補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(1)—ダ・ヴィンチ、去勢・フェティシズム・原父

 精神分析からみたとき、男性の同性愛はおそらくその本質において異性愛よりも複雑な現象であり、フロイトの同性愛理論の展開はフロイトがその複雑さと多層性に気付いていく過程である。

 はじめに提示された極めて単純で未熟な理論は、より精緻に分節され、その個々が展開され、更に新たな契機も付け加えられていく。かくして私たちはフロイトの同性愛に対する最初の理論的見解と見なせるものから出発し、それが分解されて各々展開され、またはじめは見られていなかった契機が付け加わっていく様を見ることにしよう。そしてフロイトがいつも堅持していた態度だが、それですべてが分かったなどとは考えないようにしよう。

 結論から述べてしまえば、フロイトの男性同性愛理論は主に三つの契機からなると言ってよいと思われる。本補論の副題はそれをフロイト的な言葉で提示したものであって解説を要するのだが、この三つの契機自体は非常に単純に見出すことが出来る。

 男性の同性愛を男性の異性愛と比べたときに何が違うだろうか。こう問うのが重要なのは私たちが人間ははじめ両性愛的であり、しかるに多くの人々が現に両性愛者ではなく、性別の区分に従った対象選択を行っている以上、どこかの時点で性別の区分に従った対象選択が起きると考えているからである。そうであるなら、その二つの対象選択の差異、この場合で言えば、男性を選ぶことと女性を選ぶこととの間にある差異にこそ、その対象選択を規定している理由が見出せるはずだろう。

 さて、フロイトの理論に反映されている差異は、おおざっぱにいうと、第一に、同性愛の場合は異性愛よりも対象が自分に近い、自分に似ているということであり、第二に、これは少々単純化し過ぎだが、対象にはペニスがあるということであり、第三に、自分が受動的な立場をとり、対象に挿入してもらうことが出来るということである。これがフロイトの理論の基礎にあると見なしうる発想である。もちろん、フロイトの理論の中核にあるのはこの種の演繹ではなく臨床的観察なので、今述べたことは事後的に見るとこのようにまとめられるというだけのことである。

 さて、三つの契機について具体的な議論に入る前に、ここでは一般的なことを述べておこう。人間の性愛の対象も、性愛における立場取りもはじめ性別に従って区分されているわけではないが、それがどこかで性別によって区分されるようになると推測される。

 多くの男性において、強度の差はあれ前章で展開したような母を対象とし父に同一化する表ÖKという要因が作用するのと同様に、多くの男性において本補論が扱う三要因も強度の差はあれ作用するのだろう。結果が異性愛と同性愛という「質的」区別に至るとしても、注意するべきは、その差異は徹頭徹尾「量的」であることであり、また理論はすっきりと諸要因を区別するにしても、具体的な個々人はあらゆる要素の組み合わせとしてのみ存在することである。

 さて、ここで差異が量的に過ぎないならみな両性愛的でいいのではないかと思われるのだが、「はじめに」で述べた通り、少なくとも多くの場合で意識のレベルでは性対象をどちらかの性別に固定しようとする傾向性が働いているようである。つまり、反対の対象選択は無意識へと抑圧される。これは謎めいてはいるものの私たちはそれを一応の事実と認めておきたい。

 続いて同性愛の内的区分の話をしておくべきだろう。第2章でフロイトが同性愛と一括されている現象に見られる多様性に注意を向けていたことを見たが、そのような『性理論三編』本文での叙述は、同性愛的な対象選択が排他的かどうかの差異、そのような対象選択が引き受けられた期間の差異や自らの対象選択への態度に関わる差異、いわば外在的な差異であり、同性愛的な関係性そのものに内在する差異ではなかった。

 この点については後年の注でフロイトは最低限導入される必要のある区別として、自己認識や振る舞いは男性的なのだが対象は男性だという場合と自己認識や振る舞いも女性化している場合の区別を導入している[Ⅴ:45-46= 6:186-187]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.

 とはいえ、おそらく精神分析から見るときには、これとある程度重なり合うが一致するわけではない区別、性行為における「挿入する/される」という区別、フロイトによると性生活を規定する基本的対である「能動性/受動性」の区別から考え始めた方がいいだろう。

 もちろんフロイトは男性同性愛における「性目標」が肛門性交に限られるという狭い見方に陥らないように注意を促しているが[Ⅴ:45-46= 6:188]、肛門性交はやはりそれなりに主要だろうし[Ⅴ:45=6:186]、そこにおける「挿入する/される」という役割は一定の交換可能性をはらみつつも、いわば理念型的には区別されうるだろう。

 とすると、同じ同性愛といっても、この二つのかなり異なる欲望の形に対して別の説明が与えられるべきである。これは同性愛を説明する試みすべてがクリアするべき課題だと思われるが、フロイトの同性愛理論がそこに到達したのはようやくその最後の歩みにおいてだった。以下ではこのことも確認していきたい。

1、最初期理論―自体愛から対象愛への発達段階説

 フロイトの最初期の同性愛理論と見なしうるものがハンス症例の理論部分で披露されている[Ⅶ:343-345=10:137-138]。それは明らかにフロイト自身にも乗り越えられたものだが、そこでフロイトは二つのことを一つにしている。

 まずフロイトがいうのは、同性愛者にとってはペニスが運命となっているのであり、最初の両性愛的な時期が終わった時に彼はペニスを対象選択の条件としたということである。女性もペニスを持っていると思われていた限りでのみ女性は選択され得たというわけだ。

 続いて、それを言い換える形で、フロイトは同性愛とは対象選択において自分との一致を断念できなかったことなのであり、これは自体愛から対象選択への発達の中間点に留まっていることなのだと言う。

 さて、より包括的な言い方は後者だろう。それは人間の愛がまずは自分の身体を対象とする自体愛から始まって対象選択へと向かうということを前提に、同性愛は自分と近い対象を選んでいる以上、この過程の中間点に留まることだというわけである。それを具体的にいえばペニスを断念出来ないということになるわけだ。

 だが、この理論のフロイト内在的な限界は明らかだろう。それは幼児期の性は自体愛であり思春期以降に対象選択が生じるという仕方で「子ども」と「大人」の性愛のはっきりとした区別を立てた最初期の理論構想の中でのみ可能な議論である。しかるに、続く時期にはフロイトは人格を目がける対象選択の時期をファルス期、つまりÖKまで早期化させるし、母の乳房などを持ち出して最初期から部分対象との関係があるとする[ⅩⅢ:293-294=18:233]。

 つまり、まず幼児期に自体愛があって、次に―フロイトはここで少年期を考えているのだろうか?―自分に近い対象を選ぶ同性愛が来て、最後に思春期に異性愛的な対象選択が生じるといった一般的な発達段階など存在しないのである。

 すると以上の理論が持っていた統一が破られてしまう。確かに同性愛では対象の自己との相対的類似やペニスの優位は存立しているにせよ、それは以上の発達段階説、その遅滞で説明されるべき何かではないのである。これら二つに独立の説明が生じてくるのが理論の次の段階となる。それが第2節と第3節でそれぞれ話題になる。

2、ナルシシズム的対象選択―「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の思い出」

 さて、そもそもナルシシズムとはフロイトによって主に精神病の経験を考えるために導入された用語である。

 神経症の経験をフロイトは対象に向かうリビードと自我に向かう自己保存欲動の対立で記述しようと試みたが、一般により重度の病を指す精神病では外界への関心、対象へのリビード備給が無くなってしまっているという印象が否めなかった。そこでは対象へのリビード備給が解体しているため転移が起きず、フロイトにとって精神病の精神分析は困難だった。「精神病者は言いたいことしか言わない」とフロイトは述べている。

 それはそれとしてこのことはリビードが対象から一般に撤退しうることを意味している。

 では、リビードはどこへ行くのか。自我しかないだろう。ここから翻って考えてみると一般に自我への関心は純粋な自己保存欲動によるものばかりではなく、そこにはリビード的な関心も入り交じっていることが見えてくる。ある普遍的な意義を持つものとして自我へのリビード的関心、すなわちナルシシズムを導入する必要が生じたわけである。

 このナルシシズムをリビード発達論のなかで位置づけておこう。はじめにある愛の関係、というより、愛の前駆形態となる関係―先に見たようにフロイトにとって「愛」は自我全体による他者の人格への関係でありリビードの性器的統合を前提にする―は、自分の身体部位を対象とする自体愛および部分対象との関係である。

 はじめは部分欲動しかないのであって、それが自分の身体部位や他者の部分に満足を見出すわけだ。口唇欲動で言えば、自分の指や母の乳房である。その部分欲動が性器的な統合に服することで、統一的な自我と統一的な他者が見出される。

 私たちの理解するところ自我とは―原初的には逃れ得ない不快であるにせよ―最終的には快なるものとしての身体表面の像であり、当然リビードが「そこ」で満たされる「そこ」としてリビードの対象となる。この統一的な自我に向かうリビード備給にして、はじめて部分欲動的な自体愛と区別されるナルシシズムの名に値する。

 他方で第3章にて述べたように、この頃にはエディプス的な対象選択も生じてくる。これは自我保存欲動の満足、それには必然的に部分欲動の満足が伴うわけだが、その満足、その快に「依托」する形で生じるのだった。つまり、ナルシシズムは自分の身体に即した性的部分欲動の活動の結果として生じるが、それと同時に自己保存欲動の活動とそれに伴う性的部分欲動の満足によって対象選択も生じるのである。

 しかるにナルシシズムの導入に伴ってフロイトは最後の対象選択に関して依托型のみならずナルシシズム型の対象選択もあると言い出す。自我は今見たようにナルシシズムの対象となるのだが、そこから派生して自らに似ている存在も好きになるのである―この辺りは「欲動と欲動運命」における欲動の「自己自身への向けかえ」の議論と合わせ読まなければならない。

 それはそれとして議論を先に進めれば、男性の異性愛は養育者が多く母である以上エディプス的「依托」で説明されるが、男性の同性愛はそれでは説明されない。そこでフロイトはその説明をナルシシズム的対象選択に求める。

 だが、なぜ「依托型」に対して「ナルシシズム型」が勝利することがありうるのだろうか。発展段階説、つまり、発達の遅滞説が維持出来ないことはすでに述べた。続いてすぐに思いつくのはナルシシズムが強いというものだが、これはあまりに一般的すぎて十分な説明は形成しないだろう。何がしか独自のメカニズムが見出されなければならないのである。フロイト自身の説明を見ていこう。

 それをフロイトは「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の思い出」で臨床経験の結果分かったこととして展開している[Ⅷ:168-171=11:48-52]のだが、症例自体は提示されていないので私たちとしてはさしあたり「そうなのか」と受け止めておくことしか出来ない。この論文自体は臨床経験の結果分かった機制を用いてダ・ヴィンチを解釈しようという試みである。

 さて、フロイトに言わせるとそれまで臨床することのできた少数の男性同性愛者のすべてにおいて、意識にはさしあたり忘れられているが、幼年期の最初期に母ないし他の女性との強烈な性愛的結びつきが存在していた。これはその女性自身が過度の情愛を注ぐことで強められ、また父の不在ないし影の薄さによって促進される。さらに、これは何らかの理由で長続きせず対象との関係は喪失されるが、それが対象との同一化によって代償されるのである。

 そして彼らはいまや失われた関係を自分が母に成り代わって、母が自分を愛してくれたように自分の似姿を愛することで再現しようとするわけだ。こうして結果的にナルシシズム的対象選択が成立する。そこでは母の愛を再現する試みとして極めて情愛的な同性愛が可能になるだろう。

 またフロイトが臨床的に確かめたと主張するところでは、彼らとて母に惹かれたのと同様に女性に惹かれることもあるのだが、それは固着している母への裏切りとなるのであって、彼らは即座に先の機制を反復して興奮を男性へと向けかえるのである。

 ダ・ヴィンチは私生児として幼少初期には母によってのみ育てられ、フロイトの想定によれば3歳から5歳頃までに母から引き離されて父と継母によって育てられるようになった[Ⅷ:160=11:41]。ここで先の機制が成立してダ・ヴィンチは同性愛者となったのだと言う。

 以上について私が述べられることは少ないのだが、何か指摘しておくとすれば、一つにはフロイトもこれは「便宜上」同性愛と一括されているものの一つを説明するに過ぎないのかもしれないと断っていること、そしてもう一つには後に超自我のところで見たように対象喪失を対象との同一化で乗り切るという機制が一般化されることで、母に向かうÖKとあわせて、以上の機制自体が普遍化されているように見えることである。

3、去勢コンプレクス―去勢・フェティシズム・原父

3-1、去勢不安・フェティシズム・同性愛―女性身体の外傷性

 次に移ろう。本項は前章末尾で扱った事象と関連する。さて、私たちの意識にとって性的興奮は何がしか抗いがたいものとして現れるし、それがその自然性を想定させもするのだが、フロイトはそこで自然にではなく無意識に向かう、ということは、その中核にあり、幼児期健忘を通じて忘れられている幼児期の諸経験に向かうのである。

 さて、幼児にとっては身体的快が経験の中心であり、勢いその関心は身体に集中する。性差もその関心からして幼児に見えてくることになるだろうが、そこで見えてくる男女の性差とはどんなものだろうか。まずは最根源的な対象としての「母の乳房」に関して「乳房」の有無が目立ってくるはずだが、これは女性を選ばせる要因になりこそすれ男性の同性愛的対象選択には寄与しないだろう。

 そして続いてファルス期に見えてくるのが性器の差異、つまり、ペニスの有無である。ペニスの有無ではなくペニスとヴァギナの差異だろうという向きがあるかもしれないが、ヴァギナは外から見えないものとして男児には―それどころか女児にも―さしあたり発見されないし、先に見てきた通り男児はまずはペニスの普遍性を想定するから、女性器について男児に経験されるのは、そこではペニスが無くなっているということだけ、すなわち、ペニスの有無以外の何ものでもない。

 そこにあるのはフロイトが明確に述べるように、「男性(器)か女性(器)か」ではなく、「男性(器)か去勢されているか」[ⅩⅢ:297=18:237]なのであり、そこでは性器は一つしか知られていない。フロイトが性器期という名称を思春期以後にのみ割りあて、幼児期に達成される性器中心的な時期を「ファルス期」という所以である。ペニスとヴァギナの差異という把握は大人の後知恵に過ぎず、男児の「内的現実」ではない。

 個人的な話を差し挟めば、私は小学校中学年のころ友人二人と学校の帰路に「おしっこ」の出所について話題にしたことをはっきり覚えている。友人の一人が「女の場合おしっこが出てくるのはお尻だろ」と述べたのに対し、もう一人の友人が「いや男とは違うが何かがある」と述べたのである。私は後者に賛成したと思う。つまり、私たちにとって性器があるはずの辺りには「何もない」か、せいぜい「何か」としかいいようのないものがあっただけなのである。

 そこでは男性器と対になる女性器は発見されていない。ところでフロイトはこの膣への無知、そのために生じる、「子どもから何からすべてお尻から出てくる」という理論を総排泄口理論といってペニスの普遍性の想定やや性交のサディズム的理解と並んで幼児の性理論の典型に数え上げている[Ⅶ:171-190=9:287-306]。幼児の性理論は性器興奮と出産への直面から、その謎の解明の試みとして生じるのだが、典型的には膣と精液に関わる無知によって挫折するのである。

 さて、こういった男児の「内的現実」に寄り添う探求によって精神分析は男児の女性身体の見方に関して特異な把握に到達する。女性身体は「去勢」の可能性を現実的なものとする「外傷的」なものなのだ。こうして去勢不安のうちに同性愛的対象選択への一つの動因が見出されることになる。

 そういうわけでフロイトは「フェティシズム」論文の中で多くの場合にはどういうわけかこの外傷性は乗り越えられるが、そうでなければ「母のペニスの代理」としてのフェティッシュが性交の際に必要となるか、あるいはペニスを持つ対象が選択されるというのである[ⅩⅣ:314 =19:278]。この連関のためにフェティッシュはフェティシストの同性愛を防いでいるとフロイトは述べている。

 ところでこの要因が純粋に働くなら、つまり、その他の点では表ÖKが純粋な仕方で通り抜けられつつ、この要因だけが働くとすれば、その帰結は女性的な見た目の男性が対象として選択されることだろう[Ⅶ:178=9:295]。主導的な対象選択は女性であり、ただペニスだけが譲れないのだから。このような対象選択は明らかに存在していると思われるのだが、このような対象選択における男性と女性の統合とでもいうべき事態は、同性愛の本質を単純に考えることへの最良の警告である[ⅩⅡ:283=17:250]。

 私たちが言いたいのは、「自然主義」はこの種のものを捉え損ねるのではないかということである。そのような対象選択は去勢不安によってもっともよく理解されると思うし、それは少なくとも自然主義がすべてではあり得ないことを示すだろう。

 さて、こういうわけでフロイトは「嫉妬・パラノイア・同性愛におけるいくつかの神経症的機制について」で、女性器、正確には女性における男性器の不在をあまりに早く、つまりあまりに外傷的な仕方で知ってしまうことを同性愛の要因の一つに数えている[ⅩⅢ:205=17:352]。

 しかるにここでフロイトはそれを―去勢不安は父との敵対にも由来するので―「父への顧慮ないし不安」とあわせて去勢コンプレクスに由来する同性愛の要因だと一括している。この「父への顧慮ないし不安」とは正確には何だろうか。ここに「原父空想」の男性性の構成における本質的な地位を定式化する道が開けている。

3-2、「原父空想」の諸問題―その男性性の本質との連関に留意して

 さて、「原父(Urvater)」とは何か。周知の通り、それはフロイトが『トーテムとタブー』[Ⅸ=12:1-206]で行った人類の先史の再構成において、そこに存在したとされる形象である。議論を簡単にまとめよう。

 フロイトは原始部族において、ある特定の集団がある特定の動物などを祖先として崇拝するという「トーテム」の制度と、その「トーテム」によって規定される集団内では近親相姦(同族婚)が禁じられるということを中核とする「タブー」の制度に着目し、その起源を以下のように説明する。

 人類の原初的形態は血縁で結ばれた家族的な小集団であり、そこでは父が「原父」として全ての家族内の女性を独占することで、父以外にとり部族内の近親相姦(同族婚)は禁止されて、息子たちはそこから排除された。これに対して息子たちは禁止する父を憎んで反抗し原父を殺害する。

 だが、父は愛の対象でもあったから、息子たちは父に対する罪悪感で支配されることになる。父は死んだ父としてより強力になって帰ってくる。こうして父を象徴するものとして「トーテム」が崇拝され、それによって規定される集団では近親相姦(同族婚)の禁止の「タブー」が継続するというわけである。

 さて、「原父」とは、このようにすべての女性を独占し、息子たちに性愛関係を禁止する原初の父である。この『トーテムとタブー』は世間にとって怪しい議論ばかりの精神分析にあって最も怪しいものの一つとされ、フロイトの創作と見なされているようである。

 だが、決定的な点は精神分析が「内的現実」に関わるということであり、時にはフロイト自身に抗して、つまりフロイトが何かを歴史的現実として述べているつもりである時も、私たちはそれを「内的現実」においてある蓋然性を持って生み出される「空想」として読む道を探らなければならない。

 すると二つのことがすぐに判明する。第一は、この「原父」はエディプスの場面における「禁止する父」、そしてそこから帰結する超自我の二重性、つまり「父になりなさい」という同一化と隣り合っている「父のようになってはならない」という仕方で、男性性の構成のうちに、ということは男性の「内的現実」のうちに場所を持ち、従って特定の空想的作用を持つということである。

 そして第二に、フロイト自身がある箇所で「原父」がそのような空想的作用を持った事例を取り上げており、それを明確に同性愛的対象選択を引き起こす空想として位置づけていることである。この二点の背後に働いている内的論理を再構成しよう。

 第一の点からはじめれば、「原父空想」は男性性の本質を構成する超自我の二重性、ハンス的同一化に対する鼠男的過剰、つまり、「父のようになってはならない」という強迫神経症的過剰を具現化する空想だと言えるだろう。「通常」の男性性はハンスと鼠男の間にあり、そこには必ずある程度の「父の禁止」が響いているのだが、その限りで「父への敵意」も残存する。ここに「原父」が現れるのである。

 その意味作用をどう捉えるのかは難しいが、この禁止する「原父」の裏面は禁止された原初的対象としての「母」だということを考慮すれば、それはどんな対象をも不十分な「母」の代理にし、「原父」だけが経験している「先」があると思わせるという仕方で、男性の異性愛的「欲望」そのものを支えていると見なすべきかもしれない。

 フロイトは先に見た「性愛生活が誰からも貶められることについて」の最後で原初的対象の禁止によってリビードは満足が不可能であるという構造を植え付けられており、それが無限の代替系列を生じさせると述べている[Ⅷ:89-90=12:242-243]。

 つまり、父が原初的な対象たる母を禁止しており、そのためにどんな対象発見も再発見となり―フロイトの再発見テーゼは「現実検証」の問題に関連づけられている場合[ⅩⅣ:14=19:6]とÖKの抑圧に関連づけられていると読みうる場合[Ⅴ:123=6:284]の二つがある―現実の対象はどこかしら不十分なものに留まって諸対象の無限の系列が生じる。

 こうして欲望が継続するのだが、それを支えているのはまさに原父が根源的な対象を禁止しているということであり、対象の側から見れば根源的な対象であるとされるところの「母」であり、またそれを代理する対象の系列ということからすれば「すべての女」だというわけである。

 第二の点に移ろう。さて、しかるに、この「原父空想」が宿る「過剰」がまさしく「過剰化」し、主体の構成が真に強迫神経症的と呼ぶに値するものになると何が生じるだろうか。この場合には父による官能の禁止が女性対象全般にまで及び、原父はまさしく「すべての女性を独占する」原父らしい相貌を帯びるだろう。

 この場合女性を対象として選択することは「父への怖じ気」[ⅩⅡ:286=17:255]のために困難になるし、さらに典型的には父の禁止が去勢不安と結びついていることを考慮すれば、去勢不安が高められて女性身体はそれ自体として耐えがたい何かとなるだろう。つまり、同性愛的対象選択の要因が生じるわけで、これがフロイトの言う「去勢コンプレクス」による同性愛である。

 フロイトが触れている事例を紹介しよう[ⅩⅡ:286=17:255]。それは「女性同性愛の一事例の心的成因について」の注にあるのだが、若い男性芸術家の症例である。彼はそもそも両性的素質が強かったが、ある時点から同性愛的対象選択しか出来なくなり、また仕事を遂行出来なくなった。

 分析は問題を両方とも解消したが、そこで明らかになったのはどちらも「父への怖じ気」に由来していたことである。彼の無意識においてはすべての女性は父のものだったのであり、フロイトはここで人類の先史ではこれが原父として現実だった以上、このような事例は想像より多いはずだと述べるのである。

 この「原父空想」という同性愛の要因が純粋に働く場合を考えてみると、これは表ÖKの十分な通過を前提とする以上、その性愛関係における主体的立場は男性的であり能動的なものだろうと推測される。

 また、その典型的な現れ方は、高い心的価値評価の意味での「情愛」自体はÖKの影響下で女性に向かうものの、そこでの「官能」の発露は「制止」されており、「官能」的興奮は父と対立せずにすみ、また去勢不安を引き起こさない「男性」においてのみ可能になるといったものだろうと推論出来る。そこで「情愛」と「官能」の分裂が極端にまでもたらされる。これは強迫神経症の帰結としての同性愛的対象選択であるといえるだろう。

 さて、男性性の構成の本質に属し、ある仕方でその異性愛的欲望の継続を支えていさえする原父空想が、その度合いを強めただけで同性愛を引き起こす要因になるということ、ここにある連続性は精神分析的性理論が人間の性の構成に関して教えてくれる興味深い事柄の一つであり、人間の性の構成の奥深さに思いを致すように促してくれるものであるように私には思われる

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第4章 男性性とは何か―ハンス、鼠男、そして強迫神経症(4)
補論 フロイトの男性同性愛理論の展開(2)—狼男・「子どもがぶたれる」・マゾヒズム

目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

References   [ + ]

1. フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.
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