく「愛」が「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」として働いている限りにおいてであり、逆に愛が危機に陥るのは、この「予期の予期」の次元に裂け目が入るとき、「他者の世界の中に私がありのまま存在している」ことへの、「私が愛されている」ことへの信憑が失われるときである。

 ところで、この「予期の予期」は、私たちは本節の最初で引用した、ルーマンがわずかに述べた「愛」が「ありそうもないコミュニケーションを可能にする」仕方、すなわち、「コミュニケーションの断念」の言い換え、詳しく言えば、「先取り[的な理解]」と「既に理解しあっているのだということの信頼」の言い換えでもある。

 私たちは「あのひとは私をわかってくれ(てい)るだろう…」と思うことで、あえて直接のコミュニケーションをとらないのであり、「既に理解しあっているのだということ」を信頼している。かくして、この意味での「予期の予期」こそがルーマンなりの愛の困難への回答だということができよう。ルーマンの基本的な想定に従えば、この「予期の予期」が相互的に保たれていることに基づいて―「予期の予期」とは愛されていることの確信に他ならないのだから―「愛」は自己参照的に、つまり、再帰的に自己自身を再生産しうるはずなのである。

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第1章 第2節 コミュニケーション・メディアとしての愛の特質
第1章 第4節 愛の無根拠―あるいは、愛を信じること/理論を信じること

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1, 36, 39. LP, S.29.
2. LP, S.36-37. LU, S.38-42. 「愛の再帰性」の記述の精密な理解にあっては、ともに読書会を行った友人に助けられることが多かったことをここに付記し、感謝の表明としたい。
3. 私は最近までこのReflexivitätを「反省性」と訳していたが、今回、「再帰性」に改めることとした。これは「反省性」はやはり意識の働きとしての「反省」のニュアンス、いわば特殊なニュアンスが強いのに対し、「再帰性」はその基本的な語義が、「再帰代名詞」という言葉に見られる通り、主語と目的語の一致一般を指しているので、今回の場合、「再帰性」の方が適切だと考えるようになったためである。「愛の再帰性」とは「愛が愛を愛すること」であり、そこにおける「主語と目的語の一致」である。
4. LP, S.23.
5. LU, S.37-38. もちろん、このIdoleを私たちは現代日本における意味の「アイドル」として読むこと、あるいは読み替えることもできる。そのような意味での「アイドル」は―特にいわゆる「会えるアイドル」に顕著なことだが―しばしば「追求対象模範」であることを超えて、「追求されるもの」そのものになってしまうこともあるのだが。ところで、ルーマンは「追求対象模範」は「選択を容易にするが、愛という感情自身の仕方にしたがって深められた愛の成就を妨げることもありうる」(LP, S23-24)と述べている。「愛という感情自身の仕方にしたがって深められた(gefühlsmäßig)」という語は「愛を愛する」という「愛の再帰性」の次元を指し示しており、このことの適切な理解のためにはまず本稿の第1章第3節の第1項(3-1)全体と第2章補論2を一読されたい。そこでの議論を踏まえた上で述べるならば、この一文でルーマンは私たちが「追求対象模範=アイドル」に囚われすぎて、現実的な対象に向かえないか、あるいは現実的対象に向かおうとするにしても、あまりに高望みのためにそれを発見できないという事態を考えていることが分かる。どちらの場合にせよ、そこには対象の視線を通じて私を見るという「社会的再帰性」(補論2)の次元が欠如しており、そこでは「愛の再帰性」(3-1)の論理が働かない、それゆえに「愛」が「愛という感情自身の仕方にしたがって深められる」ことがないのである。
6. LU, S.72.
7. LU, S.26, S.40. LP, S.36(注26), S.175.
8. LU, S.42.
9. LU, S.38.
10. この文脈における「偶然」は、「選択の根拠」の「抹消」、あるいはそれからの「切断」の痕跡として読まれるべきであり、額面通りに受け取られるべきではないということは、次のような問いを発してみることですぐ分かるように思われる。そもそもあらゆる他者との出会いは、出会わないこともあり得たという意味で「偶然」である、ではなぜある特定の「偶然」だけが、「偶然(にして運命)」などとして殊更に寿がれるような「偶然」となったのか。もちろん、この「なぜ」への答えは完全には「偶然」ではないのである。すなわち、もしひとが多くの出会いについて、事実的にはそれはないこともあり得たという意味で「偶然」であるにもかかわらず「偶然」を言い立てないのに、愛の関係に関しては殊更に「偶然」を語るとすれば、私たちはそこにこそ、「愛」など様々な機能を他の諸機能から独立せしめる、ルーマンが「分出」と呼んだ社会的動勢の「力」を看取しなければならない。ルーマンの視座からすれば、かくして、恋人たちの語らいのうちといった、もっとも個人的と思われているところ、そこにこそ社会が「顕現 = 現象」しているのである。
11, 12. LP, S.181.
13, 22. LP, S.76.
14. LP, S.47
15. LP, S.47.
16. LP, S.67.
17. LP, S.107.
18. この議論はある知人との会話に着想を得ていることをここに記して感謝の表明に代えたい。
19. LP, S.107-108.
20. LP, S.205.
21. LP, S.35.
23, 24. LP, S.60.
25. LP, S.88. その他の場所はLPのRegisterを参照のこと。
26. LP, S.113.
27. というのも、実際は「プレシューズ」は目標として断念されるのではなく、「より追求するに値する目標」(LP, S.60)とされたからである。とはいえ、「プレシューズ」や「コケット」という類型化に基づいて「誘惑の確実な手段があるかのように」考えられた以上(LP, S.64-65)、本項の論旨そのものは揺るがないだろう。
28. もちろん、こういった儀礼的なコード化は、「それをしない」ことが「愛がない」と見なされる根拠となってしまい、従って愛の成立・維持を困難にするという逆機能的な作用も持っている。
29. ところで、この差異にはいわば静的な用法と動的な用法があるように思われる。すなわち、それは動的に、いわば一種のテクニックとして「こうすればモテる/こうするとモテない」という風に語られることもあるし、静的に、「誰某はモテる/モテない」と、いわば人間の本性的性質として語られることもある。もちろん、前者は愛のアプローチの成功の条件を記述するものとして、それが正しいかどうかは別として、とにかく「こうすればいいんだ!」と思わせることによってひとを動機づけるという意味で、コード本来の機能を満たすもの、その意味で機能的なコードだが、後者は「モテない」と自己認識するひとの動機を失わせるものとして逆機能的なコードであるといえよう。以上から明らかな通り、本文で想定しているのは前者の用法である。
30. LU, S.40. LP, S.175. この一節は、13年間という時間的な隔たりを超えてLUからLPにほぼそのまま引き継がれた数少ない一節であり、この事実によってその重要性が示されているように思われる。
31. この段落の論理展開にはやや疑問が残っているようにも思う。おそらく、その感覚は「愛されているから愛せる」という連関の根拠が弱いと感じられることに由来するのだが、これは次項にてこの論理の実質的な基礎が見出されることで解消されるように思われる。
32, 33. LP, S.36.
34. ルーマンはその『社会システム理論(Soziale Systeme)』で以下のように述べている。「自己参照的なシステムの理論は、諸システムの分出は自己参照を通じてのみ成立しうる、すなわち、諸システムがその要素と要素的な作動の構成において自分自身(そのシステムの要素であれ、作動であれ、統一であれ)に準拠することによってのみ成立しうるのだと主張するのである」(SS, S.25)。
35. LU, S.71.
37, 38. LU, S.22.
40. LP, S.18.
41. LP, S.200.
42. LU, S.16.
43. LU, S.17.
44, 45, 52. LP, S.219.
46. LP, S.25, S.215.
47. 例えば、独身時代は夜遅くまで飲み歩くのを常としていた人が、結婚後には一次会での帰宅を心がけているといったことを考えればよい。いや、この例は帰宅時間の差異という仕方で現実に他者の体験世界に組み込まれるから不十分かもしれない。一次会で行く店が、女性接客者がいる店からいない店に変化するといった事例の方がより適切だろう。
48. LP, S.25.
49. LU, S.58-60.
50. LP, S.24-25.
51. 身近な例を挙げるなら、テレビからインターネットへの主要なメディアの移行は、明らかに個人の趣味嗜好の多様化に拍車をかけている。
53. ここでアレントの『人間の条件』の以下のような一節を引用したくなる。「許しは復讐の対極に立つ。復讐というのは、最初の罪に対する反応的な活動の形で行われる活動である。だから、この場合、人は最初の罪の帰結に終止符を打つどころか、あらゆる活動に含まれている連鎖反応をその無制限な進路にまかせてしまい、結局、過程に拘束されたままとなる。しかし、復讐は、罪に対する当然の自動的反応であり、活動過程は不可逆なものであるから、それだけに予期され、計算さえされうるものである。これと対照的に、許しの行為はけっして予見できないものである。それは、予期せざる仕方で活動し、反応[反活動(reaction)]でありながら、活動の初源的な性格のなにがしかは保持している唯一の反応である。いいかえると、許しは、単に反応するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐からの自由である。なぜなら、復讐を続けた場合、行為者と受難者は共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動過程は、許しがなければけっして終わることはないからである。(…)許しと許しが樹立する関係は、常に、目立って人格的な(必ずしも個人的あるいは私的ではないが)事象であり、そこでは、行われたところのもの(what)がそれを行ったもの(who)のために許されるからである。(…)キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体(who)」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである」(p376-379)。
54. LP, S.221. ルーマンはこの方策についての価値判断を留保しているが、これは現実的で懸命な方策であるように見える。例えば、お互いの趣味については口を出さないといった仕方でこのことは日常的に実践されてもいるだろう。
55. LU, S.50.
56. LU, S.60-61.
57. 「愛」は単なる言葉であり、単なる「響き」に過ぎないが、にもかかわらず、やはり何らかの力をもつ。このことの不思議に私たちは驚いて驚きすぎることはないのだが、他方で、その「響き」だけで一切が解決されるわけではない。ルーマンは私たちが前項で引いた「コミュニケーションの開放性」を論じた部分で以下の様に述べている。「[コミュニケーションの開放性の要求によれば]パートナーの全体験が共通の体験となるべきであり、それぞれがそれぞれの日常的に体験することを物語るべきであり、自らの抱える問題をパートナーに打ち明けるべきであり、それをパートナーと共に解決するべきなのである。そこには何らの「前線」もあるべきではない。すなわち、ある[自分の気持ちや考えや状況などについての]描出が打ちたてられ、維持され、守られるのだが、その背後に語られざるものが隠されているといったことがあるべきではないのである。実際このことは現実的な(つまり投影的でない)他者の予期の予期の条件である」(LU, S16-17)。結局、「愛」を語るにしても、それは相互的な理解に現実的に基づいていなければならない。何がしかカント風に定式化すれば、「理解のない愛は空虚である」とでもいえるだろう。このような空虚な愛の実例としては映画『ロスト・イン・トランスレーション』が印象的な事例を提供している。
58. ここで私はルーマンが「コミュニケーション・メディア」を「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」と呼ぶことの意味についての一つの読み方を提示しているのだが、これにはまだ確固たる確信はない。「象徴的」というのは、「言葉による」という意味だと考えてよいのだろうか。
59. LU, S.50-51.
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