私の研究(?)を振り返って—肯定を肯定するために

0、エピグラフ

この[コミュニケーションの成功の]ありそうもなさという敷居を克服することは、そうしないと社会システムが形成されることがないがゆえにとりわけて重要である。(…)この敷居がずらされたなら、まずもって社会システムにおけるシステム形成可能性が上昇し、同時にコミュニケーション可能なテーマの数が上昇し、内的にはコミュニケーションの自由度が、そして外的にはシステムの適応能力が上がることとなる。そしてこれら全てとともに進化の蓋然性が増大するのである。

―ニクラス・ルーマン Liebe als Passion

あなたが他者たちにたじろいだ憐れみと軽蔑のまざりあったものを抱かせるようになったとしたら、あなたは正しい道の上にいると思っていい。あなたは書き始めることができるだろう。

―ミシェル・ウェルベック Rester vivant

1、はじめに

 本稿では、すでにそれなりに紆余曲折を経ている自分の研究(?)史を、簡単に振り返ってみます。

 さて、最近、私は結局自分の「生きること」、俗っぽく言えば「生活実感」を表現にもたらそうということしかしていないと感じているので、おそらく自分がやっているのは「哲学」ではなく、何かしら抽象的な自伝小説のようなもの、おそらくは「文学のようなもの」だと思うことが多いのですが、哲学と文学の違いもよくわからないので、とりあえず合わせて「人文学」と言っています。

 私にとって人文学とは、生きることと考えること、生きることと書くこととを一致させることへの決意です。さて、私はこのような「人文学」の役割を既存の社会とは「別の語りと思考を生み出すこと」だと考えます。

 上の引用を通じて私が言いたかったのは、人間と社会には特定の語りと思考を強い、他なる語りと思考を抑制するような仕組みが備わっており、「人文学」はこの敷居を絶えずずらすことを試みなければならないということです。そこに主流の社会的言説に対してはたいてい敵対的で批判的である「人文学」に特有の社会への関わり方があるのです。

2、「否定性/否定的なもの」について―私の哲学観

 さて、私の研究の始まりは「否定性」の概念でした。「否定性」とは、個人的な「生活実感」のレベルで言わせて貰えば、私がいままで様々な意味でポジティブなもの全般に乗れなかったという事態を表現するものです。

 すなわち、例えばポジティブ・シンキングといった日常的な意味でポジティブであること、そして「実定法」や『キリスト教の実定性』(ヘーゲル)といった用法に見られるような既成性の意味での「実定 = ポジティブ」、そして「実証」の意味での、つまり、現にある経験的諸対象の意味でのポジティブです。

 結局、私、あるいは人間一般をこういったポジティブなもの全般から引き剥がしてしまう動勢、そうして人間を分裂させるものが、「否定性/否定的なもの」です。それには所与を否定し、所与から距離を取る「力」という側面もあれば、そのように強いられるという強迫的な側面もあります。

 私の修論の主たる対象はジジェクでしたが、彼はドイツ観念論と精神分析を組み合わせて、この「否定性」の諸側面を問うた人だと位置づけることができるでしょう。

 さて、このような意味での「否定性」を自己意識の構造の上に見定め、思考の駆動力そのものとみなしたのがヘーゲルですが、それを離れても、やはり「否定性」は「哲学」と呼ばれているものにとってなにがしか本質的な意味があるように思われます。例えば私はこんなふうに考えます。

 人間はいろいろなものを否定することができます。コミュニケーションにおいて相手が言ったことを否定することができますし、自分の考えや欲求を否定することができます。相手が言ったことを否定することは対話を可能にし、自分の所与の考えを否定することは問うことと思考を可能にし1)ただ「否定」だけが、本質的な意味での問うことと思考を可能にします。したがって、ポジティブ・シンキングは形容矛盾であり、正しくは、ポジティブ・ノン・シンキングとでも呼ぶべきものです。、自分のさしあたりの欲求を否定することは道徳を可能にします。

 さらに私たちは自分を否定することも、さらに世界そのものすら否定することができます。一切は無価値だというわけで、これはニヒリズムと呼んでもいいのかもしれません。なんにせよ、否定は、かく思考を可能にし、それを動かし続けるエネルギーそのものです。

 ところで、私たちが何かを否定し、また否定することができるとすれば、それはそれを参照しそれに到達し得ていないということであるものが否定されるような、そのような基準ないし準拠点に私たちが関係付けられているからです。私たちは100点満点という目標があればこそ、99点という良い点数でも無価値だと否定してしまうのです。

 かくしてニヒリズム的な一切は無意味であるという意味で世界全体が否定されうるとすれば、人間精神は世界全体を超えたものと関係付けられているのでなければなりません。世界全体、一切の経験的・特殊的・肯定的なものを超えたもの、それはつまり「絶対的なもの」です。ヘーゲルならば人間が自殺しうるというところに、人間が生命、すなわち、この世界全体を超えた「絶対的なもの」と関係付けられていることの証拠を見て取るでしょう。

 このことに至る別の道は、「神は存在するのか」、「神はどんなものか」ではなく、「人間が神なるものを考えうるということは何を意味しているのか」と問うことです。神は世界全体を超えたものであり、それを思考しうるのは人間精神がある意味で世界全体を超えているからです。

 神は人格神としては存在しないかもしれませんが、以上のことが意味しているのは、人間が神なるものを観念しうるということは、人間的なもののうちに「絶対的なもの」との関係が存立しているということを前提としているということです。

 そして、「哲学(者)」の一つのあり方、その伝統的なあり方の一つは、この人間性の中に存立している「絶対的なもの」との関係性に敏感であることであるように思われます。人間性そのものに可能的に内在している絶対的なものとの関係性が、そこにおいて現実的になってということが「哲学者」の一つの定義なのです。「哲学者」とは、人間と神的なものとの関係を保ち守る者なのです。

 さて、この「絶対的なもの」との関係は、私たち自身が人間としてさしあたり一つの経験的で肯定的な存在者でもある以上、明らかに「否定」として経験されます。どういうわけか伝統的に、この「否定」の経験は「声」として語られます。

 ソクラテスはダイモーンの声といったし、カントは理性の声について述べ、ハイデガーも存在の声について語りました。フロイトは超自我が声として聞こえることを理論的に説明しようとさえしています。先に述べた意味での哲学者たちは、おそらく、否定的な声としての「絶対的なものの声」を聞き、それに耳を傾け、そこで開示された「絶対的なもの」の経験を言葉にもたらそうとして思索したのでしょう。

 これは哲学史を、「存在」のその時々のあり方を哲学者たちが存在の声の呼びかけに答えて言葉にもたらしたものとして解釈していくハイデガーの「存在の歴史」という考えに似ていますし、その私なりの解釈でもあります。私としては「存在」が固有の動勢をもって存在了解の形を変えていくといった「(存在の)歴史」の側面を認める気にはならないのですが。

 ここでハイデガーの(後期)哲学を簡単に把握してみましょう。ハイデガーのいわゆる「存在」とは、世界が意味的に経験されることを支えている根本的な意味、いわば意味の地平のことだと捉えるのが出発点としてはよいでしょう。

 世界の中には存在者たちがひしめき合っていますし、それは感性的経験を通じて知られますが、感性的経験だけがすべてなのではありません。よく言われることですが、ろうそくは燃え尽きて感性的直観の観点では全く別のものになってしまっても、私たちにとってはまだ、ろうそくです。

 なら、ろうそくがろうそく「として」経験されること、意味として経験されることは感性的経験に還元できません。そして私にはまだ根拠がさほどわからないのですが2)あるものを「何ものかとして」了解するとして、それを命題化すれば、それは「A ist B」などとなり、必ずコプラとしての存在が現れますが、もしかしたらハイデガーはこのことを考えているのかもしれません。そしてもう一つの可能性はハイデガーが「同一性と差異」で述べていることですが、「A ist A」という仕方で、存在が諸事物の自同性を支えているという認識があるのかもしれません。あるいはまたカントとの関わりを視野に入れれば、カントがカテゴリーを(「A ist B」という形をもつ)「判断」から導出したことも考慮に入れるべきかもしれません。ただ、これはどれも少々形式的に過ぎる議論にも思われますし、また西洋語の構造に依存しているようにも見えます。、ハイデガーによると、このような意味的経験一切を支えている根本的な意味が「存在」であり、いいかえるなら、諸々の存在者が「何ものかとして」経験されることに、その存在者が「存在者として」経験されること、それが「ある」と捉えられることが先立っているのです。

 「存在」の了解、私たちが「ある」ということについて何らかの理解を持っているということがまずあって、それにより存在者が「存在者として」見えてきて、その後にさらにそれらが「何ものかとして」現れうるようになるのです。

 ろうそくの例と同様、存在者は感性的な経験で知られますが、存在者が「存在者として」見えてくるために必要なこと、つまり、「存在」ということについて理解していることは、感性的経験に依存していません3)たまに考えるのですが、もし五感の一切を奪われた人間がいたら、彼は自分というものが「ある」ということを経験しうるでしょうか。生まれた時から五感の一切がなければ、それは困難かもしれませんが、多分、人生の中途からであれば、可能なのではないでしょうか。

 ハイデガーの哲学史解釈によれば、「形而上学」として総括される西洋哲学は、実体的な存在者から出発して存在が支える意味的-概念的次元へと遡行し、存在者を存在によって根拠づけることを目指す営みです。

 それは例えばプラトンにおいて現象からイデアへの、さらに「善のイデア」への遡行として現れ、カントにおいて感性的経験から超越論的カテゴリーへの、さらに「統覚の綜合」への遡行として歩まれました。もちろん、最後の第三項がハイデガーのいう存在に対応します。

 後期ハイデガーはこのような「形而上学」の歩み、存在者から存在へという歩みに対して、存在者と存在との「差異そのもの」を問うことを対置します。形而上学はこの差異を前提とし、その差異の中を動きますが、ハイデガーはこの差異そのもの、その起源と生成を問うわけです。

 とすれば、その問いは以下のように表現できるでしょう。「世界が「存在」するものとして経験されるためには、あるいはハイデガー的には同じことなのですが、世界が意味とよびうるものを持つためには、世界と「存在を理解するもの = 現存在」としての人間はいかなるものでなければならないか」、と。

 私の考えでは、その答えの核心に「否定」の契機に先行性を与えることがあります。「絶対的なもの = 存在」が何がしか肯定的なものとしてあって、そこから「否定」の声が響いてくるのではなく、まず「否定」があるのです。

 かつて人間性の分裂は実体的な経験的領域(「現象」)と実体的な超越的領域(「イデア」)という二つの実体的な領域の差異として観念されたのですが、ハイデガーはむしろ、それを経験的な領域とそこに走る「否定-裂け目」との差異へと還元したように見えます。

 簡単に図式化すれば、経験的な領域の中に裂け目があり、その裂け目、「無」に関係付けられることで人間は「存在了解」を獲得し、存在者を存在者として、そして一般に「何か」「として」、つまり、なんらかの「意味」を持つものとして把握することができるようになった、つまり、「意味的-概念的-イデア的」な次元と関わるようになったのです。こうして存在者と存在との二重性、その間の差異、すなわち「存在論的差異」が確立されます。

 さて、この「否定」を優先させる変化は、哲学の課題が現実に「意味的-概念的-イデア的」構造による基礎づけを与えることから(これは存在者を存在に根拠づける伝統的な「形而上学」の課題でした)、意味を徹底的に逃れつつ、そうであることによって絶えず新しい意味を産出する現実性のうちの「裂け目-否定性」に忠実であることへと移行することを意味しているように思います。

 ハイデガーの「存在」とは、私たちの現実性を構造化している絶対的で最終的な意味であるのみならず、最終審級においては、いつまでも語りきれないものにとどまること、「sich-entziehen(自らを退去させ)」つづけることで、私たちの語りに終わりがなくなるような、そのような何ものかなのだと言えるでしょう。前者が形而上学の意味での「存在」であり、後者がハイデガーに特有の「存在」だというのが、ハイデガー自身の見方なのです。

 ところで後期ハイデガーを読むに際して、一つには、否定がもたらす分裂の極限において、純粋で絶対的な意味の経験としての「存在の真理(「ある!」ということの経験)」が生起し、別の歴史がはじまるといった類の極大化された「出来事(Ereignis)」に注目する道と、もう一つには、絶えざる退去としての存在によって意味の領域が閉じられることが防がれ続ける、新たな意味が産出される小さな「出来事」が常に生産され続けるといった側面に注目する道があるように思われます。おそらく、芸術論などは後者の文脈で読ることも可能でしょう。

 そういうわけで、私の把握に従えば、「哲学」とはさしあたりある「否定的なものの声」としか呼びようのないものに耳をすませることです。それは究極的には「絶対的なもの」へと呼ぶのであって、この「絶対的なもの」との関係である「哲学」とは、ある意味では、この否定が絶対化され、人間が極限の分裂を被るときに生じる音として、つまり、「人間の壊れる音」として生起すると言えるかもしれません。

 人間は引き裂かれることによって「絶対的なもの」に触れ、「絶対的なもの」について語るもの、「哲学者」となるのです。「哲学」の一つの使命は、人間と絶対的なものとのこの関係を守ることでしょう。ヘーゲルやハイデガーの発想は以上のようなものだと思いますが、彼らを通じて、私たちは世界には常にある裂け目が走っているというごとき一般的な否定的存在論を獲得することができます。

 ヘーゲルとハイデガーの一番大きな差異は、ヘーゲルがその体系構想のなかでそれぞれの段階において肯定的なものに対してそれぞれなりの位置を認めるのに対して、ハイデガーにはそのような契機が見出し難いことだと思います。もちろん、なぜヘーゲルにとってそれが可能だと思われたのかが問われてしかるべきです。ヘーゲルについてはまたあとで別の仕方で少し帰って来ましょう。

3、フロイト-否定性と肯定性のせめぎ合いへ

 さて、こういうわけで私としては、単純化して、しかも個人的なレベルで言えば、「私はどうして(主に先の三つの意味で)そんなにネガティブなのか?」、あるいは「私はどうして(フロイトなら超自我の声とか反復強迫と呼ぶような)否定的なものの声を聞くのか?」という問いから出発して、ある種の哲学の形、ある種の否定的存在論に到達したわけですが、どうもこれは一般的に過ぎる議論でもあり、自分の「生活」との乖離感が大きくなってしまいました。

 この問題系を再び日常性に引き戻すすべを、私はフロイトに見出しました。フロイト的な人間性の分裂(つまり、私の言葉で言えば「否定性」)は「エスと超自我」、「性・生の欲動と死の欲動」などの対で表現されますが、ここでのフロイトのもっとも根源的な洞察にして、その問題意識の中核は、人間性に穿たれる原初的な「否定」はセクシュアリティに打ち込まれるというものだからです。

 ジジェクがあるところで言っていたことによると、デリダはかつて過去の哲学者たちと会話ができたら何を聞きたいかと問われて、彼らの性生活について尋ねたいと述べたらしいですが、これは精神分析の立場からすれば正しい疑問に思われます。

 哲学が、人間が否定性に引き裂かれる様々な壊れの表現だとして、その壊れは、フロイトに従う限り、まずもってセクシュアリティにおいて現れるからです。かくして精神分析が哲学に対して立てる問いは、一つには、「(ある種の)哲学を遂行することは、セクシュアリティのいかなる、そしてどの程度の破壊を前提とするのか?」だといえるでしょう。

 そういった底なしの点には深入りせず、この研究の結論だけを述べれば、フロイトの性理論のもっとも根本的な問いは「異性愛の可能性の条件」への問いです。異性愛は、性が生殖に奉仕するものである以上、やはり一見したところ(この言葉に規範性は持たせないにせよ)「自然」に見えますし、異性愛者にとってはそのように経験されます。そしてそれが自然だとすれば、それに可能性の条件などはないことになるでしょう。それは自然にかくあるのですから。

 フロイトが否定してかかるのはまさにここで、フロイトは「同性愛」、生殖に奉仕しない性的活動としての「倒錯」、そしてこれが最も重要ですが、そこにおいてどういうわけか異性愛が困難になっている「神経症(ヒステリーと強迫神経症)」に注目することで、異性愛の自然性を否定し、人間の性を、あるアナーキーな状態から出発して、個々人が様々なことを経験し、それを解釈していく意味的なプロセスの中で形成されるものとして把握しました。

 セクシュアリティは「自然」なものではなく、徹底的に「意味」を通じて構造化されている。これがフロイトの最も根源的な発見であり、かくしてフロイトの理論はセクシュアリティの解釈学の基礎づけとなるのです。セクシュアリティは理解できるし、その限りでしばしば変えることもできるのです。

 ひとつ例をあげておきましょう。『トーテムとタブー』に登場する有名な「原父」を取り上げましょう。フロイトによれば、原初の人類は小家族で暮らしており、父はそこでは「全ての女性を独占する」存在であり、息子たちは近親相姦の禁止に服していました。しかるに、あるとき不満にたえかねた息子たちは結束して父を殺害します。

 しかし、彼らは父を愛してもいたのであって、父は死ぬことでより強力になって帰ってきます。息子たちの良心として、ある法的な審級として。この結果として原初的な宗教として「トーテム」動物が父の代理として崇拝され、また近親相姦の「タブー」が継続するような社会体制ができたというわけです。そしてこれはフロイト的には、宗教の起源でもあるのです。

 さて、これはまったく実証的には支持できないフロイトの神話としてよく批判されてきたようですが、決定的なことは、精神分析理論はセクシュアリティの解釈学として常に「心的現実」に関わるということです。現実にはいなくとも、原父は私たちの心の中にいるかもしれないのです。

 そのことに思いをいたすと「女性同性愛の一事例の心的成因について」の中の一つの注で短く取り扱われている、いわば「男性同性愛の一事例」が思い浮かびます。それはある男性芸術家で、ある時から仕事と異性愛が困難になり同性愛者となっていたのですが、フロイトの治療の結果、彼は仕事にも異性愛にも復帰することができたのです。

 その彼にとって病因的だったものが、女性は全て父のものであるという表象であり、すなわち、原父だったというわけです。こういう仕方でセクシュアリティが自然ではなく、心的な表象と意味に媒介されていると考えるのが精神分析的性理論です。

 詳しくは展開できませんが、フロイトによると男性性の決定的な契機は父的なものとの関係であり、「父との同一化」が健康の条件だとすれば、「父との劣位な敵対関係の残存」が「強迫神経症」の構造を規定します。後者にあって父的なものは原父的なものとなります。原父とは根本的には強迫神経症と(ある種の)男性同性愛の連関を説明する理論的契機なのです。

 さて、以上の例で示されるような諸探求を体系化することで、フロイトはセクシュアリティの構成過程における男性性の構成と女性性の構成、その間における異性愛の構成に理論的表現を与え、同時にその過程にある困難、いわばそれらの不可能性の条件にも理論的表現を与えたのです。

 フロイトの理論に従えば、異性愛は「正常」に発展した男性性と女性性の間で可能になりますが、男性性と女性性はその形成過程に本質的なつまずきの石を抱えており、それがそれぞれ「強迫神経症」と「ヒステリー」の基底的構造を定義します(そして、それはどんな「正常」な主体のうちにも内在しています)。

 フロイトによれば、神経症において、そしてその構造自体はどんな「正常」な主体のうちにも内在しているがゆえに、一般的にも、異性愛は何かしらの程度で不可能なものになっているのです。このフロイトの理論の構造を的確に読解すれば、以下のような結論が出てきます。

 L’amour, c’est donner ce qu’on n’a pas à quelqu’un qui n’en veut pas.

 すなわち、「愛は自分が持っていないものを、それを欲していない人に与えることである」。ラカンの有名な言葉です。

 フロイト理論の意義はこのような探求の精緻化と体系化により行き届いたセクシュアリティの解釈学を可能にしたことであり、その臨床的な目標は神経症的な主体においてかく失われている「Liebesfähigkeit(愛の能力)」を回復させることにあります。

4、「働くことと愛すること」-精神分析と哲学

 フロイトは「人生において大事なこと」、あるいは「健康の条件」を尋ねられて、これは例えば先の芸術家の治療の例に即して見たように、彼の全体的探求を的確に表している答えだと思いますが、「働くことと愛すること」と答えたと言われています。

 ところで、ここで翻って考えてみると、哲学を始めたソクラテスは「働かないし愛さない」人だったように思われます。

 そして、それは哲学にとってはある仕方で正しいことではないでしょうか。というのも、第2節で述べたことの言い換えですが、何かを求めて真剣に問うためには現状への「否定」が不可欠だからであり、現状に満足し、現状を肯定している場合には本質的な問いなど存在しないからです。

 そして先に展開したように何ものかが「否定」されるとき、必ず何らかのより「真なるもの」「本当のもの」が形式的な仕方であれ前提され、参照されています。おそらく、「哲学 = 知への愛」とは、具体的な対象を肯定する他の一切の愛とは位相を異にしており、そういった対象が否定されるときに参照されているもの、究極的には「絶対的なもの」と呼ばれている空虚へ、そのような意味での神への愛なのでしょう4)ところで、このような哲学の性質と関係しているのが、哲学は人間を直接には「善く」はしないだろうということです。哲学に出来るのは善くないものを否定し続けること、それに浸るのを拒否し続けることで、何か善きものが入って来られるためのか細い隙間を開き続けることだけなのです。これが、おそらく、シモーヌ・ヴェーユが「重力」と「恩寵」ということで言おうとしたことです。思うに、哲学者とは、世間に通用していることをやたらに否定するという点で極め付けの「ひねくれ者」なのですが、それは彼らの内にある決定的に純粋なものとの関係に起因し、またその関係を維持するためなのです。「純粋なもの」、すなわち、「真善美」がそこに現れうる「そこ」、私たちのうちに存する「絶対的なもの」という空所。かくして哲学者とは、徹底的に純粋でナイーブなひねくれ者、ほとんど形容矛盾的な存在となるのです。

 ソクラテスは、働きがそこで働く既存の社会秩序を肯定せず、また愛の相手を肯定せず愛さなかったことによって、知への愛を生きることになったといえるかもしれません。

 以上の観点から、ヘーゲル法哲学を読み直すのも面白いのではないでしょうか。その社会哲学的部分である「倫理」の章でヘーゲルは近代社会の基本構造におそらくは史上初めて明確な理論的表現を与えましたが、いまの論脈で興味深いのは、ヘーゲルが家族における「愛」と、市場における「労働」を同じ「相互承認 = 相互肯定」の論理で考えていることです。

 ヘーゲルの叙述の流れに従っていえば、個人は相互承認としての愛の共同体である家族から市場に出て行きますが、そこはさしあたり自分自身が全てであり他人は無であるといったエゴイスティックな「欲求の体系」です。

 とはいえ、多くの人間は「自分のためだけでは生きていけない」わけで、市場における利己性は、彼に生きる意味を十分与えてはくれません。しかし、そこで市場の状況を見直してみると、それは他人の要求に応えて何ものかを生産することで、他人から承認されるという、つまり、他者を肯定することを通じて他者から肯定されるというシステムとなっていて、そこにはすでに形式的には相互承認が成立しています。

 これを実感させるのがヘーゲル流の「職業組合」の機能であって、これをヘーゲルは「第二の家族」と呼ぶわけです。職業組合は、市場にすでに形式的には成立している相互承認を、その成員に自覚させることで、それを実質化します。自分が働いてお金を稼げるのは、他者に役立っている限りにおいてであり、すなわち、私は一見利己的な追求において、他者に役立っており、それを他者によって、お金をもらえるという形で、承認されてもいるのです。

 しかし、ヘーゲルが今まで見てきた意味での「哲学者」である限りでここではまだ話は終わらないのであって、人々が相互承認のぬるま湯にひたりきってしまわないように、しばしば「戦争」と「死」の「絶対的否定性」が到来するべきなのです。

 そういうわけでヘーゲルは戦争を一緒くたに否定するのは哲学的ではないと述べていますが、これは流石にそのまま賛成できる議論ではありません。カントにも戦争の崇高さという議論が見られますが、こういった考えは彼らが大量破壊兵器以前の人間だったということに思いを致させます。

 確かに兵士しか死なない時代であれば、その生命を捨てる英雄的な行為のうちに、生命ないし現世全体を超えたもの、「絶対的なもの」との関係を見るという議論にはそれ相応の説得力があるのでしょう。

 さらに余談ながら述べておくと、このヘーゲル的な近代の把握を前提にするとマルクスとフロイトの重要性がよくわかります。この連関の中で、労働について以上のプロセスがうまく機能しないことを示したがマルクスで、愛についてそういった問題を扱ったのがフロイトなわけです。

 ヘーゲルの近代社会の把握、つまり、「家族・市民社会・国家」ないし「愛・労働・戦争」という問題意識を引き継いだものとして、「フロイト・マルクス・ハイデガー」を読むこと。これによって、ドイツの近代思想の意義を新たな視覚から捉えることができるはずです。

 そこにおいて最終的な問題として立ち現れるのは、おそらく、以上すべてがその周りを巡っていた問題、つまり、人間における、そして、とりわけては近代社会における「肯定的なもの」と「否定的なもの」の緊張関係にどう対するべきかという問題でしょう。それ二つをどう総合するのか。

5、「存在」とは言葉の重みである-あるいは肯定を肯定するために

 さて、いろいろ述べてきましたが、最後に、この最終的な問題と関係する、最近の一つの思いつきを述べたいと思います。

 ハイデガーのいう「存在」の一つの意味として、それを「言葉の重み」として解釈できないかということです。同じ言葉でも重みには違いがあります。私の仮説は、(私がこれまで述べてきたことから予測出来るでしょうが)言葉の重みはその言葉を発する主体において想定される、その言葉を「否定」する動勢の強度に比例するというものです。最終的には肯定的なものとして表出される言葉の重みは、その背後にある「否定性」の重みなのです。

 例えば、私がここで「人は本当にすばらしい心を持っている」といってもさしたる感銘を呼び起こしはしないでしょうが、アンネ・フランクがナチの支配下、隠れ家でひとり日記と向き合って「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当にすばらしい心を持っていると今も信じているからです」、あるいは「なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと」などと書きつけていたと知ると、私たちはやはり感動するでしょう。

 それは、彼女にはこの言葉を否定するのに十分すぎる経験があると私たちには思われるからであり、彼女がその圧倒的な否定の力に全力で持ちこたえながら、この言葉を書き付けていると私たちが直観できるからです。このような否定と肯定の主体のうちにおけるせめぎあいは対面の場面では言葉の震えとして表出されると思いますが、私としては、このように書き付けるアンネの指が震えていたことを想像します。

 もう一つの別の例は、私の好きな小説の一つであるツルゲーネフの『父と子』です。この本は「ニヒリスト」「ニヒリズム」という言葉を広めたことで有名ですが、「ニヒリスト」と呼ばれる主人公のバザーロフは自分以外の一切を否定しており、それは両親の言葉が示唆するところによれば、彼が自らの感情を徹底的に抑圧していることにもよります。

 そんな彼が小説の終盤ではある女性に恋をしてしまい「私はあなたを狂人のように愛しています」と一言だけ述べ、コレラによって死んでいきます。もちろん、小説的に思考すれば、ニヒリストとしての彼の生の一貫性が喪失されたことによって、彼は死ぬのです。この流れは何がしか私にとって感動的なものですが、ここにあるのも否定と肯定のせめぎあいです。最後の最後に肯定的な心情を抑制する否定の力が持ちこたえられ、まったき肯定の言葉である愛が溢れ出るのです。

 ちなみに、ほとんど同じ作品の構図とシーンをつくりだしながら、もっと感動的なのがヘッセの『知と愛』です。知と愛の対立は、もちろん、否定と肯定の対立に対応しており、そのせめぎあう二つがナルシスとゴルトムントという二人の主人公に形象化され、二人の関係が作品の主題をなします。知を体現する主体がナルシスと呼ばれるのは示唆的で、知にたずさわるものにとってもっとも危険な罪、私たちがもっとも犯しやすい罪は、明らかに自分以外を全て否定する「傲慢」であり「自己愛」ではないでしょうか。

 余談ながら、この知と愛の対立で最後に知の傲慢を勝たせたことが(私の最愛の小説の一つである)ドストエフスキーの『地下室の手記』の特色であり、ここから始まる彼の後期の大作群をこの問題の観点から読み解くことは、もし時間があればやってみたいことです。

 さて、また脇道にそれましたが、私が言いたいことは明白だと思います。言葉の重みは、その言葉がそれを否定する力に抗して戦い取られるときに、その言葉に宿るものです。そして「存在」とは、私の把握に従えば、一方で、意味の領野に開いた穴、語りえぬもの、私たちから言葉を奪う否定の動勢です。これに立ち向かって言葉が掴み取られるとき、その言葉には重みが宿り、私たちの胸を打ち、世界をその新しい層において、それこそ「ありあり」としたものとして、開示します。

 ハイデガーが「存在」の経験として名指そうとしたことを、私たちはここから近似的に理解することができるのではないでしょうか。退去としての存在の只中に立って、そこから言葉を戦い取ること、これを私はハイデガー的な詩の定義として提示する誘惑にかられます。そうして私は以上のことに、つまり、肯定的なものは否定的なものの力を持ち堪えることである重みを持つ、ある「輝き」を放つということに、私なりに肯定的なものを肯定するための糸口を見出したいと思うのです。

 さて、こうして私たちは最初の地点に戻ってきたようです。「人文学」の本質は、私にとっては、未だ言われていないことを言うこと、言いがたいことを言うこと、言葉を奪い取る否定の力に持ちこたえつつ、新しい言葉を生み出すことです5)人文学のもう一つの根本的命令は、私にとっては、「自分であることを持ち堪えること」です。加藤周一が文学を定義して述べたこと、つまり、「徹底的に個別的であることで普遍的であること」が人文学の道であり、人文学とはこのことへの賭け以外の何ものでもないように思われます。人文学は実証的なものの普遍性にも、そして時には論理的なものの普遍性にさえ、頼るべきではないのです。人文学はそのようなものによってはとりこぼされてしまうものの存在を信じなければなりませんし、そのように取り出されたものの普遍性に賭けなければなりません。そして、それは賭けるに値するものです。というのも、私たちはみな人間であり、すなわち、「人間性 = 人文学」を共有しており、そしてヘーゲルが言ったように、誰もが「時代の子」であるからです。さらに極論を承知で言わせて貰えば、人文学を遂行することの幸福は、それが述べることが常に何がしかの程度で真理であることのうちにあります。というのも、それがそのように述べられえたこと、そのことだけからして、その中には常に何がしか「人間性」のもつ可能性が表現にもたらされていると言えるからです。これが人文学において評価ということが困難なことの根拠です。そこで言われうることは、最終的に、その中で抱かれている問題意識が十分鋭く、極限まで、研ぎ澄まされていないということだけなのです。

 そうすることが「人文学」に固有の社会的意義であり、またここからは人文学が本質的に「弱者の側に立つ」ということが帰結します。というのも、弱者とはまだ自らを語る言葉をもっておらず、世界において自らの存在を表現し弁明することに成功していない人々だからです。そして私たちの誰もがいまだ言いえぬことを抱えている限り、私たちはみな何がしかの程度で弱者なのです。

 「人文学」がなければ、社会はいささか狭隘な紋切り型の言葉と思考、本質的に強者のものである言葉と思考に満たされてしまうでしょうし、そのことは、最初に引用したルーマンの言葉に従って言えば、社会自身の自由と適応と進歩の可能性を弱めることになるのです6)フロイトの基本的な想定によれば、個人もその葛藤を言語化し得ない限りで病むのです。

 おそらく、ここに、人文学が世間の分かりやすさへの要求に一定程度は争わなければならないということの必然性と正当性があるのではないでしょうか。というのも、「分かりやすい」のは「すでに分かっている」ことだけであり、その「分かりやすさ」は強者の言葉と思考によって規定されているのですから。

References   [ + ]

1. ただ「否定」だけが、本質的な意味での問うことと思考を可能にします。したがって、ポジティブ・シンキングは形容矛盾であり、正しくは、ポジティブ・ノン・シンキングとでも呼ぶべきものです。
2. あるものを「何ものかとして」了解するとして、それを命題化すれば、それは「A ist B」などとなり、必ずコプラとしての存在が現れますが、もしかしたらハイデガーはこのことを考えているのかもしれません。そしてもう一つの可能性はハイデガーが「同一性と差異」で述べていることですが、「A ist A」という仕方で、存在が諸事物の自同性を支えているという認識があるのかもしれません。あるいはまたカントとの関わりを視野に入れれば、カントがカテゴリーを(「A ist B」という形をもつ)「判断」から導出したことも考慮に入れるべきかもしれません。ただ、これはどれも少々形式的に過ぎる議論にも思われますし、また西洋語の構造に依存しているようにも見えます。
3. たまに考えるのですが、もし五感の一切を奪われた人間がいたら、彼は自分というものが「ある」ということを経験しうるでしょうか。生まれた時から五感の一切がなければ、それは困難かもしれませんが、多分、人生の中途からであれば、可能なのではないでしょうか。
4. ところで、このような哲学の性質と関係しているのが、哲学は人間を直接には「善く」はしないだろうということです。哲学に出来るのは善くないものを否定し続けること、それに浸るのを拒否し続けることで、何か善きものが入って来られるためのか細い隙間を開き続けることだけなのです。これが、おそらく、シモーヌ・ヴェーユが「重力」と「恩寵」ということで言おうとしたことです。思うに、哲学者とは、世間に通用していることをやたらに否定するという点で極め付けの「ひねくれ者」なのですが、それは彼らの内にある決定的に純粋なものとの関係に起因し、またその関係を維持するためなのです。「純粋なもの」、すなわち、「真善美」がそこに現れうる「そこ」、私たちのうちに存する「絶対的なもの」という空所。かくして哲学者とは、徹底的に純粋でナイーブなひねくれ者、ほとんど形容矛盾的な存在となるのです。
5. 人文学のもう一つの根本的命令は、私にとっては、「自分であることを持ち堪えること」です。加藤周一が文学を定義して述べたこと、つまり、「徹底的に個別的であることで普遍的であること」が人文学の道であり、人文学とはこのことへの賭け以外の何ものでもないように思われます。人文学は実証的なものの普遍性にも、そして時には論理的なものの普遍性にさえ、頼るべきではないのです。人文学はそのようなものによってはとりこぼされてしまうものの存在を信じなければなりませんし、そのように取り出されたものの普遍性に賭けなければなりません。そして、それは賭けるに値するものです。というのも、私たちはみな人間であり、すなわち、「人間性 = 人文学」を共有しており、そしてヘーゲルが言ったように、誰もが「時代の子」であるからです。さらに極論を承知で言わせて貰えば、人文学を遂行することの幸福は、それが述べることが常に何がしかの程度で真理であることのうちにあります。というのも、それがそのように述べられえたこと、そのことだけからして、その中には常に何がしか「人間性」のもつ可能性が表現にもたらされていると言えるからです。これが人文学において評価ということが困難なことの根拠です。そこで言われうることは、最終的に、その中で抱かれている問題意識が十分鋭く、極限まで、研ぎ澄まされていないということだけなのです。
6. フロイトの基本的な想定によれば、個人もその葛藤を言語化し得ない限りで病むのです。
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