ルーマンは19世紀から20世紀への動向として、「愛」は単に文化的な「コード」にすぎず、それは再生産を保証する「イデオロギー」に過ぎないといったシニカルな見方1)LP, S.188-189.や「ロマンチック・ラブ」の陳腐化の傾向を把握する2)LP, S.189-191.。では、ルーマンは同時代をどう見ていたのだろうか。最後にこのことを簡単に検討しておこう。
同時代の解釈をルーマンはLPの第15章において展開している。まず注目すべきは、本稿第1章の末尾で指摘したことだが、LUには親密関係の安定を支える「予期の予期」の次元という議論—事実的差異は、相手が自分をありのままに受け入れている、つまり、相手が自分を愛していることの想定という意味での「予期の予期」によって隠蔽され、あるいは意義を失う—があったのに対して、LPはそれを欠くのみならず、ほとんど正反対の議論を行っていることである。
[かつて親密関係は強固な外的社会関係により、ある場合には不可能にされ、ある場合には支えられていた—例えば社会的に離婚が禁じられているから嫌いな相手ともずっと一緒にいるといったことを想像しよう—のだが、それに対し、近代が推し進めてきた]親密関係の自律化(…)は完全に新しい種類の状況を作り出す。外的な支えは解体され、内的な緊張は強められた。安定性はいまや純粋に個人的・人格的(persönlich)な源泉からして可能にされなければならず、しかも同時に他者に自らを関わらせながらそうしなければならないのだ!(…)最近の研究でも親密関係が特別に多く葛藤をはらんでいることが何度も繰り返し確証されている。このことは以下のことに由来しているのかもしれない。すなわち、具体的な行動、役割把握、環境の評価、因果帰着、趣味の問題、価値観といったことに関する意見の相違に対して、その上でひとが相互的な愛の中で一致を保ち守ろうとする葛藤解消の次元として、個人的なコミュニケーションしか使用できないということ、そして同時に意見や振る舞い方からこの最終次元への逆推論が、まさにその連関が愛によって保証されるべきだとされているがゆえに、極めて容易に思いつかれるということに由来しているのかもしれない。 3)LP, S.198.
つまり、「愛」の機能がLUとは反転しているのである。最後の一文を分かりやすくパラフレーズすると、いまやルーマンの想定によればひとびとは「愛があるなら意見は一致するはずだ」と想定していることによって、容易に個別具体的な「意見の不一致」から「愛」そのものの問題へと移行し、極端な場合には「愛の不在」を逆推論する。「私を愛しているのに、なぜ意見が違うの?」というわけだ。いまや「愛」は意見の不一致を隠蔽したり無意義化したりするのではなく、反対にその意義を極大化するのである。
このLUとの差異の背景には13年間に起きたルーマンの事実認識の変化があるのだろう。LUでルーマンは親密関係の安定性のメカニズムを叙述する前に「事実は相変わらず結婚の高い安定性を示している」4)LU, S.57.と述べ、そこからして安定化メカニズムの存在を推定したのだった。
「この研究結果から「愛からして結ばれた結婚のうちでは安定化メカニズムが発達している」と推論することができる」5)LU, S.58.。ならば、事実が変われば、すなわち、LP曰く「最近の研究でも親密関係が特別に多く葛藤をはらんでいることが何度も繰り返し確証されている」とすれば、理論的想定も変更される。
ルーマンは注で参照した「最近の研究」を示しているが、それについて「とりわけて注目すべきはパートナーたちが関係をインテンシブ化すると関係がより葛藤を孕むようになることの確認である」とコメントしている。すなわち、13年の時を経て、前章の言葉でいえば、「安定」の論理であるLUの「予期の予期」の論理に対して、LPではいまや「危機」の論理、関係のインテンシブ化による流入する情報の増大と深化が差異を発見せしめ、確証への期待の高さがその裏返しとして差異を葛藤へと発展させるという論理が全面化されるのである。
さて、この基本的な認識を背景としつつ、ルーマンは本章で大要二つのことを述べている。すなわち、「親密関係への要求の高まりとその困難」と「コードの形式の「理想/パラドクス」から「問題」への移行」である。
前者から見ていこう。これは大部分—こう言ってはなんだが—少なくとも今となっては「よく聞く話」である6)LP, S.17, S.194-195.。曰く、現代にあっては経済システムを中心に非人格的な関係がますます拡大し、変化のスピードを速め見通し難くなっている。この非人格的関係の荒波にさらされて、ひとは、そのうちで自らの人格、その全自己を表現しえ、それが他者により確証されうるような関係、そのことを通じて、そのうちで外界の変化の速さと見通しづらさから守られて自らの一貫性を経験しつつ安心することができるような関係—つまり、「人格的・個人的な関係 = 親密関係」—をより強く求める。
そしてまた人生の選択肢が増え、各人の「アイデンティティ」そのものが各人の選択とみなされるようになると、ひとは自らの「アイデンティティ」を確信するために他者の確証を必要とするようになる7)LP, S.208-209.—「自己描出の妥当性の承認」!そして女性の社会進出にともなって非人格的関係の厳しさと冷たさを経験するのはもはや男性だけには限られない…。
こうして親密関係への要求が高まるのだが、いまや多くの必要が非人格的関係で満たされるようになった以上、親密関係への要求はより純粋で高いものになる—つまり、極めて高い確証への期待となる。このことは今さっき見たとおり親密関係における葛藤の可能性を高め、親密関係を不安定化させる。
ルーマンに言わせると性が最終目標にならなくなったことも、この不安定化を加速させる要因の一つである8)LP, S.202.。各人の世界が問題であるとすれば、性はもはや相互浸透を十分に象徴化する力を持たないという。親密関係の不安定性に関する認識は、愛についてのいかなる高揚にも懐疑的であること、それへの期待を下げること、結婚せずに単なる同棲を選ぶことなどに見てとることができる9)LP, S.197, S.201, S.214.。
さて、親密関係に対する極めて高い必要と、それに対する要求の高さの故の親密関係の不安定化。このことは親密関係が各人にとっても全体社会にとっても極め付けに「問題」的なものとして立ち現れてくることを意味する。こうしてルーマンは「愛のゼマンティク」のコードの形式が「理想」と「パラドクス」を経て「問題」へと変化しているという議論を提示するのである10)LP, S.197, S.213.。
では具体的に「問題」とは何か。ルーマンの議論は複層的である。あるいは、むしろ、コミュニケート不可能性の場合と同様にルーマンは二つの違う事柄を一緒にしてしまっているというべきかもしれない。
いずれにせよ、ますはルーマンの議論を追っていこう。第一に、「問題とは全く単純に親密関係のためにパートナーを見つけ、[彼(女)を親密関係に]結びつけることができるかということだろう」11)LP, S.213.。ルーマンに言わせると、現代社会に行き渡っている非人格的関係は短期的であり、また非人格的関係として、そのうちで人格的・個人的なコミュニケーションを始めるのが困難である。「始めることの困難」が存在しているのだ12)LP, S.205.。
またそれを克服して首尾よくパートナーを「見つける」ことができたとしても、いやますアイデンティティの多様化と親密関係への高い要求のなかで親密関係は必然的に不安定であり、パートナーを親密関係に「結びつける」こと、少なくとも「結びつけ続ける」ことは困難な問題を形成する。ルーマンはこれに対して「愛のゼマンティク」を「理解のプログラム」として再構築することを提唱する。伝承された「愛のゼマンティク」はそのうちに「不安定性と愛における苦しみ」という要素を含むけれども、これを出発点としつつ、その困難を乗り越えるための「理解のプログラム」が組織されなければならない13)LP, S.212-213. ここでのルーマンの「理解のプログラム」の定式化は、「他者の何を理解しなければならないか」ということの提示にとどまっている。その内容は大要、第1章2-4-2「他者理解という難問」でまとめたので、そちらを参照されたい。。
だが、このような「理解のプログラム」の帰結として、「愛のゼマンティク」のコードの形式が「問題」であるということの新たな位相、そのことの二つ目の意味が立ち現れる。ここもまた私見によればルーマン一流のレトリックが光る部分である。少々長いが引用しよう。
コードの形式としての理想化とパラドクス化が「問題への方向付け[あるいは「問題志向」](Problemorientierung)」によってとって代わられていることを少なからぬことが示していないかどうか考察してみることができる。[他者(=パートナー)の世界関係を引き受けるべきであるといった14)vgl. LP, S.135.]全体化的な指示は(…)ある種の「問題」へと私たちを導く。他者の世界観に自らを関わらせよという命令は、他者の根拠のない不安、自らを害する見解、生命を脅かす習慣といったものまで引き受け、承認し、確証するべきなのかどうかという問いの前へと私たちを導くのである。日常における心理学的に洗練された鋭い洞察力と現代のセンシビリティーがこの問いを愛の倫理の中心へと押しやっているのだ。そしてまさにひとが親密な知からして、極めて正確に、いかに他者が彼(女)自身に否定的な仕方で作用するような共生を「彼(女)自身の」環境に対して追求しているかをまざまざと我が事のように感じ取るとき、まさにそのときに愛は確証と異議申し立てとを同時に要求する。情熱は終わり、理想は失望を生み、問題は解決を見出さない。しかし、問題への方向付けは以下のような利点を持っていると言えるかもしれない。すなわち、それが愛する者たちに、問題への対処において—責め苛むような見通しのなさのなかで、それにもかかわらず愛しつつ—お互いに愛を示すことを課するという利点である。自己破壊的な態度というこのテーマは新しく、(…)伝統的な愛のゼマンティクには欠けている。そして、長く伝承されてきた諸々のパラドクスにおいてではなく、まさにここ[、つまり、問題への対処]に、そのうちで愛の不可能性を—否定することが意志される点があるということは、おそらく良いことであり得よう。15)LP, S.213-214. この引用文の後半もやはり「声に出して読みたいドイツ語」である。Und gerade wenn man sehr genau und aus intimer Kenntnis nachfühlt, wie der andere mit >>seiner<< Umwelt eine Symbiose sucht, die negativ auf ihn zurückwirkt, gerade dann fordert Liebe Bestätigung und Widerspruch zugleich. Die Passion hat ihr Ende, das Ideal seine Enttäuschung, das Problem findet keine Lösung. Die Problemorientierung mag aber den Vorteil haben, daß sie es den Liebenden aufgibt, am Umgang mit dem Problem sich ihre Liebe zu zeigen — quälend aussichtslos und trotzdem liebend. Dies Thema selbstdestruktiver Einstellungen ist neu, und es fehlt in der traditionellen Liebessemantik, (…) und es könnte gut sein, daß hier, und nicht in den überlieferten Paradoxien, der Punkt liegt, in dem die Unmöglichkeit der Liebe — negiert sein will.
「愛のゼマンティク」のコードの形式が「問題」であるというのは、先に見たように親密関係への高い関心とその困難のなかでパートナーを見つけて継続した関係を作ることが「問題」として語られるということだけを意味するのではない。
私たちは他者を理解し、他者の世界に関わろうとするなかで、ほとんど必然的に他者が抱えている何らかの「問題」にぶつかる。いまや重要なのは「親密関係の諸問題を一緒に認識し解決すること」16)LP, S.52.であり、その意味で愛のコードの形式は「問題への方向付け」なのである。いまやパートナーが抱える問題、まさに「解決のない問題」への対処が、そこでこそ愛が示され、愛の不可能性が否定されなければならない試金石的な場所として、立ち現れるのだ。
だが、もう少し理解を精緻化しておくべきだろう。なぜ、ルーマンは他者が抱えていることがあり得る数ある「問題」のなかで、この「自己破壊的な態度」という「問題」に注目し、それを即座に「解決のない」問題として名指し、愛の「不可能性」を云々するのか。
私たちなりの解釈を提示しておけば、おそらく、ここで私たちは先にコミュニケート不可能性の第二の方向性として論じた事柄を思い出さなければならないのである。
というのも、他者が抱えている誤り、それも「自己破壊的な態度」などと呼ばれるべき誤り、つまり、他者の自己描出ないしアイデンティティに深く食い込んでいる、いわば構成的な誤りを指摘することは—他の様々な「問題」以上に—他者にとって容易に「私が他者を肯定せず否定していること」、つまり「私が他者を愛していないこと」の証拠として受け取られうるからである。
すなわち、それは容易に「そんなこと(=情報A)を言う(=伝達)なんてあなたは私を愛していない(=情報B)」という、伝達と情報との差異の崩壊、「情報Aの伝達自身が再び情報(情報B)になること」を生じさせるのだ。
だから私たちはこの種のことを言う事に二の足を踏まざるを得ない、この意味でそれはコミュニケート不可能なのだが、「愛」は私たちが愛する他者の問題に気付きつつ、それを放置することを—ましてや他者のご機嫌を取るために他者の悪しきアイデンティティを単に表面的に確証し続けることなどは決して—許さない。それは「確証と異議申し立てを同時に要求する」。
愛は自らを否定すること、正確に言えば、他者において愛の不在を推測させてしまうという意味で自己否定的な異議申し立てを要求するのであり、この意味で愛そのものが「自己破壊的」なもの、「不可能なもの」となる。そして事態がこのような限りで他者が抱える「自己破壊的態度」という「問題」には「解決がない」ように見える。
どうすればいいのだろうか。もちろん、あえて向き合うしか道はないのだが、それはどのようにして可能になるのか。問題が他者のアイデンティティ、すなわち、他者の全体に関わっている以上、冷静に私の指摘を聞き入れる他者の冷静さや誠実さを信じることという答えは十分ではない。原理的に言えば、自らの全存在がかかっているときに冷静でいられる人間など存在しない。
重要なのは、他者に私の愛を信じさせること、他者のアイデンティティないし自己理解に「異議申し立て」をなしている私が、同時に他者をより深いレベルで「確証」していることを示すことである。だが、それは正確にはどのようなことを意味するのか。
他者が私の異議申し立てをその全き深みにおいて受け止めるとき、他者の自己理解、そのアイデンティティはいわば「岩礁」にぶつかって崩壊する。ということは、他者自身が支えを失って崩壊するのだ。このことが、他者が私の異議申し立てを受け入れることを尻込みさせ、私を「自らを愛していない敵」として見なすことを強いる。
この行き詰まりを越えるためには、結局、私の愛が十分に強いものとしてなんらかの仕方で示されなければならないのだと言えるだろう。他者が支えを失ってくずおれるとき、ただ私の愛だけが他者そのものの重みを持ち堪えることができる。いわば、私の愛は崩れ落ちる他者を抱き止めなければならない。
このような愛の強度がなんらかの仕方で他者に示されるときにのみ、他者は「自己破壊的態度」という他者自身が織り上げた牢獄から—支えのない宙空に向けて、そこに愛というセーフティネットが張られていることを信じて—身を投げ出すことができる。このときにのみ、愛は「他者の自己破壊的態度」という「問題」への対処が自らに課する「自己否定」ないし「不可能性」を乗り越える。
こう解釈するなら、ルーマンの先の語りの意味ははっきりするだろう。もう一度引用しよう。ルーマンは言う。「問題への対処において—責め苛むような見通しのなさのなかで、それにもかかわらず愛しつつ—お互いに愛を示すこと」、と。そして「まさにここ[、つまり、問題への対処]に、そのうちで愛の不可能性を—否定することが意志される点があるということは、おそらく良いことであり得よう」、と。
最終的にはこの意味で、現代における愛のゼマンティクの形式は「問題への方向付け」、「解決のない」「問題への方向付け」なのである。
さて、本節を締めくくろう。ルーマンは現代の「親密関係」をかく複層的な意味で「問題」的なものとし特徴付けた上で、その「愛」をめぐる歴史社会学的探求を以下のように締めくくる。
[かつて]ゼマンティクはいわば自前で[親密関係のための]動機を調達しなければならず、そのために一方では「美と徳」、他方では「動物的な」官能との間を揺れ動くことになった。今日の社会は、純粋に個人的・人格的な[共同的]世界の構築への動機に関しては、[その社会の中では「親密関係」への動機が構造的に生み出されているという意味で、]おそらくより強く歓迎的である。しかるに他方で、おそらくひとはいまや初めて経験し始めてもいるのだ、そのような純粋に個人的・人格的な[共同的]世界の構築がどんなにありそうもないことであるかということを。17)LP, S.215.
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第2章 第2節 愛のゼマンティクの進化—理想・パラドクス・自己参照
第2章 第4節 愛の非根拠—あるいは真理に対して愛を守ること
はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』
References
1. | ↑ | LP, S.188-189. |
2. | ↑ | LP, S.189-191. |
3. | ↑ | LP, S.198. |
4. | ↑ | LU, S.57. |
5. | ↑ | LU, S.58. |
6. | ↑ | LP, S.17, S.194-195. |
7. | ↑ | LP, S.208-209. |
8. | ↑ | LP, S.202. |
9. | ↑ | LP, S.197, S.201, S.214. |
10. | ↑ | LP, S.197, S.213. |
11. | ↑ | LP, S.213. |
12. | ↑ | LP, S.205. |
13. | ↑ | LP, S.212-213. ここでのルーマンの「理解のプログラム」の定式化は、「他者の何を理解しなければならないか」ということの提示にとどまっている。その内容は大要、第1章2-4-2「他者理解という難問」でまとめたので、そちらを参照されたい。 |
14. | ↑ | vgl. LP, S.135. |
15. | ↑ | LP, S.213-214. この引用文の後半もやはり「声に出して読みたいドイツ語」である。Und gerade wenn man sehr genau und aus intimer Kenntnis nachfühlt, wie der andere mit >>seiner<< Umwelt eine Symbiose sucht, die negativ auf ihn zurückwirkt, gerade dann fordert Liebe Bestätigung und Widerspruch zugleich. Die Passion hat ihr Ende, das Ideal seine Enttäuschung, das Problem findet keine Lösung. Die Problemorientierung mag aber den Vorteil haben, daß sie es den Liebenden aufgibt, am Umgang mit dem Problem sich ihre Liebe zu zeigen — quälend aussichtslos und trotzdem liebend. Dies Thema selbstdestruktiver Einstellungen ist neu, und es fehlt in der traditionellen Liebessemantik, (…) und es könnte gut sein, daß hier, und nicht in den überlieferten Paradoxien, der Punkt liegt, in dem die Unmöglichkeit der Liebe — negiert sein will. |
16. | ↑ | LP, S.52. |
17. | ↑ | LP, S.215. |