ハイデガーのいう「存在」とは何か

 ハイデガーの言う「存在」は多様な仕方で捉えられるが、ここではその最根源的な次元を以下のように表現してみたい。

 すなわち、一方で、私は世界の中の一存在者に過ぎないが、他方で世界は私にとってしか無い、私は世界がそこにおいてのみあらわれる場所であるという仕方で、「私」と「世界」との間には不思議な関係があるのだが、ハイデガーのいう「存在」とは、最終的には、この不思議な二重性を「説明」するために彼が考えだした、この二重性そのものを産出する分割の運動である、と。

 このようなものと「否定」の動きとの関わりは明らかだろう。二つのものの分割の運動とは、一方による他方の否定とも一般に解されうるからである。だが、ここで注意しなければならないのは、ここでの分割ないし否定は、なにかしら実体的なものを実体的な二つの部分に分けるような、一番想像しやすい分割ではなく、二つの意味で、純粋で絶対的な分割ないし否定であることである。

 すなわち、第一に、そこで「分割された結果生じるもの」は、二つの実体的なものではなく、「実体的なもの(存在者)」と「無(存在者との差異における存在)」であり、第二に、まず「実体的なもの」があって、それが否定されるのではなく、否定が「実体的なもの」そのものを初めてそれとして可能にするのである。つまり、その否定は二つの実体的なものの間にあるのではなく、そもそもいかなる実体的なものも前提としない。

 この観点から「存在」、その最根源的次元としての「存在の真理」を定式化すれば、「存在の真理」とは、ある否定、ある分裂の生起であるのだが、その「分け裂き」は、「分け裂かれたもの(存在者と存在)」に先行するという意味で絶対的な「分け裂き」であり、この「分け裂き」における「分け裂かれ」が「現存在」、つまり人間としての人間なのであると言うことが出来るだろう。

 ただし、「現存在」は単なる「分け裂かれ」ではなく、それと同時に「分け裂かれたもの」の「つなぎとめ」でもある。ハイデガーの「痛み」の本質に関する記述はここから読まれるべきである。だが、このような語りは根拠づけられうるのだろうか。この語りは何を前提とし、その前提は妥当なのだろうか。これが問われなければならない。

 このことを考える上でまずもって重要なのは、二つのものを二つのものとして生み出す運動について語りうるためには、まず「最低限の条件」として、二つの視点を同時に保持しなければならないことである。先の「私」と「世界」の関係に即して言えば、これを一つの視点から語ろうとする立場はよく見られる。すなわち、私は世界の中の一存在者にすぎないというのは実証科学的であり、世界は私に対してしか無いというのは現象学的な立場である。

 ハイデガーの出発点は現象学的であるが、彼はその生成を語ろうとする。すなわち、一存在者たる人間のうちでの世界の開けの出来事を語ろうとする。ここでは一存在者としての人間という見方が同時に採用されているわけである。私たちは、この二重視点の可能性を問わなければならない。

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