ラクラウの「(左派)ポピュリズム/ポスト・マルクス主義」とその限界

1、ポスト・マルクス主義の限界確定

 「ポスト・マルクス主義」と呼ばれる左派的な政治思潮の代表者の一人として、エルネスト・ラクラウがいます。ラクラウは政治について首尾一貫した理論を構築しており、それを「ポスト・マルクス主義」的な「ポピュリズム」の思考として提示しています。彼に言わせれば、旧来のマルクス主義はある「限界」に突き当たっており、自らの理論はその「限界」にある仕方で応答しようとする試みなのです。

 私はこの機会にラクラウの議論がその「限界」の指摘において妥当なのかどうかを検討したいと思います。また、更にいえば、その「限界」の指摘が一定の妥当性を持つにせよ、私の考えでは、ラクラウ自身の議論、それはやはり一種の政治中心主義であり、現実の一面を的確に捉えてはいるものの、それ自身また「限界」を免れ得ません。

 ラクラウは旧来のマルクス主義の「限界」を指摘して、「ポスト・マルクス主義」、そして「ポピュリズム」の立場を提示しますが、それもまた大きな「限界」を抱えています。今回はこの二つの「限界」、それは結局のところ経済中心主義の限界と政治中心主義の限界と言うことができると思うのですが、その二つの「限界」を考えてみたいと思います。

2、ラクラウのヘゲモニーとポピュリズムの理論―「ポスト・マルクス主義」とは何か

 本節はラクラウの政治理論の概要を提示することを目的とします。議論はかなり抽象的なものとなりますが、ラクラウの理論は「政治」の次元を厳密に考える試み、伝統的な用語で言えば政治的「上部構造」の論理を考える試みとして優れたものだと思われますので、おつきあい願えればと思います。

 以下では、まず、2-1でラクラウの初発の問題意識を確認し、次に2-2では、その問題意識から出発してある解決へと到達するためにラクラウが彫琢した諸概念を整理しつつ、その理論の概要を描き出します。それは「ヘゲモニー」の理論として総括しうるものですが、これはラクラウが近年自らの立場として打ち出している「ポピュリズム」の理解の前提です。この「ヘゲモニー」と「ポピュリズム」が彼の「ポスト・マルクス主義」の中核となる概念なのです。

 2-2は基本的に1985年のムフとの共著Hegemony and Socialist Strategy(HSS)に即する形で議論を進め、この項の終わりでヘゲモニー理論とポピュリズムとの連関を明確にします。この過程で私たちはラクラウの意味での「ポスト・マルクス主義」なるものの輪郭を明らかに出来るでしょう。

2-1、何が問題だったのか?

 ラクラウはHSS第二版序文で彼の目に映る旧来のマルクス主義―本当にラクラウが言うよう通りの仕方でそれが存在したのかどうかについては問いを開いておきますが―から彼のいわゆるポスト・マルクス主義への理論的な移行において、経験的なレベルでの変化こそが理論的なレベルでのパラダイムの変化を必要としたのだと指摘しています(Laclau, Mouffe [2001:x])。

 では失効したとされる理論はいかなるものでしょうか。それは一言でいって「経済決定論/階級還元主義」であり、より一般的にそれらの根になっている方法論上の根本立場のレベルでいえば、ラクラウが初めての著作の序文ですでに―少々大げさな表現で―批判している「諸概念がその論理的性質の単なる展開によって現実を全体として再構築できる」という「錯覚」です(Laclau [1977:9])。

 それは、純化された諸概念の論理的連結によって現実すべてを再構成できるという「錯覚」であり、これをラクラウは「社会は概念的に把握可能な運動法則や諸基礎からなる客観的で一貫性を持った全体として理解できるだろうという想定」(Laclau [1990:180])とも言い換えます。

 この理論的前提の典型的表現が「経済決定論/階級還元論」です。少々戯画的に述べれば、それはまず概念的・理論的なレベルで、資本主義的生産様式の論理を記述し、そのうちの「役割」として「資本家」「労働者」の概念を導出し、さらにはそうした主体が持つ利害と敵対関係をも概念的に導きだします。そのうえで、資本主義的生産様式の運動法則から「労働者」の「増大」と「窮乏化」という「社会学的仮説」を導出します。

 こうなればその「窮乏化」ゆえに労働者階級の利害は資本主義の転覆であり、しかもその「増大」によって彼らが圧倒的多数であるがゆえにその政治プログラムは普遍的であり、革命は必然的かつ正しいということになるわけです。

 そしてこの理論構築によって現実を記述し尽くしたとしてしまうのです。それは概念的に記述可能な構造をそのまま現実そのものの構造と見なしています。ここでは「政治」は、そのように理論的に記述出来る「経済」の単なる反映なのです。

 では、以上の理論を無効化した経験的レベルでの変化は「何」であり、その無効化の理由は「何」でしょうか。前者の「何」の問いへの答えは非常に単純で、それは一言でいえば社会の多元化であり、上記の「社会学的仮説」がさしあたり現実のものにならなかったことです。

 そうである以上、上の理論を死守しても、いまや普遍的階級なのではなく「特殊」な立場にすぎない労働者階級によってはラディカルで普遍的な変革は不可能であるという悲観的な結論か、もし変革が成功してしまった場合には、もはや特殊にすぎない労働者階級、更に悪い場合には「党」の「利害/観点」が普遍的なものとして全社会に強要され、それ以外の多元的な「アイデンティティ/利害/運動」が抑圧される「権威的」支配(Laclau [2007a:26])という帰結に至ります。

 このこと、現在の状況において「ラディカル」で普遍的な変革の不可能性か「多元的」な利害や観点の抑圧という帰結しか導き出しえないこと、これが旧来の理論の無効性の根拠、すなわち、後者の「何」の問いへの答えをなします。

 旧来の理論の「行き詰まり」がこのように思考されているために、HSSにおいてラクラウは自らの立場を「ラディカル」かつ「多元的」な民主主義として提示しているわけです。確かに現代の社会には普遍的階級の候補はさしあたり存在せず、社会は多元化していますが、その中でもラディカルで普遍的な変革を思考したいとラクラウは考えているわけです。さて、いまやこの立場を思考可能にする新しい理論的装置が考案されなければならないでしょう。

2-2、「ヘゲモニー」の理論

 それが「ヘゲモニー」の理論です。この理論の展開を準備するために、まずはラクラウの1977年の最初の著作Politics and Ideology in Marxist Theory(PIM)と第二の著作HSSとの間の理論的差異を簡単に見てみましょう。

 PIMに関しては、そこでも先に見たように概念の論理的展開による現実「全体」の再構成はすでに批判されてはいましたが、他方ラクラウの言うところの旧来のマルクス主義に従う形で、純化された概念の論理的展開による「生産様式」の記述可能性は肯定されており、またそのように記述された生産様式を中心とする下部構造による「最終審級による決定」は維持されていた点が重要です。つまり、純化された概念の使用と、規定的なレベル、下部構造のレベルでの概念の論理的展開による現実の部分的な記述可能性は正当化されていたのです。

 さて、HSSではこれに対して純化された概念による論理的構成を通じた現実記述という方法論全体が、理論的なレベルで設定された「本質」から現実を説明し、「本質」へと現実を還元する「本質主義」として批判されます。たとえ生産様式だけについてであっても概念的構成のみによってその「必然的」「自動的」運動を記述できるなどということはなく、どこにでも「偶然的」「政治的」なレベルが入り込んでいることが強調されます。

 ここにHSSの出発点があるわけですが、以下、その新しい理論の具体的内容をHSSの第三章に基づいて順を追ってみていくことにしましょう。

2-2-1、言説・要素・節合・契機

 本質主義的な概念の論理的展開による現実記述を置き換えるものは「言説(discourse)」です。このことが言おうとするのは、すべての対象は、私たち自身を含めて、言語の網の目に媒介されることによってのみ私たちにとって認識の対象になるということです。

 もちろん、私たちの認識の外に現実は存在しますが、それらが私たちの認識対象になるのは、つまり、意味をもって現れてくるのは、先立つ言語の秩序によってそれらに「意味/役割」、「同一性」、その「何であるか」が割り当てられる限りです。人間的世界は徹頭徹尾言語的だというわけです。

 さて、ラクラウは現実に存在する個人や集団を「要素(element)」と呼び、それが言語の秩序、「言説」の内に包摂され場所を与えられて「意味/同一性」を付与されている限りで「契機(moment)」と呼びます。

 簡単に言えば、「要素」とは生身の人間のことであり、「契機」とは、例えば「労働者」である限りの人間、「資本家」である限りの人間のことです。

 この用語系で考えると、「本質主義」とは、理論的に規定可能な「労働者」という役割や「資本家」という役割、その両者の関係やそこで展開される運動法則を純理論的に把握することで、個々の人間、ひいては現実を捉えきったと考えてしまうことを意味します。それは「要素」たる個々人を特定の「契機」に還元しています。

2-2-2、「社会は存在しない」―(1)多義性と(2)敵対性

 さて、社会とは「要素」たる個々人に役割を振り分け「契機」とするものですから、それは「言説」として存在し、現実的諸「要素」はそのうちで「位置/意味」を与えられて「契機」となります。

 「要素」は「契機」として初めてその「意味/同一性」を受け取り、私たちにとって認識可能なもの、対象、「対象的/客観的(objective)なもの」になりますが、ラクラウの概念化するところ、「言説」は―以前は日本でもよく聞いた言葉ですが―「差異の体系」なので、それぞれの「契機」の同一性、その「何であるか」は他の「契機」との差異によってのみ規定されます。

 社会とは、この諸「契機」の総体であり、その体系だと言えるでしょう。簡単に言えば、「社会」は諸々の役割の集積、それらから成立する体系であり、「要素」たる個々人は何からの役割を引き受けることで「社会」に参与し、その中の「契機」となります。

 しかるに、ラクラウは「社会は存在しない」と言います。このあからさまに大げさな言明は、社会が閉じられ完結した全体としては存在しないこと、つまり諸契機の差異の体系としての「言説」が完結したものではないことを意味しています。

 では、どのようにして「社会は存在しない」のでしょうか。二つの仕方においてですが、それが(1)多義性と(2)敵対性(antagonism)です。

 (1)の多義性は「要素」の「契機」への還元不可能性を指し示します。要素の「意味/同一性」を単一の言説のうちで他の諸要素との差異を通じて確定しようとしても、要素の受け取りうる「意味/同一性」は「過剰」であるために、常にその意味は多義的であり得、ある特定の言説のうちに「要素」を「契機」として固定することはできません。要素の意味、その「何であるか」は、特定の言説において付与されるよりも潜在的には常に多いのです。

 具体的にいえば、ある人が現実社会のうちである特定の位置を占めているからといって、ある「自己理解/同一性」が必然的に生じてくるわけではないということです。現に労働者である人が理論的に導出されるような労働者らしい利益関心を持つとは限らないというわけです。

 それは他でもありえます、なぜかといえば特定の規定は人間の持っている多面性をくみ尽くしていないからです―もちろん、何でもありうるということではないですが。ある人が現に労働者であるとしても、彼が労働者として自己理解し、労働者らしく振る舞うとは限らないし、またそうしたとしても、それが彼の全てではないのです。

 さて、ここで「節合(articulation)」の概念を導入することが出来ます。「節合」とは要素間の関係を打ち立てる実践、その中で要素の受け取る契機としての「意味/同一性」が変化を被るような関係構築の実践として正確に定義されるからです。要素が契機として、その意味内容において「本質主義的」に固定されておらず、他でもありうるからこそ、そこにおいて意味内容が変更されるような関係構築の実践、組み合わせの実践、「節合」が可能になります。

 その最も簡単な例は、グラムシ的な有機的知識人が登場して、ある新興集団、例えば何らかの階級の自己意識として機能し、その結果としてその集団に属する人々が初めて自らをその集団に属するものとして意識し、そうすることで集団意識が生成して、初めてその集団が集団として成立するといった事態です。このような過程を経て「要素」である個々人の自己理解が変容し、新たな意味、例えば利益関心などを受け取って、「要素」は特定の「契機」として成立します。これが「節合」です。

 この「節合」が固有の意味での「政治的」次元を構成します。もし今言われている意味で「社会」が存在し、要素の意味が、つまり、個人や集団の同一性が、従ってその利益関心や要求が本質主義的に固定されているなら、政治は既に社会と経済のレベルで完全に構成されている諸利害を表象するだけにすぎないでしょうし、従って政治は「透明な存在」になり本質的には存在しないことになるでしょう。

 「社会は存在する」という立場に他ならない「経済決定論」には政治が存在しません。

 しかし、実際には上述の意味で社会が存在せず、要素の意味に不確定性が存在するがゆえにこそ、つまり諸主体の同一性が必然的なものではないからこそ、「政治的/節合的」実践によって要素の意味、主体の利害、現実そのものが初めて作り出されるという側面が存在するのであって、社会そのもの、現実の構成そのものに「政治的」な次元が浸透しているといえるのです。

 これは決定的に重要なことですが、HSS第二版序文で言われているように、「言説」として社会を見るという立場は「政治的節合の契機を特権化する」(Laclau, Mouffe [2001:x])立場なのです。簡潔に標語風に言えば、社会が存在すれば政治は存在しないのであり、社会が存在しないから政治が存在するのです。

 次に「社会が存在しない」ことの第二の意味、(2)の敵対性に進んでいきましょう。まずは抽象的で分かりにくい規定から話を始めさせてください。この段階では理解できなくても問題ありません。徐々に議論を具体的にしていきます。

 さて、敵対性も先の多義性と同様に、要素の単一の「~である」への還元を不可能に、それゆえ「言説=社会」の完結を不可能にするものとして導入されました。ですが「敵対性」は先の多義性のような特定の言説内部で与えられる「~である」にたいする可能的な他の「~である」の過剰、肯定性の過剰としてではなく、一切の「~である」から要素を切り離す「~でない」として、つまり否定性として、しかも、ある「敵」の現前として定義されています。

 「敵対性の場合には」「「他者」の現前が私が完全に私であることを妨げるのである」(Laclau, Mouffe [2001:125])。そういうものとして敵対性は肯定的な「~である」として記述しうる諸差異の体系としての「言説」とその中の「要素」が、記述不能な外部性、「~でない」という否定性に遭遇する地点であって、「すべての安定した差異の究極的な不可能性、それゆえに、すべての「対象性 = 客観性」の究極の不可能性であるような、「経験」」として「閉域化の不可能性(つまり、「社会」の不可能性)」(Laclau, Mouffe [2001:125])が明らかになる地点であるとされます。

 「多義性」概念の基本的発想は、現実は言語が表現しうるよりも豊かな内容を保持している、ある対象に付与されうる肯定的規定は特定の言説のうちで表立っているものよりも多いというものであり、従ってそれは「である」の過剰、「肯定性」の過剰に注目するものですが、「敵対性」のほうは、言説が言説として裂け目を持っており、それに応じて要素とその一切の肯定的規定の間に「それらではない」という否定的距離が出現しうると見ます。私たち自身とその言説的規定は決して一致することがないのです。その意味でそれは「否定性」の契機です。

2-2-3、敵対性・等価性・ヘゲモニー

 さて、「敵対性」の概念の意義を明らかにしていきましょう。「多義性」の想定によって「節合」と「政治」一般がそもそも可能になったように、「敵対性」は特別な形の「節合」、つまり、そこで要素の同一性が変化するような関係構築の実践の特別な形、それゆえ特別な形の「政治」を可能にします。それは「等価性の論理(logic of equivalence)」「等価性連鎖(equivalential chain)」を可能にするのです。

 ラクラウにおいて「等価性の論理」とは「差異の論理(logic of difference)」と対になった概念です。後者は「言説」が差異の体系、お互いに異なるものたちのなす体系、「差異的(differential)」な諸「契機」とされていたことに対応するもので、社会内のもろもろの個人や集団を互いに異なるものとして処遇し、「差異の体系」としての「言説 = 社会」に、その一契機として包摂します。だから最初期のPIMで「差異の論理」が導入された際には、それは端的に支配階級の節合論理とされていました。

 対する「等価性の論理」はPIMで被支配階級、体制に挑戦する対抗的階級の節合論理として導入されています。それは諸々の「要求/要素」を「差異的なもの = 互いに異なるもの」にとどめ体制内化してしまうのではなく「等価なもの = 同じもの」として連結し「等価性連鎖」を形成することで体制そのものに挑戦するラディカルな変革を可能にするとされます。それは権力に対抗する「人民(people)」として様々な人々を糾合し動員しようとするのです。ここにラクラウ的な意味でのポピュリズムがあるのですが、この点の詳細は後に譲りましょう。

 さて、HSSに戻れば、そこにおける本質的な理論的展開は「敵」の存在、「敵対性」が「等価性の論理」の可能性の条件として明確に導入されたことです。互いに異なる、差異的な「要素/項(term)」、簡単に言えば異なる利害を持った諸政治主体が等価なものとして連結されることはいかにして可能なのでしょうか。ラクラウは言います。「問題は等価性内部の様々な項のなかに存在している「同一的な何ものか」の内容を規定することである」。これに答える部分を少し長く引用しましょう。

もし等価性連鎖を通じて諸項の全ての差異的で客観的な規定が失われているとしたら、[等価性連鎖の諸項に通底する]同一性は(1)それら諸項全てに通底する肯定的な規定によって与えられるか、(2)何か外的なものに対する諸項共通の参照によって与えられるかである。これらの可能性のうち最初のものは除外される。共通の肯定的な規定は直接的に、等価性の関係なしに表現されるからである。しかるに、[第二の可能性を選んだとしても]共通の外的な参照は何か肯定的なものに対するものではあり得ない。というのも、その場合には二つの極の関係は直接的で肯定的な仕方でも表現されうるであろうし、それゆえ、完全な等価性の関係が必要とする諸差異の完全な取り消しは不可能になるだろうからである。(Laclau, Mouffe [2001:127]) [注:(1)(2)は便利のため、引用者が付しました。また[]内は引用者が補ったものです。]

 さて、相互に異なる差異的な「要素/項」が、等価となるのはいかにしてでしょうか。(1)それは肯定的な規定、つまり等価性のうちのそれぞれの項が共通して持つ肯定的に規定しうる(「~である」と言える)内容にはよりません。それではもともと諸項の間に差異がなかったのであって、差異的な項が「同じもの」として連結される等価性関係として特別に取り扱うに価しないものだからです。

 具体的にいえば、ここでは現代社会の多元化という状況診断に対応して、互いに異なるものが連接するという事態が関心の対象になっており、例えば資本主義下における二極分化により皆が労働者階級になり同様の境遇にあるといった、もともと皆同じだという状況は関心の対象になっていないのです。

 さて、そうであるとすれば、(2)等価性関係は「外的なもの = 等価でないもの」、その等価性連鎖の「外部」に対する諸項共通の指示に依ることになるわけですが、その「等価でないもの」、反対の極は肯定的な内容を持ったものとして考えられてはなりません。反対極が肯定的な内容を持つものとして見なされていたら、等価性関係内部の諸項の間の「差異の完全な取り消し」が不可能になってしまうからです。

 なぜかといえば、反対極に肯定的な内容があるとすれば、等価性の諸項の間でも各々の内容によって反対極に対する立場が分かれてしまい、諸項が「同じもの = 等価なもの」にならない、つまり、等価性関係が不可能になってしまうからです。

 それゆえ「反対極 = 敵」の存在、「敵対性」が等価性連鎖の可能性の条件であり、しかも、そうであるためには、その「敵」は、「肯定的」内容をもつものであってはならず、内容を奪われつつ、「言説/社会」の外部そのものの具現、純粋な悪そのものの具現へと変化していくのでなければならないのです。

 そのような「敵対性」関係において、個別の要素は「互いに異なる/差異的」な意味を持つと同時に、「敵」に対するものとして互いに等価なものとして連接されうるわけです。個別要素が差異と等価のそれぞれの関係に従って二重の意味を獲得するという事態も「言説」としての社会という立場が思考可能にしたものであり、ここに多元的なものから共通のもの、つまり普遍的なものを立ち上げる可能性が存するわけです。

 さて前項での「言説」や「節合」、本項での「敵対性」と「等価性の論理」を経て、ようやく「ヘゲモニー」の概念にたどり着きます。というのも、「ヘゲモニー」は「節合」の特殊形態、「等価性の論理」に基づく「節合」として正確に定義されているからです。

 ラクラウにあってヘゲモニーは単に何か漠然としたイデオロギー的優位のようなものを意味しているのではありません。それは「等価性連鎖」によって特殊的で多元的なものの間に現れる「皆に共通のもの」という次元、その意味で「普遍性」の次元を占拠することによる優位なのです。

2-2-4、「ラディカル」で「多元的(plural)」な「民主主義」、そして「ポピュリズム」

 さて、HSSが第四章で明確に宣言する立場は「ラディカル」で「多元的」な「民主主義」です。2-1項で確認したようにこの二つの形容は旧来の理論の「行き詰まり」とされるものを逆転させたものです。

 ラクラウ曰く、旧来の理論を採用すると、現代において労働者階級が普遍的階級になる状況が成立していない以上、「ラディカル」で普遍的な変革は不可能であるか、もし万が一それが成功した場合には「多元性」が抑圧されてしまうのです。さて、この「行き詰まり」を抜けるためにラクラウは前項でみた理論を練り上げたのでした。

 それゆえ今やこの理論的立場がいかにして「ラディカル」で「多元的」な「民主主義」を思考可能にするかを考えましょう。

 HSSは、「民主主義」を一切の不平等と支配を批判する平等主義の原理と解しており、民主主義革命とはこの平等主義の原理としての民主主義が政治の基本的な参照先となった時点を意味するとされます。

 民主主義革命以前の旧体制は「差異の論理」によって諸主体を互いに異なるものとして支配と不平等を伴う位階的秩序へと体制内化していました。かく支配されている諸主体が支配者に対して反抗しうるのは民主主義の平等原理を参照し支配者を「敵」として構築し、敵対性を出現させることによってです。

 さて、こうして民主主義原理は社会の様々な場所で不平等を告発する敵対関係、闘争を生み出します。民主主義ははじめ政治的平等の言説でしたが、それが性関係に転用されれば男女間の平等の言説になりますし(フェミニズム)、あるいはまた別の場所では経済的平等の言説にもなる(マルクス主義?)といった具合です。

 こうして民主主義は様々な場所に転用されて「多元的」で自律的な平等を求める闘争を可能にします。女性たちの政治運動、労働者たちの政治運動、黒人たちの政治運動…といったわけです。このあたりは1970年代のいわゆる「新しい社会運動」に対応する議論です。

 では「ラディカル」の方はどうでしょうか。ラクラウが目指していたのは1970年代における「新しい社会運動」からラディカルな変革の可能性を引き出すことだったのでしょう。それを可能にするのが「等価性の論理」であり、民主主義的諸闘争が織りなす等価性連鎖です。

 単に「多元的」な闘争があるだけでは「特殊」な諸闘争があるだけですが、様々な不平等を一つの「敵」として構築し、それとの関係で諸民主主義闘争を「同じもの = 等価なもの」として連接することで「権力vs人民全体」というような、多くの特殊的立場を自らの下に包摂するという意味で「普遍性」を帯びたラディカルな闘争が可能になるというわけです。

 そしてそのような等価性連鎖の構築によって「多元的」な諸闘争自体も支えられ強化されます。「ヘゲモニー/等価性」と「自律性/多元性」は必ずしも矛盾しないのです。こうして旧理論の「行き詰まり」を乗り越えるために始まったHSSの理論的歩みは終着します。

 最後にここからポピュリズムへの繋がりをつけておきましょう。ラクラウは社会内部の様々な場所、様々な政治空間(性、人種、労働…)で生じる民主主義的諸闘争が等価的に連接されて社会全体の二つの敵対的陣営への分割へ向かうとき、つまり様々な政治空間が社会全体と一致する単一の政治空間へと統合されていくとき、つまり、様々な闘争が「権力vs人民」という一つの対立へと集結し転化するとき、「人民的(popular)」闘争について語りうると述べています(Laclau, Mouffe [2001:137])。

 この「人民(people)」主体の立ち上げにこそラクラウ的に思考された「ポピュリズム(populism)」があります。それは等価性に基づく節合、つまり、ヘゲモニーの論理に依拠しています。彼の政治的立場をごくごく単純化して言えば、多元的な闘争をかく結びつけて「人民」を立ち上げ、ラディカルな変革を可能にしようというものです。

3、ラクラウの「ポスト・マルクス主義」「ポピュリズム」とその限界

 さて、いままでの議論はあまりに難解で抽象的なものになってしまっているのではないかと恐れます。3-1ではそれを簡単に振り返り、3-2でその立場の限界を見極めるよう試みることにしましょう。

3-1、総括―ラクラウの「ポスト・マルクス主義」とは何か

 ラクラウの言う旧来のマルクス主義とはいかなるものなのでしょうか。それは簡単に経済決定論であり階級中心主義と言うことが出来ますが、その理論的中核をラクラウは本質主義に見出します。私たちは「労働者」や「資本家」の「本質」、それらが「何であるか」、そしてそれらがどのような利益関心を持ちどのように行為するのかを理論的に規定出来ます。そして両者の関係やその展開を経済的法則として記述することもできるでしょう。

 こう考えるなら理論的レベルで私たちは経済の構造とそこで生み出される諸主体の利益関心を把握出来ますし、政治はその利益関心の単なる反映となるでしょう。しかし、それが現実の全てではありません。というのも、理論から見ると「労働者」であるとされる人々が現実に「労働者」として自らを理解し、それに従って行動するかは不透明だからです。「要素」は一つの「契機」に還元することが出来ません。

 これは常に妥当する事実ですが、この次元に思いを致さなければならない必然性は先に労働者の窮乏化と増大という仕方で提示された「社会学的仮説」の不成立によって与えられます。これさえ成立していれば、この次元に思いを致す必要は大きくなかったのですが、この不成立によって理論の見直しが重要なものとなるのです。

 経済の次元で政治に登場する主体とその利益関心が完全に構成され、政治はそれを反映するだけであるとすると、いまや労働者階級が普遍的階級となることがさしあたり見込めない中で、ラディカルで普遍的な変革は不可能であるか、あるいは成功すると権威的支配となるという行き詰まり的な帰結が生じるのです。

 だから、政治をすでに構成された立場の単なる反映に止めるのではなく、政治的な媒介に自律性を認めなければなりません。ここにラクラウの意味での「ポスト・マルクス主義」への移行があるわけです。

 その政治的媒介の自律性を示すのが「節合」ですが、それは「要素」が「契機」化されるその仕方を変更するというところに本質があります。だから、「要素」を「契機」から切り離す理論的想定、つまり個々人を役割的諸規定(労働者、女性、黒人…)から独立したものとして想定することが必要なのです。

 かくして、諸契機ないし諸役割の総体として考えられる「社会は(完結したものとしては)存在しない」ということになります。個々人はある特定の自己理解の仕方から常にはみ出しているわけです。だからこそ「節合」が可能であり、必要になります。

 「節合」の最も単純な例は、何がしかの言説活動によって特定の階級に階級意識を目覚めさせるといったことです。この種の上部構造の自律性であれば、ある意味でいわゆる西欧マルクス主義はその発端から考え続けてきたと言えるかもしれません。

 ラクラウの独創的なところは、この自律性に明確な理論的基礎付けを与えたことを別にすれば、主にはこの先にあります。彼はこの「節合」の特殊な形として「等価性の論理」を見出すわけです。それはさしあたり多元的で相互に異なる諸立場を「同じもの」として連接する論理であり、社会的経済的な次元においてではなく政治的媒介によって普遍的な変革主体を立ち上げる論理です。

 それをラクラウは「人民」とよび、したがって自らの立場をポピュリズムというわけですが、そのような「等価性連鎖」はある種の「敵」、一切の社会的な悪の原因、そうであることで純粋な悪と見なされる「敵」の構築によって可能になります。その具体的な政治過程の構想を近著のOn Populist Reason(OPR)に依拠して簡単に明らかにしておきましょう (Laclau [2007b:Ch4])。

 ラクラウは分析の最小単位を「要素」ではなく「要求(demand)」へと変化させ、分析をより直接に政治過程に近づけています。さて、要求は体制に向けて発せられます。安定した体制においては問題なく要求は聞き届けられ、それぞれの要求は互いに異なるものとして差異的な社会秩序に包摂されるでしょう。

 しかし、体制が要求を満たせないような場合が存在します。満たされなかった要求は欠如として、「不完全な存在(deficient being)」として自らを感受します。つまり、差異的秩序への包摂されなさである「欠如」が生じるわけです。そして、その「想像的反転」として「共同体の十全性(fullness of community)」が、つまり「普遍」的理想の次元が感得されることになります。現にある不満の反対物として理想状態が主体によって想像されるのです。

 しかし、単にひとつ、またはいくつかの要求が満たされないだけでは、つまり孤立した欲求不満だけでは何も事態は変化しないでしょう。この孤立したままの要求をラクラウは「民主主義的(democratic)」要求と呼びます。

 しかるに、体制の統治能力が低下し、不満足な要求が増え続ける状況では、不満足な要求が相互に「同じもの = 等価なもの」として連結され、「人民的(popular)」要求へと変化する可能性が生じます。根本的な変革を可能にする主体としての「人民(people)」が立ち現れる可能性が生じるのです。

 さて、ここで思い出しておかなければならないのは「等価性連鎖」の可能性の条件は「敵対性」であり、等価的な連結は純粋な「否定性」の具現へと傾向的に構築されていく「敵」との関係においてのみ可能であるということです。だから「あらゆる潜在的な普遍化効果は抑圧的なセクターの敵対的排除に依存している」(Žižek, Butler, Laclau [2000:46])。

 普遍的な「理想」は欠如によって、まずもって不在なものとして感得されますが、それを現実化するためには「等価性連鎖/人民的要求」の立ち上げが必要であって、それは「敵」「権力」との敵対関係を必要条件とするわけです。

 敵が無内容な端的な悪へと向けて構築されるほど、等価性連鎖は拡大する可能性を得、「純粋な悪」の反対物として純粋な肯定性、つまり、「十全性(fullness)」の次元、そして等価なもの全てが参与しうるという意味での普遍性の次元を体現しうるようになります。

 さて、これは「等価性の論理」に基づく「節合」としての「ヘゲモニー」のうちで現れた普遍性ですから「ヘゲモニーの普遍性」です。

 それはさしあたり現状への不満と敵との反対関係にのみ依拠し、それ自身の内容を持たない「空虚」な普遍性です。しかし、現にヘゲモニーの、「権力 = 敵」に対立する等価性連鎖、つまりラクラウのいう「人民」の普遍性が立ち上がっている以上、どこかからその内容が与えられなければなりません。

 それは等価性連鎖を織りなす「特殊/個別的」内容ないし要求からやってくるしかないでしょう。そのうちのどれかが自らの特殊的内容を徐々に失いつつ、他の諸要求も書き込まれうるような、そして等価性連鎖全体、「人民」がそこで表象されうるような、純粋な肯定性と普遍性を体現しうるような「空虚なシニフィアン」―「連帯」、Change、構造改革など―へ向けて、「向けて」というのは完全に空虚になることは出来ないからですが、変化しなければならないわけです。

 この「空虚なシニフィアン」の地位、普遍性を体現する特殊内容の地位を誰が体現するかという闘争が優れた意味でヘゲモニー闘争の領野を形成します。

 OPRは以上のように「形式的」に、つまり特定の政治的内容から独立に思考された「人民」主体の立ち上げ、つまり「ポピュリズム」は、「ポピュリズム」という言葉が通常もつ否定的なニュアンスが示唆するところとは異なって、多元化した現在の政治状況にあっては、あらゆるラディカルで普遍的な政治の、その名に値するあらゆる政治の可能性の条件であるとして擁護するものです。

 それはHSSの立場を受け継ぎつつ、よりはっきりと「人民」を立ち上げるという政治プロジェクトを唱導するものと見ることが出来るわけです。ラクラウの「ポスト・マルクス主義」とは、ある種の理論的「本質主義」から「言説」へと基本的な方法論を変更するところから始まり、政治的次元の自律性を評価しつつ、この種の特殊な政治的節合論理の評価に至るまでの一連の過程の総体を指すと言うことができるでしょう。

3-2、「ポスト・マルクス主義」の限界を確定する試み

 さて、このラクラウの立場の限界について考えてみましょう。はじめに、この点に関してラクラウと論争関係に入ったジジェクの批判を見ておくことが有用です。

 ラクラウのポピュリズムは私たちが即座に思い浮かべるこの語の悪いイメージが喚起するものとは異なり、形式化され洗練されたものですが、他方でこれがその悪いイメージが喚起するものと繋がっていることも否定出来ないでしょう。

 「人民」と「敵」としての「権力」という場合なら確かにそれほど悪くはないでしょうが、これに「国民」やら「民族」と「敵」としての「外国人」、例えばナチスドイツの「ユダヤ人」や最近の日本における「韓国人」などを当てはめてみるとどうでしょうか。

 そこでも「敵」が構築されることで、本来異なっている様々な立場が「同じもの」として連接され、何がしか排他的で権威的な政治的立場が、つまり語の悪い意味におけるポピュリズム的な政治が立ち上がっているのではないでしょうか。

 ジジェクのイデオロギーの理論を極端に単純化すれば、それはこの側面に注目するものです。その論理自身はラクラウのポピュリズムの理論と全く同様です。社会には様々な不満がありますが、それらを連接する方法が一つあります。

 何がしか陰謀論的に全ての不満の原因とされる純然たる悪として「敵」を構築することです。すると、この「敵」を排除すれば不満が取り除かれ「十全性」が到来するだろうと考えられるわけで、この点において様々な不満がすべて「同じもの」として相互につながれるわけです。

 ジジェクの考えるところ、この操作がイデオロギーの根本的で基本的な働きとなっているわけです。ただ、ジジェクの場合、これは悪い意味でのイデオロギー的操作であり、かくして処方箋はラクラウとはいわば反対のものとなります。

 政治的統合自身がこの種の「敵」の排除に依拠しているのであれば、この「敵」の場所とはそこから何らかの介入を行うことで政治的統合そのものを根本的に揺るがすことができる場所なのではないかというわけです。

 さて、しかし、今回はジジェク自身の立場の詳細な検討は差し控え、ラクラウに戻りましょう。

 以上の批判から見えてくるのは、ポピュリズムの悪しき形態と許容出来る形態との差異をいかに考えるべきかという問題です。具体的にいえば、このように権力を獲得するとされる「人民」が悪しき意味でのポピュリズムに陥らない条件への問いです。

 私の考えでは、これに対する一つの答えは、あまりに当たり前の話で恐縮ですが、もともとあった具体的な諸要求が現実的にどれほど満たされるのかが重要であるというものです。

 様々に異なる要求が「敵」の構築によって作動する「等価性の論理」を用いた政治的媒介によって一つに統合され、その結果として何かしらの政策を実行するほどの政治的勢力を結成することが出来たとして、そのはじめの熱狂が過ぎ去った後では、もともとあった具体的な要求が満たされ不満が解消されるかどうかが決定的になってきます。

 それが出来ない場合には政権への支持は下落してくるでしょうし、支持を確保しつづけ政権を維持するためには「敵」の構築への依拠を強めなければならないでしょう。現実的な改革は進まず、それがイデオロギー的な政治的操作を加速させるという悪しきプロセスが作動するわけです。

 このように考えることは意想外に根深い問題を提起します。ラクラウが自らの「ポスト・マルクス主義」の中核として提示した政治的媒介の契機の特権化の「限界」です。

 確かに労働者階級の窮乏化と増大によって普遍的階級としてのプロレタリアートが経済的次元でいわば自動的必然的に生成していくという社会学的仮説が解体した後では、何がしかラディカルで普遍的な改革が可能であるとすれば、そこでは政治的次元の自律性を考慮にいれ、ある種の政治戦略によって多元的な政治的利害から統一的な政治的主体を立ち上げなければならないでしょう。

 ラクラウは確かに政治的次元の自律性を考慮に入れるための理論的諸基礎と、この種の変革を可能にする政治戦略を明確化したと言えると思います。

 しかるに、私たちがここで直面したのは、この種の政治的節合の限界点、それを無制限に濫用することの弊害です。

 ポピュリスト的な政治的節合は確かにそれなくしては不可能な政治的改革を可能にすることもあるでしょう。その意味で政治的節合は改革の前提となります。

 しかし、先ほど明らかにしたのは政治的節合が、改革の失敗の帰結でもありうるという事態です。ポピュリスト的政権は自らを成立せしめた諸要求を現実的に満たすことが出来ない場合に、自らを存続させるためにスケーブゴート的に「敵」を産出していくわけです。

 このような事態の現出を防ぐためには、政治的節合によって構成されるのではない、それ以前に社会経済的な次元で構成された諸要求は何であり、それをいかに満たすことが出来るのか、これらについての具体的な分析と処方箋が必要になるでしょう。ラクラウは政治を経済と社会から離陸させましたが、やはり前者は後者に確固たる立脚点を持たなければならないわけです。

 こうして議論は常識的な次元に回帰してきたようです。さしあたりの結論を述べるとすると、おそらくここに「ポスト・マルクス主義」とラクラウの言うところの旧来のマルクス主義的な思考との総合ないし妥結の地点を見出せるように思います。

 確かに経済と社会の構造の理論的把握によって政治的主体の構成そのものが解明されたと見なし、政治的次元の自律性、つまり上部構造の自律性を評価しないのは問題的であり、その意味では「ポスト・マルクス主義」への移行は正しいし、その理論的基礎は評価されるべきでしょう。

 しかし、政治的媒介は万能で何でもありだということは決してなく、それによって「同じもの」として連接されるものたちの要求を現実的に満たすためには、それらの要求がそこから生まれてきている下部構造的な社会的経済的体制についての洞察と、そこから導きだされる処方箋についての具体的な分析が必要だというわけです。

 こういうことだけから何か具体的な指針が出てくるわけではありませんが、これから政治を考えるにあたって少なくとも以上のことが前提とされるべきであるように私には思われます。

関連記事:ジジェクの政治理論

 上で少しだけ触れたジジェクの政治理論については、以下の論考の序論第4章および第2部で論じました。

スラヴォイ・ジジェク研究—「否定的なもの・否定性」について

文献リスト(二重括弧内の年数は初出年)

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デリダ・クリッチリー(他) (2002) 『脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義』法政大
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