第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(1)

0、ジジェクのヘーゲル理解の概観―「世界の夜」の周辺

 ジジェクはあるところで「ヘーゲリアンであるためには、理性は、自らの反対物と戦っているところで、実は自分自身の内なる過剰と戦っているのだと述べるだけで十分です」(Žižek, Daly ][2004:63])と語っている。「理性は、何か自分の外にあるものと対決しているのではなく、むしろ自分自身の構成的な狂気と対決しているのです」、理性は「理性自身を設立する、全く根本的で構成的な身振りと戦っているのです」(同)と。

 このことの意味にイエーナ期においてヘーゲルの思惟がとっていたといえる一つの傾向、「絶対無の哲学」とでもいうべき傾向から接近してみよう。このころヘーゲルの思惟がこのような方向性をとった理由は理解しうるものである。

 というのも―ジジェクはここのところをより繊細な仕方で理解しており、本章ではその点が問題になるため、これはさしあたりという形でいうのだが―ヘーゲルはこれに先立つフランクフルト期に主に主体と客体の対立という形で整理することの出来る分裂の止揚という課題を掲げたのだが、主体と客体、観念性と実在性その他の対立が克服されるためにはその対立の消滅する地点、このころのヘーゲルのよく使う言葉では、両者の「無差異点」が必要であり、そのような地点とは一切の区別が消え去る場所、絶対的な「無」の場所以外にあり得ないからである。だから、ヘーゲルが『信仰と知』でいうところでは「哲学の第一の課題は絶対的な無を認識することである」(Hegel[1986:2-410])。

 この点をヘーゲルの『差異論文』から更に詳しく見てみよう。当時においてのヘーゲルのデビュー作である本作で、一方でヘーゲルは後年の体系家としての顔を既にしてのぞかせて、哲学の全体性への展開を語る。哲学は主観的全体性と客観的全体性へと自らを形成し、私たちの生きている世界、すなわち、有限的なものの多様に、「必然的」な場所を与えなければならない。有限的なものは、絶対的なものが展開する全体性のうちで場所を得ることで、初めて必然的なものとなる。

 そうなのだが、その出発点、有限なものを絶対的なものに包摂する、そのような一元的な展開の「可能性の条件」をなしているのは、「思弁」であり、一切の対立を相対化する「無差異点」、「絶対的同一性」としての「絶対的なもの」の認識である。そして、そこで問題の「絶対的なもの」に関してヘーゲルはこう述べる。

絶対的なものは夜である。光は夜よりも若い。両者の差異は、光が夜から歩み出るのと同様、絶対的な差異である―無が最初のものであり、そこから全ての存在が、有限性の全ての多様が出現したのである。しかし、哲学の課題は以下のことに存する。すなわち、この二つの前提[引用者注:①絶対的なものの存在と②そこから意識が外に出てしまっていること]を合一すること、存在を非在のうちに―生成として、分裂を絶対的なもののうちに―その現象として、有限なものを無限なもののうちに―生として、措定することに存するのである。(Hegel [1986:2-24-25])

 だから本論文において哲学は二重の運動を持つ。第一に「無/夜」である絶対的なものへの世界全体の「収縮(Kontraktion)」であり、他方でそこから世界全体をその絶対的なものの「現象」として構成し全体性へと至る「拡大(Expansion)」である。前者が絶対的同一性を認識する「思弁」の契機であり、後者が全体性へと自己構成する「体系」の契機である。

 さて、「理性は何か自分の外にあるものと対決しているのではなく、むしろ、自分自身の構成的な狂気と対決しているのだ」という時にジジェクが考えているのが、今見た『差異論文』に現れている二重性、「夜/無」としての絶対的なものへの「収縮(Kontraktion)」の契機と、絶対的なものの全体性への自己形成、「拡大(Expansion)」の契機の二重性であることは明らかだろう。

 「理性」は―それこそハイデガーのいうレゲインとして(GA9.430)―世界を一貫性のある全体性として初めて開示する。だがヘーゲルの理解するところ、その理性の創設の身振りは「無」へと一切を収縮させるもの、私たちの通常の見方に従えば「狂気」に近い何かである。

 ジジェクのいうヘーゲルが対決した「狂気」を、『差異論文』の二重性、「収縮/拡大」の二重性から捉えることは別の側面からも正当化される。というのもジジェクのシェリング論はまさにこの「収縮/拡大」の対概念を鍵として展開されており、世界の開示、ロゴスに先立たなければならない、神の絶対的収縮をジジェクはそこで「神的な狂気(divine madness)」と名指していたからである。後に触れる、ジジェクが言うところのシェリングとヘーゲルに共通する根本操作が語られるのも、この場所からである。

 さて、この場所からジジェクのヘーゲルとの取り組みをまとめてみよう。その第一点は、この「収縮」の契機、ジジェクが溺愛するヘーゲル用語でいえば「世界の夜(die Nacht der Welt)」を、精神分析のいわゆる「死の欲動」、人間に本質的に内在している(自己)破壊衝動の根本的次元と見なすことであり、「死の欲動」を「世界の夜」から解明しようとすることである。

 そして、「世界の夜」のようなものがどこにあり、また何であるかの「解明」に関していえば、ジジェクの主要な操作は「世界の夜」の次元、ジジェクの概念化するところ、〈象徴界〉、象徴的に構成された現実性、カント的な「現象」の領野に包摂されえず、それに抗う〈現実界〉の根本を成すこの次元を、「世界」が意味を持ったものとして現れること、つまり、〈象徴界〉ないし「現象」をあらかじめ可能にしているような構造、カント用語でいえば超越論的なもの、人間的経験の「可能性の条件」をなしている次元の、これまた「可能性の条件」として、超越論的なものの可能性の条件として思考することである。「世界の夜」は現象を現象として初めて可能にする超越論的主体の創設の契機として主体そのものの根本的次元である。こ

 れは後に見るところだがヘーゲルのテキストに確かに当てはまるように見える。さて、このような「夜」の場所の正当化をジジェクは”The Ticklish Subject”において初めて大々的に着手する(Žižek [2000a:Ch1])。それ以前の”The Indivisible Remainder”では、〈象徴界〉の出現、言語以前の無意味な世界という意味での〈現実界〉への言語の介入としての象徴化、意味を持ったものとしての世界の開示以前を語ることは、これは常識に適ったことだと思うのだが、「神話」を要するとしていたにもかかわらず(Žižek [2007:x])。

 この「神話」からいわば「超-超越論的」議論への移行、この正当化の可能性、ここにジジェクの思惟の何か無根拠的なところがあるのかもしれない。この問題、ジジェクの思惟の無根拠性の問題、より具体的にいえば「超越論的問い」の可能性の問題と、それに相関する「超越論的なもの」の存在性格の問題に関しては、第二部の冒頭における第一部の総括でもう少し詳細に取り扱うこととして、今のところは脇においておく。

 第二点としてヘーゲル解釈に焦点を移せば、ヘーゲルに関してしばしば強調される「全体性」の契機に対して、この「無」の契機の必然性、構成的性格を対置することである。「全体性」の哲学者ヘーゲルという「標準的イメージ」はこの「無/世界の夜」という「前代未聞の壊乱的な身振りを隠すと同時に[差異論文に関して見たように自らの可能性の条件として]含み」こむ(Žižek [2007:6])。

 一般に言われるところ、そして表面上は明らかに、ヘーゲルは『精神現象学』以降、そのはしがきで表明されたいわゆる「規定的否定」の教説によって「無」と「夜」としての「絶対的なもの」の思惟を脱したかに見えるのだが、ジジェクはそうは見ない。本章で私たちはヘーゲルの体系が一貫性を保つためには絶対的否定性の契機が必要不可欠であること、なぜならそれこそがヘーゲル的な全体性の、ヘーゲルの体系企図の可能性の条件であるからということを、ジジェクに従って先の差異論文の検討よりも更に踏み込んで示そうと試みるつもりである。

 そしてこの契機の不可避性が認識されることにより、ジジェクの考えるところ、ヘーゲル流の「和解」や「否定の否定」の理解等に様々な帰結が結果してくる。ここで主要なものとして「全体性」の構造そのものに対する帰結を取り上げておこう。

 部分的否定という意味での「規定的否定」ではなくまったき否定、「無」の契機が全体性の創設の身振りであることで、全体性そのものが支えを失って偶然的なものとなる。更にまた、この創設の身振りとしての「無」の名残りとして全体性のうちに「無」を具現する要素が存在すると推定することが出来る。

 それは「無」を具現するだけの偶発的要素でありながら全体性そのものを支えている。それは「全体性」の外部、その可能性の条件にして不可能性の条件を表象する要素であり、それによって全体性が可能ならしめられ支えられると同時に、そこから全体性が解体するような要素である。ジジェクがヘーゲルをラカンの対象a―これが先の特別な偶発的要素に当たるとされる―や「シニフィアンの論理」とのアナロジーによって理解しようと奮闘している時に狙いを付けている事柄はこのことであり1)ジジェクはこのあたりに少々無理があることを感じ取ったらしく、最新作の序文ではヘーゲルは対象aの特異性を評価しきれていないと述べている(Žižek [2012:18])。、そこでは全体性、〈象徴界〉、「世界」の一般的構造が探求の対象となっている。

 更にラカン解釈に焦点を移せば、第三点として、ジジェクの見るところ、ラカンには「欲望の主体」が「幻想の横断」と「主体の解任」をへて「欲動の主体」へと主体的ポジションを変化させるという構図が存在するが、この変化の契機を「世界の夜」との関係で思考することが、そして移行全体をカントからヘーゲルへの移行に並行させて思考することが出来る。それは大要以下のよう考えられている。

 すなわち、言語の介入以前の〈現実界〉の象徴化、私たちが言葉を引き受けることで、無意味な諸物の集積が意味的に了解可能な「世界」として開示されるようになること、すなわち「現象の構成」において「死の欲動」/「世界の夜」の契機、この「否定的なもの」の契機が構成的である。

 この裂け目に、この「否定的なもの」に恒常的に関係付けられることで、人間は動物的な欲求ではない固有の意味での「欲望」、肯定的な諸事物によって満足させられることのない「欲望」を持つことになる。今まで主張されてきた通り、「否定性」が欲望を支えていることを想起すれば了解できることだが、欲望を作り出す「幻想」あるいは欲望の原因としての「対象a」は、この「否定性」の場所、この裂開を穴埋めしており、それにより欲望の対象となる。

 さて「欲望」はその対象、〈物〉への到達不可能性、充足の不可能性という行き詰まりに逢着するが、そこからの出口をいかに思考すればいいのだろうか。その答えが「幻想の横断」である。「幻想」はジジェクにとって先の「夜」の裂け目を埋めているものであって、その「幻想」を越えて、この欲望をはじめて作り出し、それを支えている「夜」へと到達することが問題となる。そこで欲望から欲動への主体的ポジションの変化が生じるとされるのだが、正確にここで何が生じるのかを思考する必要がある。

 以上の三点から明らかな通り、ジジェクのヘーゲル解釈、更にジジェクの哲学全体は、「世界の夜」とヘーゲルが呼んだ契機に一切がかかっている。

 それは、ジジェクが「死の欲動」と結びつけて解釈するところ、人間が言葉を話し、意味的に了解可能なものとして世界を開くこと、人間が言語的・理性的動物であること、人間としての人間に対して、構成的な地位、つまり「可能性の条件」としての地位を持ちながら、意味的に了解可能な「世界」/〈象徴界〉に頑なに抗う〈現実的〉なものとして、そしてまた「欲望」を作り出すもの、従って「欲望」の究極の対象として、人間を脅かし、魅惑し、総じていえば徹底的に統べているものである。この絶対的な否定性の次元と人間との関係を明らかにしなければならない。

 以上の主題全てを取り扱うことは困難であるため、本章ではそのことは為されない。第一章との連続性を保つ形で本章は以下の順序で以上で取り扱われた主題が選択的に叙述される。

 ジジェクはカントの体系を「物自体」の到達不可能性に着目して〈物〉との距離を保ち続け充足に至ることのない欲望の主体として特徴づける。だが先の第三点で注目したように「欲望の主体」は「夜」にまで、欲望の対象が埋めている始原の裂け目にまで到達することで、「欲動の主体」に変化を遂げるという基本構図が存在する。

 これがジジェクによればヘーゲルの姿勢を特徴づけるものとなる。本章は、この主体的ポジションの変化を可能にする諸契機を順に追いかける。

 第一節では、この議論の第一の前提となるヘーゲルの『精神現象学』の「導入」冒頭で述べられる方法論を取り扱う。これをジジェクは「メタ言語は存在しない」として特徴づける。この方法論の解明を通じて主体的ポジションの変化の基本的論理が明らかにされる。

 第二節では、主体の変化の直接の契機となる「夜」の存在証明を扱う。そこで先に第一点として取り上げられたジジェクの思惟を追いかける。

 第三節では「夜」の通過によって生じる主体的ポジションの変化の経験が、本章の成果のジジェクによるラカン的用語系への翻訳を通じて取り上げられることになる。

 最後に第四節で、本章で展開されたジジェクのヘーゲル理解を概観しつつ、「欲動の主体」の形象を少々具体化し、更に次章への移行を準備することとしよう。

1、『精神現象学』の方法論―「メタ言語は存在しない」から「絶対的否定性」の場所へ

 ジジェクの視座、カントを「欲望」の主体的ポジジョンとして表現するものとみる視座からしてカントの中心的問題性が「外的でアクセス不可能な存在者(entity)としての物自体への参照」だったことを想起すれば、ジジェクのヘーゲル理解が物自体の地位を一つの焦点とするものであることはすぐに了解できるだろう。この論点を把握するには二つの契機が必要である。すなわち、(1)「メタ言語は存在しない」(2)「超感性的なものは現象としての現象である」。

1-1、「メタ言語は存在しない」

 (1)ジジェクはヘーゲルの認識論的立場とは「メタ言語は存在しない」ということだと表現している(Žižek [1993a:20])。これはヘーゲルの「認識論」批判のジジェクによる言い換えである。ヘーゲルは『現象学』の「導入(Einleitung)」冒頭で、「認識を開始する前に認識能力を調べよう!」という類の認識論を批判する。

 それは認識される客体と認識する主体が切り離されたものとしてあり、それを認識能力が媒介するという図式を暗黙の前提として採用しているのだが、そこでは認識能力による歪曲の疑惑を絶対に晴らすことが出来ないために、真理が認識不可能になるからである。

 それに対してヘーゲルは、ここで前提とされている主客分割と、その認識による媒介という図式は証明されておらず、逆にそれをこそ疑わなければならないという。これは一見「精神錯乱的な独我論」に見える(Žižek [1993a:20])。しかし、ジジェクはこれを「メタ言語は存在しない」という「シンプルな洞察」だととらえ返す。それが言おうとしているのは…

「メタ言語は存在しない」ということなのだ。私たちの持つ認識の見かけと、〈真理の自体〉とを引き離す距離を測ることが出来る中立的な場所に立つなど、私たちには決して可能なことではない。(Žižek [1993a:20=43])

 超越的な「客体 = 物自体」と私たちの現象的な認識との違いを判別しうるような中立的な立場、すなわち、「メタ言語」は存在しない。物自体と私たちの認識との客観的比較は不可能である。私たちは私たちの外、そのメタレベルに立つことは出来ないのだから。だから認識主観と認識対象を予め切り離し、その比較を企てようとする認識論は端的に不毛ということになる。

 もう一度整理しよう。ヘーゲルの認識論批判、その意図は主観と客観の区別を廃棄することにさしあたり向けられているわけではない。それが狙いをつけているのは、認識論、主観と客観を区別し、それを認識能力が媒介するという考え方が暗にとっている「メタ言語」の立場である。それは主観と客観を比較し、その違いを発見できる中立的立場、主観を超えたメタ言語の立場を前提にしている。しかし、そんなものは存在しない。

 では、そのような認識論の不可能性の中でいかなる知の検証が可能なのだろうか。完全に超越的なものとしての客観を想定しても、それと主観的な知との比較は不可能であり不毛な結果に終わる以上、知の検証は意識の内在的過程とならざるを得ない。

 つまり、私たちが認識過程を審査しようとすれば、それは「知 = 意識 = 主観」と超越的な「物自体 = 客観」の比較ではありえず、ヘーゲルが導入で指摘しているように「意識にとっての知」と、あくまで意識に内在的な「意識にとっての真」の比較としてしかありえない。かくしてヘーゲルによって、認識過程から独立した認識論は放棄され、具体的に認識を遂行する意識による、内在的な知の自己検証過程として『精神現象学』が構想されることになる。

 だが、意識による知の自己検証過程はいかにして可能なのか。それは意識を自己意識と捉えることによってのみ可能である。

 単なる認識、意識、対象意識にあっては、「知」の自己検証を可能にする「知」と「真」の分離が発生しない。だが、自己意識によって単なる対象の認識、対象の意識から「対象を私が認識していることの認識」に移行すれば、現に現れているものは「私にとって」現れているものに過ぎず、物自体ではない「単なる現象」と認識されるようになる、つまり、現に現れている対象が「単なる現象」=「知」に格下げされ、それと相関して私の主観的パースペクティブによって歪められていない「真」が立ち上がる。

 第一部第一章で見たところの「自己意識 = 反省 = 否定性」から言い換えれば、対象意識が無媒介的に密着している対象が、「自己意識 = 否定性」により、否定され相対化され、私に認識されているに過ぎない「単なる現象」へと格下げされることによってのみ、ここで現に知っているものとしての「知」とそれに還元されない「真」が分離する。

 だから、意識を自己意識として構想することによってのみ、意識による知の自己検証を可能にすることが出来る。かくしてヘーゲルにあっては「導入」からして意識は自己意識として導入されていると考えられねばならず、実際、意識の最初の形象、「感性的確信」にあっても、そもそものはじめから認識する者とされるものとの区別は自明のものとして導入されているのである。

 しかし、ここでのポイントは、先に見たように、実際には「知」と「真」の分離は意識の内在的過程によって生じたのにもかかわらず、具体的な認識過程のうちにある「意識」、『精神現象学』の目次上の区分でいうところの「意識」にとっては、その両者の比較は、意識の「知」と超越的な対象、典型的には「物自体」との比較として現れているということである。この点が(2)「超感性的なものは現象としての現象である」で問題となる。

1-2、「超感性的なものは現象としての現象である」

 (2)に移ろう。この点に賭けられているのは(1)で見た知の自己検証過程が一応の終わりを見るのはどこにおいてだろうか、という問いであり、「超感性的なものは現象としての現象である」という言葉は知の自己検証過程が一応の終わりを見る、ある種の視点の転換を指示している。これをジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』の五章から六章にかけて説明している(Žižek [2008a:Ch5-Ch6])。

 ここで言われる「超感性的なもの(das Übersinnliche/ the supersensible)」とは、文字通り感性的なものの彼方にあるものであって、典型的には「イデア」や「物自体」のことだと考えてよい。他方「現象」とは私たちに現れてきているものである。ここで「現象」と訳したのは「Erscheinung/appearance」だが、『イデオロギーの崇高な対象』の邦訳は「見かけ」としている。ヘーゲル自身”Erscheinung”と”Schein”のつながりを指摘しているし(Hegel [1986:3-116])、またここでは「見かけ」と訳しておいた方が内容が読み取りやすい面があることは確かである。私たちも適宜、「現象/見かけ」と訳す。

 さて(2)の論点を理解するために、(1)の最後にかけて述べられたことを別の観点からもう一度振り返っておこう。エイドリアン・ジョンストンが”Zizek’s Ontology”で述べていることだが、ジョンストンによるとヘーゲルにおいては「perception(知覚/意識)」に「apperception(知覚の知覚/統覚 = 自己意識)」が先行している(Johnston [2008:136])。

 つまり、知覚に対して知覚の知覚、知覚していることの知覚が先行しているのだという。単なる知覚においては知覚に対する疑問が生じようがないが、知覚していることの知覚は、知覚されているものが単に私にとって知覚されているもの、私に対して現れているにすぎないもの、真ではないものという認識を生み出す。

 これは先に私たちが叙述したヘーゲルの認識過程論についての簡潔な説明となっている。ヘーゲルにあっては知覚から知覚の知覚へ移行することによって、すなわち主体が「反省/自己意識」することによって、現にある知が真ではないものと認識され、「意識にとっての知」と「意識にとっての真」が分離し、かくして知の自己検証過程が稼働するのである。

 さてしかるに知の自己検証過程の内部にある「意識」、『現象学』の目次上の区分における「意識」にとっては、「知」が「真」ではないということは、「知」が真なる超越的な「物自体」に到達しえていないことだと見えている。ここからの決定的な転換点が「意識」から「自己意識」への変化を準備するところで登場する「超感性的なものは現象としての現象である」(Hegel [1986:3-118])という契機である。

 このことが意味しているのは、ジジェクの解釈するところ、超感性的なものないし物自体とは、現象であるという現象、「これは単に現象/見かけであってその向こうに真なる物自体が隠れている」という現象/見かけであるということである。はじめ意識は現象の向こう側に真なる物自体が存在し、それを捉え得ていないのだと考えている。しかし、現象の向こうには何もないのであって、物自体とはまさに、「現象が単に現象/見かけであり、その向こうに何かがある」という、そういう現象/見かけ、その意味で「現象/見かけとしての現象/見かけ」なのである。

 実際ヘーゲルはここで「内的なもの」「超感性的な彼岸」は現象から「生成した(entstehen)」ものであり、それ自体としては「完全な空虚」―ヘーゲルはこれについて「聖なるもの」と呼ばれることもあると指摘している―であって、それを現象、感性的なものが「穴埋め」(Erfüllung)しているのだと指摘している(同)。

 しかし、それだけではない。現象の向こうには何もないのではなく、「無」がある、主体という「無」があるとジジェクはいう。ここで「主体」が云々されることは、一つには問題になっている『精神現象学』の箇所が意識から自己意識への転換点、意識が本質的なものは対象にあるのではなく自己、つまり「主体」にあると気づく転換点であることからして全く不思議ではないだろう。

 現象の向こうに「主体という無」があることを主張するジジェクの次の引用の冒頭にある、「幻想の仮面を外させる」は、ヘーゲルの先に見た「聖なるもの」とも呼ばれる「完全な空虚」を「穴埋め」している感性的なものを抜き取ることとして、ジジェクによって構想されている。この主体という「空虚」な「超感性的彼岸」の場所を「穴埋め」しているものこそ、ジジェクの考える「幻想」である。

「幻想の仮面を外させる」ということは「その背後に見るべきものは何も無い」ということを意味しない。というのは、私たちが見ることが出来るに違いないのはまさにこの無そのものだからである。現象の彼方には何も無いのだが、それはこの無そのもの以外には何も無いという意味であって、この無こそ主体なのである。現象を「単なる現象/見かけ」と考えるためには、主体は実際に現象の彼方に行き、現象を「通り過ぎ」なければならないが、主体がそこに見つけるのは自らの通り過ぎるという行為である。(Žižek [2008a:222])

 これはいかなることを意味しているのだろうか。物自体とは「現象/見かけとしての現象/見かけ」なのだが、現象を単なる「見かけ」と見なし、そうすることで、それと相関的に「見かけ」の向こうにある物自体(の幻影)を作り出すのは主体であるということである。

 先に用いた言葉でいえば、主体が知覚から知覚の知覚へと反省し、意識から自己意識へと転換して、自らの知覚を「単なる見かけ」化・相対化・否定することと相関的に、彼方の物自体の幻影が生じるのである。意識ははじめ知覚の知覚への反省によって、知覚の内容は単に自らに現れているものにすぎないと知り、そこで自分は真なる物自体に到達しえていないのだと考える。

 しかし、(2)の契機によって、実は物自体など存在しないのであり、物自体というのは自らの反省行為、現象を単なる見かけと否定し乗り越える身振り、「主体の否定性」と相関的に現れた幻影であったことが分かる。ジジェクの言い方を借りれば、肯定的内容としての物自体、「聖なるもの」はもともと空虚な場所を埋めているに過ぎない「幻想」なのであり、(2)の契機において主体は「幻想を横断」し、物自体があると思っていた場所で空虚な場所、現象に対する絶対的否定性としての主体、無としての自己自身を経験することになるのである。

 かくして三たび引用すれば「ヘーゲルは物自体(その接近不可能性)の空虚を、主体を定義する否定性そのものと同じものと考えることによってカントをラディカル化した」(Žižek [2008c:158])のであって、「ヘーゲルの「絶対的否定性」はカント的主体の現象的経験を物自体から隔てる裂け目と完全に一致」(Žižek [2008c:61])している。こうしてジジェクによる以下の凝縮された一節を理解することが可能になる。

ヘーゲル的な主体―すなわち、ヘーゲルが絶対的な自己関係的否定性として指し示すものは、現象を〈物〉から隔てるギャップであり、その否定的様態において捉えられた現象の彼方の深淵である。すなわち、現象を限界づける純粋に否定的な身振り、つまり、現象を限界づけつつ限界の彼方のスペースを埋めるような肯定的な内容を一切与えないような身振りなのである。 (Žižek [1993a:21])

 主体とは現象を「単なる現象」として限界づける否定的身振りだが、その向こうに物自体(「肯定的な内容」)があるわけではなく、そこには主体という無、主体による現象の否定の身振りしかない。そういう意味で主体とは「単なる現象」の彼方の深淵であり、絶対的否定性としての主体は物自体と現象を隔てるギャップそのものなのである。

 このことを表現するジジェク的公式が「限界づけが超越に先立つ」、つまり、現象を否定し「単なる現象」に過ぎないと限界づけるヘーゲル的主体の否定性がカント的な超越的物自体に先行するという公式である(Žižek [1993a:35])。このことに気づくこと、この「物自体」へ到達することの一種独特の挫折によって、『精神現象学』において、超越的な対象にこそ本質があると考える「意識」は、自らこそが本質であると見なす「自己意識」へと変化するのである。

 さて、私たちは先に(2)を知の内在的な自己検証過程が一応の「終わり」を見る契機であると規定しておいた。実際、ヘーゲルは目次区分上の「自己意識」の始まりからそう遠くないところ、主奴論の直前で既に自らの立場を現す語である「精神(Geist)」を導入し、ここに既に「精神」の概念が現前していると語る。

 私たちは先に差異論文の簡単な検討を通じて、ヘーゲルの根本構図として、有限なものの多様が、絶対的否定性としての絶対的なものへの還元(思弁/収縮)と、そこからの再産出を経て、「全体性」のうちに「必然的な」位置を得る(体系/拡大)ということを語っておいたが、この「精神」が導入される場所でのヘーゲルの語りは、この構図を、そしてまた本項での読解を裏付けるものである。

意識は、精神の概念としての自己意識のうちで初めてある転換点を持つ。その転換点において、意識は、感性的な此岸の多彩な見かけと超感性的彼岸の空虚な夜から、現在する精神的な昼へと歩み出るのである。(Hegel [1986:3-145=1971:182])

 「精神」の次元は「感性的な此岸の多彩な見かけ」と「超感性的彼岸の空虚な夜」から「歩み出」たものである。つまり、両者の通過を前提としているのである。

1-3、「絶対的否定性」の場所へ

 しかし、ここで二つのことが言われなければならない。第一に意識の否定作用が超感性的彼岸の「空虚な場所」を作り出すのだとしたら、つまり、意識が「物自体」、〈物〉、「聖なるもの」が埋める超感性的な空虚な場所を作り出すのだとしたら、あらかじめ意識は感性的なもの全体を超える「絶対的否定性」でなければならない。

 さらに第二に、前項が取り扱った転換がいかにして生じるかといえば、「絶対的否定性」が生起し、感性的なものが否定され飛び越され、そこに物自体があるのではなくてまさに主体という無があるということ、「超感性的彼岸の空虚な夜」が実際に経験されることによってのみである。

 この二つのことが要請すること、それは主体をあらかじめ「絶対的否定性」であるもの、絶対的な「無」に他ならないものとして解明し基礎付けることである。

 主体をそもそものはじめからの「絶対的否定性」として証示することが出来て初めて、日常的な私たちの生からもっともかけ離れている超感性的彼岸の場所を開いているのがまさに「主体」であることが、そして意識が再び自ら作り出した超感性的なものの場所に行けることが、そして、そこで他の何ものでもない自分自身という「無」を発見するのだということの可能性が根拠づけられるからである。

 こうして私たちは、主体をあらかじめの「絶対的否定性」として解明することへ、「世界の夜」をめぐる議論へと歩を進めなければならない。それが次節の中心課題である。

2、The only true Sache des Denkens―「世界の夜」

 ジジェクはシェリング論”The Indivisible Remainder”の冒頭近くで以下のように宣言している。

私たちのテーゼはより複雑なものである。ヘーゲルの場合と同様、シェリングの場合も、偽りの表向き(シェリングを非合理的な根底の哲学者、世界霊(Weltseele)の哲学者等々とするミスリーディングな標準的イメージ、ヘーゲルを絶対的観念論の哲学者、完遂された〈概念〉の自己媒介の哲学者等々とするミスリーディングな標準的イメージ)は前代未聞の壊乱的な身振りを隠すと同時に含みこんでおり―ここに私たちの究極の前提があるのだが―この身振りは両者の場合で同じなのである。(Žižek [2007:6])

 そして、この身振りこそが「唯一の真のSache des Denkens」(同)、つまり、「思惟の課題」である、と。さて、これが「世界の夜」という語に凝縮される契機であり、ジジェクはこの絶対的に否定的なものの契機を言語の介入以前の世界という意味での〈現実界〉の象徴化の過程に、言語的に分節され意味を持つ「世界」、〈象徴界〉、「ロゴス」の創設の場所に位置づける。こうすることによって、主体をあらかじめの、世界そのものの開示、すなわち「開闢」に先立ち、それらを可能にする「絶対的否定性」であるものとして解明することが出来る。

 私たちはパーカーの言う「不可能性」に反して自らをジジェキアンと言っても差し支えないと考えているのだが、それはここにのみ、この絶対的に否定的なものの絶対的に始原的な原運動、人間を人間として初めて可能にし、かくして人間としての人間を徹底的に統べているこの原初的否定性にのみ真の「Sache des Denkens」があるということについて私たちが留保無く賛成することにもっぱら基づいているといえよう。

2-1、「神話」から「超-超越論的」な探求へ

 シェリング論にあってジジェクは、この「ロゴス」以前、世界の開示以前、言語以前、「理性」以前を語るに際しては一種の「神話」を要すると語り(Žižek [2007:9])、神による世界創造以前、「初めに言葉ありき」以前の、〈現実的〉な「盲目的欲動の混沌的-精神病的宇宙」「欲動の回転運動」「欲動の差別化なき拍動」、この現実性の究極の支えの中に、そこから言葉が生じ、神が神自身に開示、「現象化」され、「世界/ロゴス」が開かれるためになければならない「無底(Ungrund)」「絶対無差別」「自由の深淵」「無を望む非人称的意志」―そしてこの対によって本章が始まったことを想起する必要があるが―総括的に換言すれば、世界の開示という「拡大(Expansion)」があるために言語以前の〈現実界〉に無ければならない始原の「収縮(Kontraktion)」について語っていた。

 だが、ヘーゲルにおける「同じ」契機に焦点を絞った”The Ticklish Subject”では、「神話」という契機は後退し、「世界の夜」を思考するにあたり、「これこれの事態を説明するためには、その「可能性の条件」としてあるものを「あったと想定しなければならない」」という超越論的な思考法が採用され、「世界の夜」にカント的な「経験的/超越論的」の差異の産出の可能性の条件、すなわち、超越論的な構成、世界、ロゴスの可能性の条件の地位が付与されることにより、それはいわば「超-超越論的」な探求の対象となる。それは単に経験的なものの可能性の条件ではなく、「経験的/超越論的」の差異の、超越論的なもの自体の可能性の条件とされるのだから。

 この「神話」から「超-超越論的」な次元への移行は、ここで何かしら根拠づけなるものが可能なのかどうか不可解な領域に属するものであって、そこは端的に深淵的な場所であるようにも見える。先に述べたように、ここにジジェクにおける何かしら無根拠的なものが見いだせるのかもしれない。何はともあれジジェクによるこの論点の練り上げを追跡しよう。

2-2、「世界の夜」の場所を定める

 ジジェクはあるインタビューにおいて自らの根本的な問題意識を精神分析における「死の欲動」とドイツ観念論における「否定性としての主体性」を組み合わせること、後者から前者を読解することであると指摘している。その一つを再び引用することから始めよう。

私を本当に惹きつけているのは次の洞察です。(…)精神分析理論のまさしく中核となる部分を覗き込んだとしたら、そこにあるのは適切に読みかえられた死の欲動です。快原理の彼岸、自己破壊性等を指す、この死の欲動の観念を適切に読解する唯一の方法は、ドイツ観念論における自己関係的否定性としての主体性の概念を背景として読むことです。つまり、私は「精神分析の主体はデカルトのコギトである」というラカンの指摘を文字通り受け止めているのです。といっても、もちろんカントとシェリングとヘーゲルによって読み直されたコギトだ、とは付け加えておきますが。(Žižek, Rasmussen [2007])

 ジジェクはここで「ドイツ観念論」と言うが、典型的にはヘーゲルを意識している。以下では、まず第一項でヘーゲルにおける「否定性」の意味内容を参照し、次に第二項でジジェクに即してこの主体概念の思想史的発展をごく簡単に追跡し、最後に第三項でこの主体概念の理論的輪郭を描き、その概念の正当性、ジジェクの言葉を使えば、いかなる意味でそれが「ここにいつもあり」、「爆発しそうになりつつ私たちを支えている」(Žižek, Daly [2004:65])といえるのかを解明する。最後に第四項では本節の歩みを簡単に振り返ろう。

2-2-1、ヘーゲルにおける「否定性」

 自己関係的否定性としての主体に関するヘーゲルの理解は、意志に関して包括的な叙述がなされる「法哲学」の諸論において典型的に定式化されている。第一章で見たところだが「法哲学」の実質的な始まりを告げる§5の定式を再び引用しよう。

§5 意志はα)純粋な無規定性という要素、あるいはそのうちでは全ての制限が、自然や必要や欲望や欲求を通じて直接的に存在している全ての内容、どこからであれ与えられ規定された全ての内容が解消されているような自己の自己自身への純粋な反省という要素を含む。これは絶対的抽象ないし普遍性の制限なき無限性であり、自己自身の純粋な思惟である。(Hegel [1986:7-49])

 ヘーゲルはこれを抽象的普遍性、抽象的否定性、否定的自由などと呼んでいる。ここでこの主体が「自己関係的」「否定性」と呼ばれる理由を明らかにしておこう。まず「否定性」から見ると、この主体はそのうちに内容を持たない、肯定的に「~である」と付加できる述語を持たない。そのためそれは「規定/限定」されず、「純粋な無規定性」「無制限な無限性」であり「否定性」である。

 ではなぜこれは「自己関係的」と、あるいは上のヘーゲルの言葉では「自己反省」と言われるのだろうか。それはヘーゲルの反省の語の理解によっている。ヘーゲルの述べるところ「反省(Reflexion)」とは「反射(Reflexion)」であり、光が鏡にぶつかってもとの方へ戻ってくるように、精神が対象から自己へと戻ってくる運動である。この運動において主体は対象を無きものに、つまり否定する。かくして反省とは主体が対象を否定して自己のもとへ帰り自己関係することである。その極限が、一切の具体的な対象を否定して自己へと完全に回帰すること、純粋な自己反省としての「抽象的否定性」だということになる。。

2-2-2、「否定性としての主体」の思想史的生成

 しかし、この点を素朴に考えれば、なぜ主体、つまり私たちは肯定的内容がなく「無(制)限」な「否定性」なのだろうか。明らかに私たちは世界の中に存在する実体的存在者であって、それゆえ実体的な内容、「肯定的」な述語で規定できる、ある「限定」された内容をもっているのではないか…。

 これに対する答えはヘーゲル/ジジェクが考えているのが、いわゆる超越論的主体だからであるというものになる。それゆえジジェクの主体にまつわる議論は、常にその方法的懐疑において世界の実在までも疑い、ということは、世界から切り離された「コギト」へ到達したデカルトから始まるのである。

 しかし、先のジジェクの指摘によれば「コギト」はカントらによって読み直されなければならなかった。なぜか。それは先にも見たようにデカルトがコギトを実体化することで、世界全体と相関させるのではなく世界の一部と見なしたためである。「宇宙についてのデカルトの最終的ヴィジョンでは、コギトは…現実性の一部であって、現実性の全体の相関項ではいまだない」(Žižek [1993a:13])。デカルトのコギトは、現実性・世界の一部であり、それゆえ肯定的・実体的な存在で、まだ現実性・世界全体に相関する世界の外部、非実体的で内容空虚なもの、「否定性」ではないのである。

 ジジェクによれば、この点に更なる突破をもたらしたのはカントである。ジジェクの読解するところカントは「私は考える」(コギト)という全ての表象に伴う空虚な形式(超越論的主体・超越論的統覚・純粋統覚)から、考えるモノ(「レス」・コギタンス)、ある実体的内容をもった存在を推論できないことを明らかにした。

 カントはデカルトと違って、「私は考える」の実体なき超越論的主体から、ある肯定的な内容をもった実体的な主体(レス・コギタンス)へと横滑りしないのである。この議論の文脈で一瞬だけ、ジジェクはウィトゲンシュタインの「見られる現実性の一部にはけっして成りえない目のメタファー」(Žižek [1993a:13])に触れている。

 とすれば、ここに働いている移行はウィトゲンシュタインが目のメタファーとの関連で用いた言葉で以下のように表現してもよいだろう。すなわち、主体は「世界の部分」ではなく「世界の限界」である、と。ジジェク自身、別のところでカントによって主体は「世界の部分」ではなくなったと言明している(Žižek 2008c:157)。

 しかし、ジジェクによればカントの議論も十分ではなかった。このことはジジェクにあって、前章から前節にまで引き続いた「物自体」の想定の誤りとして総括される誤謬だが、カントは「純粋統覚の私と自己経験の私とのあいだの関係を〈物〉と経験的な現象とのあいだの関係ととらえたい誘惑に幾度となく囚われていたから」(Žižek [1993a:14])である。

 つまり、カントは超越論的主体を、まったき「空虚/否定性」としてとらえきることをしなかった、少々複雑だが、超越論的主体(「純粋統覚の私」)を、超越論的主体に経験の対象として現れる現象的主体(「自己経験の私」)の物自体と考えたのである。

 このことはジジェクの視座からすると主体を物自体のレベルで実定的・肯定的な世界に再び書き込もうとすることを意味する。他方で前節から明らかな通り、ヘーゲルはこの超越論的主体の物自体でも現象的でもない独自の地位、ジジェクのいわゆる「第三の領域」、現象を超えた否定性であって、肯定的な内容としての物自体が埋めるであろう空虚な場所、現象の彼方の「無」を形作る主体を理論化したということになる。

 ヘーゲルの主体は現象的でも物自体でもなく、現象の彼方の空虚そのもの、まったき否定性である。だからヘーゲルにおいて、前項で引用した通り、少なくとも一面において主体は内容を完全に消去された純粋な否定性として把握されることになる。

2-2-3、否定性としての主体―ジジェクの主体理解

 次に理論的なレベルで「否定性としての主体」の議論を再構成しよう。本節の中心的問題は、最初に確認された通り主体を先行的に「絶対的否定性」であるものとして解明すること、言い換えるなら、何故この絶対の否定性としての主体性、そしてジジェクにとってはその別名である「死の欲動」が「ここにいつもあり」、「爆発しそうになりつつ、私たちを支えている」といえるのか、その「根拠」であった。

 以下では、(ⅰ)「否定性」「死の欲動」としての主体($)とは何か、(ⅱ)ジジェクにおける主体($)と主体化の差異、(ⅲ)主体($)の地位(ア・プリオリかア・ポステリオリか)、と議論を展開し、(ⅳ)で最終的な「根拠」となる「世界の夜」をめぐるジジェクなりの議論を検討する。最後に(ⅴ)では以上のジジェクの議論を再びヘーゲルに差し戻して確認することとしよう。

(ⅰ)$とは何か

 ここでジジェクの出発点と見なすべきなのは、フランスでの博士論文『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』で既に明示されていることだが、第一章でも簡単に触れた通り、精神分析はドイツ観念論で獲得された主体による世界の「措定/構成」という考え方を受け継いでいるという洞察だろう。これはカントのコペルニクス的転回(「われわれの経験の可能性の条件は、同時にまた経験の対象の可能性の条件である」)の言い換えである。

 私たちは「生の現実」に触れることはない。私たちが経験する対象は、私たちが経験する限りで常にすでに一定の認識的枠組みを通じて媒介され構成されており、それによって初めて対象として可能になっている。少々ハイデガー風味を加えつつカントに即して述べれば大体以下のようになるだろう。

 まずもって外界から触発され、そこで認識が開始される受容的な「直観(Anschauung)」とは、まさに外界に「即して(an)」見ることであり、ある種スナップショットような形で一瞬一瞬を映し出すものである。さて私たちにとって諸物は直ちに特定の何ものか「として」、例えば目の前にある直方体は「本」「として」現れているが、直観のレベルではこのことは全く自明ではない。

 一枚のスナップショットを虚心坦懐眺めれば、そこにあるのは何ものか「として」ある諸対象ではなく、単に様々な色ののっぺりとした雑多な並列だけだろう。諸対象間の区別は、すでに別方向からの視点を前提としている。様々な方向からの視点、多数の直観を「綜合」した対象の像を前提としているのである。

 さて、この「像(Bild)」を作り出すもの、複数の直観を組み合わせ「綜合」して像を作り出す能力、精神の最初の自発的な能力は「構想力(Ein’bild’ungskraft)」である。

 さらにこの像は概念により何ものか「として」規定されていなければならない。これが概念を司る「悟性」の仕事であり、構想力が作り出した像を、悟性が何ものか「として」規定することで、初めて諸物が諸対象、特定の何ものか「として」現れうるのである。

 さらに私たちの経験においては諸対象が現れるのみではなく、それらが並び立つ「一貫した経験の領野」が存在している。とすれば、この一貫した経験の領野、「統一/一性」(Einheit)を作り出している審級が無ければならないが、その審級はこうした一貫した意味的な世界に属する一切の表象に伴いうる、つまり、潜在的には伴っているものでなければならず、経験の一貫性を作り出すためにそれ自身一貫したものでなければなならない。これがカントによって悟性そのものとさえ言われる「超越論的統覚」である。

 さて、この経験をはじめて経験として可能にする、カント的な超越論的な次元と並列させる形で、ジジェクは世界が言語のネットワークによって分節されていることを示す〈象徴界〉というラカン用語を理解する。この「現実性の超越論的構成」はジジェクの議論の前提といっていい部分だが、第一章で提示した、このことの根拠づけに一つ付け加えるとすれば、ジジェクの述べるところ、現実性の被構成性は現実性の脆弱性によって示される。「その究極の証拠は「現実喪失」の経験である。そのトラウマ的性格のために、私たちの象徴的宇宙に統合できない何かに遭遇した時、「私たちの世界はバラバラに崩れ落ちる」」(Žižek [1993a:89])。

 では、この超越論的構成において「否定性である主体」はどこにいるのか。それは、まさしくこの世界を構成している主体、そうすることで経験一切の可能性の条件となっている超越論的主体、その中核にある契機である。

 まずはこの主体の性質について、それが何であるかについて考えを進めていこう。世界が主体によって構成されているということは、純粋な対象意識が存在しないことを意味している。主体はどんな対象の経験にしても、生のままの対象を経験することはなく、その経験は暗黙のうちに対象を構成している自己への「関係」性、自己関係を含んでいる。

 カントのいうように超越論的統覚は一切の表象に伴いうる。だから、ジジェクによると超越論的主体という主体の構想は人間の欲望は常に「欲望の欲望」であるというラカンの考え方と同一である。どんなに「自然」と思われる欲望でも、人間の場合には主体の「媒介・関与」が存在し、主体によって欲望されていない限り、それは欲望として効果を発揮しないのである。

 ここで注意するべきことが二つある。第一に、この超越論的主体による世界の「意味的な」構成といった発想は一見そう見えるほど突飛なものではないということである。私たちの現実認識が言語的に分節され構築されているといった考え方は広く受け入れられている。

 しかし、だとしたら誰が世界を分節し構築しているのか。ここで明らかに経験に先立ちそれを構成している超越論的主体が想定されなければならない。ジジェクの立場、ジジェクが考えるラカンの立場はこう表現することが出来よう。やはり超越論的主体は想定されなければならない。しかし、無意識の主体として、と。

 これが注意するべき第二の点である。ジジェクが明確にしているように、この超越論的主体は「自己への透明性」としての主体とは異なるということである。主体によって世界が構造化されており、一切の経験に際して最小限度の「媒介・関与」があるにしても、それは主体が対象を意識している時に、つねに「実際に」自己意識しているだとか、自己の対象への関与のあり方に意識的だとかして、一切を完全に認識下に置き、自己への透明性を確保していることを意味しないからである。

 そこでの反省・自己意識は暗黙・潜在的(implicit)な「潜在的反省性」であり、また対象への関与の有様も自ら意識できるわけではない。それらは「潜在的には明確に反省可能」というよりも、さらに強く、少なくとも不可能ではないとでもいうべき位相である。

 というのもジジェクによれば、主体による世界の構成、媒介行為、そのうちで意識化出来ないものこそ真正な意味で「無意識」だからである。「無意識」がこのように考えられているからこそ、「無意識の主体はデカルトのコギトである」ということが出来るのである。

この「潜在的反省性」は意識的活動に限定されており、そういうものとして、私たちの無意識的行為が欠いているものであると考えるかもしれない。私が無意識に行為するとき、私はあたかも盲目な衝動にしたがっているかのように、あるいは擬似自然的な因果性に従属しているかのように行為しているのだ、というわけだ。しかし、ラカンによれば、「潜在的反省性」は単に無意識に「も」認められるというだけでなく、これこそまさに、最も根源的なレベルにおいて、無意識そのものなのである。(Žižek [1998:265])
 
 このような「無意識」の位置づけは説得的だろう。というのも単なる物理的自然的な過程などは「抑圧」されたりすることはありえないし、精神分析がそうするように言語的に介入できるものでもない。真に「無意識」と呼ぶべきものがあるとすれば、意識が暗黙のうちに関与しつつも自覚的には意識しえない部分、意識が「知っていることを知らない」部分でなければならないからである。

 ここでジジェクがたびたび引き合いに出す、「無意識」の中核にある「幻想」の「客観的主観性」という奇妙なステータスについて述べておくのが有用だろう。「幻想」とは「知っていることを知らないこと」であって、超越論的主体の構造化によっていながら(=ある意味で知っていながら)、意識には知られていない部分のことなのである。

 「幻想」はもちろんその人だけの物の見方として「主観」的なものだが、単純にそうなのではなく、他の人からみると、つまり客観的には、その人は「幻想」に従って物を見ているようにしか見えないのだが、しかしその人自身はそれに気づいていないようなものであって、その意味で「客観的主観性」である。これは「無意識の主体としての超越論的主体」(つまり、現実経験を構成しつつ、しかし、意識できないような次元)を想定しなければ考えることが出来ない。

 さて、話の本筋に戻ろう。そのような主体、「世界の部分」ではなく「世界の限界」である超越論的主体の中核に存するのが「否定性である主体」である。ジジェクの主体理論のラディカルな部分は、本節冒頭のヘーゲルの引用が示しているような契機、私たちが一切の具体的内容を否定して、この主体、純粋な否定性、「世界の限界」へと後退する、世界から主体へと「引きこもる(withdrawal)」という経験の存在可能性を超越論的主体に初めから内在しているものとして肯定するところにある。この可能性の「根拠」を明確にする前に、序論第四章でも触れた主体と主体化の違いを再度明確にしておくべきだろう。
 

(ⅱ)主体(subject)と主体化(subjectivation)

 ジジェクは主体と主体化を明確に区別している。この区別は否定性と肯定性の区別であり、主体は内容なき純粋な否定性として「$」の記号で示されるのに対して、主体化は主体が肯定的な内容を引き受けることを意味する。

 主体化に関する議論としてジジェクが引き合いに出すものには、ラカンの初期の議論である鏡像段階論およびアルチュセールのイデオロギー論、さらにミードの社会的相互行為からの自我の生成論などがある。鏡像段階論においては主体は鏡像のうちに自己のイメージを見出し、それに同一化する。アルチュセールのイデオロギー論では国家のイデオロギー諸装置の呼びかけにこたえて、個人は諸々の主体位置を引き受けて主体化する。ジジェクの議論の要点は主体化に対して主体の契機を強調することである。主体の否定性によって主体化は常に挫折を強いられる。

(ⅲ)主体($)の地位―ア・プリオリかア・ポステリオリか

 では、主体化に対する主体の優位、肯定性に対する否定性の優位、世界の部分に対する世界の限界の優位の「根拠」は何か。しかし、「根拠」の前にはっきりさせておくべき点がひとつある。主体($)と主体化の関係についてのジジェクの論じ方には曖昧さがあるからである。

 それは否定性の空虚な点である主体($)は、私たちの意味的経験、あらゆる主体化に先立つある種「ア・プリオリ」な構造であるのか、それとも同一化・主体化の度重なる失敗の末に出現する「ア・ポステリオリ」なものなのか、という点である。

 ジジェクは一方で主体化の前に主体があるようにも語り、他方で主体は主体化の失敗の遡及的効果であるようにも語る。ジジェクの主体理論を「超越論的-唯物論的主体理論(transcendental materialist theory of subjectivity)」として一貫した形で再構成したエイドリアン・ジョンストンはこの点で自覚的に後者を選択している。ジョンストンが結論的に指摘している部分を少々長く引用しよう。

コギト的な主体の個性的内容なき匿名性は、ジジェクが時折示唆するような、主体化・同一化の連続に先立つア・プリオリで構造的な空虚としてあり、主体化・同一化が構成された現実性のうちでこの穴を埋めようと試みるが結局は失敗するといった類のものではないのである。むしろ、この穴は、主体化が依拠する全ての指標(operators)の偶然性がますます明らかになっていくことで徐々に穿たれていくのである。ここで偶然性というのは、主体の同一化(性)を決定づける主人のシニフィアンが互いに競り合い押しのけあうなかで生じる、様々なヘゲモニー的な主人のシニフィアンの栄枯盛衰を通じてのみ明らかになるものである。簡潔にいえば、「同一化の狂った踊り」が激しいものになればなるほど、$の同一性なき空虚がよりはっきり見えるようになるのである。(Johnston [2008:231])

 議論の大筋は明らかだろう。ジョンストンによれば、同一化・主体化、つまりあるイメージであれ象徴的な特性であれ、何らかの肯定的な諸内容の引き受けが「先に」存在するが、しかし、それは時間的な変化とともに偶然なものであることが明らかになってくる。

 個人は主体化によってある「指標(operator)」に同一化するのだが、そのoperatorとその個人の実際の内容が異なっていることが明らかになるというのである。そうするとoperatorと個人の内容の「ズレ(gap)」として内容なき空虚としての$が生じてくるという。ジョンストンはこの理論構成において最終的に「時間性(Temporality)」を重視することになる。現在問題になっているのは$の「根拠」であるが、ジョンストンの議論の流れにおいては、それは時間的経過、それによる個人・経験・世界の移ろいやすさ、そのために同一化するべき指標の偶然性が明らかになってくるような「時間性」であるということになる。

 さて、しかしここで疑問が湧いてくる。時間経過に応じて個人の属性が変わる、そうすると主体化が依拠する特性は個人の実情とズレてくるといった議論からは、主体($)の「否定性/空虚」という認識、主体には全く内容がないという認識は生じえないように思われるからだ。主体化と個人の実情がズレてくれば、また新しい同一化するべき指標を見つければ良いだけの話で、そこには様々な肯定的内容の交代があるだけであり、そこには主体の「無内容性/否定性」は存在しないように思われる。

 この点、ジジェクの考えはどうなっていると見るべきだろうか。私たちの判断するところ、ジジェク中での優勢な選択は「ア・プリオリ」である。確かに私たちが常に自らを絶対的否定性として経験しているわけではないが、主体が主体であるというだけで、絶対的否定性を通過しており、そのようなものとして現れうるような可能性を内蔵しているという意味でのア・プリオリである。そのような主体のア・プリオリな性質があればこそ、主体の内容の絶対的な否定という経験がありうる。この点を明白に語っている部分を引用しておこう。以下の引用における「Versagung」とは、このジジェクの文脈では空虚な主体の出現を意味している。

ここでひとつ、決定的な誤解が退けられなければならない。以上のように考えられた場合、Versagungは何か二次的な、象徴的運命の織物のうちに長い間完全に閉じ込められた後で初めて現れるといった類のものではない。それは反対に「原初的」である。つまり、(…)主体のシニフィアンへの最も初歩的な関係のうちに潜在的に(in potentia)含まれているものなのである。(Žižek [2008c:210])

 だからジジェクの立場では主体はあらかじめ「無」を通過している。「私たちは〈空虚〉(Void)を私たちが通過するべきもの(そしてある仕方で常にすでに通過してさえいるもの)として措定することも出来る。そこにヘーゲルの「否定的なもののもとへの滞留」の要点があるのだ」(Žižek [2008b:xxx])。
 さて、本項ではジジェクにあって主体の否定性が始原的でアプリオリという地位が割り当てられていることが明らかにされた。そこで本来の課題、そう言いうる「根拠」、つまり主体($)の優先の根拠は何かという問いへ戻ろう。

(ⅳ)「世界の夜」

 本節の冒頭近くにおいて引用したヘーゲルの「抽象的否定性としての主体」を扱った一節を想起しよう。ジジェクが考えているのも、これと同じ肯定的内容一切の絶対的否定にして世界から自己へと引きこもる契機である。ジジェクはこの点を考える際に依拠するのは、抽象的否定性に対応する「ヘーゲルが若いころのより詩的な用語」(Žižek [2000a:82])である「世界の夜」である。まずその一節を引用しておこう。

心像は精神の宝庫のうちに、精神の夜のうちに保存されている。この像は意識を欠いている。つまり、対象として表象の前へ立てられているわけではない。人間はこの夜であり、全てをこの夜の単純態の中に包み込んでいる空虚な無であり、無限に多くの表象と心像とに満ちた豊かさなのである。とはいえ、これら表象や心像のいかなるものも、人間[の心]にただちに浮かんでくることもなければ、あるいは、現前的なものでもない。ここに実在するものは夜であり、自然の内奥、純粋な自己である。幻影に満ちた表象のうちには、あたり一面の夜が存在しており、こなたに血まみれの頭が疾駆するかと思えば、かしこには別の白い姿が不意に現れてはまた消える。人がこの夜を見て取るのは、人間の目を覗き込むとき、恐るべきものとなる夜へと見入る時である。ここでは世界の夜が立ちこめているのだ。 (Hegel [1986a:172=118-119])

 ジジェクはこれを、恐らくはヘーゲルのもっとも有名な一節の一つと、一緒に読むことを提案する。すなわち、『精神現象学』のはしがきにある「否定的なもののもとへの滞留」をめぐる一節である。

自らのうちに閉じられ安らっており、実体として自らの諸契機を保持している円環は直接的で、それ故何ら驚くべきもののない関係である。しかし、その圏域から切り離された偶然的なものそのもの、[他のものに]結びつけられ[てい]たもの、他の現実性とのつながりのうちにのみあったものが、それ固有の現存在と他から切り離された自由を獲得することは否定的なものの途方もない威力である。それは思惟の、純粋自我のエネルギーである。死、私たちはここに生じる非現実性をそのように名付けたいのだが、その死は最も恐ろしいものであり、死を固定することは最大の力を要求する事柄である。力なき美が悟性を憎むのは、悟性が美に美がなし得ないことを要求するからである。しかし、死を前に怖じ気づき、荒廃に対して自らを清く保つ生ではなく、死を担い抜き、死の中で自らを保つ生こそが精神の生である。精神は絶対的な引き裂かれのうちに自らを見いだすことによってのみ自らの真理を獲得する。(…)精神がこの威力であるのは否定的なものを直視し、そのもとに滞留することによってのみである。この滞留が否定的なものを存在へと逆転する魔力なのである。この魔力は先に主体と名付けられたものと同じものである。 (Hegel [1986:3-36])

 さてジジェクはこの二つを主体の自己への引きこもり、内容不在の純粋な主体($)、純粋な否定性としての主体の経験と解釈する。しかし、どこにこのような場所があるのか。この経験の「根拠」は何か。

 ジジェクはそれを自然と文化の「消滅する媒介者」、言語的分節以前の無意味な存在者の集積という意味での〈現実界〉(自然)から、私たちが日常的に経験する、言語的に分節された、意味的に了解可能な「世界」、つまり〈象徴界〉(文化)への移行の地点に位置づける。

 「世界の夜」は、私たちの世界が意味的に経験されている、つまり言語的に分節されている、そしてまた同じことだが、(ⅰ)での議論での言葉を用いれば、一切の表象に対する主体の最小限の関与・媒介、一切の表象に伴いうる超越論的統覚、これらを前提とすると、かつてあったと「想定されなければならない(have to be presupposed)」契機なのである。

 この点をあるところでジジェクはカント、あるいはハイデガーのカント読解の問題へと、これまたかなり独自の解釈が加えられているのだが2)ハイデガー自身におけるカント書の意義と位置づけ、それとジジェクによる転用の差異については次章第三章で検討する。、送り返している。

 カントの物自体と現象の二元論から出発しよう。物自体にも様々な側面が帰せられるが、もし現象として現れる以前の外界という側面を取り出せば、私たちの世界経験において何よりもまず「物自体 = 前象徴的〈現実界〉」があるといえる(だろう)。しかし、人間はこれに直接到達することはできない。人間は直観において物自体からの触発を受容し、次に超越論的構想力を経て悟性が概念を用いて自発的に現象を構成することになる。これが私たちの日常的現実をなす。

 ハイデガー/ジジェクはここで超越論的構想力に注目すべきことを提案する。ここでこそ、直観の「受容性」から、悟性の構成する「自発性」への移行が果たされうるからである。「構想力(imagination)は同時に受容的でありかつ自発的である。構想力のうちでは私たちは感性的イメージに触発されるという点で「受動的」であり、主体は自由にイメージを生み出すため、この触発は自己触発であるという点で「能動的」である」(Žižek [2000a:27])。

 ハイデガーが構想力に注目するのは、彼は『純粋理性批判』を存在論の根拠づけ、いわゆる「基礎的存在論」として読んでおり、『存在と時間』の言葉でいえば「存在了解のための超越論的地平」を求めているために、主体の存在了解の根源、存在了解の可能性の条件の根源へと遡行しなければならないためである。

 他方のジジェクの関心は、この超越論的構想力の否定的・破壊的な力を強調することである。ジジェクはこの超越論的構想力を、ヘーゲルの「世界の夜」と等号で結ぶ。実際、「世界の夜」は明らかに「構想力 = 想像力」によるイメージの散乱として叙述されていたことを想起しよう。

 さて、この見方においては、超越論的構想力は主体の自発性・構成力が生起する場所であって、そこでは世界を構成する主体が物自体から自己を切り離し、自己の内に引きこもり、物自体をバラバラにして、それを悟性-概念による構成へと引き渡す、つまり言語的・意味的な世界へと再構成へと引き渡す。さて、超越論的構想力に何故そのような否定的な性質を帰することが出来るのか。ジジェクは二つの根拠を挙げている。

この相互関係は、にもかかわらず、構想力の「否定的」で破壊的な側面に先行性(precedence)を与える。その理由は、諸要素をまとめ上げる試みのためのスペースが開かれるためには、諸要素はまず初めにばらばらにされなければならないといった明白で常識に属するものだけではなく、より根源的な理由も存在する。すなわち、主体の還元不可能な「有限性」ゆえに、「綜合」の試みは常にミニマルな「暴力性」かつ破壊性を含んでいるということである。(Žižek [2000a:32])

 第一に、諸要素が綜合されて、「自然/物自体」とは全く異なる領域として、現象の領野・〈象徴界〉・文化がたち現われるためには、物自体・〈現実界〉・自然はバラバラに引き裂かれなければならない。

 そして第二に、ジジェクがハイデガーのカント解釈から相当に変化を加えて転用した考え方だが、物自体に触発される主体の直観の「有限性」のために、現象の領野の生成、すなわち綜合行為は物自体を破壊し再構成するという歪みを持たざるを得ない。というのも、直観が無限だとしたら主体の認識は物自体に直接到達し、現象の領野の構成、言語による現実の分節といった自由は存在しえないからである。

 逆にいえば、直観が有限だからこそ、現象ないし世界の意味的な生成があるのであって、またその有限性ゆえに、現象の生成には暴力性が不可避である。かくしてジジェクの考えるところ私たちが意味的な言語的に分節されている世界に生きていることは、否定性である主体の存在を前提としているのである。

 だからこそ、ジジェクの述べるところ、否定性、空虚としての主体が、主体化の、さらには世界の象徴的構成の可能性の条件としてそれらに先行しており、それを制約している。その絶対的否定性の次元は「いつでもここにあり」「爆発しそうになりながら、私たちを支えている」。

 人間は言語のうちに住むことで「死の欲動」に取り憑かれる。「世界の夜」/「死の欲動」は「経験的/超越論的」の差異の生成の可能性の条件、その差異の産出作用を名指しているのであって、これがジジェクの見るところ象徴化に抗する〈現実界〉のもっとも根本的な次元なのである。

(ⅴ)ヘーゲルに即して

 さて、ジジェクの読解の中心点、ヘーゲルの絶対的否定性の場所は前象徴的〈現実界〉から〈象徴界〉への移行、物自体から現象への移行、超越論的構成、すなわち、「経験的/超越論的」の差異の産出、これらの過程においてあり、それは「超越論的主体」そのものの創設の場所であるという点は、ヘーゲルに即しても正当化可能だろう。

 本章の最初で言及された『差異論文』の二重性へ戻ろう。そこでヘーゲルは、一方で有限的なものに必然性を付与する全体性への「絶対的なもの」の自己構成、「体系」を語るが、他方でその一元的展開を可能ならしめるのは一切に対する「無差別点」を作り出すことで、すべてのものの絶対的同一性を認識する「思弁」であり、この「思弁」は「夜」/「無」としての絶対的なものを認識する。

 これだけでは、この「思弁」の場所における「主体」の位置はまだ不明確だが、このつながりを二つの道で示すことが出来る。第一が「思弁」という語を媒介にする道であり、第二が「夜/無」のモチーフを経由する道である。

 第一の「思弁」から始めれば、ここでヘーゲルにあっては超越論的統覚による現象の領野の構成を語るカントの超越論的演繹こそが、主体と客体の同一性を主張する真の「思弁」であり(Hegel [1986:2-9-11])、しかも、とりわけカントの構成の始原にある超越論的構想力にこそ真の「思弁」が現れていると評価していたことを想起すれば(Hegel [1986:2-301-333])、この「無としての絶対的なもの」を認識する「思弁」が同時に主体による超越論的構成の「始原」として考えられていると想定することが出来る。

 実際、「無」としての絶対的なものから出発して、一切をその絶対的なものの現象として捉えることを主張するにあたって、この操作は超越論的構成の始原への遡行として思考されているように見える。ヘーゲルは「堅固になった主体性と客体性の対立を止揚する試み、知性界と実在界の生成し終えていること(Gewordensein)を生成(Werden)として、その生産物(Produkte)としての存在を生産(Produzieren)として把握する試み」(Hegel[1986:2-22])と述べているからである。

 前段落では「無」としての絶対的なものの認識としての「思弁」と、超越論的構成および主体とのつながりを「思弁」という言葉を媒介にして跡づけたが、第二に「無」「夜」という言葉を媒介にしても同じ結果にたどり着く。

 有限なもの一切を破壊するヘーゲルにおける「夜」のモチーフを追跡したHermann Schmitzが、「ヘーゲルが対自存在などと呼ぶ分離の契機を、この内的な夜に到達する、あるいはそれを近づきうるものにする道として特徴づけるヘーゲルの言明は何度も反復される」(Schmitz [1957:37])と述べているように、「夜」は主体と、その「対自存在(反省 = 自己意識)」と密接に関係しているものとして導入されているからである。

 このことを示すには「世界の夜」なる語が導入された先述の引用の文脈を確認するのが一番だろう(Hegel [1986a:172])。それはイエーナの体系草稿の精神哲学冒頭付近の叙述、つまり、精神的なものの始まりに関する論述である。

 ヘーゲルの語るところ、精神のはじめ、受容的な直観は「存在」、あるということの感受である。だが、次に精神は直観を直観する。「私が」直観しているのだということを直観する。これは「自己意識 = 対自存在」の創設、「私の」世界の創出である。この直観の直観、自己意識の創設は、ヘーゲルの述べるところ、もはや受容的な「存在」の感受ではなく、「存在」をその直接性において否定し、私にとっての「存在」にすることにおいて、「否定性」であり媒介である。

 この直観の直観において、直観されたものは外的なものの単なる受容から、私によって表象された存在へと変化しているから、直観の直観は「構想力一般」である。自己意識の創設によって外的な存在は、今やその直接性を否定され、「私にとって」の存在、私の構想力によって表象された存在となった。ここで構想力は現実性そのものを積極的に生み出す生産的構想力である。

 こうして直観対象は外的存在から心像に変化しており、構想力の産物として、外的存在の文脈から切り離され自由に疾駆することが出来る。「世界の夜」はここに登場する。「構想力/自己意識」によって直接的存在を否定され心像に変化されられた表象の宝庫こそが、「夜」「空虚な無」たる人間である。

 それは諸表象がもはや単なる外的な直観ではないが、未だ「対象」として構成される以前(「対象として表象の前へ立てられているわけではない」)の、一貫した経験の領野として構成される以前にあるはずの場所である。ここでヘーゲルが「世界の夜」と呼んでいる場所は、明らかに自己意識の、「超越論的統覚」の、一切の表象に潜在的に伴っており、一切の対象関係において最小限の関与をなす主体の創設の場所である。

 始原的自己意識、「直観の直観」は、一切の表象を単なる外的な触発から「私の」表象としてしまうから「構想力一般」であり、それは外的な文脈に属する直接的存在を廃棄する「否定性」であり、諸表象を外的文脈から切り離し自由に運動させる否定作用であって、そんな力を行使しうる自己意識は「空虚な無」ということになる。

 以上からしてヘーゲルにあっても、「無/夜としての絶対的なもの」の思弁の場所が自己意識、すなわち超越論的主体の創設の契機に、それゆえ超越論的構成の始原に位置づけられていることが示されたといえるだろう。

2-3、本節の総括

 本節は、前節におけるカント的な超越的物自体からヘーゲル的な超越論的主体の否定性への視座転換の論理を根拠づけるためには、主体を実際にあらかじめの絶対的否定性として正当化することが必要であるというところから出発した。

 というのも、第一に、主体が絶対的否定性であって初めて、私たちの住む「感性的/現象的」な世界からもっとも離れた超感性的なものの場所ですら主体が開いたと言えるのであって、第二に、主体が絶対的否定性であればこそ、現象を超えて物自体の場所に赴き、そこで主体自身という無しかないことが経験できるからである。

 さて、本節において、この正当化の課題は「世界の夜」というジジェクにとって特権的な形象に集中することになった。

 ジジェクの理論化に従えば、それは前象徴的〈現実界〉から〈象徴界〉への移行過程にあり、「経験的/超越論的」の差異の産出の可能性の条件、超越論的な次元そのものの可能性の条件として「超-超越論的」とでも呼ぶべき次元を占めている。

 このことのジジェク的な根拠づけおよびヘーゲルに即しての正当化が前項で遂行された。このことを通じてヘーゲル/ジジェク的な視座からはカントの誤りは「経験的/超越論的」の差異を産出する「否定性」の次元を見逃すことによって、経験的なものに対する超越論的主体の剰余を「物自体」として超越的な形で肯定的な対象へと「実体化」したことにあると考えることが出来るようになる。

 いまや、本章冒頭で予告されたように、以上の変化の帰結へと議論を移さなければならない。ジジェクはここに生じる転換を、ラカンの用語系を用いて「幻想の横断/主体の解任」による「欲望の主体」から「欲動の主体」への変化として思考している。この変化の経験の意味を次節で問うことにしよう。

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第一章 ジジェクのカント理解―理性・自由/苦痛・崇高、あるいは快原理の彼岸
第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(2)

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. ジジェクはこのあたりに少々無理があることを感じ取ったらしく、最新作の序文ではヘーゲルは対象aの特異性を評価しきれていないと述べている(Žižek [2012:18])。
2. ハイデガー自身におけるカント書の意義と位置づけ、それとジジェクによる転用の差異については次章第三章で検討する。
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