第四章 ジジェクのイデオロギーと主体の理論

0、本章の構成

 前章はジジェクへの導入を、第一節では「伝記的記述・著作の紹介・ジジェクを取り巻く状況の記述」によって、つまりジジェクにまつわる周辺事情の叙述によって果たし、第二節ではジジェクの著作全てにつきまとう問題、その「スタイル/文体」の問題を取り扱い、その特異なスタイルの理由と、そこから導きだされる適切な読解の方法を明らかにすること[によって遂行し、第三節では思想内容への踏み込みを準備するためにジジェクの根本的問題構成を提示することによって締めくくった。

 本章はそれを引き継いでジジェクの思想内容へと歩を進める。具体的には本章ではジジェクのイデオロギーと主体の理論を、アルチュセールのそれの批判という側面を端緒にとって論理的・理論的に首尾一貫した形で再構成することを目指す。

 この主題が具体的な思想内容の展開の第一に選ばれ、この「序論」という場所に配されたことについてまず正当化しておこう。その理由は幾つかある。

 第一に、この問題はジジェクが最初の英語著作『イデオロギーの崇高な対象』の序文で取り扱った問題として一つのはじまりを印づけるものであり、その後もジジェクの仕事の一つの中心点をなしていること。

 また第二にジジェクの議論の中で比較的認知度が高いために導入に最適であること。第三に、にもかかわらず、あとで先行研究を検討しつつ明らかにするように、それが十分に理解されていないと思われること。そしてそれ故に、それを検討することでジジェクについての誤った理解をあらかじめ取り除くことが出来ることである。

 そして最後に、この問題はジジェクの思惟全体のもっとも中心的な問題、主体と否定性の問題に直結しており、しかもその中では比較的具体的であるためにそこへの入り口として最適だからである。

 かくして本章の目的は二つ存在する。第一に、ジジェクのイデオロギーと主体の理論を正確に理解することが目指される。それはこの領野、主体、イデオロギー、人間と社会の関係、政治空間の運動学といった領域に新しい知見をもたらしてくれるはずである。そして第二に、このジジェクのイデオロギー理論とそれが開く展望を理解し検証するためだけにも、ジジェクのより広範な、より抽象的で哲学的な議論の検討が必要であることを明らかにすることで第一部への道を開くことである。

 はじめに本章における本質的なことがらを先取り的に述べておこう。ジジェクのアルチュセール批判は、その最も中核的な点のみを取り出すなら一つの素朴な問いを通じて表現することが出来る。

 アルチュセールの語るところ、人間個人はイデオロギーによる呼びかけに答え、それが割り当てる役割を引き受けることによって初めて「同一性/アイデンティティ」を獲得して主体として存在するようになる。主体はイデオロギーへの同一化によって構成される。

 だが、なぜ人間はイデオロギーに同一化するのか、そもそも同一化なるものがなぜ必要なのか?いささかハイデガー的な例を用いれば、石はもちろんのこと、動物も恐らくはそんなことはしないだろう。同一「化」が必要であること、そのことの根拠、そのようなことの「可能性の条件」は何か。恐らく答えは一つしかない。つまり、人間は何らかの仕方でそもそものはじめから同一性が壊れてしまっているということ、はじめに自己不一致があるということである。

 以上の問いをより一般的に言い換えれば、なぜ人間は同一性なるものをそもそも問題とするのか、アイデンティティの確立が必要だとされ、その危機なるものが存在するのかということである。ここでもやはり自然的な同一性の解体、原初の自己不一致を想定せざるを得ない(Žižek [1991:163])。

 さて、同一性が「私は~である」という肯定的な述定、述語付けによって表現できるとすれば、同一性に走る裂開、原初的自己不一致は、「私」を「~である」という肯定的な述語から切り離す「~でない」として「否定性」と呼ばれなければならない。同一性に走る原初的裂開を思考することは原初的な「否定性」を思考することである。

 先述の通り、ある否定性の存在が想定されなければならないのだから、今や課題はこの否定性の輪郭を見定めることである。さて、本章はこの問題の主題的な展開には到達せず、それは第一部に期されることとなるが、本章でもこの視点を堅持することで、ジジェクによる多岐にわたるアルチュセールのイデオロギーと主体の理論の批判、そしてジジェク自身のイデオロギーと主体の理論の全体像を首尾一貫した形で再構成することを試みる。

 以下、第一節ではアルチュセールのイデオロギー理論を概観することが中心になる。それに当たり、いわゆるフランス現代思想的な主体と「権力/イデオロギー」の問題についての包括的な研究書である佐藤嘉幸『権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』を参照して議論の文脈を設定する。

 第二節ではジジェクによるアルチュセールの批判、そしてジジェク自身のイデオロギーと主体の理論を展開する。

 第三節ではそれまでに獲得された知見に基づいて、国内においてジジェクのイデオロギー理論を取り扱っている先行研究、先述の佐藤嘉幸『権力と抵抗』と同書に強く影響している東浩紀『存在論的、郵便的』を検討し、そのジジェクに関する取り扱いの不十分さを指摘する。

 最後に第四節ではイデオロギー理論一般の賭け金を明らかにした上で、それとの関係でジジェクのイデオロギー理論の位置づけを試みる。

1、アルチュセールにおける主体とイデオロギー

 本節ではアルチュセールの主体とイデオロギーの理論を概観する。まず1-2項で『権力と抵抗』というフランス現代思想的な「権力・イデオロギー・主体」の理論の包括的な研究書を参照することで、アルチュセールの理論がそこに位置づけられる本書がいうところの「構造主義的」な「イデオロギー/主体」の理論というものの特徴を一瞥する。それによって本章の議論の文脈が設定される。次に1-2項で『再生産について』を中心にアルチュセールの主体とイデオロギーの理論を概観する。

1-1、主体とイデオロギーの「構造主義的」理論

 『権力と抵抗』は、主体と「イデオロギー/権力」についての、本書が名付ける所に従えば、「構造主義的」理論と、その「ポスト構造主義的」な乗り越えの諸相を検討の対象としている。本書は冒頭で主体と「イデオロギー/権力」の「構造主義的」理論について明確な規定を提出している。要約しておこう(佐藤[2008:10-12])。

 曰く、「構造主義的」思考は「主体の否定」ではなく、自らに外的な要素に対する「主体の依存」を問題としている。「主体は自らに外的な諸要素によって形成されると主張することで、「構造主義的」思考は主体形成を特権的な問題と位置づける」。より詳しく見れば、「構造主義的権力理論」は精神分析から対象の「内面化/取り込み」のメカニズムを、そしてそこから帰結する「主体の脱中心的な位置」という観念を取り入れた。まとめとなる部分を引用しよう。

内面化された権力は主体を、その内面化の効果によって主体そのものの内部から規定する。主体はそれ自身、このような権力の内面化によって形成されるのであり、そのとき主体は内面化された権力に対して「脱中心的」である。こうした理論形成は、アルチュセール、ドゥルーズ=ガタリ、フーコーが発展させた権力理論の直中に存在している。ラカンの「構造主義的」理論に批判的アプローチをとりつつも、それに否定し難く影響されながら、アルチュセールはイデオロギー的再認/誤認、呼びかけのメカニズムを(…)理論化した。(佐藤[2008:11])

 本書の主たる目的は先に見た通り「構造主義的」思考の内在的な乗り越えとして「ポスト構造主義的」な思考の諸相を検討することである。

 上の引用に見られる通り、本書によると「構造主義的」な思考の典型はラカンであり、本書によれば、ラカンはその「運命の哲学」(佐藤[2008:261])によって「抵抗」の可能性を排除してしまっている。そして、私たち自身の検討の対象であるジジェクは、ラカン派としてラカンの精神分析理論を社会理論に「外挿」(佐藤[2008:232])しただけなので、ラカンと同じ袋小路に行き当たってしまっている。

 この点についてジジェクに定位する私たちはやはり意見を異にせざるを得ないし、このことを続く論述が明らかにしていくはずだが、ともあれ本書の明確で包括的な「構造主義的」な「主体/イデオロギー/権力」の理論とその乗り越えという問題設定は以下の論述の出発点として有用である。

 私たちもイデオロギーや権力の「内面化」による主体形成を主導的な視点としつつ、次項1-2でアルチュセールの理論を概観し、第二節でそれに対するジジェクの差異を見ていくことにしよう。

1-2、アルチュセールの主体とイデオロギーの理論

 アルチュセールの主体とイデオロギーの理論を概観していこう。それは史的「唯物論」の再構成の試み、再生産論の文脈で出現する。アルチュセールの考え方によると、マルクスは初期の観念や意識や主体性を中心とする「人間主義的/観念論的」枠組みから「認識論的切断」を経ることで「唯物論」的な枠組みへと移行した。

 その枠組みでは物質的な下部構造、生産諸力と生産関係からなる生産様式が優位であり、人間はまずもってそこに存在する諸役割の「担い手」として登場することになる。さて、生産様式が自らを再生産するためには「担い手」となる人間を調達しなければならず、しかも、その「担い手」をいつも暴力で、抑圧によってつなぎ止めておくことは現実的でない以上、「担い手」が自ら歩むように、すなわち、「主体」的に役割を担うようにしなければならない。

 アルチュセールによれば、これを成し遂げるのがイデオロギーであり、だからイデオロギーはまずもって諸個人に呼びかけを行い、ある役割の「担い手」とし、しかもそれに主体的に参加するように仕向ける、すなわち、主体を産出すると言われる(Althusser [2001:150-152])。

 もう少し細かく見ておこう。アルチュセールのイデオロギーの理論の第一の柱は「物質性」の強調である。イデオロギーといえば通常まず連想されるのは「観念の体系」であり、イデオロギーとはまずもって存在している主体が受け入れる観念の体系であって、それが主体の行動を規定しているのだと考えられる。

 しかし、アルチュセールの枠組みでは、これは「イデオロギーのイデオロギー的表象」(Althusser [2010:下76])であり、それ自体イデオロギーである。物質を重視する彼の「唯物論」的枠組みではまずもって存在するのは物質的な下部構造、そこでの諸実践であり、その実践の中に、その実践を構造化するものとして「個人と世界との想像的関係」としてのイデオロギーが内在しているのであって、主体は諸実践を「主体」的に遂行する役割の「担い手」を調達するためにイデオロギーによって後から作り出されるにすぎない。こうして「イデオロギーのイデオロギー的表象」における順番はひっくりかえされる。

 これが「イデオロギーの物質性」というテーゼに凝縮されている(Althusser [2010:下75])。まずあるのは物質的な実践、それを支える国家のイデオロギー諸装置であり、それによって諸個人が呼びかけられ、役割を担うようになった後で初めて個人は自らを主体として意識し、主体的に役割を遂行するようになる。

 イデオロギーの物質性という論点についてはジジェクも受け継いでいる。本稿では主題的には取り扱わないが、ジジェクのイデオロギー理論のひとつの要点は、イデオロギーは社会の物質的構造の中に内在しているために、単にそれに対して意識のレベルで距離をとってシニカルに振る舞ったところでイデオロギーを再生産していることには変わらないというところにある(Žižek [2008a:30])。

 さて、それに対してジジェクが問題を見出しているのは、前段落ですでに現れていたアルチュセールの理論の第二の柱、イデオロギーが主体を作り出すという主張である。アルチュセールによると、各個人はイデオロギーによって呼びかけられており、警官に「おい、そこのお前!」と呼びかけられた場合に振り向かざるを得ないのと同じように、なぜか個人はその呼びかけに答えざるを得ない。

 個人はイデオロギーの中に自らの姿を「再認(reconnaissance)/誤認」するのであり、他のイデオロギー的主体達と相互に「再認/承認(reconnaissance)」しあい、更にはイデオロギーの中心に存在するとされる大文字の主体からも「再認/承認」される。こうして各人の生に確固たる同一性が、意味と真理が与えられるのであって、こうなった以上各人は主体として「主体」的に自らの役割を果たさざるを得ないのである(Althusser [2010:下83-105])。というのも、その外では確固たる同一性の経験、生の意味と真理が失われてしまうのだから。

 たびたび指摘されるようにアルチュセールによる主体形成の理論は一見すると静的なものに見え、そこでは主体がイデオロギーに抵抗する可能性を思考することは難しいように見える。

 ここでアルチュセールに好意的な立場をとる人々、例えばアルチュセールは構造主義的権力理論の内在的乗り越えをはかったのだと見る前述の『権力と抵抗』は、この認識に対して第一の強調点である「物質性」を後の「偶然性唯物論」と結びつけて対置する(佐藤[2008:Ch5])。

 曰く、アルチュセールはイデオロギーの「物質性」の強調によって、イデオロギー的呼びかけの過程に偶然性、偏差、ズレが生じ、それが失敗する可能性を見出した。おそらくジジェクもこのことは否定しないだろうが、ジジェクから見ればこのことは誤れる強調点である。もっと重要なことは別にある。それが次節の主題である。

2、ジジェクにおける主体とイデオロギー

 さてジジェクに話を移そう。本稿冒頭で述べた通りジジェクの批判の本質的な点は、イデオロギーへの同一「化」なるものが可能であり、また必要であるためには人間における原初の「非同一性/否定性」を前提しなければならないという点に存している。とはいえ、アルチュセールもこの点について全く触れていないわけではなく、むしろ、それを非常に印象的な一節で明確に拒否していることをまずは確認しておくべきだろう。

ますますもって、主体という概念用語はイデオロギー的言説の構成要素にすぎず、もっぱらそのイデオロギー的言説にのみ依存するもののように思われてきたのだ。…「無意識の主体」などを語りだすなり、それがおおよそ言葉遊びにすぎないものとなり、理論的にかなり不明瞭なことを引き起こす結果になるのだ。…「自我の分裂」という事態をめぐって、「無意識の主体」を語るのも不当である、と私には思われる。「分裂した」「引き裂かれた」主体があるのではない。あるのは、何かまったく別のもの、つまり、「我」の脇に、「分裂」が、文字通り深淵が、断崖が、欠如が、〈開〉があるということだ。…ラカンは、つまるところ、主体の分裂という概念のもとに、何らかの深淵ないし欠如を主体として設定しているだけなのではないか。(Althusser [2001:183])

 アルチュセールはここで、その根拠は私たちの読む限り明確ではないが、「分裂した主体」、「無意識の主体」といった発想を否定し、イデオロギー的主体の横に「分裂/深淵」があるだけだと述べている。しかも、より決定的なことには、この主体ではないとされる「分裂/深淵」にしても、アルチュセールのイデオロギーと主体の理論に登場することはない。

 これに対してジジェクはこの一節を引用して「理論的退行」(Žižek [2005:62])であるとし、この「分裂/深淵」への、私たちの言葉で言えば、原初の否定性への参照を維持し、しかも、それをあくまで主体として思考する。ここでジジェク独特の用語法を導入しておけば、ジジェクはこの原初の「否定」性をこそ優れた意味で「主体(subject)」と呼び、それをラカンの抹消線を引かれた主体を表すマテーム「$」で表現する。そして、その後に来るイデオロギーその他への同一化、すなわち「主体」による「肯定」的内容の引き受けを「主体化(subjectivation)」と呼んで区別している。主体と主体化の差異は否定性と肯定性の差異である。

 さて以上からしてここで必要な議論は、この二点、すなわち「原初の非同一性/否定性の存在」と「それを主体として思考すること」を正当化することであるといえよう。

 かくして本節の構成は以下のようなものになる。まず2-1で以上の2点の正当化論拠を提示したのち、2-2でそのことのイデオロギーと主体の理論に対する帰結を、アルチュセールに対する差異に注目しつつ記述する。

 そして2-3でジジェクのイデオロギーと主体の理論にある特異な諸概念、ラカンから転用された「幻想(fantasy)」や「享楽(enjoyment/jouissance)」の概念を、以上の成果によってその必然性を明らかにしつつ導入し、ジジェク自身の理論の輪郭を描き出す。そこではラクラウによる政治空間の論理学とでもいうべき理論的営為の一端にも触れることになる。

 最後に本節を締めくくる2-4では、イデオロギーの彼方を描き出そうとするジジェクの試みの輪郭を浮かび上がらせる。そこにおいて「はじめに」で予告された通り、この点の最終的な解決はジジェクの哲学の中心問題そのものの展開を要することが確認され、本章の主要部分の展開は終了する。

2-1、否定性「である」主体

 本項で私たちは「原初の非同一性/否定性の存在」と「否定性を主体として思考すること」を正当化しようと試みる。

 第一の点については、第一部が再びこの問題の解決をより根本的に遂行することも鑑みて、本章冒頭の記述でさしあたり必要な事柄は達成されているとみなしたい。人間が何かに同一「化」することがそもそも可能であり、また必要であるという事実、そして人間において同一性が問題となりうるということ、このことが原初的な「非同一性/否定性」の存在を推論させるのである。

 だから、ここではアルチュセールがイデオロギーのうちでの「再認/誤認」を語る際に影響を受けた、鏡像への同一化からの自我の生成を記述するラカンの「鏡像段階論」が、ジジェクも確認している通り(Žižek[2000a:52])、既にこの点を表現にもたらしていたことを確認するにとどめよう。

今や私たちにとって鏡像段階の機能は、有機体のその現実性への関係、いわゆる内界の環世界(Umwelt)への関係を確立するというイマーゴの機能の一事例として明らかになった。だが、この自然への関係は人間においては、その有機体の内奥におけるある種の裂開(dehiscence)、原初の〈不一致〉(Discorde)によって変化させられてしまっている。(Lacan [1966:96])

 ラカンの述べるところ、この「裂開/不一致」の故にこそ鏡像への同一化が必要とされる。「分断された身体」というアナーキー状態があるから、鏡像のうちで「身体の全体性」を先取りすることが不可欠なのである。

 さて、第二の点、「否定性を主体として思考すること」に話を移そう。まずこの主張の事実をジジェクからの引用によって示すことから始めたい。

アルチュセールやデリダといった様々な哲学者によって問われ(そして否定的に答えられ)てきた問い、「主体化の身振りに先立つ裂け目(gap)、開(opening)、〈空虚〉(Void)はなお主体と呼ばれうるだろうか」という問いに対するラカンの答えは、断固「イエス!」である。ラカンにとって、主体化に先立つ主体は物質的な呼びかけの実践と装置に先立つ〈観念論者風〉な疑似-デカルト的自己現前ではなく、まさに呼びかけ的な〈召命〉(Call)の中に自己を「再認/誤認」することが埋めようと試みる構造内の裂け目そのものである。(Žižek, Butler, Laclau [2000:119])

 さて、問題は、なぜこの否定性を「主体」と呼ぶことが出来るのかということである。これはジジェクの近代的主体の諸形象、デカルトのコギトやカントの「超越論的統覚/主体」の解釈によっている。

 ジジェクはあるところで自分のプロジェクトは「精神分析の主体/無意識の主体はデカルトのコギトである」というラカンの言葉を文字通りに受け取ることだと語っている(Žižek, Rasmussen [2007])が、そこでジジェクが考えているのは、デカルトのコギトやカントの統覚は、もはや「世界の部分」ではなく、そこにおいて世界が現れる場所として「世界の限界」であり、それゆえ肯定的な内容を持たず、あらゆる肯定的な内容との隔たり、ある一つの空虚であり、従って否定性と呼んでよいということである。

 「主体」、つまり私たち自身は、その「対象/客体」として「現れる」面を捨象して、徹底的に対象でない側面に即して、「そこに世界が現れる場所」として見られれば、決して見ることの出来ないものであって、ジジェクの見るところデカルトやカントの主体はその面を言い当てており、ここに着目することで主体を否定性として、否定性を主体として思考することが正当化される。

 ジジェクが近代的主体の諸形象を参照するとしても、それは徹底的に否定性、すなわち、自己の内容に対する無限の距離として「のみ」であるところに、いわゆる近代的主体、先の引用の言葉でいえば「自己現前」、さらには「自己認識」「自己支配」などと特徴づけられる近代的主体の理解との差異がある。

 ここのところをまた別の側面から、自己意識と否定性の連関という側面から見ておこう。ジジェクはあるところでラカン派における主体の分裂とは、欲望が常に「欲望の欲望」であること、つまり、たくさんの欲望がある、どれを欲望すればいいのだろうという欲望の二重性、欲望の再帰性のことであると述べている(Žižek [2008a:196])。

 さらに、ドイツ観念論における自己意識とは欲望が「欲望の欲望」であるということと別のことではないという(Žižek [1993a:128])。とすれば、ジジェクの解釈する主体の分裂の(少なくとも一つの)意味は、欲望は「欲望の欲望」であるという欲望の再帰性であり、それはドイツ観念論における自己意識そのものであるということになる。ここで言われているのは、第一章で見たところだが、「自己意識/反省」を否定性として思考するヘーゲルの発想である。

人が単に何かであり、あるいは何かを持っていることと、自らがその何かであり、あるいはその何かをもっていると知ってもいることには非常に大きな違いがある。(…)諸制限への反省はすでにそれを越え出る第一歩である(Hegel [1986:4-219])

 私たちが単に対象、「何か」しか意識していない「対象意識」であるとき、私たちはその対象に没入している。しかし、私たちが「何かを意識していること(対象意識)」を意識、つまり、「私が考えているのだ!(cogito/Ich denke)」と自己意識するとき、その自己意識する私は、その「何か」とその「何かの意識 = 対象意識」自身を見るものとして両者の外に出てしまっているから、その「何か」に対する距離を形成している、自己意識する私は、肯定的な「何か」に対して否定性である。主体は「分裂」してしまっている。ここにおいて生じる直接的な対象に対する「距離/否定」によって、「欲望の欲望」という二重性が可能になっている。

 ジジェクの立場から見れば、カントにおいて主体は既に「一切の表象に伴いうる」「私が考えているのだ!」として、自らは表象ではなく「世界の限界」たる空虚だったのだが、ヘーゲルはここに「自己意識/反省 = 否定性」という洞察を付け加えることで、さらに主体を否定性の力能として把握したということになるだろう。

 実際、主体を完全な「無内容-否定性」、第一章の引用を繰り返せば「純粋な無規定性」「全ての内容の解消」「絶対的抽象ないし普遍性の制限なき無限性」(Hegel [1986:7-49])として規定するヘーゲルの極端な定式は、カントの「超越論的」統覚という思考の地平においてしか理解しえないものである。というのも、「経験的」人間は明らかに特定の内容を持った実体なのだから。

 さて、このヘーゲル的洞察を大々的に取り入れたのがサルトルである。サルトル曰く、私たちが認識と呼ぶものは、対象の意識と同時に「対象の意識」自体の意識が存在する時にしか存在しない。私たちは対象を意識する。同時に私たちは「私が対象を意識していること」を意識している。そうしないと認識などというものはあり得ないし、私たちの普段のあり方もそういうものなのであるという。

 そういうわけで、意識は潜在的に自己意識なのであって、これをサルトルは「反省以前のコギト」と呼ぶ。意識的な「視線の向け変え = 反省」に先立ち、私たちは「コギト = 私が考えているのだ! = 自己意識」なのである。これがサルトル曰く意識と言うものがあり得る唯一の存在形態である(Sartre [1943=2007:緒論Ⅲ])。

 さて、ここにサルトルは「自己意識 = 否定性」という洞察を付け加える(Sartre [1943=2007:第二部第一章1])。自己意識において私は対象と私自身とに対して「距離をとる = 否定する」。この二つの洞察の組み合わせによってサルトルのいわゆる実存主義と自由の哲学が生み出される。

 ここで私たちにとって興味深いのは、この人間の「自己意識/否定性」、「対自存在」、つまり、一切の対象に対する否定的距離という性格から、サルトルが人間の「存在欠如」という観念を導きだし、そこに自然的欲求のように簡単に満たされてしまうことのない、人間特有の「欲望」の次元を位置づけていることである(Sartre [1943=2007:第二部第一章3])。そして、ラカンの欲望を動かす「欠如」の観念の由来はサルトルにあるとも言われる(Marchart [2005:20])。

 とすれば、ジジェクがラカンの「欠如した主体」をヘーゲルの「否定性としての主体」に差し戻すことは一定の系譜的正当性があると言えよう。とはいえ、ラカンはサルトルの否定性が「意識の自足性の限界内」にとどまっており、その前提の中に書き込まれることによって「自我に構成的な誤認に自律の幻想を結びつけた」と批判している(Lacan [1966:97-98])。

 この批判は妥当だと思われる。主体の否定性といっても、それを意識的な力へと還元することは出来そうにない。つまり、少々複雑な話だが「意識/自己意識」であることによって主体は「否定性」なのだが、その「否定性」の制御そのものはいわゆる意識的な力によるものではない、「無意識」的なものということである。この視座からする無意識の規定は第一部第二章で取り扱われることになる。

 さて、以上で本項の課題は果たされた。原初の否定性の存在が正当化され、それを主体と呼ぶことが、第一にデカルトやカントの主体が世界の限界として空虚な否定性であるとも解釈しうることによって正当化され、あるいはまた第二に「ヘーゲル/サルトル的な主体 = 自己意識 = 否定性」の等式に基づいて正当化されたからである。

2-2、ジジェクによるイデオロギーと主体、アルチュセールとの差異から

 さて、本章の本来の課題であるイデオロギーと主体の理論の領域へと戻ろう。以上の否定性「である」主体をめぐる省察によってアルチュセールのイデオロギーの理論との間にいかなる差異が形成されるのだろうか。

 先に確認したように、ジジェクは「否定」性を「主体」($)と呼び、「肯定」的内容の引き受けを「主体化」と呼ぶ。こうしてみるとアルチュセールのイデオロギーと主体の理論は典型的な「主体化」の理論であり、「主体」の次元を看過している。ジジェクが見るところ「アルチュセールは(…)意味と真理のイデオロギー的経験へとイデオロギー的象徴機械が「内面化」されるイデオロギー的呼びかけの過程についてしか語らない」(Žižek [2008a:43])。

 そこでは、主体はイデオロギー的「意味/真理/同一性」の内在化によって初めて形成されるのだから、当然その内容と無媒介的に一致していることになる。だがジジェクからすれば人間はそんな存在者ではない。はじめに否定性が、「主体」の次元の存在が想定されなければならないがゆえに、どんなイデオロギー的同一化にも残滓がある、肯定的なイデオロギー的内容と否定性「である」私たちの間には距離がある。そこには不和が、「真理と意味のイデオロギー的経験」に対応させていえば「懐疑と無意味の経験」があるのだ。

 だから議論のこの段階ではアルチュセール的な主体(化)が確固たる同一性を引き受けることで、意味と真理の、ある充実の経験によって特徴づけられるとすれば、ジジェク的主体は同一性への距離によって無意味と懐疑の、ある空虚性の経験によって特徴づけられるといえるだろう。

 これがジジェクがイデオロギー理論の文脈で、ラカンのヒステリーの定義を引き合いに出す理由である。ジジェクによると、ヒステリーの問いのラカンの定式化は「私はなぜあなたが私についてそうであると言っているものなのか…」(Žižek [2008:126])というものであり、これは主体が「社会的/象徴的」な役割への同一化を完全に引き受けることが出来ないことを表現するものである。ジジェクの見るところ主体そのものの地位はこの意味でヒステリー的である(Žižek [2007:164])。

 この否定性、肯定的な内容に対する否定的距離の存在は、別の視点から見れば、前項でサルトルに即して示唆されたように、人間が非常に特異な形で欠如を抱えており、単に自然的な欲求だけでなく人間独特の「欲望」を持つ存在であることを示している。

 ラカンは欲望に関して「神学者たちが欲望に見出した無限性の印(marque d’infini)」(Lacan[1966:812])と語っているが、人間的な欲望は自然的な欲求がそうであると思われるように特定の対象の獲得によって満たされてしまうことはなく、どんな肯定的な対象を持ってきても「これではない!」という感覚が残存する。欲望はどんな「肯定的/限定的」対象にも汲み尽くされないもの、ある種の無限性を持っている。これが主体の「否定性 = 欠如」と人間的欲望の連関である。

 以上の事柄をジジェクは〈大文字の他者〉や「社会」といった言葉を使って言い換えてもいる。まずは〈他者〉から見てみよう。この点については、むしろジジェクはラカンの〈他者〉の問題系を「主体と否定性」という問題系へと翻訳しようと試みているというべきだろう。つまり本来の順序は逆である。

 ともあれ、ジジェクに定位する本稿では今までの叙述の順序に従い、ジジェクにとってより根本的な「主体と否定性」の問題系から〈他者〉の問題系への翻訳を試みよう。一言で述べれば、主体の否定性、主体の自己不一致という事態は、〈他者〉との関係から見られるなら、〈他者〉のうちにおける主体の地位の不透明性、すなわち、「〈他者〉の欲望の謎」として表現することが出来る。

 アルチュセール的な「大文字の主体」がイデオロギー的諸主体達を「再認/承認」し、彼らに確固たる意味を保証してくれるのだとすると、ジジェクがラカンから受け継いでいる〈大文字の他者〉について主体はその〈他者〉が自分に何を欲しているかを知ることは出来ない。だから主体はそこにおいて〈他者〉に認められることによって自己との一致が達成されるような「本当の」自己自身にたどり着けず、一切の肯定的な同一性に対して否定的な関係を持ってしまわざるを得ない。このことが主体の(自己探求でもある)欲望を終わりのないものにするのである。

 そして「社会」についても、ジジェクにあって「社会」は象徴秩序そのものである〈他者〉から考えられているために事情は同じである。ここでジジェクはラクラウ・ムフが”Hegemony and Socialist Strategy(HSS)”で導入したテーゼ、「社会は存在しない」を転用的に持ち出す。諸主体は社会のうちで確固たる立場を見出そうとするが、それは究極的には成功しない。

 社会にはそれを引き裂く「敵対性(antagonism)」が、非一貫性が存在するからである。だから主体は社会の中での特定の役割に一致して安心立命というわけにはいかず、ジジェク的な意味での主体の次元が残存する。だからジジェクの見るところ、HSSで「敵対性」を導入しつつ「社会は存在しない」と宣言したラクラウとムフは、同時に主体を言説内の位置である「主体位置」に、ということはアルチュセール的な呼びかけに還元することによって、「社会」と「主体」のレベルで相互に矛盾した概念構築を行ってしまったといえるのである(Žižek [2006:302-316])。

 さて、本項の議論を要約しておこう。私たちは、前項で正当化された「否定性の存在」と、「否定性を主体として思考すること」を出発点として、ジジェクのイデオロギーと主体の理論とアルチュセールのそれとの差異を描き出した。

 アルチュセールにおいて主体がイデオロギー的「意味/真理」の内在化によって産出されるがゆえに、それに留保なく一体化しており、卑近な言い方をすれば「ベタ」にイデオロギーを信じているように見えるのに対して、ジジェクの「主体($)」は主体化に先行する「否定性」として思考されており、それゆえどんなイデオロギー的「意味/真理」の内在化、肯定的な同一性の引き受けに対しても否定的な距離を保ってしまう。

 そのようなジジェク的な主体は「ベタ」ではなく「シニカル」であって無意味と懐疑の経験に貫かれている。だがそれは人間が「欲望」の主体であることも意味している。以上のことを〈他者〉や「社会」から見れば、それは「他者の欲望の謎」「社会は存在しない」として表現することが出来る。

 さて、今や明らかになったのは、もしイデオロギーが主体として各個人を動員することを目的とするだとすれば、ここですでにイデオロギーは失敗しているということである。というのも、主体はイデオロギー的同一性に対して距離を保っているのだから。だが優れてジジェク的なイデオロギー理論が始まるのはまさにこの失敗の地点からである。次項ではこのことを見ることにしよう。

2-3、イデオロギーは自らの失敗を考慮に入れる―「幻想」と「享楽」

 さて、イデオロギーの失敗から、ジジェクのいうところのイデオロギー的「幻想」、イデオロギー的「享楽」の概念を導入することが可能に、更にいえば必然になる。これらは「イデオロギーが自らの失敗を考慮に入れる」(Žižek [2008a:142])手段だからである。では、どのようにして「失敗を考慮に入れる」のだろうか(以下本項は主にŽižek[2008a:139-144]を参照している)。

 この点を了解するには、ジジェクが「近親相姦の禁止」について述べていることを出発点とするのが適当である。ジジェクの把握するところ、「近親相姦の禁止」はもともと「不可能なもの」を更に「禁止する」という逆説的な論理だが、この禁止にはそれ特有の効果がある。

 すなわち、「不可能」が「禁止」に転換されることで、「不可能性」は必然的なものから偶然的なものに、解消不可能なものから解消可能なものに変換されるのである。不可能なものは端的に不可能だが、禁止されたものは禁止がなければ、あるいはそれに違反すれば可能なものである。禁止ということ自体が「不可能性」を消し去り、禁止の向こうの「可能性」を作り出し、指し示すのである。

 イデオロギーが失敗を考慮に入れるのも、「不可能」の「禁止」への転化と類似の論理による。それは必然的で解消不能な「不可能性」をあらかじめ見て取り、それを偶然的なものに、解消可能なものに転換する。それがジジェクによってイデオロギー「幻想」として特徴づけられる操作である。

 その操作は「否定性」そのものに肯定的な存在を与えることで、つまり、原初的で必然的な主体の「否定性/欠如」を、肯定的な、つまり経験的で除去可能な原因に帰することによって機能する。ジジェクにとってイデオロギー幻想の特権的な例は「ユダヤ人」であり、ナチスの反ユダヤ主義である。ジジェクはクロード・ルフォールに影響を受けて全体主義の一つの弁別特性を、それがユダヤ人といった「外敵」、つまり否定性を具現する肯定的存在を作り出し続ける操作に求めている。このような操作の論理がイデオロギー的「幻想の論理」である。

 より詳しく見よう。ジジェクの主体がアルチュセールのそれとは異なって否定性、つまりイデオロギーの与える同一性に対する距離、懐疑、自己不一致、欠如によって特徴づけられていたことから出発しよう。この否定性は主体の本性として除去不可能なものである。イデオロギーは失敗している。

 この行き詰まりを解消する方法がイデオロギー的「幻想」である。それはこの否定性の原因をある経験的存在に求める。例えば「ユダヤ人」に。すると否定性の、欠如の解消が、その経験的障害を排除すれば可能なものとして想像できるようになる。不可能性が解消可能なものになる。

 そしてイデオロギー幻想が約束するもの、それは「欠如/否定性」の解消、自己との一致の約束であり、原初の充実の約束、すなわち「享楽」の約束である。欠如が先行しており、その欠如から翻って想像されているがゆえに「幻想」が約束するものは混じり気なしの「まったき肯定性」であって、それが「享楽」と呼ばれる(Marchart [2005:21])。

 とはいえ、ジジェクの用いる「享楽」概念はこれに尽きるものではないから、ここで「幻想的な」享楽と限定を付しておくべきだろう。さて更にジジェクはイデオロギー幻想におけるユダヤ人を欲望の原因であるところの「対象a」として名ざすことがあるが、この用語法はユダヤ人がその経験的障害という性格によって初めて享楽を可能なものに転化することで主体の欲望を引き起こす、つまり、欲望の原因となるということから理解されうる。

 それゆえ「ユダヤ人」は(ジジェクの最初の英語著作のタイトルである)「イデオロギーの崇高な対象」なのである。

 かくして、ジジェク的主体がイデオロギー的同一性、肯定的なアイデンティティ一般に対する距離、「否定性/欠如」によって特徴づけられることによって、つまりイデオロギーが失敗していることによって、それが失敗を考慮に入れる手段としての「幻想」と「享楽」の概念への参照が可能かつ必要になる。「幻想」は欠如の原因として経験的障害、例えば外敵を想定し、それを排除することによって自己への一致、「享楽」が可能になると約束するのである。

 ジジェクの観察するところ、彼の母国スロヴェニアと旧ユーゴスラビアの民主化の過程で、ナショナリズムが勃興した際、そこに現れたのは外国人が私たちの享楽を盗んでいるという「享楽の盗み」と要約出来る類いの幻想であった。誰かが盗んだとすることで、もともと無かったものが存在するものであるかのように思い描かれる、ここに近親相姦的な不可能性の禁止への転換と同質の論理が作動している。

 以上をアルチュセールとの関係で整理すると、アルチュセール的主体がイデオロギーに素朴に同一化しているとすれば、ジジェク的主体はシニカルであることによって逆に「幻想の論理」に、自己一致の約束へと囚われてしまう主体であるといえるだろう。

 これらの事柄を再び〈他者〉や「社会」との関係から見ておこう。さて、主体の否定性は「他者」との関係においては「他者の欲望の謎」として、それによる主体の位置の不確実性として把握することが出来た。とすれば、この連関において幻想が他者の欲望に関する答えを提供するとされていても不思議ではないだろう(Žižek [2008d:9])。

 ジジェクの述べるところ、「他者の欲望の謎」によって、主体はそれによって主体が他者の欲望の対象となるところの、主体の中の宝物、「アガルマ/対象a」を失う。この喪失に抗して、幻想は、他者の欲望の答えを主体に提供することを通じて、主体にそれによって主体が他者の欲望の対象になる主体の中の宝物、そこにおいて自己一致が達成される真の自己、「本当の自分」を与える。この連関においてはこの主体の中のこの対象、「本当の自分」が「対象a」であり、「イデオロギーの崇高な対象」であると言われる(Žižek [2007:166])。

 次に「社会」に関してはラクラウの「政治空間の働き」(Žižek [2000a:174])の論理の記述の努力、政治空間の論理学とでもいうべき理論的営為との関係を見るべきだろう。そうすることで以上の議論を政治空間の作動原理により具体的に関係づける可能性が生じるからだ。ジジェクの見るところ、ラクラウのヘゲモニーの理論の中核には「幻想の論理」が存在している。

 ラクラウの理論の詳細な展開は第二部第二章に譲るとして 、ここではポイントのみ取り扱おう。つまり、欠如と「幻想の論理」の連関に注目して論述しよう。ラクラウとムフはHSSで政治空間の分析の基本概念として、要素・契機・言説を導入している(Laclau, Mouffe [2001:Ch3])。

 要素はさしあたりここでは現実的な諸アクターと見なせばよい。社会空間において現実的諸要素は「言説」の中に位置づけられる。諸主体は「言説」を通じてのみ世界と自らを認識する。これが「節合(articulation)」と呼ばれる操作であり、言説に節合されているかぎりで「要素」は「契機」となる。

 だが、「言説」に対して「要素」は過剰であり、「契機」であることを常に逃れるような部分が存在する。言説の中で与えられている「同一性」「主体位置」を逃れるこの剰余、このことをラクラウは”Emancipation(s)”では「欠如(lack)」と呼ぶ(Laclau [2007a:28])。

 さて、この「欠如」は、「主体($)」と「主体化/主体位置」の隔たりを指し示すジジェク的な「欠如」の用法と一致している。ラクラウがこの意味での「欠如」の増大状況を指し示すために用いるのがグラムシ由来の「有機的危機」である。体制が安定している場合、体制は「差異の論理」によって運営される。諸主体は「言説」のなかの相互に異なる、「差異」的な「主体位置」へと「呼びかけ」られ、それに大部分一致、つまり、自らの社会内的位置に満足している。

 だが、体制の危機、不満の増大状況にあって諸主体は体制内での所定の位置、「契機」であることに自足しえなくなる。「契機」と「要素」の距離が開き社会の様々な場所で「欠如」が増大する。ジジェクにあって「欠如」に対して「幻想」はその不可能性を経験的な障害に具現させることでその克服を約束したのだが、ラクラウにあってその任を負うのは「敵対性」という理論的契機(の一側面)である。

 欠如の増大状況にあって、欠如の原因と見なされるべき「敵」が名指される。すると、その排除によって、各主体の自己への一致が、社会の自己自身への一致が、すなわち、社会の「十全性(fullness)」が可能なものとして想像しうるようになる。

 これがラクラウのいうところの「空虚な普遍性」「ヘゲモニーの普遍性」の領野を開く。それは否定性を一身に具現する敵の措定によって想像可能になった純粋な肯定性、「享楽」に他ならず、特定の内容を未だ持っていない、すなわち「空虚」である。この純粋な肯定性を表象するものがラクラウのいう「空虚なシニフィアン」である。例えば「解放」「自律」「正義」など、もはや特定の要求ではなく、どのような主体もそこに自らを見出しうるようなシニフィアンの例をラクラウは挙げている(Žižek, Butler, Laclau[2000:191])。

 さて、ここでさらに話を本来の文脈に戻せば、否定性を具現する敵への対立において他の欠如した諸主体は互いに等価なものとして現れうるようになる。これが諸主体を相互に異なるものとする「差異の論理」の反対物、相互に異なる諸主体を同じものとして連接する「等価性の論理」である。優れた意味でのヘゲモニー闘争とは、この相互に呼応する「空虚な普遍性」と「等価性連鎖」の出現において、どの特殊な内容が未だ空虚な普遍性の場所を占めるかをめぐる闘争である。

 以上からヘゲモニー形成のプロセスを要約しよう。まず、安定した体制、諸主体を差異的な諸アイデンティティという形で包摂する「差異の論理」によって運営された体制がある。だが、不満が増大すると体制は危機に、有機的危機に陥る。体制内的なアイデンティティに包摂されざる部分、「欠如」が増大していく。

 ここで一つの打開策は「欠如」の原因たる「敵」を措定することである。この「敵」の措定によって、その排除を通じた、社会の十全性、欠如の消滅が想像可能になる。ここに相互に異なる諸主体が「同じもの」として参加できる「普遍性」、未だ空虚である「普遍性」が立ち上がる。悪そのものを具現する純粋に否定的な敵との関係で、全ての主体が「同じもの」として等価性連鎖に参加できるようになる。

 さて、この普遍性と等価性連鎖の出現において、それを表象する空虚なシニフィアンが産出される。「解放」「自律」「正義」…。ヘゲモニー闘争とはこの空虚な「普遍性/シニフィアン」をどの特殊な「要求/主体」が占拠するかをめぐる闘争である…。

 ここから「ヘゲモニーの論理」が「幻想の論理」と同一であることが明らかだろう。ラクラウの用語系では「ヘゲモニーの論理」が「対象a」の論理と同一とされるが、ジジェクの用語系では「敵」が「対象a」、その構築に応じて現れる空虚な普遍性を表象する空虚なシニフィアンが「主人のシニフィアン」、ヘゲモニー的普遍性の論理全体は「幻想の論理」ということになるだろう。ラクラウとジジェクの関係については第二部第二章で更に詳述される。

2-4、イデオロギーの彼方

 今までのところで原初的で回復不能な主体の否定性を出発点とするジジェクのイデオロギーと主体の理論、主体が否定性であるが故にイデオロギー的「呼びかけ/主体化」は失敗するが、「失敗を考慮に入れる」イデオロギーは「幻想の論理」を通じて「否定性/欠如」の消滅、すなわち「享楽」を約束すること、それによって主体を再びイデオロギーに包摂するという理論の叙述は一応の完結を見た。

 では、このように構想されたイデオロギーの理論からジジェクはどのような帰結を引き出すのだろうか。イデオロギーの批判はどのような形を取るのだろうか。

 第一にはジジェクが回顧的に「原初の不可能性を再度断言する」(Žižek, Daly [2004:70])と要約しているイデオロギー批判がある。「幻想」は社会的領野に存在する不可能性、否定性、敵対性自体を「肯定的/経験的」な存在、つまり、外的障害に帰することを通じて社会的領野を一貫した閉じられたものとしようとする。

 それに対してイデオロギー批判は、幻想の構築物たる外的障害、すなわち「イデオロギー的構造物の中でそれ自身の不可能性を示している要素」を発見し、イデオロギーが知覚する「因果の連関を逆転しなければならない」。外的障害ゆえに不可能性があるという因果連関を、「否定性/不可能性」は原初的であり障害はその外在化にすぎないという連関へと逆転しなければならない(Žižek [2008a:143])。原初の不可能性/空虚(Void)を見えるようにしなければならない。

 これと同じことを、ジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』の序文で、一貫した言説の領野である「〈象徴界〉」と、象徴化不可能な否定性たる「〈現実界〉」を隔てる距離をゼロにしてしまわないこと、と言うことによって表現している。このジジェクは社会的領野に走る敵対性、非一貫性、開放性を意識し続けることという意味で「ラディカル・デモクラシー」の立場を取るジジェクである。

 第二に、先に引用した部分で(Žižek, Daly [2004:70])、ジジェクはこの第一の立場をますます不十分なものと見なしはじめていると語っている。ジジェクが簡潔に要約するところ、以上の立場の帰結は以下のようになる。

不可能性の、〈物〉(the Thing)の空虚な場所があり、様々な歴史的形式においていつでも、この場所を占めている何らかのグループないし形象(figure)がある。(…)それは「ユダヤ人」だったり「ジプシー」だったり「アンダークラス」だったり、その他何でもよい。(…)いつも「ユダヤ人」のような何らかのグループがあって、この根本的不可能性を具現し、肯定的な障害の装いのもとに外在化する。そして私たちが出来ることはせいぜいこの場所を占めている担い手(agent)の偶然性に気づくようになることだ。(…)中心にある不可能性の場所とその後に来るそれを具現する様々な偶然的要素。この「不可能なものとしての〈現実界〉」の概念によっては、もちろん、錯覚(illusion)は消去不可能です。(Žižek, Daly [2004:74])

 つまり、第一の立場では否定性を隠している諸形象の偶然性は認識できるにせよ、否定性を隠す操作そのものは不可避であり、諸形象の交代の無限の連鎖があるだけということになる。そうだとして、では、イデオロギー批判の別の形態とはいかなるものでありうるのか。

 それはジジェクがラカンから受け継いだ「行為」「幻想の横断」「主体の解任」といった契機で指し示そうとするものであり、一言でいうと、欲望を動かす原初的な否定性、死の欲動をラディカルに(再)経験すること、それによる主体の変容、今まで見てきたようなイデオロギー的な主体、これは明示的にいわゆる政治的イデオロギーの形で表現されているかどうかは別として、ジジェクにあっては欠如した主体と幻想の組み合わせとして主体の最も一般的な形態だと考えられているようだが、そういう主体とは別の主体の形、別の生の形への変容を意味している。

 このことの可能性、そしてこのことの帰結の輪郭を描き出すためには、原初的な否定性の輪郭を見極めることが、つまり、ジジェクの思惟の中心部分をなす否定性の問いの十全な展開が必要である。これが第一部の課題である。

3、先行研究の検討―『存在論的、郵便的』と『権力と抵抗』

3-1、『存在論的、郵便的』―「否定神学」批判の諸問題

 先行研究の検討を通じて第一部で解明されるべきことをより具体的に理解しよう。ジジェクのイデオロギーの理論を、主題としてではないにせよ、ある程度のボリュームで扱っている文献として国内では上記の二冊が挙げられる。後者には前者の影響が見受けられるので順にその内容を検討していこう。

 ジジェクを扱った初期の文献であるにもかかわらず、東浩紀の『存在論的、郵便的』はジジェクについて優れた理解を展開している。というのも、そこでは上で「幻想の論理」として扱った事柄が簡潔に理論化されているからである。

 本書においてジジェクはラカンやハイデガーとともに「否定神学」―本書でこの語に与えられる意味は、この語の通常の用法とは少なからず異なっていることに注意する必要がある―という範疇に入れられて、本書が擁護しようとするデリダの「郵便」的思惟と対比され、批判的な取り扱いを受けている。

 本稿に関連する限りで本書の概要をさらっておこう。本書は思考の三つの形式、順に「形而上学」「否定神学」「郵便/誤配」と名指される三つの思考のシステム、その形式的構造を扱っている。

 この三つが示すものの意味を理解するには、ハイデガー的な意味での「世界(Welt)」から、つまり、単に諸物の総体のことではなく、存在者が存在者として、さらに特定の何かとして、ある全体性において現れうるような意味の地平である、人間的「世界」から出発するのがいいだろう。

 ここでのポイントは、この人間的世界が言語によって分節され構造化されていることを了解することである。人間的世界は言語による分節と意味づけによって構成されている。三つのシステムの違いは、この「世界 = 象徴秩序」の構造の認識に関する差異によって整理すると一番理解しやすいはずだ。

 さて、本書の用語法では「形而上学」とは、この世界の地平の内部にとどまらないもの、ハイデガー的意味での「内世界的(innerweltlich)存在者」でないもの、つまり、「非世界的存在」、そういう意味での「不可能なもの」を認めない思考を指し示す。

 これは本書の用語法では全てのシニフィアンがシニフィエを持つとも表現される。意味の地平としての世界を構成するのは言語、シニフィアンだが、それが全て肯定的な「シニフィエ = 内容(つまりは内世界的存在者)」へ送り返されているということである。

 さて、次に「否定神学」と「郵便/誤配」は、どちらも何らかの非世界的なものの存在を肯定する。だが本書の把握するところ両者はそれを思考する方法が異なる。

 「否定神学」は「人間主体」の特殊な構造によってその次元を思考する。というのは、人間主体は経験的存在、一つの内世界的存在者でありながら、同時にハイデガーのいわゆる現存在として、存在了解を産出し、意味の領野としての「世界を形成する(weltbilden)」ことによって、明らかに単なる「内世界的存在者」でなく、「非世界的存在」でもあるからである。

 ハイデガーはこの言い方を嫌うだろうが、分かりやすくいえば、人間は世界の内にいるとともに、ある意味で世界の外にいる。この二重性を本書は、ハイデガーから(これはハイデガー的には主体の性質をとりわけて指す言葉ではないが)「二重襞」という言葉を、またフーコーから「経験的-超越論的二重体」という言葉を借りて表現している。

 本書を少々補っていえば、存在了解を産出し世界を形成する現存在は全体としての存在者を世界へと向けて超越していなければならず(GA9.139)1)ハイデガーのGesamtausgabeの9巻39頁の意。、さらに、全体としての存在者の外にあるのは「無」なのだから、「無」に触れていないといけない(GA9.109)。この「無」に触れることはなんとしても必要である。というのも、存在了解、「あるということ = 存在」はどういうことかという理解は、ハイデガーの語るところ、存在の反対物たる「無」の経験によってしか生じえないからである(GA3:283-284)。

 こうして現存在としての人間主体は「非世界的なもの」「無/存在」「否定性」と密接に連関する。人間が「あるということ」「存在」を了解する現存在であり、それゆえ自分が「存在する」ということを知っている「実存」でもあるということだけで、すでに否定的なものとの関係が前提として必要なのである―この点のより厳密な解明は第一部の第三章で行う。

 本書に戻ると、この思考の「否定神学」的システムでは、かくして非世界的なものが主体と相関して一つだけ存在し、それゆえ、内世界的なもの、肯定的な内容へ送り返すことの出来ないシニフィアン、「シニフィエなきシニフィアン」、本書が「超越論的シニフィアン」と呼ぶものが一つ存在することになる。

 主体から「非世界的なもの」を、従ってそれを「単数」で思惟する思考様式が本書のいう「否定神学」という用語の定義を形成する。これは確かにジジェクに、あるいはジジェクにこそとりわけて、よく当てはまる。さて本書の考えるところ「否定神学」は「非世界的なもの」「不可能なもの」によって「世界」の安定性を解体するが、同時に「不可能なもの」が主体と相関して単数であることによって不可避的に世界を、「システム」を再び安定させてしまうという。本書によると、これがジジェクのイデオロギーの理論が表現していることである。

『イデオロギーの崇高な対象』によれば、主体は〈象徴界〉に空いた穴を埋めるためにつねに「対象a」を必要とし、社会的には、スターリニズムにおけるスターリンのような崇拝対象、フェティッシュとしての貨幣、あるいはコカコーラなどの呪術的商品がその「対象a」として機能している。(東[1998:110])

ジジェク的主体では、真実の「呼び声」はつねに主体のゲーデル的亀裂から、そしてそこからのみ響いている。したがって、イデオロギー、つまりラカン派精神分析の術語でいう「幻想fantasme」は、〈現実界〉が響かせるその壊乱的な声を聞かないためにのみ要請されるにすぎない。(東[1998:140])

 さて、私たちは前節で否定性の肯定的存在への転化、そういう意味での否定的なものの「実体化」によるシステムの安定という「幻想の論理」をジジェクとラクラウに即して叙述したが、本書において、以上から明らかなとおり、この「幻想の論理」が明快に示されている。

 本書に問題があるとすれば、それはこれをジジェクの、本書が「否定神学」と呼ぶものの「最後の言葉」としてしまい、これがイデオロギーの「批判を不可能にする装置」(東[1998:143])だとしてしまうところにある。

 だが、実際のところジジェクは単に否定性を先に述べた意味で実体化し「主体の穴を埋める」「幻想」の必然性を主張しているだけではなく、前節、より正確には第二節第四項でイデオロギーの彼方をめぐって見たように、第一にその「穴埋め」の偶然性の認識が可能だと、恐らくヘゲモニー的ズラしとでもいうべき操作が可能だと主張しているし、第二に、この問題は第一部に持ち越されたのだったが、「幻想/穴埋め」を超えて、その向こうに何もないこと、「主体という無しかない」(Žižek [2008a:222])こと、純粋な否定性を経験しうる、それによる別の生の形態が可能だと主張しているからである。

 とはいえ、ジジェク自身が前節終わり近くの長い引用で『イデオロギーの崇高な対象』の立場について不満を述べていることから分かる通り、そこでは「不可能なものとしての〈現実界〉」(Žižek, Daly [2004:66])という〈現実界〉理解が、全てではないにせよ、優勢であり、本書の言葉でいえば「穴埋め」が不可避であるかのような記述が、全てではないにせよ優勢であった以上、主に『イデ崇』に定位する、そして時期からしてそうせざるを得なかった本書が、この点を見落とすことは仕方ないかもしれない。

 そういうわけで、この点にまだ少々思考するべきことが残っており、その限りで本書のいうところの「否定神学」の批判的な検討は道半ばであると言えるだろう。

 ここで先行的に私たちの立場の見通しをつけておこう。本書の用語法、人間主体から非世界的なものを思考し、その「非世界的なもの ≒ 否定的なもの」を先に述べた意味で「実体化」あるいは「穴埋め」し、それによってシステムを安定化させることを指し示す「否定神学」なる用語法は、特徴的で通例に反するものだと思われるが、この本書流の「否定神学」の定義、「肯定的 = 実証的(ポジティブ)な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉えることが出来る何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般」「体系的には決して語ることができないものがある」(東[1998:94-95])に対応させる形で言えば、第一部で解明されるように、ジジェク的な立場とは、むしろ、「否定的な表現を介してのみ捉えることが出来る何らかの存在」「体系的には決して語ることができないもの」など実体的には存在しないが、その「無」の経験だけはあるというものである―私たちが「非世界的なもの」を「否定的なもの」と呼ぶのは、それが単に私たちにとって「否定的なもの」として現れるだけではなくて、それ自体において「否定的なもの」、つまり、「無」だからである。そしてジジェクにとって、その経験はシステムの安定化に資するというより、絶対的な否定性、切断の経験、「無からの創造」の経験として自由と解放の、はじめからはじめ直すことの経験ということになる―このことを第一部で詳細に見ることになる2)もちろん、このような立場を批判する可能性もまた存在する。例えば、バディウがジジェクとの関連で見たときに興味深いのは、バディウがこのような立場をこそ「否定神学」と名指し、それを「反哲学」とした上で、「反哲学」に限りなく近く思考することを主張しつつも、「反哲学」に対して自らの「哲学」という立場を区別していることだろう。

 続いて本書のいわゆる「郵便/誤配」なる思考のシステムを見ておこう。この思考も本書のいうところの「否定神学」と同様、世界の非完結性、世界の彼方、「不可能なもの」を発見する。しかし、郵便的思惟は、それを主体の構造、その二重性によって思考することをしない。郵便的思惟はそれを、言語一般、記号一般につきまとう誤配可能性と本書が呼ぶものによって思考する。

 本書が把握する誤配可能性の要点は「署名という諸効果はこの世界において最もありふれたものである。とはいえそれらの諸効果の可能性の条件は、またしても同時に、それら諸効果の不可能性の条件、それら諸効果の厳密な純粋性の不可能性の条件である」(東[1998:36])という本書が引用するデリダの言葉に集約されていると思われる。

 この要点を了解するのに必要なのは、記号における「同じもの/同一性」(≒「シニフィアン/シニフィエ」)を区別することである(東[1998:35-36])。記号とは、何かを代理表象するものだが、記号は例えば「X」なら「X」で常に同じ(ような)形をしている。そうでなければ記号として通用しない。それが記号における「同じもの」であり、「同じもの」とは記号そのものである。一方、記号の意味、記号によって代理表象されるものが記号の「同一性」と呼ばれる、記号「X」によって了解される意味内容が、記号の同一性である。

 さて、ある記号が記号でありうるためには、つまり、記号として機能するためには、それは複数の文脈で使われなければならない。記号の「可能性の条件」は引用可能性であり、「同じもの」たる記号が諸々の文脈間を運動しなければならない。しかし、それは不可避的に記号に複数の「意味 = 同一性」を持たせる。「同じもの」が運動する中で、その「意味 = 同一性」は不可避的にズレていく。

その結果として、ある記号の意味に複数性が生じ、またそれゆえに意味の決定不可能性が生じる。記号の意味が他でもありうるという経験、つまりは意味が中吊りになるという経験が生じる。そこにおいて、シニフィエなきシニフィアンが、つまり象徴秩序の彼方が、「不可能なもの」が、あるいは本書を引用すれば、「任意の経験論的テキスト/システム」の内の「それ自身の論理では制御 = 決定不可能な特異点」(東[1998:214])が発見されるという。

 先の長い引用文(「署名という~」)に即して確認しよう。「X」というような記号、その「同じもの(X)」の運動が、記号の可能性の条件、「その諸効果の可能性の条件」、すなわち記号が「同一性 = 意味」をもつ可能性の条件であるが、それが同時に記号の「同一性」を揺らがせ、決定不可能性を生じさせる。つまり、「同じもの」の運動は、「同時に、それら諸効果の不可能性の条件、それら諸効果の厳密な純粋性の不可能性の条件である」。

 さて、この「同じもの」たる記号の運動による記号の「同一性」の揺らぎこそ、本書のいわゆる郵便的誤配の最も抽象的な表現であると思われる。この意味の揺らぎのために「手紙 = メッセージ」はあて先に届かないことがありうる。そして、この「同じもの」の運動の過程において、その結果として生じる「意味 = 同一性」の複数性と、それに相関して生じる「同じもの」の「同一性」への還元不可能性、つまりシニフィアンのシニフィエへの還元不可能性が本書で「散種」と呼ばれている。

 少々煩瑣になるが本書でよく使われる「散種」の概念は捉えにくいものなので、少々寄り道をして明確化しておこう。それは本書において、本書が「多義性」と呼ぶものとの違いから、(1)「同じもの」である記号の「運動」の過程で生じる、(2)還元不可能な、そして最後にこれは「多義性」とも共通する部分だが、(3)意味の複数性という三点によって定義されていると見なしうる。

 本書に即して確認しておこう。まず(2)(3)の点から見よう。本書冒頭において、多義性は「耳(パロール)」に対応するのに対し、散種は「目(エクリチュール)」に対応するといわれる(東[1998:14])。例としてhe warという文(?)が提示されている。war はドイツ語と英語に同時に所属する。「散種 = 目(エクリチュール)」のレベルでは、この文は二つの読解コンテキストに同時に属し、そのどちらの読みが正しいかは決定できない。意味の決定不可能性があり、この文(シニフィアン)は特定の意味(シニフィエ)に還元不可能である。これが散種、還元不可能な意味の複数性である。

 他方、「多義性 = 耳(パロール)」のレベルでは、つまりこれを発音してしまえば、この文はドイツ語か英語どちらかに属することが決定されてしまう。この種の意味の複数性は、いずれ全て集積することが出来るだろう。今回であればドイツ語の意味と英語の意味の二つで、この文の意味の複数性は汲みつくされたことになる。つまりこの文(シニフィアン)は特定の諸意味(シニフィエ)に還元可能になる。これが多義性、還元可能な意味の複数性である。

 次に(1)の点、本書によると散種は最初からあったわけではない。最初にあるのは一つの記号、「同じもの」である。それが諸々の文脈を運動することで意味の複数性が生じる。しかるに、散種と対置される多義性の思考では、最初に(あるいは深層に)複数のコンテキストや構造があり、それが記号の意味を重層的に決定しているととらえる。この捉え方は、ある記号の意味を規定する諸コンテキストへの遡行的な探求へと必然的に移行する。それは「過去についての思考」(東[1998:24])である。

 このような構えにあっては、いずれ、その複数の「コンテキスト = 意味」は全て数え上げられることになるだろう。こうしてここでも記号(シニフィアン)は複数の意味の集積(シニフィエ)に還元可能になってしまう。だから「同じもの」の「同一性」への還元不可能性、意味の決定不可能性を真正に思考するためには、散種的にそれを「同じもの」の運動から思考しなければならないとされる3)ところで、意味の複数性を「同じもの」の運動と切り離し、還元可能にしてしまう身振りは「散種の多義性化」と呼ばれている。この「散種の多義性化」についても少し述べておこう。これは本書で幾度か使われているが、二つの異なる意味を持っていると考えたほうが読解が容易になると思われる。「形而上学的」散種の多義性化と「否定神学的」散種の多義性化である。具体的には、「ジョイス会社」 (東[1998:26])について言われるのが前者、リオタール(東[1998:55])、ジジェク(東[1998:124])に対して言われるのが後者である。前者は意味の複数性を記号の運動から切り離すことで、記号の意味の複数性を還元可能に、つまりシニフィアンをシニフィエに還元可能にしてしまう。他方で、後者は、記号の意味の還元不可能性を、つまりシニフィアンのシニフィエへの還元不可能性を、記号の運動とは切り離して認識し、シニフィアンに宿るシニフィエに対する剰余を何かそれ自体としてあるものにしてしまうとされていると見てよいだろう。「同じもの」の「運動」の次元を見落とすという点では同じだが、それによって向かう方向が異なるのである。

 ここで本筋に戻るなら、郵便的思惟においては、「誤配」によって、個々のシニフィアンが、その「意味 = 同一性 = シニフィエ」に対する過剰をもち、多かれ少なかれ「シニフィエなきシニフィアン」、つまり、世界のうちに参照先のない記号、その意味で非世界的なものを指し示す記号となっている。つまりエクリチュールになっている。「『エクリチュール』という述語は、…同一性をもたない記号の運動を指す」。ここにおいて世界の彼方、象徴秩序に収まらず現前の論理に従わない、それゆえに主体のコントロールの及ばない、(「単数」ではなく)「複数」の「幽霊」が現れると本書は言う。

 要約すると、本書の把握する否定神学システムと郵便-誤配システムの差異は、それが「世界 = 象徴秩序」の彼方を考える際に、一方は主体の二重性を用いるのに対して、他方は、個々の語が運動する中で生まれる、語の「同一性」に対する剰余、シニフィアンのエクリチュール化、個々のシニフィアンに宿る「二枚重ね性」(東[1998:304])を用いるという点にある。そしてそれは世界の彼方、「不可能なもの」の「単数性」と「複数性」をそれぞれ帰結することになるとされる。

 私たちはジジェクに定位することで、主体と否定性の連関を思惟の根本的対象とするから、本書で郵便的な思惟に優位が与えられていることに対してやはり一定の反論をしておくべきだろう。本書の「否定神学」批判のポイントは私たちが読解し得た限りでは三つある。

 第一は先に一瞥した「否定神学」が「幻想の論理」によってシステムの安定性を再構築せざるを得ないという点であり、その点については先に一定の批判的指摘と第一部への問いの持ち越しが行われたので、ここでは扱う必要は無いだろう。

 第二は「否定神学」は「神秘的」であるという点である。先に見た通り、本書の定義するところ「否定神学」とは「肯定的=実証的(ポジティブ)な言語表現では決して捉えられない、(…)何らかの存在がある(…)とする、神秘的思考一般」であり、他方の郵便的思惟にあっては「非世界的なもの」は「シニフィアンの誤配可能性」「散種」によって解明されるので、「「不可能なもの」、非世界的存在そのものはどこにもなく」、その「効果」(東[1998:180])のみが存在するという形で「非神秘的」(東[1998:186])に理解される。

 だが、この点について言えば、本書のいわゆる「否定神学」にせよ非世界的なものを主体の構造によって説明しており、また先に指摘され第一部がより詳細に検討するようにジジェクやハイデガーの論点も「非世界的なもの」は実体的には存在しない、だがその「無」の経験―効果―あるということなのである。だからこの点では二つの思惟に差異は見受けられない。

 第三は郵便的思考の否定神学への論理的先行性とでもいうべき論点である。本書の理論構成に従うと「否定神学」は世界を一挙に一貫した全体として捉えた後に「非世界的なもの」を見いだす。だが、郵便的なシニフィアンの誤配はそもそも全体としての世界の把握を揺るがし不可能にする。だから、少々特殊な述語が使われているので把握しにくい一節だが、「現存在の二重襞性が「先駆する」より前に(…)円錐底面の一層はつねにすでに物表象の群れへと散種されている」(東[1998:305])ということになる。

 だが、ここでも「否定神学」は全体としての世界の先行把握を前提しているとは言えないと思われる。後に論じることだが、ハイデガーからすれば「存在了解」の事実だけで「無」の存在を肯定するには十分なのである。かくして先送りばかりとなってしまったが、さしあたり私たちからすると二つの思惟様式の間にどちらが先行的であったり優越的であったりといった関係は認めにくいように思われる。もしかしたら私たちの異議は最終的にこう言えるかもしれない。本書の議論ではまだハイデガーが作り出した閉域の閉域性、その堅固さの把握が不十分なのではないか、ハイデガーとは別様に考えることの困難さの認識が不十分なのではないか、と。

3-2、『権力と抵抗』

 次に佐藤嘉幸の『権力と抵抗』を取り扱う。本書によれば『存在論的、郵便的』は「決定的な書物」(佐藤[2008:159])であるとされ、実際、様々な点に影響が見られる。

 その中でも第一に挙げられるのが、第一節の冒頭で見た「構造主義的」権力理論、すなわち、外的要素の内面化による主体形成、そこにおける主体の脱中心性という理論を説明する際に中心的な用語として「二重襞」「経験的-超越論的二重体」を持ち出すところである(佐藤[2008:序論,Ch1])。

 だが本書においてこれらは外的要素が内面化されることで主体が二重化し、外的要素の内面化によって作られた上位の審級(これが超越論的主体だとされる)が下位の審級を監視し統制するという事態に還元されてしまう。

 つまり、これらの用語が表現していた「主体」と「非世界的なもの」ないし「否定的なもの」の連関という論点が忘却されてしまう。これはジジェクの立場を理解する上で決定的な後退といわざるを得ないが、その後退に基づいてジジェクは結局のところ「構造主義」的権力モデルを絶対化し抵抗を不可能にしていると批判されてしまうのである。そこに本書のジジェク理解の問題性がある。

 だが、本書も「主体」によってではないが、別の形で否定性や欠如の問題を扱っているので、そちらを見ておこう。私たちも第二章で少々検討したラカンが〈物〉(Das Ding)について行った解釈に即して進められる本書の議論である(佐藤[2008:140-150])。

 曰く、〈物〉は主体の究極の欲望の対象であるが、それは象徴的去勢により根本的に失われている。それゆえ今や〈物〉は到達しえない絶対的外部(〈現実界〉)として、しかし、主体の欲望を方向付け、支配し続けている。これが欲望を動かす「存在欠如」ということであり、〈物〉ないし「欠如」はかくして「快原理の名の下に」主体を駆動し続ける(佐藤[2008:147])。「ラカンにおいて、死の欲動は欲望の対象であるが接近不可能な〈物〉へと還元され、その否定性(「存在欠如」)が欲望を駆動する」(佐藤[2008:186])。

 ここで明らかなのは、この〈物〉、「欠如」、「死の欲動」、「否定性」をめぐる議論も本書のいうところの外的要素の内面化とそれへの主体の決定的な依存という「運命の哲学」「構造主義的」権力モデルから解釈されているということである。

 しかし、今見たように本文では「死の欲動」を抵抗を不可能にする外的要素としての〈物〉への依存として「運命の哲学」に還元したにもかかわらず、不可解なことに本書はある注で(佐藤[2008:177])、「無生物への回帰の傾向の彼岸」「破壊欲動」として解釈された「死の欲動」の極限における「第二の死」とそれに関連するものとしての「享楽」についてのラカン理論を「「快原理の支配」に執着したフロイトが到達できなかった理論化として最も肯定的に評価する」と述べている。

 とすれば、この注が引用する「無生物への回帰の傾向の彼岸」「破壊欲動」から一頁も隔たっていない場所でラカンが語っている、この破壊欲動、死の欲動は「同時に、無からの創造の意志、再出発の意志」でもあり、「ご破算にして再開する意志」(Lacan [1986:251=2002:下71])であるという言葉を聞き逃しているはずもないだろうし、引用はされていないにせよ、恐らくはそのことを評価しているのだろう。

 ここでジジェクに戻るなら、ジジェクの主張するところは、この「死の欲動/再出発の意志」の次元、「この快原理の彼岸、自己破壊性などなどを指す観念、この死の欲動の観念を適切に読解する唯一の方法は、ドイツ観念論における自己関係的否定性としての主体性の概念を背景として読むこと」(Žižek, Rasmussen [2007])だというものである。

 「無からの創造の意志、再出発の意志」たる死の欲動を適切に理解し、それが何を意味しているのかを了解するためには「主体と否定性」の問題へと差し戻すことが必要なのであって、この点は第一部で解明されることになる。以上からすれば、少々の誤解はあるとはいえ、ここに大きな立場の差異はないといえるのかもしれない。

 だが、いずれにせよ、これらの先行研究に十全な応答が可能になるのは、前節最後で第一部に期された課題を解明した後のことである。これらの先行研究が思考していない次元があるとして、その次元に生産的な可能性があるかどうかはまた別の話であり、そのことは十分に疑いうるのだから。

4、イデオロギー理論一般の賭け金とジジェクのイデオロギー理論の位置づけ

 本章の締めくくりにイデオロギー理論一般の賭け金を明らかにした上で、それとの関係からジジェクのイデオロギー理論の基本的態度を明らかにしておこう。

 ここでジジェクが西欧マルクス主義について語っているところを出発点としよう(Žižek [2009:51-52])。ジジェクの見るところ、西欧マルクス主義の決定的な問題は革命主体の不在であり、具体的にはどうして労働者階級が階級的自覚によって自らを革命主体として構成しないのかという問題である。

この問題が西欧マルクス主義の精神分析への参照に対する主要なレゾン・デートルを提供していた。精神分析は労働者階級の存在そのものや社会的状況に書き込まれている、階級意識の勃興を妨げる無意識のリビード的メカニズムを説明するために呼び出されたのである。こういう仕方でマルクス主義的な社会経済的分析の真理が救われることになった。こうすれば中産階級の勃興という修正主義的諸理論に屈する必要がないというわけだ。(Žižek [2009:52])

 ここからイデオロギー理論一般の賭け金についての議論を展開することが出来る。一言でいえば、イデオロギー理論の賭け金は一見もはや何の不満も無いところ、従って何らの変革の動因もないところに、不満の自覚や表出を不可能にしているメカニズムを見て取り暴露することで、不満と変革の可能性が存在することを明らかにするところに存する。

 ジジェクのイデオロギー理論はこの課題にいかに応答しているのだろうか。ジジェクの第一の操作は、現在が「ポスト・イデオロギー」の時代であるということを否定することである。現在がポスト・イデオロギーの時代であり、不満の自覚や表出を不可能にするメカニズムが存在していないとすれば、そこに一見不満が見られないなら(これはいかにも90年代的な前提かもしれない、今や不満は可視的である)、実際に不満も、ひいては変革の可能性も存在しないことになる。

 ジジェクはこのことを否定する。このことは1-1で見たように、ポスト・イデオロギーと言われる時に引き合いに出される意識レベルでの人々のシニカルな態度に対して、イデオロギーの物質性、イデオロギーは知と意識のレベルではなく行為のレベルに、私たちの行為を構造化している社会の物質的構造そのものに存在しているという主張によって支えられている(Žižek [2008a:30])。

 第二に、より具体的なイデオロギーのメカニズムの解明はどのようにこの課題に応答しているだろうか。ここでジジェクの立場は困難なものである。というのも、ジジェクの考えるところ、世界は言語に媒介されることによってのみ私たちに現れてくるのだが、象徴化以前の〈現実界〉は「象徴化への支えを提供せず」「全ての象徴化は最終地点においては偶然的である」(Žižek [2008a:107])以上、社会の「真の」状態、ある主体の「客観的」な「真の」利益などを前提として、イデオロギーがそれを「虚偽意識」によって隠蔽していると主張することは難しいからである。

 だが、この客観性への参照なしに、一見するところ現れていない不満が実は存在すると主張することはいかにして可能になるのだろうか。実のところ、ジジェクにあって不満と変革の可能性、あるいは社会の一貫した十全性を不可能にする「敵対性」の存在はとりわけて示されるべきものというよりも、むしろ前提である。

 というのも、本章で一貫して指摘してきた通り主体は「否定性」であり「欠如」だからである。そして、それゆえにイデオロギーのメカニズムは、この不満に虚偽の充足を与え不満をおおい隠す「幻想」と「享楽」の概念によって記述されることになる。

 人間は人間である限りで「否定性/不満」であり、変革への可能性である。そのことを覆い隠してしまう「幻想」を退け、他なるあり方への人間の開放性を開き続けなければならない。この側面から見ると、ジジェクのイデオロギー理論構成全体は、変革後についての肯定的なヴィジョンに関しての具体性を欠くとはいえ、常に新しい可能性を開き続ける進歩的なものである。

 ジジェクは最近の著作で以下のように指摘している。「精神分析は行動のための新しい肯定的な政治プログラムを提供しはしない。その究極の達成(…)は全ての安定した集団的結びつきに脅威をもたらす破壊的な力、「否定性」の輪郭を識別したことである」。そういうものとして精神分析は、私たちを「政治のゼロレベル、政治の前-政治的な「超越論的」な可能性の条件」、つまり、政治的行為がそこから可能になるためのスペースに直面させるのである(Žižek [2012:963])、と。

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第三章 ジジェクへの導入―伝記・スタイル・問題構成
第一部 ジジェクの哲学と倫理:緒論―欲望・否定性・主体

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)

References   [ + ]

1. ハイデガーのGesamtausgabeの9巻39頁の意。
2. もちろん、このような立場を批判する可能性もまた存在する。例えば、バディウがジジェクとの関連で見たときに興味深いのは、バディウがこのような立場をこそ「否定神学」と名指し、それを「反哲学」とした上で、「反哲学」に限りなく近く思考することを主張しつつも、「反哲学」に対して自らの「哲学」という立場を区別していることだろう。
3. ところで、意味の複数性を「同じもの」の運動と切り離し、還元可能にしてしまう身振りは「散種の多義性化」と呼ばれている。この「散種の多義性化」についても少し述べておこう。これは本書で幾度か使われているが、二つの異なる意味を持っていると考えたほうが読解が容易になると思われる。「形而上学的」散種の多義性化と「否定神学的」散種の多義性化である。具体的には、「ジョイス会社」 (東[1998:26])について言われるのが前者、リオタール(東[1998:55])、ジジェク(東[1998:124])に対して言われるのが後者である。前者は意味の複数性を記号の運動から切り離すことで、記号の意味の複数性を還元可能に、つまりシニフィアンをシニフィエに還元可能にしてしまう。他方で、後者は、記号の意味の還元不可能性を、つまりシニフィアンのシニフィエへの還元不可能性を、記号の運動とは切り離して認識し、シニフィアンに宿るシニフィエに対する剰余を何かそれ自体としてあるものにしてしまうとされていると見てよいだろう。「同じもの」の「運動」の次元を見落とすという点では同じだが、それによって向かう方向が異なるのである。
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