さて、以上の成果を背景としてようやくフロイト的な「異性愛」の構想、何がしか「古典的」とも言うべき「異性愛」の形態を名指そうとするフロイトの試みを全体として描き出すことが出来る。それは「古典的異性愛」の理論なのである。
そこでは「異性愛の可能性と不可能性の条件」に特別の注意が払われることになる、というのも、フロイトがドーラ症例の最後で言っているように「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」[Ⅴ:273=6:144]1)フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.が「神経症」の本質に属しているからである。
だから、「神経症」の治療の実践であるところの精神分析はその根源的な本質において主体のLiebesfähigkeit、すなわち「愛の能力」のための実践であり、「愛」、それは「情愛」と「官能」の一体性としてフロイトによって規定されているわけだが、そのような「愛」を引き受け遂行することを主体にとって可能にするための実践なのである。
私たちは本章において同性愛を主要な対象として扱うことは出来ないが、それはそこにおける「愛」の可能性と不可能性の条件が私たちにはまだ知られていないからであって、そこにLiebesfähigkeitを認めないからではない。そこにも明らかに「情愛」と「官能」の一体性としての「愛」は存立可能であり、また現に存立しているのであって、その限りで精神分析にとって同性愛は問題的なものではないのである。
とはいえ、述べられるべきことはすでにほとんど述べられているので本章はコンパクトなものになる。最終的な定式化に到達するまえにフロイトの不安理論を取り扱っておいた方がいいだろう。そこで男性性と女性性の本質がより鋭く見えるようになるからである。
目次
1、フロイトの後期不安理論
先にフロイトの前期不安理論において不安の発生源はリビードが喚起されつつ発散されないことであることを見ておいた。リビードが抑圧されるとそれに付着していた情動は不安になるというわけだ。最終的には調和させられるにせよ、「制止・症状・不安」論文で展開される後期不安理論はこの反対を導入する。
こちらの方が明らかに分かりやすい議論だが、不安があるから抑圧が生じるのである。議論の過程は省いて結論だけを見ていくことにしよう[ⅩⅣ:162-188 =19:58-84]。ただ、フロイトが不安から抑圧を引き出すときに利用したのがハンスと狼男であることは指摘しておきたい。どちらも去勢不安から抑圧が生じ、その不安が「馬に噛まれる」「狼に食われる」に遷移されて意識化されていたのである。鼠男にせよ、父への敵意を抑圧していたのは転移の場面で明らかな通り、罰への不安であった。
1-1、不安の本質とその展開
フロイトはランクの出産外傷論のある部分を認めるところから出発しているが、そこでのフロイトの議論は不快な情動の一種としての不安を観察したときに、その特徴として心臓と呼吸系への動力的なエネルギー発散が認められること、簡単に言えば、不安を経験するとき心拍が上昇し息があがるという事実を端緒にしている。
さて、フロイトにとって不快とは興奮である。だから不快な情動としての不安は興奮の増大とその興奮の心臓や呼吸系への発散に特徴があるということになる。しかし、心臓や呼吸系への発散が特徴であり、また興奮の増大が特徴である出来事といえば何があるだろうか。それは出産だというのがフロイトの意見である。
つまり、そこでは外界との接触により急激な刺激と興奮の氾濫が始まり、赤ん坊はそれに全く対応できない。そして、出産の瞬間にはまずもって呼吸をしはじめ、心拍を上げて血液を身体に行き渡らせなければならないのである。だから、不安とは出産において私たちに植え付けられる情動であって、そこで生じた過剰な刺激と興奮の処理できなさ、原初の外傷への反応―未だ一貫したものとしての世界を構成しえていない赤ん坊にとってはその全存在を揺さぶる情動―なのである。
さて、続く時期において赤ん坊の感じる様々な外的刺激や内的な欲動刺激は「母」によって満たされ快を与えられる。しかし、母が居なくなってしまったらいずれ過剰な刺激と興奮が訪れるだろう。ここで不安は役割を変える。それは単に過剰な刺激と興奮の処理できなさへの、すなわち「外傷」そのものへの反応ではなく、それを防いでくれる母への関係を媒介にして、母が居なくなったときに感じられる、外傷への予期にともなう情動になるのである。
つまり、赤ん坊は出産時に処理できない興奮の過剰という外傷を経験し不安で反応したが、いまや、その外傷から守ってくれる母という対象を媒介にして、不安は母が居ないから外傷が訪れてしまうかもしれないという外傷の予期の情動へと役割を変え、本質的には対象喪失の不安となるのである。
もちろん、私たちとしては先の自我論の読解を基礎として、出産外傷の外傷不安から対象喪失の予期不安への直接の移行を語る代わりに、その間に「私」と「対象」を同時に構成するはずの外傷不安を挟む。欲動と幻覚的満足の経験を欠く出産外傷はいまだ「私」と「対象」を構成しえないし、従って、「対象喪失の不安」を生み出すことはできない。
さて、かくして、不安の本質とは、刺激興奮の過剰としての外傷を対象喪失によって再び経験してしまうかもしれないという予期に伴う情動であると同時に、そのような外傷そのものの経験に伴う情動でもあるという二重性にある。
後者が前期不安理論的な、抑圧の結果としてリビードが発散されないことによる不安と親和的である一方、前者が後期不安理論、つまり、抑圧を引き起こす不安である。「外傷」を引き起こしてしまうかもしれないという予期、そのような「危険」状況に応答する形で自我はシグナルとして不安を用いるのであり、それが「外傷」を引き起こしかねない欲動の抑圧を強いる―ここに超自我の規範的作用がある。
以上をもう少し詳しく私たちの第3章での「自我」-「主体」構成の議論とすりあわせてみよう。胎児はすべてが満たされており、そこでは心的には何も生じない。出産の瞬間は今まで経験されたことのない刺激と興奮の奔流が殺到し、その処理出来なさが「外傷」として経験され、その時の情動が「不安」の原型となる。おそらく、この刺激を通じて初めて感じる力としての「意識」の原型が起動させられるのだろう。
さて、生まれでた以上は不快な刺激を避けることは不可能だが、初期の手の行き届いた養育はそれが「外傷」へと高まることを多く防いでくれるのだろう。ここで得られる口唇的な満足の経験は、一方でその追憶のなかで自体愛的な性欲動の活動を自律化させつつ、他方で自己保存欲動の活動においては幻覚的な満足追求を喚起する。
次なる展開はこの幻覚的な満足追求の挫折によって生じる。赤ん坊は幻覚的満足の努力を通じて快を引き寄せ不快を外に追い出そうとするが、どうしても果たせず不快な刺激興奮がこちらへ向けて殺到してくる。これは「外傷」の経験であり「不安」をもたらすが、このことを通じて、幻覚的に感じられているものと真にあるものとの区別が要請され、感じているものとして「私」に言及する必要が初めて生じるとともに、快を与えてくれるものが「対象」として初めて外にあるものとして把握される。この原初的場面は「外傷」「不安」「主体の生成」「対象の生成」の一体性である。
ここで対象が初めて生成し、「外傷」経験としての「不安」ではなく、それを帰結するだろう「対象喪失」への「不安」が可能になる。それまで赤ん坊は対処出来ない刺激興奮という外傷的な経験において不安を経験するだけだったが、いまやそれを帰結しうる対象の不在、つまり、「母」の不在に不安をいわば先立っての警告として感じるのである。
続く時期に幼児は単純な在と不在ではなく、母が自分に抱く関心、「愛」が重要なのだと気付くだろう。おそらく、ようやくここで不安の利用が可能になる。愛の喪失の不安で自らの欲動を制御しうるようになるのである。例えば、愛を失いたくないからトイレトレーニングに協力するといった事態である。それは多くの幼児にとって初めてのしつけと規範の経験であるように思われる。
1-2、不安と性差
続いてファルス期が到達されるとさらに事態が一変する。ファルスの意義はそれがリビードに統一を与えることで、自我と愛の対象に統一を与えることだった。こうしてナルシシズムと対象愛が可能になる。フロイトの見立てでは、かくして性器の意義は自慰の快に尽きず、性器は自我と対象との関係において特権的な地位を占めている。
またこの時期に自我が確立されているということは、初期的な防衛反応としての「抑圧」が可能になっていることを意味する。対象喪失をもたらしかねない危険な欲動を自我は不安シグナルを出しつつ問答無用で追い出すわけである。ここで意識と無意識との分化が始まる。
さて、私たちが再三確認してきたようにÖKこそがまずもってこの危険な欲動であるわけだが、フロイトは去勢コンプレクスを考慮に入れることで、不安のあり方に性差を導入している。男児の場合は、もちろん、不安の主要な形態はフロイトが最晩年でも「人生最大の外傷」[ⅩⅦ:77=22:189]などといって憚らない「去勢不安」である。それにしても、なぜこれが「人生最大の外傷」なのだろうか―ただ、正確にはそれは「最大の病因的作用を持つ外傷」と言われるべきだろう。
第一に考慮するべきは、私たちが第1章で論じたことだが、「不安」を用いて問答無用で「抑圧」される「外傷」は自我が弱い頃にのみ存在するということだろう。成長していけば不安をもたらす外傷的な出来事も意識的に処理することが容易になってくる。もちろん、事故や戦争などの極端な事例ではそうでないにせよ。
そして第二に考慮されるべきは、自我が存在していなければ「外傷」に「不安」で対応することがまだ可能ではないということである。自我分化以前のあり方を単純にエスと呼んでおくとすれば、確かにエスにせよ、刺激興奮の殺到に際して「外傷」を経験し、「不安」の原型となるような情動を覚える。しかし、フロイトが言っているようにエスにはそれを危険信号として利用する力が全くないのである[ⅩⅣ:161=19:68]。ただ、自我だけが「外傷」に際して感じられた「不安」をシグナルとして用いることで「外傷」を避けようとすることが出来る。
こうして自我形成におけるファルスの意義をめぐる議論を利用することが出来るだろう。ファルスとの関わりで自我が確立されていく以上、外傷を被りやすい自我の初期とファルス期は重なりあう。
フロイトの典型的想定によれば、この時期子どもはエディプス的な対象を表象しつつ性器を使って自慰をする。これはエディプス的対象が自己保存欲動にせよ、そこから立ち現れた性的部分欲動にせよ、それに対して快と満足を与えてくれる存在であることを考慮すれば了解出来る。性器はその快から興奮を受け取るのであり、その発散に性器の本領があるわけだ。
さて、「去勢不安」はこの性器の切断に関わる外傷だが、それは以上の連関によって自我そのものの切断であり対象との関係の切断でもあるのであって、最大の外傷性を伴う。私たちは「去勢」は自我を切断して主体を純粋に出現させる、それは「私は」という主体を「~である」の束たる自我から純粋に切り離すのだと述べてみたくなる。
何はともあれ、かくして未熟な自我はそれに不安を感じて、性器での快への志向やエディプス的欲望を問答無用で追い出し「抑圧」するのである―これが強度に働き肛門サディズム期への退行が加わると強迫神経症の素因が生じる。
そして問題は「抑圧」が簡単には取り消せないことであり、「去勢」などが馬鹿げたものであることが分かり、危険状況は取り除かれても、やはり「不安」が自動機制的に働いて、ある種の欲動への「抑圧」が継続することである。
不安は反復強迫的に到来し、欲動は抑圧され否定を被り続ける。不快な不安の反復強迫は「快原理の彼岸」を指し示している。このように形成された去勢不安は最後に潜伏期には以上の禁止の上に立てられた超自我に対する不安に転化する。
女児の場合にもファルス期への歩み入りに際しては同じ過程が想定される。ひょっとするとペニスとクリトリスの差異、その子ども自身にとっての目立ちやすさに応じて、ファルス的統合の強度そのものに差異が生じると想定するべきかもしれない―フロイトも女児において自慰がそもそも少ない可能性を否定していない[ⅩⅣ:525=10:224]―が、何にせよ、異性愛が存在するならば、ファルス期に突入していくなかで性器に関心が集中し、そこであるべき「ペニスの喪失」としての「去勢」が気づかれること、そしてその帰結としての「ペニス羨望」が想定されざるを得ない。
さて、その標準的な帰結は「母」から離反して「父」へ向かうことであり、自ら「ペニスをもつ」のではなく、父から「ペニスをもらう」ことだった。とすれば、その主要な不安は男児の去勢不安、もっているペニスを失うのではないかという不安ではあり得ない。
それはもっていないペニスをもらえなくなるのではないかという不安であり、フロイトが言うように「愛されなくなることの不安」なのである[ⅩⅣ173-174=19:70]。女児がÖKを抑圧し、それを抜け出す過程は緩慢であるとフロイトが述べていることを考慮に入れるなら、女児における「抑圧」の中心点は、ÖKに関わるのではなく、むしろ、ÖK的関係がそれ以前のあり方を「抑圧」するのだと考えた方がよいだろう。
ヒステリーの中心が同性愛的欲望にあり、また前エディプス期がヒステリーにとって決定的な固着点を提供するのだとすれば、「抑圧」されるのは「母」への固着だろう。それは「ペニス羨望」的で、自ら「ペニスをもつ」ことを志向し、ライバルである男性に対して敵対的であり、男性を「去勢」したいといった欲望をはらんでいる。
こうした敵意が「父」の愛を失わないために抑圧されるのだと想定するべきだろう。フロイトは父への強い固着をもつ女性は多いが、彼女たちは必ずしも神経症的ではないと述べている[ⅩⅣ:518=20:216]。つまり、ÖKそのものには神経症を引き起こす「抑圧」の中心点はない。
以上からフロイトのいわゆる男性的な愛の姿勢と女性的な愛の姿勢の差異を導出することが出来る。それは能動性と受動性というフロイトにとって基底的な対に対応しているわけだが、フロイトにとって男性的な愛の姿勢とは能動的に愛することであり、それは対象の性的過大評価や場合によってはそれに伴うナルシシズムの放棄と謙虚さを帰結する。
他方で女性にとっては愛されることが重要なのであり、その意味でその愛はナルシシズム的であり、その主要な論理は「愛してくれるから愛する」というものなのだという。フロイトが30年の探求の後でも「女性は何を欲するか(Was will das Weib?)」が分からないと言ったなどというよく知られた話があるが、以上の愛の姿勢の議論が導入された「ナルシシズムの導入に向けて」(1914年)でフロイトが「女性の謎」なるものに与えた解明は、女性は男性と愛の基本論理が異なり、能動的に愛するよりは「愛してくれるから愛する」ので、男性にとっては女性の愛が自分ほどには熱烈に見えず、むしろ何がしか冷たく見えるというものである[Ⅹ:154-156=13:135-137]。
しかるに、これまた有名な言葉だが、例えば「素人分析の問題」(1926年)でも女性のセクシュアリティは未だに「暗黒大陸」[ⅩⅣ:241=19:142]であり、そのことがこの時期に始まる女性性への問いを動機付けてもいるのだろう。フロイトはその思惟の歩みを経て、最後に「女性性」において再び「女性の謎」に彼なりの解明を与えている。
もちろん、それは私たちが前章で見てきたものであり、女性のセクシュアリティの二重構成、その「女性性」なるものが「男性性」に上書きされているという構造に着目するものである[ⅩⅤ:140=21:171]。
ヒステリー者がとりわけ激しく「男性性」と「女性性」の間、能動的で同性愛的で男性に対して敵対的な前エディプス的でペニス羨望的なあり方と、受動的で異性愛的なエディプス的あり方の間に引き裂かれているにしても、この引き裂かれているということについていえば、「正常」な女性も同じ「書き換え」の過程を経ている以上程度の差はあれ同様なのであり、「抑圧」された古い姿勢がしばしば彼女たちに受動性を強いる異性愛的な体制に反抗して噴出するわけで、それが「女性の謎」なるものとして感受されるというわけである。
すでに明らかにしておいたように、それはフロイトがドーラにおいて感じていたであろう謎である。ドーラの治療から30年経ってフロイトは彼なりにその経験に言葉を与えることが出来たわけだ。
2、異性愛とは何か―その可能性と不可能性の条件
2-1、異性愛の本質とその可能性の条件
私たちはようやく私たちなりにフロイトを読む試みの終着点に到達する。これまでの歩みを簡単に振り返ろう。精神分析とは「理解への賭け」であり、それは人間が織り成す諸々の事柄において「意味 = 意図」の媒介を最大限に大きく見積もることを意味する。意識的なものだけを見ていてはある動きや語りの「意味 = 意図」が分からないときに、無意識の「意味 = 意図」が「構築」されるのであり、それが作業仮説となって更なる探求の道しるべとなるわけだ。
そのような精神分析にとってはセクシュアリティも「自然」な「本能」だから「理解できない」ような代物ではない。それは私たちが様々な事柄を経験し、それに様々な解釈を与えていく中で引き受け(させられ)てきたものなのであり、その限りで「意味 = 意図」を持ち、また「編成」ないし「体制」と呼ばれるべき複雑な構造体なのである。
このように考えることの必然性は、さしあたり「異性間性器性交の自然主義」の人間の性現象を説明する上での無能力に存する。それは様々な倒錯を説明しないし、いわゆる「正常」に厳密に内在的な部分欲動の諸活動を不可解なものにしてしまう。
この部分欲動への注目は「幼児性欲」の想定を不可避的なものとする。部分欲動は幼児期の快経験に「依托」して生成するのであり、幼児期の快経験があるものを性的なものとして立ち上げる。後に性器はその快から興奮を調達するのである。
さて、「幼児性欲」の始まりにおいては、幼児自身には性差は何の意味も持っていないし、対象を性差に従って区別する理由もない。性の始まりは両性的である。しかるに、現に生物学的性に従った性の引き受けと性対象の選択が主要な形態として存立している以上は、それが生成するプロセスがあるはずである。
幼児は様々な経験と解釈の積み重ねのなかで何らかの理由でそのような道へと誘導されるのである。このプロセスを名指す試みがエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスだった。それは性差と異性愛が成立する条件、その可能性の条件を記述しているのである。私たちはその典型的プロセスを男女ともに詳細に叙述した。
では、かく成立する「異性愛の本質」とは何か。これを規定するには女性の異性愛的欲望から考えるのが得策である。それは「ペニスをもちたい」という「ペニス羨望」が「父」の「ペニスをもらう」という欲望に変化することによって現れる。
それは原初的には「父」の「ペニス = 子ども」への欲望なのであり、潜伏期以後の性的な直接性からの離陸を考慮に入れるなら「父のファルス」への欲望である。とすると、異性愛的な関係が安定的に可能であるとすれば、男性の側が保持するべき条件を明確になるだろう。それは「父のファルス」を持っていることであり、すなわち、「父」との同一化である。
かくして、私たちは「異性愛の本質」に規定を与えることが出来る。それは「父のファルス」を「持っている」ものが、それを「もらいたい」ものの間に成立する「父のファルス」の交換関係なのである。
フロイト的な精神分析の枠組みにおいて、異性愛が「父の法」のもとでしか可能でないということに意味が与えられうるとすれば、それはこの意味においてである。異性愛が可能であるとすれば、それは女性が父のファルスへの欲望を引き受け、男性が父のファルスを引き継いでいる限りにおいてでしかない。これがフロイトの何がしか「古典的」といいたくなるような異性愛の理論である。
2-2、神経症の本質―異性愛の不可能性の条件として
異性愛がこのようなプロセスの果てにようやく可能であり、その可能性の条件が存在するような営みであるとすれば、その可能性の条件の裏面として、その不可能性の条件も与えられることになるだろう。フロイトはそれを神経症の本質として把握したのであり、だから「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」[Ⅴ:273=6:144]が神経症の本質に属しているわけだ。
ところで、ここで同性愛も異性愛が不可能になった形態ではないかと反問があるかもしれない。確かにフロイトの立場、すべての性のありかたをある一つの出発点からのびる様々な道の帰結として記述しようとするフロイトの立場を前提に、異性愛を中心的とする視点を採用すれば、すべての同性愛も異性愛が不可能になったものと見ることが出来る。
実際、フロイトは最晩年でも同性愛をリビード発達過程における「発達制止」[ⅩⅦ:78=22:191]だと述べている。それを「制止」と規定する異性愛の最小限の規範性はフロイトにとっておそらく「生殖機能」によって与えられているのだろう。とはいえ、この「生殖機能」なるものの意義は技術的解決によって低下していくだろうし、私たちとしてはこの観点を共有する必要もないだろう。
精神分析にとっては主体の内的葛藤の有無こそが重要であるかぎりで、やはり「Liebesfähigkeit」―つまり、そこで「情愛」と「官能」が一致する関係が可能であるか―の方が本質的であって、そちらを基準にするべきだと思われる。すると、異性愛の道に留まりつつ、それが不可能になっている「神経症」と比べると、同性愛はやはり質的に異なる。というのも前者の本質には「現実的な愛の要求に応えることの不可能性」[Ⅴ:273=6:144]が属しているものの、後者の「本質には」それは属していないし、その意味でそこでは主体の「Liebesfähigkeit」が損なわれてはいないからである。だから、ここでは「神経症」のみを扱おう。
さて、「神経症」と「異性愛の不可能性の条件」である。これは前項が与えた条件をひっくり返すだけで与えられるし、その内実については前章までで十分に記述しておいたので、ここで言うべきことは多くない。
女性の異性愛の可能性の条件が「ペニスをもらう」欲望に存するとすれば、その不可能性の条件は「ペニスをもちたい」という欲望であり、正確にいえば、前者の基本的優位のもとに後者が抑圧されていることである。この時ヒステリーの素因が成立する。不可能性の条件―少なくともそこで異性愛的関係が困難になる条件―が成立するには、身体症状としてのヒステリーの発症は必要なく、その素因だけで十分である。
この素因が成立するとき、異性愛的関係性に刃向かうものがたびたび「抑圧されたものの回帰」として到来し、その関係性に対して破壊的に作用する。この点についてフロイトの立場を最も単純化して述べるとすれば、精神分析はその前エディプス的な固着を意識化によって自我により対処可能なものにすることで、この種の素因を解消しようと試みるということになるだろう。
当たり前のことだが、これを通じて異性愛的な立場を確立した女性はどんなにひどい関係性においても「受動的」に唯々諾々と従うようになるなどというわけではない。先に指摘してきたような素因は長く抑圧された無意識的なものとして自我にとって異和的な仕方で回帰してくるのであり、意識にとって理想的な関係でさえも破壊してしまったり、あるいは引き受けられなくしてしまったりするのである。
先の意識化はこのような部分を取り除くのであり、その後の個別的な関係の引き受けは意識に委ねられている。それは「現実的な愛の要求に応えること」を主体の意に添わない形で不可能にするものを取り除くだけなのである。
しかるに「結晶原理」的な言い方だが、いわゆる「正常」な女性性の構成もすべて以上の素因を成立させたのと同じ「上書き」に依拠している以上、このヒステリー的なものが「女性性の本質」を規定していることを忘れてはならない。
続いて男性に移ろう。男性の異性愛の可能性の条件が「父のファルスをもっている」こと、「父」との同一化に存するとすれば、その不可能性の条件は「父のファルスをもっていない」ことであり、「父のようになってはならない」ないし「父のようになれてはいない」という「父の禁止」の影響下にあること、かくして父と劣位の敵対関係に入っていることである。
もちろん、これは私たちが強迫神経症の素因としてフロイトから取り出したものであり、こちらでも不可能性の条件が成立するには強迫症状の発症は必要なく素因だけで十分である。このような素因が成立しているとき、「父の禁止」の影響の下に、言うところの「去勢不安」やら「自己無価値感」によって、性愛的関係における能動性一般が「制止」を被ることになり、ひどいときには「心的インポテンツ」が引き起こされ、あるいはまた禁止された「官能」を「貶める」動向の下で「情愛」と「官能」の分離が生成することにもなるだろう。
別の観点から言えば、父の禁止の影響下にあるÖKへの無意識的備給が残存している限りで、性愛的な欲望が以上のような諸障害を被る。「エディプス・コンプレクスが神経症の中核的コンプレクスである」というわけだ。
鼠男は慕っている婦人への愛を「情愛」であって「官能」ではないと言っていたけれども、その種の「制止」はやはり望ましいことではないだろう。フロイト曰く、幸福な結婚なるものは「情愛」と「官能」の一体性としての「愛」によって支えられるべきものである。
さて、かくのごとく先の素因によって「現実的な愛の要求に応えること」は男性において不可能になるわけだ。こちらもフロイトの立場を単純に述べるとすると精神分析はこの種のÖK的な固着を意識化することで自我によって対処可能にすることを目指すということになるだろう。
同じことの繰り返しだが、こちらでもÖKの抑圧自体は不可避である以上、強迫神経症的なものは「男性性の本質」にとって構成的である。
最後に以上の洞察から「男性性」と「女性性」それぞれに本質規定を与えておこう。男性性を規定する「父との同一化」に「父の禁止」が不可避的に差し挟まれている以上、「男性性は男性性への未到達として存在する」と規定できる。
他方の女性性は一種の「二次的構築物」であり、常に裏側にある反対物に脅かされている以上、「女性性は女性性への違和として存在する」と言うことができるだろう。
とすれば、「異性愛の本質」が「父のファルス」の受け渡し関係であるとしても、「男性」はそもそも「父のファルス」を十分に持っていないし、「女性」は「父のファルス」など元々は欲しくなかったのである。
そういうわけで、「異性愛」はともすると、持ってもいないものを欲しがってもいない者に押し付けるものとなってしまう―それこそK氏がナニをドーラに押し付けたように。そこに「異性愛の本質」に属する不安定性がある。これが私たちのさしあたりの結論である。
もちろん、私たちはラカンが「愛」に関して以下のように語ったことを知らないわけではない。
L’amour, c’est donner ce qu’on n’a pas à quelqu’un qui n’en veut pas.
すなわち、「愛は自分が持っていないものを、それを欲していない人に与えることである」。「フロイトへの回帰」を唱えたラカン、明らかに私たちが整理してきたようなフロイトの議論を踏まえているラカンのこの定式がいかに読まれるべきなのか、それは今後の課題としておくとしよう。
前後のページへのリンク
第5章 女性性とは何か―ドーラ、女性同性愛の一事例、そしてヒステリー(2)
目次・はじめに:フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ
References
1. | ↑ | フロイトの引用は[ドイツ語版全集巻数:ページ=日本語版全集巻数:ページ]と指示する。全集の邦訳を参照しつつ、著者が改めて訳出している。Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店. |