第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(3)

8、再びジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク

 本節の目的は、以上の解明を基礎に、ジジェクをハイデゲリアンと見なすことの正当化、および両者の差異の明確化を試みることである。以上の解明の過程ですでに指摘されたことは、差異化するジジェクの議論、すなわち、ハイデガーはジジェク的な意味で前存在論的次元を問えないとか、または「否定的なもの」から逃走したといった議論は的を外していること、むしろ、同一化するジジェクの方が適切であり、その同一性はジジェクにとって唯一の真のSache des Denkensと言われた世界と存在の開示、一切の真理に先立つ否定的なものの次元が、ハイデガーにとってやはり唯一の真のSache des Denkensである「存在」の決定的な次元―「無の無化」と「存在の退去――と同一であるほどにまで深いものであることである。

 本章では、まずこの点を中心として両者の議論の基本構図の重なりを明らかにし、しかる後、両者の差異の明確化を試みる。後者の課題の最終的な解決は次章に持ち越されることになる。かくして本節は二つの項に分たれる。

8-1、人間的経験の四次元、経験的・超越論的・超越的・否定性

  まず今までの議論を振り返ってジジェクの議論をその基本構図にまで還元する形式化の作業を行う必要がある。それが緒論で予告された「パーカー曰く不可能であるジジェキアンを定義するべき最小定式」と私たちが考えるものである。それはカント、ヘーゲル、ハイデガー、ラカンの四者関係についてのある構想として浮かび上がるのだが、ここでの議論の目的からして、まずハイデガーを除く三者関係の構想を要約し、続いてそれとハイデガーとの連関を明確にすることとしよう。

 カントには三つの次元、経験的、超越論的、超越的な次元が存在する。経験的次元とは私たちに現に現れてきている諸対象の領野、カント風にいえば「現象」である。

 超越論的次元とは、単なるごった混ぜに過ぎない直観からして一貫した経験・現象の領野を初めて作り上げる、経験に先立つ、つまり、アプリオリな超越論的主体の綜合-統一活動の次元である。ハイデガー的な「世界」の規定を参照するなら(GA29-30.§68)、現に私たちが経験している、「存在者が存在者として、更に特定の何かとして、しかもある全体において予め開示されている」ということは自明ではなく、そのようなことを可能にする働きが無ければならない。それが超越論的次元、経験の可能性の条件の次元である。

 対して超越的な次元とは「物自体」である。それは現象の彼方、感性的世界の彼方の叡智的世界であり、神や理念が属するとされる世界である。これがカントにおける経験的、超越論的、超越的という人間的経験を規定する三つの次元である。

 さて、ヘーゲルに移ると、基本的に経験的・有限的・肯定的諸対象への距離・不和、それとの否定的関係を意味するヘーゲルのいうところの主体の「否定性」とは、前章で示されたように、カント的な超越論的構成の、世界の意味的な開示の「可能性の条件」の地位にあるもの、「経験的」と「超越論的」の差異の産出において起きていなければならなかったものを名指しており、しかも、この「否定性」の次元を適切に考慮に入れることで肯定的な内容を持っている叡智的なものとしての「物自体」という「超越的」次元を、ある仕方において、無しで済ませることが出来る。

 「経験的/超越論的」の差異の産出作用としての「否定性」への着目によって超越的次元が無化される。この視点変化にヘーゲルのいうところの「絶対的否定性」の経験が構成的である。「絶対的否定性」において現象の領野が崩壊するとき、私たちは叡智的な「物自体」への接触を期待する。

 だが、そこにあるのは肯定的な内容をもった「神」なり「実体」なりではなく、端的な否定性であり、「実体」が「現象する」ということを可能にした「実体」に内在する始原的な裂け目としての「主体という無」である。

 こうして経験的な現象とその彼方の超越的で叡智的なものという二重性は、経験のもとになるものである「実体」と、そこに内在し現象を可能にする裂け目、超越論的なものの裂け目、否定性、すなわち「主体」との二重性へと転化される。かくしてジジェクはカントからヘーゲルへの移行を「超越的」な物自体から超越論的主体を特徴づける「否定性」への移行として構想する。

 さて、ここでラカンに視線を転ずれば、ジジェクの見るところ、この超越的で肯定的な「物自体」から単なる「否定性」への移行によってラカンの〈現実界〉を読解することが出来る。〈現実界〉とは〈象徴界〉にとって外在的で超越的で実体的な「物自体」のごときもの、〈物〉ではなく、〈象徴界〉に非外在的な裂け目、「無」であるとされる。ジジェクのより正確な定式化でいえば〈現実界〉とはこの二つの〈現実界〉の間の移行、前者から後者への視点変化である。

〈現実界〉は直接のアクセスが不可能な〈物〉であると同時にこの直接のアクセスを妨げる障害でもある。つまり、私たちの把握を逃れる〈物〉であると同時に私たちが〈物〉と出会えないようにする歪んだスクリーンなのである。もっと正確にいえば、〈現実界〉は究極的には前者の観点から後者の観点へのパースペクティブの移行に他ならない。(Žižek [2003:86])

 この一節が前章で明らかにされた否定性の論理を正確に反復していることを見て取らなければならない。否定性のせいで私たちは実体へと直接アクセス出来ないのだが、実は否定性こそが実体に内在する分裂として私たちと実体を結びつけるものなのである。否定性は実体との接触を妨げるものであると同時に実体の根本的次元そのものでもある。

 そしてこの二つの観点の間の「パースペクティブの移行」に関して言うなら、それをジジェクはもちろん「絶対的否定性」ないし「世界の夜」に帰していた。このような仕方でカントとヘーゲルにおける「超越的」と「否定性」の関係がジジェクのラカン読解の下地となっているし、また恐らくその逆でもある、というのもジジェクの解釈はいつも相互照明的だからである。

 ここでハイデガーに焦点を移し、まず結論だけ述べるなら、ジジェク的に構想されたカント-ヘーゲル関係から以下のような翻訳が可能だろう。すなわち、「経験的」=「存在者(Seiende)」、「超越論的」=「存在(者性)(Sein/Seiendheit)」、「否定性」=「Seyn」。

 ジジェクのラカン理解では「超越的」と「否定性」、その前者から後者への移行が問題だったのだが、ハイデガーについては「経験的/超越論的」と「否定性」の関係、前者から後者への関心の移行、つまり、存在と存在者との存在論的差異から「差異としての差異 = Seyn」への関心の移行が、ジジェクからするハイデガー理解の中心となるだろう。

 四者の関係を以上のようにして考えなければならないし、そこから全ての帰結を引き出さなければならない。恐らくこのようにしてジジェクの基本的立場を記述できるだろう。

 直前の段落で述べたことを本章全体で遂行された解明に依拠してもう少し詳しく見ておこう。すなわち、「経験的」=「存在者(Seiende)」、「超越論的」=「存在(者性)(Sein/Seiendheit)」、「否定性」=「Seyn」ということについてである。

 だが、既に言われるべきことは言われており、ここで必要なのはそれを取り上げ直すだけだ。というのも、カント書に即してハイデガーがカントの「経験的/超越論的」に「オンティッシュ(存在者的)/オントローギッシュ(存在論的)」、つまり、「存在者」と、存在者を存在者として規定するものとして「何が存在するのか」「何が現実なのか」を、私たちの現実性の経験を規定している「存在」とを重ねており、更にこの「存在(了解)」の可能性の条件として「無の無化」が把握され、それがSeynないし存在そのものと呼ばれる次元の中核を形成することも既に述べられているからである。この「無の無化」とヘーゲルの「否定性」の連関は一見して明らかであるとともに、ハイデガー自身がある仕方で認めているところである。

 そして更に付け加えるなら、ハイデガーには「超越的」な次元についての議論も欠けていない。ハイデガーの思考するところ、最初にあるのはSeynの運動、存在者の直中に「無」を生み出す運動であり、それに人間が巻き込まれることで「ある」が理解され、人間は現存在になり、存在者が存在者として現れる、存在論的差異を作り出す差異化が行われる。

 ハイデガーが批判的に言うときの「形而上学」とは、既に見たところだが、少々単純化して言えば、このSeynを忘却して、すでに存在者として現れている存在者から出発して、存在者を存在者として根拠づけているもの、「存在(者性)」へと遡行ないし「超越」することであり、「形而上学」はその過程でしばしば「存在(者性)」を例えば神のような最高の存在者として構想したとされるわけだから、今問題になっている言葉を使えば、こうして「超越的」な次元を作り出してしまったということになる。

 しかるに、Seynこそが存在者を超えるという超越の動きをまずもって可能にしているのであり、また、自らの後退によって無根拠化し不安にすることで、存在者を超えて存在者を基礎付けるというという試みを必然的なものともしているわけである。「形而上学的」な「最高の存在者」への遡行は、Seynによって可能にされながら、Seynの次元を誤認することによって生じる。

 かくしてSeynという「形而上学」が見ているもの、存在者、存在(者性)、あるいは最高の存在者よりももっと根本的なものへの視座の移行は「超越的」な次元、典型的には「物自体」の無化をも含意することとなる。

 こうしてジジェクの描く構図の主要契機、一言で要約するなら、「経験的」と「超越論的」の分化、すなわち、超越論的構成の可能性の条件である「否定性」に着目することにより、「経験的」と「超越的」の二元論を、「経験的」と「経験的」に内在する裂け目としての「無」との緊張関係に還元すること、その諸契機は全てハイデガーにも存在しており、その限りでジジェクを究極的には一種のハイデゲリアンと考えることが正当化される。そして以上で展開された立場をジジェクは「弁証法的唯物論」と呼んでいる。

 このことを更に裏付けるため、ジジェク自身のハイデガーへの言及を二つ引用し簡単に検討しておこう。ジジェクにとって「否定性」「主体」は「実体」に内在する裂け目として「実体」が現象することを可能にするものだが、ジジェクはそれに完全に平行させる形でハイデガーの存在を、存在者の次元にある裂け目、「無」、だがそういうものとして初めて存在者が存在者として開示されることを可能にする意味の領野として適切に解説している(Žižek [2009a:23-24])。

 曰く、ハイデガー的な存在論的差異については「二重のドクサ」が存在する。

 第一は「存在論的差異とは存在者の何であるか(What-ness)、つまり存在者の本質と、存在者の単なるあるということ(That-ness)との差異であり、後者は存在者を一切の根拠やアルケーや目的への従属から解放する」というもの、要するにいわゆる本質と実存の差異であるというものである。

 そして、第二は「存在論的差異とは存在者たちの間、現実性(の異なるレベル)の間にあるだけの差異なのではなく、現実性の〈全て〉とそれ以外の、現実性との関係で言えば「〈無〉」としてしか現れえない何ものかとの差異である…」というもの、つまり、存在論的差異は、存在者と存在者との差異ではなく、存在者全てと存在者ではない何ものかとの差異であり、この何ものかは存在者を見る視線から見ると「無」としか見えないというものである。こう述べた後ジジェクは「このドクサは極めてミスリーディングである」と言う。

 第一のドクサから見ていこう。その立場からすれば、形而上学の誤りは存在者を「最高の存在者に具現化されている何らかの前提された本質(意味、目標、アルケー)」へと従属させることであり、他方で本質と実存の差異に注視する存在論的差異は、存在者を「脱-本質化」し、「存在者を〈本質〉への奴隷化から自由にし」「そのアナーキーな/アルケーなき(an-archic)自由のうちにあらしめる―どんな「何のために?何故?」などなどにも先立って、諸物は単にあり、ただ生じる…」ということになる。

 だが「もしこれがハイデガーのテーゼだとしたなら、サルトルも『嘔吐』において存在論的差異の輪郭をそのもっともラディカルな次元において描いていることになるだろう―サルトルはそこで全ての私たちの(人間的な)意味や投企に無関心な、存在の馬鹿げて無意味な不活性の経験をそのもっとも嫌悪を催させる様態において描写したのではないか」。

 だが、決定的なことは「サルトルとは対照的に、ハイデガーにとって「存在論的差異」は存在者の馬鹿げたただそこにあること、その意味のない現実性と、その意味の地平との差異なのである」。つまり、存在論的差異は、私たちの眼前に意味なくある諸物、存在者(の素)と、それが存在者として、更に特定の何ものかとして「意味を持って」現れることを可能にしているもの、すなわち「存在」との差異であり、まさしく「存在」を「無意味な」実存と解する第一のドクサとは正反対のことが問題になっているのである。

 次に第二のドクサを見ていこう。第二のドクサはこの存在者と存在との差異を存在者の全体、〈全て〉とそれ以外の何か、存在者の総体としての現実性からみると〈無〉としてしか見えない何かとの差異として構想するわけだが、ここで何が誤っているのだろうか。ジジェクは以下のように指摘する。

 曰く、「厳密な存在論的差異」のポイントは「現実性は全て-ではなく、だが、その外-彼方には何もなく、この〈無〉が〈存在〉自身である」ということである。第二のドクサとの微妙な差異に注意する必要がある。ドクサの方は、全体としての存在者の彼方に存在なるものが肯定的なものとしてあって、それが存在者から見るなら無にしか見えないと考えているのに対して、厳密な存在論的差異の方はといえば、存在者の直中に、それを〈全て〉とすることを不可能にするような裂け目があり、その裂け目ないし「無」が、そのまま「存在」そのものだと把握する。

 このことは私たちが本章でさんざん論じてきたことでもある。存在者の直中に「無」が生起して、この「無」に人間が関係付けられることで、「無」との対照関係によって「ある」が感受され了解され、存在者が存在者として現れてくる。それが存在の赤裸裸な開示としての「存在の真理」であり、「存在」はそれ以上の何ものでもない。

 存在は無であるといわれるとき、それを単に存在者ではないという意味だと解するのでは十分ではない。存在は端的に無なのであり、存在者ではないが故にさしあたり私たちには無としてしか見えないが実際には肯定的な内容を持って彼方に控えているような何かではないのである。

 ジジェクは以上のことの内で「存在」は「無」として存在者の直中において生起するという点を強調して以下のように言う。「〈存在〉は内側から存在者に切り込んでいる」「ハイデガーの存在論的差異」では「ギャップ(オンティッシュ/オントローギッシュ)がオンティッシュな領域自身の「〈全て〉-ではない(non-All)」に参照し返されなければならない」。

 こういうことで、ジジェクは実体に内在する裂け目にして、実体が現象することを可能にする否定性である主体、経験的と超越論的との差異化を可能にする、経験的なもの内部の裂け目たる否定性である主体と、ハイデガーの存在論的差異との間の同一性を主張しているわけである。

 第二の引用に移ろう。第一の引用は「経験的(存在者)/超越論的(存在 = 意味の領野)/否定性(Seyn)」の三項に関しての、ジジェク自身によるハイデガーを通じた自らの立場の表明と見うるものであったが、「超越的/否定性」の項についてもジジェクはハイデガーを通じて自らの立場を表現したことがある。

 「超越的」な「物自体」から「否定性」への転化がいかなるものだったかを再び要約的に示すと、それは「物自体」があると思っていたところに「否定性」があること、アクセス不可能なXたる物自体があるはずのところに、Xをアクセス不能にするものたる否定性があることを意味していた。

 このことが「〈絶対的なもの〉[X]との間の分裂(split)(それを理由として私たちが主体であるような分裂)[否定性]が、同時に〈絶対的なもの〉の自己分裂でもあるということ」(Žižek [1993:243])の認識、つまり、XとXをアクセス不能にするものの逆説的な一致の認識を可能にする。

 実体そのものが主体であり、ジジェクの言い方を借りれば、だから分裂をそれとして措定することが既に和解である。先の引用に続けて「私たちは〈絶対的なもの〉についての私たちの高められた観照を理由としてではなく、私たちを〈絶対的なもの〉から永遠に分離するまさにそのギャップを通じて、〈絶対的なもの〉に参加するのである」(同)と言われていたことを想起しよう。

 さて、ハイデガーに戻るなら、以上のことと同じことをジジェクは以下のように述べている。「〈現実界〉の概念にとって決定的なのはアクセス不可能なXとそれをアクセス不可能にしている障害との一致である―いかにして〈存在〉は単に「退去する」のではなく、〈存在〉はそれ自身の退去に他ならないの「である」のかを何度も強調したハイデガーにおいてそうであるように」(Žižek [2008d:278])。

 ここでジジェクは「存在の退去」ではなくて「退去である存在」なのだということに、「超越的」ではなくて「否定性」なのだということと同じ事柄を見ているわけである。

 以上により、つまり、ジジェクとハイデガーの基本構図の重なり及びジジェクが自らの構図を解説するのにハイデガーを引き合いに出していることが示されたことにより、ジジェクをハイデゲリアンと見なすことは正当化するという試みは果たされたと思われる。

 ここで最後にジジェク的に把握しかえされた「形而上学」批判と、ラカンの性別化の公式の解釈に触れておこう。「形而上学」批判に関しては今までに十分議論したため”Parallax View”の結論部分の一節を引用するだけで十分だろう。

私たちは存在論的差異そのものの、もっとも一般的なレベルにおいても同じ結論を引き出すべきである。存在論的差異は、物理的なレベルと形而上学的レベルとの、[あるいは]経験的レベルと超越論的レベルとの、伝統的な哲学的差異を極端にまで持ちきたらすが、それは、伝統的差異を、存在者と、つまり何かと―別の、「より高い」、現実性との差異ではなく―無との「最小」差異に還元することによってである。形而上学を克服することは形而上学的次元を日常的な物理的現実性に還元することを意味しない。そうではなく、それは物質的現実性と別の、「より高い」、現実性との差異を、この[物質的]現実性とそれ自身の空虚との内在的差異/ギャップへと還元すること、つまり、物理的現実性をそれ自身から分離し、それを「全て-ではない」にする空虚を識別することを意味するのである。(Žižek [2009a:383])

 さて、ここにある「全て-ではない」から、ジジェクによるラカンの性別化の公式の解釈を展開することが出来るだろう。ジジェクによると、ラカンの性別化の公式は動物としての人間が言語に捕われて象徴秩序に参入することの効果を定式化するものであり、象徴化に不可避的な行き詰まりに対処する二つの方法とそれに対応する二つの主体的ポジションを記述する―そういうものとしてそれは生物学的な性差とは必然的な関係を持たない。

 さて、具体的な内容に踏み入ると、男性の側は「全てのxが関数Φに包摂されている」と「関数Φから除外されているxが少なくとも一つ存在する」という「普遍性」と「例外」の組み合わせからなり、他方の女性の側は「全てのxが関数Φに包摂されているわけではない」と「関数Φから除外されていないようなxは存在しない」という「全て-ではない」と「例外の欠如」の組み合わせからなる。

 ジジェクの解釈するところ、男性の側は象徴秩序の非一貫性に際会して、一つの例外/外部を立てることで残りをそれによって枠づけられる「全体」へと「全体化」し閉域化する。他方の女性の側は例外を立てる操作を行わないことによって「全て-ではない」という開放性が維持される(Žižek [1993:53-58])。

 ジジェクはこれを至る所で応用しているが、その一つの例が「男性的」な「形而上学」と「女性的」な「存在論的差異」である。

男性の側―普遍性と例外―は文字通り「形而-上学的(meta-physical)」である(全体としての宇宙、現実性の全てが、その構成的例外のうちに、存在の彼方の最高の存在者のうちに根拠づけられている)。他方で厳密な存在論的差異は女性的である。現実性は全て-ではない。しかし、その彼方-外側には何もない。そしてこの〈無〉が〈存在〉そのものである。存在論的差異は存在者の〈全体〉とその〈外部〉との差異ではない、まるで〈全て〉の〈超〉-〈根拠〉があるかのような、そのような差異ではない。この厳密な意味で存在論的差異は有限性に結びついている(これがハイデガーの本来的な洞察にしてカントとのつながりである)。つまり、〈存在〉とは私たちが存在者をその〈全て〉において考えることを妨げる有限性の地平であるということである。(Žižek [2009a:24])

 さて、これがジジェクによる性別化の公式の解釈である。この「無」にハイデガーが付した名が、私たちの理解するところ、Lichtung、すなわち、森の中の空き地であり、他方でジジェクは一貫してこの「無」を主体と呼ぶ1)ところで、ジジェクは以上の性的差異の解釈から、「無」である主体の本性は女性的だという。こういう議論の流れの中でジジェクが「女性の「場所」とは「男」がそれを満たす瞬間に見えなくなってしまう裂け目の、深淵(abyss)の場所である」(Žižek [1993:58])という時には何かしら下ネタ的な響きがあるが、この理論的(?)視座からすれば、少々悪趣味な冗談かもしれないが、まさにクールベが、ジジェク曰く「[その絵に]まったくぴったりなことに、ラカンの死後に彼の遺品の中から見つかった」(Žižek [2000b:36])絵画である「世界の起源」のうちで印象的に描き出したあの裂け目こそ、厳密にハイデガー的な意味での、つまり存在の開示の地平という意味での「世界」の「起源」であるということになるのかもしれない。―この差異が次項の主題である。

8-2、残存する差異―ハイデガーのヘーゲル批判に端緒をとって

 さて、ジジェクをハイデゲリアンとして解明する課題が果たされたので、後はジジェクとハイデガーの間に残存する差異について事情はどうなっているのかを明らかにするべきだろう。一般に全般的な同一性のうちでこそ差異を際だたせることも可能になるからである。

 私たちは本章の解明の途上で、差異化するジジェクの議論は全般的に的を外していることを明らかにしたが、他方で同一化するジジェクにしてもひとつの残存する差異を指摘していたことを想起しよう。すなわち、「真に問題的で中心的な点はハイデガーがこの「存在論的不均衡」ないし「錯乱」を主体と呼ぶことを拒否している点である」(Žižek [2000b:168])というものである。つまり、ハイデガーが始まりにある「否定的なもの」を主体とは呼ばないことである。

 さて、ここでハイデガーはヘーゲルの主体の「否定性」の根本的次元を「見落とし(miss)」、あるいはハイデガーはそこから「後ずさり(recoil)」したなどという差異化するジジェクの批判が誤りであり、先に示したようにハイデガーが否定的なものをめぐる行き詰まり、それへの人間の無力をこそ主題化し、有限性の二重化によって表現していた限りで、つまり、「否定的なもの」からの「後ずさり」ではなく、それを真正面から見据えることが生じていた限りで、この「拒否」についてハイデガーの側から弁明ないし説明を期待できるだろう。

 実際、私たちは第四節で有限性の二重化からこの「拒否」をさしあたり説明しておいた。今やこの点をより詳細に追求するべきである。本項ではこの点にハイデガーのヘーゲル批判を通じて迫ってみよう。実際それは今述べたことをこそ焦点としているからである。

 だが、ここでもまずヘーゲルとハイデガーの議論の構造の類似性と私たちには見えるものを明らかにしていくことから始めよう。まずハイデガー自身が強調している点から始めれば、第一にヘーゲルにおいてもハイデガーにおいても、それが扱う究極の主題がある仕方で常に既にあるということである。

 ハイデガーは『精神現象学』についての30-31年の講義で、ヘーゲルが「絶対的なもの自身が(…)求められる目標である。それは既に存在する。そうでないとすればいかにして求めることが出来るだろうか?」(GA32.52/Hegel[1986:2-24])と述べていることに注目している。

 ヘーゲルに言わせれば、カント的主体が「無条件的/絶対的なもの」を止むことなく求める以上、カント的主体もどこかで絶対的なものに出会っていたのでなければならない。それはそれとして、この引用でハイデガーが示したいのは「ヘーゲルは終わりにおいて獲得するものを始まりにおいて既に前提している」(GA32.43)ということである。

 だが、これは「非難」ではない。そのような「非難」は「哲学一般にあてはまらない」。「哲学の本質には、哲学が(…)後に言うことを既に先取りしているということが属している」(同)。このようにハイデガーが哲学一般に属する構造として「獲得されるべきものが前提されていること」について述べるとき、ハイデガーが「存在了解」の絶対的な先行性を念頭においていることは自ずと明らかであるように思われる。第一の共通点として、ここでヘーゲルにあっては「絶対的なもの」、ハイデガーにあっては「存在(了解)」という獲得されるべきものが前提とされているという共通性が存在する。そこには一種の論点先取的な循環が存在する。

 ここでこの「循環」に対するハイデガーの肯定的立場どりの理由ついて解明しておこう。一般には獲得され証明されるべきものが前提される論点先取は忌み嫌われる、そこでは何も獲得され証明されないにもかかわらず、何かが証明されたかのような外観が生じるだけだからである。

 だがハイデガーはこの一見論点先取的な循環を「哲学一般」の「本質」に属するものとして肯定し引き受ける。なぜかといえば、循環が根源的なものの問いにあって不可避だからである。根源的なものとはそこからして様々なものが可能になる「可能性の条件」の地位にあるものであって、そうである限りで「常にすでに存在する」という性質を持たざるをえないから、どうやって出発しようとそれは前提されざるをえない。「循環」の不可避的な存在は対象が常にすでにあること、従ってそれが「可能性の条件」の地位にあり根源的であることを傍証する。

 そしてハイデガーに言わせれば「哲学」は「根源的なもの」である「存在」を問う、人間的経験の、さらに人間そのものの可能性の条件の地位にある「存在」を問うのであるから、人間である私たちが問う限りでは、常に既に「存在」は先立って前提されざるをえない。循環は経験に先立つものを経験のうちにある人間からして問う「超越論的哲学」にあっては不可避である。だからハイデガーはこの「循環」をことさらに「「経験的(empirisch)」思惟への違反」(GA9,244)として名指す。「経験的」思考は循環を忌み嫌うし、それは正しいが、「超越論的」思惟にとって循環は不可避である。

 さて、第二の共通点に移るなら、当然のことながら、既に獲得されているのだから何もしなくてよいというわけではない。「さしあたりたいてい」の状態は十分ではなく、そこからの展開が為されなければならない。何が為される必要があるのか。ここでも両者の挙措には共通性があるように見える。

 その第二の共通点とは、為されるべきことが一種の絶対的否定作用であることである。ヘーゲルについてみれば、ハイデガーが引用していた「絶対的なものが既に存在する」ということの直後に、ヘーゲルは、しかし、意識は絶対的なものの外に出てしまっていると述べて、この二つのこと、絶対的なものの存在と意識がそこから外に出てしまっていることが哲学の前提であると語る。この哲学の前提からして導きだされる哲学の課題を述べたのが前章で行った引用、「絶対的なものは夜である」の引用であり、そこで要求されるのは一切を絶対的なものという「無/夜」へと帰すこと、ある種の絶対的否定作用である。その印象的な一節をもう一度引用しよう。

絶対的なものは夜である。光は夜よりも若い。両者の差異は、光が夜から歩み出るのと同様、絶対的な差異である―無が最初のものであり、そこから全ての存在が、有限性の全ての多様が出現したのである。しかし、哲学の課題は以下のことに存する。すなわち、この二つの前提[引用者注:①絶対的なものの存在と②そこから意識が外に出てしまっていること]を合一すること、存在を非在のうちに―生成として、分裂を絶対的なもののうちに―その現象として、有限なものを無限なもののうちに―生として、措定することに存するのである。(Hegel [1986:2-24-25])

 ハイデガーでも事情は似たものであるように見える。というのも、ハイデガーは哲学の課題をあるところで「超越を明確に生起させること」(GA27.219)と表現しているが、「超越する」ことは「無のうちへと自らをもたらし保つ」ことでもあったからである(GA9.115)。

 簡潔に言えば、ヘーゲルにとって絶対的否定作用が「意識の諸有限性を克服する」こととして「絶対的なものを意識の中に構成する」(Hegel[1986:2-19])ことと等値されうるのに対して、ハイデガーのいわゆる「無の無化」は存在者全体を超えることとして「超越」であり、それが同時に「無」との対照関係によって「ある!」が端的に経験される「存在の真理」の経験だということである。

 さて、かくして既にしてある仕方で獲得されている主題の十全な展開を目がけて絶対的な否定ないし無化が遂行されなければならないが、第三の共通点として、このことを通じて一旦は立ち去られた有限性ないし存在者の回復が生じるということが存在しているように見える。

 ヘーゲルに言わせれば、悟性が作り出す諸制限ないし有限性の全体性は絶対的なものの現象として把握されることで「偶然性から解放され」「知の客観的全体性の連関の中で自らの場所を受け取る」(Hegel[1986:46])ということになるし、これが後年の『法哲学』序文の有名な言葉にならえば「理性的なもの」でもあるとされる「現実性(Wirklichkeit)」ないしGeistの次元を予示していることも見て取りやすい。ヘーゲルは前章でも引用したとおり『精神現象学』の主奴論の直前のところ、Geistの概念が導入されるところで以下のように述べている。

意識は、精神の概念としての自己意識のうちで初めてある転換点を持つ。その転換点において、意識は、感性的な此岸の多彩な見かけと超感性的彼岸の空虚な夜から、現在する精神的な昼へと歩み出るのである。(Hegel [1986:3-145=1971:182])

 Geistの次元は感性的な多様と超感性的な夜の両者から歩み出た「現在する精神的な昼」である。ということはつまり、両者の通過を前提とするわけである。感性的存在者は超感性的なものの夜への還元をへて理性的な現実性として再生する。

 さて、他方のハイデガーにあっても『寄与』で何度も述べられるのは「Seynの真理から存在者を存在者として回復すること」「存在者のうちに存在の真理をbergenすること」(e.g. GA65.11)といった課題であり、このことが、「存在の真理」を通過することによって、いまやUn-Seiendeへと堕しつつある存在者を存在者として、ありありとしたものとして肯定することを意味していることは明らかである。

 以上をまとめるなら両者の議論の構造の類似性を以下にように述べることが出来る。第一に「絶対的なもの」にせよ「存在」にせよ、それらは既に私たちのもとにある仕方で存在するのだが、第二に私たちの「さしあたりたいてい」の状態は「絶対的なものから外に出ている」ことであり、(Un)Seidendeへの頽落である。

 ここで本来の主題を十全に取り戻すためにはある絶対的な否定作用が必要であり、それは感性的・有限的なものの多様あるいは存在者を否定すること、少なくともそれから離れ去ることである。だが、第三にこのことを通じてその多様ないし存在者を本来あるべきあり方へと回復することが可能になる。それが理性的なものに浸透されたWirklichkeitということであり、存在者を存在者として肯定するということである。

 さて、このような大きな枠組みにおける類似性のうちでこそ両者の差異が見えてくるようになる。両者の差異を主にハイデガーの考えるところに依拠して明らかにしていこう。私たちは第四節で『形而上学とは何か』(WM)において、第一に「超越の可能性の条件の問い」に対する一つの答えとして「無の無化」が、また第二にそれと同時的にそれへの人間の無力―有限性への有限性―が浮上したということを指摘しておいた。

 この二つの事柄の浮上がヘーゲルへの関心を引き起こし、WMの直後と呼んでよい30-31年にハイデガーはヘーゲルの『精神現象学』について講義する。このヘーゲル講義の主題はWMで浮上した問題に完全に対応し、ハイデガーはヘーゲルの「絶対知」を「absolut」の語源に立ち返って「解き放たれた知」と解し、存在者から解き放たれた知、すなわち、自らの「超越」と同一視する。

 つまり、WMの第一の事態に対応して、本講義の問題はそもそも「超越」であり、従って「無」であり「否定性」である。ハイデガーはヘーゲルの『精神現象学』は「哲学の第一の課題は絶対的な無を認識することである」(Hegel[1986:2-410])という『信仰と知』における言明の精神のうちで生まれていることを指摘している (GA32.54-55)。自らの「超越」-「無の無化」とヘーゲルの「絶対知」-「否定性」の並行関係が講義の基礎にある。

 そして更に第二の事態―有限性への有限性―に対応して本講義でハイデガーはヘーゲルとの「対決」を、ヘーゲルにおける「超越の絶対化」と自らの「超越の有限性」との対決、「無限性」と「有限性」の対立として把握する。この点について立ち入った展開はなされないが、ハイデガーは『精神現象学』でヘーゲルが遂行している「解き放ち」=「超越」=「無の無化」は、実は有限な超越、人間による非随意的でままならない超越でしかないのではないかと疑義を呈している。

 「解き放ち」を遂行するヘーゲルが人間の無への無力、有限性への有限性を―それはつまり否定性へのアクセス可能性の問題であり、結果として否定性はどこから来るのかという問題なのだが―問題化していないことへの異議である。ここでハイデガーはヘーゲルのうちに自らの「超越の有限性」に応答し超え出るような何らかの立場を探そうとしているとも見ることができるだろう。

 だが、そんなものは見つからなかったようである。というのも、ハイデガーはこの後より明確にいわゆる「転回」を実行するから、つまり、超越の有限性の立場は堅持されるのであって、存在了解の遂行と世界の形成としての「超越」は人間の力能を離れて「存在そのものの生起」に委ねられるからである。それとともに「超越」もその「有限性」という語彙も放棄されていくことになる。

 この「有限性」から生じたいわゆる「転回」を、先に指摘された三点にわたる構図の共通性と重ねあわせるならば、両者の差異として、ヘーゲルが『現象学』で「解き放ち」=「絶対的否定性」を遂行することで絶対的な知のエレメントへと到達し、『論理学』を絶対的なものから絶対的に、元初から原初的にはじめるのに対して、ハイデガーは「無の無化」としての「超越」の有限性、その非随意性から、『寄与』の冒頭で「存在そのもの」から始めることは未だ不可能であることを承認する(GA65.4)という事態が浮かび上がってくるといえるかもしれない。というのは、それは今や存在そのものの側の生起にかかっており、それはまだ生じていないからである。

 話を続けよう。全集68巻に収録されている38-41年の断章集「否定性:否定性に端緒をとったヘーゲルとの一つの対決」は、このいわゆる「転回」に対応する形で『現象学』講義から歩を進め、そこで予告された対決を遂行している。

 その主題は「否定性の起源」であり、その決定的な主張は超越の有限性、現存在の有限性、そこからして「存在の生起」の立場に立つハイデガーにとって、「超越」そのものである「否定的なもの」の生起、「無の無化」は主体に淵源することはありえず、存在そのものの生起に由来すると見なければならないが、有限性を見ないヘーゲルは「否定性の起源」を無造作に主体に帰しており、その点で誤っているということである。

 だが、この点をめぐってハイデガーの論点は二重である。すなわち、第一に今指摘したように全集32巻の問題に決着を付けること、ヘーゲルが有限性を無視して否定性を主体に帰し、「Seyn = Nichts」に淵源させていないことを明確に批判することであり、だが第二に、もっと根本的には、ヘーゲルがそもそも「否定性の起源」を問題にしようとしなかったこと、それに無頓着であったこと、このことをハイデガーが言うところの「形而上学」の必然的帰結として明らかにすることである。

 ハイデガーに言わせれば、再三確認しているように、「形而上学」はSeynの始原的後退運動、すなわち「無の無化」、この存在者が存在者として現れることを初めて可能にする運動性を見ることが出来なかったのであって、すでに存在者として現れている存在者から、存在者の存在へと遡行することしかなし得なかった。「形而上学」は存在と存在者との差異を知ってはいるが、差異を差異として、すなわち、始まりの差異化作用としては把握することが出来なかったのである。

 さて、この差異化作用としての「無の無化」と否定性が同じものである限りで、「形而上学」が差異化そのものではなく、その帰結たる差異しか見ることが出来なかったのと同様に、「形而上学」は否定性の起源を見ることは能くせず、否定性を前提することしか出来ないということが言えるだろう。

 これがヘーゲルに起きているのだというのがハイデガーの論点を形成するわけである。ハイデガーが好みそうな言い回しを案出して言えば、「ヘーゲルが否定性の起源を問わなかったのは、何ら恣意的でも偶然的なことでもなく、ヘーゲルの個人的な無能力によるものでもない。それは形而上学として存在が現成することの必然的な帰結である」とでもいったことになるだろう。

 否定性をめぐるハイデガーのヘーゲルへの論難はヘーゲルが否定性の起源を問わず、それを主体に無造作に帰したことだけには留まらない。同時期の『省察』(Besinnung)では「Seynと否定性」という小さなセクションがもうけられ、そこでも否定性について様々にヘーゲルが批判されている(GA66.291-295)。

 それはヘーゲルが否定性を主体に帰したことによって初めから「克服され安全なものとされている」といったことから始まるが、より重要な論点は先の「形而上学」にも関連する形で、ヘーゲルにあってもその「否定性への肯定的立場取りにもかかわらず」、否定性は結局のところ悪しきものという意味で「虚無的なもの」と見なされ、克服されるべきものとして実際に「現実性(Wirklichkeit)」において最終的に克服されてしまうというものである。

 ハイデガーはここで「形而上学」は「否定的なものの起源」を問えないし、「無」については何も知りえず、さらに「否定」の過小評価へと追いやられる―そしてヘーゲルもその影響下にある―とした上で、その理由を以下のように説明している。

 すなわち、「形而上学」は存在者から出発して存在へ向かい、従って存在者へ目を向けつつ、存在を存在者性としてしか受け取らない。このパースペクティブにあっては「無」は「全体における存在者としての存在者の「無い」として純然たる「否定」」であり、「現実的なものと見なされた存在者の優位」の中で虚無的なものとして現れざるを得ないのである、と。

 それに対して本章の議論からすでにして明らかな通り、存在そのものを問うハイデガーにとって「無はSeynの最初にして最高の贈り物」であり、私たちは「「否定性」という贈り物を正当に評価する(würdigen)」ようにならなければならない。「否定性」が存在そのものである限りで、存在者に専心して存在そのものを問えない「形而上学」と、否定性に対する無知および貶下は緊密に連関するわけである。

 以上のハイデガーのヘーゲル批判を要約的にまとめるなら以下のようになろう。ハイデガーのヘーゲルに対する批判的対決の端緒を為すのは超越の可能性の条件としての「無の無化」とそれへの人間の無力、すなわち、有限性への有限性の認識である。

 30年の『精神現象学』講義でハイデガーは自らの「超越」-「無の無化」とヘーゲルの「絶対知」-「否定性」との並行関係という見通しのもとにヘーゲルを読解し、その際に超越の有限性と絶対化、有限性と無限性の対決を中心に据える。それは「否定性」と人間の関係の問題であり、ハイデガーにおいて人間は「無の無化」の主人ではなく有限的だが、ヘーゲルにおいてはそうではないようにみえる。そこのところはどうなっているのかということである。

 続く時期にハイデガーは「有限性」についての洞察を発展させる形でいわゆる「転回」、存在了解から存在の生起への重点の変化を成し遂げる。この地平にあって「否定性」は存在そのものに淵源すること、存在そのものであることが明確にされる。

 かくしてこの「転回」の最初の明確な表明である『寄与』の直後の時期の述作である全集66巻『省察』と68巻『ヘーゲル』にあって、ヘーゲルはまずもって否定性をSeynにではなく主体に帰したかどで批判され、さらにヘーゲルが否定性の起源を問わなかったこと、そして否定性を結局は克服されるべきものとして把握したことに「形而上学」としての「存在の歴史」が見定められることになる…。

 1962年の「時間と存在」のゼミナールでも否定性をめぐる論点が再び取り上げられているが、そこでの規定はやはり徹底的に正確であるように見える。まず「ヘーゲル的否定性の由来という解明されていない問題」ということが言われ、「ヘーゲル的否定性は絶対的主体の構造に根拠づけられているのか、それとも逆なのか?」と問いかけられ、一つの結論として、この逆ということが示唆される。

意識に端緒をとるという近代的な仕方が、否定性の展開にとって極めて大きく寄与したことは否定されてはならないが、にもかかわらず、否定的なものの否定性は意識の反省構造には帰着されえないように見える。(GA14.58)

 さて、「存在の歴史」としての「形而上学」からする説明に説得力を付与するかどうかは別としても、自らの哲学の根本であるにもかかわらず、ヘーゲルが否定性と人間の関係、否定性へのアクセス可能性の問題に頓着せず、その起源を明確には問題化せず、それを無造作に主体に帰しているように見えること、否定性を最終的には克服されるべきものとみなしたように見えることに、思惟されるべき問題性を見出し批判するハイデガーの議論には、やはり説得力があり、私たちはそこに一定の真理性を見いださざるを得ないように思われる。

 ハイデガーの立場を整理しておこう。ハイデガーが始原的な「否定性」を「主体」と呼ばないのは「否定性」の生起が人間の力能に属さないからである。とすれば、始原的な否定性は人間に対して先行的に―Seynとして、Lichtungとして―あり、人間はそれに関連づけられるだけであると考えるべきであり、それを主体と呼ぶべきではない。

 もちろん、こういったからといってハイデガーが人間主体を「否定性」と特徴付けないというわけではないだろう。「否定性」は「主体」であるとはいえなくても、「主体」は「否定性」であるとは言えるだろう。ハイデガー曰く「人間が「無の場所を保つもの」であるというのと人間が「存在の牧人」であるというのは同じことを言っている」(GA11.160)。これは「主体」は「否定性」である、存在者への否定的距離であるというのと同じである。存在者への否定的な距離であればこそ人間は存在を了解しうるのである。

 では、以上のことはジジェクとの関係で何を意味するか。まず私たちが嘆かざるをえないのは、ジジェクが恐らくはハイデガーはヘーゲルの主体の「否定性」の根本的次元を「見落とし(miss)」、後期ハイデガーの主体性の形而上学批判はこの次元を「カバーしない(does not cover)」などといった安易な差異化戦略を採用したがためにハイデガーの以上のヘーゲル批判をまじめに受け取っていないように見えることである。ジジェクがこの点に取り組んでいたならば何かしらの有益な対決が期待できたはずである。この対決の不在の故にジジェクにこの点に対する直接の応答は期待出来ない。

 ではハイデガーが「否定性」を「主体」と呼ばないことには理由があるにせよ、ジジェクの側に「否定性」を「主体」と呼ぶことには理由がない、同じことの言い換えだが、第四節の末尾で指摘したようにハイデガーの「有限性」に対してジジェクが「無限性」を対置している時、ハイデガーの側にはそういう理由があるにせよ、ジジェクの側には理由がないということになるのだろうか。

 恐らくそうではない。確かにジジェクは「直接の応答」は為していないにせよ、否定性を主体と呼び、一種の無限性を主張する根拠を持っている。それはどんな根拠でありうるだろうか。問題は「否定性」に対するアクセス可能性なのだから、ジジェクが「否定性」へのアクセスに関して人間にハイデガーよりも積極的なイニシアティブを認めているとするなら、確かにジジェクの立場取りに一定の理由があると見なしてもよいだろう。これがジジェクの「倫理」へと私たちを導くことになる。このことは章を改めて次章で検討することとしよう。

9、本章の総括―「人間」から「もっと根源的なもの」へ

 さて、本章は長くまた錯綜したものとなったので、少々くどいものとなることを厭わず本章の歩みを改めてたどり直してその成果を確認し、また、以上で述べられなかった幾つかの帰結を展開して本章を閉じることとしよう。

 本章の目的はさしあたりジジェクとの関わりでハイデガーを取り扱うことであり、詳しく見れば、第一にジジェクのハイデガー批判を論駁し、第二にジジェクをハイデゲリアンとして明らかにし、第三に両者の差異を明確化することであった。また第二の点の帰結として、ハイデガーを通じてジジェクの思惟を更に見やすいものとし、それに新たな正当化を与えることであった。その過程でハイデガーについて実質的な検討が必要とされた。その検討過程を振り返ろう。

 検討の始まりをなす第二節は『存在と時間』を「転回」との関わりで問題にした。私たちの主張したことは、「転回」とは存在了解の可能性の条件、つまり存在の意味への遡行から、存在の意味からする存在了解の展開への反転のこと、また近似的には「基礎的存在論」から「メタ存在論」への反転のことであるということ、そしていわゆるハイデガーの思惟の立場の変化という意味での「転回」は、この「転回」の遂行における躓きの帰結であるということである。

 続く第三節は従ってこの「躓き」の自覚へ至る道筋を問い、具体的には「転回」の遂行のための、すなわち「存在了解の可能性の条件」=「存在の意味」の明確化と、そこからする存在了解の展開を遂行するための「より適切」な問題設定として「超越の可能性の条件の問い」という新たな発端に着目し、そこにおける「無」 の観念の上昇を見定めた。

 「より適切」というのは、「超越」とは、人間が存在了解を遂行して現存在となり、世界を形成して世界内存在になることであり、その可能性の条件の問いは存在了解の可能性の条件の問いそのものだからである。ここで存在了解と世界の可能性の条件が問われることで、一切の開示・真理以前が決定的な問題次元として取り出され、差異化するジジェクのハイデガーは前存在論的次元を問わないという批判の誤りが証示された。

 第四節は「超越の可能性の条件」の問いの終着点、可能性の条件の問いという意味での「超越論的問題設定」の最果てを取り扱った。超越の可能性の条件の問いの顛末を把握する上で重要なのは、そこで二つの可能性の条件への遡行、世界と存在了解への遡行と、そこからの「存在の真理」=「無の無化」への遡行が働いていることを認識することである。

 私たちの経験にあって諸物は特定の何ものかとして分節されて現れているが、このことは自明ではなく「存在者が存在者として」現れること、すなわち存在了解が必要であり、更にハイデガー曰く、人間的な「世界」は「存在者が存在者として、しかも、ある全体において現れている」という事態になっている。これが第一の遡行である。この遡行に際しては私たちの言葉に浸透しきっている「ある(ist)」という語に定位することも可能である。私たちは言葉を語る限りでいたるところで「ある(ist)」と言っている以上、存在了解を持っているはずである、と。この第一の遡行の目的は人間的な自己経験・世界経験、自己関係・世界関係の一切に先立つものとして存在了解を解明することである。

 第二の遡行は、この存在了解・世界から無の無化へと遡行することである。「存在」が了解されるのは「無」との対照関係によってのみであり、「存在」の感受には「無の無化」、存在者との距離化、存在者の滑り落ちの生起、存在者と無の境界の経験が必要である。「世界」の存在了解に並ぶもう一つの規定、「全体としての存在者」ということに定位しても、そのような世界を形成するためには「全体としての存在者」の乗り越えが必要であり、「全体としての存在者」を乗り越えた所にあり、「全体としての存在者」を縁取りうるのは「無」のみである以上、そこで「無」との接触が必要であることは明らかである。

 存在了解が、そして世界というあり方が人間的経験をそもそもの初めから規定しており、一切に先立って存在しなければならない限りで、「無の無化」がそもそもの始まりに起きている。「可能性の条件」とは先立つものであり、それへの遡行は起源ないし元初への遡行である。この原初的な否定性のモチーフがジジェクの同一化と呼ばれた方向性の正しさを明かしている。

 だが、同時にこの原初的にあったはずの「無の無化」が今や不在であり、人間にとって非随意的であるということが問題を引き起こす。なぜあったはずのものが無いのか?なぜあったはずのものを再び生じさせることが出来ないのか?そんなものは無かったのではないか?もっと言えば、二重の超越論的遡行に何か誤りがあったのではないか?あるいは超越論的遡行という思惟プロセスには何か重大な欠陥があるのではないか?疑問は尽きず、ここに一つの深淵が口を開ける。私たちはこの点については、まさにここにこそ原初的な否定性を思惟するというジジェクと私たちの立場に新たな正当化を与えることがかかっているのだが、やはり開いたままにしておきたい。

 しかるにハイデガーはと言えば、ここで二重の超越論的遡行自体は正しいという立場を採用する―そして私たちもさしあたりそうしている。これが私たちの見るところ後期ハイデガーの一切を支え担っている決断であり、そこからして後期の主要諸概念が理にかなっているものとして見えてくる場所である。だから恐らくハイデガーの本質的批判は先の諸疑問の場所においてのみ為されうるのである―もしそれがそもそも為されうるとすればだが。

 以上からして、恐らくこういっていいだろう。後期ハイデガーにおいて決定的に問題になっているのは超越論的思惟、超越論的哲学一般の運命である、と。

 さて、この決断の第一の帰結、WM内部で確認しうる帰結が「有限性への有限性」、すなわち、無への無力、超越への無力であり、ジジェクが見落としているように見えるハイデガーのいう「有限性」の究極の含意である。そして、この決断によって、その帰結たる有限性への有限性によって、「存在了解」から「存在の生起」への、「意味」から「真理」へのいわゆる「転回」が始まる。

 先の「理にかなったものとして見えてくる」という点に注意しつつ記述すれば、起きていたはずの「無の無化」「超越」が人間にとって随意的で無いとすれば、人間に依存しない力によって起きたと考えざるを得ない―「存在の生起」。そしてそれは一切の人間的なあり方を担うもの、「可能性の条件」である以上、そもそもの初めに起きたのでなければならない―「元初」。そしてその出来事は人間から独立した力によって生じる以上、その不在も人間の責にのみ帰されるべきものではない、存在そのものにそれが視界から消え去るということが属している―「存在の退去」。

 私たちは既に第五節の議論へ入り込んでいる。後期思想の初めてのまとまった開陳として第二の主著とも言われる『哲学への寄与』の検討で私たちが示したかったのは、「無の無化」と「存在の退去」の連続性であり同一性である。WMでも既に、少なくとも潜在的には、それのみが「ある」ということの感受、「存在の真理」を可能にするものである以上、「無の無化」こそが存在の本体であり、そして「無の無化」とは存在者との距離の生起であるのだから、存在はある退き去りの運動性である。

 私たちの主張するところ、「存在の退去」はこの洞察の延長であり、ハイデガーは「存在の退去」を導入することで、存在がそもそも「無の無化」として退去の運動性であるが故に、元初的な「存在の真理」の生起のあとで「存在の真理」の出来事そのものが退去し見えなくなるとの説明を試みたのである。『寄与』はこの事態の周辺に多様な語を展開させている。「退去」「拒絶」「自己隠匿」「深淵的なもの」「無」…。

 さて、「存在の退去」「自己隠匿」といった事柄が「無の無化」の延長であるということから二つの帰結を引き出しておこう。第一の帰結はジジェクの同一化の路線の正しさの確証である。「無の無化」はそもそも非隠匿性としての真理に先立つ否定性の次元であり、ここにジジェクとの共通性を私たちは見いだしたのだが、「無の無化」がさらに「退去」として、「自己隠匿」として把握され直すことで、それはまさしく「真理(非隠匿性)より古い非真理(隠匿性)」となる。これがジジェクの同一化の方向性の表明において明示的に取り上げられていた概念であった。

 さて、この「真理より古い非真理」から、第六節の「場所」とLichtungの問題に移行することが出来る。「真理より古い非真理」という事態に直面して「真理」の語から別の語へと移行する必要が生じる。それが「場所」であり、場所とはLichtungである。実際にLichtungは非隠匿性と隠匿性の両方に先行し、両方を含み込む。

 「光が初めてLichtungを作るのではなく、光がLichtungを前提にして」おり、Lichtungは「全ての現前するものと不在のもののための開かれたもの」であって、ここに後から光が射し込んで「Lichtungの中で明るさと暗さを戯れさせる」のである(GA14.80-81)。

 そういうLichtungが何であるかといえば、それは木々が鬱蒼と生い茂る森の中の空き地のように、あたりに立ちこめ充満している肯定的な存在者たち(の素)が伐採され取り除かれた何も「無い」場所、空隙、「否定的なもの」である「場所」である。人間はこの「無の場所」に赴き、その場所を保持するものになることによって初めて「存在の牧人」になる。というのも、「ある!」とは存在者と無との間にあるものだからである。Lichtungの概念には否定的なものの絶対的先行性の承認が凝縮されている。

 さて、「存在の退去」が「無の無化」の延長であることの第二の帰結に移るなら、それは「存在の退去」が「無の無化」の延長であるならば、「存在の退去」とは存在がまずもって肯定的な内容を持った何かであって、それが退去し隠れるのだということではなくて、存在とは純粋な退去の運動性であり、「存在の退去」ではなく「退去である存在」を語る方が正確であることになるということである。

 実際、そう考えなければハイデガーにおいて不可解な言明が多くなる。例えば、なぜ「存在の退去」の徹底化によるEreignisへの転回が示唆され(GA65.8)、そして「存在が退去」し「無」となってしまっていることがニヒリズムである以上(cf. GA6所収「存在の歴史からするニヒリズムの規定」)、今述べたことと同じことなのだが、なぜニヒリズムの徹底化こそがニヒリズムの克服を可能にするという論理が成り立ちうるのだろうか。

 その論理が成立するのは存在とはそもそも退去と後退の運動性であり、その極限化によってのみ、存在者との極限の距離が生じ、「存在の退去」がそのまま「無の無化」、すなわち、「ある!」の端的な感受としての「存在の真理」へと転化するからではないだろうか。

 ハイデガーの考えを展開してみるなら、このニヒリズムの徹底化において生じるEreignis、「第二の元初」への移行にあっては退去が退去として、EnteignisがEnteignisとして、それこそまさに存在そのものとして存在に属することが見届けられて、無の存在への帰属が最終的に確認され、従ってニヒリズムの克服が為されるということになるのだろう。無が除去されることでニヒリズムが克服されるのではない。無が存在そのものとして明らかになることによって克服されるのである。「否定的なもの」は存在の本性に属するものとして消去不可能だが、それはもはや克服されるべき何かではないのである。

 さて、ともあれ、こうして私たちはすでに第七節が扱った領野に足を踏み入れている。中心は「形而上学」と「存在の歴史」である。だが、もはや新しく述べるべきことはない。

 本節はそれまでに述べられたことを少々応用するだけである。ハイデガーの述べるところ「存在の歴史(Geschichte)」は「存在の贈り(Schicken)」から考えられねばならず、この贈りとは「存在了解」を送り届けつつ自らは退去するということである。こういう存在の贈りの歴史が形而上学の歴史であり、形而上学は「存在了解」を受け取り、それを前提としつつも、退去してしまう「存在了解」を送り届ける動き自体を見ることは出来ない。それは「ある!」の経験そのものを、従って「無の無化」の運動性をそれとして見ることが出来ない。

 形而上学は「ある!」の後でのみ可能になったこと、すなわち、すでに存在者が存在者として現れていることという二次的な事実から出発し、存在者を存在者として規定している存在者性としての存在に遡行することしかできない。こうして「存在者」を出発点とし優位におく形而上学は無と否定性を知りえないし、それを現実的なものたる存在者を否定するものとして貶下せざるを得ない。

 だが、ソクラテスについての引用が明らかにしたように、より正確に考えるなら「形而上学」とは存在の退去運動に感応すること、「不安」を感じること、「否定的なもの」の運動を感知することによってのみ可能な事柄でもある。「形而上学」の一つの定義として否定的なものを感知しつつも、それをそれとしては見誤り、それについて知りえず、それを克服すべきものへと貶下してしまう立場というのを掲げることが出来るかもしれない。

 さて、この「形而上学」としての「存在の歴史」を論じることのハイデガーにとっての賭け金は、そのうちに存在の退去のいや増す亢進過程を見定めること、そうすることで「Ereignis/第二の元初」への移行を予感することである。というのも、先に見たように「存在の退去の極限化」は「存在の真理」を準備するものであり、その「可能性の条件」だからである。だからハイデガーにとって、現代を特徴付けるGe-stellは、存在の退去の極限にしてEreignisの先行形態でもあるという両価性を含み込んだ「ヤヌスの頭」なのである。

 続く第八節ではジジェクへ立ち返り以上の解明にもとづいてジジェクとハイデガーの関係を改めて規定しようと試みた。第一の目的はジジェクをハイデゲリアンとして明らかにすることである。それはジジェクにとって決定的な経験的、超越論的、超越的、否定性の四次元の関係の構想が両者に共通していることを示すことによってなされた。
 
 ポイントは、ジジェクとハイデガーのどちらにあっても経験的なものと超越的なものの緊張関係が、経験的なものと、経験的なものに内在しつつ、経験的なものが現象し超越論的構成が為されることを可能にする裂け目である否定性との緊張関係へと還元されることである。

 しかるに、続いて両者に残存する差異としてやはりこの「否定性」を主体と呼ぶか呼ばないかという問題が残存していることが認められた。ハイデガーにおけるその論拠は「有限性への有限性」として明確にされたが、ジジェクにおける論拠は未だ明らかではない。だが、恐らく人間に否定的なものの生起に対する積極的なイニシアティブを認めることが出来るならば、この否定性を主体と呼ぶことに理由があることになるだろう。このことがジジェクの倫理をめぐる問いへと私たちを導くことになる。

 本章の総括を終える前に私たちがハイデガーについて主張したことをまた少しだけ別の観点から整理しておこう。私たちの主張するところは『形而上学とは何か』と、そこで解明された「無の無化」のハイデガーの思惟における中心性に収斂する。その根拠は何か。

 ハイデガーの思惟を、「意味」から「真理」への、「存在了解」から「存在の生起」への移行として解されたいわゆる「転回」によって前期と後期に分割するとすれば、『形而上学とは何か』こそが、第一に、その移行がその本質において成し遂げられた場所であり、第二に、それゆえそこからして後期の諸概念が理にかなったものとして見えてくる場所であるということである。

 第一の点の根拠は、『形而上学とは何か』において「ある」ということの端的な感受としての「存在の真理」が初めて殊更に扱われ、「有限性」の二重化によって存在了解の遂行としての超越が人間的な業ではないことが明確にされ、さらに、ハイデガー曰く「存在の真理」の問いはもはや形而上学的な問いではないのだが、ハイデガーは後に『形而上学とは何か』をまさに形而上学の本質の問いとして形而上学の外へという運動の発端とみなしていることである。

 そして第二の点に移るなら、『形而上学とは何か』で現れた事態、原初的にある「存在了解」の、そのまた可能性の条件として原初的にあると想定されざるをえない「存在の真理 = 無の無化」と、その経験的な不在と非随意性、そしてその忘却という事態の落差が、人間の力能によらずに原初的に「元初」として「生起」し、しかるのち「退去」する存在という想定を不可避にし、そしてこの「元初」「生起」「退去」から「存在の歴史」が規定されるからである。

 そしてもうひとつの決定的なことは、私たちの主張するところ『形而上学とは何か』から後期の主著といわれる『哲学への寄与』への移行は、「存在の生起」という立場のより明示的な遂行であるということを別にすれば、「無の無化」から、その延長としての「存在の退去」への移行であるということである。

 「無の無化」として存在の本体はある後退運動なのだが、ハイデガーはこの洞察を拡張して、それゆえに「存在の真理」はその「元初」的な「生起」のあとには私たちの視界から消え去るのだとして、『形而上学とは何か』で生じた落差という事態を説明しようとしたのである。このことの帰結は、「存在の退去」とは存在は何か内容を持っていて、その特定の内容が退去し見えなくなるということなのではなく、存在は純粋な退去の運動性であるということである。

 だからハイデガーはその「存在の歴史」の彫琢において、そこに「存在の退去」の亢進過程を見定めることによって、Ereignisによる第二の元初への移行を予見しようと試みることができたのである。以上の理路からして、「存在の退去」=「無の無化」の極限化は、「無の無化」の端的な感受そのものである「存在の真理」の可能性の条件を形成するからである。こういう仕方で『形而上学とは何か』と「無の無化」はハイデガーの思惟にとり決定的に中心的なのである。これが私たちのハイデガーの理解の要である。

 以上で本章の総括が終了した。本章の締めくくりに向けて人間から「もっと根源的なもの」(GA3.§41)、すなわち、「現存在」へというハイデガーの移行を扱っておこう。人間よりもっと根源的なものとしての「現存在」という考え方は私たちが本章で二重の超越論的遡行と呼んだものと完全に並行している。

 現存在が人間よりも根源的なのは、人間の人間的なあり方が存在了解を基礎にしてのみ可能だからである。ハイデガーの規定するところ人間は「実存」だが、この実存とは『存在と時間』にあって自らの存在に関心を持ちそれに関わる存在だと定義されている。だからそれは自らが存在するものとして現れることを前提としており、すなわち、存在了解を前提にしている。

 ハイデガーの用語系を取り外してこう言ってもいいだろう。人間が存在を理解せず、したがって自らが存在していることが分からなかったら、自分が存在していることを忘れてしまっていたら、人間は人間だろうか?と。おそらく、やはりそうではない。かくして、「人間は人間のうちなる現存在という根拠に基づいてのみ人間である」(GA3.229)。

 これがハイデガーが一切の人間学に対して距離を取る理由である。人間学は人間を人間としてまず措定してから話を始めるが、人間を人間たらしめている「人間のもっとも内的な根拠」は「現存在」であり、それは人間を初めて人間たらしめるものとして人間的なものではない。「人間より根源的なものへの問いは原則的に人間学ではあり得ない」(GA3.230)。

 さて、人間から現存在へという移行は二重の超越論的遡行の第一、存在了解への遡行に対応している。とすれば、次に第二の遡行に対応する契機が見いだされると考えてよいだろう。ハイデガーは今引用したカント書の一節と同じ§41で「人間よりも人間のうちなる現存在の有限性の方が根源的である」(GA3.229)と述べている。

 そして「有限性」につき、その直前のところに後年の欄外注が「無化することの無性」と書き加えている。これは明らかに存在了解から無の無化への遡行と並行している。再び引用するなら「人間が「無の場所を保つもの」であるというのと人間が「存在の牧人」であるというのは同じことを言っている」(GA11.160)。

 人間は自らの根拠として自らよりもっと根源的なものである「現存在」、すなわち「存在了解」へと差し戻され、更にそこから「現存在の有限性」、すなわち「無の無化」へと差し戻される。人間は人間である限り、それに先立って「存在の牧人」であり、ある意味では更にそれに先立って「無の場所を保つもの」である。

 さて、前期のハイデガーは人間が存在了解を何はともあれ所持しているということで現存在と呼んでいたのだが、恐らくはいわゆる「転回」に相関する形で、ハイデガーは現存在を存在が自らを現す現場として明確に把握するとともに、それをより強い意味で解するようになり、「存在の真理」を、「ある!」を殊更に経験していることを名指す名として用いるようになる。

 『寄与』では、この用語法に基づき「存在の真理」の経験たるEreignisによって、人間は「現存在」ないし「現-存在」を割り当てられ、それを「根拠づける(gründen)」という使命を与えられると言われる。「Er-eignisに委ね渡される」ことは「「理性的動物(animal rationale)」から現-存在への人間の本質変化に等しい」(GA65.3)。

 さて、この「現-存在」への「本質変化」が「無の無化」という絶対的否定作用を含む、というより絶対的否定作用であることはもはや論を俟たないが、かくしてここにジジェクが注目していた「真理の本質的展開への人間の歩み入り」は「存在者の中での人間の地位の錯乱(Verrückung)という意味での人間存在の変容」 (GA65.338) (Žižek [2000b:81])であるという論点が登場する。

 ジジェクは、ハイデガーは「真理の次元そのものより古い非真理の概念を練り上げる中」でこのことを強調したのだとしていたが、このことも今や首是できる。というのも、今や「真理より古い非真理」と「無の無化」「退去」「存在に立ち去られてあること」の連続性が確認されているからであり、ハイデガーは確かにこの「錯乱」の可能性を「存在に立ち去られてあることの困窮」に帰しているからである。

 人間は「存在に立ち去られてあることの困窮」、「存在の退去」、「無の無化」である「真理より古い非真理」を純粋に経験することで「錯乱」させられ、だがそうすることで「存在の真理」を受け取る「現-存在」になる。恐らくハイデガーが「時として深淵を根拠づけるものたちは守られたものの炎のうちに飲み込まれてしまうのでなければならない」(GA.65.7)とか、「現-存在」への変化が「没落」(同)であるとかいったことを強調するのはこのこと、存在と否定的なものとの同一性と連関しているのだろう。

 ハイデガーはヘーゲルが自らを「完成として不変性として知ろうと欲し」「没落として知ろうと欲しなかったこと」は、その否定性の認識の不十分性、それが「無とSeynの根底から発現しておらず」、結局は主体に帰せられ、あらかじめ「危険でないもの」にされていることに淵源していると見なしている(GA66.293)。「没落」と「否定性」ないし「無」が相関していることは明らかである。そして「無」と「存在」が同一である限りで、現存在になることは「没落」でもあるのである

 以上を私たちの視座から一言でまとめるなら、人間より「もっと根源的なもの」、人間の可能性の条件である「現存在」への移行は、「否定的なもの/存在」との絶対的に原初的な関係へ向けての旧来の人間、旧来の人間の本質解釈一切の解体であるということにある。

 今や言うまでもないことだが、この解体は、それこそハイデガーが自らの「存在論の歴史の現象学的破壊」ないし「解体」について、それは単に存在論の歴史を破壊して終わりとする虚無的なものではなく、存在論をその可能性において担っているもっと根源的なものへの遡行であると強調したのと同様に、単に破壊的なものではなくして人間をその可能性において担っているもっと根源的なものへの帰り行きである。

 この解体を遂行し抜くべきであるということ、それが『寄与』でたびたび示唆されるように一種のVerrückungであるとしてもそうであること、この結論は「現存在」という発端の、二重の超越論的遡行に支えられた根源性からすれば、すくなくとも理論的・哲学的には、不可避でもあるようにも私たちには思われる。

 少々余談めくのだが、この移行を承認するかどうか、つまり、人間からもっと根源的なものへの移行を承認するかどうか、そしてそれを更にハイデガーがした仕方で、つまり、「現存在」へ向けて、私たちの好む言い方でいえば「否定的なものとの絶対的に始原的な関係」へ向けてという形で承認するかどうかは現代における様々な哲学的立場を有意義な形で区別分類する大きな識別標をなすと思われる。

 例えば、今や意味の明確な輪郭を一切失ったかに見えるポストモダンなる語に哲学的立場としての意味の輪郭を与え返すことが可能であるとすれば、それはハイデガー的なものであれ、あるいは少なからずそれと異なるものであれ、旧来の人間からもっと根源的なものへの移行の必然性を承認することに求められるべきではないだろうか。

 少なくとも、もし私たちが「ポストモダン」なる語で指示される立場を引き受けるとするなら、このように解された「ポストモダン」ならば引き受けうるだろう。こう解した時には、ジジェクも確かに「否定的なもののもとへの滞留」を主張し、絶対的に否定的なものの経験と、それによる人間存在の変貌―否定的なものの次元をジジェクは人間のうちなる非人間的なもの(inhuman)と呼んでいるのだが―を支持する点でポストモダンである、それもハイデガーにきわめて近いタイプの、と言いうるだろう。

 さて、本章の最後にジジェクがよく引き合いに出す話、クローチェは「ヘーゲルにおける生きたものと死んだもの」という問いを立てて現在からしてヘーゲルを裁こうとしたのに対して、アドルノは「ヘーゲルから見ると現在はどう見えてくるのか」を問うたという話に倣って、「ハイデガーから見ると現在はどう見えてくるのか」を問題にしてみよう。

 私たちは序論第一章でチャールズ・テイラーに触れたのだが、本章の解明によって私たち今やテイラーの思想がハイデガーの言う意味での「形而上学」の典型であることを見て取れる。つまり、「存在の退去」/「否定性」が吹かせる「強すぎる隙間風を前にして風のあたらない側へ避難する」という意味での「形而上学」である。

 というのも、第一章の記述を参照すれば明らかな通りテイラーは明確に「否定的なもの」を感受しているのだが、「「否定性」という贈り物を正当に評価する」には到らず、「否定的なもの」の隙間風を防いでくれる何らかの根拠、「歴史でも自然の要求でもいい、人間同士のニーズでもシティズンシップの義務でもいい、神のお召しでもいいしここにあげた以外の何かでもいい」などと言われる根拠へと、テイラーが「自由に状況を与える」ことと呼ぶもの、私たちの生に肯定的な内容を与えることへと、避難するからである。

 もし、テイラーがここで「形而上学」的に、存在者から、そして存在者のために、つまり、私たちの「さしあたりたいてい」のあり方に基づいて始めるのではなく、「存在の真理」から、「否定的なものと人間の始原的関係」から考えを始めたならば、テイラーは「「否定性」という贈り物を正当に評価する」ことに、少なくとも理論的レベルでは到ることが出来ただろう。そうでない限りで私たちの立場からはテイラーの思想は不十分であり誤りである。

 そしてこれは―ジジェクに定位すれば、そして少々ハイデガーに逆らえば―テイラーが依拠するヘーゲルに即しても言えることだろう。例えば近代的な共同体主義的政治理論の典型とも見える『法の哲学』はカント的な個人主義的自律ないし「抽象的否定性」にたいしてテイラー流に共同体に埋め込まれ内容を与えられた人倫的主体を対置しているだけなのだろうか。ヘーゲルは道徳性から人倫への移行の論理を、私たちの前章の解明と対応する仕方で以下のように説明している。

[自由の実体的普遍としての善と主体的な良心との]二つの相対的な全体性の絶対的同一性への統合はすでに即自的には完遂されている。それは自分自身の純粋な確信という主体性、この対自的に自らの空虚さのうちに消え行く主体性こそが善の抽象的普遍性と同一であることによってである―かくして善と主体的意志との具体的同一性、両者の真理が人倫である。(Hegel [1986:286])

 つまり、人倫なるものは否定性の極限において消滅し行く主体と実体との同一性の生起として、おそらくは私たちが前章で解明した論理に従っての和解によってのみ可能なのである。このことがヘーゲルの法哲学がその終わり付近に戦争論を配置していることの謎をも説明してくれるだろう。

 そこで注目すべきなのは、一見するところと異なって、戦争論がそこまでの人倫の論理、共同体秩序の中で特定の役割、特殊的・肯定的な役割を引き受けるという論理に反するものとして導入されていることであって、一切の特殊的・肯定的なものが破壊される「否定的なもの」の経験として「対自存在の最高の自由」であるとヘーゲルによって称揚されていることである―もちろん、このために戦争をヘーゲルが積極的に肯定しさえしたことの是非はまた別の問題であり、分離可能な問題である2)というのも、平和論で有名なカントでさえ、自然的存在者としての人間には全く太刀打ち出来ない津波といった自然の驚異的な力に際会することで、逆説的にそのような自然的なものによって影響を受けない人間の道徳性の偉大さが感得されるという「力学的崇高」の経験を論じるにあたって、戦争はルールに従って為される限り「崇高」である、ということはつまり理性に適うと言っているのだから。ここで問題なのは「力学的崇高」という文脈から明らかな通り、道徳性、つまり、生命を含めたパトローギッシュなものへの関心から解き放たれた行為なのであって、確かにそれは戦争においてとりわけて現在する可能性が大きいだろう。卑近な例でいえば、ある種の戦争映画を見たりした時や『きけわだつみのこえ』を読んだ時に生じる感情を考えてみればよいだろう。そこに表現されている、死を受け入れて、それでも行為する人々、つまり自然性の論理を超えた「道徳的」な人々の姿が私たちの中に喚起する感情が「崇高」である。重要なのは、このような行為の顕現であり、戦争の物理的破壊ではない―戦争は現代にあってますます、以上のような行為と関係のない一方的な大量破壊に変化しつつあると言えるかもしれない。だから、戦争のある場合における崇高さを認めつつ、戦争に反対することも出来るのである。

 ここでテイラーに触れたのは、一般に共同体主義の主体観は「否定的なもの」の感受に発端を持つことが多い点で私たちに近いのだが、そこから私たちとは正反対の帰結に至る点で、私たちと微妙な関係立っているからである。ジジェクの視座からすれば、共同体主義による「否定的なもの」の軽視ないし抑圧は、社会的-政治的次元では共同体主義が「政治的なもの」の次元を適切に評価できないことを帰結する。「政治的なもの」と「否定的なもの」の連関は第二部の主題である。

 さて、この「形而上学」からして「ハイデガーから見ると現代はどう見えるのか」に移ろう。ハイデガーによる現代の規定を想起しよう。ハイデガーの見るところ、現代は「存在の贈り」の連なり、つまり、Es gibtがSeinレベルで様々な存在了解を送り届けつつ、それとしては退去するということの連なり、存在の「差し控え = エポケー = エポック」の連なりとしての「存在の歴史」の終着点であり、「存在の退去」の極限である。

 この「存在の贈り」という概念によって規定された「存在の歴史」がそのまま「形而上学の歴史」であり、従って現代においてすでに「存在の歴史」が終着点に達しているならば、「形而上学の歴史」も終わりに来ていることになる。そしてハイデガーは実際に形而上学としての「哲学の終焉」(GA14所収)を告知していた。

 だが、現代、ハイデガーが言うところのGe-stellの体制において「形而上学」が終わりに来ているということにはどんな厳密な意味があるのだろうか。恐らくそれを以下のように説明できるだろうのではないだろうか。先にソクラテスについての引用に即して示した通り「形而上学の歴史」は「不安の歴史」であり、形而上学は存在の退去を、その隙間風を、否定的なものを感受する。だが、形而上学はその退去をそのものとして、存在そのものとしては捉えることはできない。それは逆に「強すぎる隙間風」を逃れるために存在者を存在者性ないし最高の存在者から基礎付けることへと向かってしまう。

 だがこういうものとしての「形而上学」は現代において2つの正反対の方向に向けて不可能になる

 。第一は、ハイデガー的な用語系をフルに用いれば、「存在の退去」の極限化による「退去」そのものの忘却としての「存在忘却」の極致の到来であり、そこでは「存在に立ち去られてあること」という「困窮」そのものが感受されない、つまり、「否定的なもの」が感受されない「困窮の無さ」という「最大の困窮」、すなわち「Seynの最終的退去」が支配する。不可思議なことに、そこでは「否定的なもの」が忘却されている(ように見える)3)ここでテイラーの弟子でもあるサンデルに、今度は「形而上学」ではなく、「形而上学以後」の典型的有り様を見いだしたとしたら、それはあまりに不当だろうか。サンデルはリベラリズムの「負荷なき自己」に対して「負荷ある自己」を主張するに際して、やはりテイラー流のヘーゲルからするカント批判の把握、「抽象的否定性」であり「空虚」である(とされる)カント的な道徳的個人主義的主体に対して、共同体のうちに位置づけられ内容を与えられたものとしてのヘーゲル的主体を対置するという批判を受け継いでいるにもかかわらず、「否定的なもの」のもたらす不安を―少なくとも私たちの知る限り―感受しているようには見えない。この見立てが正しいとするなら、ハイデガー風に言って、そこでは「存在の退去」、つまり「否定的なもの」そのものが忘却される「存在忘却」の極致が現出していることになるだろう。そうであるにせよ、私たちの立場からすれば、サンデルが「人間は負荷ある自己である(is)」というためだけにも、存在了解が無ければならず、従って人間が「無の場所を保つもの」であるということが、人間主体が肯定的なもの一切への距離である端的な「否定性」であるということが、つまり、「人間が負荷なき自己である」ということがなければならない。だから、この人間主体の見方に関する限りで、この立場は発端からして誤りであるように思われる。少々外在的にすぎる批判だろうか。

 第二は「存在の退去」の極限化によって、第一のものとは反対に「存在の退去」、すなわち「否定的なもの」を純粋に感受するための可能性の条件が整い、そして恐らくはそこで経験された「無の無化」が、「退去が拒絶として最初の真理となり歴史の別の元初となる」(GA65.91)ような準備が整いつつあるという事態である。ここから見るときGe-stellは「Ereignis自身の先行形態」ということになる。現代において「形而上学」はこの2極へと分解する。そしてハイデガーは『寄与』ですでにして以下のように指摘している。再び―先程から私たちは再引用ばかりしているのだが―引用しておこう。

全ての決断(…)が一つの唯一的な決断に収束する。それはSeynが最終的に退去するか、それともこの退去が拒絶として最初の真理となり歴史の別の元初となるかという決断である(GA65.91)。

 これがハイデガーから見た現代であるといっていいだろう。私たちはここから時代区分としてのポストモダンのハイデガー的定義、「存在の歴史」的(?)定義とでもいうべきものを提出したい気すらする。それは一方において「否定的なもの」が全く感受されていないように見える―ここで「動物化」なるものがコジェーヴ以来常に否定性と人間の関係の消滅を焦点としてきたことを想起するべきであるが4)もちろん、否定的なものと人間の原初的関係性との消滅として解された「動物化」に反対することは必要ではない。私たちが今まで述べていたことが正しいとすれば、そんなことは本質的には生じえないのだし、またもし生じうるのだとすれば私たちは自らの誤りを認めるしかないからである。―ということと、他方において「否定的なもの」についてばかり考えている人々がいる―例えばジジェクだが―ということとの両極性をそれなりにうまく説明しているように思われる。

 もちろん、ジジェクは彼が「ヘルダーリン・パラダイム」と呼ぶもの、つまり、先に引用した「危険があるところ、救うものもまた生育つ」という発想を中心とした大げさな史的図式―今や決定的な危機が到来しており、それは同時に転換の好機であるという発想―を批判しているから、このような位置づけには不満を表明するだろうけれども。ジジェクにとっては「存在の歴史」という発想はやはり「退行」であった。

 最後に、そうであるにもかかわらず、ここで私たちがハイデガーの「存在の歴史」に少々肯定的に言及した理由について説明しておくとすれば、それは自らの言説を歴史的に位置づけ説明する欲望に屈したからだとでも言い表せるだろう。

 ある特異な問い、私たちの場合には「否定的なもの」の問いだが、そのような問いを現に問うてしまっており、しかもそのように問わざるをえないそれなりのNot-Notwendigkeit、つまり困窮-必然性が感じられるという場合、なぜまさにいま自分がそのような難儀な状況のうちにあるのかを歴史的に説明し位置づけたいという欲望には何か抗いがたいものがあるのではないだろうか。

 おそらくハイデガーにとってはニーチェが、自らが問うてしまっているということ、少なくともハイデガーからすると絶対的に先行的で根源的でありながら、今まで十全に問われて来なかったような問い、すなわち「存在そのもの」の問いを、なぜか今まさに自分が問うてしまっているという不可思議さに何らかの説明を与えうるような歴史的パースペクティブを開いた人だったのであって、そこから出発してハイデガーは「存在の歴史」なる特異な教説を練り上げたのである。

 「存在」の退去が極限化するにつれて、ハイデガー的な意味でのニヒリズムの極限への歩みにつれて、退去としての、無としての「存在そのもの」が初めて十全に問われうるようになるというわけである。私たち自身に話を戻すなら、私たちにはハイデガーのこの教説のうちに私たちが「否定的なもの」の問いを問わざるをえないという奇妙な事態を説明しうるような教説を見い出しうるかのように思われたのである。

 何はともあれ、そろそろ次章に移ることとしよう。そこでジジェクによるこういった歴史図式の拒否の理由も明らかになるはずである。私たちとしては「存在の歴史」にもう少し肯定的な可能性を見たくもあるのだが。

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第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(2)
第四章 ジジェクの倫理 “Gelassenheit” vs “Ne pas céder sur son désir ”

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. ところで、ジジェクは以上の性的差異の解釈から、「無」である主体の本性は女性的だという。こういう議論の流れの中でジジェクが「女性の「場所」とは「男」がそれを満たす瞬間に見えなくなってしまう裂け目の、深淵(abyss)の場所である」(Žižek [1993:58])という時には何かしら下ネタ的な響きがあるが、この理論的(?)視座からすれば、少々悪趣味な冗談かもしれないが、まさにクールベが、ジジェク曰く「[その絵に]まったくぴったりなことに、ラカンの死後に彼の遺品の中から見つかった」(Žižek [2000b:36])絵画である「世界の起源」のうちで印象的に描き出したあの裂け目こそ、厳密にハイデガー的な意味での、つまり存在の開示の地平という意味での「世界」の「起源」であるということになるのかもしれない。
2. というのも、平和論で有名なカントでさえ、自然的存在者としての人間には全く太刀打ち出来ない津波といった自然の驚異的な力に際会することで、逆説的にそのような自然的なものによって影響を受けない人間の道徳性の偉大さが感得されるという「力学的崇高」の経験を論じるにあたって、戦争はルールに従って為される限り「崇高」である、ということはつまり理性に適うと言っているのだから。ここで問題なのは「力学的崇高」という文脈から明らかな通り、道徳性、つまり、生命を含めたパトローギッシュなものへの関心から解き放たれた行為なのであって、確かにそれは戦争においてとりわけて現在する可能性が大きいだろう。卑近な例でいえば、ある種の戦争映画を見たりした時や『きけわだつみのこえ』を読んだ時に生じる感情を考えてみればよいだろう。そこに表現されている、死を受け入れて、それでも行為する人々、つまり自然性の論理を超えた「道徳的」な人々の姿が私たちの中に喚起する感情が「崇高」である。重要なのは、このような行為の顕現であり、戦争の物理的破壊ではない―戦争は現代にあってますます、以上のような行為と関係のない一方的な大量破壊に変化しつつあると言えるかもしれない。だから、戦争のある場合における崇高さを認めつつ、戦争に反対することも出来るのである。
3. ここでテイラーの弟子でもあるサンデルに、今度は「形而上学」ではなく、「形而上学以後」の典型的有り様を見いだしたとしたら、それはあまりに不当だろうか。サンデルはリベラリズムの「負荷なき自己」に対して「負荷ある自己」を主張するに際して、やはりテイラー流のヘーゲルからするカント批判の把握、「抽象的否定性」であり「空虚」である(とされる)カント的な道徳的個人主義的主体に対して、共同体のうちに位置づけられ内容を与えられたものとしてのヘーゲル的主体を対置するという批判を受け継いでいるにもかかわらず、「否定的なもの」のもたらす不安を―少なくとも私たちの知る限り―感受しているようには見えない。この見立てが正しいとするなら、ハイデガー風に言って、そこでは「存在の退去」、つまり「否定的なもの」そのものが忘却される「存在忘却」の極致が現出していることになるだろう。そうであるにせよ、私たちの立場からすれば、サンデルが「人間は負荷ある自己である(is)」というためだけにも、存在了解が無ければならず、従って人間が「無の場所を保つもの」であるということが、人間主体が肯定的なもの一切への距離である端的な「否定性」であるということが、つまり、「人間が負荷なき自己である」ということがなければならない。だから、この人間主体の見方に関する限りで、この立場は発端からして誤りであるように思われる。少々外在的にすぎる批判だろうか。
4. もちろん、否定的なものと人間の原初的関係性との消滅として解された「動物化」に反対することは必要ではない。私たちが今まで述べていたことが正しいとすれば、そんなことは本質的には生じえないのだし、またもし生じうるのだとすれば私たちは自らの誤りを認めるしかないからである。
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