目次
3、「幻想の横断」「主体の解任」「〈他者〉の欠如」
本節は第0節のジジェクのヘーゲル理解の概観で示された第二点と第三点に踏み込む。もう一度確認しておけば、ジジェクの見るところ、ラカンには「欲望の主体」が「幻想の横断」と「主体の解任」をへて「欲動の主体」へと主体的ポジションを変化させるという構図が存在するが、この変化の契機を「世界の夜」との関係で思考することが、そして移行全体をカントからヘーゲルへの移行に並行させて思考することが出来る。ここで生じる事柄を思考しなければならない。
だから、本節の主な仕事は前節まで述べられたことをラカン的用語系と対応させることであり、本稿の枠内でいえば、序論第四章の展開を再び取り上げなおすことである。
具体的な内容に移ろう。前節で引用された重要な一節、「私たちは〈空虚〉(Void)を私たちが通過するべきもの(そしてある仕方で常にすでに通過してさえいるもの)として措定することも出来る。そこにヘーゲルの「否定的なもののもとへの滞留」の要点がある」(Žižek [2008b:xxx])から出発しよう。
私たちは常にすでに「絶対的否定性」「世界の夜」の「空虚」を通過しており、このことが次のことを可能にするのだが、それをもう一度通過するべきである―それが「幻想の横断」「主体の解任」であり、「〈他者〉の欠如」の経験であって、そこで主体的ポジションの変化が生じる―というのが基本的なジジェクの立場である。
本節ではこの通過をめぐる諸事態について本章のこれまでの成果とラカン的用語系を擦り合せつつ考えることになる。以下、序論第四章を振り返る形で第一項では「同一化」を、第二項では「幻想」を、第三項では「幻想の横断」「主体の解任」「他者の欠如」を取り扱うことにしよう。
3-1、「同一化」
私たちは序論第四章の初めと終わりで、原初的否定性の想定の必要性から、この否定性の輪郭を明らかにすることという課題を提示したが、この課題は前節で遂行されたと見ることが出来る。
人間としての人間が被っている始原的否定性とは、この「世界の夜」、人間が言葉を引き受け、世界を意味を持ったものとして開示するということにとって構成的な、「絶対的否定性」、「夜/無」としての「絶対的なもの」と人間との始原的関係である。
これは肯定的な諸事物の連鎖、その因果的連鎖に生じた裂け目、そこに収まらない「否定的なもの」の侵入として、自由の起源であり、「自由の深淵」(ジジェクのシェリング論のタイトル)である。だが人間はこの「無」のうちに立ちつづけることは出来ない。自己の無から自己の存在へと、自らの肯定的で一貫した存在へと逃げ込まなければならない。
ラカンの鏡像段階論において、「分断された身体」―ジジェクからすれば、まさしくこれは「世界の夜」の光景なのだが―というアナーキー状態があるからこそ、鏡像への同一化により「身体の全体性」が先取りされなければならなかったように。そしてジジェクが恐らくは、その主要な二つの参照点、ヘーゲルの「意識」とラカンの「無意識」の困難な緊張関係のうちで両者をなんとか調和させよう努力するなかで述べているように。
私は意識のある種の復権を危険を承知で行いたいという気さえしている。(…)不安は(…)意識と結びつけられるべきだとしたらどうだろうか。意識の地位は一見そうみえるよりも非常に謎めいたものである。(…)ラカンがその機能を軽視すればするほど、それは計り知れないものとなっていく。(…)おそらくこの点の鍵は「無意識は死を知らない」というフロイトの考えによって与えられるだろう。もっともラディカルな点において「意識」は自身の有限性と死すべき運命の自覚(awareness)「である」としたらどうだろうか。自身の死すべき運命の自覚は自己認識(self-awareness)の多くの側面のうちの一つではなく、そのまさにゼロレベルなのだ。この自覚はそのあとになって主体が自らの死すべき運命を無意識のレベルで信じようとしないことによって否認されるのである。(Žižek, Butler, Laclau [2000:256])
ヘーゲルが主体の創設の瞬間の「否定性」に伴う「非現実性」を「死」と名付けたいと述べていたことを明らかに参照する形で、ジジェクは意識のゼロレベル、その起源は自らの死の意識であるという。そしてそれが抑圧されることで無意識が創造されるのだ、と。
ともあれ、今の文脈で重要なことは、始原の否定性は引き受けられずに「無」から肯定的存在への移行が生じるということである。それがまさしく鏡像のような肯定的形象を引き受ける「同一化」「主体化」である。主体は否定性、自己自身に直面して、それを引き受けられずに逃げ出すのである。
序論第四章でジジェクはラカンの〈他者〉をめぐる問題系を主体の「否定性」へと翻訳していること―主体の否定性、その自己不一致は、〈他者〉の場における主体の立場の不確定性、「他者の欲望の謎」と並行していること―を指摘しておいたが、この始原的否定性についても、その翻訳を観察することが出来ることも指摘しておこう。
というのも、ジジェクの見るところ「ラカンにとっても精神分析の「誕生の場所」は、子供の精神的ホメオスタシスをかき乱す、〈他者〉の享楽の理解不能な「暗黒点」とのトラウマ的遭遇」(Žižek [2000a:288])なのだが、この地点をジジェクは「世界の夜」「自由の深淵」「死の欲動」という三つの互いに同じものとされる「主体の否定性」の根源的次元から読解しているからである。
この翻訳を視野に入れれば、「同一化」は〈他者〉の享楽の謎との直面による、主体の〈他者〉の中での地位喪失、自らの存在の支えの喪失から逃れるために、他者が承認すると見える像の中に自らを認めるというプロセスとして理解可能になる。
3-2、「幻想」
「幻想」のジジェク的な概念化も序論第四章で論じられたところである。主体は「主体化」へ、肯定的諸内容の引き受けへと移行しはするものの、「主体 = 否定性」が絶対的に先行していることによって、この引き受けは完全には成功しない。いつも何か残滓が存在する。主体は自らと一致せず、同じことだが〈他者〉の中で確固たる地位を持つことも出来ない、〈他者〉は主体に確固たる場所を与える一貫した秩序として現れてこない。これは同時に欲望を限りなくする主体の「欠如」でもある。
「幻想」はこの行き詰まりに応じるために現れる。先に明らかにされたように「幻想」は、典型的には主体の欠如・否定性を経験的な原因に帰着させ、その原因の解消を空想することによって、いまここではない、ある彼方において、自己一致が、〈他者〉の欲望の答えが、欲望の究極の対象としての〈現実的〉な〈物〉があるとする。
単なる「同一化」の次元、〈象徴的〉次元で失われた〈他者〉の一貫性を〈他者〉が〈現実的〉な〈物〉を持っているとすることで回復するのである。「否定性」こそが先行しているのに、「幻想」は「否定性」を二次的なものへと格下げし、肯定性が、〈物〉が最初にあったのだ、そしてそれを取り戻すことが出来るのだと確言する。
このことと第一部のこれまでの成果を重ねあわせれば、ジジェクがカントにおける「物自体」の想定をカントの「根源的幻想」(Žižek [2000a:61])と呼んでいたとしても驚くにはあたらないだろう。というのも、ヘーゲル的-ジジェク的視座からは、「物自体」は「主体の否定性」が超越的で到達不可能な肯定的な対象として実体化されたものに過ぎなかったからである。ここにおける「幻想」の論理との並行性は明らかだろう。
「幻想」の論理が主体の否定性・欠如の事実に抗するために、その原因を経験的な障害に帰着させ、もってその彼方に否定性の解消が、欲望の満足が、〈物〉があるという幻影を作り出したのと同様に、ヘーゲル的-ジジェク的視座から見たカントは、「主体の否定性」を見逃し、それを到達しえないが彼方にあるような肯定的な実体としての「物自体」へと書き込みなおしたからである。
超越論的主体を否定性としての主体と読むことが許されるとすれば、カントはその主体の空虚性・否定性という事実を完全に承認するにはいたらず、肯定的な秩序としての「物自体」を想像することで主体に叡智的次元(「物自体」)で肯定的な存在としての地位を保証しようとしたということになる。
主体の否定性、「無」との原関係、〈他者〉の中での地位喪失で脅かされているのは―人間が〈他者〉によって生かされていることを想起するなら―結局全て主体の生命、主体の存在そのものである。だから「幻想」の最終的賭け金は主体の存在である。
根源的幻想は主体に最小限の存在を与えるのだ。それは彼の存在の支えなのである。簡潔にいえば、その欺きの身振りは以下のようなものだ。「見て、私は苦しんでいる。だから私は存在している。私は肯定的な存在の秩序に参加している」。それ故根源的幻想においては罪や快楽が問題となっているのではなく存在そのものが賭けられているのである。(Žižek [2000a:281])
3-3、「幻想の横断」「〈他者〉の欠如」「主体の解任」、あるいは「理性」と「絶対知」
では、この「幻想」の彼方には何があるのか。「幻想」の体制の出口はどこにあるのか。それが「幻想の横断」「主体の解任」であり、「〈他者〉の欠如」の経験であるということになる。
ここでジジェクはヘーゲルからラカンを読む。「幻想」は主体の「否定性」の先行性を否定し、それを超越的な「物自体」/〈物〉に到達していないこと、かつてあったはずの「物自体」が失われてしまっていることへと書き換えることだとすれば、そしてその到達不可能な「物自体」/〈物〉に向けて「欲望」が組織されるのだとすれば、「幻想の横断」は、第一節で論じた〈物〉の空虚な場所、「世界の夜」への到達による「物自体」の不在、「主体という無しかない」こと、「主体の否定性」の絶対的先行性への認識、それによる「欲望」からの「欲動」への移行であるということになる。
「幻想」の体制は〈物〉を仮構しつつ、それを到達不可能なものとして、それに対して距離をとりつづける。そこには〈物〉は実は「無」、「否定的な自己関係」でしかないという恐怖が隠されている(Žižek [2008a:219])。だから私たちは逆に〈物〉へ飛び込まなければならず、そこで「世界の夜」を経験しなければならない。これがジジェクがヘーゲルによってラカンを読むという契機である。
さて、より詳しく見ていこう。ヘーゲルからラカンへの翻訳は第一節で見た『精神現象学』における知の自己検証過程の諸契機を、「知」は「欲望」へ、「知」が目指す「物自体」は「欲望」の究極の対象たる〈物〉へ、そしてその正体である主体の「否定性」は欲望を動かす主体の「欠如」へと読み替えることで可能になる。
ここでジジェクはヘーゲルを欲望の論理へと引きつけて読んでいるといえるだろう。ヘーゲルの意識がはじめ「真理 = 超越的な物自体」を求めて知の自己検証を繰り返していたように、主体は欲望の対象-原因、すなわち、対象aないし〈物〉を探し求める。
しかるに先に見たように叡智的な物自体としての真理は存在しない、それは主体の否定性が生み出したもの、その否定性の実体化にすぎない。対象aも同様である。主体ははじめ〈他者〉が対象aを持っているはずだと、それを〈他者〉の中に探し求める。〈他者〉の内での失敗した素朴な「同一化」が「幻想」的な対象aによって補われている。
しかし、それは主体の欠如が生み出したもの、その欠如の実体化にすぎない。だから〈他者〉も対象aを持っていない。〈他者〉自身から(あるいは象徴的同一化の焦点たる自我理想Iから)対象aが分離され、〈他者〉自身の欠如が明らかになる。こうすることで〈他者〉に包摂されていた主体、〈他者〉の内で「同一化」を遂行し、その失敗を「幻想」によって補っていた主体、〈他者〉の中に「疎外」されていた主体も〈他者〉から「分離」することになる。
ラカンは「分離」を二つの欠如の重なり合いと定義した。主体が〈他者〉の欠如に出会う時、それに対する主体の答えは、先行する欠如、彼自身の欠如である。このことはヘーゲルの有名な言葉、古代エジプト人の秘密/謎はエジプト人自身にとっても秘密/謎だったという言葉に正確に一致している。疎外された主体は、到達できない秘密/謎を隠し持つ十全で実体的な〈他者〉に直面する。そして疎外は、主体がその〈他者〉の核心にまで突き進み、その「隠された宝」を手に入れることによって克服されるのではなく、「隠された宝」(対象a、欲望の対象-原因)が他者自身にも欠けているということを経験することによって克服されるのである。秘密/謎の解消は、その二重化のうちにある。(Žižek [1992:233])
〈他者〉の欠如がなかったら〈他者〉は閉じられた構造になったであろうし、主体にとって開かれている唯一の可能性は〈他者〉の内での根源的な疎外のみということになっただろう。だからまさにこの〈他者〉の欠如こそがラカンが分離と呼ぶ一種の「脱-疎外」を主体が達成することを可能にしてくれるのである。これは主体が言語の障壁のせいで対象から永遠に分離されているということを今や経験するという意味ではなく、対象は〈他者〉自身からも分離されている、〈他者〉は「手に入れなかった」、最後の答えを得なかったという意味である。(…)この〈他者〉の欠如が主体にいわば息をするための余地を与える。(Žižek [2008a:137])
「〈他者〉の欠如」=「分離」も、ここでジジェクのヘーゲル解釈の新しい契機を導入すると、「絶対知」=「理性への移行」も同じ運動によって規定されている。すなわち、主体ははじめ超越的な場所にある「真理/対象」を求めていたのだが、その真理の場所に到達しようとするやいなや、真理の非存在が明らかになる。それが幻想であったことが分かり、「幻想」が「横断」される。そこには「主体という無」しかなく、実体としての物自体は主体の否定性と欠如の相関項でしかなかったことが分かる。
ここで「物自体 = 実体」は「主体」となり、「知」/〈他者〉の領野には物自体の不在、超越的な支えの不在という穴が空いたままだ。「〈他者〉は存在しない」。この場所にこそジジェクのヘーゲル的「理性」および「絶対知」の解釈が差し挟まれる。カント的悟性は自らの彼方に超越的で到達不可能な物自体を持つ、ヘーゲル的理性はこの物自体を捕まえるのではなく、その非存在を認識する。「理性は「悟性の限界を超えていく」のではなく、むしろ思惟の一切の内容が悟性の内在性へと還元される点を指示している」(Žižek [1992:29])。
「絶対知」とは、物自体、知の超越的な支えとなるべきものの不在、今述べられた意味での「理性」の立場の貫徹を意味しており、だから「「絶対知」そのものはある根源的な喪失の承認に対する名に他ならない」(Žižek [2008a:xxx])。それはジジェクがよく用いるカント-ヘーゲルの移行の論理を用いれば、認識論的障害(物自体が障害のために認識/到達できないこと)が存在論的規定(そもそも肯定的な存在としての物自体は存在しない)へと転換されることである。
「絶対知」にあっては「知」を最終的に保証するべき超越的物自体は取り除かれており、知の領野には穴が空いている。あるのは究極的な根拠づけの無い主観と客観との相互媒介運動―「Geist」だけである。だから「絶対知」は「差異と偶然性とのもっとも強力な肯定である」(Žižek [2008a:xxx])。総括すれば、それは〈他者〉からの「分離」、〈他者〉の非在の経験、そして「世界の夜」=「自由の深淵」の再経験として、決定的な自由への合図なのである。
本項のタイトルに残った最後の契機、「主体の解任(subjective destitution)」について触れておこう。この「主体の解任」も以上に述べられたこと、総括的に表現しておけば、主体が超越的な「物自体」/〈物〉の場所で「主体という無」しかないこと、主体を主体として創設した始原的否定性、「世界の夜」/「自由の深淵」を再経験し、主体の「主体化」「同一化」の地平としての〈他者〉、主体を「疎外」している〈他者〉が、〈物〉、最後の答えを持っていないこと、究極的には一貫性を欠いていること、〈他者〉は存在しないことを経験して、〈他者〉から「分離」すること、理性と絶対知の立場へと移行することと別のことではない。
それはこの経験の一側面に焦点を当てたものである。なぜここで主体の「解任」が問題になるのだろうか。それは〈他者〉、〈象徴界〉こそが主体の同一化を、主体の自己理解、主体の肯定的内容、その存在を支えていたからである。だから、〈他者〉の領野が根源的に抹消される、この「絶対的否定性」の場所において、主体は、その肯定的内容、その象徴的歴史を抹消される。「根源的幻想の[存在を与えるという]この欺きこそ、「幻想の横断」の行為が取り除いてしまうものである。幻想を横断することによって、主体はその非存在性の空虚を受け入れるのである」(Žižek [2000a:281])。
ジジェクも用いている少々逆説的な表現を使うなら、この「主体」($)の根源的な場所は「主体化」(S= 象徴的同一性)の絶対的無化という意味で「主体の解任」の場所であり、主体は端的に新しい生を始めることが出来る。これが序論第四章の終わりに触れたラカンの言葉、「死の欲動」―これが今や「世界の夜」から理解されているのだが―は「同時に、無からの創造の意志、再出発の意志」でもあり、「ご破算にして再開する意志」(Lacan [1986:251=2002:下71])であるというラカンの言葉に、ジジェクが与えている解釈である。
そして序論第四章の終わりに戻るなら、ジジェクがかつての自らの立場に不満を覚えていると語っていた(序論第四章2-4)のは、そこで以上の事柄が適切に強調されず、〈物〉が何か到達不可能なものとして温存されているとも見える側面があった―このような曖昧な言い方をするのは、ジジェクが語るほどには、ジジェクの立場の変化ははっきりとしたものではないからだが―からである。
その立場では、トラウマ的な〈物〉に直面することは出来ず、「幻想」が〈物〉に対するある距離を保ちつづけるのであって、私たちに出来ることは「幻想」が作り出す諸形象の偶然性を認識することだけである…。だが、そこで本当は「幻想」を「横断」し、〈物〉の場所へ踏み込まなければならない。といっても何か実体的な〈物〉を得るというのではなく、そこに「世界の夜」、「死の欲動」/「自由の深淵」/「分離」を経験しなければならないのである。
だからジジェクは自らの立場の変化をカントからヘーゲルへと要約する。それは超越的「物自体」から超越論的主体の「否定性」への変化であり、ジジェクによれば〈現実界〉の理解も、〈象徴界〉にとって超越的な実体的〈物〉ではなくて象徴秩序の裂け目、単なる「否定性」へと変化しなければならない。
おそらくこうして序論第四章で課題とされたことを大半は果たすことが出来たと言えるだろう。それは先行研究において見落とされていた部分、そしてジジェクが不満を表明していた過去の自らの立場に代わって打ち出した部分であって、「世界の夜」を中心とする「幻想の横断」と「主体の解任」の経験、実体的な〈物〉とその到達不可能性によって特徴づけられる「欲望」の立場から自らを絶対的な否定性そのものとして経験した「欲動」の立場への移行である。
次項では本章を締めくくるにあたり、ジジェクのヘーゲル理解を整理する中でこの「欲動」の立場をもう少し具体的に位置づけよう。
4、ジジェクのヘーゲル理解の総括
さて、前章とのつながりを再確認しつつ、本章を総括し、次章への移行を準備しよう。前章のカント理解で強調されたことは、カントの超越論的転回により「否定的なもの」を思考する可能性が初めて開かれたこと、そして実際カントには肯定的・有限的なものには満足しない「理性」という契機が存在し、「自由」と「崇高」という有限的な現象の領野が破れる経験、「否定的なもの」の経験が存在していたことであった。だが、カントはこれらを全て現象の彼方に実体的・肯定的な形であるものとして観念された物自体・叡智界へと書き込みなおしてしまう。現象の彼方に、到達することの出来ない超越的で叡智的な物自体が想定され、二元論が形成される。
この状況に対してジジェクが対置するヘーゲルは、重点を「カントの現実性の超越論的構成という考え」が開く「現象的でも叡智的でもない」「ある特別な「第三の領域」」(Žižek [2000a:51])へ移す。それは現象が現象として開かれるに際してあったのでなければならない絶対的否定性、「主体/意識」の創設の瞬間、「世界の夜」であり、一般的にいえば、有限な現象でもなければその彼方にある肯定的存在でもない端的な「否定性/空虚」である。
そして、もちろんここで主体を触発し現象を作り出す何ものかの存在が否定されるわけではないのだが、現象の彼方に肯定的な形で存在し、私たちが目指すべきところとして考えられているような、叡智的な「物自体」は存在しない。それは現象に対する主体の剰余、「否定性」が超越的な形で実体化されてしまったものに過ぎない。ジジェクの概念化するところ、ヘーゲル的な「否定的なもののもとへの滞留」にあって私たちは〈空虚〉、「世界の夜」をある仕方で常にすでに通り過ぎており、かつ、それをもう一度通過するべきである。
この再度の通過により、「物自体」の不在が明らかになり、一元的な「全体性」の展開が可能になる。ジジェクが述べていたように「ヘーゲルを絶対的観念論の哲学者、完遂された〈概念〉の自己媒介の哲学者等々とするミスリーディングな標準的イメージ」は「前代未聞の壊乱的な身振りを隠す(conceal)と同時に含みこんで(contain)」いる。本章冒頭で『差異論文』に即して明らかにされたことと一致して、「絶対的観念論」、すなわち世界を意味的に一貫した「全体性」として一元的に展開することは「世界の夜」によって初めて可能になるのである。
ジジェクのヘーゲルにあってはその諸々の契機がこの「世界の夜」/「物自体の無」から究極的な意味を受け取ることになる。「理性」とは「悟性」から彼方の「物自体」を取り除いたものであり、「絶対知」とは超越的な物自体という究極の保証を欠いた主観と客観の相互媒介運動しかないことを承認である。〈他者〉も答えを手に入れていなかったのである。
さらに真理を「実体としてのみではなく主体としても把握する」というヘーゲル的標語もこのことと関連づけられており、ここにほとんど語りえぬものに至る「思弁」の頂点があるのだが、実体的な物自体があると思っていたところに主体という無を、「世界の夜」を経験することにより、「実体」から「主体」への移行が可能になる。実体的な物自体があると思っていたところに主体という無がある。それゆえに、この経験の帰結は実体そのものが分裂しているという認識、主体と実体の分裂(否定的なもの一般)は実体に内在的な分裂、実体そのものの分裂であるという認識である。ジジェクはこう述べている。
[ヘーゲルが『精神現象学』で述べている]「一切が〈真理〉を〈実体〉としてのみではなく〈主体〉としても把握し表現することにかかっている」ということは、〈絶対的なもの〉自身が私たち有限な人間達と戯れる〈主体〉であるということ、すなわち、絶対的反省の運動の中で、私たち有限な人間達は、自らを道具、それを通じて〈絶対的なもの〉が自らを観照するための媒体にする、ということを意味しない(…)。ヘーゲルが考えているのは私たちと〈絶対的なもの〉との間の分裂(split)(それを理由として私たちが主体であるような分裂)が同時に〈絶対的なもの〉の自己分裂でもあるということである。私たちは〈絶対的なもの〉についての私たちの高められた観照を理由としてではなく、私たちを〈絶対的なもの〉から永遠に分離するまさにそのギャップを通じて、〈絶対的なもの〉に参加するのである。(Žižek [1993:243])
私たちの第一節での議論は『精神現象学』での「意識」から「自己意識」への移行を「実体」的「物自体」の場所に主体という「無」を見いだすこととして読み解くものであり、これが今や「実体」そのものへの「分裂 = 主体」の内在の認識を帰結することが主張されたわけだが、実際にヘーゲルは「意識」から「自己意識」への移行の場所、「意識」章の後半部分において「[超感性的な内的なるものに]内在的なものとしての差異」を「無限性」の定義として提示する(Hegel [1986:3-131])。
私たちは[以下のように]問う必要は無い。[すなわち、]いかにしてこの純粋な本質から、差異ないし他在が出てくるのか、と。というのも分裂は既に起きているのであり、[その後で]差異が自同的なものから排除され、それとは別の側に置かれたのだからである。それゆえ、自同的であるはずだと思われているものは、[実際には]絶対的な本質であるよりもむしろ、既に分裂したものの一方なのである。(…)差異がそこから出てくることは出来ないといわれることが常である統一は、実際にはそれ自身分裂の一契機に過ぎないのである。(Hegel [1986:3-132])
そこに分裂が発生しようのない自同性と考えられているもの、今までの議論の文脈とつなげるなら、超越的な実体としての物自体にはそもそもの初めから差異と分裂が内在的であり、自同性という捉え方自体が既に二次的なのである。そしてこの実体に内在的な分裂と主体の関わりについて、その分裂が主体であることについては、ここで意識から自己意識への移行が問題になっているのだということを想起することに加えて、『精神現象学』のはしがきにおける、『精神現象学』の終わりについての定式を引用するべきだろう。
意識において自我とその対象である実体との間に起こる不等性は両者の差異であり、否定的なもの一般である。それは両者の欠如と見ることも出来るが、しかし、両者の魂あるいは両者を動かすものである。だから何人かの古代の人々は動かすものを否定的なものとして捉えることによって空虚を動かすものとして把握したのである。ただ、彼らは否定的なものを自己としては捉えなかったのであるが。否定的なものはさしあたり自我の対象への不等性と見えているが、それは同様に実体の自己自身への不等性なのである。実体の外で起きていること、実体に対しての行為と見えていたものは実体自身の行為なのであり、実体は自らが本質的に主体であることを示す。実体がこのことを完全に示すことで、精神は自らの現存在を自らの本質に等しいものとする。(…)このことをもって精神の現象学は締めくくられるのである。(Hegel [1986:3-39])
私たちは主体、否定性であることで実体から切り離されていること、対象に対して距離があること、分裂を感じている。私たちのジジェクに従っての解明の示すところ、「世界の夜」は主体の否定性のもっともラディカルな形態として極限の分裂だが、それは実体的な物自体があると思っていたところに「主体という無しかない」という経験として、実体そのものに有限な主体という分裂が刻み込まれていることの認識である。「否定的なものはさしあたり自我の対象への不等性と見えているが、それは同様に実体の自己自身への不等性なのである」。そしてこの「絶対的否定性」の経験こそが「夜」としての「絶対的なもの」の認識、すなわち「思弁」であり、ここに生じる超越的なものの無化によって「悟性」は「理性」へと変化し、「全体性」の一元的展開が可能になる。だが、そういうものとして「全体性」は否定性に貫かれ、超越的な物自体の支えを欠く、その意味で偶然的なものなのである。
さて、ここからいわゆる「否定の否定」や「和解」に議論を進めることは容易いだろう。ジジェクの把握するところ、「否定の否定」とは肯定的な実体に対して「否定」性である主体が否定され、再び肯定的な実体と一体化することではなく、「否定」が極限化されることによって、実体そのものの中に「否定」性が書き込まれていることが認識される、この否定性において実体と主体の重なりあいがあるということである。一般的にいえば、「否定」自体が否定されるのではなく視点の変化によって「否定」そのもののなかに肯定的な契機を見いだすことが出来るようになる。かくして「和解」とは「否定性」の消去ではなく「否定性」との和解なのである。
さて、「欲動の主体」のジジェク的読解が位置づけられるべき場所はここである。「欲望の主体」にあっても差し当たり存在する原事実は「否定性」、一切の肯定的内容に対する距離であり、少し見方を変えるならば対象の到達不可能性である。「欲望の主体」にとって「否定性」は異他的なものであり、それを引き受けることは出来ず、「幻想」によってその根本的次元を隠し「否定性」を何か超越的で肯定的な「物自体」へと書き込みなおす必要があった。
対する「欲動の主体」は「否定性」の果てにまで行き、「物自体」があると思っていた場所に絶対的否定性としての自己自身を見ることで生成する。その主体にあっても原事実は「否定性」なのだが、「否定性」のためにそれから切り離されていると思っていたもの、「実体」そのものが否定性を内に含むことを知っていることで、「否定性」は主体にとってもはや異他的なものではないのである。欲動は実体に内在する否定性、存在者の直中にある「否定性/無」、「穴、存在の秩序の中の裂け目のまわりを循環する」(Žižek [2008e:327])。
「全体性」に関していえば、「全体性」にとって「無」が、「自由の深淵」が構成的であり、かつ「物自体」という超越的な支えが失われている限りで「全体性」そのものは偶然的である。それは自らに構成的な「無」と、すなわち「否定性」と「和解」しており、自らの崩壊を内に含んでいる。そしてジジェクのラカン的読解が狙いを付けるところ、「全体性」の内には「無」を具現する偶発的要素があり、それは「全体性」自体が支えられると同時に「全体性」そのものの崩壊の契機となるような要素である。このことを通じて象徴的な「全体性」一般の構造が明らかにされるだろう。これがジジェクが「対象a」をヘーゲルに読み込もうとして行う努力であり、例えば『法哲学』の君主論に即してこの点を論じようとジジェクは奮闘している。この点の詳細な検討は別の機会に譲らなければならない。
本章を締めくくる前にジジェクのキリスト教論をその本質的な部分についてのみ明らかにしておこう。というのも、それはジジェクのヘーゲル読解の基礎付けられたものであり、その応用であって、本章の議論全体を凝縮しているからである。
ヘーゲル自身「世界の夜」の「無」の経験をキリスト教を意識しつつ「神の死」の経験として把握したのだが(eg. Hegel [1986:430-432])、ジジェクもそれを引き受けて「世界の夜」の経験をキリスト教的経験、私たち自身の経験と十字架上のキリストの経験が重なりあう経験として捉える。
「世界の夜」の経験は「私が自らを絶対的に孤独なものとして見いだし、全ての現実性が解体する純粋自我の夜へ収縮(contract)する」経験として、神の不在の経験、「超越的〈実体〉としての神」の死の経験、「信仰の喪失」の経験、「絶望」の経験なのだが(Žižek [2005:40-41])、ヘーゲルは絶対的否定性のうちでの神と人間の同一性の生起について語る。これはどういうことなのだろうか。
それは人間が超越的な神と一体になるということではない。つまり、実体と主体の分裂の無化ではなくて、むしろ本章で論じてきた通り、実体と主体の分裂が実体そのものに書き込まれるということなのであって、実体から極限に切り離された私たちの苦痛と絶望が、十字架上で「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」と語るキリストの苦痛と絶望と重なりあう、実体としての父なる神と神の子キリストとの神そのものの自己分裂と重なりあうということなのである。
私たちが〈神〉と一つであるのは、〈神〉がもはや自らと一つではなく、自らを放棄し、私たちを〈神〉から切り離す根源的な距離を自らに「内在化」したときのみである。〈神〉からの私たちの分離の根源的経験こそがまさに私たちを〈神〉と一つにする特徴なのである。(…)神的な至福と同一化できると考えるのは不合理である―私が〈神〉からの分離の無限の苦痛を経験した時にのみ、私は〈神自身〉(〈十字架上〉のキリスト)と経験を共有するのである。(Žižek [2003:91])
だからこのヘーゲル的/ジジェク的な理解にあっては、キリスト教の根本経験には超越的な神自身の自己分裂、無力、「神の死」が含まれる。ヘーゲル/ジジェクにとって十字架上で死んでしまったのはキリストのみならず父なる神自身であり、残されたのは、ここで「世界の夜」が象徴的な死と新生として考えられていたことを思い出さなければならないが、この経験を通過して「キリストの内に」新生した信徒達の共同体、つまり「聖霊(Geist)」のみである。かくしてジジェクにとってキリスト教は神自身が無神論者になってしまったようにみえる唯一の宗教として把握されることになる。
そして私たちが本稿で展開してきた議論が、ジジェク自身の立場を示す「弁証法的唯物論」(その十全な定式化は続く補論および次章でなされる)の中核をなす限りで、ジジェクは以下のように述べることが出来る。
私の主張は、単に私は徹頭徹尾唯物論者であり、キリスト教の転覆的な核は唯物論的アプローチによっても近づきうるというだけのものではない。私の主張はもっと強いものである。この核は唯物論的アプローチによってのみ近づくことが出来る。そしてまたその逆でもある。真の弁証法的唯物論者であるためには、ひとはキリスト教的経験を通り抜けるべきなのである。(Žižek [2003:6])1)英語圏で出版されているジジェクのキリスト教論を扱った二つの著作、Adam Kotskoによる著作とMarcus Poundの著作が有益な洞察を含みつつも徹底的に不十分なのは、両者ともジジェクのヘーゲル論をその全体において理解せず、そのためにキリスト教論をジジェクのヘーゲル論のうちに、つまりジジェクの哲学全体のうちに適切に位置づけられていないからである(Kotsko [2003], Pound [2008])。
最後に次章への移行の糸口だけはここで述べておこう。それは本章でこれほどにまで強調された「世界の夜」、この始原的否定性と私たち主体との関係そのものに関わる問題である。私たちが主張しようと試みるところ、ハイデガーはこの始原的な否定性について思考していたし、それが人間にとって随意的にアクセスしえないという所にこそ人間の、より正確には「現存在」の「有限性」のもっとも根本的な次元を見て取っていた。
ジジェクがハイデガーから取り出し強調した点とは違った、ハイデガーの「有限性」概念のこの側面を通じて、ジジェク的思考は一つの行き詰まりに逢着するが、それへの参照を通じてこそジジェクの倫理的立場を際立たせることが可能になる。さしあたりこのことの証示のために―そのためだけではないが―次章以降の議論は組織されている。
前後のページへのリンク
第二章 ジジェクのヘーゲル理解―「世界の夜」をめぐって(1)
補論 ジジェクの〈現実界〉概念―ジョンストンの『ジジェクの存在論』によりながら
スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について(目次・論文要旨)
References
1. | ↑ | 英語圏で出版されているジジェクのキリスト教論を扱った二つの著作、Adam Kotskoによる著作とMarcus Poundの著作が有益な洞察を含みつつも徹底的に不十分なのは、両者ともジジェクのヘーゲル論をその全体において理解せず、そのためにキリスト教論をジジェクのヘーゲル論のうちに、つまりジジェクの哲学全体のうちに適切に位置づけられていないからである(Kotsko [2003], Pound [2008])。 |