ここでジジェクの複雑な〈現実界〉概念に対して解明を行なっておこう。それは今までの議論、さらにひいては第一部全体を明確にすることに通じるからである。ここで私たちは先にも言及したジョンストンの『ジジェクの存在論』を参照する。その理由は第一にジョンストンによるジジェクの〈現実界〉概念の整理は精緻で秀でたものだからである。
ジジェクは本書の裏に印刷された推薦文で、ジョンストンの議論は時に自分自身の議論よりも自分の言いたいことをうまく表現しており、「あたかもジョンストンこそがオリジナルであり、自分のほうがコピーに過ぎないかのような」思いに襲われたという。おそらくジジェクがかく名指しているのは〈現実界〉概念の彫琢をめぐってのことだろう。本書の中でその議論はひときわ優れている。
だが理由の第二は、ジョンストンは「否定性」の意義と決定的中心性の把握という点においては不十分なところがあることを明示するためである。本章の成果に基づいてこの不十分性を明確化することで、私たちの立場をジョンストンに対して差異化しておきたい。つまり、本補論は先行研究の批判的整理の役割も担う。
目次
1、カントからヘーゲルへ
ジョンストンが〈現実界〉概念の整理を行なっているのは本書の第十一章から十二章にかけてである。その議論を整理していこう。ジョンストンは、ジジェクが自らの理論的変化を〈現実界〉のカント的概念からヘーゲル的概念への移行と表現していることから議論をはじめる。
ジジェクの自己認識では、初期には〈現実界〉をカントの物自体の問題系に近づけてしまっており、〈現実界〉は〈象徴界〉(というより、想像的・象徴的に構成された日常的現実性、カント用語に即していえば現象)に外在して象徴化に抗う固い核、何らかの肯定的存在を持つものと考えられていた。
しかし、後期では〈現実界〉のヘーゲル的概念へと移行し、〈現実界〉の〈象徴界〉への非外在性、〈現実界〉は肯定的な存在として〈象徴界〉の彼方にあるのではなく、〈象徴界〉の内在的矛盾において現れるもの、ある意味では象徴化の遡及的生産物に過ぎないという考え方に移行した。
だが、ジョンストンも指摘しているように、この語りは不正確であり、初期でもジジェクの〈現実界〉概念はここで使った言葉でいえばヘーゲル的であることも多い。そのことは私たちが前章でふんだんに『イデオロギーの崇高な対象』を引用したことにも示されている。その五章六章の議論、特に崇高論などは、明らかに今言われている意味でヘーゲル的である。そこでは、ジョンストンも認めるカントからヘーゲルへの移行を象徴する言葉、「超感覚的なものは現象としての現象である」が論じられているからである。この語については前章で論じたので繰り返さない。
2、観念論から唯物論へ
さて、ここまでのカントの「物自体」のような〈現実界〉からヘーゲルの「否定性」のような〈現実界〉への移行は前章で論じたからよいとして、ここから話が少々複雑になる。そしてそれこそジョンストンが巧みに表現してくれた部分である。
このカント的からヘーゲル的への移行、「物自体」の無化はジジェクの理論的移行の一面に過ぎない。これだけではジジェクのいう「弁証法的唯物論」(ジジェクによってこの語に与えられている意味は、この語の歴史的用法とはほとんど関係がないと思われる)を理解できなくなってしまう。
つまり、以上の移行、〈現実界〉の〈象徴界〉への一種の還元だけでは、ジジェクが批判する「言説的観念論」にちかいもの、ジジェクの意味での観念論的なものの一つに陥ってしまうからである。ジジェクの意味での言説的観念論とは、言語の出現の出来事の絶対的始原性を主張し、その地平をそれ以上遡りえない出発点と見なして言説の外を一切思考しない立場である(Žižek [2009a:166])。
唯物論的であるためには〈現実界〉からの〈象徴界〉の発生を、物自体からの現象の発生を、それを可能にする〈現実界〉に内在する裂け目を論じなければならない。
さて、問題は、一方ではジジェクはカント的な肯定的〈現実界〉からヘーゲル的な〈象徴界〉に非外在的な「無」としての〈現実界〉へと移行するといい、そこでは物自体は存在しない、主体という無しかないなどともいわれるが、他方で〈現実界〉からの〈象徴界〉の生成を論じるという、この二つの議論に存在するように見える矛盾である。
2-1、ジョンストンの整理—シェリング的〈現実界〉
ジョンストンは、この矛盾を「無い」とされるカント的〈現実界〉(2)と〈象徴界〉に先行する〈現実界〉(1)を区別することで解決する。カント的〈現実界〉(2)が無いといわれるのは、感性的・経験的世界を超えた「叡智的」な世界なるものが肯定的な存在としては存在しないという意味であり、あるのは感性的・経験的なものに内在する裂け目・否定性だけであるという意味であって、これがカント的〈現実界〉(2)からヘーゲル的〈現実界〉(3)への移行をなす。他方で〈象徴界〉、想像的・象徴的な現実性がそこから生じる〈現実界〉(1)は確固として存在する。ここでジジェク自身による、この区別についての言明に相当すると思われるものを引用しておこう。
カントの〈物自体〉のパラドックスは、それが知性に対する受容性の過剰(私たちの受動的な感性的知覚の知りえない外的な源泉)であると同時に私たちの感性に支えを持たない、純粋に知性的な内容無きXの構築であるということである。(Žižek [2009a:389])
「物自体」は感性的直観がそこから触発されているところのもの、そういう意味で感性的知覚の絶対的所与であり、だが他方で感性的なものを超えた知性的な、叡智的な世界をも意味する。すなわち、理念や神や道徳法則の世界である。前者が〈現実界〉(1)に相当し、後者が〈現実界〉(2)に相当する。「無い」のは後者の〈現実界〉(2)であり、あるのは〈現実界〉(1)である。
では3つの〈現実界〉の関係はどうなっているのか。ジョンストンはここでジジェクの〈現実界〉概念はシェリング的なのではないかと示唆した上で、それを手掛かりとして上述の〈現実界〉(1)(2)(3)の関係を論じている。ジョンストンのいうところのシェリングがある時期にとったという〈現実界〉概念とはどんなものだろうか。
第一に、シェリングはカント的な現象の彼方に肯定的に存在する知性的・叡智的な「物自体」(〈現実界〉(2))について、そもそも物自体と現象との区別自体が現象のうちでしかありえないということから、その自立した存在を否定する。それは現象に、現象的に認識する主体に依存している。
しかし、第二にシェリングは現象そのものの生成を論じなければならないとする。そこでは、「物自体」は「象徴化 = 概念的認識」以前の、認識の絶対的所与、つまり、直観と同一視される。概念的認識・象徴化以前に直観の所与、外的なものの触発の所与として「物自体」の認識がある。これが〈現実界〉(1)である。
さらに、ここからジョンストンの思弁とでもいうべきものが始まり、私たちからすると雲行きが怪しくなってくるのだが、ジョンストンは〈現実界〉(1)→(2)→(3)の順序でのそれらの生成を論じる。この議論をジョンストンはフロイトの夢解釈における「夢のへそ」を引き合いに出すことから始める。「夢のへそ」とは夢解釈が挫折する一点なのだが、それは表象不可能なカント的「物自体」のごときものではなく、むしろあまりに多くの相矛盾する意味が凝縮されているがゆえに解釈が失敗してしまう点である、とジョンストンはいう。
これをジョンストンは〈現実界〉(1)から(2)の生成の議論へと転用する。シェリング的な直観の所与としての〈現実界〉のあまりの多様さが解釈・表象不可能な、概念の網を逃れる点を生じさせる。これが現象の彼方に存在するとされるカント的な〈現実界〉(2)である。そして、この〈現実界〉(2)の非存在性、というよりその生成のメカニズムを暴露するのが〈現実界〉(2)から(3)への移行、ジジェクによってヘーゲルに帰せられている身振りである……。以上がジョンストンによる〈現実界〉(1)(2)(3)の整理である。
さて、この〈現実界〉(1)(2)(3)の区別、想像的・象徴的な現実性がそこから生じる所与、現象がそこから生じる所与としての「物自体」=〈現実界〉(1)、感性的・経験的な現実性、つまり現象の彼方に肯定的な仕方で存在する知性的。叡智的世界としての「物自体」=〈現実界〉(2)、そして「否定性」としての〈現実界〉(3)の区別は明晰なものであり、採用されるべきものである。だが、ジョンストンの議論は「否定性」の役割を見誤っており、そのために「否定性」の中心性が見落とされ、三者の関係の適切にジジェク的な形で構造化されていないという欠点がある。
2-2、ジョンストンのどこが非ジジェク的なのか
前章の成果に基づいて、私たちは「否定性」からして三つの〈現実界〉の関係を構造化しておこう。初めにあるのは〈現実界〉(1)であり、一切の認識の所与となる外的なものである。ここから「現象」が、〈象徴界〉が、想像的・象徴的な現実性が生成する。
これを可能にするのが「絶対的否定性」である。ヘーゲル的に言えば、「現象化」、世界が現れるようになること、それは、世界が「私の」世界となること、そのような「私」が生成することだが、それは、一切の表象に伴いうる自己意識としての「私」が生成することであり、自己意識が対するものから距離を取る否定性である限りで、それは一切の感性的なものに対する否定、絶対的否定性の経験である。そこで自己意識が生成し、世界は私の世界となり、ということは、外的なものの受容的な直観が自発的・生産的な構想力になる。こういう自己意識・構想力として人間は「世界の夜」である。これが〈現実界〉(3)でもあるわけだが、それは現象と象徴化があるために〈現実界〉(1)の中に存在しなければならない裂け目である。
そして〈現実界〉(2)に関して言えば、それが生成するのは、感性的・経験的な現象に対して「否定性」という距離が、人間の中に初めの初めから存在するからである。私たちが自己意識することは、現に現れているものが私たちに現れているに過ぎないものと見なすこと、そこに現れている感性的なものから距離を取り、相対化し、否定することである。このような否定性の働きと相関的に、感性的なものを超えた彼岸が構想される。これが、感性的なものを私たちに現れているに過ぎないものと見なす主体の否定の身振り、「限界づけ[の身振り]が超越[的彼岸]に先立つ」というジジェクの言葉の意味である。
このことの認識を可能にするのは再び絶対的否定性の経験である。絶対的否定性は常にすでに通過されたものでありながら、再び通過するべきものでもある。絶対的否定性によって現象の領野が崩壊するとき、私たちは〈現実界〉(2)、叡智的な肯定的「物自体」への接近と遭遇を期待する。だが、そこにあるのは端的な否定性としての主体、〈現実界〉(3)だけである。だが、そこで〈現実界〉(2)への期待があるからこそ、「実体」としての「物自体」への期待があるからこそ、この「否定性」としての「主体」が初めの「実体」に、〈現実界〉(1)に内在する裂け目であるものとして感得し認識することが出来るというわけだ。
こうして「絶対的否定性」の通過により、経験的な現象と、超越的な「物自体」=〈現実界〉(2)との緊張関係は、一切の経験の所与の実体=〈現実界〉(1)と、その現象化を可能にする、それに内在的な裂け目=〈現実界〉(3)との緊張関係に姿を変える。ここで「否定性」のせいで私たちが切り離されていると思っていた「実体」に「否定性」としての「主体」が内在していることが理解される。これが「和解」である。
こうして「実体」=〈現実界〉(1)は穴あきとなり、「主体」となり、真理の支えとなる絶対的な対象は消滅して、残るは現象の自己構成・自己止揚過程のみとなる…。これがジジェクからする三つの〈現実界〉の関係の構造化である。こうして明らかとなったのは、ジョンストンが「否定性」の機能を適切に把握しなかったことで、このあたりで先に見たようなフロイトの例によった理論構成、非ジジェク的な理論構成を行わざるを得なかったことである。
3、ジジェクの「弁証法的唯物論」とは何か
最後に、ジジェクの言う「観念論」「唯物論」とジジェク自らの立場である「弁証法的唯物論」との基本的意味を明らかにしておこう。ジジェクの言う「観念論」は主に二つの意味を持っている。
第一は感性的経験の彼方に叡智的な「物自体」、超越的な存在者を幻視しようとする立場であり、この意味では〈現実界〉(2)の〈現実界〉(3)へと向けた無化が唯物論的身振りである。
だが、「観念論」は第二の意味を持っている。それは言語以前へと遡行することに一切の可能性を認めずに「現象」の外部、〈象徴界〉の外部を思考対象としては放棄する「言説的観念論」、恐らくは超越論的観念論と呼んでもよいものであり、先の第一の唯物論的身振りだけでは、この立場に陥る可能性がある。
だから、前象徴的〈現実界〉(1)からの現象の生成を論じなければならない。ところで現象の生成が可能であるためには〈現実界〉(1)の中に裂け目が、〈現実界〉(3)という否定性・主体がなければならない。これが「弁証法的唯物論」の基本的洞察である。
確かに一切は〈現実界〉(1)から、前象徴的な物質・実体から生じるのだが(唯物論)、その〈現実界〉(1)そのものが「全て-ではなく」、裂け目を、無を、否定性を、〈現実界〉(3)を自らのうちに含み(弁証法的)、それゆえに「現象化」することができる。その「現象」にしても、「絶対的否定性」を自らの可能性の条件とするものとして否定性に貫かれてあり「全て-ではない」。この「弁証法的唯物論」については次章がより詳細な解明を与えるだろう。
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第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(2)
第三章 ジジェクとハイデガー、あるいはハイデゲリアンとしてのジジェク(1)