第1章 第2節 コミュニケーション・メディアとしての愛の特質

 さて、コミュニケーション・メディアがそのようなものであり、そこに「貨幣、権力、愛、真理」がさしあたり数えられるとして、この中で「愛」の特質はいかに規定できるだろうか。ルーマンは三つの視点を提供している。順に見ていこう。以下、第一項でコミュニケーション・メディアの把握を精密化しつつ、機能分化社会としての近代における「愛」の場所を確定した上で、そのあとの三つの項で諸コミュニケーション・メディアの中で「愛」を特徴付ける三つのメルクマールを扱う。

2-1、コミュニケーション・メディア、機能分化、そして「愛」の場所

 コミュニケーション・メディアとは、「選択と同時に動機付けを遂行する」ものである。

 すなわち、一方が何かを選択した時に、同時に他方をその選択に動機付けるようなメカニズムである。これが「メディア=媒介者」であるとはどういうことだろうか。これはルーマンの「選択遂行の伝達と引き受け」2)LP, S.22. といった言葉遣いから理解できよう。

 一方が何かを選択するのだが、その「選択遂行」が他方に「伝達」され、他方によって「引き受け」られる。このような仕方での「選択遂行」の「運搬役」として、「コミュニケーション・メディア」は「メディア = 媒介者」なのである。

 ここでルーマンの基本的な世界観、といって悪ければ、その基本的な仮説としての機能分化仮説について触れておいても良いだろう3)LP, S.21-22. LU, S.25-27. 。結局、本稿で徐々に明らかにする通り、ルーマンの愛の歴史社会学はこの仮説に徹頭徹尾導かれ支えられ、また逆にこの仮説を確証するべく組織されているのである。このことの意味を私たちは徹底的に重く受け止めなければならない。

 さて、それはそれとして話を進めよう。「コミュニケーション・メディア」が必要なのは世界が複数の可能性を持つという意味で複雑だからであり、とすれば、世界が複雑になればなるほど、その中で各人の意向の一致を可能にする「コミュニケーション・メディア」への要求が高まるはずである。

 さて、これがまさしく近代の状況である。ルーマンの基本的仮説によれば、前近代は「階層分化社会」であり、各人は相異なる階層に属し、階層に埋め込まれた「道徳」が人々の行為を規定する。

 しかるに、世界の複雑化はメディアへの要求を高める。それに応じるために「貨幣、権力、愛、真理」といった各々別種の機能を持った諸メディアが台頭、ルーマン的な言葉でいえば、「分出(ausdifferenzieren)」し、各々が全体社会の中で部分システムを形成し、各々の仕方で「選択と同時に動機付けを遂行」し、そうすることで社会秩序を産出しているわけである。

 世界の複雑化がメディアの分化を必要とし、またメディアの分化はより複雑な世界を維持可能にする。この意味で近代は「機能分化社会」である。

 ここで「共生メカニズム」についても一言しておくべきだろう4)LU, S.44-45.。ルーマンの解するところ、ヨーロッパ前近代の「階層分化社会」において、「身体」は道徳と宗教の支配のなかで低い地位しか割り当てられておらず、(キリスト教的に表現すると)いわば「地上的な重荷」でしかなかった。

 ルーマン一流の解釈によれば、このような立場に置かれていた身体の価値上昇が可能になったのは、「機能分化社会」への移行のなかで、それを実現可能にする諸メディアをさらに下支えするものとして「身体」が「共生メカニズム」として役立ちうるようになったからである。

 「身体」はいまや「共生メカニズム」として社会的「媒介 = メディア」の機能、社会を可能にする機能を担うがゆえに、社会的に評価され得るようになる。ルーマンによれば、この連関は「身体」的なものの価値上昇とそういった「身体」の非媒介的-孤立的使用の非難がセットになっていることによって明らかなのである。

 すなわち、暴力に関して言えば、それは国家に独占されるべきであり、個人による暴力は禁止される。身体的欲求への満足に関して言えば、それは市場によって獲得されるべきで、個人による自給自足は非難される、セクシュアリティに関していえば、「性的自己満足(自慰)」は非難される、真理と知覚にかんして言えば、狂信主義は非難される…。

 ルーマンによれば、これらのことから読み取れるのは、身体が社会的媒介作用を担うメディアに奉仕する限りで肯定されているという事実である。

 さて、話を「愛」に戻そう。以上のように考えられた機能分化社会としての近代における「愛」の場所を特定するには、ルーマンの「人格性(Persönlichkeit)」ないし「個人性(Individualität)」についての考え方を見ておかなければならない5)LP, S.15-17.

 ルーマンの把握するところ個人が各々一つの階層に属し、いわばそこに埋没しきっていた「階層分化社会」においては、個人が自らを「人格性」ないし「個人性」、平たい言葉でいえば「個性」という観点から理解する余地はほとんどなかった。

 他方で「機能分化のもとでは、個人はもはや全体社会内部のたった一つの部分システムに根をおろすのではなく、社会的に場所のないものとして前提されなければならない」6)LP, S.16.。というのは、個人は複数の機能システムに所属するにもかかわらず、ある統一体である以上、そのような複数的な機能システムへの所属に先行して存在するものとして考えられなければならないからである。

 個人はこうして機能システムへの参与以前に存在するものとして自己を理解し、機能システムにおける「非人格的」な役割―例えば、日常的な消費の場面において、私と店員の間には、私は客であり店員は店員であるという「人格に関わらない = 非人格的な」役割の把握以上にはなんらのお互いに対する知識もない―に還元されない「人格性 = 個性」を持つものとして自らを把握する。そのような個性的な個人が諸機能システムにおいて非人格的な役割を引き受けるとされるのである。

 さて、いま非人格的な関係の例として消費の場面を引き合いに出したが、それに限らずいわゆる経済システムは少なくとも原理的には非人格的な関係の場所である。私は消費者としては貨幣を持っていればいいのであり、労働者としては仕事をこなす能力があればいいのであって、私という個人の個性はそこでは少なくとも原則としては考慮されない7)コンビニの店員に余計なことを話しかけたりすることの困難を想起しよう。売買に伴うまったく非人格的なコミュニケーション―「いらっしゃいませ!」「ファミチキください」「ありがとうございます!」等々―以上のコミュニケーションはそこではまったく「期待=予期」されていないのである。

 そして近代を特徴付けるのがとりわけ市場的な経済システムである限りで、確かに近代は非人格的な社会であるように見える。だが、ルーマンが『情熱としての愛』の議論を始めるのは、まさにこの把握―おそらく念頭に置かれているのはマルクス主義的な近代批判―の一面性を批判することによってである8)LP, S.13-14. ルーマンがここでマルクス主義を想定している可能性については、スカイプ通話でのある知人の示唆による。ここに記すことで感謝の表明に代えたい。

 曰く、経済システムは一つの部分システムでしかない。それは確かに非人格的かもしれないが、近代においては「いくつかの場合において、人格的・個人的(persönlich)関係をインテンシブ化し、各人が自分に最も固有なことだと考えているものの多くを、他者に伝達し、それが他者において確証されている(bestätigen)のを見出すという可能性」9)LP, S.13.も存立している。近代は「より多くの非人格的関係の可能性とよりインテンシブな人格的関係」10)LP, S.13.によって特徴付けられるというわけだ。

 ルーマンは近代における非人格的関係の「量的拡大」に人格的関係の「インテンシブ化」を並置しているわけだが、ここで「人格的・個人的関係」が「よりインテンシブ」であるとは何を言っているのだろうか。ルーマン自身の言葉を引いておこう。

[インテンシブ化とは、]言い換えれば、その内である人のより多くの個人的(individuell)で独特(einzigartig)な属性が有意義なものとなるような、あるいはもっと言うと、最終的には、個人としてのある人のすべての属性が原理的には有意義なものとなるような、そのような社会関係が可能になるということである[ここまでの強調は引用者による]。私たちはそのような関係を人間間の相互浸透(zwischenmenschliche Interpenetration)という概念によって特徴づけたいと思う。同じ意味で親密関係(Intimbeziehungen)という語も用いることができる。11)LP, S.14.

 つまり、インテンシブ化とは、関係を取り結ぶ相手が増えるという意味での(非人格的関係について起きたような)「量的拡大」ではなく、特定の相手との関係のうちで有意義となるような個人的属性が増大する、その意味で関係の密度が上がること、いわば関係の「質的深化」なのである。

 さて、ここで「親密性のコード化」という『情熱としての愛』の副題に思いを致すならば、結局、この引用の最後に出てきた「親密関係」―その厳密なルーマン的定義はのちに見るとして―を統べているコミュニケーション・メディアが「愛」であることはすでに明確だろう。

 そこにこそ近代における「愛」の場所がある。そのようなものとしての愛はどのようなメディア特性を持っているのだろうか。ルーマンが与えている三つのメルクマールを順に見ていこう。すなわち、「体験メディア」「個人性と具体性」「体験と行為の不均衡配分」である。これが続く三つの項に対応する。

2-2、「行為メディア」と「体験メディア」―貨幣や権力との差異

 ルーマンはメディアを、貨幣や権力が属する「行為メディア」と、真理や愛が属する「体験メディア」に区分する。「コミュニケーション・メディアは伝達された意味が体験に関係づけられるか行為に関係づけられるかで区別できる。体験とはその選択性が世界自身に帰せられる意味処理であり、行為とはその選択性が行為者自身に帰せられる意味処理である」12)LU, S.14.

 メディアを通じて受け手には「選択」、つまり―これこそが「選択」の定義だが―他でもありうると観念される一つの意味が伝達されてくる。貨幣や権力の場合、その選択は他者によるものと見なされ、またそれを受け入れるかどうかも私の選択による。選択は行為者、すなわち人に帰せられる。

 他方で愛や真理の場合、端的に世界そのものがその選択に従って見えるようになる、いわば書き換わるのであり、狭義の、私たちが普通言う意味での「選択」としては経験されない。このことを私のお気に入りの事例、ラーメン事例で説明してみよう。

 私はさしあたりラーメンが食べたくない。私にラーメンを食べさせるためには様々な手段がある。例えば奢ってくれるというなら私はラーメンに行くことに合意するだろうし(貨幣)、あるいはスタンガンを押し付けられればラーメンを嫌々ながらも啜るだろう(権力13)これは「権力」というよりも、剥き出しの「暴力」というべきかもしれない。「ラーメンを食べなかったらクビだ!」という脅しの方がいい例だろうか。)。私は貨幣や権力を背景として提示された他者の選択を受容することを選択したのである。

 だが、このとき私がラーメンを本当に食べたくなかったのだとすれば、ラーメンはやはり美味しくないだろう。この点、「愛」と「真理」については事情が異なる。さて、ここで私が愛している人がラーメンを食べたがっているならば、私もラーメンを端的に食べたくなるのだし、私はラーメンを美味しく感じるのである14)この意味でなら「愛は最高の調味料」といった現代にも生きる「常套句(=愛のゼマンティク)」も完全な正当性を持っているように思われる。つまり、私が料理に愛を注ぎ込むからというよりも、私が愛されているから私の料理は愛している者にとって美味しくなるという意味で、「愛は最高の調味料」なのである。。そのように世界が書き換わり、私はそれを端的に「体験」する。

 真理の場合も同様である。ありそうにない事例だが―そしてそのことは次項で明らかになるようにどうでもいいことではないのだが―もし私が「ラーメンは世界一美味しい食べ物である」ということを真理として受容するなら、私は世界をそのように、つまり、ラーメンは美味しいと「体験」するはずなのである。

 ルーマン自身の言葉を引いておこう。「愛はまずもって体験を色付けるのであり、そうすることで体験と行為の地平としての世界を、世界というものに固有である全体性とともに変容させる。愛はある種の事物、出来事、人々、コミュニケーションに特別な説得力を与える。ようやくその後に愛は行為へと動機づける(…)」15)LU, S.18.。愛も人を「行為」へ導くが、それは「体験」の変容を媒介にしてなのである。

2-3、「普遍性」VS.「個人性/具体性」―真理との差異から「二重化された意味確証」へ

 では、愛は真理とどう違うのだろうか。ルーマンはそれを「普遍性」と「個人性」の差異として把握する。愛にせよ、真理にせよ、それは何らかの選択を私たちに伝達し、しかも、それは世界そのものがその選択に従って見えるようになるという仕方で、私たちの体験を変容させる。

 異なるのは、真理においては「個(人)性」が全く考慮されない、というより、その排除が構成的条件ですらあることである。

 ルーマン曰く、「真理の場合であれば、「理性的な人間のサークルから排除されたくなければ、誰でも伝達された意味を受け入れなければならない」というコミュニケーション条件が妥当する」[強調は引用者]16)LU, S.18.。つまり、真理は宛先を限定しない。それは万人に妥当するものとして提示される。そこでは「個人の固有のあり方は何の役割も果たさない」17)LU, S.18.

 付言すれば、真理に関しては、その真理を提示し、いわば選択を行った発信者の個性が真理の内容の正当性に関して意味を持たないことも論をまたないだろう。真理は個性に歪められていてはならない。

 愛はどうか。この点に関してはルーマンの言葉を引用するだけで十分だろう。

このような真理概念とは異なり、愛は、「体験する人間の個人性が中立化されず、それどころかまさに縮減の準拠点とされる18)「縮減」とは複雑性の縮減であり、ここでは複数の可能性を一つに限定することを意味する。」という反対の条件のもとで作動する。(…)私の愛する人がこの風景を、この人々を、会話のこのテーマを、住むことのこのあり方を、食事のこのスタイルを好むがゆえに、私にとってもそれらのうちに他の諸可能性よりも多くの意味が存在するのである。愛には真理のような普遍性条件が欠けているが、だからこそ愛はより具体的な近世界を確証することができる。愛は万人に等しく通用する意味に限定されておらず、もはや誰にでもは伝達されえず、ただ愛し合うものたちだけに通用するより狭い選択を行うのである。19)LU, S.19.

 愛が私たちにある選択の引き受けを動機づけるのは、その選択が真理のように普遍妥当性を確保する何らかの手続きを経たからではない。それは単に私たちの愛する人がそれを選んでいるというだけの理由によるのであり、また私たちがそれを受容するのは私たちが「愛する者」である限りなのであって、「理性的人間」である限りにおいてではない。

 このような普遍性の抹消によって、ルーマンが言うように愛は「具体的な近世界を確証することができる」。

 すなわち、もう一度ラーメン事例に回帰するならば、今日の昼食、一緒に何を食べるかといった日常的具体的な諸々の選択の問題は、先にありそうもないこととして見たように、「真理」によっては解決されないのに、「愛」によってなら容易に解決される、つまり、合意される、あるいはもっとルーマン的に言えば、愛される者の選択に愛する者が動機付けられることを通じて、愛される者の選択が「確証(bestätigen)」されるのである。

 当然のことだが、ここで一言付記しておけば、すでに成立している親密関係においては、両者が絶えず「愛している者」と「愛されている者」という役割を交代させ、相互に選択を発し、またそれに応答し合う、つまり、確証し合うということになる。

 さて、かく愛による選択の確証は愛される者という個人に合わせて切り詰められており、しかも、私たちの日常の具体的な諸選択に関わる。ルーマンはここから重要な帰結を引き出す。すなわち、愛というメディアの「特別の機能」としての「二重化された意味確証」である。引用しよう。

愛は一人あるいは何人かの他者の個人的な自己理解や特殊な世界観への方向付けを通じて選択遂行を伝達するのである。[このこと、つまり]体験処理の具体性とそれが個人に合わせて切り詰められていることに、このメディアの特別の機能も依拠している。愛はある二重化された意味確証を媒介するのだ。すなわち、よく言われることだが、ひとは愛の中に自己自身の無条件的な確証、個人的なアイデンティティの無条件的な確証を見出すのである。ここにおいて、そしておそらくここにおいてのみ、ひとは自分が現にそうであるところのものとして受け入れられていると感じる――留保も期限もなく、地位への顧慮も功績への顧慮もなしに。ひとは他者の世界観のなかで自らがそうありたいと努めているものとして予期されているのを見出す。他者による予期が自分自身による予期と、つまり、自己投影と一致するのである。20)LU, S.21. それにしてもこの引用においてルーマンが愛の「特別な機能」なるものを述べ立てるに際して、それを一旦はwie oft bemerkt(=「よく言われることだが」)となにがしか引用的なものとして示すことで、自らをその論述から距離化しておきながら、次の文で、Hier und vielleicht nur hier(=「ここにおいて、そしておそらくここにおいてのみ」)とhierに余計な限定を付け加えることで、その距離はポーズに過ぎず、実は無であることを示してしまっているように見えるのはなかなか興味深い。「愛」についてルーマンが結局のところどう考えているのか、彼自身の「愛」への距離の問題はルーマンの「愛」をめぐる議論を読むに際して私たちを常に悩ませる問いであり、私たちはこの問題をたびたび扱うことになるだろう。もちろん、そこでは「私たち自身」の「愛」への距離も問われてくるのだが…。

 ルーマンは「二重化」の意味を全く説明していないのだが、私たちは文脈上、この言葉を、愛する者による愛される者の個別の選択の確証が、その確証が具体的で個人性に照準していることによって、愛される者にとって、自らの個人性全体、すなわち、「アイデンティティ」の確証としても感受されることを意味するのだと解することができよう。

 だが、この「二重化」へのシームレスな移行に私たちはある疑問を抱く。愛される者の立場に身を置いてみるとして、確かに私の具体的で個人的な選択が次々確証されるとはいえ、それが例えば私の明示的要求に限定されていたとしたら、それを私は私の「アイデンティティ」の確証として感受できるだろうか。

 私を愛する者と自称する者が、ラーメンが食べたい、12インチの新しいMacbookと5Kの27インチiMacが欲しい、越谷レイクタウンに行きたいといった私の明示的要求に唯々諾々と従ってくれるだけの時、私は何か虚しさを感じないだろうか。それはアイデンティティ、私の個人性の確証の経験とは程遠いのではないか。二重化は自明ではなく、そこには条件があるように見える。

 このような条件の問いへの答えになるような理論的契機は私たちがその論脈を追ってきた69年のLUの第1章には見当たらない。しかるに、この問いを胸に抱きつつ82年のLPの第2章に赴くなら、ルーマンはそれをこの問いへの答えとして提示しているわけではないにせよ、私たちはそこにこの問いへの答えとなるような理論的契機を見いだすことができる。こうして私たちはルーマンが提出する第三のメルクマールに移行する。

2-4、Alter erlebt, Ego handelt―愛の「悲劇性」としての行為と体験の不均衡配分

 82年にはルーマンはメディアについてまた別の視点からの類型学を展開している。メディアが媒介する選択を発する者をAlter、その選択を確証し、あるいは拒絶する者をEgoと呼ぶとすると、各メディアについて、AlterとEgoがそれぞれ行為するのか体験するのかに応じて四つの類型が生じる。

 その類型学においてルーマンは「愛」をAlter erlebt, Ego handeltとして、つまり「他者は体験し、私は行為する」として特徴づけるのである。

 さて、愛というメディアにおいてAlter、すなわち、選択を発するものは「愛されている者」であり、Ego、選択を確証したり拒絶したりするのは「愛している者」である。

 では、「愛されている者は体験し、愛している者は行為する」とはどういう意味なのだろうか。ここで少々長いルーマンの言葉、その書き方の晦渋さが私たちの心を惹きつける一節を引くことにしたい21)さて、ここでフィヒテへの言及や「世界企投」といったハイデガー風の語彙が気になる向きもあろうが、ルーマンが「愛のゼマンティク」の歴史においてドイツ観念論の伝統に与えている位置は第2章で取り扱う。

[愛されている]人は(フィヒテを読んでいない限り)自らの世界[への]関係を自身の行為として把握することはできない。人はその人が選択[、つまり、他でもありえたもの、他に多くの可能性があったもの]として経験するものの全てを、自身の行為として自分に帰着させることはできない。人は多くの選択を(…)世界自身の選択として認知する、[つまり、強くルーマン的な意味で「体験」する]のである。[他方で、愛されている者の]世界を確証する者の役割に追い込まれている、もう一方の人[、つまり、愛している者]は、反対に、「行為」しなければならない。というのは、その人はなぜある特定の見方を共有しないかを述べなければならないからである。(…)帰着の配分が不均衡になされているのだ。すなわち、[愛されている者の]極めて特異な諸選択を確証するべきであるところの愛している者は、[確証するのかしないかという]選択に直面しているために、行為しなければならない。他方で愛されている者はというと、[自らの特異な諸選択を世界自身の選択として]ただ体験しただけであり、自らの体験への[愛している者の]同一化を期待しただけである。一方は真剣に取り組まなければならないが、他方は(自身の世界企投に常にすでに拘束されていて)ただ投影しただけである。情報の流れ、すなわち、他者(愛されている者)から私(愛している者)への選択性伝達は、それゆえ、体験を行為に移し替える。愛の特殊性(あるいはこう言いたければ「悲劇性」)はこの不均衡のうちに、すなわち、体験に行為で答えなければならない、[他者が自らの世界企投に]すでに拘束されてあることに[私がその他者の世界企投へと]自己拘束することで答えなければならないという必然性のうちに、存しているのである。22)LP, S.26.

 私が愛されている者であるとしよう。私は、一時的なもの、単なる気分といったものも含め、沢山の趣味嗜好を持っている。例えば、今日の私は唐揚げでもうどんでもなくラーメンが食べたいが、これは複数想定しうる可能性の中の一つとして、特定の、選択的な、世界との関係である。

 そして、私はこれを何か私自身の選択としてよりも、単純に今日はどういうわけかラーメンが食べたいという仕方で、いわば世界自身の選択として「体験」する。そして愛してくれている者の合意を期待するのである。

 それに対して私を愛する者は、この私のラーメンへの選択を受け入れるか受け入れないかの選択の前に立たされ、受け入れるなら、例えば私に付き添うなり、あるいは近場の美味しいラーメン屋を探すなどの仕方で、また受け入れないなら、ラーメンを食べたくない、あるいは食べるべきでない理由―塩分過多など―を述べるという仕方で、いずれにせよ、行為しなければならない。ここには確かにある不均衡、何か労力の不均衡とでもいうべきものがある。

 だが、これだけではそれほど「悲劇的」には見えない。愛の悲劇性を十全に見るためにはルーマンの引き続く論述を見てみなければならない。この観点からルーマンの論述を整理すれば、この体験と行為との不均衡配分が持つ問題性に三つの視点から迫ることができるように思われる。すなわち、「縮減の不在と先取りのチャンス」「他者理解という難問」「行為者と観察者による帰着の齟齬」である。

2-4-1、縮減の不在と先取りのチャンス 23)LP, S.26-27.

 さて、ルーマンが引き続き述べるところ、愛される者は「体験」するだけであるということは、愛される者が必ずしも明示的要求を発するという「行為」をするわけではないということも含意している。

 愛される者の中には愛する者がそれに応じて行為を接続しうる「縮減」、つまり、私たちなりに定式化すれば、「多くの可能性の中から愛される者が一つの可能性を選択していること」がさしあたり目に見える形では存在しないかもしれないのだ。

 そういったものがあればこそ、私たちは他者の選択を確実に確証できるのにもかかわらず。だが、このことは同時に「先取りのチャンス」の存在を意味している。

 私たちは、他者がなんらかの希望を要求の「行為」によって明示的に表明していなくても、それどころか他者が自らの希望をそれとして意識すらしていなくても、他者についての理解に基づいて結果的に他者の希望に適うように行為すること、他者を喜ばせることが可能なのである。これをルーマンは要求という他者の「行為」にではなく、他者の「体験」に応答することと呼んでいる。世に言う、「察する」ということである。

 一つ注釈を入れておこう。私たちは以後「先取り」ということについて、他者が具体的な要望を発していなくても他者の選択に合致すること、つまり、他者が喜ぶことを為すことを範型にして論じていくが、もちろん、現実的には他者が何を嫌いなのかをはっきり表明していなくても他者が嫌がることをしないという意味での「先取り」も同様に、あるいは一層、重要である。以後私たちが「先取り」や「理解」というとき、この否定的な事例も共に考え入れられている。

 さて、話を進めよう。前項で私たちが立てた問い、「二重化の条件」への問いの答えを私たちはこの「先取りのチャンス」に求めたく思う。この着想は突拍子のないものではないだろう。

 個々の私の選択の確証が私のアイデンティティ、私の個人性への確証に二重化されるためには、愛していると自称している者が私の明示的な要求に応えてくれるだけでは足りない。他者が私の要求の表出に先立って、あるいはそれどころか私の意識に先立って、先取り的に私の(潜在的)選択を確証してくれたとき、私は他者が私を「理解」してくれていると感じ、そこに私のアイデンティティの確証を見出す、あるいは少なくとも見出すことがありうるのである。

 ところで、愛を厳密にルーマン的に、すなわち、コミュニケーション・メディアとして、愛されている者の選択を愛する者に伝達する媒介者として理解するならば、このような先取り的な選択の確証だけが、メディアとしての愛の作動を卓越した仕方で示すものとして、十全な意味で「愛の証明」となるのだと言えるだろう。

 以上のことは現代における「愛のゼマンティク」において「サプライズ」なる契機に与えられている意義からも読み取ることができるかもしれない。「サプライズ」とは「先取り性」そのものの純粋表現であるように思われる。

 ところで、先日あるテレビ番組を見ていたところ、海外の事例として「ドライブ中に見える立て看板にプロポーズの言葉を載せておく」という「サプライズ」の失敗のエピソードが紹介されていた。プロポーズをされた女性はその立て看板を見て「誰だか知らないけどセンスがないわね」と言ってしまったのである。その後、それがまさに自分に向けられた「彼」の所業であることに気づき、泣いて謝るのだが、時すでに遅し、気まずさは拭えない。

 もちろん、「彼」がこんなことをしたのは、ルーマンの言葉で言えば「他者の(行為ではなく)体験に行為で応答しなければならない」と思っていたからなのだが、それがこのような悲劇的な結末に至ったのは、彼が彼女の「センス」感覚を読み誤っていた、彼女を―このことの困難が次項の問題だが―「理解」しきれていなかったからである。

 かくして、この事例は厳密にルーマンが言う意味での「愛」の「特殊性 = 悲劇性」の極めて印象深い表現である24)ちなみに付言しておけば、二人は結婚には至っていないものの、完全な破局は避けられたようである。

 さて、それはそれとして、このように「先取りのチャンス」に重きを置く解釈は、ルーマンがルーマンの時代における愛のゼマンティクの行方を論じるLPの第15章において、かつての「情熱」に変わる愛の原理―「情熱」が歴史的に持っていた位置価については第2章で論じる―として「愛する者自身がその愛の源泉である」ことを掲げていることによっても支持される25)LP, S.208-210.

 ルーマンに言わせると、現代において「人が愛として求めるもの、人が親密関係に求めるものは(…)まずもって自己描出の妥当性の承認(Validierung der Selbstdarstellung)」、つまり、LUではアイデンティティの確証と呼ばれていたものなのだが、そこにおいて「愛のゼマンティク」の歴史のうちで重要な役割を担った「情熱」は役立たずとなり、それに代わって「愛する者自身がその愛の源泉である」という原理が採用されなければならない。その意味するところは何か。

この意味で自発性が表現されなければならないのである。愛は問い合わせがあって初めて認識されうるようなものであってはならない。愛は、義務や単なる融和的な態度として現れないためには、[愛される者による具体的な]一切の頼みや問いに先行しなければならない。愛は[愛される者によって]引き起こされるようであってはならない。愛は反応的(reactiv)にではなく、[いわば]先応的(proactiv)に行為しなければならないのであって、そうすることでのみ、愛は愛される者の行為のみならず、その体験、その世界への立場取りに応答しうるのである。26)LP, S.209-210.

 このルーマンの論じ方、「自己描出の妥当性の承認」と「愛する者自身がその愛の源泉である」=「先取り」を固く結びつけるルーマンの論じ方を考慮するならば、私たちが個別具体的な意味確証のアイデンティティの確証への二重化の条件として「先取り」を位置付けたことは完全に正当化されるだろう。

 だが、もちろん、この「先取り」の困難、それを可能にする「理解」の困難、本項の始めで使った言葉で言えば、行為を接続しうる「縮減」のさしあたりの不可視性にこそ、愛のある種の「悲劇性」が存している。こうして私たちは次項で「理解」の問題を扱うことになる。

2-4-2、他者理解という難問

 さて、愛する者は愛される者の明示的な要求を聞くだけでは足りない。ルーマンの言葉を使えば、それは「愛」を「義務」や「単なる融和的態度」にしてしまうし、私たちは愛される者の立場に身を置いて、そこに一種の虚しさを感受したのだった。

 かくして愛する者は他者の理解に基づいて、他者の明示的な要求に先立つ形で、その好むことを為し、またその忌むことを避けなければならない。愛する者は愛される者をいわば読まなければならない27)ここでふと用いた「読む」という言葉を真面目にとらえてみるのも面白いだろう。テクストは他者であり、他者はテクストである。私たちは「他者の行為のみならず体験に応答しなければならない」が、それをテクストに適用すれば、「単に書かれているものだけではなく行間を読まなければならない」ということになるだろう。この意味でルーマンのテクストが私たちに対して比較的に多くの「愛」を要求するものであることは確かであるように思われる。しかるに、私が思うには、テクストはそのぐらい難解であった方がいい。というのも、そういう時にのみ、私たちは「このひとを分かってあげられるのは私しかいない!」などと思える、あるいは思い込めるからであり、この点では私を含むある種の哲学研究者は、この理屈によってロクでもない男に引っかかる(らしい)女性に似ていると言えるかもしれない。。だが、この「理解」とはいかなるものであり、それはいかに困難なのだろうか。私たちが今まで追ってきたLPの第2章と第15章において、ルーマンはそれを三つの点に要約しているように思われる。

 (1)自らを自らでないものものから区別するもの、それが「システム」であり、そこで自らではないと区別されたものが「環境」である28)LP, S.27-28.。すると意識的存在としての個人も自らを自らでないものから区別するものとして心理システムということになる。この用語法を使ってルーマンは他者理解の困難を第一には以下のように定式化する。

 他者理解において、心理システムたる個人は自分とは別のシステムたる他者の、まさに環境との「関係」を観察しなければならない。他者は直接に観察できる。環境も共有された世界としては直接に観察できる。しかし、他者の環境への「関係」、「他者」が世界をどう経験しているかということは直接には観察できず、ただ「推測」できるだけである。ここに困難がある。だが、それだけではない。

さらに観察者自身も(少なくとも愛が問題であるときは)、他者の環境の部分、しばしば重要な部分なのである。それゆえ観察者は自らのシステム限界にぶつかるだけではなく、いわば世界のうちで不可避的な自分自身への自己参照にぶつかるのである。29)LP, S.28.

 私たちは別のシステムの環境への関係という直接には観察し得ないものを見なければならないだけではなく、別のシステムの環境のうちに自らを見なければならない。これがなぜ困難なのだろうか。

 ルーマンは何も説明していないが、私たちはまず一般に他人が自分について本当のところどう思っているかに向き合うのが非常に難しいことに思いを致すことができる。

 例えば、普段それなりによく話すが自分について何か率直な意見を直接ぶつけられたことのないAさんがいるとして、共通の知人のBさんに「Aさんがあなたのことについていろいろ言っていたよ…」などと言われたら、それは私たちを一瞬ぎょっとさせる力を持つのだ。

 ルーマンも別の箇所、きわめて重要な問題、すなわち、「情熱という愛の文化的な定義が愛を事象的に適切に叙述しているのかという疑い」30)LU, S.62.を提示する箇所で、この方向を指し示している。

 すなわち、「情熱的に愛する者にとって自らが愛し返されていないということを認識し受け入れることは極めて難しい(…)。しかし、まさにこの姿勢はほとんどあらかじめ定められているかのように、他者の現実の体験を取り逃がし、学習能力を欠き、そうして誤解を引き起こすということを帰結する」31)LU, S.62-63.

 つまり、上の他者の内での自己参照という一般的困難は愛の場面において通常よりも深刻に作用する。私たちにとって愛する相手の私たち自身への評価はあまりに重要であるために、それに適切に向き合うことは困難なのだ。
 
 その結果、ある場合には途方もなく不合理に「(明らかに嫌われているのに)まだ可能性はある」などとポジティブに考えるかと思うと、またある場合には―ルーマンが言っていないことを付け加えると―「相手は自分のことが好きではないのではないか」「もううまくいかないのではないか」と際限なくネガティブに不安になる。

 いずれにせよ、他者の現実の体験はとり逃され、理解が暗くなり、「学習能力」の欠如、いわゆる「独りよがり」を帰結することになる32)ルーマンは「情熱という愛の文化的な定義が愛を事象的に適切に叙述しているのかという疑い」を提示することで、「情熱」という解釈が、コミュニケーション・メディアとして「理解」を本質とする「愛」にとって本当によいものであるのかどうかという問題提起をLUでおこなっているわけだが、その13年後のLPの最終段落は、この問題に明確な答えを出している。すなわち、「情熱や過剰という意味契機は放棄することができる」(LP, S.222)。私たちもこれに賛成である。もちろん、「情熱」的で「過剰」であること自体は結構なことではあろうが、少なくとも、それは他者の現実の体験を取り逃さない程度でなければならないし、そのことの困難を考えた時、「情熱」や「過剰」は放棄されるべきに思われるのである。それにしても、ルーマンが「愛」をコミュニケーション・メディアとして捉えるが故に、「愛」の本質を「選択遂行の伝達」を実質的に可能にするものである「理解」のうちに見るとして、他方で「愛」が歴史的現実的に「情熱」と見なされているとすれば、少々気のきいた表現を試みるなら、「愛」をめぐる最終的な問題は、「愛」が、カント風の用語でいえば、「精神の能動性(理解 = 悟性)」と「精神の受動性(情熱 = 感性)」の間で引き裂かれていることのうちに見いだされなければならないことになるだろう。

 (2)第二は情報の問題である33)LP, S.28.。のちに詳述するように、ルーマンによれば、情報はある基本的な差異図式に照らしてはじめて情報となる。

 愛のゼマンティクの歴史において重要な意味をもった「真の愛/偽の愛」という差異を例に考えてみよう。これは主要には女性が男性の振る舞いを読み解くための差異図式だが、ここで例えばある女性が青いバラは真の愛を表すが、赤いバラは偽の愛を表すといった「真の愛/偽の愛」の差異図式とそれに特定の事態を割り振るコードを持っていたとしよう。

 このような差異図式とコード以前には、青いバラと赤いバラとの事実的差異は何の意味も持たなかった。つまり、そこには何らの情報価値もなかった。ただ、このような差異図式とコードがあるときには、事態は一変する。

 愛する者は、適切に行為するために、すなわち、今回の例でいえば、青いバラを渡すために、愛される者が情報処理のための使用している以上のような差異図式とコードを適切に読み解かなければならないのだが34)先に触れたサプライズの失敗の事例でいえば、プロポーズされた女性は「プロポーズ」につき、そして恐らくは一般にも、「センスがある/センスがない」という差異図式によって諸事実を情報化しており、「ドライブ中の立て看板でプロポーズ」は「センスがない」に割り振られていたのだ。そしてプロポーズした男性は本来、このことを読み取っておくべきだった―果たして、そんなことが可能なのだろうか?、当然、これは直接に観察できない。

 観察できるのは他者へのインプットと他者のアウトプットのみであり、そこから他者が情報処理に用いている差異図式とコードが推論されなければならない。

 (3)第三はルーマンが「自己描出のための諸必要物と、そのために内的に用いられている簡略化」35)LP, S.213.と呼ぶものの理解である。

 ルーマンはこの言葉の意味についてほとんど説明していないが、私たちとしては、これを他者が事実的にどう世界と関わっているかに関係する(1)と(2)とは別の、他者の自己了解の理解の必然性を指し示すものとして読むことができよう。

 他者は自らについて一定の見解、自己像、自己描出を持っており、そのために様々な要素、例えば、出自や経歴や職業や趣味や人生における諸々の出来事を「必要」としている。それらの物語的な編み合わせが他者の自己理解を構築しているのだ。

 そしてその自己像は他者の事実的な全体に引き比べたとき、必然的に「簡略化」されたものである。この二つの、これまた目には見えないものを読み取ることで、愛する者は愛される者の「自己描出の妥当性の承認」を行わなければならないというわけである。

 こうしてルーマンは他者の理解の困難さの諸契機を列挙する。愛する者は愛される者にある場合には先んじなければならないが、そのことを可能にするはずの「理解」は幾つもの見えないもの―それこそ、おそらく、「愛がなければ、視えない」もの―を見とおさなければならないのであって、それは「ほぼ不可能(Quasi-Unmöglichkeit)」36)LP, S.213.なのである。

2-4-3、行為者と観察者による帰着の齟齬

 さて、私たちは前二項で愛の関係における「先取り」の重要性を明らかにした上で、それを可能にする「理解」の困難をあげつらったわけだが、ルーマンによる愛の困難、その「悲劇性」の列挙はまだ続く。それが「愛する者は行為しなければならず、愛される者は体験するだけでいい」という差異と連関する事態、すなわち、行為の原因の帰着に関して「行為者(愛する者)」と「観察者(愛される者)」の間に存在する齟齬である37)LP, S.42-45.

 この事態をルーマンは「婚姻は天で結ばれ、車の中でバラバラになる」という言葉によって象徴させる。

 すなわち、運転をしている能動的な「行為者」は自らの少々荒い運転の原因を「状況」に帰着させる傾向にあるのだが(「前の車が急ブレーキを踏んだんだ!」)、助手席に座って行為者の行為を見ている受動的な「観察者」はそれを行為者の「人格」、例えば、そこにおける「思いやり」の不在、ひいては「愛」の不在に帰着させる傾向にあるのである(「このひとは思いやりがない!」「このひとは私を大切に思っていない!」)。

 この帰着の傾向にある違い、「状況」か「行為者の性質」かの違いは、行為者と観察者という立場の違い一般に通用するものだが、愛の関係では、観察者はさらに愛のしるしを求めており、行為者はより厳しい条件にさらされる。

 ルーマンの整理によれば、行為者は自らの愛を示すために普段の自分を超え出ているという「意味の剰余」を生産しうる行為―要するに普段より頑張るという意味で「カッコつける」こと、普段とは違う「特別」を演出すること38)この言い換えはある知人の示唆による。ここに記して感謝の表明の代わりとしたい。―をしつづけなければならず、しかも、その行為に十全に同一化しているものとして自らを提示しなければならない。すなわち、自らを愛の中で高まりゆくアイデンティティにおいて提示しなければならない。

 ここで行為者と観察者の齟齬一般は、観察者がこのような困難な愛のしるしを求めることによって、より危機的なものとなるわけだ。愛のしるしを求め、さらに一切を行為者の性質に帰着させる傾向にある観察者にとって、行為者の行為に見られるあらゆる瑕疵が行為者の人格的欠陥や愛の欠如を示唆するのである。

 ルーマンが述べていることを敷衍してさらに言えば、観察者が見ることができないのは、行為者の振る舞いの規定要因として「状況」も大きな役割を果たしていること、その「状況」の中の最大の要素の一つが他ならぬ観察者自身であることであり、観察者はそのことを見ないことで、行為者の行為にある何らかの瑕疵について、行為者の「人格批判」を遂行できるのである39)ここでフロイトの女性論との関連を考えてみるのも面白いかもしれない。フロイトの女性論の「答え」が「ペニス羨望」の理論を中心にしていることはよく知られている。このいかがわしい「答え」は脇に置きつつ、私たちはその「問い」を評価することができる。以前に私のフロイト論で明らかにしたことだが、フロイトの女性論の出発点は、フロイトからすれば順調であり、まさに解明のクライマックスを迎えつつあった分析治療を突然に打ち切ったドーラの「否」、つまりドーラの分析に対する「同行の拒否」という外傷的経験、一般的に言い換えれば、女性が持っている、男性には唐突に感じられる拒絶、いわば「爆発力」ないし「切断力」である。症例論ににおいて、「ドーラの「否」は彼女の父やK氏への憎しみがフロイトに「転移」されたものだったのだが、それを伝え損ねたのが失敗であった」とか、「ドーラの無意識の根底には同性愛的欲望があり、それを見損なったために失敗した」云々と書きつけるフロイトは、去っていった女性について、もはや宛先のない思考を積み重ねる未練たらしい男の姿を純粋に体現している。さて、このような突然の切断の「なぜ」の「問い」をフロイトは最終的に「ペニス羨望」の二重の帰結―「父 = 男性」を去勢し返し、男性になろうとする「男性性コンプレクス」と、「父 = 男性」に「ペニス = 子供」をもらう「正常」な女性性―の重ね合わせとしてのヒステリーの構造に女性性の本質を見定めることで解決したと言えるだろう。男性に対して好意的な「正常」な女性性の下に抑圧された、反男性的な「男性性コンプレクス」がしばしばヒステリックに爆発するというわけだ。
 さて、ここでルーマンと接続するならば、フロイトが経験した類の外傷的体験のフロイト流の心理学的解決ではない、社会学的解決を、私たちはルーマンの以上の理論的規定のうちに見定めることができるだろう。ルーマンの言っていることを敷衍しておこう。「愛される者」にして「観察者」である「女性」は「体験」するだけであり、様々な「選択 = 選好」を持ちつつも、多くの場合において自分からは動かず、その「選択 = 選好」を表明することもあまりない。全ては「愛する者」にして「行為者」である「男性」に委ねられ、「男性」は「女性」の(潜在的)選択を確証することを求められる。ここで問題は「観察者」が「行為者」の行為につき、それが状況の中、もっと特定的に言えば、「観察者」自身との関係のうちにしかないにも関わらず、一切を「行為者」の「人格」に帰着させがちなことである。そして、「女性」はしばしば自らの意向を表明するのが苦手なため―これはルーマンが「愛する者は愛される者の「行為 = 明示的要求」ではなく体験に応答しなければならない」ということで考慮に入れているものである―、「観察者」として持ち前の批評眼による不満をその都度表明せずに、いわば溜め込み、ある限界点においてそれを爆発させる。この事態は本当のところ「観察者」が自らの意向や不満を表明しないまま「行為者」に従ってしまうといった「関係」そのものに由来する側面があるにもかかわらず、上に述べてきた「観察者」の視線の偏りにより、しばしば「関係」の一方当事者に過ぎない「行為者」たる「男性」に対する「人格批判」として遂行されるのである。このことが、男性には、今まで明示的な不満の表明がなかったために唐突に感じられ、女性の特異な「爆発力/切断力」、女性性の謎、フロイトの名文句を転用すれば、ある種の「暗黒大陸(Dark Continent)」として感受されるのだし、しばしば不条理なこととして解釈されるである。結局、このことが「愛」の「悲劇性」としての「行為」と「体験」の不均衡配分が言わんとすることである。

 もちろん、行為者にとってこの種の批判は時には受け入れがたいものだが、それを受け入れないことはしばしば二人の間の更なる対立を帰結するのである。さらに言えば、観察者による、行為者の瑕疵の行為者の「人格」への帰着は、観察者における行為者の人格に対する見限りを帰結し、しばしば関係の終わりの原因となるのだ。

 もちろん、前段落の議論から行為者と観察者の齟齬といった複雑な理論的文脈を取り除いて、こう一般的に言うこともできるだろう。すなわち、親密関係における対立の多さは、お互いに対する期待が高いが故に期待はずれが起きやすいことに起因する、と。もちろん、ここで期待とは「確証」への期待、「私のことをわかってくれる」「私の意向に沿ってくれる」ことへの期待以外の何ものでもないのだが。この点については後にまた取り扱うことになる。

2-4-4、ルーマンにおける「愛の悲劇性」の総括

 こうしてルーマン的な愛の困難、その「ほぼ不可能」性、その「悲劇性」が明らかになってきたように思われる。まとめよう。

 「愛」は「愛される者」の「選択遂行」を「愛する者」へと「伝達」し、「愛する者」を「愛される者」の選択を確証することへと「動機」づけるコミュニケーション・メディアである。言い換えれば、「愛する者」は「愛される者」の選択を確証しなければならない。

 だが、その選択は明示的な要求の行為として現れているとは限らない。だから「愛する者」は「愛される者」を理解し、いわばその潜在的意向を「察し」て、先取り的に選択を確証しなければならない。「愛する者」は「愛される者」の「(明示的要求という)行為」にではなく、むしろ、「体験」に応答しなければならないのだ。

 だが、この他者の「理解」には様々な原理的困難がある。問題はそれだけではない。「愛する者」は「愛される者」の選択を確証しようと、簡単に言えば、「愛される者」を喜ばそうと、様々に能動的に「行為」するのだが、これを受動的に「観察」する「愛される者」は、非常に厳しい採点基準を持っているのみならず、「行為」する「愛する者」の瑕疵を、それはしばしば「愛される者」自身を含む「状況」にも規定されているにもかかわらず、「行為者」の人格に帰着させがちなのである。

 もちろん、このことは「行為者」と「観察者」の対立を帰結するのみならず、しばしば、「行為者の人格」への見限りを通じて、関係の終わりを帰結してしまうのである。

 しかるに、このような「不可能性」や「悲劇性」の強調はある意味でルーマンのいわばレトリカルな戦略とも言えるかもしれない。

 というのは、ルーマンはここである決め台詞を吐くからである。「このありそうもないことをここでやはり可能にすること、それがコミュニケーション・メディアとしての愛の機能である」40)LP, S.28.。このことがいかにして可能なのか、そして本当に可能なのかどうか、私たちは次節で見ていくことにしよう。

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第1章 第1節 コミュニケーション・メディアとは何か
第1章 第3節 愛の成立・安定・危機

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1, 23. LP, S.26-27.
2. LP, S.22.
3. LP, S.21-22. LU, S.25-27.
4. LU, S.44-45.
5. LP, S.15-17.
6. LP, S.16.
7. コンビニの店員に余計なことを話しかけたりすることの困難を想起しよう。売買に伴うまったく非人格的なコミュニケーション―「いらっしゃいませ!」「ファミチキください」「ありがとうございます!」等々―以上のコミュニケーションはそこではまったく「期待=予期」されていないのである。
8. LP, S.13-14. ルーマンがここでマルクス主義を想定している可能性については、スカイプ通話でのある知人の示唆による。ここに記すことで感謝の表明に代えたい。
9, 10. LP, S.13.
11. LP, S.14.
12. LU, S.14.
13. これは「権力」というよりも、剥き出しの「暴力」というべきかもしれない。「ラーメンを食べなかったらクビだ!」という脅しの方がいい例だろうか。
14. この意味でなら「愛は最高の調味料」といった現代にも生きる「常套句(=愛のゼマンティク)」も完全な正当性を持っているように思われる。つまり、私が料理に愛を注ぎ込むからというよりも、私が愛されているから私の料理は愛している者にとって美味しくなるという意味で、「愛は最高の調味料」なのである。
15, 16, 17. LU, S.18.
18. 「縮減」とは複雑性の縮減であり、ここでは複数の可能性を一つに限定することを意味する。
19. LU, S.19.
20. LU, S.21. それにしてもこの引用においてルーマンが愛の「特別な機能」なるものを述べ立てるに際して、それを一旦はwie oft bemerkt(=「よく言われることだが」)となにがしか引用的なものとして示すことで、自らをその論述から距離化しておきながら、次の文で、Hier und vielleicht nur hier(=「ここにおいて、そしておそらくここにおいてのみ」)とhierに余計な限定を付け加えることで、その距離はポーズに過ぎず、実は無であることを示してしまっているように見えるのはなかなか興味深い。「愛」についてルーマンが結局のところどう考えているのか、彼自身の「愛」への距離の問題はルーマンの「愛」をめぐる議論を読むに際して私たちを常に悩ませる問いであり、私たちはこの問題をたびたび扱うことになるだろう。もちろん、そこでは「私たち自身」の「愛」への距離も問われてくるのだが…。
21. さて、ここでフィヒテへの言及や「世界企投」といったハイデガー風の語彙が気になる向きもあろうが、ルーマンが「愛のゼマンティク」の歴史においてドイツ観念論の伝統に与えている位置は第2章で取り扱う。
22. LP, S.26.
24. ちなみに付言しておけば、二人は結婚には至っていないものの、完全な破局は避けられたようである。
25. LP, S.208-210.
26. LP, S.209-210.
27. ここでふと用いた「読む」という言葉を真面目にとらえてみるのも面白いだろう。テクストは他者であり、他者はテクストである。私たちは「他者の行為のみならず体験に応答しなければならない」が、それをテクストに適用すれば、「単に書かれているものだけではなく行間を読まなければならない」ということになるだろう。この意味でルーマンのテクストが私たちに対して比較的に多くの「愛」を要求するものであることは確かであるように思われる。しかるに、私が思うには、テクストはそのぐらい難解であった方がいい。というのも、そういう時にのみ、私たちは「このひとを分かってあげられるのは私しかいない!」などと思える、あるいは思い込めるからであり、この点では私を含むある種の哲学研究者は、この理屈によってロクでもない男に引っかかる(らしい)女性に似ていると言えるかもしれない。
28. LP, S.27-28.
29, 33, 40. LP, S.28.
30. LU, S.62.
31. LU, S.62-63.
32. ルーマンは「情熱という愛の文化的な定義が愛を事象的に適切に叙述しているのかという疑い」を提示することで、「情熱」という解釈が、コミュニケーション・メディアとして「理解」を本質とする「愛」にとって本当によいものであるのかどうかという問題提起をLUでおこなっているわけだが、その13年後のLPの最終段落は、この問題に明確な答えを出している。すなわち、「情熱や過剰という意味契機は放棄することができる」(LP, S.222)。私たちもこれに賛成である。もちろん、「情熱」的で「過剰」であること自体は結構なことではあろうが、少なくとも、それは他者の現実の体験を取り逃さない程度でなければならないし、そのことの困難を考えた時、「情熱」や「過剰」は放棄されるべきに思われるのである。それにしても、ルーマンが「愛」をコミュニケーション・メディアとして捉えるが故に、「愛」の本質を「選択遂行の伝達」を実質的に可能にするものである「理解」のうちに見るとして、他方で「愛」が歴史的現実的に「情熱」と見なされているとすれば、少々気のきいた表現を試みるなら、「愛」をめぐる最終的な問題は、「愛」が、カント風の用語でいえば、「精神の能動性(理解 = 悟性)」と「精神の受動性(情熱 = 感性)」の間で引き裂かれていることのうちに見いだされなければならないことになるだろう。
34. 先に触れたサプライズの失敗の事例でいえば、プロポーズされた女性は「プロポーズ」につき、そして恐らくは一般にも、「センスがある/センスがない」という差異図式によって諸事実を情報化しており、「ドライブ中の立て看板でプロポーズ」は「センスがない」に割り振られていたのだ。そしてプロポーズした男性は本来、このことを読み取っておくべきだった―果たして、そんなことが可能なのだろうか?
35, 36. LP, S.213.
37. LP, S.42-45.
38. この言い換えはある知人の示唆による。ここに記して感謝の表明の代わりとしたい。
39. ここでフロイトの女性論との関連を考えてみるのも面白いかもしれない。フロイトの女性論の「答え」が「ペニス羨望」の理論を中心にしていることはよく知られている。このいかがわしい「答え」は脇に置きつつ、私たちはその「問い」を評価することができる。以前に私のフロイト論で明らかにしたことだが、フロイトの女性論の出発点は、フロイトからすれば順調であり、まさに解明のクライマックスを迎えつつあった分析治療を突然に打ち切ったドーラの「否」、つまりドーラの分析に対する「同行の拒否」という外傷的経験、一般的に言い換えれば、女性が持っている、男性には唐突に感じられる拒絶、いわば「爆発力」ないし「切断力」である。症例論ににおいて、「ドーラの「否」は彼女の父やK氏への憎しみがフロイトに「転移」されたものだったのだが、それを伝え損ねたのが失敗であった」とか、「ドーラの無意識の根底には同性愛的欲望があり、それを見損なったために失敗した」云々と書きつけるフロイトは、去っていった女性について、もはや宛先のない思考を積み重ねる未練たらしい男の姿を純粋に体現している。さて、このような突然の切断の「なぜ」の「問い」をフロイトは最終的に「ペニス羨望」の二重の帰結―「父 = 男性」を去勢し返し、男性になろうとする「男性性コンプレクス」と、「父 = 男性」に「ペニス = 子供」をもらう「正常」な女性性―の重ね合わせとしてのヒステリーの構造に女性性の本質を見定めることで解決したと言えるだろう。男性に対して好意的な「正常」な女性性の下に抑圧された、反男性的な「男性性コンプレクス」がしばしばヒステリックに爆発するというわけだ。
 さて、ここでルーマンと接続するならば、フロイトが経験した類の外傷的体験のフロイト流の心理学的解決ではない、社会学的解決を、私たちはルーマンの以上の理論的規定のうちに見定めることができるだろう。ルーマンの言っていることを敷衍しておこう。「愛される者」にして「観察者」である「女性」は「体験」するだけであり、様々な「選択 = 選好」を持ちつつも、多くの場合において自分からは動かず、その「選択 = 選好」を表明することもあまりない。全ては「愛する者」にして「行為者」である「男性」に委ねられ、「男性」は「女性」の(潜在的)選択を確証することを求められる。ここで問題は「観察者」が「行為者」の行為につき、それが状況の中、もっと特定的に言えば、「観察者」自身との関係のうちにしかないにも関わらず、一切を「行為者」の「人格」に帰着させがちなことである。そして、「女性」はしばしば自らの意向を表明するのが苦手なため―これはルーマンが「愛する者は愛される者の「行為 = 明示的要求」ではなく体験に応答しなければならない」ということで考慮に入れているものである―、「観察者」として持ち前の批評眼による不満をその都度表明せずに、いわば溜め込み、ある限界点においてそれを爆発させる。この事態は本当のところ「観察者」が自らの意向や不満を表明しないまま「行為者」に従ってしまうといった「関係」そのものに由来する側面があるにもかかわらず、上に述べてきた「観察者」の視線の偏りにより、しばしば「関係」の一方当事者に過ぎない「行為者」たる「男性」に対する「人格批判」として遂行されるのである。このことが、男性には、今まで明示的な不満の表明がなかったために唐突に感じられ、女性の特異な「爆発力/切断力」、女性性の謎、フロイトの名文句を転用すれば、ある種の「暗黒大陸(Dark Continent)」として感受されるのだし、しばしば不条理なこととして解釈されるである。結局、このことが「愛」の「悲劇性」としての「行為」と「体験」の不均衡配分が言わんとすることである。
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