いまや広く性的諸現象を理解するための基本的なカテゴリーとなっている、生物学的性差、社会文化的性差、性対象、性自認といった概念の分節化に端緒をつけたのが精神分析の功績であることは一般に認められていると思われるが、他方で精神分析的性理論がその全体性において評価されることは、その「パン・セクシュアリズム」に関する誤解や、そこに残存している保守性という誤解のために、あまり多くないように思われる。
本稿はこの不均衡を是正したいと思っているのだが、その理由は、近年の性に関する議論が、以上の諸カテゴリーの相互独立性を主張し、その多様性を規範的レベルで肯定すること、つまり「みんな違ってみんな良い」を強調するのに対し―精神分析もこれを否定するものではない―、精神分析には、各人が特定の性のあり方を引き受けていることの意味を、まさしく前章で明らかにした精神分析の基本理念に沿ったことだが、「理解」することに道を開くことが出来るという利点が存しているからである。
つまり、精神分析にとって各人の性のあり方は、もちろん、全ての生得的な要因が排除されるわけではない―自然科学が発展した現在ではフロイトの頃よりは生得性を重く見るべきなのかもしれないし、フロイト自身そういった可能性を排除してはいなかった―が、少なくともすべてが自然的な所与というわけではなく、各人が幼少期から様々なことを体験し、それを解釈することを通じて引き受け(させられ)てきたことなのであって、なぜそうなっているのかを了解しうる事柄なのである。
それにしても、なぜこのような理論が必要なのだろうか。先に多様性を規範的なレベルで肯定することについて述べたが、実際、性に関わる問題がセクシャルマイノリティの問題だけであるとすれば、それで十分だろう。ここでセクシャル・マイノリティの問題とは、自らのセクシュアリティの構成について、主観的には、つまり「内的」には問題がないが、それが社会規範と衝突することによって、つまり、「外的」に問題的になってくるような人々が直面している問題といった意味で言われている。
だが、実際のところ性の問題性はそこには尽きない。精神分析の見方によれば、いうところの「正常」な「男性性」や「女性性」や「異性愛」も問題含みなのであり、そこにはセクシュアリティの構成が内的に問題的である人々も確実に存在するのであって、神経症は確かにその事例である。
精神分析的性理論の意義は、それが「理解」を通じて、セクシュアリティが当人にとって内的に問題的だと感じられている場合に、それを阻んでいる障害を取り除き、現状から距離をとったり、あるいは問題だという感じを取り除いたりすることを、場合によっては可能にする点にある。
精神分析的性理論は、今述べてきたような理解可能性を基礎付け、またその理解可能性を具体的に与えるための理論的枠組みを提供できるのでなければならない。これが結局本稿の示そうとしていることである。
さて、その理論的な基礎付けの中心は先に述べたように『性理論三編』で獲得された「両性性」と「多形倒錯的素質」、そこから始まる「リビード発達論」という人間の性の根源に関する想定であり、その基本的な理論枠組みは、そのリビード発達論の基本構成に加えてその他の個別研究によって与えられている。これを順に検討していくことにしよう。
1、「異性間性器性交の自然主義」の解体
『性理論三編』の議論を見ていこう。本書が一ページ目でやり玉に挙げているのが、性的欲望、フロイトの言う性欲動は「思春期」における「性器」の成熟をもって始まり、それは「異性」に「自然」と惹き寄せられ、「性器結合」を目指すものであるといった、私たちなりに命名するとすれば「異性間性器性交の自然主義」とでも呼べるような性欲動についての「通俗的な」「表象」である[Ⅴ:33=6:171]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.。
前文前半の鍵括弧で囲んだ要素は相互に密接に連関している。というのも、もし性欲動が「思春期」の「性器」の成熟によってのみ始まり、「性器」にのみ存するものなのだとしたら、性欲動が「異性」に惹き寄せられ「性器結合」を目指すのが「自然」とされるのは理解できるからである。性器はやはり生殖という機能を持つ器官なのだから。
だから、この「異性間性器性交の自然主義」を解体することは、必然的に、性欲動が思春期以後に成熟する性器のみによるのではないことを示すことに帰着する。つまり、フロイトについてよく言われることだが、「幼児性欲」を認めることに帰着するのである。しかし、それは正確にはどのような意味においてであり、またそれはどうやって正当化されうるだろうか。私たちは幼児性欲が「想定されざるをえない」ことを示すことを試みよう。
さて、フロイトは性欲動を性器の発達、すなわち、第二次性徴期をもって現れる現象とは捉えず、幼児性欲を認めた。そこではまだ性器は十全に機能しないわけだから、これは性器の絶対的中心性の解体を意味する。
では、どこで性的活動が起きているのか。それは諸々の器官、すなわち「性感帯」において、諸々の部分欲動として生じているのだが、一番分かりやすいのは口唇欲動だろう。
ここでフロイトは「依托(Anlehnung)」[Ⅴ:82=6:232]という発想をとったが、これは「性感帯」が生存に不可欠な生理的機能に依存する仕方で生じてくるということである。
つまり、赤ん坊は食物の摂取という生理的機能のために、お母さんの乳房をしゃぶり、空腹という不快な緊張が取り除かれる快を経験する。この快の記憶のために赤ん坊は食物の摂取自体は果たし終えたとしても乳房をしゃぶり続けるし、さらには失われた快を求めて自分の指などをおしゃぶりすることにもなる。
ここまでくるともはや口唇欲動は摂食という生理的機能から自律し性欲動となっている。しかし、厳密に言って何が性欲動という呼称を正当化するのか。
フロイトは『性理論三編』では精神分析が明らかにする事柄の連関がそうすると曖昧に述べているが[Ⅴ:81=6:231]、私たちは思い切ってこう言おう。それは口唇欲動が成人の性的活動のうちに確固たる地位を占めているからである、と。これは「欲動と欲動運命」の一節に読み取れる立場である[Ⅹ:218=14:176]。
その意味するところを私たちなりに敷衍しておこう。もし性が繁殖本能なるものに従属し性器のみに宿っているなら、人はただ性器結合をすればいいだけということになるだろうが、現実はそうなっていない。例えば、なぜか人は性愛的な文脈においてキスをするし[Ⅴ:49=6:191]、さらに性交においては体や性器を舐め合ったりもする。
これはそれら口唇的活動が性器の興奮、つまり性的興奮に資するからでなければ理解できないだろう。この正確な意味で口唇欲動は性欲動なのであり、それが先に叙述された乳幼児期の「依托」のメカニズムによって生じていることは、例えば乳房が特権的な性的対象として成立していることを考えれば納得できるだろう。乳房に広く認められている性的な価値―それは性器ではないのに―は、「母の乳房」との関係、そこにあった快に性愛的価値を認めなければ理解できない。
かくしてフロイトは幼児性欲を認め、性器以前の部分欲動を性欲動として認めるが、それが性欲動なのは、それが成人の性交において性器の興奮に寄与し、また目標倒錯の場合には性交の代替となるような行為を形成するから、一般的にいえば、性器の興奮との関わりでそれとして特定される心的状態としての性的興奮を励起するからである。かくして赤ん坊の母親との原初的関係性においてすでに成人の性愛と連続的であるような活動が口唇欲動その他を媒介として存在していると考えざるを得ないのである。
さて、口唇欲動を例にもう少し考えを進めてみよう。それは後年に性器の興奮に資するという厳密な意味で性欲動だが、性器が発達していない幼児期には性器に従属せずに活動している。そして、それは確かに母の乳房との関係において始まるが、その後のおしゃぶりへの移行から分かるように、本質的に自分の身体以外に対象を必要としないという意味で「自体愛的」である[Ⅴ:82=6:232]。
これが人間の性的活動の始まりであるとすれば以下のように言えるだろう。第一に性的諸部分欲動ははじめ自由に活動し後から性器の下にまとめあげられるに過ぎない[Ⅹ:218=14:176]。第二に性欲動は諸部分欲動としては自体愛的で、性別で区分されるような必然的な外的対象を持たない。つまり、性欲動は何か「化学的」に異性に惹き寄せられるのではない[Ⅴ:44=6:185]。
これがそれぞれ「多形倒錯的素質」と「両性性」のさしあたり意味するところである。つまり、第一に性的部分欲動がはじめ性器と関係なく活動しており、後からそれに従属するだけなのだとすれば、その従属が成立せずに部分欲動が自立したままであることがあり得るだろう。この帰結が「性器結合」を目標としない性的活動としての「目標倒錯(Perversion)」である。
そして第二に口唇的部分欲動を考えてみれば分かる通り、ここでは性的活動が始まっているにも関わらず、幼児自身の性別も対象の性別もいまだ何の問題にもなっていない。これが生物学的性差に関わらず、人間が性的活動においてどちらの性の立場をとることもあり得、またどちらの性を対象とすることもあり得るということ、つまり、人間の心的「両性性」を支えている。それを明白に示しているのが例えば「同性愛」、つまり、「対象倒錯(Inversion)」である。
フロイトは「正常」とされる「異性間性器性交」に対して、この二つの少なくとも当時しばしば「異常」とされていた「倒錯」を対置したのだが、それは「異常」とされるものが可能であるように人間の性の根源的なあり方を捉え直し、そのスペクトラムのなかへ「正常」をも位置づけ直すためだった。
こうして「異性間性器性交」は「自然」であることをやめ、「両性性」と「多形倒錯的素質」という始まりから出発して、様々な経路のうちのある特定の経路を通って作り出されるものに過ぎなくなる。だから、「正常」と「異常」は連続的であり、それらの語は括弧つきでのみ語られるべきなのであり、本来そもそも強い意味では用いられるべきでないのである[Ⅴ:210=6:60]。何にせよ、私たちとしては「倒錯」なる言葉に悪い意味を込めるつもりはない。
思うに、フロイトの保守性という誤解は、フロイトがあまりにラディカルな出発点をとったが故にこそ、事実的にはやはり存立している「正常」の生成するプロセスを説明する必要が生じたという背景事情を捨象し、さらにフロイトがいわゆる「正常」でないものに払った多大な注意を見ないで、フロイトが語った「正常」なあり方の成立過程のみを取り出すところに起因しているのではないだろうか。
フロイトはセクシュアリティを自然から切り離したが、事実問題としてセクシュアリティはアナーキーではなく、例えば異性愛が主要な形態として成立している以上、その事実的体制の成立メカニズムが解明されるべきなのである。このことは誰も否定出来ないと思われる。
さて、しかるに、以上のあらましを捉えてフロイトはセクシュアリティを「自然」から切り離すまではよかったのだが、それを「神話」に結びつけてしまったとか、新たな「物語」を作ってしまったなどという批判的な言及をしばしば目にすることがある。
だが問いたいのは、では「あなたはどこに立っているのか」ということである。フロイトの「異性間性器性交の自然主義」の解体と、その帰結としての「両性性」と「多形倒錯的素質」自体は認めるのだろうか。認めるのであればフロイトの「物語」なるものを批判することでどこに立っているのか。別種の「物語」を作っているのか、それとも性愛は事実的にアナーキーだと信じているのか。
あるいは、この「解体」そのものを認めないのだとすれば、「異性間性器性交の自然主義」に回帰しているのだろうか、あるいは異性愛者にとっては異性愛が自然であり、同性愛者にとっては同性愛が自然であるといった、いわば「リベラルな自然主義」の立場なのだろうか。
さて、何はともあれ、さしあたり私たちはフロイトの道を歩み直す試みを続けることにしよう。私たちとしては、その歩みを歩み抜くことでフロイトの立場がもっとも説得的であると示せると考えているのだから。
2、「両性性」と「多形倒錯的素質」
2-1、「両性性」―純粋な性愛の不在
さて、この二つをより詳細に見ていこう。前項の議論によってこの二つの最初の導入と最低限の正当化がなされたが、本項では、その正当化を別の側面から補強するとともに、その含意するところをより広く明確にしたい。
「両性性」が最初に導入されたのは「同性愛」の問題の検討からである(『性理論三編』の第一編前半)。「同性愛」の存在はそれだけで「異性間性器性交の自然主義」の厳密な維持を不可能にするが、フロイトは、おそらく多くの自然科学的な同性愛の原因論が前提としているような、性的志向は生まれつきであって、異性愛者にとっては異性愛が「自然」であり、同性愛者にとっては同性愛が「自然」であるとする、いわば「リベラルな自然主義」の立場にはとどまらない。
この「自然」という前提への固執はおそらく、フロイトが「最高度の切迫性を持つ特異な緊張感情」[Ⅴ:110=6:268]と描写した性的興奮の特別な性質から生み出されるのだろうが、これに対してフロイトが注意を向けるのは「同性愛」が内に孕む多様性である。
同性愛といっても常に同性しか対象としない場合もあれば、両性を対象にする場合もあり、更に時と場合によっては同性も対象とするという場合もある。自らの性的志向への反応も一様ではなく、それを当然と見なす場合と病的な強迫だと感受する場合がある。
そして特筆するべきは時間的多様性であり、思い出せるかぎり初めからという場合もあれば人生のある時点からという場合もあり、一生続く場合もあれば時折目立たなくなる場合や一時的エピソードに過ぎない場合もあって、更には遅い時期からのみであるとか周期的に対象の性別を変えるなどという例さえ見られる。
フロイトがこのように列挙するのは、同性愛を生まれつきと見なす理論がせいぜい思い出せるかぎり初めから常に同性しか対象にしなかったという「絶対的対象倒錯」にしか当てはまらないとしてその一般的妥当性を否定するためである。
では同性愛は後天的なのか。フロイトによれば確かに多くの同性愛の事例ではそれを促す早期の印象や環境がある。だが、そのような同じ出来事に遭遇しても同性愛になる場合もあればそうならない場合もあることをどう説明すればいいのかという批判が可能である。
この矛盾を切り抜けられるのが、唯一人間の根源的「両性性」ないし「心的両性具有」という想定なのである。というのも、こうすれば後天的に様々な経験によって―とはいえ主要には無意識に沈んでいる幼児期の経験によって―性的対象が決定されると考えて同性愛の多様性を説明できるし、他方で「両性性」とはいえ先天的「素質」に一定の差異があるとしておけば、後天性説への先の反論に対応することが出来るからである。
かくしてフロイトは同性愛の生成に関しては―いや、他のすべての議論においてもそうなのだが―先天的素質と後天的経験の協働を見ようとする。分析によってアクセス出来るのは後者だけであり、勢いフロイトの議論では後者が重視されるにしても、別にそれは先天的素質という要因の無化を意味しはしない。一般的にいってフロイトは先天的素質として部分諸欲動の相対的な強さと両性性における両性の相対的な強さを考えている。
さて、ここで特筆するべきは、フロイトが心的両性性とはいっても、例えば男性同性愛者は心的両性性の結果「男の体に女の脳」となった存在だといった一面的な主張とは適切に距離をとっていることである。というのも、当たり前の事実だが、男性同性愛者にしても、その性自認や性的対象選択以外での振る舞いが必ずしも女性的であるわけではないからである。フロイトは適切に、「身体的性性格、心的性性格、対象選択」の三項の相互的独立を主張している[ⅩⅡ:300=17:270]。
以上の議論の結果、フロイトにおいて、性的欲望、すなわち性欲動は初めから特定の性別の対象と結びついているわけではないという結論が出され―私たちは前項でこれは性器以前の部分欲動中心の性活動にとっては当然であることを示しておいた―、「生物学的性(「身体的性性格」)」と「性的志向(「対象選択」)」が切断されると同時に、両者から「性自認(「心的性性格」)」が更に区別されるということが帰結することになる。
つまり、人間にはもちろん生物学的な性があるが、それは性自認も社会的性も性的志向をも直接には決定していないのであって、それはどこかの時点において私たちが何らかの経験とそれへの対応を通じて引き受け(させられ)ているのである。
そして、それらがそのように引き受けられたものである限りで、人間の性的活動のはじめには性別による対象の区別などない以上、純粋な異性愛も同性愛も存在せず、異性愛者でも無意識には同性愛的リビード備給が存在しているのであるし、その逆もしかりなのである。
2-2、「多形倒錯的素質」―フロイト的性交理論
続いて、「多形倒錯的素質」[Ⅴ:91=6:245]を見ておこう。先に見たように性的活動は性器をもって始まるのではなく、諸部分欲動の働きとして始まり、それが性器に従属するのは後になってからであって、まさにそれ故に諸部分欲動の性器への非従属としての「目標倒錯」が存在しうる。
この意味で人間ははじめあらゆる「目標倒錯」への素質、つまり「多形倒錯的素質」を持っているのである。だが、何を部分欲動として認めるべきだろうか。先に口唇欲動を性欲動として特徴付けることが成人の性行為への参与によって正当化されたことを想起すれば、ここで成人による普通の性行為についてのフロイトの「観察-想定」がこの問いへの答えを規定していることが分かるだろう。
フロイトの想定する標準的性交を再構成してみよう。まず手始めにあるのは性的対象を「見る」ことや、あるいは逆に「見られる」ことだろう。それはすでにして心地よさ、つまり、快をもたらすが、興奮をももたらす。フロイトが厳密に指摘するように、性器に従属した部分欲動の特性はそれが快と同時に興奮をもたらすことである。
こんなことをわざわざフロイトが述べているのは、フロイトは基本的に後に述べる「刺激-反応」に由来するモデルによって、「刺激-興奮-不快」とその解消としての「快」という二分法をとっているからだ。これは確かに食欲や排泄欲にはよく当てはまるように思われる。まず不快な緊張が生じて、それが私たちを行動へ駆り立て、適切に行為、すなわち、摂食や排泄をすれば緊張は弛緩してそれが快として感じられる。
さて、フロイトにとっての問題は性的な部分欲動がこれに当てはまらないように思われることだ。つまり、性器に従属している場合、部分欲動は単に心地よい快として弛緩的に働くだけではなく、興奮や緊張というべきものをも産出し、行為を先に進ませるのだ。
そういうわけで「見る」の後には、この辺りの順序関係は多様でありうるだろうが、例えば、相手を押さえつけたり、服を脱がせたり、あるいはそうされたりといったミニマムな暴力性をはらみうる行為が続く、これが「サディズム」「マゾヒズム」的欲動が部分欲動として普通の性交に包摂されたありかたである。これらもそれ自身快でありながら、興奮を増加させ、行為を更に進ませる。
続いて、口唇、肛門、尿道の三大性感帯をはじめ、そもそもどこでも性感帯であり得る身体表面のどこかを用いた諸々の行為が立ち現れるが、これも同様の二重性を持つ。こうして興奮が集積されてきているわけだが、それを集めているのはどこだろうか。
それは目に見える形で生じている。つまり、男性の場合は勃起であり、女性の場合であれば、フロイトがFeuchtwerdenと呼んでいるもの、つまり、性器が「湿ってくること」である。そしてフロイト曰く、これは一義的には男性に即した理論化にも思われるが、このように集められた緊張・興奮が最後に性物質の放出で一気に弛緩する。ここに性行為の最大の快がある。
この快の経験構造、つまり、性器に従属する部分欲動が快と同時に興奮を生じさせ、性器がその興奮を集めて、最後に一気に弛緩することで快を生み出すという構造を、フロイトは部分欲動の「予快(Vorlust)」と性器の「終端快(Endlust)」として理論化している[Ⅴ:112=6:271]。
これが部分欲動の性器への従属ということの意味なのだが、このように部分欲動から性器に向けて興奮の「連絡路」[Ⅴ:107=6:264]が存在していることは、(1)路のうえのどこかで興奮に比してあまりに多くの快を生み出すようになることで連絡路がいわば詰まってしまい、そこが性的興奮の「終端」として自律すること、これが「固着」ということだが、それによって「目標倒錯」が可能になることと、(2)性器が何らかの理由で使えないことによって、興奮の終端が前の地点に戻ること、つまり、「退行」というメカニズムが存在することを理論的に示している。
ここから先の問い、何を部分欲動と認めるべきかの問いへ答えることが出来る(『性理論三編』第一編後半)。それはまず目に由来する「見る」「見られる」欲動であり、それが自立した「目標倒錯」が「覗き魔」と「露出狂」である。
続いて身体の運動系に由来する「サディズム」「マゾヒズム」の欲動と同名の目標倒錯がある。続いて全てが性感帯であり得る身体表面の接触に関わる欲動、そしてフロイトがしばしば列挙する、その中でも特権的な三大性感帯「口唇、肛門、尿道」の欲動である。これらにもそれが自立化したり、あるいは過大な地位を占めたりする「目標倒錯」を―強いて名指しはしないが―想像できるだろう。
フロイトはこのようにして目標倒錯と「普通」の性交との間に連続性を認め、ある意味においては倒錯にしたがって「普通」の性交を諸部分欲動へと分解し、その諸部分欲動が幼児期から活動していることを示すことで、幼児性欲の理論を練り上げることが出来たのだし、人間ははじめあらゆる倒錯へと開かれているという「多形倒錯的素質」の理論を打ち出すことができたのである。
以上から明らかだろうが、この普遍的な「多形倒錯的素質」は、さまざまな目標倒錯が存在すること、そして、それらに通ずる要素が普通の性交にも埋め込まれていることを考えたとき、必ず想定せざるを得ないものである。
以上で論じ、願わくは正当化しえているはずの「両性性」と「多形倒錯的素質」が以後のフロイト的性理論一切の出発点となる。人間は性愛関係において、そもそものはじめは自らの生物学的性別と対象の性別に関係なく振る舞うことができ、また性的活動は性器に従属しておらず、いわゆる「部分欲動の無政府状態」が現出している。
しかし、実際のところ人間のセクシュアリティは無政府状態ではなく、フロイトの言葉を用いれば、各人の中で一定の「編成(Organisation)」ないし「体制(Regime)」[Ⅴ:98=6:253]が成立しているし、その可能な型は大部分一定のヴァリエーションに収まる。とすれば、私たちはその形成の諸論理を捉えることが出来るはずである。
フロイトにとってセクシュアリティは「自然」でそれゆえに一枚岩的な統一体ではないが、それを解体して出てくるバラバラな要素の無政府状態でもなく、そこから組上げられる一定の「体制」であって、私たちはそれを、様々なことを経験し、それらを解釈しながら作り上げていくである。
フロイト自身の言葉を用いれば、リビード発達を追求することで精神分析は「ひとりの人間の外的な諸体験と、当人が欲動の活動という道を通って行う反応とのあいだの関連」[Ⅷ:209=11:95]を研究するのである。さて、以下では、この体制形成の基本的諸論理を見ていくこととしたい。
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第1章 精神分析とは何か―「理解への賭け」、神経症、セクシュアリティ
第3章 リビード発達論と自我発達―乳幼児の世界経験への問い
目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ
References
1. | ↑ | フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店. |