目次
1、はじめに―この文章を書くに至った経緯
本稿ははじめ「フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」中の一節として書かれた。その意味で、本稿はその内容を前提としているところがある。
それはそれとして、私はアニメが好きでよく見ているが、今回論じる『俺の幼馴染と彼女が修羅場すぎる』は2013年の1月から3月にかけて放映されたものである。
当時、視聴していて何がしか感心したのだが、自分の感心の意味はよく分かっていなかった。そんな本作が件の文章(=「フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」)の執筆を計画中にふと思い出されたのである。
もちろん、精神分析の立場からすれば、この種の想起には意味があるのではないかと疑うべきだ。果たして、少々考えてみるとその第3話はフロイト的異性愛の生成場面を描き出しており、「古典的異性愛」の「神話」のような意義を有していることが見えてきた。そのように読まれるために想起されたのだろう。
私たちの分析は第3話後半の回想シーンに局限される。だが、その前に本作の一般的な紹介を行っておいた方がよいだろう。
2、ライトノベルとアニメ―「俺修羅」の位置
本作は近年よく見られるライトノベル原作のアニメ化である。ライトノベルとはいわゆるアニメ的な表紙と挿絵をもつ、中高生やいわゆるオタクが好んで読む「軽い」小説であり、客層も制作側もアニメと密接な関わりを持っているためアニメ化と非常に相性が良い。
ライトノベルは20世紀末から2000年代前半にかけて、オタク界隈で隆盛を誇ったいわゆる美少女ゲームの影響を受けた作品が多いため、いきおい男性主人公一人に多くの女性キャラクターという「ハーレムもの」という構図となる作品が多い。
ゲームではシステム的に物語の分岐が可能であり、女性キャラクターが多くとも個別ルートでは主人公と女性キャラクター一人との一対一の関係を描くことが出来たのだが、基本的には一直線的に進むしかない小説ではそのようなことは不可能であり、主人公が同時に多くの女性―多くの女性キャラクターを登場させることはキャラクターの人気が作品の人気を左右する以上は不可避である―から好意を寄せられるという「ハーレム」的な状況が現出することが多い。
そのような場合には物語を完結させずに存続させるために、例えば主人公に超人的な鈍感さが要求されることが多く、その不自然さは鼻につく。
思うに近年に目立つ傾向は、この「ハーレムもの」から距離をとろうとする傾向、少なくともそれをベタ・無自覚に反復するのではなく、それ自体を何らかの程度で自覚し対象化しよう、つまり、その構図そのものを物語の主題的な対象にしようとする傾向である。
少しでもライトノベルを読む人であれば、関係性が深まり既存の関係が壊れるのを恐れるが故に、ヒロインたちの好意の表明を「聞こえないふり」でスルーすることで、いわば鈍感を装っていた「友達が少ない」主人公や、ライトノベル主人公の一般的な「鈍感さ」に対して自らの「敏感さ」を対置しつつ、他者の好意に対するあまりの敏感な読解ゆえに常に早とちりな勘違い(「あの子は自分に気があるのではないか?」)をし、結果として痛い目を見てきたがために、好意を持たれているなどと勘違いしないようにいつも自らに戒めている主人公、その意味で彼にとっていつも「青春ラブコメは間違っている」主人公を知っているだろう1)このような「自戒」を基本的な構成原理とする物語世界は、一種、非常に「禁欲的」なものである。このような禁欲空間を前提とすることで、「女性的な見た目だが、実は男である」キャラクターがある特異な存在意義、極めて正確な一機能を持つようになる。すなわち、「だが、男だ」というストッパーがあることで、禁欲的な主人公にとって、そういったキャラクターのみが恋愛的な空想の対象となりうるのである。この種のキャラクターの代表が、戸塚彩加と漆原るかである。。
本作もその傾向に位置づけられうる作品の一つであり、『俺の幼馴染と彼女が修羅場すぎる』というタイトルに示されているように、主人公に思いを寄せる幼なじみ、彼女、許嫁などが登場するという荒唐無稽で「ハーレム」的な展開を主軸としつつも、その「ハーレム」がはらまざるを得ない問題が「修羅場」という仕方で対象化されており、少なくとも単にベタなハーレムものではないように見える。
余談となるが言い添えておけば、美少女ゲーム的な分岐があるはずの物語を、一直線的な小説やアニメに移し替えれば当然「修羅場」が現出するということを可視化したものが、いわゆる「ヤンデレ」である。かの属性が美少女ゲームのアニメ化という文脈で生まれたことを忘れてはならないし、その限りでその属性には何がしかの必然性があったのだ。「ヤンデレ」たちが病むのは、彼女たちが二つのメディアの差異の間で引き裂かれるからなのである(詳しくは「ヤンデレの起源―彼女たちはなぜ「病む」のか?」を参照のこと)。
さて、本題に戻って分析の対象となる第3話の後半のシーンを、物語の主軸の中に位置づけておこう。高校生の主人公鋭太に、同級生の幼なじみである千和が思いを寄せている(第3話のタイトルは「幼なじみの涙で修羅場」である)。しかるに鋭太は後に述べる事情により恋愛に対して敵対的であり、そもそもあまりに鈍感であって千和の好意に気付くことはない。
そんな折り、これまた恋愛なるものに敵対的な転校生、真涼が登場し、恋愛関係の喧噪に巻き込まれないようにと主人公との間に偽装カップル関係を結ぶ。千和は嫉妬に発して他の男にアプローチをかけるのだが、どういうわけかそれが成功してしまう。
千和としては主人公に嫉妬してもらいたいところ、主人公は鈍感さゆえにベタに祝福してしまう。そのお祝いの食卓で千和はそのことに怒り部屋を飛び出す。主人公は相変わらずその意味を理解しないが、そこで数年前に同じ部屋で交わされた二人の会話が思い出されてくる。それは千和が主人公に本格的に思いを寄せるきっかけとなった出来事であった…。
そのシーンが説得的であればあるほど、タイトルが示すような「修羅場」性が切迫したものになる、件のシーンはそのようなシーンなのだろう。以下、具体的に読解していくが、まだ見ておられない方はまず見ていただいたほうがよいだろう。実際、文字による解説によってはシーンをあまりに貧弱にしか再現出来ないのだから。
3、フロイト的「異性愛」の生成場面―回想シーンの分析
さて、回想シーンは主人公が一人家にたたずんでいるところに、松葉杖の千和が訪れるところから始まる。千和は交通事故で骨折して入院していたのであり、ようやく歩けるようになったので「リハビリ」として主人公宅までやってきたのである。
それにしても、主人公はなぜ夕方の家に一人なのだろうか。実は主人公の両親はどちらも外に愛人を作って子どもを放って家を出てしまったのである―ここに主人公の恋愛嫌いが淵源している。
このことを主人公が千和に改めて説明すると、千和は「どこかに行ったりしないよね」と尋ねる。千和の関心はもともと、今回の出来事をきっかけに主人公が親戚に引き取られるなどしてどこかに行ってしまうのではないかという心配にあったのだ。
この問いに主人公は千和を安心させようと、いささか演劇的に大げさに、しかし、やはり置き去りにされてしまったものとして自嘲的に―声優の腕の見せ所である―「ここ以外に自分の家はない」と宣言する。主人公は一人で生きていくことを突然に強いられてしまっているわけだ。
主人公はそうであるとして、千和の状況はどうか。千和はもともと剣道に打ち込んでおり、全国大会レベルの実力のために剣豪チワワなどと呼ばれていた。だからリハビリする千和に対する主人公の最初の反応は、「高校では剣豪チワワも復活か」といったものである。
しかるに、千和が語るところ、医者は「激しい運動はもう無理だから、剣道は諦めるように」と千和に告げていた。主人公はそんなのはヤブ医者だと食い下がるも、千和によると、その医者は町一番の名医であるという…。
二人の夕食の場面、主人公が一人になって初めて作る食事のため、その内容は悲惨である。千和の好物であるハンバーグはグリンピースを入れたため緑色になっており、そのうえ焦げて散々だ。千和は文句を言うが、主人公は俺が本気を出せば料理なんて余裕だとうそぶく。そうしてなんだかんだで二人の楽しい食事が始まる。
ここで千和は前向きに―しかし、やはり一部は強がりで―高校に入ったら剣道よりももっともっと打ち込める楽しいことを見つけるんだと言う。そして主人公に問う。鋭くんはどうするの、と。
主人公は後ろ向きに答える。俺はいいんだ、運動も勉強もダメだし、夢とか目標とか面倒だし…。そして主人公の内面のモノローグ。自分が夢中になれるものといえば、マンガやアニメを見て空想や妄想をノートに綴ることぐらいだ…。
そして主人公は無意識に声に出してつぶやく。空想や妄想って現実の前には全く無力だな…。唐突な発言に千和は「えっ」と反応する。主人公の視線はその声に惹き寄せられて千和へ向く。だが、その視線はすぐに千和の右後ろのドアに立てかけられた松葉杖に流れる。
そして主人公はぽつりとつぶやく。俺がもう少し勉強が出来たら医者になるんだけどなぁ。千和は主人公の突然の発言に意表をつかれて問いを返す。お医者さん?主人公は何の気なしに答える。そうしたらお前の体を治してやれるかもしれないだろ。
主人公はおそらく思いつきで何気なくいったのだが、千和はやはりこれまで強がっていたこともあるのだろう、この言葉に涙を流してしまう。その反応は主人公の思いつきを決意に変える。主人公は「よし決めた」と噛み締めるようにつぶやき、医者を目指すことを決断し、ちょっとした演説をぶつ。
今の成績は中の下でも、高校では勉強してトップをとり、医学部を受験する。「学歴と資格さえあれば親なんかいなくても楽勝」なのであり、「医学の進歩はすごい」し、それどころか「俺が進歩させてやる」のであって、「絶対にお前を治してやる」というわけだ。
この回想シーンは、それに答えて千和が、「私、ずっと、ずーっと待ってるからね」と泣き笑いで答えることで閉じられ、場面は現在に戻る。
千和が走り去ったあと、回想シーンと同じ部屋にたたずむ主人公。食卓にはいまやすばらしく上達したハンバーグが虚しく並ぶ。主人公はかつて「医学を進歩させる」などと大言壮語した自分について「とんでもない馬鹿だ」と吐き捨てる。他方の千和も自室で一人、「鋭くんのバカ」とひとりごちる。こうして第3話は終わる。
4、フロイト的、あまりにフロイト的
さて、このシーンが「フロイト的、あまりにフロイト的」であることは、おそらく以上のすべて(=「フロイト性理論の再構成 セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」)を読めば、すでに明白だろう。
一つ一つ見ていこう。まず決定的なのは千和が中学時代には剣豪チワワと言われるほどに剣道が強かったことである。つまり、彼女は自分の「棒」を振り回してぶいぶい言わせていたのだ。それこそフロイトが父との性器的関係が無くなるとすぐに女の子は男の子になってしまうというような仕方で。
しかるに、この棒はポッキリ折れてしまう。それは骨折という意味においてであり、もちろん、もっと本質的には二度と剣道が出来ないという意味においてである。
他方の主人公はどうか。主人公は「妄想や空想」の世界に遊ぶ人であり、要するにこれまで両親の庇護―とその裏面たる支配―のもとで自閉的に生きてきたのである。
そんな状況でいきなり「現実」に晒されたとしてもすぐに何か出来るわけがない。主人公は将来に何の展望もなく右往左往の状態であり、千和に高校のことを問われても、はじめ「運動も勉強もダメだし、夢とか目標とか面倒」といったネガティブな自己評価と無気力な展望を繰り出すことしか出来ない。
だが、そんな主人公もモノローグを通じてこれまでの自閉的な「妄想や空想」が「現実」の前では「無力」であること、その内では生きられないことを自覚する。それまでの生の姿勢は崩れ、主人公はゼロ地点に立つ。
さて、重要なのはそのような地点で主人公が抱く最初の欲望である。それはこの地点に立った直後に視線が流れて松葉杖が目にはいることで生成する。それは千和の体を治してやる、つまり、もう一度剣道をさせてやるということであり、言い換えればもう一度「棒」を持たせてやるということである。
この思いつきはどういうわけか千和に響く。どうしてかと言えば、もっともっと楽しいことを見つけるという強がりにも関わらず、棒の折れた後にはやはり埋められない―狼男の子守り女のナーニャ風に言えば―「傷」が、ある「裂け目」が形成されているからだ。
この響きのために主人公は医者になることを決意する。この演説の内容も注目に値するものだ。今まで両親の庇護と支配の下で自閉的に空想世界を生きていた主人公は「学歴と資格」などといういかにもな社会的な価値、何がしか「父」的なものを引き受けようと決意する。
実際、それは「親なんかいなくても楽勝」という「父」の「置き換え」の意志に貫かれている。こうしていずれ主人公は医者になって父的なるものを十全に引き受け、千和を治す、千和にもう一度棒を持ってくるというわけだ。そして対する千和は主人公が棒を持ってきてくれることを「ずっと待っている」という立場を引き受けるのである。
簡潔にまとめよう。このシーンはまず千和の「去勢」から始まる。それは千和に埋められない「傷」を残す。主人公がゼロ地点でとっさに抱く最初の欲望は千和に再び棒を持ってきてあげることである。
それが千和に響くから主人公はこの欲望を引き受けるのだが、それはこれまでの自閉的な世界を去り、父的なものを引き受け、それを置き換えるという欲望を帰結する。そうすることで千和にまた「棒」を持ってくることが出来るのだ。対する千和はそれを「ずっと待っている」。
以上のすべては「父のファルス」の受け渡しによって規定されるフロイト的異性愛の典型的構造を指し示している。
こうして最終シーンにおける二人の齟齬もはっきりする。主人公は自分が千和を治す能力がないこと、その意味で十分に父的でないことを悩んでいるようだが、千和が欲しいのはもはや剣道の意味の「棒」ではない。主人公の鈍感は「棒」を十分に象徴的に、あるいはフロイト的に解することの無能力に存している。
それは千和にとっては、実際のところ(フロイト的にはこのように言うことが不可避なのだが)「ペニス = 子ども」を意味しているのであり、ある意味で主人公は回想の場面で生じた主体的立場の転換によって、少なくとも千和にとってはもう十分父的であり、父のファルスを持っていたのである。
しかるに、この無理解のゆえに主人公にとっても千和にとってあの場面の「約束」はまだ成就されていないのであり、唯一成就された約束としての料理の上達の強調が、この状況の虚しさを際立たせている。
5、フロイトの「古典的」な異性愛「神話」の行方
フロイトの理論が描き出す異性愛は「古典的」なものであり、それを典型的に描き出す本作品は何がしか「神話的」に見える。それは現実には(もはや)存在しないなにかを映し出しているようだ。この神話は私にはそれなりに美しく見えるのだが、人は神話の中に生きることは出来ない。
しかるに、どんな正確な意味でフロイトの異性愛についての理解は「古典的」であり、もはやある意味では「神話」なのだろうか。
確かに、フロイトはその異性愛の理論を、男女が生物学的性差に反応する蓋然的な仕方、および両親との関係を生き抜く蓋然的な仕方の帰結として、ある普遍性を持つものとして構築している。
しかし、このことはその成立が特定の社会経済的条件に「も」依拠していることを否定するものではない。あまりにありふれた議論だが、例えば、かつての女性は生活の資を稼ぐ手段の剥奪を通じて「養ってもらう」という「受動性」を強いられていたのではないか。逆に男性はその手段を独占することで「能動」的を振る舞うことが出来たのではないか。
そしてこの条件は、女性の社会進出なるものが進むことで崩壊したのではないか。そのことに応じて、この社会経済的条件の上で可能になっていたフロイト的な「異性愛」理解ももはや時代遅れなのではないか。それは「古典的」なものにすぎないのではないか。
おそらく、そうなのだろう。新しい社会経済的条件のもとで新たな関係の形式が見出されたり創出されたりするべきなのだろう。その意味でフロイトの理論は「古典的」であり、もはや半ば「神話」である。
ただ、私たちが見誤ってはならないことは、一つには、確かに社会経済的条件の変容によってフロイト的な理解が時代遅れになったのだとしても、もし私たちがその新たな条件における異性愛の関係の形式を作り出すことが出来ず、それが全般的に不安定化し、その構築や維持が困難なものになっているとするなら、それはフロイトの正しさをある意味では証明することになるということである。
6、フロイト的異性愛神話の裏面―その不可能性
しかも、この正しさは二重の意味を持つ。まず第一に、このことは先に見たような仕方、「父のファルスの授受」という仕方でしか安定した異性愛関係は可能ではないというフロイトの立場が、妥当なものだと示されることになる。
だが、おそらくは第二に、フロイト自身がそもそも異性愛の最終的な不可能性、といって言い過ぎであれば、その不安定性という立場をとっていたということによっても、この事態はフロイトの正しさの証明となる。
ラカンが的確に述べているように、’L’amour, c’est donner ce qu’on n’a pas à quelqu’un qui n’en veut pas.’ すなわち、「愛、それは、自分が持っていないものを、それを欲していない人に与えることである」。
もちろん、この言葉自体がさまざまに解釈可能だが、ここではフロイトのセクシュアリティの理論の構成において、「神経症」、つまり、男性性における「強迫神経症」と女性性における「ヒステリー」の構造の意義を重く見るという方向で読んでみよう。
フロイトの理論構成において、いわば「理想」的な異性愛は、父と十全に同一化し、「父のファルス」を持つ男性と、自らファルスを持つことを諦め、父からファルスを受け取るという立場を十全に引き受けた女性との間に成立する、「父のファルス」の授受として構想される。
だが、フロイトはいわゆる「正常」な男性性・女性性への道にとって、構成的かつ必然的な躓きの石として、あるいは、フロイトの有名な言葉を引用すれば、ある岩盤、まさに「去勢の岩盤」として、「神経症」の構造を把握した。
それに基づけば、男性性の側の神経症たる「強迫神経症」では、父との同一化よりも「父の禁止-去勢不安」が優位であり、結果として強迫神経症者は「父のファルス」を持っていない。
他方の女性性の側の神経症たる「ヒステリー」では、「ペニス羨望」、すなわち、自らファルスを持ち、父と成り代わって母と関わろうとする志向が優位であって、父から「父のファルス」を受け取るなどということはもってのほかである。
こうして、フロイト的には、「愛、それは、自分が持っていないものを、それを欲していない人に与えることである」。
最後に、このことを『俺修羅』第3話に引き戻して考えるなら、主人公の鋭太の「医学を進歩させ、もう一度、剣道ができるようにする」は明らかに不可能な目標としてあり、その意味で彼が十分に「父のファルス」を持つことはありえない。
そして、また千和に関していえば、やはり骨折などせず、剣道を続けて自らの「棒」を振り回していられれば、それが一番良かったのであって、フロイトの理論通り、他者から「棒」を受け取るという女性性は「二次的構築物」にすぎない。
こうして本作はフロイト的な異性愛の最終的不可能性をも印づけているのだが、ラカンにとって、「愛、それは、自分が持っていないものを、それを欲していない人に与えることである」ということ、つまり、愛の不可能性によってこそ、愛のもっとも崇高な本質が可能にされるのだとすれば、結局はここにこそ、この第3話の可能性の源泉を、見るべきなのかもしれない。
関連記事:フロイト性理論の全体を理解するために
本稿が背景にしているフロイトの性理論に関しては以下を参照いただけますと幸いです。
References
1. | ↑ | このような「自戒」を基本的な構成原理とする物語世界は、一種、非常に「禁欲的」なものである。このような禁欲空間を前提とすることで、「女性的な見た目だが、実は男である」キャラクターがある特異な存在意義、極めて正確な一機能を持つようになる。すなわち、「だが、男だ」というストッパーがあることで、禁欲的な主人公にとって、そういったキャラクターのみが恋愛的な空想の対象となりうるのである。この種のキャラクターの代表が、戸塚彩加と漆原るかである。 |