「愛」—ドイツ思想史の視角から

 本稿は二重の試みを遂行します。第一は、「ニクラス・ルーマンの「愛」の概念」への付録、ルーマンが「愛」を論じる上で取っている立場を私なりにドイツ思想史の中に位置付ける試みです。

 第二は私の考えていることの全体像を思想史的に提示する試みです。主な登場人物は第一の試みに関しては、ヘーゲル、フロイト、ルーマンです。

 第二の試みについては、そこにマルクスとハイデガーが付け加わります。本稿はいつもよりラフな—私の本来の!—文体にて展開したいと思います。

 (注)本稿は具体的には何の文献も参照せずに、いわばフリーハンドで書いており、引用などもヘーゲル的な自由な引用であって、なんらの正確性もないことを前もって述べておきます。

1、愛・労働・戦争—ヘーゲル『法哲学』からの出発

 さて、出発点はやはりヘーゲル法哲学です。私見によればヘーゲルこそがその法哲学によって初めて近代社会の基本的構成を表現にもたらしました。

 それは具体的には第三部「人倫」においてであり、そこではいわゆる社会哲学が展開されているのですが、その主題は三つに分節されています。すなわち、家族、市民社会、国家です。

 私はこの「家族・市民社会・国家」といういわば「制度的」な三幅対を直ちに「愛・労働・戦争」という「活動」の三幅対で置き替えたいと思います。

 出発点となる「家族」はヘーゲルにとって「愛」の場所です。「愛」は、もちろん、「相互承認 = 相互肯定」ですが、そこで育まれる子供たちは成長するに従って、家族を後にして市民社会に出ていかなければなりません。

 この「市民社会 = ブルジョア社会」はすでに完全に市場的に考えられており、それは「欲求の体系」であって、ヘーゲルはその原理を「各人にとって自分が全てであり他人は無である」として特徴付けます。すなわち、各人が自己利益を追求し、他者はそのための手段でしかないという社会です。

 とはいえ、ヘーゲルの観察するところ、人間は自らのみを目的とすることに飽き足らない存在です。ただ自らのみを支えにすること、それは—人間はそれ自体でみると単なる「否定性」、つまり、空転する自己否定なので—ある虚しさの、ある無意義性の経験に帰着します。

 ここで「市民社会」についての見方の転換が必然的になります。各人は自分がただ自己利益のために、市民社会において労働していると思っているのですが、労働によってお金を稼げるのは、それが何らかの意味で他者に役立っている場合のみです。

 自分が全てで他人は無であるとおもっていたところ、実際には他人の役に立てばこそ、自分の自己利益も追求し得たのです。他人に役に立つという仕方で他者を肯定するからこそ、私は金銭的対価によって他者から肯定されるのです。

 このことを自覚させること、それがヘーゲル流の「職業組合」の社会的機能です。こうして競争的な市民社会は、同時に「家族 = 愛」の深さと狭さに比して言えば、薄いが広い「相互承認 = 相互肯定」の場所、いわば「社会的連帯」の場所ともなります。

 これがヘーゲル的な意味での「愛国心」の実体であり、「国家」の基礎となります。国家はこの社会的連帯によって支えられ、またそれを維持するために社会に介入します。

 弁証法の「公式」になぞらえて表現すれば、家族が「肯定 = テーゼ」、市民社会が「否定 = アンチテーゼ」、国家は「否定の否定 = ジンテーゼ」であって、国家はある意味で家族に回帰します。それはそれがもつ心情的結びつきによって「第二の家族」なのです。

 ところで私は大学四年生のころにヘーゲル法哲学を読んで「就職」、つまり「労働」することを決意したのですが、「就職」ないし「労働」という「当たり前」のことをするのにヘーゲル法哲学などを読まなければならないというところに、私の問題性が現れています。

 ただ、思うに、人はあることを自然に出来ないがゆえにこそ、それにつまずくがゆえにこそ、それについて思考することができるという面もあるのであって—というのは、自然にできるならわざわざ考える必要などないからです—、実践と理論のこのズレ、実践的無能力を理論的能力に—ヘーゲルの泣けてくる名文句を使いましょう!—「反転させる魔力」にこそ、人文学固有の「救い」の機能が存しているのです。

 それはそれとして、話を進めましょう。「いや、お前あいかわらず働いていないじゃん!」というツッコミが飛んできそうなところですが、「安心してください」、ここからその弁明を始めます。

 「愛と生産的な仕事」を言祝ぐフロム先生には失礼ながら、ヘーゲル法哲学はここで終わらないところに面白みがあるのです。

 ヘーゲルはかく「愛」と「労働」という二重の「相互承認 = 相互「肯定」」の契機で終わりにするのではなく、そこに「戦争」という絶対的「否定」性を対置します。ヘーゲルに言わせれば、戦争を否定するのは哲学的ではないわけです。

 というのは、一切を絶対的に否定する戦争と死の恐怖によってこそ、人間にとって「肯定的なもの = 経験的なもの」だけでは十分ではないこと、それは支えにならないこと、最終的には人間は何ものにも支えられてい「無い」、あるいは、「無」に支えられている、あらゆる有限的なものとは全く別のもの、「絶対的なもの」にだけ支えられていることが経験されうるからです。

 それは自己関係する否定性としての人間の本質そのものです。哲学の一つの使命は、もちろん、この「人間」と「絶対的なもの」との関係を守ること、それに敏感であることです。人間が否定的ないし自己否定的な存在であるとすれば、それは人間が「絶対的なもの」と何らかの意味で関係しているからです。

 さて、私が当時、就職しなかったとすれば、それは、おそらく、ある「否定」の「声」として響く「絶対的なもの」の「声」を聞いていると勘違いした(?)結果です。その結果、修士論文ではジジェクを中心的な題材としつつ、人間が自己否定的存在であることの意味の諸相を問題とすることになりました。

2、フロイト・マルクス・ハイデガー—ドイツ思想史の読み方

 さて、私たちは「家族・市民社会・国家」を「愛・労働・戦争」と書き換えることから出発しましたが、さらにここに思想史的パースペクティブを重ねるならば、それを「フロイト・マルクス・ハイデガー」と書き換えることも許されるでしょう。

 マルクスはヘーゲルの後を追って、近代的条件においてはヘーゲルが美しく語ったような労働における「相互承認 = 相互肯定(類的存在!)」が成り立たないこと、いわゆる「疎外」論から出発して、近代資本主義批判を練り上げました。

 続くフロイトは、その有名な文句、すなわち「(人生において大切なこと・人間が健康といえることの条件は)Lieben und Arbeiten」だという文句に集約されているように、問題はやはり「愛」と「労働」であって、とりわけフロイトが取り組んだのが、やはり「愛」と「結婚」の問題です。フロイトの患者たちというのは「結婚」が上手くいかない人々なのです(鼠男・狼男・ドーラ…)。

 ある意味でフロイトはヘーゲルの真の継承者ですらあります。ヘーゲルが愛と労働に戦争を対置したように、フロイトは愛と労働という生産的なもの、つまり、「生の欲動」に、破壊的な「死の欲動」を対置するのですから。

 そして最後にハイデガーは「存在の問い」という仕方で、「死」や「無(=存在)」と「人間」との本質的な関わりを見つめることになります。

 ヘーゲルがいかにも近代的な問題領域として提示した三領域、すなわち、「愛・労働・戦争」は、フロイト、マルクス、ハイデガーという三人に、それぞれ継承されたのです。

3、フロイトとルーマン—最後はカントの光のもとで

 さて、徹底的に大風呂敷を広げてみましたが、第二の試みはここで終わりにして、第一の試み、つまり、ルーマンの「愛」についての立場をドイツ思想史のなかで位置付ける試みに話を限定しましょう。

 ヘーゲルはまずもって近代社会において「愛」に決定的な場所を与え、その本質を「相互承認」に見定めました。

 フロイトは、マルクスが近代社会の状況下におけるヘーゲル的な「労働」の理想の機能不全に焦点を合わせたように、「愛」の理想の機能不全に焦点を合わせます。

 彼にとって決定的なのは「愛する能力」の問題であり、フロイトがドーラ症例の終わり近くで述べているように、「現実的な愛の要求に応え得ないということが神経症の本質に属している」わけです。

 フロイトはどのような理論的な構えをとったでしょうか。フロイトの治療対象だった神経症を彼がどのように理論的に位置付けたのかが重要な問題です。神経症の問題はフロイトの性理論、そのリビード発達論の中心に位置しています。

 リビード発達論とはなんでしょうか。まず私たちが知らなければならないのは、フロイトにとって性はほとんどまったく「自然」ではないということです。

 性は繁殖「本能」に由来し、徹頭徹尾「自然」なものであるということは、それが精神にとって「受動的(passiv)」なもの、まさしく「情熱(Passion)」として経験されることにもよるのでしょうが、世の常識になっているように思われます。

 フロイトがまず批判するのはそこであって、彼によれば、幼児に備わっている性欲動は、あらかじめ定まった対象を持たないという意味で「多形倒錯」的であり、またそれは性別化されていないという意味で「両性」的です。それはまだ性器に中心化されておらず、「部分欲動の無政府状態」というべきものです。

 そのような原初的な性欲動が、幼児がさまざまなことを経験し、それを解釈していく中で、ようやく性器的な異性愛を中心とする、さまざまな「性的体制」へとまとめ上げられるのです。

 さて、「両性的」な出発点から、いかにして生物学的な男性は男性的な性のあり方を引き受け、生物学的な女性は女性的な性のあり方を引き受けるということが、それなり以上の一貫性をもって、生じるのでしょうか。

 生理学的な説明を極力排除するフロイトにとって、それを説明しうるのは、一言で言えば、「性器の差異の「知」の意味作用」、すなわち、「去勢コンプレクス」です。

 「去勢コンプレクス」を起点として、男性と女性が分化します。「神経症」の理論的位置は、両性の発達過程の中に位置付けられます。

 男性には「正常」な男性性への道の他に、その正常性に構成的な病理性として「強迫神経症」が存在し、女性には「正常」な女性性への道の他に、その正常性に構成的な病理性として「ヒステリー」が存在します。

 この点を最大限に簡単に、フロイトのいわゆるファルス中心主義との関係で説明してみましょう。フロイトが何らかの意味でファルス中心主義者であることは否定できません。

 決定的なのは「父のファルス」です。男性性、女性性、異性愛、すべてのフロイト的規定がここにかかっています。

 すなわち、正常な男性性と強迫神経症の差異はフロイトが「超自我」の命令の二重性として示したこと、「父のようになりなさい(同一化の命令)」と「父のようになってはならない(同一化の禁止)」の二重性によるものであり、結局は「父に同一化」しているかしていないか、「父のファルス」を持っているのかいないのかの差異です。

 他方で正常な女性性とヒステリーとの差異は、フロイトが「ペニス羨望」の二重性として示したこと、すなわち、去勢によって失ったペニスの代わりに、「父」から「ペニス = 子ども」をもらいたいという動向と、ペニスを—場合によって男性を去勢して奪い取り—再び手に入れて男性になりたいという「男性性コンプレクス」の二重性によるものです。

 「正常」な男性性と「正常」な女性性との間における「(理想的な)異性愛」は、かくして、「父のファルスを持っている」男性と「父のファルスが欲しい」女性との間の「父のファルス」の贈与関係として定義されます。

 反対に強迫神経症者とヒステリー者との関係は、なにか喜劇的ですが、持ってもいない父のファルスを欲しくもない相手に押し付ける(?)ものとして規定されます。

 もちろん、それではうまくいきません。フロイトの精神分析の臨床は、この強迫神経症とヒステリーの治療の試みであり、それらの「体制」を正常性へと差し戻そうとする営みです。それは「現実的な愛の要求に応える」ための心理的「前提」を構築しようという試みだと言えるでしょう。

 フロイトの「愛」の定義は、性的部分欲動が性器のもとにまとめあげられて統一的なものとなり、それと相関的に対象が他者の人格となることです。「愛」は明らかに個人のうちにある心的体制によって定義されています。

 これに「愛」についての一貫した理論的構想を構築したもう一人のドイツ人、ルーマンを対置してみましょう。

 フロイトとルーマンの差異は、まずもって、心理学と社会学との差異です。「愛」は私たちにはどう考えても、主体同士の関係性、その意味で一つの主体の「心」に閉じ込められたものではなく、主体の間で成立する「社会」的関係です。この意味でフロイトは「愛」の心理的前提しか取り扱えず、ルーマンだけが「愛」そのものを取り扱えたのです。

 ルーマンの基本的な方法論は等価機能主義です。機能とは関数であり、それは多くの変数を自らに関しては等価なものとして捉えることを可能にするものです。

 そしてルーマンにとって機能は問題によって規定されます。ある問題について、それを解決するという機能に関して、さまざまな選択肢が等価なものとして立ち現れ、比較が可能になるのです。

 社会学にとって、社会関係の成立に対する最大の問題は、二重の偶然性です。つまり、私もいろいろと選べるが、ということは、他者もいろいろと選べる、そうしてそこには二人が合致する保証はない、とすれば、社会関係を始めるのは難しくなるという問題です。

 これを解消するのが、一方の選択に他者を動機づけるもの、つまり、コミュニケーション・メディアです。代表的なものは、貨幣・権力・愛・真理ですが、私たちが注目しているのは「愛」です。

 ルーマンの規定によれば、「愛」はコミュニケーション・メディアであり、「愛される者」から「愛する者」へと、「愛される者」の選択が伝達され、「愛する者」がそれに動機づけられ、二重の偶然性が飛び越されるというメカニズムです。

 だから、「愛される者」に対する「愛する者」の「理解」が重要なのです。「愛する者」が「愛される者」を理解し、その選択を確証することで、二重の偶然性の問題が飛び越えられる。

 そして、ルーマンに言わせれば—これは彼のオートポイエーシス的なシステム理論からくることですが—「愛が愛を生み出す」のですから、「愛される者」も、自らの選択を確証してもらうことを通じて、「愛する者」に愛を返すようになる。こうして、「愛」が自己再生産的に持続するのです。

 さて、フロイトとルーマンの差異を規定しましょう。

 それはまずは第一に「心理学」と「社会学」の差異です。すなわち、フロイトは「愛」の関係そのものの前提をなすような主体の心理的体制を問題にし、そこにあり得る問題を取り除くことを目指しました。他方でルーマンは「愛」という「社会的関係」そのものを取り扱いました。

 フロイトにとって「愛」はリビードの「性器統裁」のもとでの統一、それにより他者の全体ないし人格が対象となることですが、ルーマンにとって「愛」は「コミュニケーション・メディア」、つまり、「愛される者」の選択を「愛する者」に伝達し、「愛する者」を「愛される者」の選択の確証へと動機づけるものなのです。

 第二の差異は、ルーマンが『情熱としての愛』の最終段落で行っている理論的決定に関わります。ルーマンはそこで「情熱という意味契機は放棄することができる」と述べています。

 「情熱」は「愛」を「道徳」のくびきから解き放ち、他の事象領域から分出させるために役立ったのですが、この「愛」を「情熱」とする近代的解釈は、ルーマンに言わせれば、「愛」の本質に適っておらず、不要なのです。

 というのは、ルーマンにとって「愛」は「コミュニケーション・メディア」であり、だからこそ「理解」が重要なのであって、「情熱」は「理解」をしばしば曇らせるからです。

 さて、ここからフロイトとルーマンの第二の差異を規定できます。

 ルーマンは「理解」を優先して「情熱」を退ける。つまり、「passiv」な「Passion」ではなく、精神の「aktiv」な力である「理解(Verständnis)」を優先するのです。精神の受動性と能動性、カントを援用すれば、前者が「Sinnlichkeit(感性 = 官能)」であり、後者が「Verstand(悟性 = 理解力)」です。

 さて、セクシュアリティを重視したフロイトが前者を代表しており、それに対して「理解」を優先するルーマンは後者を代表します。ルーマンは『情熱としての愛』において、「愛」について、それを精神の受動性の側から精神の能動性の側へとずらしたということが出来るでしょう。

 私たちとしては、結局、いわゆる「愛」の経験がこの二つの動向のせめぎ合いであることに注意を払うことにいたしましょう。

 おそらく、日本語の「恋愛」という語が優れているのは、それが「恋(感性 = 受動)」と「愛(悟性 = 能動)」という二つの語をうちに孕んでいることで、この「分裂」、それはカントに従えば人間の諸能力の根源的「分裂」であるわけですが、この「分裂」そのものを表現にもたらしているからです。西洋語の「Liebe」や「love」にはこの「深み」が欠けています。

 おそらく、私たちは、なにがしかハイデガー的かもしれませんが、「恋-愛」とハイフンを入れることで、そこにおける人間性の原分割を強調するべきなのでしょう。

4、男性であること—フロイトとルーマンの一致点に向けて

 「心理学」と「社会学」、「情熱」と「理解」あるいは「感性」と「悟性」、これがフロイトとルーマンの「愛」を論ずる構えを差異化する根源的な差異ですが、両者の一致点も存在します。それは私がなにがしか「男性であること」の経験と呼びたいものにおいてです。

 フロイトから見ていきましょう。特異に「男性であること」が経験されるのは、もちろん、「女性」との関係においてです。かくして、注目するべきはフロイトの女性論です。

 フロイトの女性論の「答え」が「ペニス羨望」の概念—フロイトにとって人間の性別「化」が「性器の差の「知」の意味作用」に中心化されていたことを思い出しましょう—に極まることはよく知られていますが、思うに、その「問い」がその十全な深みにおいて認識されていることは少ないように思われます。

 フロイトの女性論の出発点は、いわゆる五大症例の第一、「ドーラ症例」にあります。注目するべきは、その終わり方です。

 ドーラの治療は、そのクライマックス、おそらくフロイトからすれば自らの解釈が冴え渡り、一切が明らかになるはずのところで、ドーラの意向により、中断されます。ドーラは予定より早く、フロイトに対して「同行を拒否」するのです。

 この予期せぬ拒絶、これがフロイトに「理論化」を強います—それはまさしく予期しない仕方女性に去られ、その理由について宛先のない堂々巡りの思索を巡らす、未練がましい男の姿そのものです。ただ、もちろん、フロイトが単に未練がましい男ではないのは、そこから理論を生み出す彼の生産力においてです。

 まずここからフロイトが定式化することになったのが「転移」です。曰く、ドーラが私の治療の継続を拒否したのは、ドーラが父やK氏に持っていた憎しみが医者である私に「転移」されたものであり、これを伝えるのを怠ったことがフロイトの失敗だったというのです。

 何がしか素晴らしい言い訳ですが、フロイトに「転移」された憎しみだけが、ドーラの治癒を妨げていたというのです。のちに「転移」は、エディプス・コンプレクスという神経症の病因を規定する根本的コンプレクスが、治療現場で分析家との間で再現されることとして一般的に定式化されることになります。

 さて、それはそれとして、もう一つ重要なのは、このように「転移」された憎しみの内容です。フロイトはそれを「男はみんな汚らわしいから、私は結婚しない、これが私の復讐だ!」というものとして解釈します。

 ドーラの父やK氏は不倫の常習犯(?)ですから、このようにドーラが考えるのも無理もないことなのですが、フロイトはここに注を付し、ドーラの同性愛的欲望の見落としを自らの失敗の重大な要因として反省します。

 ドーラの男性への憎しみの背景には女性への愛があるというわけなのでしょう。さて、これがフロイトの女性論の根幹です。フロイトの考えによれば、ドーラは女性を愛し、男性を憎んでおり、その憎しみが自分に転移されたために、ドーラはフロイトの治療を唐突に拒否したのです。

 フロイトの「ペニス羨望」の理論を必要な限りで簡単に復習しておきましょう。問題は女性の異性愛的欲望です。というのも、男児にせよ、女児にせよ、最初の愛の対象は世話をするものである母だからです。さて、男児は母から離反しませんが、女児は離反します。この差異を一貫して生み出しうるのは、フロイトに言わせれば、それ以外に男児と女児の違いはないので、性器の差異だけです。

 かくして、フロイトに言わせれば、女児は自分からペニスが奪われているのを何がしか不利なこととして受け取り、「ペニス羨望」を抱き、ペニスを与えてくれなかった母から離反するのです。

 しかるに、ここに二つの道があります。一つは再びペニスを手に入れ、男性になり、母と関係したいという「男性性コンプレクス」の道、これは男性を去勢するという欲望を孕みます。もう一つは失ったペニスを諦め、父から「ペニス = 子供」をもらうという「正常な」女性性の道です。

 さて、フロイトの「ヒステリー」、つまり、女性性に構成的な病はこの二つの動向の重ね合わせによって定義されます。すなわち、「正常な」女性性の下に同性愛的な「男性性コンプレクス」が抑圧されていて、それがヒステリーの症状として表出されるのです—あるいは、それこそ世にいう「ヒステリー」として爆発するのです!

 このようにして、フロイトの女性論は、ドーラの突然の拒絶の「なぜ」から、その衝撃から出発して、最後には「ペニス羨望」と「ヒステリー」の概念へと至るのです。それはフロイトが「男性であること」から、つまり、女性との関係を経験せざるを得ない者であったことから、帰結しているのです。

 ルーマンに移りましょう。ルーマンは全く同じ問題を「愛」の「悲劇性」として取り扱います。ただ、ここでもルーマンの扱い方は、問題を個人の心的体制に求める心理学的なものではなく、関係性のあり方に求める社会学的なものです。

 それは「愛」が「他者は体験し、私は行為する」という形式を持っているという仕方で表現されます。このことは、「愛される者」は体験するだけでいいが、「愛する者」は行為しなければならないということを意味しています。

 「愛される者」はいろいろな「選択 = 選好」を持っていますが、それを別に「表明 = 行為」することもなく、「愛する者」はいわばそれを先行的に理解し察して「行為」しなければなりません。

 そしてさらに悲劇的なのは、「行為者」と「体験者 = 観察者」では事柄の帰着について傾向的な差異が存在することです。すなわち、「行為者」からすれば自分の行為について「状況」に帰着させて考えたいのに、「観察者」は行為者の「人格」に帰着させがちなのです。

 ルーマンの例でいえば、運転席に座っている男性は自分の荒い運転について「前の車が急ブレーキを踏んだんだ!」などと思うのですが、助手席に座っている女性は「この人は私を大切に思っていない!思いやりがない!」などと思うというわけです。

 さて、こうしてフロイトが体験した唐突な「拒絶」と同様の事態が説明されます。それこそフロイトの男性性と女性性の規定を思い出させるような仕方で、事実的に、多くの場合、男性は能動的で女性は受動的です。

 つまり、男性は女性を前にして行為しなければならないのですが、女性はあまり自分から意向を言わないし、また何がしか不満を述べ立てたりすることも苦手である場合が多い。

 これはルーマンが「他者は体験するだけだが、私は行為しなければならない」ということで考慮に入れているものです。私は先行的に理解し、察しなければなりません。

 そして、それに失敗しつづけた時、溜め込まれた不満が限界点にまで達し、最後には大爆発、ときには突然の切断ないし拒絶が起こります—そして、それは「観察者」の視線の偏りにより、「行為者」の行為は「状況」のなか、もっといえば、「観察者」との「関係」の中にしかないにもかかわらず、「行為者」への「人格批判」として遂行されるのです。

 すなわち、「あなたは、身勝手だ、自己中心的だ、思いやりがない」。しかるに、もちろん、一切を相手に委ねながら、相手が自分の意向に即してくれないからといって、「身勝手、自己中心的、思いやりがない」と糾弾することが、どれほど「身勝手でなく、自己中心的でなく、思いやりがある」のかははなはだ疑問であり、ここに世の多くの男性陣の女性に対する愚痴が聞かれるのです。

 フロイトとルーマンは、このことの経験の意味を問い抜き、それにそれぞれの理論的表現を与えたのです。

 こうして、私たちは結論することができます。フロイトとルーマン、私の位置付けるところ、ヘーゲルが「愛」に近代社会の基本的構成における決定的な役割を与えたことを引き継いで、「愛」について思索した二人の偉大なドイツ人は、その議論の構えの決定的な差異、つまり、心理学と社会学の差異、「感性 = 情熱」と「悟性 = 理解」の差異、そういった差異にもかかわらず、ある一点で交わります。

 それは彼らが、女性が持つ特異な爆発力ないし切断力を経験せざるを得ない立場にあった、そういう意味で「男性であること」を背負っていた、そして、その経験の意味をそれぞれの立場から思考し抜いたという一点においてのことなのです。

関連記事へのリンク:ドイツ思想史、フロイト、ルーマン

 私なりのドイツ思想史の見方について、フロイトの性理論について、そしてルーマンの愛の理論について、より詳しくはそれぞれ以下の記事をご覧いただけますと幸いです。

私の研究(?)を振り返って—肯定を肯定するために

フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ

『情熱としての愛』徹底解読—ニクラス・ルーマンの「愛」の概念

Scroll Up