ところで、LPは近代の「愛のゼマンティク」の歴史の分析を中心とするが、ルーマンはそのような本書そのものがまた一つの「愛のゼマンティク」でもありうる、というよりも、むしろ必然的にそうなってしまうということには、当然、自覚的であっただろうし、それどころかルーマンは本書の締めくくりにおいて「愛のゼマンティク」の伝統から何を受け継ぐべきかという形で、今後あり得べき愛のゼマンティクの輪郭をおぼろながらにであれ示してすらいる。
とすれば、「 [愛への]動機は、愛の可能性、愛のもっともらしさ、愛の実現可能性を描写するゼマンティクから独立に生じるのではない」とするルーマンが、自らの歴史叙述ないし理論的構想を通じて、「愛の可能性、もっともらしさ、実現可能性」を描写し、かくして近代社会の基本的構成要素をなしている「愛」「婚姻」「親密関係」といったものへの「動機付け」を下支えするという意図を持っていたと、いわばパフォーマティブな意図を持っていたと想定しても、それほど不自然ではないだろう。
「はじめに」で述べたように、ルーマンには「愛」の「コード」性、私たちの「愛」なるものが徹底的に愛についての語りや表象によって構造化されており、そのコピーであるというシニカルな認識があるし、またルーマンはそのようなコード性の自覚はそれこそラ・ロシュフーコーから始まって一貫して存在していたと論じる。
そのような認識がルーマン自身の愛についての語りをシニカルなものにしていない(ように見える)一つの理由を、私たちは今論じた意図に見いだすことができるかもしれない。
確かに、「愛」は「コピー」なのかもしれないが、「愛」は独特な仕方のコミュニケーション・メディアとして、社会的に独特の機能を持っており、それゆえ、愛への「動機付け」を行い、またその遂行を容易にする「ゼマンティク」にも重要な機能がある。とすれば、愛について、「愛の可能性、もっともらしさ、実現可能性」についてベタに(?)語り、「ゼマンティク的なコード」としての機能を果たそうとすることは正当なことだというわけである。
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第1章 第4節 愛の無根拠―あるいは、愛を信じること/理論を信じること
第2章 ルーマンの「愛の歴史社会学」—「愛のゼマンティク」の来し方と行く末