言葉の不在を持ち堪えること、固有な言葉を待ち望むこと

 この文章では、まがりなりにも一応は哲学をしていることになっている私の立場から、なぜ研究をするのかを考えてみたいと思います。

 哲学の原義は「知への愛」であり、それはソクラテスにおける「無知の知」から始まったと言われます。これを私なりに言い換えてみると、ソクラテスはその当時の他の誰よりも、知がまだ足りていないこと、つまり、既成の言葉が経験の全てを捉えきれていないことを意識しており、だからこそ彼は新しい知を、新しい言葉を求めたということになります。

 このような無知の知へとソクラテスを誘ったものがいわゆるダイモーンの声です。それは既存の言葉が捉ええないものを明かす声、言葉の不十分性を示す声として、言葉なき声、一種の声なき声でなければなりません。だからその声は否定するだけで何も命じないわけです。この声を聴くことが彼を知の探求へと駆り立てました。

 こういうと何か特殊な経験のようですが、同じことをもうちょっと卑近な次元へと引き戻して考えることも出来ます。私たちの世界はいつも言語を通して見られた世界ですが、私たちが何か新しい経験をしたときには、その経験に対してはさしあたり、少なくとも最初の一瞬は、言葉が欠けています。

 しかし、出来合いの言葉の貯蔵庫は非常に莫大な量の言葉を蓄えているので、新たな経験が世界に生み出した欠如、その穴を手っ取り早く塞いでくれるような言葉を何かしら用意しています。その経験は固有で一回的なものであり、本来はどうしたって出来合いの言葉によって覆い尽くされうるものではない、つまり、穴と蓋との間には常に隙間が残るにもかかわらず。

 経験は十分に噛み締められ咀嚼される前に、こうして了解済み解釈済みのこととされてしまうが常です。ソクラテスの立場、彼があの声を聴いたということは、これと対比して言えば、この隙間、この裂け目にこだわることだと捉えることが出来るように思います。そこに生じる既成の言葉に対する剰余の経験が、問うことを、つまり研究を生み出します。

 ところで、既存の言葉がすでに全てを語っているかのような顔をしてどんな「隙間」をも許容せずに一切の経験を覆い尽くしてしまうこと、このような言葉のあり方を、ハイデガーは人間にとって必然的な一契機として「空談(Gerede)」と名付けましたが、これに対して彼がそのいわゆる「存在」ということで言いたかったことの少なくとも一つは、そのようなレディメイドの言葉では絶対に太刀打ちできず持ち堪えることの出来ない経験が「ある」ということ、それは単に「ある」ばかりでなく、その経験とは他でもないまさに「ある!」ということの経験、つまり「存在」の経験だということです。

 「存在」が殊更に経験されるとき、他人の言葉、あるいはもっとハイデガー的にいえば「ひと(ダス・マン)」の言葉は崩れ落ち、端的に言葉の不在が出現して、その経験に拮抗し自らの世界を支えるためには、私たちはたった独り、まったき支えなさのうちで、ただ自分に固有の言葉、おそらくはこう言っていいでしょうが、本来的な言葉、新しい言葉を何とかひねり出すしかない、という訳です。だから彼にとっては、「存在」の経験こそが、際立った意味で私たちが自分自身に出会い直すことの出来る場所であり、新しいものの「創造」ということがそこで可能になる場所だったのです。

 さて、この種の言葉の不在の経験を「存在」へと収斂させる教説に賛成するかは別として、私には以上のことが、哲学の、というより、もっと広く研究一般の構造を言い表しているように思われます。つまり、研究とは自らの経験と出来合いの言葉との間の狭間、そこにおける言葉の不在を持ち堪えることだ―それもただその空虚に新しい固有の言葉、自分の言葉、つまり経験のより真正な解釈と表現とが到来するためにそうすることなのだと、私には思われます。

 そしてこのことは、自らの一回きりの生を他人による出来合いの言葉へ解消してしまわないこととして、自分の固有の生を真面目に生ききることと別のことではありません。だから少々格好のつけ過ぎかもしれませんが、結局最初の問いへの答えはこういうことになるでしょう。なぜ研究をするのか?それは自分の生を全うするためだ、ということに。

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ハイデガーを読む—On Being:はじめに・目次
ハイデガーのいう「存在」とは何か

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