全ての人間は幸福であることを追い求める。人がそこでどんなに様々な手段を用いようとも、このことには例外がない。人は皆この目的を目指す。ある者たちを戦争へと赴かせ、また別のある者たちに戦争を避けさせるのは、この同じ欲望(désir)なのである。ただ、この同じ欲望が、二種類の人間のうちで相異なる見方に伴われているのである。意志はこの対象に向かってでなければ、決してどんな小さな歩みすら為しはしない。これこそ、自殺しようとする人々に至るまで、全ての人間の全ての行動の動機なのである。(…)しかしながら、遥か昔から、この全ての人が絶え間なく目指している点に、信仰なしでたどり着いたものはいない。全ての人が嘆いている、どんな国の、どんな時代の、どんな年齢の、どんな状況の、王侯も臣下も、貴族も平民も、老人も若者も、強い者も弱い者も、知者も愚者も、健常者も病者も皆。(…)もしかつて人間の中に真の幸福が無かったなら、この渇望とこの無力は、私たちに対して何を叫び訴えているのだろうか。今や人間にとっては、その真の幸福の全く空虚な印と痕跡だけしか残っておらず、人はその空虚な印と痕跡を、自らを取り囲むものなら何でも用いて埋めようと、現存するものからは獲得できない救いを、不在のもののうちに探し求めて、無駄な試みをするのである。どんなものもそれを埋めることは出来ない。なぜなら、この無限の深淵(gouffre infini)は無限で不変の対象によってのみ、つまり、神自身によってのみ、埋められうるからである。(Pascal [1997:128-129]※断片138/邦訳425)
1、第一部の問題意識―欲望・否定性・主体
第一部は「序論」の問題意識を継承しつつジジェクの哲学と倫理の中心部分の輪郭を描き出すことを目的とする。
緒論ではまず「序論」から引き継がれた諸問題を想起し整理しつつ、第一部で取り組まれるべき問いの輪郭を浮かび上がらせ、次に第一部の展開の簡単なアウトラインを提示する。
この緒論は「欲望・否定性・主体」と、私たちの視座からすれば密接に絡みあう三つの言葉によって題されている。私たちの問題の領野の提示の仕方の一つは、第一部のエピグラフをなすパスカルの引用が印象深く記述しているような「欲望」が存在するという事実から出発することである。
この一節をまず解釈しておこう。人間には「欲望」が存在する。人間は幸福を求め、「欲望」を「自らを取り囲むものなら何でも用いて」満足させようとするが、それは簡単に満足させうるものではなく、パスカルの見るところ信仰以外によってそれが成功した試しはない。人間は不幸であり、嘆いており、悲惨である。
この「欲望」を抱え込んでしまっていることによって人間は感性的な知覚を超えたもの、超感性的なものの領域へと迷い込む。そこに生じる荒唐無稽な超感性的「夢想」を批判することは可能だろう。だが、その素朴な立場を論駁してみたところで超感性的「夢想」が現に存在していることは否定できないし、すると、そのことの「可能性の条件」であるはずの、人間が此岸的なものに満足しえないこと、それによっては埋めえぬ深淵、すなわち優れてパスカル的な意味での「欲望」をうちに抱え込んでしまっていることも否定できないことになる。そこに「謎」が残る。
そして、これが恐らくパスカルがここで行っている推論なのだが、とすれば人間本性に、感性に還元されない二重性があることを想定せざるを得ない、そして例えば、人間がかつて神の下にいて真の幸福を知っていたと考えることに一定の根拠が生じる。人間が神の下を去ることで神によってしか埋められない「無限の深淵」が穿たれたと考えることによって―何か絶対的なものの根源的な喪失を想定することによって、この「欲望」が存在するという事態が説明可能になることは確かなのだから。
パスカル風に言えば、人間の状態は「悲惨(misére)」だが、この世で悲惨であり得るということは人間本性のより高い次元の存在を証明する人間の偉大さの証拠ということになる。全く同様にキルケゴールにとっても絶望は悲惨だが、絶望しうることは人間が精神としてより高次な次元をもっていることとして人間の偉大さの証拠である。
さて、私たちの議論の一つの出発点は、そしてそれが描き出そうとする一つの観点は、この一節と同じである。「観点」に関してまず言及するなら、私たちの言説も人間の悲惨のうちに、というより、悲惨なるものを主観的にはじめて可能にする「否定的なもの」と人間の原初関係のうちに、肯定的な「高次の本性」のような華々しいものではないにせよ、人間性のもっとも根源的な可能性を見いだそうと試みるものだからである。
次に「出発点」に移れば、私たちの出発点も「欲望」が存在するということ、人間とこの現実、肯定的諸対象との間には不和があるということ、人間は「欠如」を抱え込んでいるということ、人間は肯定的なものへの距離である「否定性」であるということだったからである。この事態を私たちは「否定性/否定的なもの」という言葉を中心にして思考する。
さしあたり私たちは「神」へと一足で飛躍するのではなく、「神」のみが埋めることが出来るように見える「無限の深淵」に踏みとどまり、それを可能にしうる構造について問う―この構造にさしあたり付された名が「否定性」である。
序論第三章の末尾で提示されたジジェクの思惟の根本的問題構成を想起すれば、ジジェクによる「否定性」についての思考はヘーゲル的な主体の否定性の問題系とラカンの欲望、欠如、死の欲動の問題系の「相互往還/相互照明」であり、それを通じて人間において「否定性」について事情はどうなっているのかを問うこと、これを序論第一章の言い方へと差し戻せば、「否定性」の起源、諸様態、帰結を問うことである。
ここで序論第四章も私たちに一つの課題を課していたことを想起しておこう。それは人間が「否定性」であることによって、それを覆い隠す「幻想」と幻想的「享楽」と名付けられるメカニズムが存在し、それが現にイデオロギーのメカニズムとして機能しているのではないかという問題であり、このメカニズムの外、イデオロギーの彼方はいかにして思考しうるのかという課題である。この問題も「否定性」の起源、諸様態、帰結を問うことによって、とりわけ、人間が否定性との関係で取りうる態度、ここでいう「帰結」の次元が十全に解明されることによってはじめて可能になる。
2、第一部の各章の構成
第一部はこの問いに答えることのジジェク的な遂行に焦点を合わせる。それはとりもなおさずジジェクの哲学と倫理の輪郭を描き出すこととなる。ジジェクの哲学と倫理の構築は基本的に他の哲学者の言説を媒介として、その解釈として行われるから、私たちの議論の展開、章立てもそれに従う。早足で各章の概要だけ順に述べておこう。
第一章「ジジェクのカント理解―理性・自由/苦痛・崇高、あるいは快原理の彼岸」はジジェクのカント理解を取り扱う。ジジェクは一貫してカントを好んでいるが、それはジジェクにとって哲学が「超越論的」な問い、つまり、「可能性の条件」の問いによって定義されることもさることながら(Žižek, Daly [2004:25-26])、とりわけてはカントの超越論的な転回によって「否定的なもの」を正当に思考するための可能性が、そのための場所が初めて開かれたことに由来すると見てよい。
というのも、私たちが眼前にしている経験、「肯定的/有限的」な諸対象が織りなす経験の領野が絶対的な所与だとすれば「否定的なもの」など存在しないのだから。
しかし、もしこの現実性そのもの、この肯定的な対象の領野そのものが主体の構成的関与によって初めて作り出されていると考えなければならないとすれば、第一に、これは極めてヘーゲル的・ジジェク的で、カントにはこのことを強調することなど思いもよらなかったと思われる視点だが、それを構成する主体、超越論的統覚は肯定的な対象ではあり得ず、その領野から追い出され、そうして肯定的に規定し得えないもの、肯定的なものではないもの、「否定的なもの」になる。
そして、第二に、この段階ではこちらの方が重要なことだが、また一般に肯定的なものの領域、現象の領域に留まらないものが思考可能になる。それはカントによっては物自体や叡智界として名指されることになるものなのだが、「現象的/感性的/経験的」な存在者としての人間にとり、それらを超えた物自体や叡智界と呼ばれているものとの関係は「現象的/感性的/経験的なもの」、つまり、有限的なものの否定として、ある否定作用として、「否定性」として生起することにならざるを得ない。カントもそのように記述している。
こうした問題構成からジジェクのカント解釈は、現象界と叡智界、現象と物自体、感性と理性の交差する点に注視するものとなり、三つの批判書から、それぞれ「理性」「自由と苦痛」「崇高」が重要なモチーフとして取り出される。この三つの重なりあいから「否定的なもの」が惹起する純粋感情としての「享楽」の、カントが描く「快原理の彼岸」の領野の輪郭が浮かび上がるとジジェクは見るのである。
第二章「ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜(die Nacht der Welt)」をめぐって」はジジェクのヘーゲル理解を取り扱う。本章では始めにジジェクのヘーゲル理解が秩序づけられた形で概観されるが、その諸契機全てを展開することは不可能なので、本章の議論の主軸は第一章との連続性を保つ形でヘーゲルとカントとの差異をジジェクがどのように構想しているかという問題となる。
ジジェクはカントの体系を「物自体」の到達不可能性に着目して〈物〉との距離を保ち続け、充足に至ることのない「欲望の主体」の立場として特徴づける。これはもちろんヘーゲル的な分裂のことでもある。だがジジェクの見るところ「欲望の主体」はヘーゲルが「世界の夜」と呼ぶものにまで、ジジェクがほとんど全ての著作で引用している「世界の夜」にまで、ジジェクの概念化するところ〈現実界〉と「死の欲動」の最根源的な次元でもある場所、欲望の対象が埋めている始原の「裂け目/否定性」、「〈物〉の空虚な場所」にまで到達することで「欲動の主体」に変化を遂げる。これがジジェクの思惟するところヘーゲルの姿勢を特徴づけるものとなる。
この移行で決定的なのは「否定性」が「経験的と超越論的」の差異そのものの産出作用、超越論的構成の可能性の条件として構想されていることであり、この否定性を適切に参照することにより「超越的(transzendent)」な「物自体」な次元をなしですませることが出来るということである。
ジジェクの理解するところ、ヘーゲルはカントの超越的な物自体から、「世界の夜」、つまり、「経験的と超越論的」の差異の産出の可能性の条件である「否定性」、「超越論的(transzendental)」な主体を特徴づける「否定性」の根源的次元への重点の移動を遂行したことになる。「ヘーゲルは物自体(その接近不可能性)の空虚を、主体を定義する否定性そのものと同じものと考えることによってカントをラディカル化した」(Žižek [2008c:158])。
本章は、この主体的ポジションにおける変化の理論的諸契機を順に追跡する。第一にそれを正当化するヘーゲルの『精神現象学』の導入冒頭で述べられる方法論であり、これをジジェクは「メタ言語は存在しない」として特徴づける。第二に主体の変化の直接の契機となる「世界の夜」の存在証明であり、この点についてのジジェクの思惟を追いかける。第三に「世界の夜」とは何か、そしてその通過によって生じる主体的ポジションの変化をジジェクにしたがって理論化するが、ジジェクによってそれは「欲動の主体」とヘーゲルの立場の相互照明する解釈として行われる。
第三章「ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク」で主題となるのはジジェクとハイデガーとの近さと遠さである。この点を思考するのが何故必要かと言えば、第一に、ハイデガーへの参照を通じてジジェクの議論をより明確に理解するとともに、それにより適切な正当化を与えることが出来るからである。というのも、私たちの見るところ、ジジェクはやはり一種のハイデゲリアンと見なしうるからであって、本章はハイデガーの議論の検討を通じてこのことを示す。
第二に、このことに加えてハイデガーへの参照を通じて第二章において表明された立場、「否定性」をめぐる立場に伴う行き詰まりを認識することが可能になるからである。
そして最後に第三に、この行き詰まりに応ずる方策として考えることによってのみ、第四章「ジジェクの倫理、”Gelassenheit” or ”Ne pas céder sur son désir”」で、ジジェクがラカンから引き継いだ倫理的命法「欲望に関して譲歩するな」に、ジジェクが与えている意味を明確化することが可能になるからである。
第一の理由に関わるところから簡単に見ていこう。伝記的記述にて見た通りジジェクはハイデガーから出発しているし、ジジェク自身の思考が十分に成熟した2004年の時点でも以下のように述べている。
私は以下のことをますます確信していると言わなければなりません。ハイデガーは、彼が受けるべき一切の批判にもかかわらず、私たちを結びつけている哲学者なのです。どういう意味かと言うと、ある仕方で、何らかの真剣な検討に値する重要性を持つ他のほとんど全ての方向性がハイデガーに対する何らかの批判的関係や距離を通じて自らを定義しているということです。(…)私が思うに私たちのコンテキストにおいてはハイデガーへの距離こそが決定的なのです。(Žižek, Daly [2004:28])
そして更に続けて指摘するところでは、「このハイデガーへの距離は原則として絶対的な限界の指摘(limitation)の形態をとらず、一種の両義的で条件的な限界の指摘であるということが典型的です」。つまり、「ハイデガーの一部は承認するが、その後でやはりハイデガーは十分遠くにまで行かなかったと言うわけです」。こういうジジェクだが、私たちの興味を引くのはジジェク自身がこのような「両義性」をこの上なく強く抱え込んでいる事実である。
まずもって指摘されるべきはジジェクとハイデガーの距離が一見して極めて近いことである。今まで見てきた通りジジェクの思惟の中心にあるのは「否定性」、ヘーゲル流の主体の「否定性」であり、それをラカンの〈物〉、〈現実界〉、「死の欲動」と結びつけることであったが、ハイデガーも優れて「否定性」の人であって『存在と時間』の中心にはジジェク自身「絶対的否定性に遭遇することのハイデガーのヴァージョン」(Žižek [2000a:16])と呼ぶ「不安」が存しており、ハイデガーのいわゆる「本来性」、「先駆的決意性」、「死への存在(Sein zum Tode)」と「良心(Gewissen)」の次元を統べている。初期のジジェク自身からして、50年代のラカン、例えば『精神分析の倫理』のラカンに従って「死の欲動」を「死への存在」から理解しようとしているところがある。
しかるにジジェクは90年代の中盤あたりからハイデガーに対して距離をとることを試み始め、それは99年の”The Ticklish Subject”で自らの考える「死の欲動/ヘーゲルの否定性」とハイデガーの「死への存在/不安」を区別することに結実し、ハイデガーはヘーゲルの主体の「否定性」の根本的次元を「見落とし(miss)」、後期ハイデガーの主体性批判はこの次元を「[カバーしない(does not cover)」、更には、ハイデガーはそこから「後ずさり(recoil)」したなどと言われることになる。つまり、「十分遠くにまで行かなかった」論法が採用されるのである。
だが、このような差異化にも関わらず、ジジェクはその後も何度もハイデガーの立場を自らの立場と近いもの、あるいはほとんど「同じもの」として描出せざるを得ない。この「近さ」の表明から見る時、ジジェクの哲学の根本構図はカント、ヘーゲル、ハイデガー、ラカンの四者関係についてのある構想として浮かび上がる。この構図、この根本定式こそ、私たちの考えるところ、パーカー曰く不可能である「ジジェキアン」を定義するべき最小定式であり、このものを示すことが第三章の一つの目的をなす。
さて、このジジェクの揺れ―ハイデガーに対する立場取りにおける遠さと近さ―をどのように考えればいいのだろうか。さしあたり結論だけを述べておけば、ジジェクの「十分遠くまで行かなかった」論法は誤りであり、むしろ、後者の四者関係の構想に依拠することによってジジェクの思惟をより適切に表現出来るし、またそれにより適切な正当化を与えることも可能になり、更にハイデガーに対してもフェアであって、総じていえば正しいといえる。このことの証示を通じて私たちはハイデゲリアンとしてのジジェクという像を描き出す。
そしてまた、両者の近さを論じることによってこそ、ハイデガーとジジェクとの差異を際だたせることもまた可能になる。ハイデガーを扱う第二の理由としての述べたところだが、ハイデガーは「否定性」から「後ずさり」したどころか、その行き詰まり、「否定性」の経験に対する人間の無力を見据えていたのである。これがハイデガーのいわゆる「有限性」が根本のところで指し示す事柄である。これはジジェクにとってひとつの盲点となっているように見える。
第三章ではジジェクおよびハイデガーのテキストに基づいてこれらのこと、つづめて言えば、ハイデガーとジジェクの構図の同一性、ハイデガーによる「否定性」の見落としではなく、その行き詰まりの見透し、それを表現する「有限性」概念などを記述することが目指される―その過程で私たちは思いのほかハイデガーに深く踏み込むことになり、私たちなりの仕方でいわゆる後期ハイデガーの思惟の根本構図が描き出されることになった。
さて、次に第三の理由として述べたことに移るなら、だが、「否定性」をめぐる行き詰まりに注目することで改めてハイデガーとジジェクのまた別の差異を明らかにすることができる。それは倫理的立場、つまり、「人間が何をなすべきか」の次元に関わる。
私たちが主張しようと試みるところ、ハイデガーにしてもジジェクにしても、その倫理的立場を考える上では「否定性」への、しかも「否定性」の不可能性、「否定性」に対する人間の無力、その非随意性への参照が欠かせない。倫理的立場はそれへ応ずる仕方として考えられなければならない。そのように考えた時、両者の差異がハイデガーの”Gelassenheit”とジジェクがラカンから受け継いだ”Ne pas céder sur son désir”の差異として見えてくる。第四章はこのことを明らかにする。
こうした道のりを経ることで第一部を通じてジジェクの哲学と倫理、「否定性」を中心とした人間と世界がいかにあるかをめぐる議論、すなわち、「否定性の存在論」と、それに基礎付けられた「人間が何をなすべきか」をめぐる議論、すなわち、「欲望に関して譲歩するな」という命法を中心とし、人間が一切の帰結を考慮せずにひたすら自らの可能性の果てにまで行くことのみを命じる―とはいえ、そこに特徴的なひねりがあるのだが―ジジェクの倫理の主要部分を展開することが可能になる。
ただ概要のみを提示することが目的の緒論の議論は、駆け足で不十分なものとならざるを得なかった。以下でそれらの議論を改めて十全に展開することとしよう。