第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(1)

 私たちは前章の末尾近くで男性の異性愛的欲望は依托の論理によって容易に説明されると述べたが、その裏面は、養育者が典型的には母である限りで女性の場合には同性愛的欲望の方が容易に説明されるということである。

 かくして私たちはフロイトの女性論の決定的な問いに直ちに出会うことが出来る。すなわち、女性に異性愛的欲望なるものがあるとすれば―世間を観察するとおそらくあるのだろうと推測せざるを得ないが―それはいかにして可能か、それが可能であるとして、そこに至るまでに女性はいかなるプロセスを経験しているのか、そしてそのプロセスは女性性を、そしてその困難を―これをこそフロイトは最終的にヒステリーと呼んだわけだが―どのようなものとして、またいかなる仕方で構成するのだろうか。フロイト的な立場からすれば、男性においては同性愛の要因の方が一般により問うに値するのに対し、女性においては異性愛の要因の方が問うに値するのである。

 とはいえフロイトがはじめからこのような問題構成に到達し得たわけではない。この問題構成はフロイトにとっての手痛い失敗を通じて生成してきたのである。つまり、「ドーラ症例」をめぐる失敗、ドーラが途中で分析の継続を拒否したという失敗である。

 何がしかもっともらしく定式化すれば、ある意味でフロイトの女性論はこのドーラの「否」という外傷的(?)な経験に説明を与えようという試みであり、その失敗へのフロイトの言い訳にも見えなくはない―もちろん、そのことは理論が間違いであることを含意しないにせよ。

 かくして、私たちは第1節でドーラ症例とその失敗およびフロイトの反省を検討し、第2節では「神経症は倒錯のネガである」の論理に従う形で、ドーラのヒステリーに対するポジとして構想されているとおそらくは見ることが出来る「女性同性愛の一事例の心的成因について」という症例を取り扱う。この地点からして後期のいわゆる女性論が練り上げられるのだが、第3節はそれを検討することにしよう。このことを通じて「女が女になる」具体的プロセスとそこにはらまれた諸困難を明らかにすることが出来るだろう。

1、「症例ドーラ」―ドーラの「否」

 ドーラの症例はフロイトのいわゆる五大症例のはじめの症例であり、そこではリビード的関係の網の目、あるいは「関係」とまではいかなくとも少なくともリビード的欲望の網の目とでもいうべきものがドーラの周りに張り巡らされていることが感じ取られて、私たちに優れてフロイト的なリアリティを経験させてくれる。

 他方で否定出来ない印象は他の症例よりもフロイトの解釈に飲み込みがたい点が多いように感じられることだが、それはそれとして私たちとしては先のリアリティを再現することを目指しつつ、議論に必要な点を中心に見ていくことにしよう。

1-1、ドーラの家庭事情、病歴、そして最初の解明

 ドーラは18才の美しく知的な少女だが、そのヒステリーを心配した父に伴われてフロイトのもとにやってきた[以下本項につきⅤ:172-190=6:13-34を参照]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.。フロイトはかつて父の梅毒由来の病気を治療したことがあったのである。

 18才のドーラはすでに長い病歴を持っていた。今からその病歴、家族史、その周辺の人間関係を簡単に述べていくが、その語りははじめ極めて不十分だったという。しかるに、フロイトからすれば、外傷的記憶がヒステリー性健忘で「抑圧」され、そこにあった欲動のエネルギーが身体症状として遷移されて表出するのがヒステリーである以上、その語りの不十分さは、抑圧に由来するものとして、ヒステリーという病の本質に属し、症状の解消という実践的目標は病歴の再構築という理論的目標とぴったり一致するのである。

 ドーラの家族は活力と資産のある父が中心である。その父がドーラ7才のころに結核にかかり、その療養に適したB市が、肺病自体は1年で好転したものの、以来10年間の家族の主な滞在地となった。父はその後ドーラ10才の頃の網膜剥離、12才のころの錯乱の発作、麻痺、心的障害など病を重ねている。最後の病がフロイトによって解決されたことが、今回ドーラがフロイトに委ねられた理由である。

 これらの病の際に早熟のドーラは父の世話を任され、二人の間には基本的に強い情愛がある―それだけにいっそうドーラは父の問題点を厳しく非難した。母は父の病気によって父と疎遠になって以来、家事に強迫的に専念するばかりとなっており、ドーラは母をこっぴどく批判している。またドーラには1才半年上の兄がおり、ずっとドーラにとってはライバル的存在であったが、最近は家族から距離をおいている。基本的には兄が母の側に、ドーラが父の側につくという形で家族内によくある「性的な惹き付け合い」が成立している。

 さて、ドーラの神経症的な病の初期は、8才のころ半年続いた神経症的なぜんそく、12才からの咳と偏頭痛からなる。後ろの二つははじめともに生じたが、後に独自の発展を遂げ、頭痛は16才でおさまったものの、咳としゃがれ声は今でも続いている。咳の発作は数週間続くのだが、最近はその前半に失声が生じている。また17才では発熱を伴う盲腸炎を経験した。18才となった今では気分変調と性格変容が病の主な印となっている。

 具体的には、父と不仲になり、家事を手伝わせようとする母とは相容れず、人との交流を避けて、疲労感や集中力の低下を訴えつつも、体調が許す限りで講演などを聞いて勉強していた。そんなある日、ドーラの自殺を仄めかす手紙が見つかり、父は本気ではないと思いつつも動揺した。その後でドーラと話しているとドーラが意識を失い、さらに健忘を起こしたので治療に連れてきたのである。

 総括的に述べれば、ドーラのヒステリーはありきたりの症状、呼吸困難、咳、失声、偏頭痛、気分変調、ヒステリー的な頑さ、真剣ではない厭世といったものを伴う小ヒステリーだった。

 さて、フロイト曰く、ヒステリーには外傷経験、情動の葛藤、性的領域の関与が欠けていることはない。このことは今回の事例では父の話ですぐ確かめられた。B市で一家はK夫妻と仲良くしていたのだが、父とK婦人は仲がよく、K婦人は父の世話を買って出ていた一方、ドーラはK氏と仲が良く、一緒に散歩をしたりプレゼントをもらったりしていた。

 しかるに、二年ほど前にK氏はドーラに交際を持ちかけ、ドーラはそれを平手打ちで拒否した。のちにドーラはそれを母に告げたのだが、そのことを受けて父がその問題につきK夫妻と話し合いの場をもうけると、K夫妻はドーラが性に興味を持ちいかがわしい本などを読んでいろいろと空想的にでっちあげたのだと主張した。ここにドーラの気分変調、興奮、自殺の仄めかしの原因があると父はいう。

 ドーラはK夫妻との関係断絶を迫るが、父としてはドーラの話はK夫妻の言う通り空想だと思っており、またK夫人との関係を断ちたくもない。曰く、K夫人は夫であるK氏とうまくいっておらず、神経症的であり、自分だけが支えなのである。とはいえ、自分の劣悪な健康状態から明らかなように、関係は(性的関係を含まない)純粋な友情によるものであり、自分たちたちはともに励まし合うかわいそうな病人二人なのだ…。ドーラが気絶したのは、この関係断絶の要求を繰り返した会話においてだった。

 さて、K氏に関係を迫られ、その後にでっちあげなどと侮辱を受けたことが外傷になったというわけだが、第1章で紹介した「ヒステリーの病因論のために」での議論に一致する形で、ここでは外傷が症状をそれとして決定する性質を持っていないし、またヒステリーははるか昔から始まっている。更なる遡行が必要である。

 治療のはじめの抵抗が克服されると出てきたのは、先に見たドーラ16才の頃の湖畔での告白場面の更に2年前、ドーラ14才の時の場面だった。意図的に二人きりになる機会を作ったK氏がいきなりドーラを抱き寄せ体を押し付けながらキスをしてきたのである。

 この時、フロイトに言わせると健康な手つかずの女性ならば性器興奮を感じてしかるべきなのだが―一見するとどうかと思われる議論だが、後に明らかになってくる事情を考慮に入れれば飲み込みやすくはなる―ドーラは吐き気を感じて逃げ出した。

 フロイトはこの吐き気が病的な要素を含むことを示すために、ご丁寧なことにわざわざ注でK氏はまだ若々しく魅力的な外見をしていると述べている―だから普通ならキスされても吐き気は起きないはずだというわけだ。

 さて、この出来事はドーラに、抱きとめられているような上体圧迫の感覚幻覚と、女性と楽しそうに話している男性を避けるという症状を生み出した。これはフロイトによると勃起した男性器を押し付けられたことへの反応である。

 一般に抑圧による遷移が下半身から上半身への移し替えという法則に従うことがあるのであって、今回も勃起した男性器の押し付けによる圧迫感が外傷的なものとして抑圧されて、それが無害な強い上体圧迫感覚の症状を生み出している。

 こう考えると、なぜ女性と楽しそうにしている男性を避けるのかも理解しやすくなる。そのような人は性的に興奮していることがあり得るのであり、近寄ると勃起を見てしまうかもしれないのだ。

 そして吐き気は本来排泄物への反応なのだが、性器が排泄器官でもあることによって、性器感覚の上半身への遷移はしばしば吐き気となるというわけだ。

 フロイトは自分の前提の検証のためにドーラに性的知識を与えないようにしていたが、ドーラはこの勃起などを含め多くのことを知っていた。しかるに、その源泉がどこかということをドーラは忘れてしまっていた。これは後に重要な要素となる。

1-2、ドーラの周囲のリビード的諸関係―あるいはドーラの投影メカニズム

 さて、分析はいきおいK氏との関係に焦点化していくが、ドーラの意識はそちらに向かず、父のことばかりが語られた[以下本項につきⅤ:190-205=6:34-53を参照]。ドーラは父とK夫人の関係が父の主張とは異なって愛の交わりに他ならないことを示す証拠を何一つ忘れていなかった。

 ある夏の滞在では途中から父とK夫人が他人の邪魔の入らない互いに近い寝室を使うようになった。森にて二人で逢い引きもしていた。B市でも毎日のように逢い引きしており、二人の噂は広まり、ドーラも質問を受けることがあった。K氏自身もドーラの母に苦情を述べている。また父はK夫人にお金を渡しており、夫人は自分だけではまかないきれない出費をしていた。この愛の関係を通じて夫人の神経症は改善し、生き生きするようになっていた。

 ドーラは父を容赦なく非難する。父は仮病を都合良く使っている。病が治った後も仮病でK夫妻のいるB市に訪れるし、ウィーンに転居後は夫妻もすぐにウィーンに越してきた。その後父が体調悪化を理由にB市にいくと、K夫人も同じタイミングで親戚を訪れるのだった。さらに言えば、父は利己的で不正直である。実のところ、父はK夫人との関係のためにK氏のドーラへのアプローチを黙認し、更に今はなかったことにしたいのであり、いわばK夫人の代わりにドーラをK氏に差し出しているのである。

 さて、これらは文句なく正しかったのだが、精神分析の立場からすれば、言われていることの正しさとは別にそう言うことの動機が問題になる。それは何か別の思考を隠すために言われているかもしれないのだ。今回は他者の非難が実は自己非難でもあったのである。自分への非難、自分の嫌な部分が他者に「投影」されていたわけだ。

 具体的に言えば、確かに父はK夫人との関係のためにK氏のドーラへのアプローチを黙認したが、他方でドーラも父とK夫人の関係を黙認し、更には手助けさえしていたのである。父が居そうな時にはK夫人のところに行かなかったし、そのような時にはK夫妻の子どもを散歩に連れて行きさえしたのである。

 また、ある時ドーラの女家庭教師が父とK夫人の関係に注意を促したのだが、逆に女家庭教師はドーラと仲違いして解雇されてしまった。ドーラを思いやってK夫人と父を引き離そうとしているかのような女家庭教師の表向きの態度の裏に、ドーラは家庭教師の父に対する愛を嗅ぎ取ったのである。実際、彼女の仕事の態度は父が不在になると顕著に悪化した。自分への思いやりが実は父への愛の隠れ蓑だったことがドーラを怒らせたのである。

 だが、実はドーラのK夫妻の子どもへの情愛も同様の論理に従っていた。ドーラは子どもたちをとてもかわいがったのだが、それはその父たるK氏への愛の隠れ蓑だったのである。つまり、どちらの他者非難も背後にはK氏を愛する自分の存在が隠れていたのだ。

 さらに病気の利用の批判も同様である。ドーラはK夫人は夫たるK氏がいると体調を悪化させて夫婦の営みを避けているとも言ったのだが、これに続けてB市における自分の病気と健康の交代について語った。連想の時間的連続は内容的連関を示す。つまり、この連続は自分も仮病していることを示唆する。

 果たして失声の発作の期間の長さはK氏の不在の期間の長さと一致しており、K氏が手紙を書いてくることと関連していた。失声の時にはドーラも書く能力が向上したが、これは要するに愛する人としゃべれないならしゃべる意味はない。手紙でやりとりが出来ればいいということなのである。

 もちろん、失声をすべて不在の恋人に還元するつもりはフロイトにはない。症状形成には身体の側の「同調」、症状を起こす器質的・身体的な基礎が必要だが、それに心的意味が付着する―無意識の思考がそれを表現手段として選ぶ―ことで初めて症状が「反復」するようになるのだ。

 精神分析的探求の順序はまず心的意味を明らかにすることであり、それによって症状を取り除いた後で、必要があれば身体的な基礎を注視することである。一つの症状が複数の意味を持ちうるし、主導的な意味が交代することもあるが、フロイトの立場は、複数の意味のうち少なくとも一つは性的な意味であるというものであるという。

 さて、こういった解明からドーラはK氏を確かに2年前の湖畔での告白までは好きだったことを認めた。ただし、それは今や終わっているという。しかし、なぜ好きだったのに告白を拒否したのだろうか。この謎は後に解明される。

 さらに言い添えれば仮病批判は今でも当たっている。ドーラの病は父とK夫人を引き離す試みに役立つのである。正面から訴えても、説得を試みても、自殺を仄めかしてもダメなら病気になってやれというわけだ。これは疾病利得の例である。

 ところでこういった点を捉えて、ヒステリー性の体の麻痺などがあっても火事にでもなれば走って逃げ出すだろう。ヒステリー全体が仮病であるという考えもあるが、これは意識と無意識の差異を考慮に入れていない点で無効である。

 無意識は意識的な意志によっては介入困難で、そのためにこの種の非難は効力を発揮しないとフロイトは述べている。逆に言えば、精神分析とその対象としての無意識は、原理的には可能なのに意識的な意志によっては「どうしてもできない」ような事柄に関わるのである。

1-3、ドーラの諸リビード関係―強すぎる意識的思考の背後には何かが隠れている…

 さて、ドーラは父の非難を止めず、父とK夫人との関係という問題に執着し続けていた[以下本項につきⅤ:214-224=6:64-77を参照]。それについてのドーラの意見は正しいが、その執着は意識的な思考では全く取り除けないという点で―この関係を批判する資格もないし、母と仲が冷えきっている父の新しい幸せを喜ぶべきだとする兄と引き比べてみればより明確になるように―何がしか強すぎる思考である。

 一般に意識的合理的な思考では取り除けない感覚や考えには無意識の源泉がある。(1)その思考自身が無意識の根と繋がっているか、(2)あるいはそれと関連する思考、しばしば反対の思考が無意識にあるのである。最後の例が無意識の傾向を抑え込むために意識に反対の傾向を強化すること、フロイトのいう反動形成である。

 (1)から考えてみよう。まずは無意識的な父への恋着、つまりÖKが父をめぐる嫉妬の無意識の根として明らかになる。ドーラは早熟な子として父の看病を任されていたため、そこには強い情愛が形成されたのだが、K夫人はこの地位を奪ったのである。

 ドーラはÖK的な欲望について思い出すことはなかったが、彼女がいわば自分の子ども時代の鏡としている従姉妹を持ち出して、その子が7才のときの父母のけんかに際して、母が憎い、母が死んだら父と結婚すると言っていたことを思い出す。もちろん、歪められた形での無意識のYesである。私たちはしばしば、自分の言いたいことを、自分の言葉としては言うことができず、他者の言葉として語るのだ。

 しかし、父への愛は長い間表明されず、K夫人との関係を手助けさえしていた。ならば、この父をめぐる嫉妬はいつかの時点で強化されたのであり、きっかけがあるはずだ。こうして(2)の契機を考える必然性が生じる。すると、これが強化されたのは湖畔での告白の拒絶以後だと分かる。告白を拒絶したことに後悔があってK氏との関係は終わったものと考えたくなり、その愛を隠すために父への愛が上昇してきたのである。K氏への愛はまだ続いていたのだ。

 ドーラはこれを激しく拒否するが、もちろん、激しい抵抗は抑圧を示唆する。すぐに引き下がらず探求を続けなければならない。すると実際にドーラはK氏に面と向かって怒れないこと、街路ですれ違うと顔が青ざめたこと、また自分の誕生日には―おそらくK氏のプレゼントがないという理由で―不機嫌になることなどの状況証拠が出てくる。決定的な証拠は分析の最後に明らかになった。

 さらに事情を複雑にするのはもう一つの(2)に属する契機であり、K夫人への同性愛的恋着に由来する父への嫉妬である。それを隠すために父をめぐるK夫人への嫉妬という反対物が強化されたのだ。ドーラはK夫人ととても親密であり、K家に滞在していた時は二人で一緒に寝ていてK氏は寝室から追い出されていた。

 K夫人はドーラにはなんでも相談していた。ドーラはK夫人について「その魅惑的な真っ白の身体」などと、父をめぐって打ち負かされたライバルというよりは、恋する人のように語った。そして他人への非難を連発するドーラにあって、K夫人への非難だけは一つも聞かれなかった。

 だが、その愛の帰結はどうだったか。ドーラがK氏を告発し、父が書面でK氏に連絡したときたとき、K氏はドーラへの尊敬と誠実な対応を約束したが、数週間後に実際に対面すると、K氏はドーラがいかがわしい本を読んでいたことを持ち出して、すべてをドーラの空想とし、そのような少女は男性の尊敬を要求出来ないなどと言い放った。ここで決定的なことに、この種のいかがわしい本についてドーラはK夫人としか話したことがなかったのである。ドーラへの思いやりの背後に父への愛を隠していた家庭教師同様、K夫人もやはりドーラではなく父を大事に思っており、父との関係を守るためにドーラを裏切ったのである。

 父をめぐる嫉妬では父がドーラを犠牲にしたことが問題となるが、それが強調される背後には、K夫人をめぐる嫉妬において夫人がドーラを犠牲にしたという考えが隠れており、こちらの方が外傷的で、自殺企図や厭世観や気分変調や性格変容の病因としてひょっとすると強力であって、だからこそそれはより深く無意識へと抑圧されていたのである。

 ドーラが性知識の源泉について断固として抑圧していたことは、この裏切りの強い抑圧を指し示しているかもしれない。実際、その源泉はK夫人でしかあり得ないのであり、その点においてこそ夫人はドーラを裏切ったのである。フロイト曰く、このような男性的あるいは女性愛的な感情の流れはヒステリーの少女に典型的である。

1-4、二つの夢、いくつかの謎の解明、治療の中断―ドーラの「否」

 分析全体に統一をもたらし、残った謎を解明してくれた二つの夢の解釈の紹介は、真に中核的な部分にのみ限る。最初の夢[Ⅴ:225-255=6:78-119]は、火事で父に起こされる夢であり、宝石箱を気にする母に対して父は子どもを心配してさっさと外へと連れ出そうとする。ドーラも素早く着替えて外に出た―というところで目が覚める。

 これを最近再び見たのだが、もともとは湖畔での告白直後のK氏宅滞在時に三度続けて見たのだった。

 K氏の告白を拒絶した後、K氏宅で昼寝をして目が覚めるとK氏が目の前に立っていた。身の危険を感じたドーラはK夫人から部屋の鍵を手に入れるが、次の日には無くなっており、この危険な家を離れることを決意した。着替え中にはK氏がはいってくるのではないかと「素早く着替え」なければならなかった。実際、鍵がなくなって、以上の決意が生じてから3日ほどK氏宅に滞在しており、三度続いた夢がこの脱出の決意を表現していることは明白である。

 そこに含まれる願望の要素は父の役割に現れている。ドーラをK夫人と交換しようとする父がそもそもこの危険な状況を招いたのだが、父は本来助けてくれるはずの人であり、だから目が覚めたら目の前にいる人が現実のK氏から父に置き換えられて、ドーラは危機を脱するのである。この湖畔で見られた夢は先に確認したK氏から父への対象交換を表現している。しかるに、なぜこの夢はまた反復されたのか。またもや父がもたらした危機―分析―から逃れたいのである。

 母が気にしている宝石箱はまた別の方向を指し示す。宝石に関しては数年前に母が欲しい宝石があったのに父がそれを気に入らず別のものを買ってきた際、母がそれをはねつけたということがあった。ドーラはおそらくそれを欲しがったのであり、母がはねつけた父との関係を自分は引き受けたかったのである。

 ところでドーラはK氏から宝石箱をもらったことがあった。つまり宝石箱という要素はK氏への感謝をも表現しているのだ。夢の中で目覚めたときに目の前にいるK氏が父に交換されているとすれば、母をK夫人に交換してもよいはずで、宝石箱のモチーフの裏には、K夫人がK氏に対して拒んだものをドーラはこれまでの感謝の気持ちから引き受けたいという思考が隠れているように見える。

 それは宝石箱の贈り物に別の宝石箱でお返しをすることだろう。もちろん、フロイトによれば箱は女性器を象徴する。これが深層に抑圧されている思考であり、K氏への恋着を表現する。

 続いて第二の夢の内容を簡単にまとめよう[Ⅴ:256-274=6:120-146]。見知らぬ町を散歩して、家に帰ると母の手紙があった。そこには「あなたは勝手に家を出て行ったから、あなたに父が病気だと伝えたくなかったのだが、いまや父は死んだので帰ってきたければ帰ってきなさい」と書かれてあった。

 しかし、実家に帰ろうとすると駅が見当たらず、「駅はどこか」と100回も人に尋ねたのだが、あと5分だといわれるだけで駅にはたどり着けなかった。その後、どういうわけか森に入り込み、そこで男に尋ねると後2時間半だと言われた。男が案内を申し出たが、自分は同行を拒否した。そうこうするうちに、いつの間にか実家に着いていたのだが、母や他の人々はすでに墓に行っていると家政婦が言う。

 さて、最終的にフロイトは夢に四つの思考の流れを見出す。一番見やすいのは自分を見捨てた父への復讐であり、父はドーラが勝手に家を飛び出すから心を痛めて死ぬのである。それをドーラは悲しまない。

 二番目はK氏への復讐であり、これは森が湖畔の森を思い出させること、2時間半という数字が湖畔でK氏を拒絶し歩いて帰ろうとした際に、K氏宅までかかる時間として道を尋ねた男に言われた数字だったことに示唆されている。つまり、夢のこの辺りは一貫して湖畔の出来事を示唆しており、潜在夢思考はK氏への「同行の拒否」である。

 第三と第四は、見知らぬ町のさまよいと森を抜けて駅へ向かうというモチーフに注目することで見えてくる。見知らぬ町のイメージは前日に見た「写真(Bild)」から取られていたが、その写真集は、ドーラを慕い求婚を考えているが、いまはそのために異国の地ドイツで身を立てようと努力している若い男性が送ってくれたものだった。ドーラはここで見知らぬ異国の地をさまよう男性に同一化しているわけだ。

 さて、「駅はどこか」と夢でドーラは尋ねているが、夢の疑問は現実の疑問を反映しており、実際、前日に先の写真集がはいった「箱はどこか」と尋ねていた。つまり、「駅 = 箱」であり、要するに女性器である。この読みはさらに昨日ドーラが見た「森」の「絵(Bild)」を考慮に入れるとさらに確からしくなる。それでは森の奥に「ニンフ」が描かれていたというのである。

 「森」の奥には「駅 = 箱 = 女性器」があるのだが、この連関は更なる詳細を含んでおり、「森 = 陰毛」の奥の「ニンフ = 小陰唇2)実際、ドイツ語ではニンフにそのような意味がある。」という「性的地理学」を形成しているというわけだ。とすれば、夢の潜在思考は性交空想であり、K氏への愛を継続するとともに、男性に同一化しているという面からすればやはりK夫人への愛が隠されていると見てよいだろう。これが第三と第四の思考の流れである。

 ところで小陰唇の意味での「ニンフ」はフロイト曰く専門的用語であり、この知識は何か辞書的な書物から得られたはずである。この解釈は何がしか力があったようで、ドーラは夢の最後に自分の部屋にいって静かに本を読んだと付け加える。ドーラはそれを辞書だと認めるが、性的な内容ではなく叔父がかかっていた盲腸炎について調べたのであり、それが腹部の局所的な痛みを伴うことを知ったと言う。

 さて、ドーラ自身のちに盲腸炎にかかり腹部の局所的痛みを経験した。フロイトはこれをヒステリーの文脈に入れるべきかどうかは保留していたのだが、それと同時にヒステリーの発症以来不定期になっていた生理が到来したこと、そして病後に足を引きずるようになり階段を避けるなどの不自然な後遺症が残ったので、そこには意味があることが予感された。

 果たして、この盲腸炎は湖畔での出来事の9ヶ月後だった。つまり、ドーラは無意識的空想の中ではK氏を拒絶せず「踏み外し=不倫(Fehltritt)」をしていたのであり―だから足を引きずるのだ―今や性器からの出血と腹痛で出産を経験しているのである。

 フロイト曰く、ヒステリーの症状は完全に形成されると「性交、妊娠、出産」などの性生活の空想的場面を表現する。これが先に予告された未だ続いているK氏への愛の証拠であり、ドーラはもはやそれを否定しなくなった。

 二回のセッション、つまり2時間をかけて夢を解明し終えたのだが、三回目、ドーラは突然今日で最後だと告げる。2週間前から今年中で終わりだと決めていたのだという。はじめは1年間を了承していたのに分析は3ヶ月で終わることになった。

 フロイトはこのドーラの語りを家庭教師や下女が2週間前に退職願を出すのに似ているとコメントする。すると決定的な想起が出てくる。そのような家庭教師が湖畔の滞在の際にK氏宅にいたのである。その家庭教師はドーラに自分がK氏に「私はもう妻とは何にもなくて…」などと言い寄られて関係を持った後に捨てられたことを告白していた。家庭教師はK氏の心変わりを期待したが実現せず、結局辞めていった。

 ドーラはこの種の自分に都合の悪い話を無視していたのだが、現にK氏に言い寄られたとき、K氏はまさに家庭教師に対するのと同じ言葉を使ったのである。こうしてドーラによる、好意を持っていたK氏に対する拒絶の謎が解明される。それは家庭教師への嫉妬であり、自らを家庭教師のような奉公人と同一視されたことによる自尊心の傷付きであり、総じていえばK氏の節操のなさへの嫌悪である。

 だが、実際にはドーラが母に告げ口するのに2週間かかっており、ここでドーラが家庭教師に同一化して、K氏が心変わりすること、つまり、この場合ではドーラを諦めないことを期待していたことは明らかである。とはいえ、ここで分析は終了する。K氏への気持ちの残存を認めていつもより真剣になり、最後の解釈には心動かされたようだが、ドーラは終わりに丁寧に挨拶して二度と来ることはなかった。

 フロイトは、このドーラの突然の拒絶を転移の観点から解釈している[Ⅴ:275-286=6:147-161]。転移とは何か。治療中は新しい症状形成は停滞するが、神経症の生産性は「転移」という名を与えられるべき新しい無意識的思考を形成する。

 転移とは分析で呼び起こされ意識化されるべき蠢きや空想の新版であり、かつての対象を分析家に置き換えたそれである。かつての心的体験が過去のものとしてではなく医者との間の現在のものとして活性化される。それは抵抗のために利用されるが、転移の解消の後で―つまり、それを単に反復的に上演するのではなく、過去の想起に差し戻すことによって―のみ、分析において「構築」された連関が説得力を持つので避けてはならない。このことについては鼠男を想起しよう。

 今回の分析では適切な時に転移を支配出来なかったのだとフロイトは言う。はじめフロイトは父を代理しており、ドーラから父のように不正直ではないかと疑われた。つづいて第一の夢ではK氏を去ったのと同様に治療を去ろうという決意が表出されるが、ここで転移について警告しておけばよかった。そうしたらフロイトとドーラとの関係の中からにK氏との関係に関わる隠されたものが出てきただろうし、転移の解消によってそれを素材として使えたはずである。

 しかるに、フロイトの中のK氏を思い出させるXのために―精神分析からすれば同一視や同一化にはたった一つの特徴で十分である―ドーラはフロイトをK氏と同一視し、復讐のために分析をやめたのである。治療の希望を打ち砕き、その無能を示すことこそ医者への最高の復讐なのだから。Xはお金か他の患者への嫉妬に関わると思われた。

 こうしてK氏にかかわる記憶と空想は想起され意識化されるのではなく反復的に―復讐劇として―演じられてしまったのである。フロイトが夢の「同行の拒否」を解釈するはずのところで、ドーラはフロイトに「同行の拒否」を言い渡すわけであって、この拒否は、父とK氏への復讐が重なり合い、「男はみんな汚らわしいから私は結婚しない。これが私の復讐だ」という意味を持つのである。

 さて、ドーラは1年と少しが過ぎた4月に再度訪問してきた。助けを求めていたが表情で真剣でないのが分かる。その語るところによれば、治療後1ヶ月ほど混乱していたが、後に改善し、発作がへり、気分が良くなった―フロイトに言わせれば医者への復讐の意図だけが改善を妨げていたのである。

 5月にK夫妻の子どもが亡くなり、ドーラはK夫妻を訪問した。何事もなかったかのように迎えられるが、K夫人に父との関係を認めさせ、K氏に湖畔での出来事を認めさせるという仕方で復讐をやり遂げ、和解し、関係は清算され断ち切られた。このすっきりした結末に分析による無意識の願望の意識化の肯定的成果を見出すことは許されるだろう。

 ドーラはK夫人と父との関係はもはやあまり気にしておらず(というのは、それは一つにはK氏とK夫人への愛を隠すために強化されたものだったからだ)、学問に集中し、結婚するつもりもないと続ける。2週間まえから顔に神経痛があるというのだが、これはフロイトの記事を見たことがきっかけであり、フロイトへの復讐、つまりK氏への平手打ちを、今度は自分に対する罰として執行しているのであった。だからフロイトはそれを許すと言明した。

 この背景にあるフロイトの解釈を明確にしておこう。フロイトが解釈したところでは、ドーラは真の復讐をやり遂げて今やフロイトに対して不当にしてしまった復讐の贖罪を求めていたのである。それが顔の神経痛として表出されていることは、ドーラがフロイトを、告白の際に平手打ちを食らわせたK氏と同一視していたことを証明しているというわけだ。この解釈を通じてフロイトは単に許すと言明するだけでドーラの助けの求めに答え得たのである。

1-5、フロイトの反省―ドーラの同性愛について

 フロイトは先にドーラの復讐を「男はみんな汚らわしいから私は結婚しない。これが私の復讐だ」と定式化したところに重要な注を付けている。

この分析の終結から時間が経つほどに、私の技術的な失敗は以下の怠りに存していたのだとますます思えてきた。つまり、私は、K夫人に対する同性愛的(女性愛的)な愛の蠢きがドーラの精神生活の無意識の流れのうちで最も強いものだということを見抜き、患者に伝えることを怠ったのである。ドーラの性的な事柄への知識の主要な源泉はK夫人以外ではあり得なかった、つまり、ドーラをのちにそのような対象への興味によって糾弾した張本人以外ではあり得なかったのだと見抜いていなければならなかったのだ。ドーラはすべての「いやらしい」ことを知っていたが、それがどこから来たのかを決して知りたがらなかったことはあまりに明白だったのである。この謎に取り組み、この特異な抑圧の動機を探っていなければならなかったのだ。そうしたら第二の夢が私にそれを漏らしてくれただろう。この夢が表現を与えている仮借ない復讐欲はその反対の流れを隠すのにこの上なく適していたのだ。つまり、愛するK夫人の裏切りを許し、K夫人こそがドーラに嫌疑をかけるのに利用された知識の開示をそもそも行ったのだということを誰からも隠したドーラの高貴さである。精神神経症者における同性愛的な流れの意義を認識する前には、私はしばしば治療において行き詰まり、あるいは完全な混乱に陥ったのだった。[Ⅴ:284=6:159]

 さて、注の内容と位置は、フロイトがドーラの男性への復讐、フロイトに向けられた復讐、その「否」に、ドーラの同性愛的な流れを関連づけていることを示している。男性への敵意と女性への愛、この連関はフロイトの女性論の根本的テーマである。だが、先に進む前に、この注の観点からドーラの症例がどう読み直せるかを考えておこう。三つの読み替えを提示したい。

 (1)フロイトはドーラのはじめの症状、ぜんそくないし呼吸困難を、自慰の抑圧と肺病の父との同一化に帰着させていた。ドーラはそのころ病院に連れて行かれるほどひどい「おねしょ」に悩まされており―そして「おねしょ」はフロイトにとって子どもが性器興奮を表現する唯一の手段として自慰の証拠である―、その直後にぜんそくを発症したのである。

 ちなみに言い添えておけば、フロイトがこの自慰の解釈を展開したときに有名なドーラの「がま口財布いじり」が生じた。フロイトに言わせれば、ドーラは口では自慰を否定しつつ、その財布をいじる症状的行為で秘密を漏らしているのである。

 この連関との関わりに入れられるべきなのは、フロイトが近くの注で書いていることだろう。ドーラはこのはじめの病までは兄に遅れをとることはなかったのだが、そのあとから勉強では兄に勝てなくなったと訴えている。つまり、ドーラはそれまでは兄と張り合える男の子であり、そのあとで初めて女の子らしくなったかのようなのだ。実際、ぜんそくまでのドーラはおてんばであり、ぜんそくの後で初めておとなしく行儀よくなった。「この病気が彼女において性生活の二つの時期の境目、はじめの男性的な性格と後の女性的な性格の時期の境目を形成していたのである」[Ⅴ:244=6:105]。

 フロイトの基本的な考えによれば、男児にとってと同様、女児にとっても膣は思春期頃まで発見されない。女児の幼児期自慰はクリトリス性愛であり、それはファルス的なもの、つまり男性的なものである[ⅩⅣ:26-27=19:210-211][Ⅴ:121-123=6:282-284]。これが断念されたり抑制されたりすることは性の男性的編成が断念され抑圧されることである。

 とすれば、私たちは先の連関を以下のように考えることが出来るだろう。まずドーラは自慰を断念する。フロイトが示唆するところでは、それは白色カタル、つまり、ある種の「おりもの」のためであり、そのために自慰は抑圧されると鼻風邪の意味でのカタルとして表出されうるのである。すなわち、ぜんそくである。

 そして、そこには父との同一化という意味が付け加わるのだ。だが、本質的なことはクリトリス性愛の断念による男性性の抑圧と女性性の構築であり、これは先のドーラの兄とのライバル関係をめぐる発言に明らかなのだが、この男性性の抑圧によって、男性たる父との同一化が症状として表出されるようになるのである。

 (2)フロイトはドーラの口に関わる症状に複数の意味、つまり「重層決定(Überdeterminierung)」を認め、父への同一化、失声に見られるK氏への愛に加えて、父とK夫人に関わる口唇を使った性交を指摘している[Ⅴ:206-207=6:55-57]。

 ドーラはK夫人の父への愛を父の「財産(Vermögen)」に帰着させようとしていたのだが、その語りは何か反対の考えを予感させた。つまり、父の「Unvermögen(無能力)」、すなわち、性的不能である。しかし、父が不能なら愛の関係はないのではないだろうか。そういうとドーラは性器によるものだけが性的満足ではないと答える。他の器官による?そうだ!口?そこまでは考えていなかったと問答は続く。

 フロイト曰く、意識において考えられていないからこそ症状が口において可能だったのである。咳はのどにおけるむずむず感がきっかけだったが、それによって口による性的興奮と満足とを想像していたのだ。この解明の後に咳は消失したが、フロイトは咳の消失はしばしばあったのでこれを過大評価するべきではないという。

 フロイトは明らかに、これをK夫人に同一化しての父との口唇による性交の空想と見なしているのだが、しかるに、素朴な疑問は父が不能なら口唇によってだって性交など不可能ではないかということである。すると、口の症状が父との同一化を表現しているという事情もあるのだから、K夫人との同性愛という文脈からは、これは父と同一化してのK夫人との口を用いた性交空想と解されるべきだろう。

 (3)最後に自殺企図である。ドーラが自殺という事象に触れたのは、自殺しようとしていた父をK夫人が森で見つけて引き止めたという話においてである。ドーラは意識ではこれを逢い引きがばれた時の言い訳の嘘だと考えていたが、フロイトがこの出来事を通じて自殺はドーラにとって愛の関係への要求を意味するようになったと言っていること[Ⅴ:191=6:37]を読み替えれば、自殺企図はまさしくK夫人に助けてもらうことへの要求、K夫人への愛の要求を意味していたのだと言えるだろう。

 このように私たちは与えられている素材についてドーラのヒステリーを最も深く抑圧された同性愛的関係から読み替える―男性性の抑圧、父との同一化、K夫人との愛の関係―ことが出来るのだが、いかんせんフロイトの関心が分析当時それに向かっていなかった以上、この方向で話を進めるには素材が足りなすぎる。

 フロイト自身にとってもそうだったのだろう。だからこそヒステリーの根底にある女性の同性愛的欲望についてより探求を深めるために別の症例が書かれなければならなかったのである。それがつまり「女性同性愛の一事例の心的成因について」である。

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補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(2)
第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(2)

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

References   [ + ]

1. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
2. 実際、ドイツ語ではニンフにそのような意味がある。
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