第1章 第4節 愛の無根拠―あるいは、愛を信じること/理論を信じること

 さて、第1章の議論を総括するときである。第1章はルーマンの「愛の哲学」、つまり、「愛とは何か」という問いへの答えの解明を試みた。その答えは、一言で言えば、「コミュニケーション・メディア」であり、「相互浸透のシステム」である。

 簡単に復習していこう。第1節では、「選択と動機付けを同時に遂行する」ものとして「コミュニケーション・メディア」の概念を解説し、以後の理解の前提を構築した。

 続く第2節では、他のメディアとの差異において「愛」のメディア的特性を規定しようと試みた。その三つのメルクマールを振り返れば、「体験メディア」「個人性/具体性および二重化された意味確証」「行為と体験の不均衡」であり、最後の点は、そこに潜む「悲劇性」を明確化するために、さらに「先取りの問題」「他者理解の困難」「行為者と観察者との帰着傾向の差異」へと分節された。

 この過程を通じて「愛」というコミュニケーション・メディアが作動し続けることの困難、愛する者による愛される者の選択の的確な確証の継続の困難が様々な側面から明らかにされた。

 第3節はルーマンの議論を「愛」が現実的に進行する諸過程に即していわば「時系列的」に再構成し、またその「愛」の概念を「相互浸透のシステム」として精緻化する中で、この困難をさらに厳密に規定しつつ、その困難に対するルーマンの応答を明確にしようと試みた。

 その答えを以下のように整理してもいいだろう。愛の継続の困難は一方で他者を的確に理解し確証することの困難に由来し、他方で他者を確証し続けることの動機付けの持続の困難に由来する―もちろん、両方の困難に共通の前提は私と他者との「差異」である。ここに存在する諸連関を再構築すれば、以下のように言えるだろう。

 私と他者の間には「差異」がある。そのことが私による他者の理解を困難にし、他者の選択的な体験の的確な確証を妨げる1)先に触れたサプライズの失敗の事例に回帰しよう。私(Ego)はそれが効果を発揮するだろうという期待のもとに「ドライブ看板プロポーズ」を敢行するのだが、他者(Alter)はそれを「センスがない」と感じ断じる様な選択的体験を持っているのである。「センス」の理解に関して重大な「差異」が私と他者との間に存在しているのであって、だから私は他者を理解できなかったのである。。そして、また「差異」が存立している以上、「確証」は自らが現にあるあり方を飛び越えることを必要とし、したがって、そのための動機を必要とする。

 これに対してルーマンはまず「愛」という言葉が可能にする「予期の予期」、平たく言えば、「私が他者の中にありのままに存在する」=「私が他者に愛されている」という相互的な確信を対置し、それによって「理解」の困難がいわば飛び越えられる可能性を示唆する。

 更に、そのような愛への確信が存続する限りで、「私が他者による自己の確証を十全に享受しうるのは、私が他者の世界を認めるときのみである」という論理を基礎とするのであろう「愛の再帰性」によって、お互いに「差異」を乗り越えようとする動機付けが働くことを主張するのである。

 「コミュニケーション・メディア」として捉えられた「愛」による「二重化された意味確証」、その保持としての「愛」の「予期の予期」、それが可能にする「愛の再帰性」がルーマンの「愛の哲学」を貫く一本の太い糸なのである。

 そして、このことが―前節の議論を思い起こそう―「他者において自らの世界の十全な確証を得る」という大それた機能を持つ親密関係において必然的なこと、すなわち流入する情報のいや増す量的増大と質的深化、それによる差異の発覚可能性の増大と、確証への期待の高さの裏返しとしての差異への敏感さに対して、持ち堪えられなければならない。

 結局、ルーマン的に捉えられた「愛という賭け」の最終次元とは、この二つの矛盾する動向のぶつかり合い、その緊迫した綱引きに他ならないように思われる。

 本章の締めくくりに私たちはLPの結論的な部分―最後から二番目の段落―を味読することとしよう―最後の段落は本稿の最後に解釈される。さて、先に簡単に確認した通り、LPは「予期の予期」についての立ち入った議論を欠き、かくして愛の安定可能性についての議論が―おそらくは意図的に2)LUは1969年、LPは1982年の作品であり、両者の間でルーマンの親密関係の安定性についての見解が変化していると考えられるのである。この点については第二章第三節で論じる。―弱くなっているように思われるが、その点に注意しつつ読むならば、この一節は確かになんらかの総括的意義をもっているように思われる。

残るのはありそうもない構造とありそうもない機能を持って分出した社会システム[、つまり、相互浸透のシステムとしての愛]についてのテーゼである。繰り返そう。このシステムに取り込まれ処理されうるあらゆる情報が、二つの環境[、つまり、私の世界とあなたの世界]の適合性をテストする[、すなわち、それが一致しているかを調べる](…)。以下のようなときに(たとえパートナーたちが「寄り添ったままである」としても)、このシステムは解体する。すなわち、先に述べたあらゆる情報による適合性のテストが、[あらゆる情報に即して二人の世界の一致を確認することで、]あらゆる情報にシステムを再生産する機能を与えることによって、システムを再生産する共通の基盤であることをやめるときには。これは[愛の]相互行為において行為によって他方の体験に応じることを要求するコードのシステム理論的な対応物である。コードの統一は親密関係の社会システムの統一を要求(postulieren)する。そしてこのシステムの統一は、そのシステムの情報処理の基礎となっている差異の統一[、すなわち、二人という差異の統一]である。「差異」の上にはひとはなにも「根拠づける」ことは出来ない。それゆえにこそ、このこともひとがつねにすでに語ってきたことだが、愛に根拠はないのである3)LP, S.222. 最後の部分を―私見によれば、それは「声に出して読みたいドイツ語」なので―ドイツ語でも示しておこう。Die Einheit des Code postuliert die Einheit des Sozialsystems der Intimbeziehung, und die Einheit dieses Systems ist die Einheit der Differenz, die seiner Informationsverarbeitung zu Grunde liegt. Auf eine >>Differenz<< kann man nichts >>gründen<<. Es gibt also, auch dies hatte man immer schon gesagt, keinen Grund für Liebe.

 私とあなたの間には「差異」がある。「愛」はこの「差異」の「統一」であり、いつでも両側に引き裂かれつつある、この根拠なき「統一」を絶えず―ルーマン風に言えば「あるゆる」情報に即して―持ち堪え続けようという決意である。この決意がたわみほぐれるとき、いかに二人が「寄り添ったままである」としても、「相互浸透のシステムとしての愛」は終わってしまう4)ルーマンがなぜ「あらゆる情報」などと「あらゆる」を強調するのかという点は明らかにオートポイエーシスの問題と関連しており、『社会システム理論(Soziale Systeme)』との関係でさらなる検討を要する。ルーマンはそこで以下のように述べている。すなわち、「[オートポイエーシス的なシステムの理論において]問題となっているのは、システムはあらゆる環境において、ということは極めて有利な環境においても、自らを構成している瞬間的な諸要素に接続可能性を、すなわち、意味を与えることをせず、そうすることで瞬間的な諸要素を再生産しないならば、直ちに存在することを止めるということから帰結する、自律への特異な強制である」(SS, S.28)。だから、「あらゆる」情報において統一が確認されなければならない、言い換えれば、相互浸透のシステムに一方から流れ込んできた「あらゆる」情報に他方の確証が絶えず接続しなければならない。また、このSoziale Systemeの引用に明らかに対応しているのが、LPの以下の文言である。「問題なのは、他者の世界に意味を見いだすことである」(LP, S.220)。つまり、他者の顕在的潜在的選択に確証的に接続し続けることである。

 さて、この引用である意味では全てが言われているが、おそらく、こう付け加えてもいいだろう。根拠がないもの、それは信じることしか、そして賭けることしかできない、と。こうして、私たちは本章で積み残した最後の問題、ルーマンの愛への「信」の問題にたどり着く。

 だが、この点についてはたびたび簡単にではあれ触れてきたし、基本的には以上の議論で基本的なあらましは明らかであるように思われるので、結論だけ述べることとしよう。

 ルーマンの「愛の哲学」の中核には愛の独立・純粋・絶対・持続を―保証しはしないにせよ―少なくとも可能にはするはずの「愛の再帰性」の主張があるが、これは機能分化とそのように分化したシステムの自己参照的再生産というルーマンの社会システム理論の基本的想定から導出されている議論でもある。

 だとすれば、ルーマンにおいて「愛を信じること」と自らの理論、すなわち、「社会システム理論を信じること」が全く一致しているように思われる。

 かくして、私たちはこう言うことができる。ルーマンは自らの全体的理論構想が正しいと主張する限りにおいて(そして、それを愛に適用しようとする限りにおいて)、愛を信じなければならない、と。

 だが逆に、彼が愛をいかに信じているように見えたとしても、実質的には自分の理論的構想を信じているだけとも言える。

 もちろん、このどちらの言い方を好むかということ、そして、この彼の「信」にどこまで付き添うかということは、以上のルーマンの「思惟の道」をそれぞれの仕方で歩み抜いたであろう、私たち読者個々人に委ねられている。

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第1章 第3節 愛の成立・安定・危機
補論1 愛のゼマンティクを分析するLPも愛のゼマンティクの一例であることについて

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1. 先に触れたサプライズの失敗の事例に回帰しよう。私(Ego)はそれが効果を発揮するだろうという期待のもとに「ドライブ看板プロポーズ」を敢行するのだが、他者(Alter)はそれを「センスがない」と感じ断じる様な選択的体験を持っているのである。「センス」の理解に関して重大な「差異」が私と他者との間に存在しているのであって、だから私は他者を理解できなかったのである。
2. LUは1969年、LPは1982年の作品であり、両者の間でルーマンの親密関係の安定性についての見解が変化していると考えられるのである。この点については第二章第三節で論じる。
3. LP, S.222. 最後の部分を―私見によれば、それは「声に出して読みたいドイツ語」なので―ドイツ語でも示しておこう。Die Einheit des Code postuliert die Einheit des Sozialsystems der Intimbeziehung, und die Einheit dieses Systems ist die Einheit der Differenz, die seiner Informationsverarbeitung zu Grunde liegt. Auf eine >>Differenz<< kann man nichts >>gründen<<. Es gibt also, auch dies hatte man immer schon gesagt, keinen Grund für Liebe.
4. ルーマンがなぜ「あらゆる情報」などと「あらゆる」を強調するのかという点は明らかにオートポイエーシスの問題と関連しており、『社会システム理論(Soziale Systeme)』との関係でさらなる検討を要する。ルーマンはそこで以下のように述べている。すなわち、「[オートポイエーシス的なシステムの理論において]問題となっているのは、システムはあらゆる環境において、ということは極めて有利な環境においても、自らを構成している瞬間的な諸要素に接続可能性を、すなわち、意味を与えることをせず、そうすることで瞬間的な諸要素を再生産しないならば、直ちに存在することを止めるということから帰結する、自律への特異な強制である」(SS, S.28)。だから、「あらゆる」情報において統一が確認されなければならない、言い換えれば、相互浸透のシステムに一方から流れ込んできた「あらゆる」情報に他方の確証が絶えず接続しなければならない。また、このSoziale Systemeの引用に明らかに対応しているのが、LPの以下の文言である。「問題なのは、他者の世界に意味を見いだすことである」(LP, S.220)。つまり、他者の顕在的潜在的選択に確証的に接続し続けることである。
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