さて今回私たちはジジェクについてはさほど多くを書かなかったが、以上の全てにおいて、私たちとしては、ジジェクのために、ジジェクとともに、「現実的なもの/否定的なもの」へ向けて問うという私たちの基本的な立場に何か反したことをしたとは全く思っていない。
ただ、本冊子の中でこの点に関して何か問題があるとすれば、それはジジェクが”Conversations with Žižek”(『ジジェク自身によるジジェク』)のインタビューの中で言うところの「My deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style」に関わる問題だろう。
つまり、ハイデガー的な仕方で、例えば「存在」という風に〈もの〉、つまり欲望の究極の原因を同定し、それに対してpatheticな、要するに感傷的でベタな語り口で語るというスタイルの問題である。ジジェクの弁によれば、彼がハリウッド映画の例や下品なジョークをしばしば用いるのは、この種の語りを生み出す〈もの〉の同定を台無しにするためなのである。
さて、問題は、私たちが本冊子のなかでおそらくはしばしばこのpatheticな語りを避けえなかったことである。だが、他方で私たちはジジェク自身が究極のところpatheticな語りを避けられ得ていないことも知っている。多分、これを避け続けることは誰にも出来ないのだろう。
とすれば、結局重要なのは、ジジェクが、少なくとも先に見たジジェク自身の弁によれば、そのジョークや例を用いた独特の語りで試みているように、私たちも私たちなりに、〈もの〉への距離の取り方、その独自の語り口を生み出そうと試みること、結局は失敗するにしても、そうしようと試みることだと言えるだろう。
というのは、ジジェクならそう言うだろうが、この〈もの〉、決して完全には獲得できないが、決して取り除くことも出来ない、この〈もの〉に対する各人なりの対し方、この「現実的なもの」を何らかの仕方で語ろうとする各々の努力のうちにこそ、人間的な生の複数性、その各々の固有性が存しているからである。こう言うことで私たちは本冊子の最初に掲げた文章の主題に帰って来ている。
さて、このように初めの場所に帰ってくることによって、この徹底的に不十分な冊子を終わりにしたい。その「不十分さ」は、一方では私の力不足によるものだが、他方では事柄そのものに由来するものにもなっていることを期待したい。
もう一度ハイデガー的に、そしてpatheticに述べるなら、「存在」は、あるいは「現実的なもの」は、究極的には退き去りの運動性そのものなのであり、したがってそれを問う哲学とは、最終審級においては、語るべきこと、最終的な答えを獲得しえなかったという挫折の経験であって、そうであることにおいて、問うことの終わりなさの経験、その切迫の経験、あるいはまた別様に言えば、手の届かないもの、「不可能なもの」への追慕の、追憶の経験なのである。
かく述べることで、おそらく、ハイデガーがリルケの詩を解釈しつつ、「苦痛と愛と死が共属している本質領域が退去している」「それらの共属の領域は存在の深淵である」(GA5, 275)と述べていることに私たちなりの解釈を与える準備が、最後の最後にようやく整ったと言えるだろう。
存在の深淵、Seynは去りの動性として、底の無い深みそのものである。それは決して「奥深い存在」と言われるべきではない。というのも、それでは奥深さとは別に、その奥に何か「存在」と呼ばれるべきものがあることになり、そこが「底」になって、存在の「底無し」性が消去されてしまうからである。「存在」は「退去する」のではなくて「退去の動性そのもの」、「奥深い何か」なのではなく「奥深さそのもの」だと言われるべきなのである。
さて、この「存在の深淵」にいかにして「苦痛と愛と死」が共属しているのか。
「存在の深淵」の経験は、退き去りの動性のもっともラディカルな経験であり、「無」の経験、存在者との「差異における」存在の経験、差異としての差異の経験として、存在者からの極限の切断の経験である。この存在者からの離れ去りに「死」の契機がある(Zollikoner Seminare S.230、邦訳251-252ページ)。
人間が「死」を単なる知識としてではなく、その切なる差し迫りにおいて、つまりそれを絶対的な無化の恐怖として経験することにおいてこそ、人間は自らが生きていること、「存在」していることを体得するのであって、自分が、そして世界が「存在する」という知は、この死の経験と不可分なのである。
だが、これは単に存在者から切断されてしまうだけの経験ではない。存在があくまで存在者の存在であり、人間が現存在として存在者を存在の内に根拠づけるべきであるかぎりで、人間は、この絶対の分裂においてバラバラに引き裂かれてしまうのではなく、その両者をあらんかぎりの力でつなぎ止めなければならない。ここにおける人間はいわば極限にまで引き延ばされたゴム、その絶対的緊張状態である。
そしてこの引き裂きとつなぎ止めの二重性にハイデガーは「苦痛」の本質を見出す(GA12, 24)。このことのゆえにDaseinたる人間の本質には「苦痛」が属しているのであって、人間がこの苦を苦しみ、この痛みを痛むがゆえに、世界が「存在」するのである。この分裂とつなぎ止めの二重の動勢を「最後まで-担い抜く」ことが、もちろん、ハイデガーのいうAus-tragである。
そして、おそらくこう言うことにおいて私たちは極めてジジェク的なのだが、ここからこそ、ハイデガーがそのヘーゲル読解の一つの試みにおいて「超越論的苦痛」の概念を中心的なものとして構想したことの意味を読み取らなくてはならない(GA68後半)。
そして最後に「愛」はといえば、それはおそらく、先に見た「不可能なもの」への追憶という契機に関係している。「存在」は決して捕まえることができない。そして、何か「不可能なもの」のためにすべてを捨てるとき、人間はまったく何の見返りも求めずにすべてを投げ打っているのであり、まさしくすべてを「無」と交換しているのである。
しかし、本稿で何度も述べて来たように、こうして「無」のうちに立つことは、「存在の真理」の経験、「ある!」ということの純粋な衝撃の経験、純粋な意味そのものの絶対的産出作用の経験、意味そのものの根源的湧出の経験、一言で言えば、絶対的肯定性の経験に転化する。
言い換えれば、すべてを「無」と交換するとき、そこに「存在」が現れる。そして私たちとしてはこう言いたいのだが、この「不可能なもの」への追慕、それのためにすべてを投げ出すこと、そしてそこに生じる「無」、つまり絶対的な「空虚」と、そのうちに流れ込む純粋な「存在そのもの」の「贈与」、すなわち―こう言っていいと思うのだが―「恩寵」、この連関のうちに「愛」の本質が存しているのではないだろうか。これが「空虚」と「恩寵」の連関についての私たちの解釈である。
かくして、私たちが思うには、「形而上学」から「存在の思惟」への移行において、「哲学」に対して、その原初的な本質に、つまり、それが、この「哲学」という翻訳語が示唆するのと異なって、いかなる「学」であるより以前に、まずもってphilia、すなわち「愛」であるということに、十全な意味が与え返されるのである。
つまり、諸対象領域のカテゴリカルな構造に関わる「Seiendheit」を取り扱う「形而上学」が哲学の学的側面であるのに対し、そういった存在了解一切の根源にある「Seyn」を取り扱う「存在の思惟」は哲学の愛という側面に対応するのである。
だが、このような自分自身のpatheticな言明は、やはり私たちには嘘くさく見える。私たち自身が、まだこれを正しく、まったく純粋に述べられるほどには十分に事柄を経験しておらず、その不在にさまざまな不純物が紛れ込んでいるのである。