第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(2)

2、「エディプス・コンプレクス」とその運命

2-1、エディプス・コンプレクス―初めての真剣な追求、初めての失敗の場面

 さて、もっとも総括的に述べれば、ファルス期に生じ、そこで性対象と性差との基本的な引き受けが遂行される場所が、エディプス・コンプレクス(ÖK)と去勢コンプレクスの二つのコンプレクス、つまり、心的複合体である。エディプス・コンプレクスはまさにそこにフロイトの全洞察が結集する地点、ある意味ではそこに「全てがある」地点であって、その深みを汲み尽くすには様々な角度から何度も重ね書き的にアプローチすることが必要になる。

 何はともあれ、私たちなりにこのÖKの理解の出発点となるような地点を見つけ出すことを試みよう。私たちがこれを解釈していく上でのモットーは、ÖKとは、フロイトが「人がそもそも人を好きになり愛することを学ぶのはどこにおいてか」という問いに与えた答えであり、にもかかわらず同時に「人が初めて失敗し挫折し断念するのはどこにおいてか」という問いに与えた答えでもある、というものである。

 さて、前半から見ていこう。私たちは「異性間性器性交の自然主義」を放棄しているし、そもそも「欲動」に必然的に特定の対象が対応しているとは考えていない。「欲動」は満足されうる限りで幅広い対象を許容するのである。とすると、人はそもそも人を「自然に」好きになるわけではないことになる。しかし、多くの人はやはり人を愛するようになるだろう。なぜだろうか。

 フロイトの答えは、人は養育者が欲動を満たしてくれる経験、自らを愛し慈しみながら養ってくれるということの経験、養育者が本来的に逃れ得ない欲動不快である「自分」から「私」を救い出してくれるという経験から、何か他のものではなく人を愛するということを学ぶのだ、というものである。養育者は私たちを逃れられない不快としての自分自身から、つまり「寄る辺なさ(Hilflosigkeit)」から救い出してくれるだけではない。養育には不可避的な「性感帯」の呼び起こしとその満足が含まれている。フロイトの印象的な叙述を引こう。

子どもの養育者との交わりは、子どもにとって性感帯から発する性的興奮と満足との、止むことなくこんこんと流れ出す源泉なのであって、とりわけ養育者―通例ではやはり母である―が、彼女自身の性生活に由来する諸感情を贈り与えるときには、つまり、子どもにキスをし、愛撫をし、その体を揺すってあげたりして、全く明白に完全な性的対象の代わりとするときには、そうである。[Ⅴ:124=6:285]

 この過程を通じて子どもは性欲動を呼び覚まされ、それが満たされることで母を欲動の対象とする。子どもは人を愛することを学ぶのである。だから、こういうと母は自分が子どもの官能を目覚めさせているということにぎょっとするかもしれないが、むしろ母はこうして「子どもに愛することを教え」「自らの課題を果たしている」[Ⅴ:125=6:286]というわけである。

 しかるに、ここに問題が生じる。自己保存欲動に依拠する「寄る辺なさ」からの救い出しという養育の経験が子どもに養育者への純粋な「情愛(Zärtlichkeit)」を育てるとすれば、いま言及した側面は、それは性欲動が自己保存欲動に「依托」して生じる以上不可避なのだが、子どもの養育者への関係に「官能(Sinnlichkeit)」の側面を導入してしまう。

 そして、ここが問題なのだが、子どもとって初めての真剣な追求であるこの愛の追求は、それが「官能」の成分を含み、「独占欲」へと発展することで、何らかの理由で、例えば身体の未発達、養育者のパートナーの存在や養育者の社会関係一般の存在、他の子どもの出現といった諸々の出来事によって、その全体性においては必然的に失敗し、挫折し、断念されざるを得ない何かとなってしまうのである。

 フロイトがしばしばするように「(性)愛(Liebe)」を「情愛(Zärtlichkeit)」と「官能(Sinnlichkeit)」に分けた時、注目するべきは、理由は不明確であるものの両者の重なり合いにおいてのみ「独占欲」が問題になるように思われることである。

 単に高い心的価値評価である「情愛」の関係、例えば言うところの「家族愛」においては「独占」など問題にならないし、また単に性欲解消を目的とする「官能」のみの関係もそうだろう。

 しかるに、ÖKにおいてはまさにこの両者の「重なり合い」が生成し、その追求が失敗するのである。養育者への関係が「より古い」[Ⅷ:79=12:232]「情愛」だけなら何の問題もない。ただ、それが「官能」を孕み、独占欲によって特徴付けられる「性愛」になることによって、その失敗が必然的になる。

 この失敗・挫折・断念の過程においては必ず苦い失望や屈辱、そして場合によっては危険の経験―それは典型的には「独占欲」によって生じる養育者のパートナーへの敵意とそれゆえの復讐への不安に由来する―があるのであって、だから子どもたちはこの外傷的な不安をもたらす追求、基底にある「情愛」を「独占欲」へと高めてしまう欲動の「官能」的部分を意識から追い出すことで「抑圧」し忘れ去ろうとするのである。

 ここで原初的には一体だった「情愛」と「官能」が分離する。後で詳述するが、この分離を再統合することが青年期以降の重大な課題となる。

 さて、この抑圧過程を通じてフロイト的に言えば、ÖKは「原抑圧」を被り、無意識に追いやられ、無意識の中核をなす。言い換えれば、ここで経験された関係の形が将来その人が作りだす関係の形を無意識から規定する。ÖKというこの原初的な場面、子どもたちのこの最初の真剣な追求において「性愛」に対して、失敗・挫折・断念、危険や不安や外傷が強固に結びつけられる。そこは人が最初に失敗する場所なのである。

 フロイトは『快原理の彼岸』で行きがかりに、この原初の失敗が神経症者の自己無価値感を深く規定していると述べている[ⅩⅢ:19=17:71]が、こういうわけで「性愛」こそがとりわけて抑圧の場なのである。この幼少期の「原抑圧」されたものが連想関係を通じて思春期以後の性愛における経験の外傷性を拡大し、その出来事を無意識へと引き寄せる。

 こうして性愛は人間にとってもっとも弱く抑圧の生じやすい場所であり、そこにまっすぐ向かうことの難しい、その意味でもっともこじれてしまう場所となる。この意味において「神経症の病因」にとって性が特権的な場所であり、ひいては精神分析にとって性が特権的な対象になるわけだ。

 このように広くÖKを捉えた上で、その典型的な場合を取り上げよう。とはいえ、成熟期にあってフロイトは表ÖKと裏ÖKの不可避的な併存を強調していることに注意が必要である[ⅩⅢ:261=18:29]。しかし、母でなく父を対象にするものとして同性愛との関わりが深い裏ÖKは補論に回し、本章の趣旨に即してここでは男の子において表ÖKが強い場合で話を進めよう、

 そのメインストーリーは周知のごとく、ハンスにおいても見られた母への性愛的愛着と父への敵対関係であり、父との敵対に端を発する父からの復讐への不安、典型的にはフロイトが分析で持ち出すと大抵否定されるが、多くの場合に想定されざるを得ないとする「去勢不安」を媒介としたÖKの抑圧である。ハンスが去勢不安の部分的克服により、まさしく典型的な表ÖKを表出しうるようになったことを想起しよう。話を先に進めるまえに、この「去勢不安」について考えておこう。

2-2、「去勢不安」という問題―その諸源泉

 男性の「去勢不安」は女性の「ペニス羨望」とあわせて「去勢コンプレクス」と呼ばれる。「私自身、去勢コンプレクスなんてものは確実に誰からも拒否されると分かっている」[ⅩⅣ:408= 19:299]とフロイト自身が述べていたように、これは精神分析において最も馬鹿げているように見える教説である。

 実際フロイトも「去勢不安」という問題には苦労したようで、そのありそうもなさと分析における出現の頻度との落差に直面して、決して「去勢の脅し」には還元できないとみなし、どんなに些細なほのめかしによっても作動すると想定しなければならないとする[Ⅶ:246=10:7]など、理論的な苦闘の跡が見える。

 実際のところ、その帰結としてしか解釈され得ない諸作用の存在のみがそれをもっともらしいものとして現れさせる―「補論」でいくつかそういった事柄を提示出来るだろう―が、それは以後述べることとして、ここではその普遍性を示唆する、その作動の諸要因に議論を限定しよう。その議論の動機は、ありそうもないのにもかかわらず想定されざるを得ない以上、その存在に説明を与えなければならないというものである。

 第一は、これは先に去勢コンプレクスは「性差の知」の意味作用を名指そうとする試みだとして述べたことだが、これが誰でも大人になれば持っている、その意味で普遍的な「性差の知」と結びついていることである。私たちはあまりに性差の意味、つまり、性器の差異を自明視しており、それを知るという経験がどのようなものであり得たかに思いを致すことがない。

 だが、フロイトに言わせるとファルス期の男の子は自分にとってかけがえのない快の場所であり、「自我」の核心ですらあるペニスが人間に欠けているなどとは思いもよらず、先にハンス少年で確認したように、誰もがそれを持っていると思っている[Ⅶ:177=9:294]。

 したがって女性器を初めて見る経験は、単に別の性器があるということの知覚としてではなく、男の子の「心的現実」にとっては「不気味で外傷的な」「去勢恐怖」[ⅩⅣ:314=19:279]として、ペニスの切断の結果として感受される。女性器は男の子にとってはまずもってこの切断の傷跡として、つまり「去勢不安」をもたらすものとして立ち現れるのだ。

 この外傷性こそ、フロイトが指摘しているように、私たちが性差の知の決定的な瞬間を忘れ、それを単に自明視する理由ではないだろうか。ひょっとすると、「去勢コンプレクス」の最終的根拠は、それまで幼児は全ての人間が同じだと思っていたのに、突然にソコに存在する差異に直面することで、そこで差異を知覚しつつも自分をその異なる側と重ねあわせてしまってもいることに求められるのかもしれない。

 男児はそれまで自らと同じだと思っていた女児と自らを重ねあわせてもおり、ペニスが無くなるかもしれない去勢不安を覚え、他方で女児も同様の論理でペニスを持ちたいというペニス羨望を抱くわけだ。言い換えれば、「去勢コンプレクス」とは、人間が人間として一つでありながら、男と女として二つであること、この根源的事実の意味作用なのかもしれない。人間が人間として一つでありながら、男女として二つであるという、この不可思議な事実が子供にもたらす衝撃の余韻が、「去勢コンプレクス」だということができるのかもしれない。

 第二にやはり考えるべきは、先に理論的に正当化を試みた子どもの性器いじりの頻繁さであり、際限を知らないそれを親は何らかの仕方で、極端な場合は「去勢の脅し」によって止めさせようとする、禁止するということである――この辺りの事情については先に述べたようにインターネット上でいくらでも母親たちの「質問」「相談」を見ることが出来る。何にせよ、子どもたちは親がそれに合意していないことに感づくわけだ。

 続いて第三に重要なのは、先に確認したように「情愛」に「官能」が混ざり合うとき、「愛」は「独占欲」を孕みはじめ、父との敵対関係と復讐への不安が逼迫したものとなるのだが、ここで「官能」的次元において性器の中心性が確立されている以上、子ども自身、父との敵対関係で問題的なのは性器だと感じているであろうことである。ハンス少年は父母のキスを見ると泣いたが、このことは「性感帯」において生じる「官能的」行為こそが彼の独占欲を刺激したことを物語っている。

 さらに第四に考慮するべきは、フロイトが去勢を準備する諸々の経験として名指しているものである。去勢とは身体の一部が身体を離れ去ることだが、子どもは、出産、離乳、排泄を通じて身体の一部が離れさるということをすでに経験しているのであり[Ⅶ:246=10:7]、その種の経験の可能性を受け入れやすくなっているのである。ハンスは扁桃腺切除を経験していた。

 そして、去勢がこの系列に加わったとき、「身体から切り離しうる小さなもの」という共通性に基づいて、「子ども=うんち=ペニス」という象徴方程式が子どもの心の中で確立されることになる[ⅩⅡ:116=14:88]。少し先の部分で、この種の象徴方程式という発想への疑義を払拭するよう試みよう。

 最後に重要なのは、これは夢や私たちの言語一般において「性的なもの」が持っている象徴表現における特権的な地位と関係することだが、子どもの原初的世界経験が性的次元をはらむ「快-不快」を軸として立ち上がってくるがゆえに、性的次元が子どもの世界解釈の原点となり、様々な経験が象徴的に性的次元と関連づけられるということである。

 そうであるがゆえに、例えば狼男においてそうであったように、「仕立屋」が狼のしっぽを引っこ抜く場面のある祖父が語った物語や、父が傘で蛇をバラバラにした話など、多くのものが去勢を示唆しうるのである。ところで「仕立屋」はドイツでは「Schneider(切る人)」という恐ろしい名を持つが、この連関は狼男がロシア人である以上は重視するべきではないのかもしれない。

 さて、以上で述べた点をもう少し厳密に規定するため、「性的なもの」が持っている象徴表現における特権的な地位の問題をここで考えておこう。「無意識」では連想関係にしたがって簡単に表象の連関が生じるのであり、夢を作り出す「夢作業」はこの無意識の法則に従う。だから夢の諸要素はしばしば象徴表現であり、それと似てはいるがそれとは別のものを、いわば「隠喩」的に指し示す。

 しかるにフロイトはここである種の要素は基本的に常にある特定のものを指し示すと言う。ドーラ症例の夢解釈に出てきた例で言えば、「宝石箱」は女性器なのであり、「鍵」は男性器である。フロイトによればこの種の恒常的関係性が存在するのは常に性的なものとの連関においてであるという。これが「性的なもの」が象徴表現で持っている特権性である。

 あるいはまた私たちはここでいわゆる「下ネタ」の問題も考えることが出来よう。「下ネタ」とは性的でないものが性的な含意を持ち始めるときに作用するものであり、性的なものを性的でないもので表現する隠喩的-象徴的表現である。

 さて、「あるもの」を「何か別のもの」で表現するという、隠喩的象徴的表現において、私の知るかぎり、「性的なもの」以上に中心的な地位を持つものは存在しない。ジジェクはこのことを「すべてが「アレ」を意味しうる」と表現しているが、例えば「アレ」「アソコ」「ナニ」などのもっとも一般的な指示語が単体で用いられるときに何を意味してしまうかを考えればこのことをすぐに了解出来るだろう。

 さて、問題はこれが何に由来するかなのだが、ある意味で答えは今までに述べたことの繰り返しでしかない。第一は、性的なものが私たちにとって、とりわけ幼児期においては極めて重要だということである。それは幼児にとってそこから世界が解釈されるような場所なのだ。

 第二は、それが抑圧されていることである。抑圧されていて直接に言いづらいから象徴的表現が必要になるのだ。ハンスのキリン空想にはらまれていた性的象徴表現を想起しよう。だが、もっとも決定的なことは第三に、この「抑圧」を日常的な意味でなく厳密にフロイト的な意味で解することである。

 すなわち、「性的なもの」はÖKで両親との関係の「官能的」部分が抑圧されることで「原抑圧」を被っており、無意識の中核をなしているのだが、このことはそれらが意識とは全く別の思考法則、連想関係によって際限なくネットワーク上に結びつくあり方、幼児の思考方法であり、大人にあっては幼児期の心の残滓としての無意識にのみ残存している、フロイトのいわゆる「一次過程」に従属していることを意味する。

 だから、「性的なもの」は何がしかの仕方で類似しているものを際限なく「ヒコバエ」として自らに結びつけていくのである。「性的なもの」の象徴関係における中心性は、例えば「下ネタ」なるものの存在は、この種の無意識の存在とその中核に性が存していることとのもっとも身近な証明の一つである。

 こうして例えば多くのことが去勢を指し示す隠喩として無意識によって利用されうるし、またそれが去勢の隠喩となることによって、多くの行動が「制止」を被るようにもなる。再び狼男に触れるなら、仕立屋が狼のしっぽを引っこ抜く話が去勢コンプレクスに組み込まれていたがために、彼は仕立屋との間に苦悩に満ちたグロテスクな症状的関係を持っていたのである。彼は仕立屋を極めて高位の人物であるかのように扱っており、彼らに対して怖じ気づいていて、過剰な謝礼を払うことで取り入ろうとすることが常だったという[ⅩⅡ:119=14:93]。

 精神分析が主張する「子ども = うんち = ペニス」といった象徴方程式は一見馬鹿げたものに見えるかもしれないが、それは幼児の思考過程が知覚的な類似性―この場合、「身体から切り離しうる小さなもの」―に基づいて連想的にあらゆるものを結びつけていくということを忘れている。

 この一次過程的な思考法を私たちは「下ネタ」の存在、つまり、すべてが性的なものに結びつき、性的な含意を帯びうるという節操のなさにおいて予感しうるのだが、そのことは「原抑圧」で「受動的に後ろに留まる」ことの帰結として、私たちの意識とは異なる幼児的な思考過程が私たちの中に残存しており、その中心に性があるということ、つまりフロイト的な無意識の存在を正当化するのである。

 ところで、私たちはしばしばペニスが息子などと呼ばれるのを聞く。誰でも知っていることだが、「息子」、つまり子どもとは母胎から産み落とされ、身体から離れていくものである。かく日本語も先の象徴方程式を共有しており、私たちの意識が知らぬ間に去勢の知を自らのうちに保存しているのかもしれない。

 またドイツ語ではWurst(ソーセージ)が「うんち」も「ペニス」も両方意味しうることで先の象徴方程式に表現を与えている―そしてドイツではいたるところで適切な大きさのソーセージが売られており、毎日私たちにこのことを思い出させてくれる―が、注目するべきはハンスが一番お気に入りの空想上の子ども「ローディ」の名前をザッファローディなるソーセージから取っていたことである[Ⅶ:330=10:122]。

 ハンスはソーセージが「うんち」に似ていることを認めているから、その形態上の類似で「うんち = ソーセージ」が生まれ、さらに先の象徴方程式に従って「うんち = 子ども」が付け加えられることで、そのような名前が生成したのだと考えられるだろう。

 しばしばフロイトは何でも性に結びつけた屁理屈屋などと見なされているようだが、決定的なことはフロイトだけがそうなのではなく、下ネタという現象、すべてが性的な含意を持ちうるということに示されている通り、私たち自身が、とりわけその無意識がそうなのだということである。

 そして、私の知る限り、フロイトだけがなぜそのようになっているかを説明することを可能にし、その次元に介入する方法を見出したのである。つまり、繰り返しになるが、無意識は意識とは別の幼児的な思考法、一次過程に従属しており、それは知覚的な類似に基づいてすべてを節操なく結びつけるのだが、それが「原抑圧」を通じて私たちにも残されてしまっており、その中核には「性」があるということである。

 だから先の批判的な言明に対しては、フロイトが夢解釈について言ったことを繰り返しておかなければならない。フロイトは、『夢解釈』に奇異の念を抱き、著者を空想的と見なす見方に対して、夢自身が奇異なのだと言い返している[Ⅴ:168=6:8]。今の文脈に接ぎ木するなら、これはフロイトが何でも性に結びつける屁理屈屋なのではなく、私たち自身がそうなのだということを意味しているわけである。

2-3、 「超自我」の生成とその二重性―「強迫神経症」への移行

 さて、フロイトはエディプス・コンプレクスをそこに必然的な挫折や失望のために抑圧されることになるとか、ある一定の時期が来ると乳歯が抜けて永久歯が現れるように自然に没落するなどと一般的に述べることもあるが[ⅩⅢ:395-396=18:301-302]、典型的な事態として父との敵対とそれによる罰への不安、とりわけては去勢不安にその抑圧を帰する(「エディプス・コンプレクスの没落」「解剖学的性差の若干の心的帰結」他の後期の性理論関連の小論文を参照)。ここまではすでに見たわけだが、この後子どもたちはどのような経過を辿るだろうか。

 注目するべきは、これは自我が一応生成し、初めて自我として統一的な追求をはじめた後で、その追求に即して自我が初めてぶつかる禁止であり断念であるということである。ところで、私たちは自らの何かしらの追求について、それを禁止する直接の外的権威が現前していないにも関わらず、それを禁止されたものとみなして差し控えたり、禁止の自覚すらなしに「制止」を感じたりする。また一般に社会規範なるものの作用が信じられており、規範は直接の物理的な後ろ盾を超えて一定の力を持って人々の行動をコントロールしうると見なされている。

 しかるに、人間がそのような作用を被ることは自明ではないし、今のところ私たちのもとには、フロイト風に言えば、単に欲動の満足を求める快原理の「エス」と、それが現実検証の必要にかられるようになり、そこから分化した現実原理の「自我」しかなく、直接の外的脅威以外にその行動を制約するものは何もない。だが、先に見たように私たちには規範が作用する。とすれば、「自我」を指導する上位の審級のはじまりを、この自我が初めて直面する禁止に求めることは理にかなっているだろう。それがフロイトの言う「超自我」である。

2-3-1、「喪とメランコリー」について

 超自我の生成の機制を見るためには少々の遠回りが必要である。フロイトは臨床経験、具体的にはメランコリー、つまり「鬱病」の臨床経験を通じて、人がリビードの対象の喪失を、その対象を想像的に自らに取り入れることで代償するというメカニズムを見てとっていた。

 フロイトはメランコリーを神経症よりは重い精神病の範疇に入れているが、ドーラ症例の注において、その精神分析による治療可能性を主張している[Ⅴ:215=6:65]。曰く、メランコリーの症状は、気分が優れないという意味での深刻な気分変調を別にすれば、ある強すぎる思考、具体的には強すぎる自己非難なのである。

 なぜこれが治療可能なのか。私たちなりに補おう。精神分析の治療なるものが無意識化したものを意識化することで解消することにのみ存することを思い出せば、その強すぎる思考の無意識的源泉を明らかにし意識化することで、その強すぎる思考を弱めることが出来るのだと考えられるだろう。もちろん、フロイトはメランコリーの全てがそうだというのではないし、心因的でないメランコリーもあり得ると認めている。

 さて、フロイトがこのメランコリーについて詳しく論じたのが「喪とメランコリー」である。その議論を簡単に整理しておこう[以下に本項につきⅩ:427-446=14:273-294]。この論文では、通常の「喪」、強迫神経症的で病的な「喪」、そしてメランコリーという三つが相互に類似しつつ異なるものとして対照されつつ議論が進行する。ここでの「強迫神経症」論の下敷きになっているのは「鼠男」であり、それを読まないと本論文は適切に理解出来ないだろう。私たちは当該症例を次節で扱うのだが、ここでも適宜議論を補いながら進んでいこう。

 さて、「喪」とは対象が死別によって喪失された時に、それからリビード―普通に言えば「好き」という気持ち―を順次引き離していく作業である。それは痛みを伴う辛い過程だが、いつまでも死者に思いを寄せていては自分自身の生がままならなくなってしまう。最後には多くの人が死者への思いに殉ずるよりは自分の生を再び生きることを選ぶのである。

 この引き離しは長くとも一年ほどで終わるのだが、他方で病的な喪もあり、そこでは長さに限りがない。それは鼠男に見られた強迫神経症的な喪である。例えば、鼠男の主要な症状である「鼠刑が父に対して執行されるのではないか」という強迫観念は父の死後何年もしてから現れたし、鼠男は父が死んで何年経っても自分は父の死に対して犯罪的な責任があるのではないかという自責の念にかられていた。

 鼠男にとって父はまったく死んでいない。こんなことが生じるのは、「無意識化」され、そのために劣化することの無い感情関係が父との間にあったからである。そしてそれが意識には罪悪感として表出されている以上、それは父への憎しみ、父への殺意だと推測出来る。だからフロイトは喪の対象との関係がアンビヴァレントで憎しみを孕むときに強迫神経症的な病的な終わりなき喪が生じるという。喪に服する人は自らを―無意識の殺意のために―責め続けるのである。

 本論文ではフロイトが強調していないが決定的に重要なポイントは、繰り返しになるが、単に関係がアンビヴァレントなだけではなく、「憎しみ」の方が優勢な愛のもとで「抑圧」され、「無意識化」されていることである。だから、「憎しみ」は風化せず、それを罰する自己処罰も止むことはない。そして憎しみが無意識であるということは、この自己処罰は意識にとって不可解だということも含意する。意識が考える限り何も―少なくとも何年も自分を責め続けるほどに―悪いことはしていないのだが、自責感はいつまでも続くのである。

 以上が強迫神経症的な「喪」だが、それは通常の「喪」に「無意識の憎しみ = アンビヴァレンツ」が加わったものだった。ここからメランコリーに至るにはさらに「対象の取り込み」による対象喪失の代償という機制が必要である。これはフロイトがメランコリーの自己非難を観察した時、その最も強い非難がどうも当人には当てはまらないように見えたという経験にさしあたり依拠している。

 果たしてそうして考えを進めていくと、死別や裏切りなどといった―しばしばあまりに無意識化されており気付かれてすらいないような―対象喪失があったのであり、最も強い非難はその対象にこそ妥当するのである。メランコリカーは対象喪失を持ち堪えるために、無意識に対象を自己のうちに取り込んでいたのであり、そしてその対象を憎んでもいたために、いまや自己のうちでその対象を取り入れた部分を強く非難し続けるのである。

 フロイトの観察するところ、神経症者は自殺しないが、メランコリカーには高い自殺の危険がある。彼らは対象への殺意から自死にさえいたるというわけだ。フロイトはあるところで自分が取り込んだ、あるいは同一化している対象を、自殺によって同時に殺すことが出来るという場合でないと、人は自殺出来ないのではないかとさえ述べている[ⅩⅡ:290=17:259]。

 さて、以上から、本稿全体の文脈からすると余談となるが、メランコリーの通常の経過と治療過程についてのフロイトの構想を明らかにすることが出来よう。メランコリーも対象喪失に発するものとして喪と同様にリビードの引き離し過程に本質がある。特にアンビヴァレンツが成立しているメランコリーでは、対象への憎しみが対象への愛を引き剥がそうとして両者の戦いが生じる。その中で愛は対象の喪失に耐えられず、それを自らのうちに取り込む。

 すると、取り込まれた対象に対して憎しみは仮借ない非難を向けるが、それは現実には自己非難となる。ここにメランコリーの強すぎる自己非難が生じる。全過程のうちでここだけが意識的である。しかるに、この裏でも無意識においてリビードを引き離す喪の過程が生じているのであり、それが成功するならばメランコリーはいわば自然に解消することになる。そうでなければ、それはいつまでも続くのである。

 フロイトは十全なメランコリーの理論はメランコリーにしばしば伴う躁状態も理解可能にしなければならないとしつつ、それを明確に述べていないが、私たちとしては、それはひょっとすると意識化されている表面的な自己非難闘争における憎しみの瞬間的勝利と考えることが出来るのではないかと思う。

 愛が対象を手放さずに取り込み、憎しみがそれを非難する。この表面における闘争で憎しみが勝利した時、取り込まれた対象は外に放逐されることになるだろうし、自己非難として内攻していたエネルギーは外へと向けられる。自分が自分を非難するという仕方で浪費されていたエネルギーが一気に外的に使用可能になるのである―だから躁が生まれるわけだ。しかるに、それが表面における一瞬の勝利でしかない以上、より深層の喪の作業はさほど変わりなく継続しており、結果として鬱と躁の交代を帰結するのである。

 さて、メランコリーの過程が以上のようなものであるとして、では精神分析は何をするのか。それは自己非難だと思っていたものが実は喪失した対象への非難なのだったということを、以上の無意識化された過程を意識化することでメランコリカーに気付かせるのである。すると過剰に強かった自己非難は消滅するだろうし、全過程は通常の喪と同様の、これまで愛していた対象からリビードを引き離す過程に還元されることになるだろう。

 繰り返すなら、以上の議論のポイントは愛の優勢の下で憎しみは抑圧され無意識化されてしまうということであり、主体自身にとって憎しみはその真の強度においては見えないということである。またもう一つ注意するべきは、この種のアンビヴァレンツは稀なものではなく、例えば死別ではなく相手が自分を裏切って離れたとすれば、それだけで対象への関係は高度にアンビヴァレントなものになってしまうことである。

 対象は自分を依存させたあとで梯子を外したわけであり、対象はそれだけで―少なくとも無意識においては―死に値するのである。対象への強い愛ゆえにその離反を嘆く失恋者は、それまでの自らの振る舞いの不十分さへの自己非難の後ろにしばしば対象への殺意を隠している。そして、その自己非難はしばしばメランコリーへと高まる。かく「喪とメランコリー」はフロイトなりの失恋論という側面を備えている。

2-3-2、超自我の生成とその諸含意

 さて、回り道が過ぎたようだ。「喪とメランコリー」時点のフロイトは対象喪失を対象の取り込みで代償するというメカニズムを「ナルシシズム型の対象選択」なるものに帰していたのだが、『自我とエス』では「喪とメランコリー」時点ではこのメカニズムの普遍性を十全に認識していなかったという訂正から議論を始める[ⅩⅢ:256-257=18:23-24]。

 「ひょっとすると同一化は一般にエスが対象を断念することの条件であるかもしれない」[同上]。それは自我の性格形成の中核をなしており、性格は取り込まれた対象の堆積として形づくられる。そして、この一般的な過程の始まりをなすのが「超自我」である。

 先の典型的な流れで言えば、父による罰への不安、去勢不安でÖKが禁止され抑圧されるのだが、リビードの対象がかく喪失されることで、表裏のÖKに対応して両親が取り込まれるのであり、先の原初の禁止のうえに自我を監視する道徳的審級として立ち現れるというわけだ。

 この「超自我」が非人格化され、その後さまざまな内容を取り込むことで、個人の中にエスと自我の「快原理-現実原理」を剰余する社会的-形而上学的次元が形成される。「超自我」の力の最根源的な源泉は、おそらく、先の自我論の読解で示唆したように、「私」と「対象」を成立せしめた原初の「不安-外傷」の力、その反復として読み替えられた「死の欲動」であって、すなわち「快原理の彼岸」である。

 ここで注目するべきはフロイトが「取り入れ」を説明する仕方である。なぜ自我は両親を取り入れるのか。それはそれだけがエスにÖKを諦めさせる方法だからであり、自我は両親を取り入れることでエスに自分をこそ愛の対象として提示するのだ。

 超自我は、だから、理想的な場合には、両親という「現実」を代表する対象を取り入れたものであり、エスの対象備給の先でもあることで、「現実」と「エス」という自我がバランスを取るべきものを総合した完璧な理想でもある。

 自体愛に由来する原初のナルシシズムは現実の前にいずれ崩壊するが、超自我ないし自我理想がそのかわりを引き受け、二次的ナルシシズムの備給先となるわけだ。私たちはありのままの自分を愛せず、何がしか規範にかなう限りの自分しか愛せなくなるのである。しかるに、かくして、超自我はエス、現実、自我の三項の調和の一点ともなりうるわけだ。

 さて、フロイトがかくÖKとその抑圧から個人の中における社会的次元の生成を説明していることに見てとることができるのは、精神分析の立場からすれば、ÖKが社会的歴史的文脈に依存的であるどころか、社会と歴史そのものがÖKとその抑圧に依存的であることである。「原抑圧」は社会と歴史の可能性の条件そのものを名指している。

 実際、この過程がなければ子どものリビードは家族内で直接に性的な仕方で満足させられてしまい、社会化や進歩の可能性が大きく減殺されてしまう。まず、ÖKの禁止が子どもたちを家族の外へと向かわせ、また性的な活動力を他の方向に向けることを促す。そしてこの過程を通じて形成される「超自我」が社会的規範なるものを子どもたちが受け入れるための素地となり、その父との同一化という側面が、父に追いつけるようにと子どもに競争的な努力を促すといったわけである。

 こうして性的発達はそれが抑制される潜伏期へと突入する。この性欲動の抑圧による潜伏期の到来によって、身体的な快を追い求めるばかりの「性」に満たされた幼児の生活は中断され、幼児の欲動は性以外の別の領域、諸々の「文化的なるもの」へと向け変えられていくことになるわけだ。

 フロイトは何でも性欲動の昇華や反動形成で説明するという印象があるが、その一定の正当性は、幼児は身体における快ばかりを求める存在という意味で徹底的に性的であり、その種の身体由来の「欲動」以外に人間を動かすエネルギーを想定するのは困難だからである。だから、それ以外の「文化的なもの」は性欲動の抑え込みによる方向転換によって説明されなければならないのだ。

 そして社会的次元の生成に関する以上の事情が結局、精神分析の立場からすれば、精神分析こそがすべての歴史的社会的な学より根源的である理由である。精神分析が存在するのは原抑圧が存在するからだが、それはすなわち人間が歴史と社会を担う存在になったということと同義であり、精神分析とはこの「担い」の重さとの格闘であって、その「担い」の上に成立するすべての歴史的ないし社会的な学に権利上先行しているのである。

 以上から、かつて存在した性的抑圧の解体による社会変革を志向するある種のフロイト派に対するフロイト的な応答を引き出すことが出来る。

 そこで解体されるべき性的抑圧なるものが性的次元をタブーとみなす社会規範などを意味しているのだとすれば、ある意味その種の変革は遅すぎる。性に対する根源的抑圧は個人において社会規範なるものが作動することを可能にするÖKの「原抑圧」と「超自我」形成でもう終わっているからであり、それをある特定の社会規範をめぐる単なる合理的意識的思考で取り除こうとすることは不可能に近い。

 世間では思春期に性の目覚めがあると考えられているが、しかし、なぜ私たちは目覚めたときにはすでにそれを何がしか、例えば親から隠すべきであると知っているのだろうか。ここに「原抑圧」の痕跡を見なければならないし、その抑圧は単なる一個の社会規範などではなく、社会規範なるもの一般の可能性の条件である。かくして、社会規範の合理的批判による性的抑圧の解体の効果は表層的なものに留まるだろう。

 精神分析はだから社会的なレベルでの性的解放なるものにはさほど関心はない。他方、その解体が「原抑圧」の全体的解体を意味しているとすれば、そんなことが可能だとは思えないが、その結果は社会と歴史の根源的消滅ということになるだろう。だからこれも精神分析のプロジェクトではあり得ない。

 かくしてフロイト的な精神分析にとっては、ÖKの抑圧過程の過剰や歪みのために性的機能の行使に支障をきたしていたり、神経症的症状を患っていたりする人々を分析し、その歪みを個別的に正していくこと以外にするべきことはないのだろう。これは社会変革と比べて小さくつまらない仕事ではなく、もっとも基礎的で、ある意味でもっとも崇高な仕事であるように私には思われる。

 というのも、個々人の「愛する能力(Liebesfähigkeit)」以上に、個々人にとって重大であり、結局は社会であれ、その他の何であれすべてを支えているものなど存在しないからである。フロイトがあるところで何がしか意味深にいっていることだが、精神分析は「愛の万能(Allmacht der Liebe)」という考えを少なくとも否定することはないのである[Ⅶ:451=10:259]。

2-3-3、超自我の二重性から強迫神経症へ

 さて、以上「超自我」の生成にまつわる一般的な事項を述べ終えたので、その「二重性」、先にその配分にフロイト的な男性性の全本質が存在すると予告しておいた二重性を考えよう。フロイトは「超自我」を両親、とりわけて父の内在化と見なしているが、その内的構成は単純ではない。フロイトの叙述を追おう。

 これは狼男が幼児期初期に父と良好な関係を作っており、父を誇りにして父のような男になりたいなどと言っていたという事実[ⅩⅡ:41=14:13]に対応するのだろうが、フロイト曰く、エディプス的葛藤以前には父との関係は肯定的な同一化、つまり「父のようになりたい」である[ⅩⅢ:259-260=18:26-28]。

 しかるにエディプス的葛藤はこの関係を複雑なものにする。まず先にハンスでも確認した通り、この時期に去勢コンプレクスが介入してきて性差の意味が知られ、男児は自覚的-ファルス的に父に同一化する。これは先の流れを強化する。

 他方でこの時期は母への関係が独占欲をはらむものへと高まり、父との敵対関係とその罰への不安が生じる[同上]。この不安がこの父母への関係性、ÖKを抑圧させるわけだが、そのようにして立ち上がる「超自我」的な父同一化は、先立って存在した「父のようになりたい/父のようになりなさい」を裏書きするだけではなく、禁止する「父のようになってはならない」でもあり[ⅩⅢ:262=18:31]、あるいはÖKの抑圧に断念という側面を重く見るなら、「父のようになれてはいない」なのである。

 言い添えておけば、おそらく、この「同一化」と「禁止」の二重性にフロイトが曖昧に一緒くたにしたまま使用した「自我理想」と「超自我」という二つの用語を厳密に区別する可能性が存している。

 さて、ÖKの意識化にある程度成功し、即座に「父になる」ことを達成してしまったハンスは「父のようになりたい/父のようになりなさい」という肯定的側面の極端な事例だが、通常の場合には、ÖKが罰を背景に禁止され断念され抑圧されることに対応して、父との関係性は二重性をはらみ、今は「父のようになってはならない」し、「父のようになれてはいない」が、「父のようになる」べく努力しなさいという命令が立ち現れる。こうして男児は立派になるべく努力することになるだろう。

 そこで「父のようになれてはいない」「父のようになる」ということに関して、エディプス期がファルス期とも重なることによって「おちんちんの大きさ」が子ども自身の内的現実にとって基本的な重要性を持つ必然性があることをハンスにおいて確認したが、それは潜伏期を通じて性的関心が抑圧され、性的関心が別の方向へ流れることでフロイト風に言えば「昇華」され、「去勢」を逃れて「保持」したところの「おちんちん」のみならず、地位やお金や知といった「保持」しうる所有物をより「大きく」する能動的で競争的な志向が養われることになるのだろう。

 さて、フロイトは「超自我」の厳しさは現実の父母の厳しさとは一致せず、むしろ、ÖK的な固着の強さ、それを抑圧するのに必要とした力の強さに比例するとしている[ⅩⅢ:263=18:31]が、そうだとして、ÖKの強さに応じて「超自我」は厳しくなり、ハンスとは対極的に「父のようになってはならない」という禁止、あるいは「父のようになれてはいない」という断念の側面が強化される。後者が先に見た神経症者の自己無価値感を生み出す要因であるとすれば、前者が「強迫神経症」の素因の基底的構造を記述している[ⅩⅣ:144=19:41-42]。この最後のことを次節では示したい。

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第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(1)
第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(3)

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

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