ここではスラヴォイ・ジジェクについての研究を掲載します。主要なコンテンツは「スラヴォイ・ジジェク研究—「否定性・否定的なもの」について」です。
スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について
ドストエフスキーやキルケゴールから書き起こして、ジジェクを主要な参照点にしながら、ソクラテス、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン、ハイデガー、ラクラウなどを論じることで、ジジェクの立場とその思想史的位置を浮かび上がらせています。
以下では、論文要旨の抄を掲載します。これ以上の詳細は、個別ページをご参照ください。
論文要旨 「否定的なもの・否定性」について
本稿はスラヴォイ・ジジェクの研究として、その哲学と政治に関する思想を取り扱う。それに際して採用された視点が「否定的なもの」であり、本稿は一方で「否定的なもの」という視座からジジェクを読解し、また他方でジジェクを出発点とし、ジジェクに依拠しつつ、時にはジジェクを離れて「否定的なもの」について事態はどうなっているのかを問う。
では「否定的なもの」とは何か。「否定的なもの」とは「肯定的なもの」ではないものである。「肯定的なもの」とは、私たち自身も含めた私たちの周囲にあるもの全て、私たちが経験しているもの全て、経験的なもの全てである。それらは所与の時空間の中で特定の場所と時間を占め、従ってそれについて「~である」と肯定的に規定することができる。
別様にも表現してみよう。そういったものは何か「であり」、他の何かではないのだから、それは限定されたもの、有限なものである。経験的なものは肯定的なものとして「限定されたもの・有限なもの」である。そしてまたそれらは「~である(ist/sein)」と語られうるものとして「存在者(Seiende)」である。あるいはさらにそれらは「~である」と「語られうる」ものとして、言語の領野、象徴的次元に内在的なものである。
だが、奇妙なことに人間的経験において「肯定的なもの」だけが全てではない。人間には「肯定的なもの」から引き剥がされ、何か他なるものに惹きよせられる経験が存在する。
私たちは主にジジェクに依拠しつつ、そのような形象をいくつも引いておいたが、一番分かりやすいのはソクラテスやカントやフロイトの場合だろう。ソクラテスのうちに響きわたる「ダイモーンの声」はソクラテスを彼が為そうとしていること、つまりは「肯定的なもの」との関わりから引き剥がす。カントのいう「理性の声」は、経験的・感性的なものによる意志規定から「苦痛」を伴いつつ意志を引き剥がし、私たちは経験の彼方へと差し向ける。そしてフロイトの「反復強迫」は不快な記憶の強迫的な反復的回帰として、私たちを所与の状況への埋没から強制的に引き剥がし、(自己)破壊衝動としての「死の欲動」の次元を証だてる…。
これらの切断における「~でない」の経験が「否定的なもの」の経験である。そしてそれらが正確に「否定的なもの」と呼ばれるべきなのは、ジジェクにおいて、そして本稿において、最終的に、それが単に私たちにとって「否定的なもの」として現れるだけでなく、それ自体で「否定的なもの」、つまり、「無」として解明されるからである。
ここで「肯定的なもの」についての記述を反転することで私たちは「否定的なもの」についていくつかの規定を与えることが出来よう。「肯定的なもの」は「経験的/限定的/有限的なもの」なのに対して、「否定的なもの」は通常の意味では経験的なものではないもの、また規定し得ないものとして「無限定的・無限的なもの」である。
そして「肯定的なもの」は存在者であるとすれば、「否定的なもの」は存在者ではないものである―ところで最終的に「無」として解明される「否定的なもの」が正確にハイデガーのいう「存在そのもの」の根本次元であるとすればどうだろうか、私たちが主張しようと試みるところ事態は実際そのようになっているのだが。そして最後に「否定的なもの」は「~である」と「語ること」が出来ないものとして、象徴化に抗うもの、ジジェクがラカンの概念を援用していうところに従えば、優れた意味で〈現実的なもの〉である。
さて、問題は、この「否定的なもの」に問い返すこと、それがどこから来て、どのようなものであり、どのような帰結をもたらすかを問うことである。本稿はこの問いのジジェク的な遂行である。
その他の小論
こちらはまだないのですが、今後、何か機会があれば書いていこうと思っています。