ハイデガー『技術への問い』を巡って

 先日、本屋に赴くとハイデガーの『技術への問い』が平凡社ライブラリーで改めて刊行されていた。福島の原発事故と結びつけようとする解説が付されている。未曾有の原発事故の経験から生じた技術の問題性への関心に答えることを企図した出版なのだろう。

 だが、私はこのようなことには懐疑的である。というのも、これが本稿の主張だが、私には、ハイデガーの技術論は、彼の先行する思惟を単に技術という主題に対して外的に適用したものに他ならず 、したがって、一方で技術論は彼の哲学には何も付け加えていないし、他方でその技術論では技術のことが本当に考えられているのではない以上、技術について私たちが何かを考える上でも、そこからはたいした示唆は得られないだろうからである。つまり、そこでの哲学と技術との関係は、どちらにとっても得のない関係なのである。

 私たちはこのことを根拠づけようと試みる。それはハイデガーの技術論を彼の「存在」をめぐる思惟のなかに位置づけることによって果たされる。彼の技術論と哲学との関係が理解されないかぎりは、あるいはもっと言うと彼の哲学そのものの基本構成が把握されないかぎりは、彼の技術論を適切に了解することは出来ないし、それを評価することも出来ない。そして、私が主張するところ、この適切な了解の条件が満たされた時には、私たちは彼の技術論の否定的な評価へと導かれる公算が高いのである。

 さて、ハイデガーの技術論の決定的なテーゼは「技術の本質は技術的なものではない」というものである。このことでハイデガーが言いたいのは、結局最終的に問題なのは「存在」であり、技術の本質とは、ある特定の存在了解、すなわち、存在者を「科学的-技術的な計算可能性と利用可能性」の観点からのみ見て、そのように計算可能で利用可能なもののみが「存在する」とみなすような存在了解なのだ、ということである。

 ハイデガーの考えるところ、現代の私たちは「存在する」ということを「技術的-科学的な計算可能性と利用可能性」という意味で理解しており、したがって存在者はすべてその計算可能性と利用可能性に向けて理解される、あるいはむしろ、存在者は、そのほうへ向けて理解されることよって初めて、ハイデガー的に言えば、そこへと向けて企投されることによって初めて、存在者として見えてくるのである。というのも、「存在する」とは、計算可能で利用可能であることなのだから。

 さて、このように問題を存在了解の次元へと移動させることで、ハイデガーは彼の存在を巡る思惟の成果一切を技術論の文脈で利用出来るようになる。つまり、存在者と存在との関係についての彼の構想を利用出来るようになるのである。では、彼はこれをどのように構想していたのか?

 議論を思い切り単純化しよう。私たちが生きているということにおいて、私たちは存在者と関わっている。私の目の前には例えば本があり、その本に触発されて、私はその本の色や形や重さを感じる。だが、ハイデガーによれば、そのような本が「存在する」ということは、私たちが単に本に触発されて感じることなのではない。

 一方で、確かに存在は存在者の存在でしかなく、存在者を必ず必要としているのだが、他方で彼が決して譲らなかったと思われるのは、存在は私たちと存在者との関わりに還元されてはならず、私たちと存在者に対して第三項として考えられなければならないのであって、しかも私たちの存在者との関わりに対する先行性と一定の独立性とを持っているということである。

 ハイデガーの思惟における前期と後期という通例となっている区分に即して更に言えば、前期のハイデガーは私たちが存在者との関わり以前にアプリオリな仕方で形成する存在了解という仕方で「存在」を考えたが、後期ではさらに「存在」を私たちの力能からも独立させる方向で考えを進めたのである。

 「存在」は確かにそれを了解する私たち無しにはないのだが、しかし、存在了解を私たちが作り出したというわけではないというのである。つまり、前期にあって「存在」は「存在者」に対し一定の独立性を持ったものと考えられ、さらに後期では「私たち」からも一定の独立性を持ったものとして構想されるのである。

 だが、なぜ「存在」が独立的な第三項として構想されなければならず、私たちと存在者だけでは不十分なのだろうか。なぜ私たちは存在者から触発されて、そこに存在を感じ取ると言うだけではいけないのか。少なくとも私たちはこのことに対する論拠として、「存在」と「無」についてのハイデガーの思惟にしか、今のところ支えを見つけることが出来ない。

 ハイデガーに言わせると、「存在」は「無」との関わりにおいてのみ了解可能になる。私たちは「無」との反対関係において初めて、存在者が「存在する」ことを経験出来るのであって、「存在」とは「存在者」と「無」との間である。確かにここには先に私たちが求めた論拠がある。

 というのは、「無」が「存在者」ではないことは明らかであり、したがって「無」によって可能になる「存在」も「存在者」から独立性を持つということになるからである。そして『形而上学とは何か』が述べるところによると、「無」は私たちの随意によるものではないが故に、「存在」は私たちからも独立性を持つのだということにもなる。

 こうして「存在」の「私たち」および「存在者」に対する独立性が確保されることによって、「存在の歴史」の教説が可能になる。すなわち、「存在」の一種の自律的な運動によって、その時代時代の「存在了解」のあり方が先行的に規定されるのであり、それに基づいて初めて私たちと存在者との一切の関わりが時代時代によって異なる仕方で可能になるのである。

 さて、こうしてハイデガーの技術論の構成も明らかに出来る。ハイデガーは技術の問題を単に存在者レベルの問題と見ること、例えば技術によって生み出される環境汚染だとか技術の軍事利用だとかといった問題としてのみ見ることを拒絶し、その前提となる「存在了解」の次元に「技術の本質」を位置づける。

 「存在」が存在者との関わりを先行的に規定し可能とする以上、存在者のレベルで技術が引き起こす問題よりも、「技術の本質」、すなわち、計算可能性や利用可能性に向けられた「存在了解」、彼の言うところのGestellの方が、ハイデガーにとっては無限に本質的だというわけである。

 さて、ではこのように技術の問題を「技術の本質」へ、ある「存在了解」へと移し替えることでどんな展望が開けるのだろうか。この問いはハイデガーが存在の次元を「存在の歴史」という仕方で構想していることによって、あまり肯定的な仕方で答えることは出来ない。

 というのも、「存在の歴史」という発想は、先にも部分的に確認したように、存在の自律的運動による「存在了解」の先行的規定という考えを強力に含意しており、「存在」との関係における人間のイニシアティブは極限まで低く見積もられざるを得ないからである。

 というのも、そのように人間の主導性を極端に低く考えなければ、ある時代はすべからく特定の存在了解が支配しているといったことは言いえないはずだからである。とはいえ、そこには全く何の展望もないというわけではない。ハイデガーは二つの展望を指示している。この二つは別々のことではないのだが、それぞれ見ていくこととしよう。

 さて第一は、ハイデガーの「存在の歴史」には、存在の退去の極限化によって、存在の真理への転化、それにしたがって別の存在了解のあり方への転化が生じるという発想が埋め込まれていることである 。これが、ハイデガーが現代のGestellの体制を「存在者」ばかりが前面に出て来て「存在」の次元が全く忘却されるような「危機」―ハイデガーにとって「危機」はこれ以外のことを意味しえない―の時代として特徴付けようとする理由であり、また「危機」のうちに「救うもの」を見出しうるとする理由なのである。

 ハイデガーに言わせれば西洋の偉大な形而上学は「存在者」に対する「存在」を常に取り扱って来たのだが、彼は、その西洋の形而上学の展開の帰結としてGestellを描き出し、そこで「存在」の次元が全く見られていなくなっていることを示すことによって、形而上学が己の諸可能性を使い果たしたこと、そして「存在」が形而上学の歴史のうちで退去しつづけ、今や極限まで退去していること、すなわち「危機」の切迫を証示したいと考えているのである。このことが証示できるならば、ハイデガーはそこで先の転化の論理を用いて、「救うもの」の存在を指し示すことが出来るからである。

 続いて第二は、第一が存在の退去の極限化と関わっていたのと同様、存在の「退去」の次元に関わるという点で第一のものと全く別のものというわけではないのだが、この「退去」の次元に思いをいたすことによる「技術との自由な関係」という論点である。

 ハイデガーはこの「自由な関係」を可能にするものを存在の「秘密」と名指している。存在の「秘密」とは、存在が退去するものとして感じ取られることで、存在がまだ私たちの知り尽くしていない「秘密」として感受されることを意味する。この「秘密 = 退去」の次元に思いを馳せることで、私たちは「技術に対する自由な関係」を手に入れることが出来る。

 これはどういうことだろうか。それはハイデガーの存在の運動構造についての把握から了解できると思われる。詳細は②の注8で述べたことを参照願いたいが、簡単に言えば、形而上学的な現前性としての「存在(Sein/Seiendheit)」の一様態が、Gestellとして存在者との技術的関係を可能にし、私たちをそれへと強いているのだが、他方で現前性としての存在よりももっと「根本的な存在(Seyn)」の次元は「退去」としてあるのであって、そのいわば非現前的なるものへと関係付けられることによって、私たちは、現前性から、現前しつつあるものとしての存在者から、したがって技術から距離を取れるということだろうと考えることが出来よう。

 さて、以上がハイデガーの技術論の梗概として私たちが把握するところのものである。私たちはそれを彼の「存在」をめぐる思惟の文脈に位置づけることで解明した。このことを通じて、私たちの最初の主張、その技術論が、「存在」をめぐる議論の、かなりの程度「外在的」と言いうるような適用にすぎないとの主張が説得的なものとなったことを期待したい。そこでは「技術」のことが考えられているよりもむしろ、彼の「存在」の思惟の図式の当てはめが議論を主導しているように思われるのである。

 その技術論としての問題性を細かく見ていくと、第一に、私たちが技術の問題として普通考えるところの存在者レベルでの問題をそれがスルーしてしまうところであり、第二に、確かに個々別々の技術の問題性よりも、そこで前提とされている技術的な世界観が問題であるといった考えが当を得ているにしても、それがハイデガー流の「存在者」-「存在」の対と対応させられることで、私たちが普段技術ということで考えているものとほとんど関係のない問題へと連れ去られてしまうことである。

 おそらく、ここで必要とされているのは、個々別々の技術問題と技術的世界観との関係を「存在者」-「存在」という仕方で語ることの妥当性の検討であり、その意義についての検討である。

 そして第三に、それを「存在者」-「存在」の対で語ることがもし妥当であったとしても、その両者の関係のハイデガー的な構想によって、私たちは「存在の歴史」という、一種の出口のなさを帰結するような発想へと誘われてしまうことである。

 ここでは「存在の歴史」という発想そのものの再検討が必須となるだろう 。そこで特に問題なのは、存在了解とその規定の先行性が強調され、存在者レベルの出来事がそこに反照する可能性について考えられていないように見える点である。

 さて、本稿を通じて、私たちはハイデガーの技術論を批判しようと試みたのだが、これは彼の哲学の実践的有用性の一つの可能性を否定するものとして、「哲学」を有意味で役立つものとしようとする人たちにとっては気に入らないことかもしれない。

 だが、私の考えるところ、哲学は「絶対的なもの」であるために他の何かの役に立つことなどそもそも出来ないし、それは他のものが何かに役に立つことによって「相対的」であるのに比するなら、哲学の絶対的な「高さ」を示すものである。

 そして、更にハイデガー的に考えるなら、哲学の使命は、何かの役に立つといった意義付けを徹底的に拒否し、絶対的な支えなさのうちで、極限的な無意味そのものを遂行し、経験し抜き、それに持ち堪えることにこそ、そしてそこにのみ存するのである。

 そうすることを通じてのみ、哲学は、存在がとりわけて自らを語りだす場所になる、つまり、「ある!」というもっとも純粋な意味作用、純然たる意味そのものの産出の場になるという特権を享受しうる。これこそハイデガーが「無」と「存在」との関係の彼なりの構想を通じて言いたかったことであり、といって言い過ぎであれば、少なくともその一つの帰結なのである。

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ジジェクとハイデガ―—「存在論的差異」とその実存的な一帰結

ハイデガーを読む—On Being:はじめに・目次

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